小説を書きたかった猿
11.雇われ人魚が下手な歌うたって客引きしているゲロだらけの街角
11 雇われ人魚が下手な歌うたって客引きしているゲロだらけの街角
植物たちは恐怖を感じるほど逞しく生い茂り、晴れ渡る空の下でツバメが飛び回っている。あまりに青すぎる春の中で、青春というものを知らない僕は自転車に乗って隣の市にあるハローワークへと向かっていた。
なんだかハイになっていた。
歌でも一曲作れそうだった。
作ってみた。
雇われ人魚が 下手な歌うたって
誰でも構わず 客引きしてるよ
僕にはお金も職も毛もないから
彼女を見詰める 資格がない
ゲロにまみれてる 道ばたで一人
座り込んで 恵みを待ってる
生きていたくなんて ないけれど
それでもやっぱり 死にたくはない
赤い顔して 太った男が
説教してくる おまえはクズだと
知ってるよ そんなの 知ってるよ
どうでもいいから 金をくれよ
どこか遠くへ行きたいな
いつか誰かと生きたいな
愛してなんて言わないよ
誰か隣にいてくれよ
どこか遠くへ行きたかった
誰かと二人生きたかった
誰とも繋がれなかった
生きてる理由を忘れた
雇われ人魚が 下手な歌うたって
客引きしている ゲロだらけの街角
ここにいたいってわけじゃないのさ
他に行けるところがないのさ
歌うことは気持ち良かった。いや、声を出すということそのものの快感かもしれなかった。用事のための物言いや何かへの返事ではない声というのは、友達や恋人との会話というものが普段から一切ない僕にとって新鮮に感じられた。歌さえ歌っていれば、ハローワークまでとはいわず、どこまででも走って行けるんじゃないかと思えた。
すれ違う人たち全てに白い目で見られたっていい。耳を塞がれても、石を投げられても構わない。鳥は敵を恐れて鳴きやむことはあっても、恥ずかしさによって沈黙することはない。
何を恥じることがあったのだろう。
誰に遠慮することがあったのだろう。
それは歌に限ったことではない。
小説家になりたい、僕は小説を書いている、今こんな小説の構想があるんだ、といったことを、僕は現実で他人に公言したことがない。顔の見えない、音声を伴う会話を交わさないネット上の知り合いには明かせても、実際に口にしたことは独り言以外ではなかった。
だって恥ずかしいじゃないか。
だって誰も小説に興味を持ってないじゃないか。
話すと馬鹿にされるじゃないか。
言った途端自分で自分が馬鹿馬鹿しくなるに決まってるじゃないか。
何より、書けてないじゃないか。
自分にとって大切なことを話さないでいると、表層的な、気の乗らない、どうでもいい会話ばかりになってしまう。友人たちとの繋がりが切れてしまった原因も、遊ぶ金がないということ以上に、僕が自分のことを語らなすぎたことにあるのだろう。家族との会話においては、僕から話題を切り出した覚えがここ十年ほどない。
歌えばよかった。歌えばよかったんだ。歌い続ければよかったんだ。
そんな風に、「何か大切なことに気付けた」感じの結論は、これを書いている今思いついたでっち上げだ。
実際には小声で、人目を気にしながら口ずさんでいた歌詞は、「雇われ人魚が 下手な歌うたって」までで、その後のフレーズは家に帰ってから付け足した。ただでさえ不審者扱いされるのが怖いのに、大声で歌いながら自転車を走らせるなんてことをするはずがなかった。なんだかハイになっていたのは、いよいよ目を背けていられなくなった現実から、全速力で逃避していたせいだ。
「あの」と僕は言った。
「今日はどのようなご用件で?」と受付のおばさんは言った。
「あの、パソコンで、仕事探しを」と僕は言った。
「では一階59番をお使いください」とおばさんは言って、座席案内表が書かれてあるプレートを渡してくれた。
僕は歩いて59番のパソコンのところまで行った。
パソコンラックの前に置いてある椅子に座った。
なんだかふわふわとしていた。
自分がここにいることの現実味をうまく実感出来ないでいた。
こんなことではいけない、と思った。
僕にはやることがあった。
職を探さなければいけないし、小説も完成させなければいけない。
だから僕は、この状況をしっかりと描写出来るようにならなければいけない、と思い立った。
雇われ人魚の歌なんて聞こえてこなかった。