たったひとつのバグ
オマエだけは幸せに……
「九時か……病院まだ開いてるかな?」
歩き出す道はいつもと違う。
「まぁ、開いていなかったら勝手に入るんだけど」
『氷乃宮病院』という大きな看板が見えてくる。ここは花梨の家が建てた大きな総合病院だ。やはり見たところ病院内の明かりは全て消えてしまっている。裏から入ることにしよう。
いつも来たように決まった道を行く。
着いた先は一番奥にある特別第一治療室だ。
『井口 京螺』(いぐち けいら)横に書いている名前はこうだった。それがボクとなんの関係があるのかは入って見てからのお楽しみだ。
「よぉ、元気? 京螺」
ずっと外を眺めていたのかゆっくりと振り向く。
「お兄ちゃん」
ボクに対して呼んできた。その言葉にボクは笑顔で応えた。
「うん。元気そうだね」
だけど京螺は無愛想な表情を見せた。
「何しにきたの?」
「ごめんごめん。すぐ帰るからさ」
両手を合わせ申し訳なさそうに謝る。
歩き出す道はいつもと違う。
「まぁ、開いていなかったら勝手に入るんだけど」
『氷乃宮病院』という大きな看板が見えてくる。ここは花梨の家が建てた大きな総合病院だ。やはり見たところ病院内の明かりは全て消えてしまっている。裏から入ることにしよう。
いつも来たように決まった道を行く。
着いた先は一番奥にある特別第一治療室だ。
『井口 京螺』(いぐち けいら)横に書いている名前はこうだった。それがボクとなんの関係があるのかは入って見てからのお楽しみだ。
「よぉ、元気? 京螺」
ずっと外を眺めていたのかゆっくりと振り向く。
「お兄ちゃん」
ボクに対して呼んできた。その言葉にボクは笑顔で応えた。
「うん。元気そうだね」
だけど京螺は無愛想な表情を見せた。
「何しにきたの?」
「ごめんごめん。すぐ帰るからさ」
両手を合わせ申し訳なさそうに謝る。
なぜ、この少女は何の迷いもなくボクをお兄ちゃんと言ってくれたのか、まずはそれを説明しよう。
初めて会ったのは夏休みに入る前、氷乃宮と食事を食べるようになったボクが高校一年生で京螺は中学一年生の時だ。彼女はその時に始めて会ったと思ったのだろうがボクは違う。
彼女の生まれた時からボクと京螺は会っていた。
兄妹だ。まぁ、父と母が別れてからは音信不通だった。京螺は母方に、ボクは父方に引き取られた。ボクの方は冗談なしで酷かったのを覚えている。高校の時に父は膨大な借金を作っていた。それも億単位で。最近になってようやく本当の父親らしくなってきたような気もする。
「おるんだろが! 金返せや!」
借金取りが今日も来た。それをボクが対応に追われる。金を借りた当の本人は布団に隠れ、『今日もいないって言ってこい』と小さく話すだけだった。なんとも頼りない存在だろう。
「今日もいません」
そんなことで簡単に帰ってくれるほどヤツラはバカじゃない。数発ボクを殴ってから帰っていく。だからいつもボクの腹や腕は赤く腫れていた。
ボクは切に願った。京螺はどうしているんだろう? とーちゃんみたいな道を選ぶほど母さんはバカじゃないからとりあえずは安心していいだろうか。そんな安心も長く続かなかった。
ある日、電話など借金取りと関わるようなものは一切消していたアパートに一通の手紙が届いた。伯母(おば)からの手紙だ。ボクは驚いた。そこに書いてあったのは母さんが亡くなったことが綴られていた。
「嘘……だ」
力なく言う言葉にはなんの意味もない。
だが、この手紙をとーちゃんに見せるわけにはいかない。見せたら何の考えもなしに京螺を引き取ろうとするに決まっている。可哀想だがこっちに来た方がもっと可哀想だ。
葬式の住所が書いてあったのでボク一人だけでも行こう。
なんで丁度よく雨が降っているんだろう。悲しくなるじゃないか。
傘を持って隣町まで電車で行く。未だに母が死んだことに納得できずにいる自分がいる。実は生きていてボクを驚かす準備をしているのかもしれないと絶対にないことなのにそんな無意味なことを考える。別れてから誕生日なんて祝ってくれたことなんてなかったのに。
そういえば母さんが死んだ日ってボクの誕生日だったよね。なんて皮肉なんだろうか、あえて選んだのか?
黒い服で死んだように俯いているので他人の目なんか気にしなかったが声が聞こえるのがやかましいと思った。なんでこんな時だけこそこそと話すのが聞こえるのか、こんな時だけ可哀想ね、と同情する声が聞こえるのか、それがやかましい。
地獄のような電車を切り抜け母の実家へと足を運ぶ。
聞こえてきたのはお坊さんのお経の声。
やっぱり本当だった。
ボクは香典だけ入れてすぐ帰るつもりだった。
初めて会ったのは夏休みに入る前、氷乃宮と食事を食べるようになったボクが高校一年生で京螺は中学一年生の時だ。彼女はその時に始めて会ったと思ったのだろうがボクは違う。
彼女の生まれた時からボクと京螺は会っていた。
兄妹だ。まぁ、父と母が別れてからは音信不通だった。京螺は母方に、ボクは父方に引き取られた。ボクの方は冗談なしで酷かったのを覚えている。高校の時に父は膨大な借金を作っていた。それも億単位で。最近になってようやく本当の父親らしくなってきたような気もする。
「おるんだろが! 金返せや!」
借金取りが今日も来た。それをボクが対応に追われる。金を借りた当の本人は布団に隠れ、『今日もいないって言ってこい』と小さく話すだけだった。なんとも頼りない存在だろう。
「今日もいません」
そんなことで簡単に帰ってくれるほどヤツラはバカじゃない。数発ボクを殴ってから帰っていく。だからいつもボクの腹や腕は赤く腫れていた。
ボクは切に願った。京螺はどうしているんだろう? とーちゃんみたいな道を選ぶほど母さんはバカじゃないからとりあえずは安心していいだろうか。そんな安心も長く続かなかった。
ある日、電話など借金取りと関わるようなものは一切消していたアパートに一通の手紙が届いた。伯母(おば)からの手紙だ。ボクは驚いた。そこに書いてあったのは母さんが亡くなったことが綴られていた。
「嘘……だ」
力なく言う言葉にはなんの意味もない。
だが、この手紙をとーちゃんに見せるわけにはいかない。見せたら何の考えもなしに京螺を引き取ろうとするに決まっている。可哀想だがこっちに来た方がもっと可哀想だ。
葬式の住所が書いてあったのでボク一人だけでも行こう。
なんで丁度よく雨が降っているんだろう。悲しくなるじゃないか。
傘を持って隣町まで電車で行く。未だに母が死んだことに納得できずにいる自分がいる。実は生きていてボクを驚かす準備をしているのかもしれないと絶対にないことなのにそんな無意味なことを考える。別れてから誕生日なんて祝ってくれたことなんてなかったのに。
そういえば母さんが死んだ日ってボクの誕生日だったよね。なんて皮肉なんだろうか、あえて選んだのか?
黒い服で死んだように俯いているので他人の目なんか気にしなかったが声が聞こえるのがやかましいと思った。なんでこんな時だけこそこそと話すのが聞こえるのか、こんな時だけ可哀想ね、と同情する声が聞こえるのか、それがやかましい。
地獄のような電車を切り抜け母の実家へと足を運ぶ。
聞こえてきたのはお坊さんのお経の声。
やっぱり本当だった。
ボクは香典だけ入れてすぐ帰るつもりだった。
「お兄ちゃん?」
ふと振り返った。そこにはまだよちよち歩きしかできなかった頃の京螺ではなくちゃんとまっすぐ立っている京螺がいた。
「京螺……なのか?」
声を振り絞り聞いてみる。
「やっぱりお兄ちゃんなんだ!」
有無を言わせず懐に飛び込んでくる。
「会いたかった! 会いたかったよぅ!」
母を失ったこともあるのだろう身内が来てくれた事に泣いて喜んでくれた。
「ねえ、ここに来たっていうことは父さんも来ているの?」
涙ぐんだ顔をしながらもにこやかに笑っている。
その顔にボクは応えられず、
「今日は……来れなかったから一人できたんだ」
「そっか……父さん会社忙しいもんね」
まだリストラされたこと知らないんだっけ。
「ねえ、母さんの顔見に行かないの?」
「……いい。香典……出しに来ただけだから」
それはあまりにも酷だと言われ仕方なく棺を見に行く。
「あら、燕尾くん。来たの?」
迎えてくれたのは伯母さんだった。
「ども。久しぶりです、伯母さん」
棺に入っている母の顔を伺う。
色が白い。目を瞑りまるで寝顔だった。
ボクが『朝だよ』って言えば簡単に置きそうなくらい素の顔だった。
顔を見るまでは泣かない自信があった。だが、亡くなっていてもう二度と会えないと思うと口が震える。
がちがちがち。
もう母の顔は見れない。霞がかり涙が頬を伝う。
「か、あ……さん。か、さん」
口が震え、まったく言葉にならない。
「うぅ、あぁ、ああ、うう。うああああああ! か……ぁ……さ、ん!」
みっともなく皆がいる前でおお泣きしてしまう。だが、気に止める人は一人もいない。それが当たり前だからだ。
「いいから……もう、いいから」
そっと、京螺はボクを包むように抱きしめてくれる。その温かい温もりは久しぶりに似た感覚だった。この温もりは……母さんの温もり、母さんの香りだ。ボクは抱きしめてくれる京螺の背中に手を回し痛いくらいに抱きしめた。いままで母さんに甘えてこれなかった分を取り戻すくらいに。
「ありがとう。結構楽になったよ」
数時間経ったくらいに伯母さんたちがいない隣の縁側に二人っきりで星を見る。都会なのでそんなに星はない。
「それでさ……こんなときに聞くのもなんだけど……私は…………引き取ってくれるの?」
脚をブラブラさせて聞いてくる。こんなとき、ボクはどういえばいいのだろうか?
なにも思い浮かばない。
「ごめん……それは……できないんだ……」
彼女の顔は見れない。
「どう……して? ねぇ! ねぇ!」
何度も何度も肩を持たれ揺さぶられる。
「今は、今だけは伯母さんのところに行ってくれないか?」
「要らないの? 私のこと?」
「そんなのじゃない。だけど……」
だけど、今は来ては京螺が怯え、毎日泣く日々になるんだ。それだけはわかってくれ。ボクがどんなに腕や脚に青いアザができようとキミが笑ってくれればボクも笑っていられるから。
「もういい。聞きたくない! お兄ちゃんなんか! お兄ちゃんなんかだいっきらい!」
「あ、おい! 京螺!」
手を伸ばしたが届かず部屋にこもってしまった。
「どんな重いパンチよりも効いたな……」
月を見上げる。きれいだなと思う。
「そういうわけですから京螺を……お願いします……」
伯母に深々と頭を下げる。
「京螺ちゃんには、本当のこといわなくて大丈夫なの?」
「はい。今のままが一番いい状態だと思います。京螺だったら『借金があってもいい! 私は父さんのところで暮らしたい』っていうに決まっていますから」
では、と伯母の家から自宅に向かう。
外はもう雨が上がって丁度いい気温になっていた。
ボクにとってじめじめしておらず、かといって乾燥もしていない。
「いい天気、だったんだな」
長い間ずっと伯母の家にこもっていたので雨で潤った空気を吸い込んだ。
「母さん、死んだんだな」
確かめるように口に出す。
また、帰れば……地獄の始まりだな。でも、いいんだ。彼女、京螺がボクの分も幸せになれば。
こうしてまた、ボクは闇の中へ消え行く。
ふと振り返った。そこにはまだよちよち歩きしかできなかった頃の京螺ではなくちゃんとまっすぐ立っている京螺がいた。
「京螺……なのか?」
声を振り絞り聞いてみる。
「やっぱりお兄ちゃんなんだ!」
有無を言わせず懐に飛び込んでくる。
「会いたかった! 会いたかったよぅ!」
母を失ったこともあるのだろう身内が来てくれた事に泣いて喜んでくれた。
「ねえ、ここに来たっていうことは父さんも来ているの?」
涙ぐんだ顔をしながらもにこやかに笑っている。
その顔にボクは応えられず、
「今日は……来れなかったから一人できたんだ」
「そっか……父さん会社忙しいもんね」
まだリストラされたこと知らないんだっけ。
「ねえ、母さんの顔見に行かないの?」
「……いい。香典……出しに来ただけだから」
それはあまりにも酷だと言われ仕方なく棺を見に行く。
「あら、燕尾くん。来たの?」
迎えてくれたのは伯母さんだった。
「ども。久しぶりです、伯母さん」
棺に入っている母の顔を伺う。
色が白い。目を瞑りまるで寝顔だった。
ボクが『朝だよ』って言えば簡単に置きそうなくらい素の顔だった。
顔を見るまでは泣かない自信があった。だが、亡くなっていてもう二度と会えないと思うと口が震える。
がちがちがち。
もう母の顔は見れない。霞がかり涙が頬を伝う。
「か、あ……さん。か、さん」
口が震え、まったく言葉にならない。
「うぅ、あぁ、ああ、うう。うああああああ! か……ぁ……さ、ん!」
みっともなく皆がいる前でおお泣きしてしまう。だが、気に止める人は一人もいない。それが当たり前だからだ。
「いいから……もう、いいから」
そっと、京螺はボクを包むように抱きしめてくれる。その温かい温もりは久しぶりに似た感覚だった。この温もりは……母さんの温もり、母さんの香りだ。ボクは抱きしめてくれる京螺の背中に手を回し痛いくらいに抱きしめた。いままで母さんに甘えてこれなかった分を取り戻すくらいに。
「ありがとう。結構楽になったよ」
数時間経ったくらいに伯母さんたちがいない隣の縁側に二人っきりで星を見る。都会なのでそんなに星はない。
「それでさ……こんなときに聞くのもなんだけど……私は…………引き取ってくれるの?」
脚をブラブラさせて聞いてくる。こんなとき、ボクはどういえばいいのだろうか?
なにも思い浮かばない。
「ごめん……それは……できないんだ……」
彼女の顔は見れない。
「どう……して? ねぇ! ねぇ!」
何度も何度も肩を持たれ揺さぶられる。
「今は、今だけは伯母さんのところに行ってくれないか?」
「要らないの? 私のこと?」
「そんなのじゃない。だけど……」
だけど、今は来ては京螺が怯え、毎日泣く日々になるんだ。それだけはわかってくれ。ボクがどんなに腕や脚に青いアザができようとキミが笑ってくれればボクも笑っていられるから。
「もういい。聞きたくない! お兄ちゃんなんか! お兄ちゃんなんかだいっきらい!」
「あ、おい! 京螺!」
手を伸ばしたが届かず部屋にこもってしまった。
「どんな重いパンチよりも効いたな……」
月を見上げる。きれいだなと思う。
「そういうわけですから京螺を……お願いします……」
伯母に深々と頭を下げる。
「京螺ちゃんには、本当のこといわなくて大丈夫なの?」
「はい。今のままが一番いい状態だと思います。京螺だったら『借金があってもいい! 私は父さんのところで暮らしたい』っていうに決まっていますから」
では、と伯母の家から自宅に向かう。
外はもう雨が上がって丁度いい気温になっていた。
ボクにとってじめじめしておらず、かといって乾燥もしていない。
「いい天気、だったんだな」
長い間ずっと伯母の家にこもっていたので雨で潤った空気を吸い込んだ。
「母さん、死んだんだな」
確かめるように口に出す。
また、帰れば……地獄の始まりだな。でも、いいんだ。彼女、京螺がボクの分も幸せになれば。
こうしてまた、ボクは闇の中へ消え行く。