泥辺五郎短編集
「人亀の産卵(エッセイ)」9/23更新
人亀の産卵警備のバイトにしばらくの間駆り出されていた。
正式な学名はなく、ただ通称人亀と呼ばれているそれらは、一般的なウミガメたちからは少し遅れて、九月半ば頃に産卵のピークを迎える。諸事情により名は伏せるが、某海岸にやってくる彼らに捕獲・殺害・強姦といった行為を成そうとする不逞の輩どもを排除するのが私たちの役目だった。こう記すととても危険な仕事に聞こえるが、こちらもそれなりの装備を調え、常に複数で警備に当たるので、事件性のあるものに発展することはほとんどない。精々地元の不良少年たちや、悪質な生物マニアを追い払う程度のことだ。それでいて給料はなかなかのものである。関係者以外に紹介出来ないのが残念であるが。
幾つか秘しておかなければならないこともあるため、多少事実とは違うことを書く場合もあるので、その辺りご了承していただきたい。
種としての人亀の歴史は浅い。最近の研究結果では、人とウミガメの奇跡的な交配成功によって誕生した種であることは確定している。遡ってみても発生からたかだか二千年程度であろうと言われている。しかし「奇跡的な交配成功」といっても、当の本人、本亀にとっては愛の奇跡だったかもしれないが、端から見ればグロテスクな異種交配でしかない。
人亀の容貌から人の面影は年々薄れてきている。産卵のために海岸に現われる人亀は当然全て雌であるが、伝説における人魚のような美しいものではない。髪の毛はなく、肌には血管が浮き、顔の輪郭は人のものであるが、目鼻口は亀のものである。甲羅はウミガメのままであるが、そこから伸びる手足は個体によってばらつきがある。比較的人間の手足より亀の特徴を多く持っているものが多い。これはおそらく、海中を泳ぐ際に人の特徴を多く受け継いでいる個体は生存競争に勝ち残れないためだと思われる。
ちなみに人亀に限らず、ウミガメが出産の際に流す涙は、体内の塩分を排出するためのものでしかない。上陸してしばらく経ち皮膚が乾いてきた頃、目から流れる液体が目立つようになる、ということに過ぎない。
人亀に人間の知性はない。ウミガメの中では賢い方だと推測されるが、会話をこなしたり愛を育んだりといったことは叶うべくもない。そしてはなはだ迷惑な俗信である、「人亀と交わるとこの世のものとは思えない快楽を味わえる」というのも全くのデタラメである。実際には出産を間近に控えて気が立っている人亀に迂闊に近付くと、その凶暴な噛みつきによって命の危険に晒される。仮に軽傷で済んだとしても、傷口に人亀の持っていた雑菌が入り込み、放っておくと取り返しのつかない後遺症を残すことにもなる。
そんなわけで、今年私が遭遇した無鉄砲な若者が吐いた言葉、「おまえらが独り占めしてヤっとんのちゃうんか」というのは全くの筋違いな話なのだ。私たちは人亀を愚かな人間たちから守ると共に、彼らのような連中をも助けている、というのがなかなか理解してもらえないのは辛いところがある。軽挙妄動は他人ばかりでなく自分も傷つけてしまうのに。
今回は産卵の警備アルバイトだったが、数十日後、卵が孵化する際にも仕事がある。基本的に危険は伴わないが、重要度は警備よりも高い。卵から孵った人亀の雛のほとんどは親に似た半人半亀の姿であるのだが、ごく稀に純粋な亀、純粋な人の形をしたものが発見される。亀の場合なら他の人亀同様海に放して問題はないが、人の場合、海中で継続的に生活出来る体ではないので保護する必要がある。発見が遅れると、他の人亀たちに押しつぶされてしまったり、海岸に打ち上げられたりと、無惨な姿になってしまうのだ。そうなる前に私たちの手で守らねばならない。
そうして保護された赤ん坊は、まだまだ未熟児であるために、専用の施設で手厚く世話してやらなければ生きていくことが出来ない。せっかく保護しても無事人並に育つのは十人に一人というが、生き残ったものは例外なく優れた運動能力を持ち、特に水泳については桁外れの力を発揮する。
中には手足にエラの名残を持つものもいるが、大抵は成長とともに次第に消えていく。ただし卵から生まれたために、ヘソについてははっきりした穴ではなく、僅かな窪み、もしくは痣程度にしか見えないものが多い。注意してみるとわかるが、競泳選手の中にそういったヘソの持ち主が散見される。しかし近年は整形外科医療技術の向上により、一般人とほとんど見かけが変わらないヘソにすることも可能になった。
人亀の寿命は長い。文献に登場する、特徴的な甲羅の傷を持った個体が百年以上の時を経て、生きている姿で発見されたこともある。中には推定三百歳以上になるものもいるという。そして年老いてもなお繁殖能力を持つ。
そこで先述の無鉄砲に性欲を振り回す若者の問いに答えてみようと思う。警備に当たっていた他の仲間も同じだが、私たちが人亀に対し性欲を持つことはまずない。私たちは人間であることに誇りを持ち、理性が勝ちすぎている。愛の奇跡を成功させた先人の志は受け継がれてはいない。もしかしたら自分の母親であるかもしれない相手に欲情することは非常に困難なことである。
ちなみにこれは蛇足になるが、むしろ成長するに従って、亀の名残が現われてきた部分が一箇所、私の体にはある。どことは言わないが。
(了)