泥辺五郎短編集
「リフティング・モンキーズ」
目覚まし時計が鳴らないのでいつまでも眠っていたら百年が経っていた。全身白髪に覆われ、寝ていた部屋は廃墟と化していた。起き抜けにまず浮かんだのは「起きていてもそう変わりはなかっただろうな」という諦めに似た感慨だった。百年分の思い出なんて覚え切れるはずもないのだから、どれだけ印象的な出来事であろうと、起きてすぐに忘れてしまう夢と同じようなものと決めつけた。起き上がろうにも手足はボロボロで動くたびに肉が剥がれて骨が折れる。痛みすら感じることなく溜め息ばかりが漏れる。漏れていくばかりで息が吸えない。これはもう死ぬのだろうな、百年も寝ていれば当たり前だな、と思う。こういう時はかつて愛した人の顔など思い浮かべながら逝くのが礼儀だと考えたが、どのような顔も浮かんでこない。それが老齢による記憶の衰えによるものか、これまで誰も愛したことなどなかったのかうまく思い出せないまま、すぐに忘れる夢のように命が消えていく。
百年間眠り続けている人間がいる、と聞いて少年はすぐさま美少女の寝顔を想像したが、話では爺さんだという。正確な顔形は誰も知らないが、白髪の奥からは寝息が聞こえてくるのだという。
「大したものじゃない」「それより昨日降りまくった隕石を拾いに行こうぜ」という友人達の誘いを振り切り、少年はマンションとアパートと一般家屋がごちゃ混ぜになった廃墟を目指した。しかしその一室で彼が見たのはありふれた白骨死体と、月針も年針もない、旧式の壊れた目覚まし時計一つ。一晩で風化した「眠りすぎた人」の肌や毛は目に見えないほどの塵となってそこら中に漂っており、少年は頻りにくしゃみをしたが、死の味の自覚は彼にはない。
廃墟の中には、百年眠る男ほどではなくても、生きているか死んでいるか分からないような連中が犇めいている。家族に捨てられた老人がいる。家族を捨てた罪人がいる。廃墟の中で生まれ育ち、外の世界を知らない少女がいたら、僕が連れていってあげるのに、と少年はまだ昼間にもかかわらず夢を見る。彼の中に溶けた眠れる老人の粒子がそうさせたのかどうかを知る術は誰も持たない。
少女はいた。少年が廃墟を後にしてから、彼女は彼を追って階段を下り、外界に出た。彼女は外の存在を理解していなかった。埃っぽい廃墟の中で、かつて国を追われるほどの犯罪を犯して逃亡中の両親に囲まれ、密やかに育てられてきた。暗闇の中での生活が長く、彼女の右目は視力を失い、細い手足は一度転ぶと二箇所が折れた。
彼女の両親は食料を求めて時折外に出ていたが、一週間前、父親は通りすがりの暴漢に襲われた。服と髪と肉を奪われ、帰ってこられなくなった。夫を探しに出た母親は、久し振りに太陽の下に出た開放感から、娘の養育も夫の探索も全て忘れて走り出した。すぐに疲れたので手も地面につけ、四つ足で歩き出した。似たような姿で歩いている者らは幾人もいた。
生まれて初めて一人きりになった年端もいかない少女の目の前を、夢見がちの少年は通り過ぎたのだが、崩れかけた壁に同化しているような彼女は気付かれなかった。彼女の目にも少年はその姿の半身しか映っておらず、夢のようにぼやけていて、廃墟に現れる幽霊たちと変わりなく見えていた。少女一人すら恐れさせることも出来ず、廃墟が完全に崩れ去ってからも永遠にそこに留まっていそうな彼らと違い、少年は外へと出て行った。
外の世界は広すぎて、廃墟の中と空気が違い過ぎた。埃と汚物にまみれた小さな世界に適応しすぎた彼女は咳き込み、胃液を吐いた。彼女はふらつきながら、今来た道を引き返す。しかし彼女の姿を見逃さなかった、外の住人が一人いた。少年ではなく、体中に悪意を満たした太った青年だった。少年は遠ざかり、太った男は逆に廃墟に近付く。少女は何も知らず、外で見た景色を懸命に頭の中から消し去ろうとしていた。太った男は鼻息荒く少女を追いかけて廃墟に入り込むが、すぐさま何者かに口を塞がれる。我が家の中では誰をも恐れさせることのなかった幽霊たちが、悪意ある外部からの侵入者には牙を剥く。好奇心しか持たなかった少年は危害こそ加えられなかったが、彼の影は生涯質量を持つように呪われている。
幽霊を呑み込んだ太った男は声帯を失い、悲鳴を上げることも許されない。どうにか逃げ延びた男は、その恐怖も少女の美しさも伝えられないことに一時絶望するが、すぐに筆談を思いつき、出来事は街中に知れ渡る。しばらくしてそのことを知った少年が再び廃墟を訪れた頃、幽霊たちは最早守るものを持っていなかったので大人しく埃の振りをしていた。少女は眠るように死んでおり、その美しさに心打たれた少年は口づけを交わそうとするが、そのことがきっかけで彼女は崩れ落ち、廃墟に蔓延る影の一部と化した。
目覚まし時計が壊れたので明日は朝早く起きる必要もないから百年ぐらい寝ていよう、と思いながら書き始めた文章の中では誰も幸せにならなかった。眠くもないのに酩酊している頭は、隣のベランダから流れてくる煙のせいだろう。それが煙草だか大麻だか他の何かだかは知らない。窓は閉めているのに、随分前からヒビが入りっぱなしの窓ガラスはところどころ穴が開いているので、煙やら夜やらが部屋の中に入り込んでくる。五回に一回くらいは動いてくれるエアコンは今日はハズレの日らしく、ただひたすらに暑い。それでも窓を開け放つ気になれないのは、夏が始まってから毎晩のように外を走り回って騒音を撒き散らすバイクと、それを追いかけてさらに近隣住民の寝不足を加速させるパトカーのサイレンのせいだ。
夕方から水以外口にしていないのに食欲が湧かないのは暑さのためだけではなく、部屋に漂う反吐の残り香に心を折られているから。漬け物工場からの帰りに近所の居酒屋の前に落ちていた反吐まみれの女を拾ったのだが、家に帰って顔を拭く時に確認すると、女には鼻の穴の仕切りがなかった。昨年アメリカで一時流行してすぐに下火になった「鼻姦プレイ」用の人体改造の跡を見て何だかうんざりしてしまった。
僕がいつか死ぬ時に、この女の顔が浮かぶのは嫌だなと思った。
耐え切れず窓を開ける。騒音も煙も遠慮なしに部屋に入り込んでくる。それでも女は目を覚まさない。
少年は物語を綴った。触れられなかった少女の唇を思い起こしながら、小さく狭い世界の中で消えていった少女を、広大で荒涼としてどうしようもない世界へと旅立たせた。自分をモデルにした少年を付き添わせ、他愛もない会話を交わせてみた。
「あれが四つ足人だよ。先祖帰りしてるんだ。急にああなる人もいる」
「そう」
「ここらの石は細かく砕けば食べられるよ。不味いけど」
「ううん、結構美味しいよ」
「ならいいんだ」
「……どこに行くの」
「海。五年前に別れた僕の弟が、まだそこで泳ぎ続けているはずなんだ。帰ってこれなくなって」
少年は海について彼女に話すが、その広さも塩辛さも彼女には理解出来ない。外界の風景一つ一つに疑問を呈する彼女に少年は律儀に答えていくが、次第に疲れてしまう。物語の中の人物と現実とを混同しながら、少年はやはり彼女を外へ連れ出さなくてよかったとも考える。好奇心だけでは人は救えない。
夏の海に消えた弟のことを少年は考える。弟はどこかで泳ぎ続けているだけだ。ほんの少し帰り方を忘れてしまっただけで。書きかけの少女の物語は放り出され、新たに弟を主人公にした海洋冒険譚が書き綴られる。
やがてそれも投げ出される。
鼻女の寝息が途絶えてしまったので邪魔臭くなり、女を外に捨てに行く。好き者が見つけたらまた拾われるだろう。生死は知らない。どのみち鼻腔改造をした連中は、日常生活に支障が出たり、プレイ中の事故で亡くなったりするのが多いから、同情する気にはなれない。
家から少し離れたゴミ捨て場に女を転がす。
最後に一応女の財布を抜き取り、小銭を取るか札を取るかで悩みながら、千円札一枚抜き取るという折衷案に落ち着き、財布を女の傍らに放り投げる。
思えば、今までいろんなことを投げ出してきたなと思う。
受験だとか対人関係だとか、就職活動とか小説執筆とか。
名前とか。
リフティング【lifting】
サッカーボールなどを地面に落とさず蹴り続けること。頭や胸や肩を使ってもいい。サッカー未経験者の場合、五回も続けば嬉しくなる。
霊長類研究所だかそんなところで働いていた知人がいた。彼女は今職を失い、貧相で魅力のない体を売ってどうにか生きていると聞く。連絡は随分前から途絶えているので詳しい消息は知らない。知らない方がいいのかもしれない。
「リフティング・モンキーズってのがいてね」と彼女は語り出した。
彼女も僕も無職だった頃、まだ窓ガラスにヒビが入っていない僕の部屋で、一本298円の国産安ワインを飲んでいた。
「サッカー狂の上司が、実験用のチンパンジーに熱心にリフティングを教え込んでた。サッカーボールじゃ足への負担が重いから、ぽよんぽよんとした柔らかいボールで。
目の前で何百回と繰り返されたら、興味を持つ個体も出てくる。『地面に落とさない』『前足は使わない』というルールを理解する奴はいなかったけど。それでも、偶然の産物によるものだけではなく、四回、五回と続ける奴もいたよ。難しかったのは、『いかに数多く続けさせるか』よりも『いかに飽きさせないか』だった。一日中ボールをあてがうようなことはせず、他の玩具も与えつつ、ビデオの映像では、プロサッカー選手の神業を流したりして。
一番熱中していた個体が、転んだり、ボールを追って壁にぶつかったりを繰り返したから、危険だということで実験は中止された。元より上司の気紛れから始まったもので、『チンパンジーの中にはリフティングに興味を示す個体が稀におり、中にはその技術を習得し、五回続けられたものも出た』という結果以上に何も得られるものはなかった」
彼女は動物愛護精神や上司への憤りなどとは全く関係のない、金の使い込みで解雇された。横領した金のほとんどは男を買うことに費やしていたらしい。
「リフティング・モンキーズは全部で三頭だった。『五回』『三回』『二回』。二回の奴は、三回のに惚れて付き合っていただけみたいだった。別にその二頭にはリフティングでなくたってよかったんじゃないかな。だけど五回の奴はそうじゃなかった。これからも彼は『リフティングを五回出来る猿』として生きていかなきゃならない。安全上ボールを与えられなくなったこれからもずっと」
僕は無関心を適度に装いつつ相槌を打って彼女の話を聞いていた。装えていたかどうか今では自信を持てない。大型霊長類を対象とした動物実験は世界的に廃止の方向に向かっているという。リフティング・モンキーズに関してのニュース記事を見つけることは出来なかった。
彼女とは寝なかった。
少年は海で弟を見つけることは出来なかった。
その代わり、方々の海で少女に恋をした。
廃墟の薄暗がりの中で見た少女の面影を、どの顔にも見出したが、相手にはそのことを告げず、曖昧な記憶に感謝した。
少年は少女達との物語に入り込んでしまったので、自ら物語を綴ることはなくなってしまった。
本格的に崩れ落ちた廃墟の跡地には誰も住み着かず、そのまま墓標のようになっている。
目覚まし時計が壊れたら新しいのを買えばいい。携帯電話で目覚ましをかければいい。百年眠る必要もなく、明日もいつも通りの時間に起きたらいい。一日中白菜の芯を切り取る仕事は嫌いではない。もう慣れたし、怪我もしたことないし。包丁は力を込めず、手首のスナップを効かせて切るものだ。相手が柔らかい白菜だからの話だけど。二重にはめたゴム手袋の下で、時々薬指の爪の先が欠けているのが不思議だけど。
明日うまく起きられるかどうか不安なせいか、なかなか眠気がやってこない。騒音を撒き散らすバイクもパトカーも今は遙か遠くの方を遠慮がちに走っている。
昔の友人達と会って、楽しく笑い合えるようになるのはもう無理かもしれないけれど、途中で止めたままの小説の続きなら今すぐにでも書き出せる気がした。
リフティングだって五回くらいなら。
(了)