NOT シー LOVE!
十眼 「犯罪小説のおススメはなんですか?」後編
私が通う大学は最近構内を全面改装したらしく建物の入り口はたいてい自動ドアになっている。視覚障害者にとってはありがたい配慮の一つだと思う。
でも、サークル棟に入ろうとした途端、私は勢い良く顔面を何かにぶつけた。
「おい……大丈夫か? このサークル棟の入り口はただの引き戸だから」
そういう事は早く言ってよ! もう!
どうやら私は引き戸にぶつかってしまったらしい。私はずれたメガネを直しつつ、左? いや右に引き戸をスライドさせて用心深く棟内に入る。
うわ! なんだ、この臭い? 煙草? それに、カビ?
一歩そのサークル棟に足を踏み入れると、私が初めにサークル棟に対して抱いた陰気なイメージをそのまま表しているような不潔な空間が出迎えてくれた。服にこの臭いが染み付いてしまわないか、そんな心配をしてしまった。
「小泉、あたしをなんて所に連れてくるのよ」
「おいおい、そんな事言うなよな。星さんに会いたいんだろう?」
確かに、それはそうなんだけど……
すると、今度は私の右手からなにやらジャラジャラと石ころがぶつかり合う? 音が聞こえてきた。私は思わず立ち止まって、普段聞く事がないその奇妙な物音の方を見つめた。
「あぁ、麻雀やってるんだろ? 気にするなよ。よくある事だ」
まーじゃん? それっておっさんがやるものじゃないの? 昼間からそんな遊びに興じるって、どんだけ根暗な人が集まってるの? なんだか、不気味だ。外はお日様が照っていて気持ちがいいのに、わざわざこんな空気が悪い場所に引きこもっているなんて。これも、ある種の青春の一つなんだろうか。
小泉の話によるとこのサークル棟は、一室一室、しっかりとした個室が用意されているのではなく長屋のように一枚一枚の壁でブース形式に区画されて、しかも隣の部屋を仕切る壁は天井付近まで達しておらず数十センチ程の隙間があるという何とも簡素な造りの4畳半の部屋になっているそうだ。だから、臭いはするし、物音も漏れる。ということらしい。
常日頃、星さんはこんな場所で昼休みを過ごしているの? とてもじゃないけど、信じられない。私にそう思わせるほどこのサークル棟内は私が抱く星さんの紳士的で優雅なイメージを崩壊させるような陰湿な様相を呈していた。
そして不信感を抱きつつも私はしっかりと小泉の手を握り締めて、また一歩一歩確かめるようにして小泉について行った。おどろおどろしくて白杖を振る気にもなれなかった。
「ちわーす!」
私の手を引く小泉は立ち止まるとハリの良い声を出しながら私の右手にあるのだろうドアをガチャリと開けた。
ついに、愛しの王子様との久しぶりの対面だ。それを考えると、いつの間にか私の胸の鼓動が徐々に高鳴っていくのがわかった。ここまできて、まさかの緊張だ。小泉は部屋に入ろうとしているけど、私は緊張からその場を一歩も動けずにいた。
そういえば、星さんに会ったとしてそれから何をどうすればいいか全く考えていなかった。その事に気がついて私はさらに硬直してしまった。勢いにまかせてここまで来たのはいいけどその後の事をまったく考えていなかった。
どどどどど……どうしよう。私の頭の中は混乱を極めて今にも沸騰しそうな勢いだ。か、顔がなんか熱い。私は思わず今まで握っていた小泉の手を振り払った。その拍子にドアが閉まってしまった。うわぁ~私、緊張しすぎでしょう。
ととと、とにかく挨拶をね! 挨拶だ挨拶! 挨拶はコミュニケーションの基本! うんそう、そうだ! とりあえず挨拶! よし! よし! ま、まず深呼吸!
私はとりあえず混乱する自分を落ち着かせるために胸に手を当てて大きく深呼吸をした。
胸一杯に棟内の淀んだ空気が入り込んでくるけど贅沢は言ってられない。そして、二回目の深呼吸をしようとした瞬間……ガチャリとまたドアが開いた。
「あんた、なんしよっと?」
ドアが開いた瞬間訝しげな女の人の声がした。どこかの方言?
声をかけられたものの、私はいきなり発せられたその言葉の意味を理解する事が出来なくてなんと返事すればいいか考えあぐねてしまった。それ以上に予想外の展開に頭が回らなかったといった方が正しいかもしれない。
「そんなとこ、つったっとらんで、はよ入らんね」
私は強引に腕を引っ張られて、彼女に部屋に入れられた。
まだ心の準備が出来ていないのになんて無神経な人だ。といっても、私の事情なんて知るわけないか。
「適当なとこ、座ってよかよ」
女の人は私にそれだけ言うと私の右腕を掴んでいた手を離してパイプ椅子に座ったようだ。パイプ椅子の脚の部分が床に擦れる音が聴こえる。
座れと言われても、パイプ椅子がどこにあるのか。そもそも、この部屋の物の位置関係を教えてくれないと私はうかつには身動きが取れないわけで……やれやれだぜ。
私がボケーっと困った表情で立ち尽くしていると、それを察して小泉が部屋の様子を教えてくれた。私はとりあえず真っ直ぐと慎重に部屋の中央に位置する長テーブルに脚がぶつかるまで歩を進め、リュックをテーブルに置いてから左手近くにあったパイプ椅子を探り当てて、何とか着席することができた。思わず安堵の溜め息を漏らした。
とりあえず、先ほどまでの緊張を解すことはできた。でも、緊張がほぐれたのは、落胆したからでもある。私がこの部屋に来てから、言葉を交わしたのは、小泉と女の人の二人だけ。
という事はもしかして……
「悪いなぁ~姉さん……星さん、もういないわ。もう授業行ったらしい」
ほらね。ほらね。もうこれで何度目よ。予想通りの小泉の言葉に私は行儀悪く唸り声をあげながらテーブルに突っ伏した。
この展開にはもう飽き飽きだ。読者の皆さんだってこりごりだ。
なに? 私は何か悪い事をしましたか? ただ会うだけだよ。会いたいだけ。どうして、神様はこんなに意地悪をするの?
私には偶像崇拝の趣味は無いけど、この日ばかりは神様という曖昧模糊な存在を呪った。
私は運命なんて信じない。だって、始めから自分の人生の筋書きが決まっているなんて楽しくないじゃない。
百歩譲ってそれがあったとしても、自分が楽しめない運命なら、私はそれを変えたいし、そのための努力だって惜しまないつもりだ。馬鹿正直にそれを受け入れて、あきらめたり、泣き言を言ったりするのは嫌だ。だからこそ、全盲なのに私は大学にも編入学したし、こうやって自分の恋愛を成就させようとここまで来たんだ。こんなところで負けてたまるかっつーの!私はぶつぶつとそんな独り言をかましていた。
大丈夫か? と小泉が私の左肩に手をやる。励ましてくれる友だちもいる。さぁ、考えろ。私には今何が出来るのか。
私は、笑顔で小泉にお礼を言って、この状況を打開すべく、次に何をすべきかを頭を振りしぼって考え始めた。
頭をフル稼働している間、私はある一つの違和感にぶち当たった。
この女の人の様子だ。おかしい。単刀直入にいうと、この人、さっきから何も喋っていない。この部屋に入ってからの一連の私の挙動を見れば誰だって何かしらの反応は示すはず。 たとえば、全盲の私の移動介助を手伝うとか、まぁ、それは小泉がやってたから仕方がないとして、他にも初対面の相手に対するコミュニケーション(自己紹介など)を図ったりしてもいいはず。
私がこの部屋に入って五分は経ったと思うけど、私がこの人と接したのは部屋に入る時のほんのわずかなやり取りだけ。
「俺、授業だからもう行くよ。姉さんはどうする? 今日はもう退散するか?」
「私は……待ってるよ、ここで。悪いけど後でまた迎えに来てもらっていいかな?」
「別にいいよ。その代り、あとでなんか奢ってくれよ」
私が一人考え事していると小泉がいきなり喋り出したので、はいはいと、あしらうように小泉の声がする方に手を振った。「じゃ、あとで」という小泉の声と共にドアが開閉された。そして、この部屋は私と女の人二人きりになった。私は人見知りをするタイプではないので、知らない人と一緒にいる事は大した苦にはならない。緊張もしない。
でも、相手が何も喋りかけてこないと、こう、何か喉の奥の方がむず痒くなってくる。
さっき、私の頭に浮かんだ疑問もまだモヤモヤと晴れないで私の頭の中に居座っている。
この居心地の悪さを助長するように、いつの間にかさっきまでじゃらじゃらと五月蝿かった麻雀に興ずる輩の雑音も無くなっていて、部屋の中だけじゃなく、サークル棟全体にいる人間が私たちだけになってしまったかのような静寂が訪れていた。
カチカチと時計の針が時を刻む音が聴こえ始めた。
もう私は我慢の限界だった。
「あの……」
意を決して私は女の人に話しかける。返事がない。聴こえなかったのかな?
「あの!」
今度は若干声のボリュームも上げてみた
「なんね? どがんしたと?」
ようやく返事をしてくれた。でも、この人今なんて言ったの?
私が返事しあぐねていると女の人はそんな私の気持ちを察したのか、数秒の沈黙を経てまた口を開いた。
「『なに? どうしたの?』と言ったの。やっぱり博多弁はわからなかったかな? ごめんなさい」
言葉の意味をやっと理解して、私はなぜか安心してしまった。初めから普通に喋れるのならそうして欲しいよ。なんて、文句は心の中に閉まっておいて、とりあえず会話をする糸口だけは掴めたようなのでそのまま彼女と会話を続けることにした。
彼女は、九州は福岡出身の、久本杏子(ひさもと あんこ)という名前の心理学科三年生。私より一つ年上だった。なぜ、さっき一度返事をしなかったのか。それは、読書に集中していたかららしい。
一度本を読みだすと脇目も振らずに本の世界に入り込んでしまい、たまに寝食すら忘れて読書に没頭するあまりに一日ご飯を食べなかった事もあるという。
久本さんは自嘲気味に「馬鹿な女やろ?」と言い捨てた。
でも、私にはその口調がどこか気品に満ちあふれた物言いに聴こえて、不思議と彼女が自分でいう愚かさだらしの無さというものを感じさせなかった。
「ところで、君の名前はなんて言うと?」
「あ、すみません。私の名前は野尻明といいます。教育学科の二年です」
「野尻さんね、なんか面白か名前ね。……よろしく」
「よろしくお願いします」
「よろしく!」
なぜか、久本さんはもう一度挨拶してきた。
「握手よ、握手!」
あぁ、握手ね。私も右手を出した。でも、差し出されただろう久本さんの左手をすぐに握る事が出来なかった。彼女の手を探そうと、私は手を左右に振った。
「なんば、しよっと?」
「実は……私、目が見えないんですよ……全く」
「あ、そうね」
大抵の人は私が目の見えない事を知ると、驚いたり戸惑ったりする。だから、私は目が見えないという事を他人に話す事に若干の抵抗があった。
でもどうだろう、久本さんはそんな私の予想に反して、むしろ好意的といってもおかしくないくらいすんなりとその事実を受け入れたのか気さくに両手で優しく私の手を包み込んでくれた。
悪い人じゃないな。
私はそう思いつつ、久本さんの手の温もりに不思議な安堵感を覚えていた。
そしてこの場所は決して星さんに不釣り合いな場所なんかじゃないと勝手に納得していた。