死んでも逃げろ
第3部
『大きな声の神は世界を広げるために、旅人をつくった。』
『神話篇』より
① サヨリ―1
1
ジープに揺られている。幾つかの町を通り、昼と夜が交互に来て、誰かがお喋り。わたし
は、意識がはっきりとしない。時間がゆっくり進んだり早く進んだり……名城を出発しても
うどれくらいが経ったんだろう。
「あいつは大丈夫さ、たぶん、1人でうまくやってんだ」
ケンジくんはそう言ったけれど、わたしは知っている。キョウジくんは死んでしまったの
だと。わたしだけはそれを感じることができた。誰よりも早く絶望を知ってしまった。もう、
わたしは、遠くへは行かれない。
わたしはあれからずっと『路上』を読んでいる。本当に良い小説だと思うけれど、結局デ
ィーンとサルはそれほど遠くへ行ったわけじゃない。絶え間なく移動しているだけ。わたし
が求めるものとは少し違う。
わたしは、ただ、遠くへ行きたいだけなのだ。行きたいだけなのに……
2
富士に到着。アリサワさんが予想していた通り、そこは日本最後の避難場所となっていた。
多くの自衛隊員と、連れて行かれなかった民間人。大人や子供、赤ちゃんや老婆、怪我をし
たもの、病気になったもの、死んだ目をしてる連中、死にたくないと思ってる連中。
わたしや、ケンジくん、アミ、カミカワくんは8畳ほどの部屋を与えられた。そこで休ん
でいればいい、とアリサワさんは言った。アリサワさんとシミズさんは仕事がある、と言っ
て、どこかへ行ってしまった。
3
わたしはどうすればいいのだろう?そればかりを考えている。こんなどん詰まりの場所に
ずっといるのだろうか?こんな、中途半端な場所に?
遠くへ行きたい。
ずっとずっと遠くへ行きたい。
でも、キョウジくんという半身を失ったわたしは、それを拒んでいる。体は進みたがるの
に、心がじっとしている。
わたしは部屋の隅でページをめくっている。
4
富士の演習場に逃げ込んだのは自衛隊員が約1500名、民間人約2000名なのだそう
だ。わたしたち以外に捕まらずに逃げていた人の数。それが多いのか少ないのかわからない
けれど、少なくとも、生き残った同胞がいるということを喜ぶべきなんだろう。
本を3度読み返したわたしは、何も考えずに演習場内を歩き回るようになった。心配して
くれているのか、アミがずっとついてきてくれる。話しかけずに、少し離れてついてくる。
そんなアミの優しさが、わたしは嬉しいのだけれど……
5
アリサワさんがやってきて、話をしてくれた。
その夜、わたしは日記を書き始めた。タイトルを『旅行記』にした。遠くへ行くわたしに
はぴったりだ。
『旅行記』
1日目
敵は地中海に人間たちを集めているそうだ。話によると地中海に大きな船を作っていると
いう。ノアの箱舟。アリサワさんはそう言った。これはすでに戦争であり、テロ行為なんて
いう生易しいものじゃないという。今、世界中が協力をしあって、地中海に侵攻しようとい
う計画があるのだと、アリサワさんは言った。自衛隊もそれに参加するとのこと。わたしは
すぐに手を挙げた。わたしも行きたい、と。みんな驚いてた。戦うつもりなの、とアミは言
った。
あの日の朝。わたしは全てを失った。そんなわたしができることと言えば、遠くへ行く、
ということに近い行為、キョウジくんの言う、逃げることにとても近い行為、戦いくらいし
か、もう残されていない。キョウジくんならさっさと逃げよう、と言うだろうけれど……も
うわたしにはこれしか残されていない。
遠くへ行く手段を失ったわたしは、戦うことにする。
ヨーロッパ。世界中の戦力がそこへ向かうのだという。憧れの欧州。少しでも遠くへ行け
るなら、戦いも悪くない
続く
② アリサワ/『旅行記』
1
これだけ生き残っていたことを喜ぶべきか……やれやれ、思った以上に面倒なことになっ
てしまったみたいだ。
「何言ってるんですか、チャンスじゃないですか」
シミズはそう無責任に喜んでるが、俺は手放しで今の状況を喜んでもいられない。何の因
果か、俺に冷や飯を食わせ続けてきた、うざったい上官どもがまとめてあの世にいっちまっ
たみたいで、おかげで、異例の昇進。元はといえば、生意気だった俺に非がないでもないん
だが……欧州戦の司令官……なんだか笑ってしまう。気がつけば特別に昇級して、三等陸佐。
まぁ、当たり前か、上の階級の連中はほとんど死んじまってるからな。空いてる席を埋める
ためにどんどん昇級させてるってわけだ。こんなご時世に階級なんてクソほどの意味もない
というのに……
ともかく、1500人近くの下っ端どものテッペンに立ったわけだ。今はやることやって、
危なくなった、とんずらこけばいい。
キョウジが死んで――死体は確認してはいないが――高校生たちは背骨が折れたみたいに、
弱々しくなっちまった。中でもシンジとかいう変な奴には驚いた。そういうタイプには見え
なかったが、とにかく一番錯乱してた感じ。意外にもケンジはさほど取り乱さなかった。そ
んなことを人前では見せられないっていう強がりもあったかもしれない。
サヨリ。正直、まいった。まるで死んでるみたいだ。戦争についていくって手を挙げた時、
まるで、わたしが自殺します、って言ってるみたいだった。こういうのが一番危なっかしい。
たぶん、この子は戦争で死ぬだろう。そして、それが彼女にとって幸せなのかもしれない。
2
世界は混乱してるわけでもなく、ただ終わりに向かってた。何とか生きてる通信網で情報
を集めても、どこもかしこも、日本とそう変わりはしない。ほとんど殺されるか、拉致され
るかして、どうしようもないって感じ。そうは言っても、標的にならなかった国ってのもあ
るみたいなんだが、そのどれもが発展途上ですらない、時代遅れの国々。助けを求めように
も、彼らは助ける手段を持っていない。万事手詰まり。地中海にでかい船を作ってて、人を
集めてる。それが唯一有益な情報といったところ。だったら近寄らなければいいし、隠れて
れば、何の問題もない……とまあ、俺はこんな風に思ってたんだが、そう思わない奴が多い
みたいだ。連れてかれたのなら助けにいかなければいけないし、わけのわからない連中をこ
のまま放っておくわけにもいかないってことらしい。
無駄だな、って思う。
例え、連中をやっつけて連れ去られたみんなを助けたとしても、もう世界はどうにもなら
ない。国という概念はもう崩壊してしまったし、経済もがたがた、政治なんてやりようもな
いし、それに、俺たちは文明に染められてしまってて、最後の最後まで馬鹿みたいに、死の
淵を目指して徒競走をするしかない。そもそも反攻作戦の言いだしっぺがアメリカの残党っ
てところが気に食わない。作戦成功の暁には以前よりも強い指導力と影響力を手に入れよう
って腹だろう。国がなくなっても人々と地球は残るから、支配制度は保たれるって考えてる
んだ。これをきっかけに世界が統一されたら、その首脳陣の大半はアメリカ側にいた連中っ
てことになるだろう。そして、そこには――実に情けなくて残念だが――日本も含まれてい
るはずだ。東側諸国や赤の連中の反発が激しいことは折り込み済み。この反攻作戦の後にや
ってくるのは真の第三次世界大戦だ。そして、それで、人類はさようならってことになる。
結局、殺しあうことしか、俺たちには残されていない。
そんなモノはくだらないってことを、俺たちは何万年かけても、理解できてない。今回の
ことなんて、ただのきっかけにすぎない。根っこのところには、自分たちがいる。結局、人
間の敵は人間だ……神様がいればいいのに、と俺は思う。そうすりゃちっとはマシなんだが
な。洪水……むしろ俺は歓迎してるのかもしれない。
3
見かけるたびにサヨリに話しかけるんだが、彼女の目の焦点はずれたままだ。俺があげた
『路上』は何度も読み返されたせいで、ぼろぼろ。元気か?と聞いても、元気です、としか
返事はない。
彼女は民間人からの義勇兵ということでこの作戦に参加することになった。ここにいる民
間人は約2000名。その中から進んで手を挙げたのは50名にも届かなかった。しかもそ
の半分が女。まぁこんなもんだろう、と俺は思う。今更男も女も、ない。
彼女は一日の大半を演習に費やしてる。義勇兵に訓練を強制することを、俺はしなかった
――司令官として実際そうすることも可能だったが――自由訓練という名目で好きに訓練し
ていいという形にした。これには内外から批判があった。ロクに訓練もせずに戦争に連れて
行くのは危なすぎる、とさ。別にいいんだ。訓練したい奴だけ――生き残りたい奴だけ――
やればいい。訓練してなくても壁くらいにはなる。そう思ってたが、50名程の義勇兵たち
は必死に訓練に励んでいた。そして、その中でも、サヨリは郡を抜いて一所懸命だった。ま
るで、それだけをするためにここにいるんだ、というみたいに。
高校生からはサヨリ以外にもケンジとカミカワ、それにシンジが参加した。またアミは看
護兵として後方から参加するみたいだ。
「本当はサヨリも看護兵のほうが合ってる思うんですけどね。わたしなんかよりもずっと知
識があるし」
アミはそう言っていた。
ケンジはサヨリほどではないが訓練に熱心で、カミカワとシンジは適当に銃を撃つ練習を
してるくらいのもの。そもそもどうして参加したのかすらよくわからない。まあ、せめて苦
しまずに死んでほしいと思う。
サヨリは支給された銃ではなく、逃避行で手に入れたハチキュウを使っていた。もっと性
能の良い銃はあると言っても聞かなかった。これが使いたいんです、と彼女は言った。気持
ちはわからないでもない。キョウジ……影響力はとても大きい。
4
ヨーロッパではフランスに世界中の戦力が集まることになっている。俺たち日本野連中は
横浜から船でシベリアへ行き、鉄道をつかってヨーロッパへ向かうことになる。横浜に停泊
している民間の船をかき集めての出航になる。数は1500程度だから、まあでかい旅客船
1隻で充分間に合うだろう。とにかくシベリアに着きさえすればいいのだ。あとはロシアの
連中に連れられて夢のヨーロッパ。
出発を数日後に控えた日、珍しくサヨリから話しかけられた。
「どうやれば死なずに敵をたくさん倒せますか?」
「敵に見つからずに殺すことかな。あとは遠くから殺すこと。そうすりゃいいんじゃないか
な?」
正直、死なずに敵を倒す方法なんて、俺は知らない。というか、そんな方法ありはしない。
敵を殺してりゃいつか自分も殺される。それが戦争だ。
「狙撃ってことですか?」
「まぁそういうことになるかな」
「そうですか」
次の日、M―24で訓練をしているサヨリを見かけた。遥かかなたの的に次々ヒットさせ
ている。背中にはハチキュウを背負っている。不思議な光景だった。普通どちらか一方を選
ぶものだ。当然装備品は重い。女の子ならばなおさらだ。こんな装備で戦場に出たら、死ぬ。
やめた方がいい、俺がそうアドバイスしても彼女は首を縦にふらなかった。
「いいんです。なんとかなりますから」
せめてスポッターをつけろと言っても、彼女は聞かなかった。
「大丈夫なんです」
何が大丈夫なのか、彼女は教えてくれなかった。
彼女は間違いなく死のうとしている。大人としては何とか止めてやりたいものだが……ま
ぁ、それも仕方ないだろう。こんな状況だ。全ては自分の責任でしかない。生きるも死ぬも
……
5
横浜に敵はいないって情報が先遣部隊から知らされていたから、俺たちは安心して富士を
出発した。長い輸送車の列。シミズは俺の隣りに座ってニヤついてる。副司令官という位置
がお気に入りのようだ。
「アリサワさんならやれますよ」
「さあな」
たぶん、シミズは死ぬ。俺も死ぬ。この作戦は成功の見込みがない、ということを俺は知
ってる。相手は烏合の衆だが、俺たちはそれ以上だ。思惑も狙いもばらばら。統率なんての
はもはや都市伝説だ。ただ、俺は自分の隊だけはなんとかしてやりたいと思ってる。逃げた
きゃ逃げろ、と伝えてある。ここで死ぬなんて馬鹿馬鹿しい。まぁ、洪水で死ぬよりは幾分
マシかもしれないが……
『旅行記』
7日目
背負った銃と狙撃銃で合わせて8キロ以上になると、アリサワさんには言われた。けれど
、わたしは重いと思わない。どうしてかしら、あの日の朝からこっち、体が異常に軽い。な
んでも出来てしまいそう。疲れることはないし……どうかしちゃったのかな?
みんな一緒に戦争に行くことになった。アミだけは看護兵だけれど。わたしも本当ならア
ミと同じように看護兵としていくのがいいんだろうけれど、なんだか、それは出来ない。後
ろにいることなんてできやしない。誰よりも先に行かなければならないって思う。
時折、耳の後ろがざわざわする。誰かが話してるみたい。最初はキョウジくんの亡霊かな
んかじゃないのかって思ったけれど、どうやら違うみたい。正確には聞き取れないけれど、
何か言ってる。もしかしたら幻聴で、わたしの頭はどうにかなってしまったのかもしれない。
横浜から船。シベリアから列車。どれも心躍らせるような旅行手段だけれど、今では、も
う喜べない。旅行でもないし、遠くへ行くためでもない。それは戦場に行くための手段なん
だ。まるで学校へ行くために乗る朝のバスみたいに。
訓練は楽しい。没頭できる。そして着実に成果は出る。わたしは人を殺すより良い手段を
覚え始めている。村で兵士の頭を撃ち抜いた時は怖くて仕方なかったけれど、今はなら、き
っと怖くない。わたしの体は震えない。遠くへ行けないのならせめて……
シンジくんからipodをもらった。
「僕にはもう必要ないから」
そう言った彼の目の下にはくっきりと隈ができていた。眠れていないのだろうか?
ipodの中は洋楽だけしかなかった。寝る前に聞くと不思議と心地良く眠れる。一番の
お気に入りはレディオヘッドの『True Love Waits』という曲だ。何を言っ
てるかはわからないけれど、とても可愛い曲だ。
続く
③ ケンジ/『旅行記』
1
船はゆっくりと進んでる。思ってもみなかった船旅に、俺はちょっとはしゃいでる。海は
静か。船が白波を立て、それがゆっくりと広がっていき、消える。甲板は割りと広い。そこ
かしこい自衛隊員がたむろってて、みんなそれぞれお喋りに興じたり、賭け事に夢中になっ
たり、こそこそと相談事をやってたりする。俺はというとアミと2人、甲板のベンチに座っ
て海と空を見てる。他に見るものがないから。
アミはサヨリの心配をしてる。このまま死ぬんじゃないかって。
「やっぱりキョウジくんのことが好きだったのよ。だから気が動転してるんだわ」
女の頭の中は色恋が半分を占めてるって言ったのは誰だったっけ?たぶんそんなことを言
うのはだいたいキョウジだから奴が言ったんだろう。
「違うかもしれないじゃないか」
「じゃあどんな理由であんなにサヨリが変わっちゃうっていうのよ」
「サクラだって死んだ。色んな奴が死んだよ。だから戦おうって思ったんじゃないのか?」
「だ・か・ら、キョウジくんが死んだのが一番大きいって話よ」
「キョウジは死んでないよ、きっと。どっか逃げてんだ、あいつ。賢い奴だから」
アミは俺の目を覗き込む。そして少しだけ悲しそうな顔をする。
「馬鹿ね」
「死んでる気がしないんだ。どこかで生きてるって気がする。だってあいつ、殺しても死な
ないような男だよ?」
「馬鹿」
「うるへー」
俺がアミの髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜると、アミは身をよじって、笑う。
「ほんと馬鹿」
アミは頭を二、三度振って、右手で髪の毛を整えた。
俺はきっと馬鹿なんだろう。あいつのために頑張ろうって思ってたのに、結局何もできな
かった。結果あいつは置いてけぼりだ。まぁどっかで悠々自適にやってんのかもしれないけ
れど……
2
看護兵の呼び出しがあって、アミはベンチを立って船倉へ向かった。講習会があるんだそ
うだ。看護兵の大半が素人だから仕方ない。そして、俺たちだって素人だ。訓練したって、
そう変わりゃしない。数日の訓練でプロになれるほど、甘いもんじゃない。それでも、生き
延びて、逃げ延びてきたという自負がある。もちろんキョウジによるところは大きいが、そ
れでも、俺たちはやれた。これからもやれないことはない。ただ、死なないように努力する
だけだ。そして願わくばアミを守ってやりたいと思うだけだ。
「お前志願兵か?」
無精髭を生やした男が話しかけてきた。どうやら自衛隊員のようだが……浮浪者といって
もおかしくないようなみすぼらしい姿。風呂に入ってないのか、ひどく臭う。
「はい」
「若いな」
男はアミが座ってたあとに腰を下ろす。俺は少し距離をとる。
「幾つだ」
「17です」
「そうか。怖いか?」
「わかりません」
「怖いんだろう?」
「たぶん。でもこの事件が起こってから、慣れてる部分もあります」
「恐怖に慣れるか」
「はい、たぶんですけど」
「まぁ、そうかもしれないな」
男は胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえる。
「吸うか?」
差し出されたタバコを俺は断りきれずに口にくわえた。火をつけて煙を吸い込む。異物が
肺に入ってきて、むせる。そして頭がくらくらして、手足が重くなるような気がする。
「なんだ、初めてか」
「はい」
「若いな」
「見たとおりです」
はっはっはっ、と男は笑う。そして真剣な顔をして言う。
「お前ら義勇兵なんて、自衛隊員にとっては壁役だ。それ以上でも以下でもない。まぁ、う
ちの大将はちょっと違う考えみたいだけどな。逃げてもいい、なんて言ってたし。ただ普通
の連中はそう思ってるはず」
「ええ」
俺はタバコを靴底で消す。吸殻はベンチの隣りにあるゴミ箱に放り込む。
「でも、まぁ、なんだ。俺も逃げればいいと思うぞ。俺だって基地が攻撃にあってるのに、
仲間を放って逃げ出した口だからな」
男はタバコを大きく吸って、勢い良く煙を吐き出した。灰色の煙が海風にあてられて、消
えてった。
「死ぬなよ、兄ちゃん。死んだらつまらんぞ」
「ええ、あなたも」
「はっはっはっ、逃げ足は速いから大丈夫だ」
男はタバコをくわえたまま、ベンチを離れる。
逃げる……か。もともと俺たちは逃げてた。だが、今はどうだ。むしろ逃げずに立ち向か
おうとしてる。キョウジがいたら、どうなってたかな?やっぱり戦ってたかな?キョウジが
いたら……
3
船室へ行くと、カミカワがいつものように携帯をいじってた。
「甲板気持ちいいぞ」
俺がそう言うと、カミカワはめんどくさそうに携帯を閉じた。
「海風って嫌いなんだよ。べとべとするから」
「携帯なんて意味ないだろ。いつも何してんだ?」
「大きなお世話だ」
カミカワは大きく舌を出す。
「お前は相変わらずだな」
「へっ、俺から言わせりゃお前らが変わりすぎなんだ。周りに流されてダセェ」
「そのわりにお前も参加するんだな、戦いに」
「俺は変わっちゃいないよ、考え方は。その考え方に従って地中海に行くんだ」
「女でも助けにいくのか?」
俺がからかい半分で言うと、カミカワはじろっと睨んだあと、へっ、と笑った。
「大きなお世話だ」
図星だったのか、俺のベタな冗談に呆れたのか。どちらにしろ、カミカワは何を考えてる
のか、俺にはわからない。曲者。そんな言葉が似合うような気がする。
「なぁ、シンジとかサヨリは?」
カミカワは床にごろりと転がってまた携帯をいじり始めた。
「シンジは知らない。サヨリちゃんなら舳先で見たよ」
「ありがとう」
俺は礼を言って船室を出た。
4
船の舳先は風が強い。目の間には広大な海。サヨリは舳先に体育座りして、前方を眺めて
た。背中には小銃。右肩には狙撃銃がぶら下がってる。変な格好だ。俺はサヨリの真後ろに
立って声をかける。
「風強いな」
「うん」
サヨリは微動だにせず、前を見ている。長い髪の毛がばたばたと風に揺れてる。その髪を
押さえようともせず、サヨリは膝を抱えてる。
「ロシアまで二日もかかんないんだそうだ。でも、まぁ、船旅っていいもんだな」
「うん」
「電車とか飛行機と違って、こう、優雅な感じだよな」
「うん」
「シベリアからは鉄道だってな。俺たちじゃ考えられないほど長い鉄道なんだろうな。ユー
ラシアの端から端だもんな。すごいよ」
「うん」
「なぁ、大丈夫か?」
「うん」
「アミも心配してる」
「うん」
「お前、変わったな」
「そう?」
「うん」
「そうかもね」
「キョウジは生きてるよ」
「ううん。死んだ。わたしにはわかる」
「なんで」
「なんでも」
「死んでねえよ、あいつは」
「死んだのよ」
「いい加減なこと言うなよ」
つい声が大きくなってしまった。それでも俺はむかついてた。お前に何がわかるんだ、っ
て。俺とあいつがどんなに仲が良いか知らないだろう、って。
サヨリは振り向いて俺を見る。ただ見てる、という感じ。睨むので眺めるのでもなく、た
だ見ている。海を見ているのと同じ感覚で。
「わたしにしかわからないのよ」
そう言うとサヨリはまた体を戻し、海を見始める。
「海風に当たりすぎると、体を壊すらしいぞ」
サヨリは何も言わない。俺は諦めて舳先を離れた。
キョウジは死んでない!絶対に!
5
船室に戻るとアミが講習を終えて帰ってきていた。
「包帯の巻き方、もう忘れちゃいそう。ちょっと、ケンジ練習させてよ」
アミは俺を座らせて、対面に座る。
「腕を出して」
俺は右腕を出す。アミはそこに包帯を巻いていく。
「サヨリと話したよ」
「何て言ってた」
アミの包帯を巻く手はぎこちない。何度も包帯を外しては巻きなおす。
「キョウジが死んだことはわたしだけにわかるってさ」
「そう」
アミは包帯を巻いている。
「そんだけ」
「そう」
アミは包帯を巻き続けてる。
「このままじゃミイラ男みたいになるんだが」
アミは包帯を巻く手を止める。
「案外、あの子にだけは、本当にわかったのかもね。キョウジくんの死んだ瞬間が」
アミはまた包帯を巻き始める。肩を巻いて、今度は首を巻き始める。
「死んでないっつーの」
「どっちでもいいの」
アミは包帯を巻き続ける。もう顔の半分が包帯で巻かれてる。息がしにくい。
「よくねえよ」
「いいのよ。私やあんたやみんながまだ生きてるってことだけ忘れなければ」
目までアミは包帯を巻きつけ、最後には頭のてっぺんで包帯をとめた。
「これでよし」
「よくねえよ」
「うまいもんでしょ」
「どこで生かすんだよこんな技術」
アミは包帯をときはじめる。再び視界にアミが現れる。
「あんたが怪我したとき」
アミの声は暗い。
「俺は死なないし」
「当たり前でしょ」
そう言ってアミは俺のおでこを叩く。
「大事な部分に包帯を巻き忘れてるぞ」
「え?」
俺が股間を指差すと、もういちどおでこを打たれた。1度目よりも強く。
『旅行記』
8日目
船旅。海風。何もない海。白波。飛んでいく鳥。油の匂い。
遠くへいくのだ、とわたしは思う。思うほどは遠くない、遠くへ。
キョウジくんが見たことのない外国。
海風。鳥の鳴き声。エンジンの音。話し声。タバコの匂い。水の音。食事の匂い。
放送の声。
耳の裏で聞こえ始めた音は、日毎に大きくなっていく。語りかけているのは、誰な
のだろう。何をわたしに伝えたいのだろう。ただ音は大きくなっていっても、何を言
ってるのかわからない。それはただの音なのかもしれない。声であるフリをしてる、
音。
キョウジくんの声なら、どんなに小さくても聞き分けられるのに……
海の夜は静かです。これまでよりもずっと、静か。船室にはみんなが寝てるんだけ
ど、寝息も聞こえない。まるでみんな死んでるみたい。わたし以外の全てが、死んで
るみたい。とても静か。静寂。闇。船体にあたる波の音。
昨日見た夢。何もない、まっさらな大地を1人で旅する夢。わたしはマントを着て、
銃を背負って、1人歩いてる。そこがどこなのかも、どこへ向かってるのかもわから
ない夢。遠くへいきたいと求めてる、わたしの願望なんだろうか?
今日もきっと同じ夢を見る。予言的な夢を。
続く
④ シンジ/『旅行記』
1
列車に乗るなんていつ以来だろう。地下鉄はよく乗ってたけど、こんな大掛かりで遠くへ
向かう列車となると、ちょっと思いつかない。たぶんすごく小さい頃。両親に連れられて新
幹線に乗った記憶はあるけれど。
客室から見える外の風景はほとんど変わらない。町の廃墟があって、草原、町の廃墟、そ
の繰り返し。退屈だし手持ち無沙汰なんだけれど、音楽を聴こうって気にはなれない。そも
そもサヨリさんにipodはあげちゃったし、聴こうと思っても聴けないんだけれど。まぁ
正直、もう、音楽なんてどうでもいいんだ。今じゃロックなんて嘘臭く聴こえるだけ。69
年が終わった後のロックファンもきっとこんな気持ちだったんじゃないかな?
実際、もう、何にもいらないんだ。欲しいものもない。キョウジくんと別れてから、周り
の動きがとてもゆっくりに見える。僕自身はゆっくりやってるように見えて、頭の中はあの
時以来フル回転で、自分の恥をどうやってなくそうかって考え続けてる。やっぱりキョウジ
くんはずるいし、卑怯だ。ずっと僕の考えを見抜いてて、それでいて無視してて、最後の最
後でそれまでのものを全部崩しちゃった。今思い返しても、腹が立つし、なんとか仕返しし
てやりたいって思うけど、このどうにもならない思いをどこにぶつければいいのか、僕には
見当もつかない。
2
キョウジくんは知っていた。サノくんやハタノくんと同じように僕を見てたんだ。たっぷ
り毒をきかせた言葉は、最後の最後にとっておいたんだ、きっと。そして、僕に人生最大の
恥をかかせたんだ。
全てを見抜かれていた。観察者であった僕の全てを。その上で、僕を観察していて、僕の
中の柔らかい部分をよくよく知った上で、最後の一撃。キョウジくんの見込みどおり、僕は
屈辱を受けた。最大の。これほどむかつくこともないし、これほど悔しいこともない。
全てを見抜かれていたことが、本当に、心の底から、むかつく。僕は観察者としていい気
になっていたのだ。冷静に全てを見通してるのは僕だけだ、とタカを括って。そうやって調
子にのってて、見落としてたことがある。観察者である僕が観察されてるという可能性。も
しかしたら、キョウジくん以外のみんなも僕を観察していたのかもしれない。そう思うと、
恥ずかしくて、むず痒くて、夜も眠れない。目を閉じれば、何か嫌な想像をしてしまう。ケ
ンジくんが、カミカワくんが、サヨリさんが、アミさんが、実は口には出さないけど、僕の
ことつぶさに観察していて、心の中で馬鹿にしてる。そう考えるだけで、腹わたが煮えくり
返る。
僕は、馬鹿にされていたのかもしれない。役立たずでマイペースを気取ってたつもりだけ
れど、実は、演技であることも見抜かれてて、その上で、役立たずだと思われてたのかもし
れない。
外の風景は退屈だ。何もない。何も見えない。気がつけば、もう夜だ。
3
「みんな食堂車で飯を食ってるぞ、シンジはいかないのか?」
カミカワくんが客室に入ってきた。5人で一つの客室を使ってるんだけれど、みんなは列
車が珍しいらしく、出発してからずっと、客室には僕1人だった。
「まぁ味は期待できないけどな」
「カミカワくんはもう食べたの?」
「ああ。クソみたいに硬いパンと薄いスープ。食った気がしない」
カミカワくんは携帯をいじり始める。きっと何かひっかかることでもあるんだろう。女の
子のこととか。カミカワくんも僕を馬鹿にしてる気がする。特にこの人は、軽い感じだから
僕みたいな暗い奴なんて、馬鹿にしてるに決まってる。このもやもやを何とかはらしてやり
たいと思ってしまう。いつもならこんなことはしないのに……
「いつも携帯見てるよね。女の子からのメールを待ってるんでしょ、知ってるよ」
「そうだよ。まぁくるわけがないんだけど」
…………
「この戦いに参加してのは、箱舟に女の子が乗ってると思ってるからでしょ」
「まぁな。もうそれくらいしかやることがないからな」
カミカワくんは僕の言葉を気にもせず、携帯をいじってる。僕は体の中が熱くなるのを感
じる。
「顔、真っ赤だぞ」
カミカワくんが言う。僕はハッとして両手で頬を押さえる。
「なんてな。冗談だよ」
カミカワくんは携帯から目を離さない。僕は、許されるのであれば、この男を殺してやり
たいと思う。何度も殺して、気が済むまで蹂躙して……
僕は、自分が思っていたよりもずっと愚かなんだろうか。どうして、こんなにも、観察さ
れてるのだろうか。しかも、自分より下だと思ってたカミカワくんにさえいい様にされてる。
本当は逆なのに!本当は僕がいい様にしてやるつもりだったのに。
「怒るなよ、冗談だよ」
カミカワくんがこちらを向いて苦笑い。怒るという表情を隠せなかったことが、悔しい。
そういうのが、一番悔しいし屈辱だ。
「ご飯食べてくるね」
「おう」
僕は客室を出て食堂へ向かう。恥ずかしさというのは、プライドに障るということ。自分
のプライドがとても安く思えて、カミカワくんの余裕の対応にさらに腹が立ち、僕は誰もい
ない廊下で、壁を蹴る。
4
食堂車に人はまばら。みんなはその中の一角に陣取り、静かに食事をしていた。カミカワ
くんが言ってたみたいに硬そうなパンと薄いスープ。みんなは僕に気がつくと手招き。椅子
が一席あいてる。きっとカミカワくんがいた席だろう。
「ずっと部屋に籠もってたのか?」
ケンジくんがスープをすすりながら言う。
「うん」
僕は席に着く。食事はない。
「ああ、セルフだから自分でとってきなよ」
ケンジくんに言われて、僕は慌てて席を立つ。それをみんな笑う。僕にはそれが馬鹿にさ
れてるように聞こえる。
パンとスープをトレイに載せて戻ると、みんなはもう食べ終わってて、水を飲んでた。僕
はため息をついて、パンを齧る。テーブルで話してるのはケンジくんとアミさん。サヨリさ
んは黙って水を飲んでる。
「つーかもっと豪勢なのを想像してたけど、甘かったな。旅行気分じゃいかないか」
「当たり前じゃない」
「だよな。まぁ、でも、そう思っちゃうよ」
「馬鹿ね」
「うるへー」
僕はスープをすすりながら、サヨリさんの様子を盗み見る。サヨリさんは水の入ったコッ
プをくるくると振っている。コップの中では小さな渦が出来てる。サヨリさんはそれを見て
る。サヨリさんは変わった。前は気丈で、芯が通ってて、清潔で……今は暗い。キョウジく
んのことを引きずってるのかもしれない。でも、そういう姿を見てると、悲劇のヒロイン面
がむかついてくる。
僕はスプーンを置く。
「サヨリさん元気ないね。キョウジくんのことがショックなの?それで暗いの?自分だけが
特別って顔してるね」
自分の声が震えてるのがわかる。サヨリさんは僕の言葉に、顔を上げ、こちらを向いて、
不思議そうな顔をして、微笑んだ。
僕は、もう、なんだか、自分がとっても間抜けみたいで、ハタノくんやサノくんと同じよ
うに思えて、大声を上げたかった。悔しさをぶちまけてやりたかった。それでも、そうする
こともできない、自分の中途半端なプライドが、さらに屈辱を助長してた。もう僕は観察者
じゃなかった。僕は道化だった。
5
「ちょっと言いすぎだよ、シンジ」
僕が眠れない夜を寝ようとしてると、ケンジくんが小声で話しかけてきた。
「サヨリだって気にしてるんだから」
僕は寝たフリをして返事をしない。
客室の2階にベッドが二つあり、そこには女の子二人で寝てる。座席には僕とカミカワく
ん。ケンジくんは床で寝てる。
「起きてんだろ?返事しろよ」
僕は無視する。起きてることを見抜かれてるだけでも、むかつくのに、ここで返事をした
ら、なんだか、馬鹿なケンジくんに屈服するみたいで、腹が立つ。
「まぁお前の気持ちもわかるけどな」
馬鹿のケンジくんの僕の何がわかるっていうんだ。ふざけるな。僕を馬鹿にするな。クソ
ッ!クソッ!どいつもこいつも僕を馬鹿にしやがって。これじゃ、まるで、僕が子供みたい
じゃないか!
『旅行記』
9日目
列車を駅のホームで見たとき、芋虫みたいだと思った。ノロノロ動くあれ。でもやっぱり
列車でとても早い。窓から見る風景はとてもゆっくり流れるけど、目を地面に落としたら、
眩暈がしそうなほど、早く進んでるのがわかる。
5日でモスクワに到着するそうだ。そこから車でフランスまで移動。あれだけのことがあ
ったのに、この鉄道が無事だったのは不思議な気がするが、とにかく今、わたしは列車に乗
ってる。それだけは事実。憧れてたシベリア鉄道も、今じゃそこらの私鉄と変わりはしない。
耳の裏で聞こえてたのは音であるのがはっきりとわかるようになった。その音は何らかの
声に似せようとしているように思える。実際とても声のように聞こえる。それらしく、なん
らかの言語であるような、伝えようとしていることがあるような……それでも、それが音で
あると、わたしは確信してる。幻聴でないことも、また同様に。
この音がし始めてからあの夢を見るようになった。予言的な夢。関連があるのだろうか?
キョウジくんの死と何か関係があるのだろうか?わたしが半身を失ったことがきっかけなん
だろうか?
どれだけ考えても結論は出ない。ただ、わたしは、その音に慣れてしまった。それに、シ
ンジくんからもらったipodを聴いてると、その音も気にならなくなるから、眠れる。こ
のipodのおかげで、それが音だと気づいた。英語の歌の意味はわからなくても、それが
言語であり何かを伝えようとしているのがわかる。それでも耳の裏の音は違う。音楽と比べ
るとその差がよくわかる。
神様かしら、と、書いててなんだか笑ってしまった。
続く
⑤ カミカワ/『旅行記』
1
フランスにきてからこっち、なんかつまらん。ちょっと息抜きに寝転んで携帯いじってた
ら、どっかの国の軍人さんが猛烈に怒鳴りつけてきて――何喋ってるかわかんねーから、大
口開けて白痴みてーにそいつの顔を見てるだけ――それを見つけた自衛隊の隊員が俺の代わ
りに頭を下げてくれて、軍人がどっか行った後、その隊員に思い切り殴られ、罵られる。だ
いたい万事がそんな具合で、どうも俺にはしっくりこない。ピリピリしてるっつーか、マジ
っつーか……まぁとにかくそんな具合で、一日が過ぎる。
連中は地中海にいるっていうから、戦線は間近なのかと思ってたら、地球軍――誰がつけ
たんだか知らねーが、ださいって思う。大方アメリカの野郎が大仰な名前をつけたがった結
果なんだろうが、まぁ、気に入らない――のベースはパリじゃなくてリヨンにあって、地図
で見たら、結構地中海に近い気がするんだけど、敵さんたちはぜんぜん見かけない。攻撃も
されないし……話によるとニースとかマルセイユぐらいで戦いになりそうってことだ。
戦闘機や戦車なんかを見かけると、ちょっとドキッてする。もし戦闘機が核爆弾やなんか
を使って攻撃するなんてことになったら、ノアの箱舟だかなんだか知らないが、それで終わ
りだろう。あの子がいるかもしれないっていうのに、あまりに残酷。願わくば、そんなこと
にはならないように、と俺は願ってる。
2
ベースキャンプは六つのエリアに分かれてる。ヨーロッパの部隊がいるところが一番大き
い。そこで会議やなんかが行われてるらしい。次にでかいのがアメリカのところ。ここには
カナダとかメキシコとかの連中がたむろしてる。三つ目やたらと南米の連中のキャンプ。こ
こは独特の雰囲気で、なんかうまそうな匂いがしたりしてる。四つ目、アジアの連中が押し
込まれてるところ。俺たちもそこにいる。人数のわりに狭いから、いっつも祭り会場みたい
にごった返してる。五つ目のエリアは看護兵や補給部隊のところ。ここは仕事場みたいなも
んで、それぞれのエリアから人が集まってきてて、なんか色々やってる。飯の配給はここで
やってるから、よく寄るんだけど、女が多い。まぁ野郎のつくる飯よりはいいだろうって思
う。六つ目は一番狭くて汚い。捕虜のいるところ。入ったことはないが、噂によると拷問と
かやってるみたいで、この間近くを通ったとき、捕虜らしき奴の叫んでる声が聞こえた。な
んか痛々しくてすぐにその場を離れちゃったけど、なんていうか、気味が悪かった。
なんか、こうやって六つのエリアに分けられてると、地球軍って感じがしない。地球軍て
ネーミングは大嫌いだけど、世界中の連中が力を合わせてるってのは、そう悪くない気がす
るんだけれど、こう、地域みたいなもんで分けられてると、やっぱり一つになんてなれっこ
ないんだなって思う。当たり前の事と言えばそうなんだけれど、こんな時にまで、って気が
しないでもない。
最近、携帯でメールを作ることにはまってる。電波が回復して――そうなる確立なんてあ
りゃしないってことはわかってるんだけれど――あの子にメールが届くようになったらどん
なメールを送ろうって考えてる。書いては消して、もったいないから保存して……そんなこ
とを繰り返してたら、未送信メールが100件になって、これ以上登録できなくなった。馬
鹿だな、俺と思う。
もしあの子が箱舟にいたら、俺が助け出して、そしてそのままベッドへ逃げ込もうと思う。
そんなところを妄想して、俺はニヤニヤする。
3
六つのエリア全てで、サヨリのことが話題になってるみたい。相反する銃を二挺下げた東
洋の少女ってのが、異国の男子の心の琴線に触れるらしい。しょっちゅう声をかけられてる。
それに答えてるサヨリを見る。あいつ外国語なんて喋れたんだ、と感心する。
サヨリはいっつも訓練してる。馬鹿みたいに腕を上げてるってケンジが言ってた。おかし
くなった女ってのは怖いなって思う。敵を皆殺しにしそうな雰囲気。何考えてんのか、全然
わからない。サヨリは前みたいに話さなくなったし、1人でいることが多い。ずっと本を読
んでる。アミなんかは気をつかって話しかけてるみたいだけど、うまくいかないみたいだ。
気に病んで泣いてるアミを慰めてたケンジを見かけたことがある。なんかカップルみてーだ
った。2人がくっつくのは意外だったけど、まぁアミの弟は変態だから、変態野郎とはお似
合いなのかもしれない。つり橋効果……つり橋みてーな危機的な場所、状況でのスリルと恋
愛の感覚は似てるらしくて、それに騙される馬鹿がいるって話を聞いたことがある。それか
もしれねえな。まぁ、2人が幸せならそれでいいと思うけれど。結局2人の問題だし。それ
にケンジをつかって、ずっと聞きそびれてる、女もオナニーするのかどうかを確かめること
だって出来るかもしれないし。
4
アジアエリアの端っこ、川沿いが俺のお気に入りで、よく昼寝をする。人もあんまり来な
いし、ちょっと汚いから臭かったりもするんだけれど、気に入ってる。そこ占いをやってる
ばあさんがいる。なんでこんなばあさんがいるのかはわからないけれど、たまに話しかける。
このばあさんどこの国の人かわからないけれど、日本語がうまい。時折片言になったりする
んだけれど、概ね話は通じる。なんか目深にフードを被って、濃紺のローブを着て、椅子に
座って、トランプをいじってる。トランプ占いってやつだ。ばあさんに占ってもらったとこ
ろ、待ち人に会えると言われた。占いなんて信じはしないけれど、良い方向の話なら、別。
信じとけば気分がいい。
その他にも昔話やら物語をよく知ってるから、最高の暇つぶしにはなる。中でもどっかの
国の神話がとても面白い。大きな声の神様ってのが出てくる話。
「いいですか、神様は声を失っておられるのです」
ばあさんはいつもそんな感じで話を始める。
「声を取り戻すために、我々人間は存在しているです。オーケー?」
俺はそんな時、オーケィーって言い返すことにしてる。
ばあさんはタバコが好きで、プカプカふかしてる。うまいか?と尋ねると、首を振る。
「まずいです」
「じゃあどうして吸う?」
「そうでもしないと、落ち着かない」
「何が?」
ばあさんは首を振る。
「言葉を知らない」
「ああ、日本語で伝えられないってことね」
ばあさんはタバコをふかす。
「これから終わりがきます」
「そうなのか?」
「それでも終わらないんです?」
「なんじゃそら」
「終われないんです」
ばあさんはタバコを川に放り込む。
「ポイ捨てはやめろよ」
「その言葉知らないです」
俺はやれやれ、と苦笑い。
5
作戦が発表された。開始は明日。歩兵部隊――9割は歩兵だ――はトラックなんかでマル
セイユへ向かう。一足先に出発する飛行部隊がマルセイユに先制攻撃。マルセイユを奪還し
そのまま船へ向かう。
まぁ誰がこんな阿呆みたいなことを考えたんだろうか。言ってしまえば突っ込んでこい、
ってことだ。正直、死ぬかもしれないって思う。あの子に会うまでは死ねないって思うけれ
ど……まぁ、死なないか。俺だし。俺が死んだらつまらんからな。
久々にアリサワさんに会って話をした時、こう言われた。
「危なくなったら逃げろ。死んだら終わりだ。生き抜けばなんとかなる」
正論だと思う。でも、俺は箱舟まで行かなけりゃいけない。あの子が待ってるから。大股
開いて、俺と一つになること待ちわびてる。オナニーしながら……それはわからないけれど。
『旅行記』
14日目
耳の裏では音が鳴り続けてる。それが当たり前になってしまった。最近ますます体が軽い。
なんでもできる。そのかわり、思考が鈍ってる。日記に書くことが思い浮かばない。昔は頭
の中に文字が浮かんでた――人間は言葉でものを考えると言ったのは誰だったかしら?――
のに、今では無。綴る言葉は、手に任せてるだけ。反射。耳裏の音が大きい。
明日から戦争。念入りに銃を磨く。とにかく死なないようにしよう。遠くへいけないけれ
ど、生き延びることだけは諦めたくない。でも生き延びて、どうなるんだろう、わたし。
夜が深い。ここはフランス。ぶどう酒の国。
終わり。おやすみ。
続く