小説を書きたかった猿
10.非・劇的
10 非・劇的
虫の飛ぶ季節になった。部屋の網戸の端が少し破れていて、小さな羽虫が入り込んでくる。たたけば潰せる。たたけば潰せる。たたけば潰せてしまうのはまだ連中に元気がないからだ。厳しい生存競争を生き残ってきたわけではないからだ。これから本格的に人も獣も虫も暴れ狂う季節になれば、とてもたたき潰せる速さでは飛んでくれなくなる。手のひらに余る大きさにまで育ってしまう。小さくて弱い奴らは人に見つかる前に同族の栄養分となってしまう。網戸の隙間をテープで塞がなければいけない。ガムテープを探さなければいけない。明日探さなければいけない。明日から本格的にガムテープを探し出してテープを切って網戸の隙間を埋めなければならない。そうすれば虫が入ってこなくなるので僕は虫をたたき潰さなくて済む。小説を完成させられる。勢いに任せて飛躍してしまった。また虫が飛んでいる。たたき潰せるからたたき潰してしまう。
何となく一日が過ぎていき、何となく一年が過ぎていく。劇的なことなど何も起こらず、ただいたずらに歳を取り、許せなかったことが許せるようになり、忘れてしまったことを思い出せなくなっている。
完成を目指さないままだらだらと書き記していく小説もどきの中では、簡単に人が愛し合い、殺し合っている。男女が出会えば当然のごとく恋愛を始め、肉体関係を持つ。自ら書いた物語の中に僕はいない。
僕だけではなく、そこには人間が誰一人いない。
人工的に作られた血の通わないキャラクターたち。ご都合主義のストーリー。何か大切なことを言ったようで言っていない台詞群。物語の外に飛び出さない思想。伸ばそうとしない手。
自分の作り出したキャラクターの顔をうまく想像することが出来ないので、後ろ姿ばかり浮かんでくる。丸まった背中、丸められた背中、太ったもののいない、嘘臭い女たちの、必然性なく肌が露出した背中。
彼らは彼らでつるみ、笑い合い、作者の僕のことなど忘れて振る舞い始める。完結しない世界の中で永遠の青春を送り続ける。殺しても、犯しても、彼らはいつでも自らの光り輝いていた時に戻ることが出来る。
現実では時は戻らず、止まらず、回転しない。荒れた指の肌が指紋を蘇らせるには一日では足りない。過去に戻って人生をやり直すなんてことは物語の中にしかない。過ごしてきた時間は全て取り返しのつかないものであり、あったことをなかったことには出来ない。なかったことはなかったことであり、創作した劇的な出来事を実際の記憶として上書きしようと努力しても、理性に阻まれてしまう。
僕が生きているのは物語の中ではなく、現実だ。
ハローワークに行ってきた。