泥辺五郎短編集
「ぶんげいっ」(文芸部活動記録小説)
人は何を成すために生きているのか。
若い僕らにはまだまだ無限に広がる未来が開けているような気がするけど、きっと時間はあっという間に過ぎていく。
何もかもを成すには短すぎる人生だけど、一つくらいなら何かを達成出来るかもしれない。
僕にとってその一つとは、一編の傑作小説を書いて世に認められることだった。クラスで孤立した中学時代に親しんだ読書からの影響で、胸を張って公言出来る夢というより、どちらかというと現実逃避なのだけれど。
そういうわけで僕は県立ホトトギス高校を受験したのだった。ここの文芸部は百年以上の伝統を持ち、数多くの作家を輩出してきた、名門中の名門なのである。進路指導の際に教師は「お前の成績ならもっと上を目指せるんだが……」と僕を止めようとしたが、決意は揺るがなかった。
まだ着慣れない制服に身を包み、動植物がどれもこれも嫌らしい匂いを発しているような四月、僕は晴れてホト高の一員となった。中学時代のことは忘れて、これからは文芸活動三昧、執筆一筋の高校生活を送ることが出来る、そう信じていた。
自己紹介が遅れました、僕の名前は谷崎潤三郎(たにざき・じゅんざぶろう)と申します。
好きな食べ物はオクラと納豆、好きな詩人は金子光晴、好きな小説は稲垣足穂の「一千一秒物語」他多数。現在十五歳の高校一年生、彼女がいたことはありません。
クラスでの孤立など最早恐れていなかった僕は、入学初日からクラスメイトと探り合いのコミュニケーションなどすることなく、文芸部を訪ねるために部室棟へと向かった。歴史ある学校だけに、緑のツタに覆われた部室棟はそれだけで何やら文学的な雰囲気を醸し出していたが、臆することなく僕は部室のドアをノックする。しかしただの屍のように返事がない。おそらく中では上級生の部員たちが、周囲の音が聞こえないくらい集中して小説執筆を続けているのでは、と思い、ドアに耳をつけて中の音を探ってみたが、キーボードをタイプする音も、原稿用紙に鉛筆を走らせる音も聞こえては来なかった。
「そこの部、今活動してへんよ」
不審者じみていた僕を恐れることもなく話し掛けてきてくれたのは、褐色の肌をした、制服から飛び出してきそうな胸を持つ、唇の少し厚い女生徒だった。
「私ジャクリーン。こう見えても生まれも育ちも日本なんよ。両親はタイ人なんやけど」
「え、えっと、僕は谷崎……です」
関西弁を話し、褐色の肌で、日本人離れしたしなやかな肉体を持ち、巨乳でしかも可愛い女子高生というものに免疫のなかった僕はしどろもどろになりながらも、股間の方は張り切り始めていたので、慌てて荒俣宏の顔を思い浮かべて自制した。
「敬語はやめてえな、うちも一年やで。まあキックボクシング部の特待生やから、春休みから学校来てたけどな」
「あ、そうなんだ、すごいね、君にだったらちょっと蹴られてみたいな」
何を言ってるんだ僕は。うっかり本音を漏らしてしまった。
「素人さんを蹴るようなことはせえへんよー」
そう言いながらジャクリーンはシュッシュッと軽やかなキックを空中へ繰り出した。ひるがえる制服のスカートの隙間から白い下着がちらっと見えてしまったことは言わずにいた。
「それで、文芸部の人たちはどうしたの?」
「春休み中になんか揉め事があったんやて。うちもようは知らんけど」
キックボクシング部の部室は文芸部と隣接していた。彼女は中にいた先輩を呼び出し、事情の説明を求めてくれた。ジャクリーンと違い、可愛さの欠片もなく、世界が核の炎に何十回と包まれても生き残りそうなその先輩は、顔を含めた全身筋肉の塊で、ジャクリーンとは別の意味で制服がはち切れそうだった。
先輩の説明によると、現在の文芸部にはかつての華々しい時代の名残はほとんどなく、部活として認定される部員数ぎりぎりの五人で細々と活動していたらしい。そのうちの二人が「馴れ合い活動を続けていても文学的高みは目指せない。文学者とは常に孤高であるべき」と主張し、別の二人は「仲間と支え合い鍛え合うことで得られるものも多い」と反論。残りの一人である部長は「どちらの言うこともわかる」と中立の立場を崩さない。しかし部長の煮え切らない態度には両派から反発があり、いまや完全に分裂状態という。部室の鍵は部長が持っているのだが、目下のところ彼女は行方不明。どちらかの派が彼女を暗殺したとか、部長は現部員に見切りをつけ、新入生から密かに文才を持つものを集めるために暗躍しているとか噂されている、ということだった。
「新入生君、うちの学校に入ったばかりの君にこんなこと言うのもなんだけど、文芸部はちょっとその……難しいよ?」
「はあ、でも僕は小説が書きたくて」
「小説を書くにしてもまずは体が資本。キックボクシング部に来るのならいつでも歓迎するよ!」
「いやいや格闘技とか僕には無理ですって」
何しろ腕立て伏せは十回と続けられないし、人を殴ったりするのも嫌だ。読書のおかげか、握力だけは僕の年齢の平均値を結構上回っているけれど……。
「まあ正直君みたいな生っちょろいのがうちに入っても戦力にはならないだろうけどさ……」そう言いながら先輩はちらっとジャクリーンを見た。
「きっと彼女は喜ぶと思うよ?」
「何言ってるンデスカ先輩!」
どういうわけか少し片言でジャクリーンは先輩に叫んだ。続いてハイキック一閃、先輩の左こめかみにクリーンヒット! ……したかに見えたが、先輩は鉄塊のような腕でしっかりガードを固めていた。爆発でも起こったかのように、制服が破れて弾け飛ぶ。
「照れるところが可愛いんだよね。好きだよジャクリーン」
「あたしはっ、文科系で、弱々しくて、守ってあげたくなるような男子が、好きなんですっ!」
言葉の切れ目ごとにジャクリーンの右フック、左ミドルキック、回転ひじ打ち、胴回し蹴りなどが炸裂するが、先輩はいともたやすくそれらをかわしながら、隙を見てジャクリーンに抱きつき、キスを迫る。
「いやああああ」
超人的な身のこなしからは想像出来ない、実に女の子らしい叫びがジャクリーンの口から漏れる。彼女は先輩の腕を振りほどくと渾身の力を込めて先輩の巨大な顔面を蹴り、その反動で僕の方へと飛んできた。
「あ、ごめん、ちょっとどいて、あああ」
運動神経なんて皆無で、おまけにどれだけ大怪我をすることになろうとジャクリーンの体を避けることなんて考えられなかった僕は、手を差し伸べて彼女を受け止めようとした。が、甲斐無く彼女に押しつぶされてしまった。
一瞬飛んだ意識が戻った時には、まだ僕の目の前は暗くて、夢の中にいるのかと疑ったが、よく見るとそれは闇ではなくて柔らい肌の色で、さっきまで見とれていたジャクリーンの顔であった。そして唇に今まで触れたことのない感触を覚えて、どうしたらいいのかわからず呆然としていると、唇に触れたものからさらに伸びてくるものがあって、それが舌だと気付いた。視界の端にはにやにやするキックボクシング部の先輩の姿が見えた。
ようやくジャクリーンともつれあって地面に横たわっていることを僕は知る。彼女の手が僕の髪の毛を優しく撫でてくれるので、僕も彼女の背中に手を回し、それからしばらく抱き合っていた。
▽ ▽ ▽ ▽
始めるつもりだった物語は起稿されないまま終わった。その後の文芸部にまつわるドラマの細かいところを僕はよく知らない。僕はマネージャーとしてキックボクシング部に入部したのだから。
ジャクリーンとはその後何度も喧嘩別れなどがあり(主にファイテングスタイルについて言い争った。彼女の身を第一に考える僕と、たとえ怪我をしてその先半年を棒に振ることになっても、目の前の一戦を勝ちに行きたがる彼女とで)、高校卒業後は連絡も途絶えていた。が、三十歳手前で僕が無職になったのをきっかけに、世界中を旅していた折に訪れたブエノスアイレスで、見せ物ストリートファイトをしていた彼女と再会。その後なんとなく一緒に暮らしたりしているうちに子供が出来たりして結婚。彼女をいまだに熱愛していた筋肉先輩や、ストリートファイト時代に買った恨みなどで彼女を付け狙う連中が多いためメキシコに移住。苦労と肉体労働を重ねたせいで僕もすっかりたくましくなり、彼女は「昔の潤三郎の方が好みだった」と愚痴をこぼすようになった。子供は利発的な娘で、杏子(ようこ)と名付けた。五歳にして既に僕らの逃亡生活を助けたりする知恵を持っている。肉体的には母親の血を濃く受け継いでいるようで、じゃれ合いの時に放つパンチは時折僕を本気で悶絶させた。
今回、麻薬カルテルがらみの少しヤバい仕事に関わっている。運んだり売ったりするのではなく撲滅する方だ。ジャクリーンのお腹には二人目の子が宿っているので、彼女はこの仕事に連れていけない。
「この仕事が終わって、でかい報酬が入ったら、日本へ帰って落ち着こうと思うんだ。僕らのこれまでのことを小説に仕立てて、昔の夢を叶えるのもいいかもしれない。子供たちに僕らの故郷を見せてやりたいしね」
「あんまり先のことを言うと鬼が笑うよ」
僕ですら忘れていた日本の慣用表現を器用にジャクリーンが使う。彼女は実はずっとずっと前から日本に帰りたがっていたのかもしれない。
「じゃあ行ってくる」
初めて出会ったあの日以来、何百何千と繰り返してきたキスをして、隠れ家であるボロアパートを出る。これからもまだまだ回数を積み重ねてやるさ。何万回でも、何億回でも。
(了)