冬の旋風
冬の旋風 「転」
一、回転する空
あれから二日間の間は非常に静かだった。
体中を痛々しく包帯で巻きつけた男が尼寺に担ぎこまれた時、多くの尼は彼の体を介抱することに力を注いだ。
中には、”下の禅寺に置いておくのがいい”と男を拒絶する尼もいたが、彼の体を見て考えを治して言った。
その男、ひとつは、そのまま気を失ったまま、倒れるように布団に身を沈めると一日中目を覚ますことなく、次に目が覚めた時は二日目の深夜であった。
彼の傍には、付きっ切りで看病したと思われる少女れいが眠っており、ひとつはその美しい唇に目を奪われた。
(なんとも、体の自由が無いのであればしょうがない)
自分に言い訳をして、再び目を閉じた。
行灯の火はユラユラと揺れ動き、そして消えた。
彼が目を覚ました時、室内に篭るいい匂いが鼻に届いていた。
れいはまだ目を覚ましていない。
この匂いの元は、看病を行う当番の尼が食していた雑煮の匂いだった。
昆布を出汁に、醤油で味をつけ、餅が一つと中に大根の薄切りが入ったものだ。
体を動かそうにも、全身が焼け付くように熱く、鋼のような肉体は起き上がる事も困難な程に傷ついていた。
「ううう・・・」
声も出ない為にまるで呻き声のような言葉を発した、付きの尼は彼に気付き
「大丈夫ですか、まだ体の傷が塞がっていないので無理はしない様にして下さい」
彼女は、ひとつの目線の雑煮に気付き
「おなかが減ったのでしょう。直ぐに同じものを用意いたします」
そう言って部屋から出て行った。
(ああ・・・そうか)
彼はようやく状況を理解した。
自分は拷問を受けて死に掛けた所を、れいと加藤の爺様に助けられたんだなと。
少しして尼が帰ってきた。
彼女は、ひとつを抱き起こし、背凭れに座らせ雑煮を口に運んでいった。
(まぁこう言うのも悪くないな・・・)
若く美しい顔の尼を見て、ひとつはいつもの助平心を胸に潜めた。
食事を終えると、彼の体に精気が満ちたようだった。
薄い味の茶を啜ると、ようやく声を出すことが出来た。
「失礼だが、ここはどちらで、私達は何故ここに居るのだ」
「ここは不識院様の尼寺ですよ。貴方はとても酷い傷を負い、れい殿と加藤殿に担がれてここに来ました」
成る程、約束の場所とは違うが、安全と思われる場所だ。
ひとつが一人で納得すると
「そうだ、もし体が少しは動くようでありましたら露天の湯に浸かっては如何ですか。傷を負った動物も体を癒す為に良く湯に浸かりに来ますので傷の直りがよくなると思いますよ」
「それは助かる。体は臭いし、冷えた体を温めたい。手を掛けてすまぬが肩を貸してくれぬか」
ひとつは尼の手を借り、立ち上がり露天の湯へと向かった。
今朝は雪も降っておらず、風も無く、非常にいい天気だ。
ひとつは、歩くたびに来る痛みを我慢しながらひょこひょこと風呂へと向かう。
風呂場に着くと、尼は手拭いを差し出し
「新しい着替えもお持ちしますので、服はそのまま置いて置いてください」
そう言うと顔を赤めながら脱衣所から出て行った。
「中々どうして、初々しいものだ」
体の包帯は血で固まっており剥がす際に痛みを伴なったが、彼はそれを気にせずバリバリと剥がしていく。
包帯を剥がし終えたときには、洗面所には乾いた血の塊が床に散乱し、瘡蓋を剥がしたところから出る血で大惨事となっていた。
(面目ないものだ)
ひとつは、頭をかき、壁に手を当て、慎重に湯船まで歩いていった。
湯に体を沈めると、傷口に浸みて顔をしかめたが、すぐに温かい湯の心地よさに恍惚の笑みを浮かべた。
体の心まで力が込み上げ、
(このまま一日中ここに入っておれば、傷の治りもすぐだろう)
傷だらけの体を軽くさすり、足を伸ばした。
「相変らず頑丈な体で結構なものじゃな」
何処からとも無く、風呂場に声がする。
「爺様か、男の風呂を覗くとは大した趣味じゃないか」
笑いながら答えると、岩陰よりゆっくりと加藤が現れた
「ワシが先に入っていたのじゃぞ、覗くとは言ってくれるじゃないか」
「気配まで消さぬとも良いじゃないか、それとも他の尼の入浴姿を間近で見るつもりだったか」
ひとつは、クククっと笑って見せた。
「九十を過ぎてもワシの一物は元気でな。尼と風呂に入れるとなれば格別じゃないか」
「とんだ爺様じゃな」
「よく言うわ、貴様の趣味もどうかと思うぞ。少女趣味とはなぁ、女は熟れた三十ぐらいが一番丁度ええのじゃ」
ひとつは、苦笑い
「れいは美しいじゃろ、花の香りもしてしかも乙女となれば誰でも欲しくなるわ」
「あの娘の乳房を見たか。まるでまな板じゃぞ、股間に毛も生えておらぬ。孫娘のようなものじゃが、アレはいかんぞ」
「いやいや、それが良いのだろう。まるで天女ではないか」
このような会話を聞いたら、れいはどう思ったものか。
知らぬは本人ばかり。
このような話を続けた中で、加藤は話を切り出す。
「ワシは二日ほどここを離れる。奥羽の忍仲間から話を聞きにいくでな」
「何の話を聞きにいく」
「不識院様からの命でな。お前らの探してる薬学士の居場所がわかったようじゃ。それまでに体をしっかり直せ」
「・・・そうか」
「何かあるのか、それともこの旅を辞めにするか」
何かを見透かすかのように、鋭い眼光を投げかける。
「爺様は覚りの術まで使えるのか、しかし心を読むのは止せ」
「残念じゃがワシも、そこまでは達せれなんだったが、今のお前の考えは何となくわかるぞ。あの屋敷の中に捕まっていた間に何か聞いたな」
ひとつは固まり、頭を?く仕草をする。
「ああ、疑問が出来た。あいつは俺に嘘を付いているのかも知れん」
ひとつの目をじっと見、少しの沈黙の後、加藤が口を開く。
「今夜、不識院様と小夜・・・否、れいが話し合う事がある。そこにおまえも出て事の始まりをしっかり聞くといい」
ひとつは、少し考えた後
「爺様は全て知っているのか」
「・・・いや、全てではないが、大まかにはな。・・・だがな、悪平よ、良く聞け。あの子は悪い子ではない。忍にするには純粋すぎる。そしてあの子にはお前が必要だ。それは別に任務の内で必要だからと言う物ではないのだ、その証拠に、あの屋敷に一人ででも助けに行く覚悟があった。只の捨て駒とは思っておらんよ。だからなぁ、信じてやってくれぬか」
ひとつは、ニコリと笑い
「そうじゃな、奴は冷血なクノイチには成り切れて居ない。未熟だが、それが俺の心に心地よいのかも知れん。すべて話を聞いてから俺の道を選ぶとしよう」
日が傾き夕暮れとなった。
ひとつは、その日、一日中を風呂の中で過ごした。
尼達から見ればかなり迷惑だったようだが、夕日を浴びて風呂から立ち上がる時には、すでに一人で歩く事が可能になっていた。
加藤段蔵は夕餉の後、旅商人に変装し陸奥へ向かって行った。
それを風呂場で眺めながら、ひとつは、服を着替え、風呂場を後にする。
旅商人姿の加藤が山の麓をから出た所を茶屋の二階の窓より眺めていた男が居た。
この茶屋は伊賀忍者の隠れ宿である。
つまりこの男、彦である。
「ようやく好機が来たようだ。戦に不慣れな女と、戦えぬ体の風魔忍、それに坊主と尼だけなど、俺一人でも十分過ぎる。今夜中に全てのカタを付けて柊様に報告をせねばな」
日は沈み、月が昇り始めた。
今日の暖かな日差しのなかで、だいぶ雪は溶けてしまったようである。
風も無く、静かな夜が訪れた。
あれから二日間の間は非常に静かだった。
体中を痛々しく包帯で巻きつけた男が尼寺に担ぎこまれた時、多くの尼は彼の体を介抱することに力を注いだ。
中には、”下の禅寺に置いておくのがいい”と男を拒絶する尼もいたが、彼の体を見て考えを治して言った。
その男、ひとつは、そのまま気を失ったまま、倒れるように布団に身を沈めると一日中目を覚ますことなく、次に目が覚めた時は二日目の深夜であった。
彼の傍には、付きっ切りで看病したと思われる少女れいが眠っており、ひとつはその美しい唇に目を奪われた。
(なんとも、体の自由が無いのであればしょうがない)
自分に言い訳をして、再び目を閉じた。
行灯の火はユラユラと揺れ動き、そして消えた。
彼が目を覚ました時、室内に篭るいい匂いが鼻に届いていた。
れいはまだ目を覚ましていない。
この匂いの元は、看病を行う当番の尼が食していた雑煮の匂いだった。
昆布を出汁に、醤油で味をつけ、餅が一つと中に大根の薄切りが入ったものだ。
体を動かそうにも、全身が焼け付くように熱く、鋼のような肉体は起き上がる事も困難な程に傷ついていた。
「ううう・・・」
声も出ない為にまるで呻き声のような言葉を発した、付きの尼は彼に気付き
「大丈夫ですか、まだ体の傷が塞がっていないので無理はしない様にして下さい」
彼女は、ひとつの目線の雑煮に気付き
「おなかが減ったのでしょう。直ぐに同じものを用意いたします」
そう言って部屋から出て行った。
(ああ・・・そうか)
彼はようやく状況を理解した。
自分は拷問を受けて死に掛けた所を、れいと加藤の爺様に助けられたんだなと。
少しして尼が帰ってきた。
彼女は、ひとつを抱き起こし、背凭れに座らせ雑煮を口に運んでいった。
(まぁこう言うのも悪くないな・・・)
若く美しい顔の尼を見て、ひとつはいつもの助平心を胸に潜めた。
食事を終えると、彼の体に精気が満ちたようだった。
薄い味の茶を啜ると、ようやく声を出すことが出来た。
「失礼だが、ここはどちらで、私達は何故ここに居るのだ」
「ここは不識院様の尼寺ですよ。貴方はとても酷い傷を負い、れい殿と加藤殿に担がれてここに来ました」
成る程、約束の場所とは違うが、安全と思われる場所だ。
ひとつが一人で納得すると
「そうだ、もし体が少しは動くようでありましたら露天の湯に浸かっては如何ですか。傷を負った動物も体を癒す為に良く湯に浸かりに来ますので傷の直りがよくなると思いますよ」
「それは助かる。体は臭いし、冷えた体を温めたい。手を掛けてすまぬが肩を貸してくれぬか」
ひとつは尼の手を借り、立ち上がり露天の湯へと向かった。
今朝は雪も降っておらず、風も無く、非常にいい天気だ。
ひとつは、歩くたびに来る痛みを我慢しながらひょこひょこと風呂へと向かう。
風呂場に着くと、尼は手拭いを差し出し
「新しい着替えもお持ちしますので、服はそのまま置いて置いてください」
そう言うと顔を赤めながら脱衣所から出て行った。
「中々どうして、初々しいものだ」
体の包帯は血で固まっており剥がす際に痛みを伴なったが、彼はそれを気にせずバリバリと剥がしていく。
包帯を剥がし終えたときには、洗面所には乾いた血の塊が床に散乱し、瘡蓋を剥がしたところから出る血で大惨事となっていた。
(面目ないものだ)
ひとつは、頭をかき、壁に手を当て、慎重に湯船まで歩いていった。
湯に体を沈めると、傷口に浸みて顔をしかめたが、すぐに温かい湯の心地よさに恍惚の笑みを浮かべた。
体の心まで力が込み上げ、
(このまま一日中ここに入っておれば、傷の治りもすぐだろう)
傷だらけの体を軽くさすり、足を伸ばした。
「相変らず頑丈な体で結構なものじゃな」
何処からとも無く、風呂場に声がする。
「爺様か、男の風呂を覗くとは大した趣味じゃないか」
笑いながら答えると、岩陰よりゆっくりと加藤が現れた
「ワシが先に入っていたのじゃぞ、覗くとは言ってくれるじゃないか」
「気配まで消さぬとも良いじゃないか、それとも他の尼の入浴姿を間近で見るつもりだったか」
ひとつは、クククっと笑って見せた。
「九十を過ぎてもワシの一物は元気でな。尼と風呂に入れるとなれば格別じゃないか」
「とんだ爺様じゃな」
「よく言うわ、貴様の趣味もどうかと思うぞ。少女趣味とはなぁ、女は熟れた三十ぐらいが一番丁度ええのじゃ」
ひとつは、苦笑い
「れいは美しいじゃろ、花の香りもしてしかも乙女となれば誰でも欲しくなるわ」
「あの娘の乳房を見たか。まるでまな板じゃぞ、股間に毛も生えておらぬ。孫娘のようなものじゃが、アレはいかんぞ」
「いやいや、それが良いのだろう。まるで天女ではないか」
このような会話を聞いたら、れいはどう思ったものか。
知らぬは本人ばかり。
このような話を続けた中で、加藤は話を切り出す。
「ワシは二日ほどここを離れる。奥羽の忍仲間から話を聞きにいくでな」
「何の話を聞きにいく」
「不識院様からの命でな。お前らの探してる薬学士の居場所がわかったようじゃ。それまでに体をしっかり直せ」
「・・・そうか」
「何かあるのか、それともこの旅を辞めにするか」
何かを見透かすかのように、鋭い眼光を投げかける。
「爺様は覚りの術まで使えるのか、しかし心を読むのは止せ」
「残念じゃがワシも、そこまでは達せれなんだったが、今のお前の考えは何となくわかるぞ。あの屋敷の中に捕まっていた間に何か聞いたな」
ひとつは固まり、頭を?く仕草をする。
「ああ、疑問が出来た。あいつは俺に嘘を付いているのかも知れん」
ひとつの目をじっと見、少しの沈黙の後、加藤が口を開く。
「今夜、不識院様と小夜・・・否、れいが話し合う事がある。そこにおまえも出て事の始まりをしっかり聞くといい」
ひとつは、少し考えた後
「爺様は全て知っているのか」
「・・・いや、全てではないが、大まかにはな。・・・だがな、悪平よ、良く聞け。あの子は悪い子ではない。忍にするには純粋すぎる。そしてあの子にはお前が必要だ。それは別に任務の内で必要だからと言う物ではないのだ、その証拠に、あの屋敷に一人ででも助けに行く覚悟があった。只の捨て駒とは思っておらんよ。だからなぁ、信じてやってくれぬか」
ひとつは、ニコリと笑い
「そうじゃな、奴は冷血なクノイチには成り切れて居ない。未熟だが、それが俺の心に心地よいのかも知れん。すべて話を聞いてから俺の道を選ぶとしよう」
日が傾き夕暮れとなった。
ひとつは、その日、一日中を風呂の中で過ごした。
尼達から見ればかなり迷惑だったようだが、夕日を浴びて風呂から立ち上がる時には、すでに一人で歩く事が可能になっていた。
加藤段蔵は夕餉の後、旅商人に変装し陸奥へ向かって行った。
それを風呂場で眺めながら、ひとつは、服を着替え、風呂場を後にする。
旅商人姿の加藤が山の麓をから出た所を茶屋の二階の窓より眺めていた男が居た。
この茶屋は伊賀忍者の隠れ宿である。
つまりこの男、彦である。
「ようやく好機が来たようだ。戦に不慣れな女と、戦えぬ体の風魔忍、それに坊主と尼だけなど、俺一人でも十分過ぎる。今夜中に全てのカタを付けて柊様に報告をせねばな」
日は沈み、月が昇り始めた。
今日の暖かな日差しのなかで、だいぶ雪は溶けてしまったようである。
風も無く、静かな夜が訪れた。
二、秋の頃の話と、氷の畳の上で
相も変わらず、底冷えは酷かった。
北国と言うのもあるのだろうか、風こそ無い物の、厠へ行く際に二三枚着込まねば、外に出るのも億劫な程寒かった。
この時代、夕餉を済ませれば、もうやる事は無い。
街中であれば遊郭の灯もあろうが、寺では最小限に留めていた。
何より油は高価で、夜更かしは贅沢でもあったのだ。
古い話では、夏場は蛍の光で夜の勉強に励んだ。
と言う話もある。
今夜は風は無いが月も無い。
暗い山の中
寺の中では一室のみ、ひっそりと明かりが付いていた。
れいは、不識院の部屋の襖を開ける。
「御呼びにより参上致しました」
そこには、珍しく厚着をしている男、ひとつと、不識院が、行燈二つの中に神妙な顔つきで待っていた。
多少驚いたものの、顔に出す事無く彼女は前に進み出た。
「体の具合は如何です」
不識院は、ひとつに顔を向け話しかけた。
ひとつは、胸を肌蹴て見せ
「傷はだいぶ塞がった、お礼を申し上げる」
彼の体はまだ全身包帯で巻かれていて、杖が無くてはまだ歩けぬが、それでも想像以上の回復力を彼女に見せた。
当初の傷の具合から見て、
(もはや忍働きはおろか、まともに生きるのも困難であろう)
と囁かれたが、そんな話なんのその、彼は持前の耐久力と回復力で、無理をせねば一人で行動が出来るまでになった。
不識院はニコリと笑い
「それはよかった。普段の素行が良いからでしょう」
と冗談を言い、彼をからかった。
そして顔を、れいの方に向けると
「まず、朗報からお伝えしましょう。貴方の目的は存じています、鶴松殿下の為の薬を得る為に北へ上ってきたのでしょう」
れいは、こくりとうなずく。
「何故、私たちが知っているか不思議ですか。当然これは密命の為に余所に知られてはいけない物ですからね」
不識院は一息つくと、詳細を語った
「実は、大阪に居た兼続より危険な話を聞きました。ある淀の方の小侍従の一人が鶴松殿下に毒を盛ったと。其の者はどこの乱破か分らないが、現在北へ逃亡している」
れいの顔に変化は無い。
「其の者は加藤家推薦で入ったのだが、加藤家はすでにその小侍従の首を太閤様に捧げているとか」
室内の空気が変わる。
湿った生暖かい空気、例えるならば大蛇が周りを包んでいるように…
いや…それとも龍か
「辻褄が合わない事が起きている。そして太閤様は加藤主計頭をすでに許されている。つまり太閤様は、噂で無く加藤主計頭を信用した」
「此処からが飛び加藤が得た情報だ。その乱破は北へ解毒の薬を取りに行っていると言う。…そしてその者は私の目の前にいると言う訳だ」
視線がれいに集中する。
「貴方が当事者である事は、既に飛び加藤が調査済みじゃ。そして、ここからが重要な話。私は別段お前をどうこうするつもりは無い。ただ、これは天下の一大事、我等は知らねばならぬ、何を狙い何の為にこのような事が起こったのか。当事者であるお前の口から聞かせてくれ。隣に居るお前の仲間もそれを知りたがっている」
ひとつは、口を出さなかった。
この場で口を挟むつもりも無かった。
彼女の小柄な体は緊張しているように見受けられた。
だが、その眼は決して引いては居なかった。
不識院は、そう言う眼をよく知っていた。
「分りました、全てお話し致します。但し、これはあくまで取引。話し終えたら、その薬学者の居場所を教えて下さい」
「御約束致しましょう」
そして、れいは事の始まりを詳細に話した。
その年の夏は涼しく過ごし易かったが、その反面、稲の成長は悪く、今年は凶作が見込まれると多くの大名が悩んでいた。
大阪城では太閤殿下と多くの武将がこの泰平の世をどのように導いて行くべきか討論を行っていた。
既に刀狩りと検地を実施しているが、それによって生まれた不満もある。
柳生庄の検地を行った際には、地元の豪族、柳生家の不満が爆発しそうでもあった。
そんな中、鶴松は夏風邪をこじらせここ半月寝込んでいた。
「これ、小夜。ちょっとここまで来なさい」
老女の一人と思われる中年の女性より呼び止められた。
(困ったなあ、この方の名前忘れてしまってるわ)
確かに多くの奥女中がいる大阪城内ではあるが、れいは当然ながら殆んどの人の顔と名前は覚えていた。
しかし、いま目の前にいる女性の名前は忘れてしまっている、しかも向こうは小侍従である自分の名前まで覚えている。
気まずいと思いながらも、笑って彼女の元まで近寄った。
「前田玄以様より南蛮渡来の薬が届いておる。これを若様に差し上げておあげ」
彼女は、れいの持つ盆の上に紙に包まれた薬丸を置いた。
「これを朝晩に一つずつ白湯と一緒に飲めば具合はすぐに良くなるでしょう」
そう言って彼女は去って行った。
今思えば、非常に怪しい女性であったし、迂闊にもその薬を鶴松殿下に出すべきではなかった。
しかし、その薬の効果か、次の日、鶴松殿下の咳は止まり具合は良くなっていた。
そのまま数日服用を続けていくと具合はどんどん良くなった。
体調が戻り、元気になって薬を飲まなくなると、またすぐに具合は悪くなった。
夏の間、鶴松殿下は具合が悪くなると薬を飲み、具合が良くなり薬を飲まなくなると体調を崩す。
これを数回繰り返す内に、彼は薬を常に飲み続けて行く事になった。
れいは、あの老女の名を知らない為に薬を誰から貰っていたかを、淀の方や他の女中には曖昧に伝えていた。
その老女とはその後も数回、薬が無くなりかけると出会い、薬を貰い続けた。
老女は自分が良く他の場所に移動する為に、余りこの場所にいないので知らない人も多いと教え、名を”お雪”と名乗った。
れいは、夏の終わりに彼女に会った際、
「薬が無くなるとすぐに具合が悪くなるので若様が薬を手放されずにいますが、このままでは良いと思えませんが…」
「成程、ようわかりました。でしたらこの薬が良いかもしれませんな」
彼女は、小さな竹筒を取り出し。
「これも前田玄以様より頂いた品で、私の私用の薬ですが若様の為にお譲りしましょう」
彼女は、れいに竹筒を渡し、そして去って行った。
れいは、この薬を淀の方に伝え、鶴松殿下に与えていった。
鶴松殿下の具合は、緩やかに悪くなって行き、ついには立ち上れなくなる程の悪化を見せた。
淀の方は怒り狂い、れいを尋問した。
れいは、お雪の名を告げたが、大阪城にその名の女中は存在しなかった。
そして前田玄以の名も伝えたが、前田玄以は怒り狂い
「何故ワシの名が出てくるのだ」
と激怒した。
そこで彼女はようやく、この一件が何者かの罠で、自分と、さらに繋がりのある者を陥れる為の罠と分かった。
いち早く動き出したのは真田昌幸であった。
彼はすぐに加藤主計頭を訪問し、れいの無実を訴え、秘密裏に太閤殿下との謁見を望んだ。
その時れいは、大阪城の地下牢に入れられていた。
数日後の夜、れいは加藤家の屋敷に連れて来られた。
目隠しを外されたその時、目の前には
真田昌幸、加藤清正、石田三成、そして太閤秀吉が御忍びで訪れていた。
「その方が小夜か」
煌びやかな衣装が、行燈の光で余計に眩しく見えた。
「ふむぅ、このような美しい娘が居たとは、この秀吉の眼も悪くなったものだ」
気味の悪い笑い声を上げ扇子を仰いだ。
「太閤様、この屋敷は忍が侵入する事も、内部にどこぞの国の内通者がいると言うような事はありません、安心して下さい」
加藤清正は、太閤に向かい平伏した。
「清正よ、三成と真田の親父殿の口添えが無ければ、いかにそちであろうと此処を飛ばさねばならぬ所だぞ」
太閤は、首の所をポンポンと扇子で叩いて見せた。
それを見て、れいも、加藤清正も脂汗がどっと流れ始めた。
いかにひょうきんな人柄を持つと言え、人を指先で殺せる力を身を持って知っているだけに彼らは、蛇に睨まれた蛙のような気持であった。
過去に同じ言葉を死装束で現われた伊達政宗にも言ったが、その伊達政宗もその際は身動きが出来なかったらしい。
「いやいや、太閤殿下。小夜を加藤殿に推薦したのはワシですのでワシも同罪ですじゃ」
真田昌幸は救舟を出す。
「太閤様、この件では、この少女は被害者でもあると思われます。彼女の言い分では、何やら見知らぬ老女から薬を受け取っていたらしいではないですか」
石田三成は話を進める。
「また、この話にありました薬と症状を確認した所、この国の毒では無いと城中医師が言っておりました」
「と、なると…南蛮物か」
「仰せの通りでございます。そして我々が思いますに、これは国家の一大事でございます。何故なら、この件を小夜の処罰だけで済ますべきでは無いと思います」
「失礼ながら、ワシもそう思います。おそらく内府の手の者かと」
真田昌幸も話に入りだす。
「いやいや、そちが徳川嫌いなのは分かるが何もかも内府の為とは考えるべきでは無いだろう」
「恐れながら、私も内府殿ではないかと」
加藤清正が話を切り出した。
「重要な事は、太閤殿下様を直接狙われない部分です。あの御方は表と裏がありすぎる。このような遠回しな手を使うのは、あの御方としか思えません」
「鶴松が死ぬ事で天下が動くものか」
太閤は立ち上がり声を荒げた。
「失礼ながら、もし太閤様が何らかの事故で亡くなられた場合は如何でしょう」
真田昌幸が話に入り込む。
「後継者がおらぬ以上、崩壊は必至ですぞ。ましては今後、後継者が生まれる可能性はどうなのでしょうか。太閤様の血を引かぬ者が後を継がれた場合、天下の指導者として行けますでしょうか」
真田昌幸の眼光は鋭い、天才軍略家である、その人の眼だ。
もし逆の立場なら”やる”そう言う話をしていた。
「その後、私の処分は決まりました。任務は二つ、”この件を裏で操った者を探し出す”、もう一つは”鶴松様を救う術を探し出す事」
れいは静かに言葉を終えた。
静まった部屋の中、どこからか氷の割れる音が聞こえた。
「なるほど、おおかた理解出来た」
ひとつが、今夜初めて口を開いた。
「じゃが、なぜ俺に嘘の話をついた」
「それは、口裏合わせの為だ。何らかの場合は自分が追われていると言うより、特別な任務があると伝えた方が良いとの指示だった」
れいは、うつむいて、すまなそうに頭を下げた。
「では、加藤主計頭が差し出したと言う首の件についてはどうじゃ」
不識院が質問した。
「詳しくは知りません。私が知るのは今話した事のみです。私は毒を運んだ小侍従でなく別の小侍従をしていたと言う話になっています」
不識院は頷いた。
少し沈黙が流れる、そしてれいが再び口を開こうとした瞬間
ヒュッ
と言う音と共に、目の前の行灯が消えた。
世界は真っ暗となる。
”ガジィッ”
激しいく刀と刀がぶつかる音がした。
二人の忍びは咄嗟に後ろに飛び去り距離を取る、音は不識院の傍より聞こえた。
「なんと、俺の刀を止めるとは…貴様ただの尼では無いな」
どこと無く不気味な声がする。
サッっと返しの刀が空を切る音がした。
「貴様何者だ」
不識院は立ち上がり、虚空に向かって吠える
「なるほど良い話を聞いた。これは貴様らの首とそれ以上の報酬が期待できる」
声からして男と思われるその者は部屋の中央に立ち不敵に笑い声をあげた
三、四方八方乱れ撃ち
三度風を切る音がした
その後すぐに激しく鉄がぶつかる音が鳴り響く。
二人の忍は本能で飛び下がった。
目を凝らし暗闇の中で動く影を捕らえる。
れいはひとつを見ると、彼も暗闇に目が慣れたようだ。
素早く手信号で(尼達の護衛)を頼む。今の彼は直接戦うには傷つき過ぎている。
加藤もいない今、戦えるのは不識院とれいのみだ。
しかし、不識院も何者か知らないが、忍との戦いには忍しか対応出来ない。
そう思ったれいは、すぐさま姿勢を正し、仕掛針を侵入者に向かって投げ撃った。
予想外の不識院の反撃に戸惑っていた彦は仕掛針をよけれず右手と右肩に一本ずつ攻撃を受けてしまった。
「うっ、おのれクソアマ共め」
自分で気が付いているのか、彼は激怒の為か声を張り上げていた。
冷静さを失っている彦は、部屋にいたもう一人の忍、ひとつの姿を完全に見失っていた。
ひとつは、彦の手に針が刺さったと見るや、直ぐに音も無く戸を開き闇から闇へと消えていたのだ。
(まずは尼達を起こし、隠してやらねば)
ひとつは、れいからの手信号を受け取りそれを素直に実行するのが最良と判断、床を這うように音も無く廊下を渡っている。
れいと不識院、それに侵入者”彦”が居るのが住職の間であり、ここは客室も二つ用意されている。
ここから南の廊下を歩いてゆけば風呂場に着き、東の廊下を渡ると本堂になる。
本堂から更に東に向かえば、尼達が寝泊りを行う宿舎があり、本堂の裏手に厠がある。
住職の住む屋敷から尼達が寝泊まりしている宿舎はそれなりに距離があるが、この静かな夜に発せられた怒声は尼達を起こすに十分であった。
(どれだけの数が来ているのかしら…)
れいは、不識院を援護しつつ、この寺院内の人の動く気配を探った。
さすがに五人以上で来られると、戦える人数もいない、戦えない尼が人質になる可能性…いや、すでに始末されている可能性もある。
懸命に二つの事を行うが、どうにも集中力が散漫になりどちらも危うくなる。
れいは、気持ちを切り替え、彦を倒す事にだけ集中することにした。
(ひとつ、残りは頼んだ)
無責任ながらも、そうするしかない自分に腹が立った。
しかしどうしようもない、出来る事は、自分が素早くこの男を倒し、他に被害が広がらぬように素早く動ける状態を作る事。
一方、彦は焦りを見せだす。
(こんなはずでは無かったのに…)
自分の技に自信があり、加藤と言う大きなコブを排除したにも拘らず、このようなツワモノが寺院内にいたとは
彦は自分自身を強く叱咤したがもう遅い、このような危険があるのであれば、先に江戸への繋ぎに援軍を頼むべきであった。
一人ではどうしようもないな。
再び不識院の刀と彦の刀が激しい音を響かせる。
彦は刀をれいに向かって投げ捨てるが、彼女はそれを難なくよけた。
「このようなツワモノがいると知っていれば問題なかったのだが、しょうがあるまい、今日は一旦引かせてもらおう」
そう言うと屋根の梁まで跳躍しそのまま屋根を壊し外に出た。
「(何と言うことだ、柊様に申し訳が立たぬ)」
針が刺さった右腕から仕掛針を引き抜き、彼は走りだす。
しかしその時、背中に大きな衝撃と痛みが走った。
痛みに足を滑らせ転倒し、危うく屋根から落ちる所であった。
再び風を切る音を耳にした。
キィィン
彦は手持ちのクナイで飛んで来た鋭利な刃物を弾いた。
目の前には、先ほどの女忍が一人立ち塞がる。
「あんたは、ここで始末する」
冷たい風が、れいの体を取り巻く、しかし寒くは無い。
脂汗が出てきた、体は小刻みに震える。
何度も忍同士の戦いは行ってきたはずなのに異質な恐怖が体を取り巻く
(何だろう、この感じ…怖いのに…怖いのに嬉しい。…多分、今から何かが生まれるような気がする)
カラカラと腰を振って、竹の入れ物の中に入っている仕掛針の数を確かめる。
(十分入っている…)
彦はゆっくりと振り向き、鬼のような形相で背中に刺さった手裏剣を引き抜いた。
体は少しよろけているが、その顔は殺意に満ちており、手負いの虎を連想させた。
「娘ぇ…お前…死ぬぞ」
男は腰から脇差を抜くと、矢の如く彼女に突進してきた。
例の腰紐が寝巻きごと切り裂かれ半裸になる。
バキバキバキと瓦を削り壊し彦は停止する、しかし振り返ると、またも矢の如く脇差を構えて彼女に突進した。
れいは、切り裂かれた寝巻を手に持ち、彦の突進に合わせて顔に寝巻を被せた。
彦の視界は突然黒くなって見えなくなる、そしてすぐに両足に一本ずつの仕掛針が刺さった。
「ぐぎぎ…」
とうとう堪え切れず声を洩らす。
顔を覆う布を素早く剥ぐが足に刺さった針によって、力無くよろけた彼は屋根から転げ落ち凍った地面に叩きつけられた。
頭を上げて屋根を見る。
そこには、暗闇の中に威風堂々とした姿で自分を見下す女忍者の姿がある。
体も小さければ乳房らしき物がある程度の小娘、大した事ないと見下していた相手が今では恐怖の象徴のように彦の脳裏に映った。
後方に殺気を感じ、本能的に体を転がして避けると、すぐ耳元で激しい音が聞こえた。
見れば先程の尼が刀を振り下ろしていたではないか。
(そうだ、敵はあの女だけでは無いのだ)
返しの刃が彦の左腕をかすめた、肉を削がれたが骨までは達していない。
彼は急に激しい恐怖に包まれる。
れいが感じたようなものとは別の、純粋な生死に関する本能だ。
(逃げろ逃げろ逃げろ)
屋根より飛び、自分を狙いにきた女忍者と迫りくるツワモノの尼
彦は左腕を懐に入れると、手にした玉を地面に叩きつける。
(”これは…煙幕か”)
目に染みいる煙幕の為に彼女達は後ろに飛び下がり懸命に目をこすり回復を急がせる。
煙が消え目が回復した時、時すでに遅し、奴の姿は視界に居らずただ静寂だけが辺りを包んでいた。
(だめ、ここでかならず仕留める)
れいは、屋根まで跳躍し、屋根の上から一里眼で暗い森の中を見回す。
(大丈夫、奴はそんなに遠くに行ってない、逃げるとしたら直ぐ近くの塀を飛び越えて、そこから山を降りるはず)
れいは寒さも忘れ、ひたすらに集中して敵の姿を追う。
簡単に全体を見回した所で、敵が一人で侵入したことを確認、これで安心して追跡が出来る。
次に塀の上を走りながら森の中を細かく見ていく
(いた…)
彦はれいの予想通り、足を痛めている為にじりじりと森の中を下っていた。
彼女は、彦を視界に捉えると、すぐさま塀の上から、二階建ての高さほどから飛び降り彦の元に走り出す。
(音がする…来る)
彦も音と気配で彼女を察知したのか、心を決め、迎撃の準備を行う。
おおよそ、一間の距離でお互い動きが止まる。
寒いはずなのに、お互いの体からは目に見えない蒸気のようなものが溢れていた。
ここからは気を抜いた方が死ぬ。
忍の戦いでは逆転劇は珍しくない、ただ一瞬の気の迷いが即死に繋がる。
れいも、今の彦に対して、先ほどまでのような冷静さを失った殺気を感じず、死を覚悟した冷たい殺意に変わった事を理解している。
少しの間、沈黙が流れた…
その時
突然れいの右前方より火花が散り、その火花を纏ったモノは彼女に向って飛んで来た。
(忍法 火車満月)
丸い輪の周りにリンを塗り発火させ飛ばす忍び道具だ。
れいはそれをよけようと上へと飛ぶ。
そこに今まで前方にいるとばかり思っていた彦が鎌を手に持ち待ち構えていた。
「その首貰ったぁ!」
彦は手に持つ鎌でれいの首をなぎ払った
…はずだった
鎌は何もない空間を薙ぎ払い、彦は目を疑った。
(ばかな、今そこに居たのに…)
シュッシュッ シュッシュッ…
森の中より絶え間なく音がする
シュッシュッ シュッシュッ…
彦はあたりを見回す、これは一体何の音だ。
足元を見ると高速で動いている人影が
「セアッ」
彦は手に持っている鎌をその人影に向かって投げた、…それは影に間違いなく当たったはずだったのだが…
鈍い音と共に、鎌は木の幹に刺さり血も無ければ、当たった気配も無かった。
目を丸くした彦は更に驚くべき物を目にする。
それは視界の中に無数に存在するあの女忍びの姿であった。
「ぶ…分身の術だと…」
思わず声を洩らす彦に、れい”達”はこう言った
「四方八方乱れ撃ちの術、お前はもうどこにも逃げられない」
れい達はそう言うと、一斉に手より仕掛針を彦に向かって投げつけた。
逃げる隙間も無く、その名の通り、前後左右上下、更にその間々からも針が無数にたった一つの標的に向かって投げつけられた。
「ばかな!!」
男は絶叫すると、体にその無数の針を隙間無く受け、今度は自分がヤマアラシのような姿となって地面に叩きつけられた。
体の急所と言う急所のほとんどに針を受け即死であった。
れいは、足を引きずりながらゆっくりと彦の姿を見、死んだのを確認してから力無く膝を地面に落とす
彼女の体はぶるぶると小刻みに震え、そのまま失禁した。
三度風を切る音がした
その後すぐに激しく鉄がぶつかる音が鳴り響く。
二人の忍は本能で飛び下がった。
目を凝らし暗闇の中で動く影を捕らえる。
れいはひとつを見ると、彼も暗闇に目が慣れたようだ。
素早く手信号で(尼達の護衛)を頼む。今の彼は直接戦うには傷つき過ぎている。
加藤もいない今、戦えるのは不識院とれいのみだ。
しかし、不識院も何者か知らないが、忍との戦いには忍しか対応出来ない。
そう思ったれいは、すぐさま姿勢を正し、仕掛針を侵入者に向かって投げ撃った。
予想外の不識院の反撃に戸惑っていた彦は仕掛針をよけれず右手と右肩に一本ずつ攻撃を受けてしまった。
「うっ、おのれクソアマ共め」
自分で気が付いているのか、彼は激怒の為か声を張り上げていた。
冷静さを失っている彦は、部屋にいたもう一人の忍、ひとつの姿を完全に見失っていた。
ひとつは、彦の手に針が刺さったと見るや、直ぐに音も無く戸を開き闇から闇へと消えていたのだ。
(まずは尼達を起こし、隠してやらねば)
ひとつは、れいからの手信号を受け取りそれを素直に実行するのが最良と判断、床を這うように音も無く廊下を渡っている。
れいと不識院、それに侵入者”彦”が居るのが住職の間であり、ここは客室も二つ用意されている。
ここから南の廊下を歩いてゆけば風呂場に着き、東の廊下を渡ると本堂になる。
本堂から更に東に向かえば、尼達が寝泊りを行う宿舎があり、本堂の裏手に厠がある。
住職の住む屋敷から尼達が寝泊まりしている宿舎はそれなりに距離があるが、この静かな夜に発せられた怒声は尼達を起こすに十分であった。
(どれだけの数が来ているのかしら…)
れいは、不識院を援護しつつ、この寺院内の人の動く気配を探った。
さすがに五人以上で来られると、戦える人数もいない、戦えない尼が人質になる可能性…いや、すでに始末されている可能性もある。
懸命に二つの事を行うが、どうにも集中力が散漫になりどちらも危うくなる。
れいは、気持ちを切り替え、彦を倒す事にだけ集中することにした。
(ひとつ、残りは頼んだ)
無責任ながらも、そうするしかない自分に腹が立った。
しかしどうしようもない、出来る事は、自分が素早くこの男を倒し、他に被害が広がらぬように素早く動ける状態を作る事。
一方、彦は焦りを見せだす。
(こんなはずでは無かったのに…)
自分の技に自信があり、加藤と言う大きなコブを排除したにも拘らず、このようなツワモノが寺院内にいたとは
彦は自分自身を強く叱咤したがもう遅い、このような危険があるのであれば、先に江戸への繋ぎに援軍を頼むべきであった。
一人ではどうしようもないな。
再び不識院の刀と彦の刀が激しい音を響かせる。
彦は刀をれいに向かって投げ捨てるが、彼女はそれを難なくよけた。
「このようなツワモノがいると知っていれば問題なかったのだが、しょうがあるまい、今日は一旦引かせてもらおう」
そう言うと屋根の梁まで跳躍しそのまま屋根を壊し外に出た。
「(何と言うことだ、柊様に申し訳が立たぬ)」
針が刺さった右腕から仕掛針を引き抜き、彼は走りだす。
しかしその時、背中に大きな衝撃と痛みが走った。
痛みに足を滑らせ転倒し、危うく屋根から落ちる所であった。
再び風を切る音を耳にした。
キィィン
彦は手持ちのクナイで飛んで来た鋭利な刃物を弾いた。
目の前には、先ほどの女忍が一人立ち塞がる。
「あんたは、ここで始末する」
冷たい風が、れいの体を取り巻く、しかし寒くは無い。
脂汗が出てきた、体は小刻みに震える。
何度も忍同士の戦いは行ってきたはずなのに異質な恐怖が体を取り巻く
(何だろう、この感じ…怖いのに…怖いのに嬉しい。…多分、今から何かが生まれるような気がする)
カラカラと腰を振って、竹の入れ物の中に入っている仕掛針の数を確かめる。
(十分入っている…)
彦はゆっくりと振り向き、鬼のような形相で背中に刺さった手裏剣を引き抜いた。
体は少しよろけているが、その顔は殺意に満ちており、手負いの虎を連想させた。
「娘ぇ…お前…死ぬぞ」
男は腰から脇差を抜くと、矢の如く彼女に突進してきた。
例の腰紐が寝巻きごと切り裂かれ半裸になる。
バキバキバキと瓦を削り壊し彦は停止する、しかし振り返ると、またも矢の如く脇差を構えて彼女に突進した。
れいは、切り裂かれた寝巻を手に持ち、彦の突進に合わせて顔に寝巻を被せた。
彦の視界は突然黒くなって見えなくなる、そしてすぐに両足に一本ずつの仕掛針が刺さった。
「ぐぎぎ…」
とうとう堪え切れず声を洩らす。
顔を覆う布を素早く剥ぐが足に刺さった針によって、力無くよろけた彼は屋根から転げ落ち凍った地面に叩きつけられた。
頭を上げて屋根を見る。
そこには、暗闇の中に威風堂々とした姿で自分を見下す女忍者の姿がある。
体も小さければ乳房らしき物がある程度の小娘、大した事ないと見下していた相手が今では恐怖の象徴のように彦の脳裏に映った。
後方に殺気を感じ、本能的に体を転がして避けると、すぐ耳元で激しい音が聞こえた。
見れば先程の尼が刀を振り下ろしていたではないか。
(そうだ、敵はあの女だけでは無いのだ)
返しの刃が彦の左腕をかすめた、肉を削がれたが骨までは達していない。
彼は急に激しい恐怖に包まれる。
れいが感じたようなものとは別の、純粋な生死に関する本能だ。
(逃げろ逃げろ逃げろ)
屋根より飛び、自分を狙いにきた女忍者と迫りくるツワモノの尼
彦は左腕を懐に入れると、手にした玉を地面に叩きつける。
(”これは…煙幕か”)
目に染みいる煙幕の為に彼女達は後ろに飛び下がり懸命に目をこすり回復を急がせる。
煙が消え目が回復した時、時すでに遅し、奴の姿は視界に居らずただ静寂だけが辺りを包んでいた。
(だめ、ここでかならず仕留める)
れいは、屋根まで跳躍し、屋根の上から一里眼で暗い森の中を見回す。
(大丈夫、奴はそんなに遠くに行ってない、逃げるとしたら直ぐ近くの塀を飛び越えて、そこから山を降りるはず)
れいは寒さも忘れ、ひたすらに集中して敵の姿を追う。
簡単に全体を見回した所で、敵が一人で侵入したことを確認、これで安心して追跡が出来る。
次に塀の上を走りながら森の中を細かく見ていく
(いた…)
彦はれいの予想通り、足を痛めている為にじりじりと森の中を下っていた。
彼女は、彦を視界に捉えると、すぐさま塀の上から、二階建ての高さほどから飛び降り彦の元に走り出す。
(音がする…来る)
彦も音と気配で彼女を察知したのか、心を決め、迎撃の準備を行う。
おおよそ、一間の距離でお互い動きが止まる。
寒いはずなのに、お互いの体からは目に見えない蒸気のようなものが溢れていた。
ここからは気を抜いた方が死ぬ。
忍の戦いでは逆転劇は珍しくない、ただ一瞬の気の迷いが即死に繋がる。
れいも、今の彦に対して、先ほどまでのような冷静さを失った殺気を感じず、死を覚悟した冷たい殺意に変わった事を理解している。
少しの間、沈黙が流れた…
その時
突然れいの右前方より火花が散り、その火花を纏ったモノは彼女に向って飛んで来た。
(忍法 火車満月)
丸い輪の周りにリンを塗り発火させ飛ばす忍び道具だ。
れいはそれをよけようと上へと飛ぶ。
そこに今まで前方にいるとばかり思っていた彦が鎌を手に持ち待ち構えていた。
「その首貰ったぁ!」
彦は手に持つ鎌でれいの首をなぎ払った
…はずだった
鎌は何もない空間を薙ぎ払い、彦は目を疑った。
(ばかな、今そこに居たのに…)
シュッシュッ シュッシュッ…
森の中より絶え間なく音がする
シュッシュッ シュッシュッ…
彦はあたりを見回す、これは一体何の音だ。
足元を見ると高速で動いている人影が
「セアッ」
彦は手に持っている鎌をその人影に向かって投げた、…それは影に間違いなく当たったはずだったのだが…
鈍い音と共に、鎌は木の幹に刺さり血も無ければ、当たった気配も無かった。
目を丸くした彦は更に驚くべき物を目にする。
それは視界の中に無数に存在するあの女忍びの姿であった。
「ぶ…分身の術だと…」
思わず声を洩らす彦に、れい”達”はこう言った
「四方八方乱れ撃ちの術、お前はもうどこにも逃げられない」
れい達はそう言うと、一斉に手より仕掛針を彦に向かって投げつけた。
逃げる隙間も無く、その名の通り、前後左右上下、更にその間々からも針が無数にたった一つの標的に向かって投げつけられた。
「ばかな!!」
男は絶叫すると、体にその無数の針を隙間無く受け、今度は自分がヤマアラシのような姿となって地面に叩きつけられた。
体の急所と言う急所のほとんどに針を受け即死であった。
れいは、足を引きずりながらゆっくりと彦の姿を見、死んだのを確認してから力無く膝を地面に落とす
彼女の体はぶるぶると小刻みに震え、そのまま失禁した。
四、二つの酒瓶
彼女は風呂の中で目を覚ました。
付添の尼が二人ほどいて、彼女の下着は洗って干してあった。
珍しく夜中にも明りが灯った行燈
彼女の体はふやけてしまっていて、指を眺めると深いシワの様に不規則な模様が目に見えた。
そんな中でも、彼女は寝起きが悪く、自分の状況はすぐには理解出来ない。
「あ、目が覚められましたか」
尼の一人が彼女に気が付き、言葉を投げかけた。
体を起こし、湯を両手ですくって顔を洗う。
体の芯から温まっていて、とても気持ちが良いが少し朦朧としている。
「少しのぼせられたのかもしれませんね、新しい寝巻を用意してますのでおあがり下さい」
尼の白い腕につかまり、彼女は体を起こそうとするが力は入らない。
倒れそうな処を、尼は抱き止め二人とも再び湯の中に落ちた。
尼は年若く、美しい白い肌と豊満な乳房で、この小柄な少女を抱きしめ、再び立ち上がった。
「ごめんなさい」
少女はすまなそうに尼に呟く、尼は笑って
「そう申される必要はありませんよ、あなた方のおかげで私達は無傷ですから」
少女は心の中で”違う”と叫んだ。
この騒動を起こしたのは自分達なのだ。
少女、いや、れいは、ぼーっとする頭の中で繰り返し”ごめんなさい”と叫び風呂を後にする。
住職の間に新しい寝巻で訪れた少女
彼女は少しふらつき、ひとつに抱かれて隣の客室の布団へ運ばれた。
れいを寝かしつけて帰って来たひとつは、住職である不識院に
「すまないなぁ、今日はここまでで良いかな」
と話しかけた。
「仕方ないだろう、ひとまず危険は去ったから明日にでも話すとする。ひとつ殿も早く寝られて体を治されよ」
「そうだな、そうするか。れいの具合も気になるし、ワシもそろそろ寝るわ」
ひとつは、そろりと立ち上がり隣の客間に向かう
「ひとつ殿、尼寺の中での不肖な行為は許しませんよ。ましてや夜這いなど」
ひとつは振り向き、目を細める。どうにも、彼の顔は顔は苦笑いで余裕が無い。
「北国の民は皆、覚りの術が使えるのかの。恐ろしい事だ」
ひとつは笑って部屋を出た。
襖を閉め、何事も無いように、れいと同じ布団にもぐりこむ
(いやいや、女の匂いは一番の良薬だて)
れいを後ろから抱き締めると、彼女の本能的な部分が動いたのか、肘でひとつの脇を強打した。
言葉も無く悶絶するひとつは、のそのそと自分の布団へ帰って少し泣いた。
ひとつの目が覚めた時、もう昼を過ぎていた。
(うむ、これはいかんな)
体の具合が悪いとは言え自分の中の緩みが生じている。
彼は部屋の中を見回す。
もう、れいはどこぞへ行ったのかのう。
立ち上がり周りを見回す、どうにも不安な感じがする。
再びあぐらをかいて座ると天井裏より声が聞こえてきた
「よう、悪平。お目覚めかな」
「爺様かぁ、早い帰りだな」
「お前さんが起きる三刻前には着いておったよ」
加藤は天井裏より飛び降りひとつに酒を差し出した。
「朝から酒か、まったく恐ろしい爺様だな」
「バカを申すな、夜がわしらの仕事の時間じゃ。昼の内に酒を浴びねばやってられんじゃろう」
ひとつは、加藤より酒瓶を貰うと喉を立てて飲み干した。
「阿呆。ワシの分まで飲みおって」
「寝起きは喉が渇いておるんじゃ。しょうがない事よ」
笑って瓶だけを加藤に返す。
「瓶だけ返すやつがあるか、この糞漏らしが」
「悪い悪い、じゃが爺様は何の為にワシの寝床に潜んで居ったのよ。しかも屋根裏によ」
酒瓶を懐に収め、ひとつは加藤に問いかける。
「ちょっと困った事になってな。お前にだけ先に話しておきたかったのじゃ」
そう言うと、加藤は顔をしかめ、気の無い頭をかいた。
「れいの事か」
ひとつは、まるで全てを理解したかの如く、加藤を見た。
「今朝方、日が明け始めた頃に帰って来たのだが、丁度門の所に小夜がおった。おそらく千里眼でワシが帰るのを調べておったのだろう。あの娘、既に旅支度を整えておってな、ワシに会うなり”薬学士の場所を教えて欲しい”と言ってきおった。お前たちには内緒で出るつもりらしかったが、その時は…なんだ不思議な気持ちになってな。止める処か地図まで渡してしまったよ」
ひとつは目を見開き加藤を見つめる
「つまりワシは置いて行かれたと」
「ふむぅ、何故にか分からんがな。何か切迫したものを感じたよ」
ひとつは小さな声で唸ると、畳の節目を見つめた。
「変な考えはせんでもええじゃろう。もしお前を切り捨てたと考えているのなら、初めから助けにもゆかぬし、昨日の夜、お前さん方に事実を打ち上げる必要も無いだろう」
「それゆえに、と言う事も考えられぬか」
加藤は笑って首を振り
「まぁ、お前さんが思うがままで良いと思うが、ワシが思うにこれ以上誰かを巻き込むのが嫌だったんじゃないかの」
「あの娘にとって、この任務が初仕事じゃ。話では聞いていたが忍働きの壮絶さを知って一人でそれを行おうとしてると思うぞ」
「バカを言え、あのような未熟者が一人でこれからやれるものか」
「しかし、あの彦とか言う手練を殺したぞ」
ひとつは、畳にコブシを叩きつけ
「爺様はあの娘が死んでもええのか、初の忍働きならば特にそうであろう、この危険な仕事を一人で最後までやるのは天地がひっくりかえっても無理と言う物。ワシは一人でも奴を助けに行くぞ」
ガンとした態度で加藤を睨むひとつ。
室内に冷たい空気と、静寂が訪れる中、加藤は笑って
「主はあの娘に惚れこんでおるようじゃな」
加藤は、小声で彼に向って言い放つ
「ぬっ」
ひとつは、声にならず、前に出していた体を後ろに下げた
「照れるような年かよ、処女を奪うつもりで付き添っておった男が今では心をうばわれるとはのぅ」
「やかましい爺さんだ」
加藤はニヤニヤしてひとつを見る、それを見て、ひとつはプイっと顔をそむけた。
「それだけ聞ければ良さそうじゃ。お主にも場所を教えてやる。助けぬ行くも行かぬも任せるよ」
ひとつは少し不機嫌な顔。加藤はお構いなしに笑っていた。
そして笑いが納まると
「ただし、お主はしばらく体を治せ。このまま行っても邪魔になるだけじゃ」
それだけ言うと、加藤は再び天井裏まで飛びあがり、ひとつの目の前から音も無く消え去った。
一人部屋に残されたひとつは、再び布団に潜り込み、目を閉じた。
その頃…
「ええ、あの日から彦様のお姿は見えてません」
「そうかい…」
一人の老人と、付き添いの少年は酒を受け取り宿の親父を見送った。
老人は、あの柊と呼ばれた忍頭
少年はおそらく15歳前後であろうか。まだ髪も剃っていなければ、髷も結ってはいない、若々しく美少年と言うに相応しい顔をしていた。
ここは、数日前まで彦が寺を見張るために使っていた伊賀の忍宿
柊達もまた、この宿に到着していたのだった。
彦は運の無い男であった…後、数日待っていれば、まだ死ぬ事は無かったかもしれなかった。
「勘蔵よ。どう見る」
柊老人はその美少年を勘蔵と呼んだ。
「はい、おそらくはすでに死んだものと見ます」
「ふむぅ、やはりそう思うか。功を焦りよったな、馬鹿者め…」
柊老人は、勘蔵が注いだ酒を喉に流し込む。
「勘蔵よ、こうなればお主の剣の腕のみが頼りじゃ。彦が死んだと言う事は、おそらく住処も変えているはず、となればあの尼寺にはいないと考えようか」
「それは安易なお考えでは。まだいる可能性もございます」
「それに関しては問題ない、すでに草野(宿の親父)へ今夜にでも影を送るように伝えておる」
「流石でございます」
勘蔵は笑いかけ、再び柊老人の杯に酒を注ぐ
「まぁ、そちも飲むがよい」
柊老人は口に含めた酒を、口移しで勘蔵の口の中に注いだ
「あ…ありがく…」
柊老人は、勘蔵の一物を袴の上からまさぐり、彼の着物をはだけさせる。
「柊 蔵人様…拙者は…」
柊老人は勘蔵の一物を直接しごき始める。
「おやめくだされ…」
勘蔵は恍惚の表情で柊の手を握る
「まだ、薬を飲んでいなかったな」
そう言うと懐より粉薬を取り出し勘蔵の口の中に酒と共に注ぐ
勘蔵はそれを飲み干すと快感が頂点に達し、そのまま袴の中で射精した。
出し切ったのか、勘蔵ぐったりと柊老人の胸元で気を失う。
その顔を見て柊老人はニヤリと微笑み
(阿片傀儡の術、成功也)
彼は手に付いた勘蔵の精液を彼の袴で拭い、再び酒を飲み干した。
彼女は風呂の中で目を覚ました。
付添の尼が二人ほどいて、彼女の下着は洗って干してあった。
珍しく夜中にも明りが灯った行燈
彼女の体はふやけてしまっていて、指を眺めると深いシワの様に不規則な模様が目に見えた。
そんな中でも、彼女は寝起きが悪く、自分の状況はすぐには理解出来ない。
「あ、目が覚められましたか」
尼の一人が彼女に気が付き、言葉を投げかけた。
体を起こし、湯を両手ですくって顔を洗う。
体の芯から温まっていて、とても気持ちが良いが少し朦朧としている。
「少しのぼせられたのかもしれませんね、新しい寝巻を用意してますのでおあがり下さい」
尼の白い腕につかまり、彼女は体を起こそうとするが力は入らない。
倒れそうな処を、尼は抱き止め二人とも再び湯の中に落ちた。
尼は年若く、美しい白い肌と豊満な乳房で、この小柄な少女を抱きしめ、再び立ち上がった。
「ごめんなさい」
少女はすまなそうに尼に呟く、尼は笑って
「そう申される必要はありませんよ、あなた方のおかげで私達は無傷ですから」
少女は心の中で”違う”と叫んだ。
この騒動を起こしたのは自分達なのだ。
少女、いや、れいは、ぼーっとする頭の中で繰り返し”ごめんなさい”と叫び風呂を後にする。
住職の間に新しい寝巻で訪れた少女
彼女は少しふらつき、ひとつに抱かれて隣の客室の布団へ運ばれた。
れいを寝かしつけて帰って来たひとつは、住職である不識院に
「すまないなぁ、今日はここまでで良いかな」
と話しかけた。
「仕方ないだろう、ひとまず危険は去ったから明日にでも話すとする。ひとつ殿も早く寝られて体を治されよ」
「そうだな、そうするか。れいの具合も気になるし、ワシもそろそろ寝るわ」
ひとつは、そろりと立ち上がり隣の客間に向かう
「ひとつ殿、尼寺の中での不肖な行為は許しませんよ。ましてや夜這いなど」
ひとつは振り向き、目を細める。どうにも、彼の顔は顔は苦笑いで余裕が無い。
「北国の民は皆、覚りの術が使えるのかの。恐ろしい事だ」
ひとつは笑って部屋を出た。
襖を閉め、何事も無いように、れいと同じ布団にもぐりこむ
(いやいや、女の匂いは一番の良薬だて)
れいを後ろから抱き締めると、彼女の本能的な部分が動いたのか、肘でひとつの脇を強打した。
言葉も無く悶絶するひとつは、のそのそと自分の布団へ帰って少し泣いた。
ひとつの目が覚めた時、もう昼を過ぎていた。
(うむ、これはいかんな)
体の具合が悪いとは言え自分の中の緩みが生じている。
彼は部屋の中を見回す。
もう、れいはどこぞへ行ったのかのう。
立ち上がり周りを見回す、どうにも不安な感じがする。
再びあぐらをかいて座ると天井裏より声が聞こえてきた
「よう、悪平。お目覚めかな」
「爺様かぁ、早い帰りだな」
「お前さんが起きる三刻前には着いておったよ」
加藤は天井裏より飛び降りひとつに酒を差し出した。
「朝から酒か、まったく恐ろしい爺様だな」
「バカを申すな、夜がわしらの仕事の時間じゃ。昼の内に酒を浴びねばやってられんじゃろう」
ひとつは、加藤より酒瓶を貰うと喉を立てて飲み干した。
「阿呆。ワシの分まで飲みおって」
「寝起きは喉が渇いておるんじゃ。しょうがない事よ」
笑って瓶だけを加藤に返す。
「瓶だけ返すやつがあるか、この糞漏らしが」
「悪い悪い、じゃが爺様は何の為にワシの寝床に潜んで居ったのよ。しかも屋根裏によ」
酒瓶を懐に収め、ひとつは加藤に問いかける。
「ちょっと困った事になってな。お前にだけ先に話しておきたかったのじゃ」
そう言うと、加藤は顔をしかめ、気の無い頭をかいた。
「れいの事か」
ひとつは、まるで全てを理解したかの如く、加藤を見た。
「今朝方、日が明け始めた頃に帰って来たのだが、丁度門の所に小夜がおった。おそらく千里眼でワシが帰るのを調べておったのだろう。あの娘、既に旅支度を整えておってな、ワシに会うなり”薬学士の場所を教えて欲しい”と言ってきおった。お前たちには内緒で出るつもりらしかったが、その時は…なんだ不思議な気持ちになってな。止める処か地図まで渡してしまったよ」
ひとつは目を見開き加藤を見つめる
「つまりワシは置いて行かれたと」
「ふむぅ、何故にか分からんがな。何か切迫したものを感じたよ」
ひとつは小さな声で唸ると、畳の節目を見つめた。
「変な考えはせんでもええじゃろう。もしお前を切り捨てたと考えているのなら、初めから助けにもゆかぬし、昨日の夜、お前さん方に事実を打ち上げる必要も無いだろう」
「それゆえに、と言う事も考えられぬか」
加藤は笑って首を振り
「まぁ、お前さんが思うがままで良いと思うが、ワシが思うにこれ以上誰かを巻き込むのが嫌だったんじゃないかの」
「あの娘にとって、この任務が初仕事じゃ。話では聞いていたが忍働きの壮絶さを知って一人でそれを行おうとしてると思うぞ」
「バカを言え、あのような未熟者が一人でこれからやれるものか」
「しかし、あの彦とか言う手練を殺したぞ」
ひとつは、畳にコブシを叩きつけ
「爺様はあの娘が死んでもええのか、初の忍働きならば特にそうであろう、この危険な仕事を一人で最後までやるのは天地がひっくりかえっても無理と言う物。ワシは一人でも奴を助けに行くぞ」
ガンとした態度で加藤を睨むひとつ。
室内に冷たい空気と、静寂が訪れる中、加藤は笑って
「主はあの娘に惚れこんでおるようじゃな」
加藤は、小声で彼に向って言い放つ
「ぬっ」
ひとつは、声にならず、前に出していた体を後ろに下げた
「照れるような年かよ、処女を奪うつもりで付き添っておった男が今では心をうばわれるとはのぅ」
「やかましい爺さんだ」
加藤はニヤニヤしてひとつを見る、それを見て、ひとつはプイっと顔をそむけた。
「それだけ聞ければ良さそうじゃ。お主にも場所を教えてやる。助けぬ行くも行かぬも任せるよ」
ひとつは少し不機嫌な顔。加藤はお構いなしに笑っていた。
そして笑いが納まると
「ただし、お主はしばらく体を治せ。このまま行っても邪魔になるだけじゃ」
それだけ言うと、加藤は再び天井裏まで飛びあがり、ひとつの目の前から音も無く消え去った。
一人部屋に残されたひとつは、再び布団に潜り込み、目を閉じた。
その頃…
「ええ、あの日から彦様のお姿は見えてません」
「そうかい…」
一人の老人と、付き添いの少年は酒を受け取り宿の親父を見送った。
老人は、あの柊と呼ばれた忍頭
少年はおそらく15歳前後であろうか。まだ髪も剃っていなければ、髷も結ってはいない、若々しく美少年と言うに相応しい顔をしていた。
ここは、数日前まで彦が寺を見張るために使っていた伊賀の忍宿
柊達もまた、この宿に到着していたのだった。
彦は運の無い男であった…後、数日待っていれば、まだ死ぬ事は無かったかもしれなかった。
「勘蔵よ。どう見る」
柊老人はその美少年を勘蔵と呼んだ。
「はい、おそらくはすでに死んだものと見ます」
「ふむぅ、やはりそう思うか。功を焦りよったな、馬鹿者め…」
柊老人は、勘蔵が注いだ酒を喉に流し込む。
「勘蔵よ、こうなればお主の剣の腕のみが頼りじゃ。彦が死んだと言う事は、おそらく住処も変えているはず、となればあの尼寺にはいないと考えようか」
「それは安易なお考えでは。まだいる可能性もございます」
「それに関しては問題ない、すでに草野(宿の親父)へ今夜にでも影を送るように伝えておる」
「流石でございます」
勘蔵は笑いかけ、再び柊老人の杯に酒を注ぐ
「まぁ、そちも飲むがよい」
柊老人は口に含めた酒を、口移しで勘蔵の口の中に注いだ
「あ…ありがく…」
柊老人は、勘蔵の一物を袴の上からまさぐり、彼の着物をはだけさせる。
「柊 蔵人様…拙者は…」
柊老人は勘蔵の一物を直接しごき始める。
「おやめくだされ…」
勘蔵は恍惚の表情で柊の手を握る
「まだ、薬を飲んでいなかったな」
そう言うと懐より粉薬を取り出し勘蔵の口の中に酒と共に注ぐ
勘蔵はそれを飲み干すと快感が頂点に達し、そのまま袴の中で射精した。
出し切ったのか、勘蔵ぐったりと柊老人の胸元で気を失う。
その顔を見て柊老人はニヤリと微笑み
(阿片傀儡の術、成功也)
彼は手に付いた勘蔵の精液を彼の袴で拭い、再び酒を飲み干した。
五、黄昏の少女、苦悶する少年
おおよそ、七日程経った。
山は酷い吹雪であったが、その少女は白雪の山道を猿の如く飛んで走っていた。
手には熊の厚革で作られた特製の手袋を付け、ぬかるみ走る事が出来ない雪の道を素早く移動していた。
場所は奥州 平泉。
ここに、この旅の目的である薬を調合可能な薬学士がいると言う話である。
彼の者、俗世を嫌い平泉の山の奥に住み仙人のような生活を送っている事から、土地の者からは
”水葉仙人”と呼ばれていた。
この水葉仙人には多くの弟子がいるが、その多くは学者を目指す者より、戦人や芸者(その時代で言う剣術家などの兵法者)が多く、あの上泉伊勢守が剣術修行の際に奥州を訪れた際、刃物傷への特効薬を水葉仙人より薬の作り方を直々に習ったと言う逸話が地元にはあった。
雪に包まれ夕闇が近い黄昏刻、もしくは逢魔刻と呼ばれる時間、彼女は目的の仙人の家に着いた。
補足として言えば、黄昏の語源は「誰そ彼(だれそかれ)」と言われている。
向こう側より来る人影すらわからぬ時間と言う意味である。
そのような不安定な時間は鬼(霊)に逢う時間であり、それが逢魔刻の語源でもある。
深い雲が、雪を鉄砲のように山々に向かって容赦なく浴びせる。
長篠での武田騎馬軍団はこのような中を突撃したのかと思うと、残酷な物であったろうなと思える。
彼女はその屋敷を眺めると、山の中の一軒家にしては寺を思わすような大きな門構に驚いた。
彼女は心を決め、門を叩いた。
「失礼ながら、どなたか居られませんか」
大きく叫びながら門を数度叩くと中より一人の若い男の声が聞こえる。
「しばしお待ちください」
そう言うと、門の裏の閂を外す音が聞こえた。
ガタンと閂が外された音の後、静寂の中に響き渡るような錆びついた音がして門が開いた。
目の前には、十五、六の清閑な顔つきの少年がいた。
少年は、れいを見ると顔を赤めて
「あ、あの…しばし玄関の方でお待ちください」
そう言うと屋敷の奥へ小走りで去って行った。
れいはきょとんとした後、クスクス笑った。
(かわいいね)
まるでお姉さんの様に彼の後姿を見送る。
それも当然、この話の中で出る男衆は、ちと色狂いが多く、彼の対応は彼女にとって新鮮であった。
数分後、その少年はれいの元に同じく小走りで走り寄り
「お待たせしました。師匠がお待ちです」
相当全力で走ったと見える、顔は真っ赤で呼吸は荒い。
「ありがとうございます」
れいは少年に礼を言うと彼の後をついて屋敷の中に入る。
屋敷の中は二重の戸で玄関を締められ、寒気は室内には入らない。
なるほど、非常に温かい。
「しばし座られてお待ち下さい」
再び少年は奥へ駆け込むと、また少しした後、桶の中に湯を入れて玄関まで帰って来た。
「どうぞ、これで手と足を洗って下さい」
「いえ、そこまでは…」
「是非、是非どうぞ」
言われるがまま、れいは手袋を外し湯の中に手をつける。
程よく冷めた湯が、越後での日々を思い出させる。
手と顔を洗い、足袋を脱ぎ足を湯の中に浸ける。
ふと、隣を見ると先程の少年が顔を赤めてじっと足を見ていた。
れいは少年の後ろを歩き、廊下を奥の院へと歩く。
そこは薬の調合を行う館と言うよりまるで剣術道場の様であった。
奥の院へ到着し、少年が障子向こうの人影に声をかけた
「師匠、客人を連れてまいりました」
障子の向こうからは粉を引く音がする。
「鬼でも出てまいったか」
「失礼ですよ師匠。若い女性の方です」
少年はチラリと、れいを見るとまた赤くなって眼をそむけた。
「女は禍を呼ぶ、丁重にお帰り願え」
「お師匠様」
予想外の言葉に、れい自身驚いた。
さっきは会うと言ったのに、此処へきての拒絶
「虎史郎よ。其の者は猿の化け物ぞ、心を許すでない」
障子は開けられ、中から?せ細った総髪の老人が現れた。
年の頃は八十くらいであろうか、人生が五十年と歌われるこの時代では長生きな方だろう。
れいは頭を伏せ、懐より加藤清正と石田三成からの密書を彼の前に差し出した。
彼は、れいの手より密書を引っ手繰ると
「ほらよぅ、夜の化け物であったか。ワシは化け物は好かん、この書状をもって帰るがいい」
密書を読まずに、そのままれいに投げ返すと、すぐさま部屋へ戻ってしまった。
彼女は、うつむいたまま何も出来ないままに廊下に座り込んだ。
困ったのは、虎史郎と呼ばれた少年だ。
目を丸くしたまま、慌てて首を左右に振りっている。てんで目の焦点が合って居ない。
彼は心を決め
「気になさらないでください、師匠は頑固で気が難しいのです。明日になれば話を聞いてくれますよ」
そう言い、れいを励ました。
れいが、彼の顔を見ようと首を上げると
”スコーーン”
と言う音と共に木で出来た灰皿が飛んで来た。
「誰が頑固で気が難しいのだ虎史郎。さっさと夕餉の準備をせよ」
水葉仙人は驚くべき腕で見事に虎史郎の頭に灰皿を投げ付けていた。
「申し訳ないです」
少し怒った口調で虎史郎は水葉仙人へ言い返すと、れいの手を引き戻り始める。
彼は、館の南の外れにある客間へ彼女を連れて行き
「申し訳ありません、今日は上手く行かなかったみたいです。明日にでもまた私から頼みますのでご安心ください」
頭を掻きながら虎史郎は、押入れの布団を部屋に敷いた。
「今から夕餉を作ります。お風呂はすでに沸いていますので御自由にお使い下さい」
そう言うと、彼は丁寧に頭を下げ、部屋から出ていく。
一人部屋に残された彼女は上着を脱ぎ、畳の上で横になった。
(まずは、加藤様の密書を見せねば話は進まないな)
わかっているが、それが難儀だ。
まず見ようとしなかったしなぁ。
太閤様の伊達様への対応に怒っておられるのかも知れぬ。
色々と考えが頭に上っては、曇り、上っては曇り、良き案はなかなか浮かばぬ。
(しかし、見事な腕であったな…)
そう、仙人は見えない障子の向こうにいる虎史郎の頭に見事に命中させていたのだ。
それも、さも当然であるかの如く。
(仙人と呼ばれるくらいだ、それなりの兵法者なのやも知れぬ)
この屋敷の作りもまさに道場であり、かつては上泉伊勢守が寝泊まりした場所でもあるらしい。
それなりの技術を持っていてもおかしくない。それに…
(なぜ私をすぐに忍だと思ったのだろうか)
確かに、女一人でこのような吹雪の中、屋敷まで訪れた事自体が通常の女では出来ない事ではあるが
…それに忍と分った途端の気持の変り様、一体何なのだろう。
今はまだ何も分からない。…そう、明日再びお願いしてみよう。
彼女は、思考が終わると体を起こし
(そうだ、まずは風呂に入ろう)
そう思い立った。
風呂敷から寝巻を取り出し汚れている上着を脱いだ。
再び慌ただしい足音が廊下より聞こえる。
そして予想通り激しい音と共に障子が開かれると
「すいません、もしお風呂に入る際は、私に一言お願いします。間違って入らな…、ええと、失礼致しましたぁ」
虎史郎は後ろを向いて部屋から出る。
「すいませんでしたぁー」
そして、また慌ただしく廊下を走って帰った。
服を脱いだままのれいは、その場で固まっている。
(ああ、どうやら私はいつも誰かに裸を見られる定めなのね…)
彼女はくしゃみをする。
そして寝間着に着替えると、遠くの方から苦悩する少年の”ああぁぁぁ”と言う声が聞こえてきた。
おおよそ、七日程経った。
山は酷い吹雪であったが、その少女は白雪の山道を猿の如く飛んで走っていた。
手には熊の厚革で作られた特製の手袋を付け、ぬかるみ走る事が出来ない雪の道を素早く移動していた。
場所は奥州 平泉。
ここに、この旅の目的である薬を調合可能な薬学士がいると言う話である。
彼の者、俗世を嫌い平泉の山の奥に住み仙人のような生活を送っている事から、土地の者からは
”水葉仙人”と呼ばれていた。
この水葉仙人には多くの弟子がいるが、その多くは学者を目指す者より、戦人や芸者(その時代で言う剣術家などの兵法者)が多く、あの上泉伊勢守が剣術修行の際に奥州を訪れた際、刃物傷への特効薬を水葉仙人より薬の作り方を直々に習ったと言う逸話が地元にはあった。
雪に包まれ夕闇が近い黄昏刻、もしくは逢魔刻と呼ばれる時間、彼女は目的の仙人の家に着いた。
補足として言えば、黄昏の語源は「誰そ彼(だれそかれ)」と言われている。
向こう側より来る人影すらわからぬ時間と言う意味である。
そのような不安定な時間は鬼(霊)に逢う時間であり、それが逢魔刻の語源でもある。
深い雲が、雪を鉄砲のように山々に向かって容赦なく浴びせる。
長篠での武田騎馬軍団はこのような中を突撃したのかと思うと、残酷な物であったろうなと思える。
彼女はその屋敷を眺めると、山の中の一軒家にしては寺を思わすような大きな門構に驚いた。
彼女は心を決め、門を叩いた。
「失礼ながら、どなたか居られませんか」
大きく叫びながら門を数度叩くと中より一人の若い男の声が聞こえる。
「しばしお待ちください」
そう言うと、門の裏の閂を外す音が聞こえた。
ガタンと閂が外された音の後、静寂の中に響き渡るような錆びついた音がして門が開いた。
目の前には、十五、六の清閑な顔つきの少年がいた。
少年は、れいを見ると顔を赤めて
「あ、あの…しばし玄関の方でお待ちください」
そう言うと屋敷の奥へ小走りで去って行った。
れいはきょとんとした後、クスクス笑った。
(かわいいね)
まるでお姉さんの様に彼の後姿を見送る。
それも当然、この話の中で出る男衆は、ちと色狂いが多く、彼の対応は彼女にとって新鮮であった。
数分後、その少年はれいの元に同じく小走りで走り寄り
「お待たせしました。師匠がお待ちです」
相当全力で走ったと見える、顔は真っ赤で呼吸は荒い。
「ありがとうございます」
れいは少年に礼を言うと彼の後をついて屋敷の中に入る。
屋敷の中は二重の戸で玄関を締められ、寒気は室内には入らない。
なるほど、非常に温かい。
「しばし座られてお待ち下さい」
再び少年は奥へ駆け込むと、また少しした後、桶の中に湯を入れて玄関まで帰って来た。
「どうぞ、これで手と足を洗って下さい」
「いえ、そこまでは…」
「是非、是非どうぞ」
言われるがまま、れいは手袋を外し湯の中に手をつける。
程よく冷めた湯が、越後での日々を思い出させる。
手と顔を洗い、足袋を脱ぎ足を湯の中に浸ける。
ふと、隣を見ると先程の少年が顔を赤めてじっと足を見ていた。
れいは少年の後ろを歩き、廊下を奥の院へと歩く。
そこは薬の調合を行う館と言うよりまるで剣術道場の様であった。
奥の院へ到着し、少年が障子向こうの人影に声をかけた
「師匠、客人を連れてまいりました」
障子の向こうからは粉を引く音がする。
「鬼でも出てまいったか」
「失礼ですよ師匠。若い女性の方です」
少年はチラリと、れいを見るとまた赤くなって眼をそむけた。
「女は禍を呼ぶ、丁重にお帰り願え」
「お師匠様」
予想外の言葉に、れい自身驚いた。
さっきは会うと言ったのに、此処へきての拒絶
「虎史郎よ。其の者は猿の化け物ぞ、心を許すでない」
障子は開けられ、中から?せ細った総髪の老人が現れた。
年の頃は八十くらいであろうか、人生が五十年と歌われるこの時代では長生きな方だろう。
れいは頭を伏せ、懐より加藤清正と石田三成からの密書を彼の前に差し出した。
彼は、れいの手より密書を引っ手繰ると
「ほらよぅ、夜の化け物であったか。ワシは化け物は好かん、この書状をもって帰るがいい」
密書を読まずに、そのままれいに投げ返すと、すぐさま部屋へ戻ってしまった。
彼女は、うつむいたまま何も出来ないままに廊下に座り込んだ。
困ったのは、虎史郎と呼ばれた少年だ。
目を丸くしたまま、慌てて首を左右に振りっている。てんで目の焦点が合って居ない。
彼は心を決め
「気になさらないでください、師匠は頑固で気が難しいのです。明日になれば話を聞いてくれますよ」
そう言い、れいを励ました。
れいが、彼の顔を見ようと首を上げると
”スコーーン”
と言う音と共に木で出来た灰皿が飛んで来た。
「誰が頑固で気が難しいのだ虎史郎。さっさと夕餉の準備をせよ」
水葉仙人は驚くべき腕で見事に虎史郎の頭に灰皿を投げ付けていた。
「申し訳ないです」
少し怒った口調で虎史郎は水葉仙人へ言い返すと、れいの手を引き戻り始める。
彼は、館の南の外れにある客間へ彼女を連れて行き
「申し訳ありません、今日は上手く行かなかったみたいです。明日にでもまた私から頼みますのでご安心ください」
頭を掻きながら虎史郎は、押入れの布団を部屋に敷いた。
「今から夕餉を作ります。お風呂はすでに沸いていますので御自由にお使い下さい」
そう言うと、彼は丁寧に頭を下げ、部屋から出ていく。
一人部屋に残された彼女は上着を脱ぎ、畳の上で横になった。
(まずは、加藤様の密書を見せねば話は進まないな)
わかっているが、それが難儀だ。
まず見ようとしなかったしなぁ。
太閤様の伊達様への対応に怒っておられるのかも知れぬ。
色々と考えが頭に上っては、曇り、上っては曇り、良き案はなかなか浮かばぬ。
(しかし、見事な腕であったな…)
そう、仙人は見えない障子の向こうにいる虎史郎の頭に見事に命中させていたのだ。
それも、さも当然であるかの如く。
(仙人と呼ばれるくらいだ、それなりの兵法者なのやも知れぬ)
この屋敷の作りもまさに道場であり、かつては上泉伊勢守が寝泊まりした場所でもあるらしい。
それなりの技術を持っていてもおかしくない。それに…
(なぜ私をすぐに忍だと思ったのだろうか)
確かに、女一人でこのような吹雪の中、屋敷まで訪れた事自体が通常の女では出来ない事ではあるが
…それに忍と分った途端の気持の変り様、一体何なのだろう。
今はまだ何も分からない。…そう、明日再びお願いしてみよう。
彼女は、思考が終わると体を起こし
(そうだ、まずは風呂に入ろう)
そう思い立った。
風呂敷から寝巻を取り出し汚れている上着を脱いだ。
再び慌ただしい足音が廊下より聞こえる。
そして予想通り激しい音と共に障子が開かれると
「すいません、もしお風呂に入る際は、私に一言お願いします。間違って入らな…、ええと、失礼致しましたぁ」
虎史郎は後ろを向いて部屋から出る。
「すいませんでしたぁー」
そして、また慌ただしく廊下を走って帰った。
服を脱いだままのれいは、その場で固まっている。
(ああ、どうやら私はいつも誰かに裸を見られる定めなのね…)
彼女はくしゃみをする。
そして寝間着に着替えると、遠くの方から苦悩する少年の”ああぁぁぁ”と言う声が聞こえてきた。
六、朝餉
「おい、そこのガキとジジイちょっとこっち来いや」
雪積る山道を歩く少年と老人に男は声をかけた。老人が彼らを見るとどうもそれは一人では無いようだ、辺りからぞろぞろと不精髭の汚らしい男たちが現れる。実にその数十人。
老人と少年は目を合わせる。
老人は一言二言少年に告げる、少年はそれを理解したかの様に頷く。それを見た男達は二人を囲み、ジリジリと距離を詰めた。
「お前さん方は山賊かね」
老人がニヤニヤと気持ちの悪い顔で男たちに聞く。
「違うぜ爺さん。俺たちゃ守り神よ。この山を守る偉大なる神様さ。神様にはお供え物が必要だろう、生贄とかで無く金でいいんだよ」
二人はニヤニヤと笑って男達の顔を見る、男達は気を悪くし全員抜刀を行う。
「俺たちゃあ武人だぜ、これでも武田家の名のある将であった俺達をこれ以上馬鹿にするつもりなら、本気で生贄になってもらうぜ」
「ころころと話が変わる神様達じゃあな、まぁどちらでもよいか。勘蔵、練習と思って切り捨てよ」
老人が鬚を撫でながら隣の少年に話しかけるやいな、少年は雪の上を狐や犬のように身軽に走り出す。
大将顔の男は少年に向かって刀を振り下ろすが、それは少年には当たらない。
少年は男の手を掴み、体移動で男ごと右に動かす、刀は隣に居た部下の腹を貫いた。驚く二人の男を尻目に、少年は腹を刺された部下の刀の柄を掌で押し、大将顔の男の喉に突き立てた。
周りから見れば同士打ちのように見える惨劇をたった数秒で作り上げた。
「勘蔵、ワシが五十数えるまでに皆殺しにせよ」
老人は少年に指示を与える。少年は血に染まった顔に恍惚の笑みを浮かべ老人に向かって頷く。
周囲の男達は一斉に少年に剣を振りかざしてくる、少年は死んだ男から二本の小太刀を奪うと姿勢を低くし攻撃に備える。
三人の男が同時に少年に向かって切りかかった。
激しく血が飛び散る
少年はいつの間にやら三人の男達の後ろにおり、次の獲物を定めている。
先程の三人の男達はそれぞれ味方の剣で切り合い血を流し倒れている。
不可解な攻撃に男達は恐怖に怯え刀を捨てて逃走を開始した。
「だ、だめだぁ。こいつら妖怪じゃぞ、逃げろぉ」
蜘蛛の子を散らすかの如く、バラバラと男達は雪に足を取られながら後ろを向いて逃げ出す。
老人はまだ数を数えている、今が三十を切った所だ。
少年は笑いながら雪の上を走りだす、それこそまるで体から体重が消えたかのように、少しの足跡も残らず走る。
林の至る所から絶叫と血飛沫が立ち上がる。
「四十八…四十九…」
「お待たせ致しました柊様」
体中真っ赤に染まり、歪な笑みをした少年が老人の元に戻ってきた。
既に手ぶらで刀は持っていない。
「見事也、勘蔵よ」
少年は満足げな笑みで会釈した。
「”剣の舞”、”カマイタチ”共に腕を上げたな。柳生の無刀取りなど足元にも及ばぬ」
「山陰五兵流は無双でございます。形だけで役に立たぬ芸者の技とは違います」
「ふふっ言うわ。街に着くまでにその服と、体を洗わねばなるまいな。さてどうするかの」
「御安心下さい。一人あえて逃がした者がいます。奴らの住処にでも行って体を洗いますよ」
そう言うと少年は掌に薄い糸を見せる。
「蜘蛛か、主は実に憂い奴じゃ。今日はその住処へ行き愛し合おうぞ」
少年は柊老人の手を握り、口を吸って欲しいとねだった。
場所と時は変わり、東北平泉の水葉仙人の屋敷に移る。
この山奥の館は何重もの屋根と壁で囲まれていた。
今更ながら思ったが、冬の奥州は心底冷える。
れいは、檜で作られた贅沢な風呂で一人体を休めていた。
ぬか袋で体を擦ると、ボロボロと体から垢がこぼれ落ちる。
体中が真っ赤になるまで、ぬか袋で体を擦ると風呂の湯を頭からかぶる。
湯からは、柚子のいい香りがした。
柚子は本来、北国では栽培が出来ない物である事から、遠く南方から仕入れたものと思われる。
当時、風呂は贅沢の極みとされた時代、柚子湯は大名や一部の特権階級のみが出来た最高のもてなしである。
彼女がそれを柚子と把握できたのは、大阪城での小侍従時代の経験であった。
湯の中に入ると、何とも良い香りが彼女を包む。
「ふぅ。これは…何とも素晴らしい…」
七日間、休みも殆ど取らずに走り抜けてきた疲れからか、うつらうつら、と目蓋が重くなって…そして意識が遠退いた。
どのくらい眠っていたのだろうか。
夢の中で蝶に憧れる芋虫を演じていた自分が川へ落ちた処で夢から覚めた。
茹った体に水をかけられたようだ、朦朧とする意識の中もう一度顔に向かって冷たい水がかけられた。
「どんだけ長風呂してるのかと思いきや、ゆでダコみたいに赤くなるまで入って居やがって」
一応体には布が掛けられていたが、うっすらと体の線が見えていた。
「あ、ありがとうございます。…あの、私どのくらいここに」
「半刻以上もここに居たようじゃ、ワシが気付かねばお前さんは死んでいたな。もっともお前の様な化け物は死んだ方がいいんじゃがな」
そう言うと、手を二回ほど叩き虎史郎を呼んだ。
虎史郎は顔を赤めながらなるだけ彼女の姿を見ないようにして新しい布を差し出した。
「虎の阿呆が、さっさと連れて行け。こいつは今動けん」
虎は彼女を抱きかかえると、彼女の部屋へ歩いて行った。一人風呂場に残った水葉仙人は目を細めて少し笑った。
部屋に戻ったれいは、虎史郎の手助けがあってようやく布団に入る事が出来た。
寝巻きも自分では着れない程弱っていた。
(私は馬鹿だなぁ)
味方と決まった訳では無い家で風呂でのぼせて動きも取れないなんて…一人で戦えるのだろうか…
急に不安になって布団を頭からかぶる。
(ひとつ…)
脳裏にひとつの逞しい背中が映る。
「失礼します」
虎史郎が部屋に入ってきた。れいは蒲団から顔を出して彼を見た。
彼は桶いっぱいに雪を詰めて来ていて、その中に手拭を入れて冷やし、それを彼女の額と目蓋の上に置いてくれた。
とても冷たいが気持良く、顔の火照りが嘘みたいに引いた。
「よく寝付けない時は、こうやって目蓋も冷やすと眠りやすいんですよ」
そう言って笑ってまた手拭を冷やしてくれた。
「ご迷惑をお掛けしてすみません」
「気になさらないでください。これも修行の内ですから」
何とも彼の機嫌が良いようだ。
れいは手拭いをは外し、彼の顔を見る。
「良かったですね、明日師匠がお話を聞いて下さるそうです」
彼はニコニコと笑顔で彼女に話した。当のれいは突然の事で訳が分らない、ただでさえ頭の回転が鈍っている。
「気まぐれなんですよ、深い意味は無いです。上手く行けば薬が貰えるかも知れませんよ」
ようやく彼女は安堵の顔になった。
「まずは疲れを癒してください。だいぶお疲れのようですし、明日の朝御都合が宜しい時に私にご連絡頂ければ師匠に時間を作ってもらいます」
そう言うと彼は雪の入った桶を彼女の枕元に置き、静かに部屋から去って行った。
(明日、この密書を渡して薬が手に入れば私の仕事はあらかた終わる…)
歴史上、後継者が居なかったが為に滅びた家柄は少なくない。
鎌倉時代を切り開いた源家は三代で終わり、天下は北条家へと移った。
豊臣も同じような状態にならないとも言えない、但し豊臣家の場合は戦乱を巻き起こすだろう。
下手すれば再び戦国の世に帰る可能性もある。
泰平の世になれば忍は価値を失い、仕事は無くなる。
再び手拭いを冷やして額に被せる。
モヤモヤと不安が膨れ上がっていた頭の中がスッと空になり
(今は自分のことだけを考えよう)
そう決意すると意識を遠くに落とした。
次の日の朝、まだ夜が明けて間もない頃、すでに台所には虎史郎が朝餉の準備に取りかかっていた。
「お早いんですね。虎史郎さん」
「おはようございます。ご気分はどうですか」
「とてもいい感じです。虎史郎さんのおかげですよ」
虎史郎は顔を赤めて目を反らす。
「朝餉が出来たらお呼び致します、師匠とも一緒ですが構いませんか」
「もちろん。後、少しお手伝い致しましょうか」
虎史郎は慌てて、
「とんでもない。お客様に食事を作らせたなんて知れたら大変ですよ。れい様はお部屋でお休みください」
彼女は少し考え、彼の顔を見て笑った。
「分りました、では御屋敷を見て回っても良いですか」
虎史郎はコクリとうなずいて見せると再び料理の方を始める、彼女は出来る限りゆっくりと台所から去った。
(この屋敷をしっかり調べておかないと…)
もしもの時の為に屋敷の構造を知らねばならない、彼女は怪しまれぬようぬ屋敷の中をゆっくりと歩いて回る。
忍者屋敷のようなカラクリ作りでは無い事だけは確かだが、どうにも怪しく思える。
どちらかと言うと武家屋敷のような作りがどうにも違和感を拭えないが、それでも特別な仕組みがあるようには見えなかった。
廊下に出るとそこに水葉仙人がいた。目の前に立つと彼は非常に小柄で、れいの胸元程の背しかなかった。
「ちょっとこいや、今の内に話を聞いておく」
そう言うと彼はくるりと背を向けて自分の部屋へと戻って行く。
れいも何も言わずにその後をついて水葉仙人の部屋へと続く
「昨日の書状を出してみろ」
仙人の部屋に入った二人は囲炉裏の傍に座って向かい合った。
外はまだ日が昇り始めたばかりの時間で、障子の隙間から日が差し込んできた。
「これを…」
昨日叩き返された書状を渡す。
彼は一通り読み通し、目を閉じ毛の無い頭をさする。
頭を上げぶっきらぼうに言葉をかけた
「若殿の具合や知っている事をすべて話せ」
れいは水葉仙人にすべての症状を伝えた、どのように始まったのか、現在どのような具合であるか
仙人は囲炉裏の中に水を掛け灰を湿らせると、その灰にれいから聞いた症状を書いていく。
「ふむぅ」
仙人は再び黙り込んで灰の上の文字を眺めていく。
「いかがでしょうか、何かわかりますか」
相変わらず返事は無く思考にふけっていた。
少しの沈黙の後、仙人は口を開いた。
「…これはワシの手には負えんな…」
仙人はハッキリとれいに言い切った。
台所の方から虎史郎の朝餉が出来たと言う声がしたが、れいの耳には届かなかった。
「おい、そこのガキとジジイちょっとこっち来いや」
雪積る山道を歩く少年と老人に男は声をかけた。老人が彼らを見るとどうもそれは一人では無いようだ、辺りからぞろぞろと不精髭の汚らしい男たちが現れる。実にその数十人。
老人と少年は目を合わせる。
老人は一言二言少年に告げる、少年はそれを理解したかの様に頷く。それを見た男達は二人を囲み、ジリジリと距離を詰めた。
「お前さん方は山賊かね」
老人がニヤニヤと気持ちの悪い顔で男たちに聞く。
「違うぜ爺さん。俺たちゃ守り神よ。この山を守る偉大なる神様さ。神様にはお供え物が必要だろう、生贄とかで無く金でいいんだよ」
二人はニヤニヤと笑って男達の顔を見る、男達は気を悪くし全員抜刀を行う。
「俺たちゃあ武人だぜ、これでも武田家の名のある将であった俺達をこれ以上馬鹿にするつもりなら、本気で生贄になってもらうぜ」
「ころころと話が変わる神様達じゃあな、まぁどちらでもよいか。勘蔵、練習と思って切り捨てよ」
老人が鬚を撫でながら隣の少年に話しかけるやいな、少年は雪の上を狐や犬のように身軽に走り出す。
大将顔の男は少年に向かって刀を振り下ろすが、それは少年には当たらない。
少年は男の手を掴み、体移動で男ごと右に動かす、刀は隣に居た部下の腹を貫いた。驚く二人の男を尻目に、少年は腹を刺された部下の刀の柄を掌で押し、大将顔の男の喉に突き立てた。
周りから見れば同士打ちのように見える惨劇をたった数秒で作り上げた。
「勘蔵、ワシが五十数えるまでに皆殺しにせよ」
老人は少年に指示を与える。少年は血に染まった顔に恍惚の笑みを浮かべ老人に向かって頷く。
周囲の男達は一斉に少年に剣を振りかざしてくる、少年は死んだ男から二本の小太刀を奪うと姿勢を低くし攻撃に備える。
三人の男が同時に少年に向かって切りかかった。
激しく血が飛び散る
少年はいつの間にやら三人の男達の後ろにおり、次の獲物を定めている。
先程の三人の男達はそれぞれ味方の剣で切り合い血を流し倒れている。
不可解な攻撃に男達は恐怖に怯え刀を捨てて逃走を開始した。
「だ、だめだぁ。こいつら妖怪じゃぞ、逃げろぉ」
蜘蛛の子を散らすかの如く、バラバラと男達は雪に足を取られながら後ろを向いて逃げ出す。
老人はまだ数を数えている、今が三十を切った所だ。
少年は笑いながら雪の上を走りだす、それこそまるで体から体重が消えたかのように、少しの足跡も残らず走る。
林の至る所から絶叫と血飛沫が立ち上がる。
「四十八…四十九…」
「お待たせ致しました柊様」
体中真っ赤に染まり、歪な笑みをした少年が老人の元に戻ってきた。
既に手ぶらで刀は持っていない。
「見事也、勘蔵よ」
少年は満足げな笑みで会釈した。
「”剣の舞”、”カマイタチ”共に腕を上げたな。柳生の無刀取りなど足元にも及ばぬ」
「山陰五兵流は無双でございます。形だけで役に立たぬ芸者の技とは違います」
「ふふっ言うわ。街に着くまでにその服と、体を洗わねばなるまいな。さてどうするかの」
「御安心下さい。一人あえて逃がした者がいます。奴らの住処にでも行って体を洗いますよ」
そう言うと少年は掌に薄い糸を見せる。
「蜘蛛か、主は実に憂い奴じゃ。今日はその住処へ行き愛し合おうぞ」
少年は柊老人の手を握り、口を吸って欲しいとねだった。
場所と時は変わり、東北平泉の水葉仙人の屋敷に移る。
この山奥の館は何重もの屋根と壁で囲まれていた。
今更ながら思ったが、冬の奥州は心底冷える。
れいは、檜で作られた贅沢な風呂で一人体を休めていた。
ぬか袋で体を擦ると、ボロボロと体から垢がこぼれ落ちる。
体中が真っ赤になるまで、ぬか袋で体を擦ると風呂の湯を頭からかぶる。
湯からは、柚子のいい香りがした。
柚子は本来、北国では栽培が出来ない物である事から、遠く南方から仕入れたものと思われる。
当時、風呂は贅沢の極みとされた時代、柚子湯は大名や一部の特権階級のみが出来た最高のもてなしである。
彼女がそれを柚子と把握できたのは、大阪城での小侍従時代の経験であった。
湯の中に入ると、何とも良い香りが彼女を包む。
「ふぅ。これは…何とも素晴らしい…」
七日間、休みも殆ど取らずに走り抜けてきた疲れからか、うつらうつら、と目蓋が重くなって…そして意識が遠退いた。
どのくらい眠っていたのだろうか。
夢の中で蝶に憧れる芋虫を演じていた自分が川へ落ちた処で夢から覚めた。
茹った体に水をかけられたようだ、朦朧とする意識の中もう一度顔に向かって冷たい水がかけられた。
「どんだけ長風呂してるのかと思いきや、ゆでダコみたいに赤くなるまで入って居やがって」
一応体には布が掛けられていたが、うっすらと体の線が見えていた。
「あ、ありがとうございます。…あの、私どのくらいここに」
「半刻以上もここに居たようじゃ、ワシが気付かねばお前さんは死んでいたな。もっともお前の様な化け物は死んだ方がいいんじゃがな」
そう言うと、手を二回ほど叩き虎史郎を呼んだ。
虎史郎は顔を赤めながらなるだけ彼女の姿を見ないようにして新しい布を差し出した。
「虎の阿呆が、さっさと連れて行け。こいつは今動けん」
虎は彼女を抱きかかえると、彼女の部屋へ歩いて行った。一人風呂場に残った水葉仙人は目を細めて少し笑った。
部屋に戻ったれいは、虎史郎の手助けがあってようやく布団に入る事が出来た。
寝巻きも自分では着れない程弱っていた。
(私は馬鹿だなぁ)
味方と決まった訳では無い家で風呂でのぼせて動きも取れないなんて…一人で戦えるのだろうか…
急に不安になって布団を頭からかぶる。
(ひとつ…)
脳裏にひとつの逞しい背中が映る。
「失礼します」
虎史郎が部屋に入ってきた。れいは蒲団から顔を出して彼を見た。
彼は桶いっぱいに雪を詰めて来ていて、その中に手拭を入れて冷やし、それを彼女の額と目蓋の上に置いてくれた。
とても冷たいが気持良く、顔の火照りが嘘みたいに引いた。
「よく寝付けない時は、こうやって目蓋も冷やすと眠りやすいんですよ」
そう言って笑ってまた手拭を冷やしてくれた。
「ご迷惑をお掛けしてすみません」
「気になさらないでください。これも修行の内ですから」
何とも彼の機嫌が良いようだ。
れいは手拭いをは外し、彼の顔を見る。
「良かったですね、明日師匠がお話を聞いて下さるそうです」
彼はニコニコと笑顔で彼女に話した。当のれいは突然の事で訳が分らない、ただでさえ頭の回転が鈍っている。
「気まぐれなんですよ、深い意味は無いです。上手く行けば薬が貰えるかも知れませんよ」
ようやく彼女は安堵の顔になった。
「まずは疲れを癒してください。だいぶお疲れのようですし、明日の朝御都合が宜しい時に私にご連絡頂ければ師匠に時間を作ってもらいます」
そう言うと彼は雪の入った桶を彼女の枕元に置き、静かに部屋から去って行った。
(明日、この密書を渡して薬が手に入れば私の仕事はあらかた終わる…)
歴史上、後継者が居なかったが為に滅びた家柄は少なくない。
鎌倉時代を切り開いた源家は三代で終わり、天下は北条家へと移った。
豊臣も同じような状態にならないとも言えない、但し豊臣家の場合は戦乱を巻き起こすだろう。
下手すれば再び戦国の世に帰る可能性もある。
泰平の世になれば忍は価値を失い、仕事は無くなる。
再び手拭いを冷やして額に被せる。
モヤモヤと不安が膨れ上がっていた頭の中がスッと空になり
(今は自分のことだけを考えよう)
そう決意すると意識を遠くに落とした。
次の日の朝、まだ夜が明けて間もない頃、すでに台所には虎史郎が朝餉の準備に取りかかっていた。
「お早いんですね。虎史郎さん」
「おはようございます。ご気分はどうですか」
「とてもいい感じです。虎史郎さんのおかげですよ」
虎史郎は顔を赤めて目を反らす。
「朝餉が出来たらお呼び致します、師匠とも一緒ですが構いませんか」
「もちろん。後、少しお手伝い致しましょうか」
虎史郎は慌てて、
「とんでもない。お客様に食事を作らせたなんて知れたら大変ですよ。れい様はお部屋でお休みください」
彼女は少し考え、彼の顔を見て笑った。
「分りました、では御屋敷を見て回っても良いですか」
虎史郎はコクリとうなずいて見せると再び料理の方を始める、彼女は出来る限りゆっくりと台所から去った。
(この屋敷をしっかり調べておかないと…)
もしもの時の為に屋敷の構造を知らねばならない、彼女は怪しまれぬようぬ屋敷の中をゆっくりと歩いて回る。
忍者屋敷のようなカラクリ作りでは無い事だけは確かだが、どうにも怪しく思える。
どちらかと言うと武家屋敷のような作りがどうにも違和感を拭えないが、それでも特別な仕組みがあるようには見えなかった。
廊下に出るとそこに水葉仙人がいた。目の前に立つと彼は非常に小柄で、れいの胸元程の背しかなかった。
「ちょっとこいや、今の内に話を聞いておく」
そう言うと彼はくるりと背を向けて自分の部屋へと戻って行く。
れいも何も言わずにその後をついて水葉仙人の部屋へと続く
「昨日の書状を出してみろ」
仙人の部屋に入った二人は囲炉裏の傍に座って向かい合った。
外はまだ日が昇り始めたばかりの時間で、障子の隙間から日が差し込んできた。
「これを…」
昨日叩き返された書状を渡す。
彼は一通り読み通し、目を閉じ毛の無い頭をさする。
頭を上げぶっきらぼうに言葉をかけた
「若殿の具合や知っている事をすべて話せ」
れいは水葉仙人にすべての症状を伝えた、どのように始まったのか、現在どのような具合であるか
仙人は囲炉裏の中に水を掛け灰を湿らせると、その灰にれいから聞いた症状を書いていく。
「ふむぅ」
仙人は再び黙り込んで灰の上の文字を眺めていく。
「いかがでしょうか、何かわかりますか」
相変わらず返事は無く思考にふけっていた。
少しの沈黙の後、仙人は口を開いた。
「…これはワシの手には負えんな…」
仙人はハッキリとれいに言い切った。
台所の方から虎史郎の朝餉が出来たと言う声がしたが、れいの耳には届かなかった。
七、 平泉の薬屋
その症状は風邪に良く似ていた。
発熱と咳が止まらなくなる、体から力が抜け動く事すら困難になる。
だが問題はそこでは無い、問題は与えていた薬の方だ。
依存性が強く、薬を飲まねば再び具合が悪くなる。
一種の薬物中毒状態なのだ。
仙人はこう告げた、生き物には自分で体を治す機能がある。ケガをしても唾をつけておけば具合が良くなる、風邪を引いても数日後には体調が戻る。
これを彼は”代謝”と彼は言った。
人は常に成長しており、体内の毒や傷は、蛇が脱皮するかのように脱ぎ捨ててゆくものだと。
この周期がある為に人は傷を癒し、病気を治せると。
しかし、この病はおそらく過剰な毒消し作用が含まれている為に人体の代謝の機能が弱まっていると。
「何とかなりませんでしょうか仙人様」
水葉仙人は、毛の無い頭をさすったり、竹串で灰に文字を書いたりと落ち着いていない。
れいの顔は曇りを見せる。
自分の不注意で毒を若様に与えていたのだが、それが不治の病である事を知ってしまったのだ。
すがる気持ちでこの平泉まで来たのに、どうにも成らないとすれば、どの様に加藤清正様や石田三成様にお伝えすれば良いのやら。
体は震え、少し目頭が熱くなった。
水葉仙人は、彼女をじっと見つめていたが少し微笑んで彼女に言葉をかけた。
「その毒薬は今あるか」
ハッと我に帰り、懐より小さな竹筒を取り出し水葉仙人に手渡す。
水葉仙人はその竹筒を手に取り、詰め物を外して中に入っていた三錠の薬と粉末が入っている小さな紙袋を手に取った。それを机の上に広げて繁々と見つめる。
「今日の晩までに調べておく。その間にお前は薬に使う材料を買ってこい」
水葉仙人は再び囲炉裏の灰に水をかけて湿らせると、竹串で”朝鮮人参”、”冬虫夏草”、”反鼻(ハンピ)”の三つを書き見せた。
「麓に薬問屋がある、小さいが大陸から届いた珍しい生薬を売ってる。虎を連れて行くがいい」
「分りました。何卒お願い致します」
れいは頭を下げ、席を立とうとすると水葉仙人は彼女を睨みこう言った。
「虎には事を言うなよ。太閤だのなんだの言う必要はない」
「…心得ました」
頭を下げ部屋から退出する彼女の姿を水葉仙人は最後まで見つめていた。
一刻後、二人の男女が屋敷の門を開き外に出た。
まだうっすらと靄がかかっており、寒風が二人を襲う、厚着をしていてもまだ寒い。
道は真白に染まっており、歩く度に”シャクシャク”と音を立てている。
「朝餉は口に合いましたか」
相変わらず女性…いや、れいに対して照れを隠せない虎史郎は顔を向けずに上を向いて彼女に話しかけた。
「とても美味しかったです。食事を作るのがとても上手なのですね」
彼女が笑いかけると、虎史郎も緊張がほぐれたのか
「本当ですか、よかったぁ。私と師匠の好物なんですが、貴方のお口に合うか心配でした」
彼は朝餉にも拘らず”芋粥”をふるまってくれたのだ。
山芋を煮込み、甘蔓で味をつけた平安時代からの伝統的な作り方で、芥川龍之介の短編小説の題材にもされている。
緊張が抜けた虎史郎はとてもおしゃべりで二人は道中の間、沢山の話をした。
水葉仙人への不満や尊敬すべき点、山奥に二人暮らしではとても暇だとか。
まれに住み込みで病気の治療を行う武家の方々と手合せを行ったりする事。
れいが笑うと虎史郎は満面の笑みを浮かべた。
ただ、彼女は自分が忍である事と、任務、何を頼みにきたかは虎史郎には伝えなかった。
それから一刻ほど歩くき麓の町に入った。
二人は歩きながら町を眺めるが、どうやら雪の為に旅人や町人の姿は殆ど無く、活気は失われている。
夏場は中尊寺への参拝の要となる町の様で、魚の売買の他に金銀の売買も行われているらしく市場の規模は大きかった。だが、冬の時期は全く機能していないらしい。
れいは、虎史郎の案内で薬屋に入る。
薬屋は、離れていても匂いがすごかったが中に入ると粉っぽく、甘苦い匂いが充満している。
「やぁ、旦那。すまないな、こんな時期に店を開けてもらって」
旦那と呼ばれた薬屋の主人は中年の痩せた男で、髪は殆んど白髪だけであった。
「仙人様には御世話になってるから気にするなよ」
旦那と虎史郎は仲が良いようで雑談をしながら茶菓子をほおばった。
「旦那、この三つの生薬あるかい。大陸からの物ばかりで難しいかも知れんが」
虎史郎は懐より水葉仙人から渡された紙を旦那に渡す。
紙を手に取った旦那は二度ほど目を通すと、
「まぁ、茶でも飲んでここで待っててくれるか」
そう言うと、彼は店の中に並ぶ薬棚を開いて指定された三つの生薬を探す。
れいと虎史郎は茶を啜り外を眺める。
「あっ雪がまた降ってきた」
虎史郎は苦い顔をして空を見ている。
「まずいなぁ、早く帰らないと…」
雪道は非常に歩きにくく、その上に屋敷に行くまでの道は整備されていない獣道だ。暗くなり、進むべき道を間違えれば今夜中に着く事すら無理かもしれない。
そんな事を虎史郎が話していると、薬屋の旦那は困った顔をして現れた。
「悪いなぁ、反鼻と朝鮮人参はあるんだが、冬虫夏草は伊達の殿様が南蛮人への土産にと、この前買って行ったままであったわ」
「困ったなぁ。でも何で大陸から仕入れた物を土産にやる必要があるのかねぇ」
虎は当てが外れて手に入らなかった事で少し困った顔をしていた。
「前に南蛮人が伊達様の城で寝込んだ際に水葉の仙人様が薬を作ったろ。それで南蛮人がその薬を気に入ったみたいでな、材料の冬虫夏草を所望したそうだ」
「まだその南蛮人は伊達様の城に居るんですか」
「今はまだ仙台の港に居るらしいが、もう二、三日したら船は出るらしいぞ」
「他に冬虫夏草がある店知らないか」
「北には無いな。堺か博多なら大陸と交易があるから売ってる店もあるかもしれないがね」
そこまで話すと虎史郎もれいも言葉を無くし、代金と礼を言って店から出る。
帰り道中、茶屋があったので熱いうどんを頼んで食ったが二人は終始無言であった。
どうにも、話しかけ難い雰囲気がれいにあったのだ。
虎史郎はそれを、生薬がすべて手に入らなかった為と見ていたが、実の処は”どのようにして冬虫夏草を奪うか”、それを考えていた。
場所は変わり仙台の街
酒も肴も上手いと評判の茶屋の二階に柊老人と勘蔵の二人は居た。
ここも伊賀忍の隠れ宿の一つである。
隠れ宿は全国に数多くあり、ごく普通の茶屋でありながら隠し部屋があり、仲間が密会を開く際にのみ使われる。
二人の男は酒を口移しに飲み合い、雪見酒と洒落こんでいた。
深く酔いながらも勘蔵は二本の小太刀を決して手元から離す事無く、口移しの際ですら目線は常に四方八方へ向き、警戒を怠る事は無い。
無粋かと言えばそうでもなく、むしろ戦国の侍として見本となるような行動である。
勘蔵は紀伊の山奥の出身であり、その土地の豪族が護身用の技術として編み出したのが山陰流刀法。
両手に小太刀を持ち、攻防一体の”流れ”を重視する。
山陰五兵流は二刀小太刀を一の技とし、無刀護衛術を二の技、舞踊を三の技、投撃術を四の技、隠密移動術を五の技とする総合護身術である。
二刀小太刀は特別な持ち方を行う、両方の掌で包むように握るのが通常の握りだが二刀小太刀の場合、人差指と中指の間に柄を挟み、刃は手の甲の方向を向いている。
無刀護身術は、投げ、極め、打突のによる護衛方法を相手が兵器を持った状態で訓練を行う。これにより兵器を持つ相手に対し自己防衛を行う。
舞踊は足運びを学ぶ為のものである。古来より舞踊は兵法の一つとされ、一人で稽古をする為の稽古の流れを踊りの中に組み込んだものだ。現代の空手で言う”型”に近い。
投撃術は、石礫から手裏剣、果ては鉄砲術までを指し、遠距離からの戦い方と命中精度を訓練する。
隠密移動術とはそのままで、忍者の歩法を身につける為の技術である。跳躍、俊足移動などの基礎的移動術を訓練する。
これらの技術を混合した物が山陰五兵流と呼ばれ、戦場よりむしろ暗殺などの忍と同じような世界で働いていた。
「柊様、何故に平泉へ向かわれず仙台へ来られたのですか。あの女は水葉の仙人の所へ向かったのでしょう、でしたら平泉で良かったのでは無いですか」
柊老人は勘蔵の膝の上で膝枕をして貰っている。少しばかり顔が赤く染まり酒の匂いが口から流れ出ている。
彼は眠そうな声で勘蔵へ言葉をかけた。
「気にするな勘蔵、今に分かるが、あの娘は仙台に来るよ。我等は奴が来る場所に罠を仕掛けておれば良いのだ」
そう言うと柊老人は目を閉じ勘蔵の膝の上で寝息を立てた。
その寝顔をうっとりとした顔で眺めると、勘蔵はその口を舌で舐めまわした。
吹雪いてきた夜空を見つめると、まるで空に吸い込まれそうな…そんな夜の出来事であった。
その症状は風邪に良く似ていた。
発熱と咳が止まらなくなる、体から力が抜け動く事すら困難になる。
だが問題はそこでは無い、問題は与えていた薬の方だ。
依存性が強く、薬を飲まねば再び具合が悪くなる。
一種の薬物中毒状態なのだ。
仙人はこう告げた、生き物には自分で体を治す機能がある。ケガをしても唾をつけておけば具合が良くなる、風邪を引いても数日後には体調が戻る。
これを彼は”代謝”と彼は言った。
人は常に成長しており、体内の毒や傷は、蛇が脱皮するかのように脱ぎ捨ててゆくものだと。
この周期がある為に人は傷を癒し、病気を治せると。
しかし、この病はおそらく過剰な毒消し作用が含まれている為に人体の代謝の機能が弱まっていると。
「何とかなりませんでしょうか仙人様」
水葉仙人は、毛の無い頭をさすったり、竹串で灰に文字を書いたりと落ち着いていない。
れいの顔は曇りを見せる。
自分の不注意で毒を若様に与えていたのだが、それが不治の病である事を知ってしまったのだ。
すがる気持ちでこの平泉まで来たのに、どうにも成らないとすれば、どの様に加藤清正様や石田三成様にお伝えすれば良いのやら。
体は震え、少し目頭が熱くなった。
水葉仙人は、彼女をじっと見つめていたが少し微笑んで彼女に言葉をかけた。
「その毒薬は今あるか」
ハッと我に帰り、懐より小さな竹筒を取り出し水葉仙人に手渡す。
水葉仙人はその竹筒を手に取り、詰め物を外して中に入っていた三錠の薬と粉末が入っている小さな紙袋を手に取った。それを机の上に広げて繁々と見つめる。
「今日の晩までに調べておく。その間にお前は薬に使う材料を買ってこい」
水葉仙人は再び囲炉裏の灰に水をかけて湿らせると、竹串で”朝鮮人参”、”冬虫夏草”、”反鼻(ハンピ)”の三つを書き見せた。
「麓に薬問屋がある、小さいが大陸から届いた珍しい生薬を売ってる。虎を連れて行くがいい」
「分りました。何卒お願い致します」
れいは頭を下げ、席を立とうとすると水葉仙人は彼女を睨みこう言った。
「虎には事を言うなよ。太閤だのなんだの言う必要はない」
「…心得ました」
頭を下げ部屋から退出する彼女の姿を水葉仙人は最後まで見つめていた。
一刻後、二人の男女が屋敷の門を開き外に出た。
まだうっすらと靄がかかっており、寒風が二人を襲う、厚着をしていてもまだ寒い。
道は真白に染まっており、歩く度に”シャクシャク”と音を立てている。
「朝餉は口に合いましたか」
相変わらず女性…いや、れいに対して照れを隠せない虎史郎は顔を向けずに上を向いて彼女に話しかけた。
「とても美味しかったです。食事を作るのがとても上手なのですね」
彼女が笑いかけると、虎史郎も緊張がほぐれたのか
「本当ですか、よかったぁ。私と師匠の好物なんですが、貴方のお口に合うか心配でした」
彼は朝餉にも拘らず”芋粥”をふるまってくれたのだ。
山芋を煮込み、甘蔓で味をつけた平安時代からの伝統的な作り方で、芥川龍之介の短編小説の題材にもされている。
緊張が抜けた虎史郎はとてもおしゃべりで二人は道中の間、沢山の話をした。
水葉仙人への不満や尊敬すべき点、山奥に二人暮らしではとても暇だとか。
まれに住み込みで病気の治療を行う武家の方々と手合せを行ったりする事。
れいが笑うと虎史郎は満面の笑みを浮かべた。
ただ、彼女は自分が忍である事と、任務、何を頼みにきたかは虎史郎には伝えなかった。
それから一刻ほど歩くき麓の町に入った。
二人は歩きながら町を眺めるが、どうやら雪の為に旅人や町人の姿は殆ど無く、活気は失われている。
夏場は中尊寺への参拝の要となる町の様で、魚の売買の他に金銀の売買も行われているらしく市場の規模は大きかった。だが、冬の時期は全く機能していないらしい。
れいは、虎史郎の案内で薬屋に入る。
薬屋は、離れていても匂いがすごかったが中に入ると粉っぽく、甘苦い匂いが充満している。
「やぁ、旦那。すまないな、こんな時期に店を開けてもらって」
旦那と呼ばれた薬屋の主人は中年の痩せた男で、髪は殆んど白髪だけであった。
「仙人様には御世話になってるから気にするなよ」
旦那と虎史郎は仲が良いようで雑談をしながら茶菓子をほおばった。
「旦那、この三つの生薬あるかい。大陸からの物ばかりで難しいかも知れんが」
虎史郎は懐より水葉仙人から渡された紙を旦那に渡す。
紙を手に取った旦那は二度ほど目を通すと、
「まぁ、茶でも飲んでここで待っててくれるか」
そう言うと、彼は店の中に並ぶ薬棚を開いて指定された三つの生薬を探す。
れいと虎史郎は茶を啜り外を眺める。
「あっ雪がまた降ってきた」
虎史郎は苦い顔をして空を見ている。
「まずいなぁ、早く帰らないと…」
雪道は非常に歩きにくく、その上に屋敷に行くまでの道は整備されていない獣道だ。暗くなり、進むべき道を間違えれば今夜中に着く事すら無理かもしれない。
そんな事を虎史郎が話していると、薬屋の旦那は困った顔をして現れた。
「悪いなぁ、反鼻と朝鮮人参はあるんだが、冬虫夏草は伊達の殿様が南蛮人への土産にと、この前買って行ったままであったわ」
「困ったなぁ。でも何で大陸から仕入れた物を土産にやる必要があるのかねぇ」
虎は当てが外れて手に入らなかった事で少し困った顔をしていた。
「前に南蛮人が伊達様の城で寝込んだ際に水葉の仙人様が薬を作ったろ。それで南蛮人がその薬を気に入ったみたいでな、材料の冬虫夏草を所望したそうだ」
「まだその南蛮人は伊達様の城に居るんですか」
「今はまだ仙台の港に居るらしいが、もう二、三日したら船は出るらしいぞ」
「他に冬虫夏草がある店知らないか」
「北には無いな。堺か博多なら大陸と交易があるから売ってる店もあるかもしれないがね」
そこまで話すと虎史郎もれいも言葉を無くし、代金と礼を言って店から出る。
帰り道中、茶屋があったので熱いうどんを頼んで食ったが二人は終始無言であった。
どうにも、話しかけ難い雰囲気がれいにあったのだ。
虎史郎はそれを、生薬がすべて手に入らなかった為と見ていたが、実の処は”どのようにして冬虫夏草を奪うか”、それを考えていた。
場所は変わり仙台の街
酒も肴も上手いと評判の茶屋の二階に柊老人と勘蔵の二人は居た。
ここも伊賀忍の隠れ宿の一つである。
隠れ宿は全国に数多くあり、ごく普通の茶屋でありながら隠し部屋があり、仲間が密会を開く際にのみ使われる。
二人の男は酒を口移しに飲み合い、雪見酒と洒落こんでいた。
深く酔いながらも勘蔵は二本の小太刀を決して手元から離す事無く、口移しの際ですら目線は常に四方八方へ向き、警戒を怠る事は無い。
無粋かと言えばそうでもなく、むしろ戦国の侍として見本となるような行動である。
勘蔵は紀伊の山奥の出身であり、その土地の豪族が護身用の技術として編み出したのが山陰流刀法。
両手に小太刀を持ち、攻防一体の”流れ”を重視する。
山陰五兵流は二刀小太刀を一の技とし、無刀護衛術を二の技、舞踊を三の技、投撃術を四の技、隠密移動術を五の技とする総合護身術である。
二刀小太刀は特別な持ち方を行う、両方の掌で包むように握るのが通常の握りだが二刀小太刀の場合、人差指と中指の間に柄を挟み、刃は手の甲の方向を向いている。
無刀護身術は、投げ、極め、打突のによる護衛方法を相手が兵器を持った状態で訓練を行う。これにより兵器を持つ相手に対し自己防衛を行う。
舞踊は足運びを学ぶ為のものである。古来より舞踊は兵法の一つとされ、一人で稽古をする為の稽古の流れを踊りの中に組み込んだものだ。現代の空手で言う”型”に近い。
投撃術は、石礫から手裏剣、果ては鉄砲術までを指し、遠距離からの戦い方と命中精度を訓練する。
隠密移動術とはそのままで、忍者の歩法を身につける為の技術である。跳躍、俊足移動などの基礎的移動術を訓練する。
これらの技術を混合した物が山陰五兵流と呼ばれ、戦場よりむしろ暗殺などの忍と同じような世界で働いていた。
「柊様、何故に平泉へ向かわれず仙台へ来られたのですか。あの女は水葉の仙人の所へ向かったのでしょう、でしたら平泉で良かったのでは無いですか」
柊老人は勘蔵の膝の上で膝枕をして貰っている。少しばかり顔が赤く染まり酒の匂いが口から流れ出ている。
彼は眠そうな声で勘蔵へ言葉をかけた。
「気にするな勘蔵、今に分かるが、あの娘は仙台に来るよ。我等は奴が来る場所に罠を仕掛けておれば良いのだ」
そう言うと柊老人は目を閉じ勘蔵の膝の上で寝息を立てた。
その寝顔をうっとりとした顔で眺めると、勘蔵はその口を舌で舐めまわした。
吹雪いてきた夜空を見つめると、まるで空に吸い込まれそうな…そんな夜の出来事であった。
八、疋田の話
水葉仙人は一冊の本を彼女に見せた。
「これは何でしょうか」
項をめくるが見慣れぬ文字が書いてあり彼女には理解出来なかった。
彼女は水葉仙人の方を見上げる、水葉仙人は睨みつけるような冷たい眼差しを投げかける、目を囲炉裏の火掻き棒へ向け、右手でそれを手に取った。
「紙を一枚挟んでおる項があるだろ、そこを見ろ」
そう言うと火掻き棒で、れいの手の上にある本の項をそれでめくる。
厚い和紙が挟まったその項には図入りで何らかの病気について書いてあるようだ。
「その紙に南蛮語を訳した文が書いてある。見てみろ」
れいはその厚い和紙に書いてある文字へ目を通す。
”自然回復作用を弱める毒について”、項目の冒頭はそう書いてあった。
中身を読むと更に驚くべき内容が書いてある。
”服用すれば一時的に体に力が漲るが、服用を続ければ自分の力で怪我や病気を克服出来なくなる”
鶴松殿下と同じ症状だ。
ハッとなり、れいは水葉仙人の方へ再び顔を向けた。
「毒の種類は分った、南蛮人が”ぱうあ”とか呼んでいる薬らしい。元々は南蛮人が他民族と戦をする時に兵に与えた薬だったようだ。一時的に痛みや疲労感が消え、体に力が戻る一般的な薬だったようだが、常用すれば本に書いてあるように体が弱ってしまう為に毒薬と認定されて禁止になったらしい」
水葉仙人の眼はまだ凍った瞳のままであった、彼は白湯を喉に流し込み一息つくと再び口を開いた。
「この毒薬の特徴は長い時間をかけて殺す事にある。すなわち犯人の特定が非常に難しい。幾度か服用を続けると徐々に具合が悪くなり、病として殺す事が出来る。それ故に遠く西方の国々はこの薬を使い時の権力者の暗殺に使って来たらしい」
「その毒を消す薬はあるのでしょうか」
たまらず口を開く。
「…今日頼んだ生薬はすべて精力剤に使う、毒薬の代わりに弱った体に力を与えるものだ」
そう言うともう一つ本を取り出し彼女に見せた。
その本には生薬の成分と効能が書いてあり、それぞれ体調を整え、精力を与える薬として書いてある。
「冬虫夏草の成分には精力増進の他に毒への対抗力を高める効能がある、まずはこれらの生薬で体調を戻す」
(やはり、冬虫夏草は必要か…となると、やはり仙台へ乗り込む必要があるな…)
れいは、脳裏に今後の筋道を組み立てる。やはり今日、必要な生薬が手に入らなかったのは痛手である。
鶴松殿下事態の体調が現在どのようになっているのかも分らない…ここまで来るだけでも時間を取り過ぎている。
「もう一つ、どうしても必要な物がある」
水葉仙人は、静かだが重みのある口調で言った。
「毒の中和剤が必要だ。もし、この毒が体を蝕み始めて直ぐであれば精力剤で何とかなるのだが、話によればだいぶ時間が過ぎている。毒を急いで中和し体外に排出する必要がある」
「その中和剤はどこで手に入るのでしょうか」
すべての筋道は固まった、彼女にもう迷いはなかった。
澄んだ瞳で水葉仙人を見つめる。それを見て何かを察したか、水葉仙人は火掻き棒を囲炉裏に突き刺し彼女の眼を見据えた。
御互い見つめ合いどのくらい経っただろうか。
時間ですれば非常に短い時間だったが、二人にはとても長く感じ取れた。
水葉仙人は頭を引き、目を閉じ、毛の無いうなじの辺りを爪で掻く。
「よぉ、何故ワシがお前を嫌っていたか、そして今お前の手助けをするか分かるか」
水葉仙人は突如奇妙な質問をれいに投げかけた。
予想外な返答に彼女の眼は丸くなり、彼女もまた頭を引き、髪の毛を指でいじる。
「…全部推測ですし、失礼かもしれませんが良いのでしょうか」
「聞かせてみろ」
水葉仙人は少し笑って肘掛けに体重を乗せた。
「貴方は、元忍ですね、どこの忍かは分りませんが屋敷の構造を見てそう思いました。それに私の事をすぐに忍の者と見破りました。だから貴方を元忍の者と…」
彼の眼はただ静かに光る。
背中に雪玉を詰められたかの様に背筋に寒気が走る。
彼女はその雰囲気に負けぬよう、言葉を続けた。
「私を助けて下さるようになった理由は良くわかりません、ただ、仙人様も事の重大性を理解して頂いた為かと思いました」
れいは、言葉を発し終えると荒くなってしまった呼吸を整える。
水葉仙人は、まだ冷たい眼差しを放っている。
少しも変わらない冷たい空気が部屋の中に渦巻く。
水葉仙人は、ゆっくりと手に木製の灰皿を手にするとニヤリと笑みを浮かべ灰皿の中の灰を囲炉裏に捨てる。
カツン、カツン、カツン
焼けた木目も囲炉裏の中に捨てられ、空っぽになった灰皿を目線の高さまで持ち上げる。
その瞬間、れいの眼にも止まらぬ程の速さで灰皿は部屋と廊下を繋ぐ障子へ向かって飛んで行った。…目を向ける事無く…
カコン、と軽い音が廊下より聞こえる。
「虎。盗み聞きとは何だ、恥さらしめ。外で素振りでもしてこい」
音が鳴った場所から灰皿が投げ返される、それもまた見事な腕で水葉仙人の顔に向かって飛ぶ。
これまた何事も無いように飛んでくる物を見る事無く、右手で灰皿を受け取ると、何事も無かったかのようにそれを畳の上に置いた。
廊下からは、舌打ちと怒りを表すような大きな音で走って行く音がした。
水葉仙人はキセルに煙草を詰め囲炉裏の火を煙草に移した。
彼は煙を吸い込み天井に向かってそれを吐くと、ようやくれいに向かって言葉をかけた。
「はずれじゃ、愚か者め」
そう言うと皮肉な笑みを浮かべキセルを咥えた。
「ワシは元々武芸者じゃ。元の名を”疋田虎七”と言う。お前を助けようと思うたのは裏を隠せぬ間抜けな忍だったからだよ」
相変わらず皮肉たっぷりの水葉仙人は、姿勢を正す事も無く言葉を続けた。
水葉仙人は元々剣で身を持つ事を考えた武芸者である。小柄ではあったが村一番の力持ちであった彼は山々で独自の修業を行い過酷な自然の中で生活を続けた。
彼には腹違いの弟がおり、彼の名を”疋田豊五郎”と言う。
ある日、弟の豊五郎が一人の客人を連れて来た。その男の名は”上泉伊勢守信綱”、既に名が広まり剣聖と呼ばれていた男である。
上泉伊勢守は果し合いで受けた傷が元で病を引き起こしていた。
虎七は山で生活をし、自然と様々な傷や病に対する治療法を知っている。
彼は生薬を探し、己で薬を作り、数日の看病の末に上泉伊勢守の病を完治させた。
上泉伊勢守は大変感謝し、薬の調合法など彼から学ぶ為に数カ月の間共に過ごす事になった。
昼は上泉伊勢守から剣を習い、夜は薬について共に勉学に励む。
大変忙しかったが、長い間一人で暮らしていた虎七にとって忘れる事が出来ない日々を送った。
虎七は結局最後まで上泉伊勢守はおろか弟である豊五郎にすら勝つ事が出来ず、剣で身を立てる事をきっぱりと諦める事にした。
と、同時に薬学に対する情熱が心の内で燃え広がり、薬学士として身を立てる決意を固めた。
それから十数年たった頃、豊五郎は傷だらけの体で幼い子供三人と一人の侍に抱えられ屋敷を再び訪れた。
話を聞けば豊五郎は数か月前、ある大名家に剣客として呼ばれ、その場で真剣の勝負をする事となった。
相手は力自慢、技自慢の大名家の四男坊。豊五郎程の腕前があれば真剣であってもお互いに傷付かずに勝利する事が出来たのだが、生来の生真面目さ、融通の利かなさが仇となり殿様の前で相手を真っ二つに切り払った。
殿さまの怒りは相当激しかったらしい、夜も昼も執拗に豊五郎を追い掛け殺しにかかった。
豊五郎は自分の三人の子供を連れ、ひっそりと北へ北へ逃げ、ようやく虎七の屋敷にたどり着けた。
…ここに来るまでの道中、体中を傷だらけにしながら無事に子供を守り続ける事が出来たのは彼ならではの事であろう。
虎七は彼の看病と子供の世話を数日の間続けた。子供のいない虎七にとっては楽しい数日間であった。
だが、その幸せも長くは続かぬ。
ある夜更けに豊五郎は虎七を呼び起こす
「兄上、屋敷が囲まれています。敵の忍達が遂に一斉攻撃を始めるつもりです」
長年武術から離れていた虎七にはその気配を感じる事が出来なかった。
豊五郎は素早く子供達を隠し、剣と槍を持って敵を迎え撃つ。
四方八方より飛んで来る手裏剣と矢を避けつつひたすらに敵の忍を切り続けた。
刀は三本使い物にならなくなり、槍は二本折れた。
だが、夜が明ける頃には十数人の忍の死体の中、彼らは逃げ出す最後の敵に槍を突き刺し殺す事に成功した。
「流石は兄上です。並の男では死んでいます」
豊五郎の体は、切り傷から血が流れ、すでに足は動けない程疲労しているのが分かる。
当然虎七は更に酷く、体に深く食い込んだ手裏剣が至る所に見受けられた。
しかし兎にも角にも危険は過ぎ去った。
美しい朝日の中、豊五郎は子供達を迎えに行く。
三人の子供は流石、豊五郎の子供と言ったところか、あの騒ぎの中全員眠っており虎七の心を和ませる。
「さぁ、起きよ。もう大丈夫だ」
長男と次男はその声に目を覚まし隠れ場所から抜け出すが、末の子だけはどうやっても起きてくれない。
「豊五郎よ、やめておけ。今は寝かしてやれ」
豊五郎も珍しくにこやかに笑い、再び隠し場所の戸を閉めた。
だが、絶望の引き金はすぐに引き起こされる。
厠の方より子供の絶叫が聞こえて来た。
二人の顔は青ざめ、上手く動かない足を引きずり厠へ向かう。そこには、目も当てられないような光景が広がっていた。
まだ幼い子供二人は磔のように、家の柱に槍で突き刺されていた。
ハッとなり外を見ると、そこには子供を殺したと思われる忍びが塀を登っている最中であった。その忍は足を両断され動きに俊敏さは無い。
そして虎七は見た、人が修羅になる姿を…
豊五郎は動かないはずの足で走りだし、その忍の両手を刀で切り落とした後、刀を忍の腹に刺し、それを塀に打ちつける。
目から血の涙を流し、その忍の体を何度も何度も殴る姿を見た時、虎七は心底恐怖を感じには居れなかった。
そして同時に怒りを覚えた。
その忍は、豊五郎を助けて連れて来た侍だったのだから。
夜はだいぶ更けて来た。
外からは虎史郎の素振りと気合いの声が聞こえてくる。
「豊五郎は最後にワシに”あの子”の事を頼んで行ったよ。一人でケジメを付けて来ると言ってな」
鼻から煙を吐き出し、コンコンとキセルを叩き灰を灰皿に落とす。
「ワシも直ぐに屋敷を移し、名を変えようやく平穏な生活を取り戻した」
れいには次に繋げる言葉は見つからない。
「虎と共にワシも剣を学び直した。たまに来る武芸者の技を虎に学ばせもした、だがワシは今でも不安だよ」
「ではなぜ私は良いのですか。貴方が憎む忍である私が」
再び彼は沈黙した。
れいは何も言わない、ただ彼が再び口を開くのを待つ。
水葉仙人は再び目をれいに向けこう言った。
「ワシも忍について学んだ。そして心を読み取る技を磨いた。…忍に対して今でも身を守る為に様々な技術を学んでいる」
一呼吸を置いて、キセルに煙草をつめ口に咥えた。
「お前は純粋すぎる。心が読まれたら忍は出来んぞ」
それはとても優しい笑顔であった。
いつもの凍るような眼では無かった。
「愚かで、無知で、純粋だ。汚い仕事をやっている者には出来ない目と仕草だよ」
悪く言えば忍失格の烙印である。だが、その言葉はれいの心に春風の様な清々しさを運んだ。
「中和剤は仙台の南蛮船にあるだろう。裏は取れている、昼のうちに情報屋から聞いた。あの船には”ぱうあ”が運ばれている、毒があると言う事は薬もある。何故なら人は必ず自分の身を守るために毒と一緒に薬も買うものよ。南蛮人は商売が上手いもんだな」
れいの目に再び輝きが戻る。
「ありがとうございます。この御恩は忘れません」
れいは頭を下げ深く礼を言うと席を立つ。
水葉仙人はその後ろ姿を見て言葉をかけた。
「その本も持っていけ。どれが薬か分らんでは困るだろう」
水葉仙人はやさしい笑みで小さく笑った。
れいも顔を赤めながら、つられて笑う。
「仕事が終わったら足洗って普通の女になれ。お前には向いていないし、汚れるべきでは無い」
れいは、美しい乙女の笑みを水葉仙人に見せ、障子を開く。
「全部終わったら虎の嫁にならんか」
その言葉と、外から聞こえる虎史郎の稽古の掛け声に心が揺れた。
「…考えておきます」
外はもう一面真っ白で、雪は膝下まで積っていた。
庭を覗くと雪の中、虎史郎が汗だくになり木刀をふるっている。
れいの両目に涙が溢れたが、それを拭う事もせず
彼女は仙台に向けて走り出した。
水葉仙人は一冊の本を彼女に見せた。
「これは何でしょうか」
項をめくるが見慣れぬ文字が書いてあり彼女には理解出来なかった。
彼女は水葉仙人の方を見上げる、水葉仙人は睨みつけるような冷たい眼差しを投げかける、目を囲炉裏の火掻き棒へ向け、右手でそれを手に取った。
「紙を一枚挟んでおる項があるだろ、そこを見ろ」
そう言うと火掻き棒で、れいの手の上にある本の項をそれでめくる。
厚い和紙が挟まったその項には図入りで何らかの病気について書いてあるようだ。
「その紙に南蛮語を訳した文が書いてある。見てみろ」
れいはその厚い和紙に書いてある文字へ目を通す。
”自然回復作用を弱める毒について”、項目の冒頭はそう書いてあった。
中身を読むと更に驚くべき内容が書いてある。
”服用すれば一時的に体に力が漲るが、服用を続ければ自分の力で怪我や病気を克服出来なくなる”
鶴松殿下と同じ症状だ。
ハッとなり、れいは水葉仙人の方へ再び顔を向けた。
「毒の種類は分った、南蛮人が”ぱうあ”とか呼んでいる薬らしい。元々は南蛮人が他民族と戦をする時に兵に与えた薬だったようだ。一時的に痛みや疲労感が消え、体に力が戻る一般的な薬だったようだが、常用すれば本に書いてあるように体が弱ってしまう為に毒薬と認定されて禁止になったらしい」
水葉仙人の眼はまだ凍った瞳のままであった、彼は白湯を喉に流し込み一息つくと再び口を開いた。
「この毒薬の特徴は長い時間をかけて殺す事にある。すなわち犯人の特定が非常に難しい。幾度か服用を続けると徐々に具合が悪くなり、病として殺す事が出来る。それ故に遠く西方の国々はこの薬を使い時の権力者の暗殺に使って来たらしい」
「その毒を消す薬はあるのでしょうか」
たまらず口を開く。
「…今日頼んだ生薬はすべて精力剤に使う、毒薬の代わりに弱った体に力を与えるものだ」
そう言うともう一つ本を取り出し彼女に見せた。
その本には生薬の成分と効能が書いてあり、それぞれ体調を整え、精力を与える薬として書いてある。
「冬虫夏草の成分には精力増進の他に毒への対抗力を高める効能がある、まずはこれらの生薬で体調を戻す」
(やはり、冬虫夏草は必要か…となると、やはり仙台へ乗り込む必要があるな…)
れいは、脳裏に今後の筋道を組み立てる。やはり今日、必要な生薬が手に入らなかったのは痛手である。
鶴松殿下事態の体調が現在どのようになっているのかも分らない…ここまで来るだけでも時間を取り過ぎている。
「もう一つ、どうしても必要な物がある」
水葉仙人は、静かだが重みのある口調で言った。
「毒の中和剤が必要だ。もし、この毒が体を蝕み始めて直ぐであれば精力剤で何とかなるのだが、話によればだいぶ時間が過ぎている。毒を急いで中和し体外に排出する必要がある」
「その中和剤はどこで手に入るのでしょうか」
すべての筋道は固まった、彼女にもう迷いはなかった。
澄んだ瞳で水葉仙人を見つめる。それを見て何かを察したか、水葉仙人は火掻き棒を囲炉裏に突き刺し彼女の眼を見据えた。
御互い見つめ合いどのくらい経っただろうか。
時間ですれば非常に短い時間だったが、二人にはとても長く感じ取れた。
水葉仙人は頭を引き、目を閉じ、毛の無いうなじの辺りを爪で掻く。
「よぉ、何故ワシがお前を嫌っていたか、そして今お前の手助けをするか分かるか」
水葉仙人は突如奇妙な質問をれいに投げかけた。
予想外な返答に彼女の眼は丸くなり、彼女もまた頭を引き、髪の毛を指でいじる。
「…全部推測ですし、失礼かもしれませんが良いのでしょうか」
「聞かせてみろ」
水葉仙人は少し笑って肘掛けに体重を乗せた。
「貴方は、元忍ですね、どこの忍かは分りませんが屋敷の構造を見てそう思いました。それに私の事をすぐに忍の者と見破りました。だから貴方を元忍の者と…」
彼の眼はただ静かに光る。
背中に雪玉を詰められたかの様に背筋に寒気が走る。
彼女はその雰囲気に負けぬよう、言葉を続けた。
「私を助けて下さるようになった理由は良くわかりません、ただ、仙人様も事の重大性を理解して頂いた為かと思いました」
れいは、言葉を発し終えると荒くなってしまった呼吸を整える。
水葉仙人は、まだ冷たい眼差しを放っている。
少しも変わらない冷たい空気が部屋の中に渦巻く。
水葉仙人は、ゆっくりと手に木製の灰皿を手にするとニヤリと笑みを浮かべ灰皿の中の灰を囲炉裏に捨てる。
カツン、カツン、カツン
焼けた木目も囲炉裏の中に捨てられ、空っぽになった灰皿を目線の高さまで持ち上げる。
その瞬間、れいの眼にも止まらぬ程の速さで灰皿は部屋と廊下を繋ぐ障子へ向かって飛んで行った。…目を向ける事無く…
カコン、と軽い音が廊下より聞こえる。
「虎。盗み聞きとは何だ、恥さらしめ。外で素振りでもしてこい」
音が鳴った場所から灰皿が投げ返される、それもまた見事な腕で水葉仙人の顔に向かって飛ぶ。
これまた何事も無いように飛んでくる物を見る事無く、右手で灰皿を受け取ると、何事も無かったかのようにそれを畳の上に置いた。
廊下からは、舌打ちと怒りを表すような大きな音で走って行く音がした。
水葉仙人はキセルに煙草を詰め囲炉裏の火を煙草に移した。
彼は煙を吸い込み天井に向かってそれを吐くと、ようやくれいに向かって言葉をかけた。
「はずれじゃ、愚か者め」
そう言うと皮肉な笑みを浮かべキセルを咥えた。
「ワシは元々武芸者じゃ。元の名を”疋田虎七”と言う。お前を助けようと思うたのは裏を隠せぬ間抜けな忍だったからだよ」
相変わらず皮肉たっぷりの水葉仙人は、姿勢を正す事も無く言葉を続けた。
水葉仙人は元々剣で身を持つ事を考えた武芸者である。小柄ではあったが村一番の力持ちであった彼は山々で独自の修業を行い過酷な自然の中で生活を続けた。
彼には腹違いの弟がおり、彼の名を”疋田豊五郎”と言う。
ある日、弟の豊五郎が一人の客人を連れて来た。その男の名は”上泉伊勢守信綱”、既に名が広まり剣聖と呼ばれていた男である。
上泉伊勢守は果し合いで受けた傷が元で病を引き起こしていた。
虎七は山で生活をし、自然と様々な傷や病に対する治療法を知っている。
彼は生薬を探し、己で薬を作り、数日の看病の末に上泉伊勢守の病を完治させた。
上泉伊勢守は大変感謝し、薬の調合法など彼から学ぶ為に数カ月の間共に過ごす事になった。
昼は上泉伊勢守から剣を習い、夜は薬について共に勉学に励む。
大変忙しかったが、長い間一人で暮らしていた虎七にとって忘れる事が出来ない日々を送った。
虎七は結局最後まで上泉伊勢守はおろか弟である豊五郎にすら勝つ事が出来ず、剣で身を立てる事をきっぱりと諦める事にした。
と、同時に薬学に対する情熱が心の内で燃え広がり、薬学士として身を立てる決意を固めた。
それから十数年たった頃、豊五郎は傷だらけの体で幼い子供三人と一人の侍に抱えられ屋敷を再び訪れた。
話を聞けば豊五郎は数か月前、ある大名家に剣客として呼ばれ、その場で真剣の勝負をする事となった。
相手は力自慢、技自慢の大名家の四男坊。豊五郎程の腕前があれば真剣であってもお互いに傷付かずに勝利する事が出来たのだが、生来の生真面目さ、融通の利かなさが仇となり殿様の前で相手を真っ二つに切り払った。
殿さまの怒りは相当激しかったらしい、夜も昼も執拗に豊五郎を追い掛け殺しにかかった。
豊五郎は自分の三人の子供を連れ、ひっそりと北へ北へ逃げ、ようやく虎七の屋敷にたどり着けた。
…ここに来るまでの道中、体中を傷だらけにしながら無事に子供を守り続ける事が出来たのは彼ならではの事であろう。
虎七は彼の看病と子供の世話を数日の間続けた。子供のいない虎七にとっては楽しい数日間であった。
だが、その幸せも長くは続かぬ。
ある夜更けに豊五郎は虎七を呼び起こす
「兄上、屋敷が囲まれています。敵の忍達が遂に一斉攻撃を始めるつもりです」
長年武術から離れていた虎七にはその気配を感じる事が出来なかった。
豊五郎は素早く子供達を隠し、剣と槍を持って敵を迎え撃つ。
四方八方より飛んで来る手裏剣と矢を避けつつひたすらに敵の忍を切り続けた。
刀は三本使い物にならなくなり、槍は二本折れた。
だが、夜が明ける頃には十数人の忍の死体の中、彼らは逃げ出す最後の敵に槍を突き刺し殺す事に成功した。
「流石は兄上です。並の男では死んでいます」
豊五郎の体は、切り傷から血が流れ、すでに足は動けない程疲労しているのが分かる。
当然虎七は更に酷く、体に深く食い込んだ手裏剣が至る所に見受けられた。
しかし兎にも角にも危険は過ぎ去った。
美しい朝日の中、豊五郎は子供達を迎えに行く。
三人の子供は流石、豊五郎の子供と言ったところか、あの騒ぎの中全員眠っており虎七の心を和ませる。
「さぁ、起きよ。もう大丈夫だ」
長男と次男はその声に目を覚まし隠れ場所から抜け出すが、末の子だけはどうやっても起きてくれない。
「豊五郎よ、やめておけ。今は寝かしてやれ」
豊五郎も珍しくにこやかに笑い、再び隠し場所の戸を閉めた。
だが、絶望の引き金はすぐに引き起こされる。
厠の方より子供の絶叫が聞こえて来た。
二人の顔は青ざめ、上手く動かない足を引きずり厠へ向かう。そこには、目も当てられないような光景が広がっていた。
まだ幼い子供二人は磔のように、家の柱に槍で突き刺されていた。
ハッとなり外を見ると、そこには子供を殺したと思われる忍びが塀を登っている最中であった。その忍は足を両断され動きに俊敏さは無い。
そして虎七は見た、人が修羅になる姿を…
豊五郎は動かないはずの足で走りだし、その忍の両手を刀で切り落とした後、刀を忍の腹に刺し、それを塀に打ちつける。
目から血の涙を流し、その忍の体を何度も何度も殴る姿を見た時、虎七は心底恐怖を感じには居れなかった。
そして同時に怒りを覚えた。
その忍は、豊五郎を助けて連れて来た侍だったのだから。
夜はだいぶ更けて来た。
外からは虎史郎の素振りと気合いの声が聞こえてくる。
「豊五郎は最後にワシに”あの子”の事を頼んで行ったよ。一人でケジメを付けて来ると言ってな」
鼻から煙を吐き出し、コンコンとキセルを叩き灰を灰皿に落とす。
「ワシも直ぐに屋敷を移し、名を変えようやく平穏な生活を取り戻した」
れいには次に繋げる言葉は見つからない。
「虎と共にワシも剣を学び直した。たまに来る武芸者の技を虎に学ばせもした、だがワシは今でも不安だよ」
「ではなぜ私は良いのですか。貴方が憎む忍である私が」
再び彼は沈黙した。
れいは何も言わない、ただ彼が再び口を開くのを待つ。
水葉仙人は再び目をれいに向けこう言った。
「ワシも忍について学んだ。そして心を読み取る技を磨いた。…忍に対して今でも身を守る為に様々な技術を学んでいる」
一呼吸を置いて、キセルに煙草をつめ口に咥えた。
「お前は純粋すぎる。心が読まれたら忍は出来んぞ」
それはとても優しい笑顔であった。
いつもの凍るような眼では無かった。
「愚かで、無知で、純粋だ。汚い仕事をやっている者には出来ない目と仕草だよ」
悪く言えば忍失格の烙印である。だが、その言葉はれいの心に春風の様な清々しさを運んだ。
「中和剤は仙台の南蛮船にあるだろう。裏は取れている、昼のうちに情報屋から聞いた。あの船には”ぱうあ”が運ばれている、毒があると言う事は薬もある。何故なら人は必ず自分の身を守るために毒と一緒に薬も買うものよ。南蛮人は商売が上手いもんだな」
れいの目に再び輝きが戻る。
「ありがとうございます。この御恩は忘れません」
れいは頭を下げ深く礼を言うと席を立つ。
水葉仙人はその後ろ姿を見て言葉をかけた。
「その本も持っていけ。どれが薬か分らんでは困るだろう」
水葉仙人はやさしい笑みで小さく笑った。
れいも顔を赤めながら、つられて笑う。
「仕事が終わったら足洗って普通の女になれ。お前には向いていないし、汚れるべきでは無い」
れいは、美しい乙女の笑みを水葉仙人に見せ、障子を開く。
「全部終わったら虎の嫁にならんか」
その言葉と、外から聞こえる虎史郎の稽古の掛け声に心が揺れた。
「…考えておきます」
外はもう一面真っ白で、雪は膝下まで積っていた。
庭を覗くと雪の中、虎史郎が汗だくになり木刀をふるっている。
れいの両目に涙が溢れたが、それを拭う事もせず
彼女は仙台に向けて走り出した。
九、死神の赤いマント
重要な事は、死を恐れない事
重要な事は、任務を達成させる事
重要な事は、正体を知られぬ事
大阪との繋ぎも無く、たった一人で挑まねばならないこの任務。彼女にかかる圧力も大きい。
鶴松殿下の状況も把握出来ぬまま、彼女はひたすらに夜の山道を風の如く駆け抜ける。
足の感覚、手の感覚も薄れ五体が不満足に動かなくなって来てもひたすらに走った。
人間、限界を超えると苦しみが消え視界から色が消える。
脳が情報を最小限に抑え、生きる為に必要な情報以外は切り捨てるのだ。
忍の者の中で、この境地に達する事を”極意”と呼んでいる。そして、実際に感覚を捨て、体を限界以上に動かせるように出来る者は少ない。
不思議な事に彼女はその境地に十七の若さで達し、息をするのを忘れるほど走る事に集中していた。
理由の一つは、仙台に来ている南蛮船がいつ出港するかも分らぬ程に時間が無い事。
次に、大阪に居る鶴松殿下の病状が分らぬ為の不安。
最後に、心を揺らす二人の男の事を忘れる為。
いつでも彼女はそうして来た。
大事な人形は封を切る事無く押入れに入れ、護身の小刀はまだ一度も鞘から抜いた事が無かった。
自分でも嫌な性格だと思うが、どうしようもない。これが自分のやり方なのだから。
ふと足を止める、目の前の空気が急に歪むような不思議な感覚と悪寒が体を包んだ。
身体的な寒さや、眩暈の類で無い事を理解すると直ぐにこの感覚の理由を感じ取った。
”仙台に魔物がいる”
強烈な殺意を込めて罠を張る性悪な魔物がいる。
だが彼女は止まらない、とにかく進んだ。
そして約六刻後、れいは仙台の港へ辿り着く。
この頃はまだ大きな取り締まりも無く、南蛮船との自由な交易が許されており、特に伊達領仙台には多くの南蛮船が交易を求めて訪れてる。
当代領主”伊達藤次郎政宗”自身も貿易の恩恵を受ける為にキリシタンとなり、彼らと密に接していた。
それだけ南蛮人との接点も多い故に、キリシタンに対し警戒心を高めていた太閤秀吉にとっては目の上のコブの存在の様に諸大名には映る。
何より当時の和人の知らない先端技術を伊達のみが持っていると言うのは聞こえの良い物とは言えない。
昼過ぎに仙台の街に到着した彼女は、町娘に変装し港へと足を向ける。
雪は降っていたが街には活気があり様々な商品が市場には流れ込んでいた。
目を港の南蛮船に向けると、そこには大名家の高官と思われる一団が、”背が高く、顔が赤く、髪の毛が白に近い黄色”をした見た事無い人間とが会話をしている様子が窺える。
彼らが手を振り上げると、中から”顔も体も真っ黒な”痩せ細った人々が船から木箱に詰められた鉄砲を運び出し始める。
(何と言う数…)
大阪城にも数多くの鉄砲がある、これらは日本国内で作られた種子島を模倣した鉄砲で、数は数百丁に及ぶ数であったが、この南蛮人の巨大な商船一艇に同じだけの鉄砲が運び込まれている。
実に恐ろしい話だ。
そして南蛮船には、魔性の輝きを放つ黄金が運ばれて行った。
(伊達領の底力は金であったか…)
れいは横目で黄金を眺めながら様々な思考を行っていたが、すぐに頭を切り替え薬を積み込んだ南蛮船を探す為に港を歩き回った。
(どこかに薬売りはいないのか)
れいは、歩く速さも調節せずに湾内に停めてある二十数隻の船をすべて見回ったが外側だけを見て内側を把握する事は出来ない
(こんな事であれば爺様から”透目蓋の術”を習っておくのだった)
と後悔した。
れいの持つ”千里眼の術”は一度自らの足で訪れた事のある場所しか透視出来ない、つまり現段階で薬を探す方法は”虱潰しに忍びこむ”しか方法は考えられない。
「二十以上あるのかぁ…」
れいは途方も無い数の南蛮船を恨めしげに見る。
彼女の体の数百倍はある船は、せせら笑うように彼女の顔まで影を伸ばした。
れいは、港近くの茶店でキビ団子と白湯を一杯頼み、そこから船の周りを見張った。
一里眼や千里眼を使えば楽に見張る事は出来るのだが、精神への疲労もあれば街中で術を使うなど自分を忍であると公表する様なものであり身の危険もある。
ただでさえ仙台には異様な殺意が、肌に突き刺さるように渦めくのだ。それ故に時間は迫っていたが、彼女は最も安全な方法を選ぶ事にした。
一刻程過ぎただろうか、冬の仙台は日が暮れるのが早く、ぼちぼち松明に火が付けられ始める。
(なんとも贅沢な街だ)
この時代、夜に火を灯すのは贅沢であり、一部の金持ちにしか許されなかったが、この街の市場は夜も活気が沈まず、簡単な総菜を売る店が現れ始めた。
(あれは…)
ふと遠くを見ると、人だかりが出来ていた。そこには特に多くの灯があり、遠眼でそれを見ると、多くの侍に囲まれた隻眼の男が南蛮人らしき男に包みを渡している姿が見えた。
脳裏に平泉の薬屋が言った言葉が蘇る。
”「前に南蛮人が伊達様の城で寝込んだ際に水葉の仙人様が薬を作ったろ。それで南蛮人がその薬を気に入ったみたいでな、材料の冬虫夏草を所望したそうだ」”
南蛮人達はその隻眼の男と握手をすると船の錨を引き揚げる作業に入った。
「あ…あれか」
思わず小声でつぶやく。
れいは胸元から金の入った包みを取り出し、銅貨を数枚置いて店を出る。
(あせらずに…ゆっくり…)
心は足を急がせるが、頭でそれを自制し出来る限る目立たぬように歩を進め、その南蛮船の元へ進む。
周りを見渡すと多くの人々は、まじないの様に胸元で十字を切る仕草を行っていた。
れいが現場に着いた時はすでに錨を引き揚げ、船は沖へと進み始めていた。
まだ現場は人だかりも多く、このまま海へ飛び込むわけにはいかない。
急いで引き返し、人だまりから離れた船の影に停まっている小舟へ乗り込み、闇に溶け込むようにして港を離れた。
小舟が沖に出るともはや人の眼では見る事が出来ない、完全に闇に溶け込んだ小舟は約半里ほど離れた所に灯る船影を追って艪を漕いだ。
幸運な事に、南蛮船はまだ帆を張っておらず速力は無いようである。
れいはそれを幸運とし、力の限り艪を漕いで南蛮船に近寄って行く。
…が、それは彼女に訪れた幸運では無かった。
既に魔物は網を張り彼女が来る事を読んでいる。
「どうだ、見えるか勘蔵よ」
「ええ、闇に紛れているので顔までは把握出来ませんが」
「それでもこちらに接近する船があるのだろう。ならばほぼ間違いない、あの女だ」
船の上には血の匂いが漂っている。
「それにしても伊達め、よくよく金を貯め込んでいたものだ」
「鉄砲まで渡してしまったのは少し痛いですね」
勘蔵は柊老人を見た。
船内にはすでに数十人の黒装束の男達が海に向かって南蛮人の死骸を投げ込んでいる。
「四半刻までに娘が侵入するだろう、処理と掃除を急げ。感取られるなよ」
柊老人は小声で配下の者に指示を行う。
「勘蔵よ、ワシらの仕事はあの女を殺す事だ。それ以外の事は考えるな」
柊老人は体を纏っていた服に石を括り付け、それを海に投げ込むと南蛮人の服に着替えた。
柊老人の唇がゆるみ、歯の抜けた口が気味の悪い笑みを作り上げる。
「さぁ、仕上げに入るぞ」
真っ赤なマントをなびかせ、柊老人は笑い声を上げた。
重要な事は、死を恐れない事
重要な事は、任務を達成させる事
重要な事は、正体を知られぬ事
大阪との繋ぎも無く、たった一人で挑まねばならないこの任務。彼女にかかる圧力も大きい。
鶴松殿下の状況も把握出来ぬまま、彼女はひたすらに夜の山道を風の如く駆け抜ける。
足の感覚、手の感覚も薄れ五体が不満足に動かなくなって来てもひたすらに走った。
人間、限界を超えると苦しみが消え視界から色が消える。
脳が情報を最小限に抑え、生きる為に必要な情報以外は切り捨てるのだ。
忍の者の中で、この境地に達する事を”極意”と呼んでいる。そして、実際に感覚を捨て、体を限界以上に動かせるように出来る者は少ない。
不思議な事に彼女はその境地に十七の若さで達し、息をするのを忘れるほど走る事に集中していた。
理由の一つは、仙台に来ている南蛮船がいつ出港するかも分らぬ程に時間が無い事。
次に、大阪に居る鶴松殿下の病状が分らぬ為の不安。
最後に、心を揺らす二人の男の事を忘れる為。
いつでも彼女はそうして来た。
大事な人形は封を切る事無く押入れに入れ、護身の小刀はまだ一度も鞘から抜いた事が無かった。
自分でも嫌な性格だと思うが、どうしようもない。これが自分のやり方なのだから。
ふと足を止める、目の前の空気が急に歪むような不思議な感覚と悪寒が体を包んだ。
身体的な寒さや、眩暈の類で無い事を理解すると直ぐにこの感覚の理由を感じ取った。
”仙台に魔物がいる”
強烈な殺意を込めて罠を張る性悪な魔物がいる。
だが彼女は止まらない、とにかく進んだ。
そして約六刻後、れいは仙台の港へ辿り着く。
この頃はまだ大きな取り締まりも無く、南蛮船との自由な交易が許されており、特に伊達領仙台には多くの南蛮船が交易を求めて訪れてる。
当代領主”伊達藤次郎政宗”自身も貿易の恩恵を受ける為にキリシタンとなり、彼らと密に接していた。
それだけ南蛮人との接点も多い故に、キリシタンに対し警戒心を高めていた太閤秀吉にとっては目の上のコブの存在の様に諸大名には映る。
何より当時の和人の知らない先端技術を伊達のみが持っていると言うのは聞こえの良い物とは言えない。
昼過ぎに仙台の街に到着した彼女は、町娘に変装し港へと足を向ける。
雪は降っていたが街には活気があり様々な商品が市場には流れ込んでいた。
目を港の南蛮船に向けると、そこには大名家の高官と思われる一団が、”背が高く、顔が赤く、髪の毛が白に近い黄色”をした見た事無い人間とが会話をしている様子が窺える。
彼らが手を振り上げると、中から”顔も体も真っ黒な”痩せ細った人々が船から木箱に詰められた鉄砲を運び出し始める。
(何と言う数…)
大阪城にも数多くの鉄砲がある、これらは日本国内で作られた種子島を模倣した鉄砲で、数は数百丁に及ぶ数であったが、この南蛮人の巨大な商船一艇に同じだけの鉄砲が運び込まれている。
実に恐ろしい話だ。
そして南蛮船には、魔性の輝きを放つ黄金が運ばれて行った。
(伊達領の底力は金であったか…)
れいは横目で黄金を眺めながら様々な思考を行っていたが、すぐに頭を切り替え薬を積み込んだ南蛮船を探す為に港を歩き回った。
(どこかに薬売りはいないのか)
れいは、歩く速さも調節せずに湾内に停めてある二十数隻の船をすべて見回ったが外側だけを見て内側を把握する事は出来ない
(こんな事であれば爺様から”透目蓋の術”を習っておくのだった)
と後悔した。
れいの持つ”千里眼の術”は一度自らの足で訪れた事のある場所しか透視出来ない、つまり現段階で薬を探す方法は”虱潰しに忍びこむ”しか方法は考えられない。
「二十以上あるのかぁ…」
れいは途方も無い数の南蛮船を恨めしげに見る。
彼女の体の数百倍はある船は、せせら笑うように彼女の顔まで影を伸ばした。
れいは、港近くの茶店でキビ団子と白湯を一杯頼み、そこから船の周りを見張った。
一里眼や千里眼を使えば楽に見張る事は出来るのだが、精神への疲労もあれば街中で術を使うなど自分を忍であると公表する様なものであり身の危険もある。
ただでさえ仙台には異様な殺意が、肌に突き刺さるように渦めくのだ。それ故に時間は迫っていたが、彼女は最も安全な方法を選ぶ事にした。
一刻程過ぎただろうか、冬の仙台は日が暮れるのが早く、ぼちぼち松明に火が付けられ始める。
(なんとも贅沢な街だ)
この時代、夜に火を灯すのは贅沢であり、一部の金持ちにしか許されなかったが、この街の市場は夜も活気が沈まず、簡単な総菜を売る店が現れ始めた。
(あれは…)
ふと遠くを見ると、人だかりが出来ていた。そこには特に多くの灯があり、遠眼でそれを見ると、多くの侍に囲まれた隻眼の男が南蛮人らしき男に包みを渡している姿が見えた。
脳裏に平泉の薬屋が言った言葉が蘇る。
”「前に南蛮人が伊達様の城で寝込んだ際に水葉の仙人様が薬を作ったろ。それで南蛮人がその薬を気に入ったみたいでな、材料の冬虫夏草を所望したそうだ」”
南蛮人達はその隻眼の男と握手をすると船の錨を引き揚げる作業に入った。
「あ…あれか」
思わず小声でつぶやく。
れいは胸元から金の入った包みを取り出し、銅貨を数枚置いて店を出る。
(あせらずに…ゆっくり…)
心は足を急がせるが、頭でそれを自制し出来る限る目立たぬように歩を進め、その南蛮船の元へ進む。
周りを見渡すと多くの人々は、まじないの様に胸元で十字を切る仕草を行っていた。
れいが現場に着いた時はすでに錨を引き揚げ、船は沖へと進み始めていた。
まだ現場は人だかりも多く、このまま海へ飛び込むわけにはいかない。
急いで引き返し、人だまりから離れた船の影に停まっている小舟へ乗り込み、闇に溶け込むようにして港を離れた。
小舟が沖に出るともはや人の眼では見る事が出来ない、完全に闇に溶け込んだ小舟は約半里ほど離れた所に灯る船影を追って艪を漕いだ。
幸運な事に、南蛮船はまだ帆を張っておらず速力は無いようである。
れいはそれを幸運とし、力の限り艪を漕いで南蛮船に近寄って行く。
…が、それは彼女に訪れた幸運では無かった。
既に魔物は網を張り彼女が来る事を読んでいる。
「どうだ、見えるか勘蔵よ」
「ええ、闇に紛れているので顔までは把握出来ませんが」
「それでもこちらに接近する船があるのだろう。ならばほぼ間違いない、あの女だ」
船の上には血の匂いが漂っている。
「それにしても伊達め、よくよく金を貯め込んでいたものだ」
「鉄砲まで渡してしまったのは少し痛いですね」
勘蔵は柊老人を見た。
船内にはすでに数十人の黒装束の男達が海に向かって南蛮人の死骸を投げ込んでいる。
「四半刻までに娘が侵入するだろう、処理と掃除を急げ。感取られるなよ」
柊老人は小声で配下の者に指示を行う。
「勘蔵よ、ワシらの仕事はあの女を殺す事だ。それ以外の事は考えるな」
柊老人は体を纏っていた服に石を括り付け、それを海に投げ込むと南蛮人の服に着替えた。
柊老人の唇がゆるみ、歯の抜けた口が気味の悪い笑みを作り上げる。
「さぁ、仕上げに入るぞ」
真っ赤なマントをなびかせ、柊老人は笑い声を上げた。