この世の果てまで
第二部
1 ユウ―6
1
つまんねぇし、退屈な世界だ、と俺は思う。でも、この広さがあれば、どっかに楽し
いことがあるんじゃねえかって希望が持てる。
外の世界での初めての夜明けを体験して、自分がいかにつまんない世界に生きていた
かわかった。あんなところ、クソだ。この夜明けに比べりゃ人工太陽の起床なんて、素
人のポールダンス以下。
外の世界には俺が思い描いてた海はなかった。森もなかった。ただ荒野のみ。生き物
もほとんどいないって話。地獄みたいなところ。人が生きてくとこじゃない。それでも
一部の地域にはまだ自然が生き残ってるところがあるらしい。外に出た人々はそこらを
拠点に生活をしてるんだそうだ。
「こんなになったのは過去の環境破壊のせい?」
ジープを運転してる信者に聞いても、返事はない。説明は、村に着いてから、だそう
だ。
感動的な脱出を遂げた俺たちを出迎えてくれたのは色気も何もない一台のジープ。イ
エスを迎えに来たんだそうだ。運転席には藍色のローブを目深にかぶった信者1人。
「乗ってください。村までお送りします」
俺たちはジープに乗せられて何にもない荒野を走ってる。イエスが村までどのくらい
かかるかって聞くと、信者が、1時間くらいです、と答えた。
普通なら、見るものすべてが新しくて車の旅は飽きなかった、って言いたいとこだけ
ど、見える景色が変わらないんじゃ、そうも言えない。はっきり言って、5分で飽きた。
それはキリコさんを除いたみんなが思ったことみたいで、ハツやユキは眠り始めるし、
ヨウジはずっと携帯をいじってた。キリコさんだけは流れる景色を眺めてニヤニヤして
た。
最初に声を上げたのはキリコさん。俺はというとちょっとうとうとしかけてて、意識
がどっかいっちまいそうになってた。
「何か見えてきた」
キリコさんがフロントガラスの先を指差す。見ると、褐色の大地に目立つ緑色や白色
がちょこんと立ってる。
「村がある辺りですよ」
信者が言うと、イエスが大きく息を吐いた。
「それは助かる。そろそろ尻が擦り切れてしまいそうだったからな」
そう言って、イエスはもぞもぞケツを動かした。
村が近づくと樹木や草がちらほら出てきた。そして生き物の姿。生の牛。生の鶏。何
もかもがホンモノ。俺たちが知ってるニセモノとは違う。ホンモノ?あの町のものがす
べてニセモノならあそこに住んでた俺たちもニセモノなんだろうか?
2
村は寂しい感じ。石造りの家々が並ぶ。卑屈そうな面した村人たちがジープに注目し
てる。夫婦みたいなのもいるけど、よくよく見れば、子供がいない。学校の時間なんだ
ろうか?
村の中央にあるちょっと大きな家の前でジープは停まる。大方村の新生教の幹部が住
んでるんだろう。
車を降りて、運転してた信者に連れられて、家に入る。家の中はさっぱりしてる。木
のテーブル。椅子が3脚。奥にソファがあって、軍服みたいな格好をしてる男が座って
る。それ以外には何もない。ソファに座ってる男が立ち上がる。
「よく来たな、コウイチロウ」
イエスが、はい、と言って男に近寄り、硬く握手をする。
「あなたもお元気そうでなによりです」
コウイチロウ?イエスじゃないのか?って思った。きっとみんなもそう思っただろう。
「この方たちは?」
「協力者です。信者の命を救ってくれました」
そのまま自己紹介の流れ。しどろもどろ話す俺たちとはキリコさんは一味違った。
「神話学部の顧問です。いいからさっさと外伝を見せなさい」
いきなり喧嘩腰。ジープの中での会話が思い出される。
「あの時の答えを教えてくださいよ」
「いつ?」
「バーで逃げ場がなくなったときのです。俺が信者と協力するって答えたときの。ほぼ
満点って言ってましたけど」
キリコさんははっはっはっ、と笑う。
「正解はね。脅し上げて協力させる、よ」
なるほど、とバーでのキリコさんの立ち居振る舞いを思い返して感心した。
今回もまた、脅すつもりだろうか?
「イエス、いやコウイチロウさん?どっちでもいいけど、あたしは信者を救ってやった。
だから、外伝を見せなさい。それぐらいしてもいいはず。何も頂戴なんて言わないわ。
あんたらにとっては大事な教典だろうからね。でも、見せてくれるくらいいいんじゃな
い?」
キリコさんの「口」撃に面食らう2人。そして男は笑う。
「なるほど、外伝に興味があるのかね」
「ええ、あんたの素性云々よりもね」
「自己紹介くらいさせてほしいな」
そう言って男はにっこりを笑う。それを腕組みして睨んでるキリコさん。イカレテル
と評判の女教師、面目躍如といったところ。礼儀もクソもあったもんじゃない。
「私はアリサワ。新生教のリーダーをやってる。教祖っていうと胡散臭いからね。リー
ダーというのを使わせてもらってる。コウイチロウが世話になったな。こいつは小さい
頃から目をかけてるんだ。弟みたいなもんだよ」
アリサワはソファに座りなおす。
「コウイチロウ、金庫をここに」
イエスはアリサワに金庫と鍵を渡す。アリサワはまず鍵で錠前を開け、もう1つの錠
前のボタンを手際よく押す。パチンという音がして鍵が開く。アリサワは金庫を開け、
中に入っていた、古臭い紙――黄ばんでて、紙の縁は虫に食われたのかぼろぼろ――の
束を取り出す。そしてざっと目を通す。
「これがあなたの望むものだといいんだが」
アリサワは紙の束をキリコさんへ向ける。キリコさんは早足で近づき紙の束を受け取
り、食い入るようにそれを見る。そしてすぐに、声をあげた。
「どこが、外伝よ!これって、正伝じゃない!」
3
テーブルの上にはパンやら――フランスパンというのだそうだ――スープやらサラダ
が並べられてる。思えば昨夜から何も食べてない。目の前の食物に腹が鳴りっぱなし。
テーブルには神話学部の面々。イエスとアリサワは用事があるとかで家を出て行った。
食事を用意してくれたのは運転席に座ってた信者。ローブを脱いだ姿が女だったのには
驚いた。しかもちょっと可愛い。無口なところが、あれ、だけど。
キリコさんはあの紙束を読みながらの食事。正伝だって言ってたけど、いまだにその
説明はない。ユキやハツは興味津々といった様子だが、キリコさんは紙束にご執心。俺
とヨウジはパンをかじってる。スープをひと口。なんのスープだか知らないけれど、や
けにうまい。空腹は最高のスパイスってことを差し引いても、かなりうまい。これがホ
ンモノの食い物の味か、なんて口に出さないのは、俺にも羞恥心ってものがあるからだ
ろう。無邪気に感想を述べる歳じゃない。
キリコさんが紙束をテーブルの上に置いた。俺たちは食事を終えて、茶を飲んでた。
デザートのイチゴジャムと一緒に。渋みのある茶とイチゴジャムの濃厚な甘みが絶妙。
ハツとユキは嬉しそうにジャムを舐めてる。
「さて、諸君。これからあたしの講義が始まるけど、準備はできてる?」
キリコさんは目の前にあった飲みかけのスープの皿を脇にどけて、テーブルの上に肘
をついて、両手を組み、その上に頭を乗っける。値踏みするような目。俺たちのことを
これから試そうって気満々な顔。
ハツとユキはナプキンで口の端を拭いて、椅子に深く腰掛けなおす。
「現存しないはずの正伝よ、これ」
そして、キリコさんの講義が始まる。
4
「いい?『神話篇』は7記1書1紙で構成され、7記のうち「終末記」を除いて10章
構成だといわれてる。「フクロウ書」「イエスからの手紙」は別よ。「終末記」を除い
た6記60章のうち、現存してるのは31章。約半分ね。内訳は「創生記」10章、「
イヴァン記」9章、「ユダ記」0、「旅行記」5章、「新生記 上」0、「新世記 下」
7章。この数字は不自然だと指摘する学者は多い。「ユダ記」や「新生記 上」が0と
いうのはおかしいって思うわね、たしかに。まぁ、そういったことはおいといて。今回
のこの金庫に入ってたのはなんだと思う?「旅行記」の全文よ。全文!
内容は、驚くべきもの、とまでは言えない。でも、興味深いもの。表紙にマルセイユ
にて、という走り書きがある。比較的新しい文字。シャーペンで書いたものかしらね。
おそらくこの文書を発掘したものが書いたに違いない。もともと現在の『神話篇』はマ
ルセイユ写本と呼ばれる文書から作られたもの。おそらく編者が手に入れたのは不完全
なマルセイユ写本。何者かが意図的に不完全な写本にした、とも言えるかもしれない。
あたしはこの「旅行記」の全文を読んで「旅人」という神話的システムに対してこれま
でとはまったく別の見方をするようになった。見直した、と言ってもいいかもしれない。
あたしはこれまで「旅人」をただの教訓話の飾り程度にしか考えてなかったから。でも、
今は違う。「旅人」の謎を解くことができたら、あたしたちの目的を達成できるかもし
れない、と思い始めてる。
『神話篇』の鍵は、「旅人」かもしれない」
キリコさんの講義はそれから「旅人」に関してのおさらいから始まり、眠くなるよう
な小難しい話しが延々と続いた。まぁ、当然ながら、俺とヨウジは途中でリタイヤ。そ
のまま眠ってしまった。疲れてたんだ、と言い訳をする必要もなく、俺たちの居眠りを
咎めるでもなく、キリコさんは話し続けたんだそうだ。後でユキとハツに聞いた話だけ
ど。
5
とにかく、俺たちの外界での生活が始まった。しばらくは大人しくしてましょう、と
言うキリコさんの悪そうな顔を思い浮かべると、あ~あ、って思ったりするけど、個人
的に、村での生活を楽しみたいと思ったから――すべてが初めてなんだから、ちょっと
くらい楽しませてもらったっていいだろう?――文句は言わなかった。
町とは大違いで、なんでもかんでも人力。自力。水を飲むにも井戸から水を引き上げ
なきゃいけないし、火を起こすったって、ライターやガスなんてないから、大変。それ
でもけっこう、楽しい。
すべてがホンモノだから?
そうかもしれない。でも違うのかもしれない。うまくは言えないけど。自分で行動し
て、それがそのまま自分への見返りとして成果があがる。何かを「やってる」って気に
なるし、充実っていうんだろうか、そういうもんもある。それに、外界に出てからこっ
ち、頭が冴えてる。清々しいって言うんだろうか……なんだか、色んなことを自分が知
ってる気がするし、記憶の底が深くなってく気がする。キリコさんじゃないけど、かな
り昔のことも思い出したりする。深度は日に日に深くなっていって、なんだか、生まれ
る前のことも思い出せそう、なんて気がする。
世界はまじで広いんだな、って思う。自分がちっこく思える。だからこそ、広がりが
無限に近いからこそ、自由なんだな、って強く思う。ふと、どこまで広いんだろうかっ
て考える。空の先には星の海。じゃあ、その先は? 先の先は?
結局は、何も考え付かなくて、自分に呆れるんだけど。
続く
2 ヨウジ―3
1
クスリが切れるとつらくなる。筆箱に残されたシャーペンはあと2本。その気になれ
ば、2日でなくなる程度。クスリが切れても我慢我慢と自分に言い聞かせるんだが、体
のどっかわからない部分がチクチク痛くなってきて、肘の裏、二の腕のちょい下辺りが
猛烈に痒くなってきて、血が出るまで掻いてしまう。涙が止まらなくなったり、頭痛が
ひどかったり……禁断症状ってやつかもしれない。かもしれない、じゃない。認めよう、
禁断症状だ。我慢できなくなって、シャーペンの先をちろっと舐めたりするんだが、そ
んなもの刹那の慰めでしかない。舐める前よりもひどい寒気や嘔吐が俺を襲う。
こんなとこ人に見られたら大変だってんで、村の外の大きな木の下で、いつも、1人、
寝転んでる。眠ったフリしてんだ。村人たちが道を通ったりするけど、ちらっと見るだ
けで、声をかけてきたりはしない。神話学部の面々はそれぞれに新しい世界を楽しんで
る。ユウは色んなこと――水汲みや火を起こすこと。畑仕事等々――に首を突っ込んで
るし、ハツやユキは村の女たちに混じって仕事――機織や家事――をしてる。キリコさ
んだけは村の周りを探索したり、アリサワやイエスと何やら難しい話を――たぶん『神
話篇』のことだろう――してる。俺なんて気にもならないってことだ。おかげで禁断症
状がばれずに済んでるのだからありがたい。こんなみっともないところ、ちょっと見せ
られない。ヤクがあればすべて解決するんだけど……
新生教がヤクをばら撒いて資金にしてるって噂があった。それが本当ならここらでも
手に入るんじゃないかって思ったりするんだけど、誰に聞けば良いのかわからない。下
手に聞きまわるとみんなにばれてしまうおそれがある。静かにやらなきゃいけない。そ
れまでは、村人たちの品定め。どいつが適当か……
2
呪われてしまえ!みんなみんな呪われてしまえ!どうして俺だけがこんな目にあうん
だ!ヤクが切れて、肘の裏は血だらけ。爪の間に血と皮膚がつまってて、汚ねえザマ。
体の中をヘビが動き回ってて、あちこち噛み付いては毒を盛ってるみてえな感じ。道を
通る村人たちを殺したくなる!キリコさんと無理矢理セックスをしたくなる!涙が止ま
らない。悲しくないのに。つらいだけなのに。頭痛がひどくて、世界が揺れてて、体が
水ぶくれみたいにぶよぶよになってて、針を刺したら気持ち悪い液体が流れ出てきそう。
呪われてしまえ!お願いだから、みんな呪われろ!胃が蠕動運動してて、中身を吐き
出したいけど、何も出てこなくて、喉の先っちょに胃液が染みて、イガイガしてすっぱ
い。涙が止まらねえ。空っぽのシャーペンの先っちょを何度舐めても気持ち良くなんか
なんないし、もうどうにもならない。このまま死んでしまいたい。
…………
天の助けか、悪魔のいたずらか。
俺はまた、気持ち良くなってる。与えられたイエス・ジーンをこれでもかってくらい
鼻に突っ込む。鼻水がだらだら垂れて、唇に乗っかったりしてんだけど、気にしない。
俺は最高に、幸せ。頭ん中でいろんな色が爆発してて、綺麗だ。天国から鳴り響く壮麗
な音楽が俺をハイにする。
3
ヤツにもらったヤクはこれまでやったヤクの中でもっとも上等。バッドトリップの心
配もないし、効き目もダンチ。頭ん中がこれまでよりも、もっと冴えて、何でもわかり
そうなくらい。自分が天才だって思えてくる。
ようやく、俺にも、新しい生活を楽しむ余裕が出てきた。こうなると、いろんなもん
に気がつく。俺たちは家を割り当てられてそこで生活するように言われたんだが、見る
と村には空き家がけっこう多い。人が住んでないのに家だけがあるってのはおかしいか
ら、きっと前に誰か住んでたんだろうけど、それじゃ一体そいつらはどこに行ったんだ?
運転手をしてた女に聞くと、思ってもみない答え。
「みんな、死んでしまったの」
へ~え、って何でもないみたいに答えちゃったけど、実際のとこ、嫌な話だ。まるで
石造りの家が棺桶に思えてくる。
「この村、人口はどのくらいなんだ?」
「たぶん、300人くらい」
女はいつものローブを着てない。代わりに麻のワンピースを着てる。腰のあたりにや
たらごつい茶色のベルトをつけてる。腰のくびれが目立ってる。ワンピースの裾から出
てる脚は細いが、しっかりとしたふくらはぎ。綺麗な茶髪。自分で切ってるのか、ばら
ばらになった前髪が良い味出してる。そのくせ、髪は腰の辺りまで垂れてる。釣り上が
った目にとっつきにくさを感じるが、薄くピンクな唇は吸い付きたくなるほど可愛らし
い。
だが俺は年増が好きだ――年増とかいってごめん、キリコさん――
「どんどん減ってく。人が」
「ふ~ん。脱走に成功した連中が少ないんだな」
「それもある……」
女は暗い顔になる。
「あんた、名前は?」
「ノア」
「俺はヨウジだ」
「ヨウジ、まずは井戸で水汲みを終わらせましょう。早くしないと昼食の準備が遅くな
る」
「おう」
そんで俺とノアは水汲みに走る。
4
ノアはあんま喋んない。他人と。自分から話しかけないし、誰も話しかけない。イエ
スやアリサワが時折用事を言いつけるときに話しかけるくらい。ノアは中央のでかい家
にアリサワとイエスと一緒に住んでる。仕事としては2人の付き人ってところ。美人が
そんなことしてるって聞くと――その上、同居!――下衆な勘繰りをしたくなりそうだ
けど、まぁ、そんなことはないだろう。イエスはなんだか変なヤツで女に興味なんてな
さそうだし、アリサワにいたっては聖人面してるし。変態教祖なんて今日び流行んない。
ハツやユキがノアに積極的に話しかけてる――村に同じ歳くらいなのはノアくらいな
もんだから――けど、ノアがあまり喋んないから、仲良くなるのは難しいみたい。実際、
俺も水汲みの時くらいしか――水汲みを手伝うのが俺の主な仕事――話す機会はないん
だが、話しかけても、相槌くらいしか返してくれない。質問もほとんど単語で返ってく
る。無口なヤツは嫌いじゃないから別にいいんだけど……
たまに、携帯が使えるんじゃないかっていじったりするんだけど、圏外。当たり前と
言えばそうだが、なんだか癖で触ってしまう。お気に入りの掲示板だったりを開こうと
するんだけど、ネットワークに繋がってません、なんて表示が出る。
嗚呼、文明から遠くはなれて!
なんて悲劇の主人公ぶったりしてみるけど、実際、携帯がなくたってどうってことは
ない。町にいた頃だって、大して使ってなかったし。あの頃は暇だったし。でも、今は
やることが多いから、暇つぶしをしなくていい。ヤクも無料で手に入るし。文句ない。
外に出られて良かった。それに、ここではキリコさんと同じ屋根の下にいられる。悶々
としたりして、こっそり自分を慰めたりするけど、まぁ、悪くない。キリコさんとお近
づきになれることもあるだろう、この先。ここは外界。自由な世界!
5
子供がいない。この村には子供がまったくいない。いるのは20歳以上の連中ばかり。
あまりにも不自然。人が死んだり、生まれたりするから人口は調整される。でも、ここ
では死ぬだけみたいだ。新しい命は生まれてこないらしい。不思議なもんだ。誰かに理
由を聞いてみたいが中々切り出せない――何だか気が引けた。よくわかんないけど、デ
リケートな問題だろうし――。そんで、ある日の昼。昼飯前に水を甕に流し込んでた時、
外からイエスが帰ってきた。家には俺とイエスだけ。せっかくだし、と思って、思いき
って切り出してみる。
「どうして、子供が生まれないの?男も女もいるのに。イエスさん何か知ってる?」
イエスはローブを脱いで、テーブルの上に放る。短髪で中性的な顔立ち。目つきは悪
く、顔色も悪い。
「町がおかしいからさ」
イエスは椅子に座って、背伸びをする。首をこきこきと鳴らし、ため息をつく。いつ
もこいつとアリサワは何をやってんだろう?毎日、ジープで村の外へ出て行くが……
「村の外に出て、我々は1つの大きな問題に直面した。子供が生まれないってことにね。
性行為は可能。でも、子供は生まれない。理由はよくわかってないらしい。町での食事
によって環境ホルモンを過剰に摂取したせいって言うヤツもいるし、そもそも生殖が不
可能な体に作られてるって言うヤツもいる。町ではさ、子供ってすぐに親元から隔離さ
れるだろう?それも怪しいよな。もしかしたら、人間は生殖が不可能になってるのかも
しれない。そして中央はそれを隠すために今の政策をやってる。じゃあどうやって俺た
ちは生まれてきたんだろうという問いが出てくるが……実際、科学と言うのは恐ろしい
ものさ。なんでも出来てしまう……そういうことさ」
「人工的ってこと?」
俺は水を移し終えると、桶を甕の傍に置く。
「そういう可能性もあるってことさ。アリサワさんが教えてくれたんだ。俺も気になっ
てたからな」
「なんだか馬鹿みたいな話だな」
「あの町は馬鹿者の集まりさ」
「ところで、イエスさんの本名はコウイチロウなの?」
「ああ」
「どうしてイエスって名乗ったの?ハンドルネームとか?」
俺がそう言って笑うと、イエスは真顔で答える。
「コウイチロウと名づけたのは、誰だか知らない奴だ。俺を他の人間と分けるためだけ
の名。イエスは真実の名だ」
「よく、わかんねえな」
「俺は俺がイエスだということを知ってる、ということさ」
「ますます、わかんねえや」
イエスは笑う。
「俺にもよくわからないんだ」
そう言ってイエスはもっと大きな声で笑った。
まぁ、よくわかんないんだ。俺だって誰がヨウジって名づけたのか知らない。親かも
しれないし、試験管を睨んでた科学者かもしれない。この名前は好きでも嫌いでもない。
でも、真実の名、ってのがあるとも思えない。これだから、狂信者は、って思える。
ただ、どうしてだろう。子供が生まれないって知ると、この村も町みたいに歪なんだ
なって思ってしまう。ここも、あそことあんまり変わらないのかもしれない。
そして、そんなことを考えながら、水汲みを終えた俺は1人、いつものように便所に
籠もって、最高のトリップに、最大の快楽に身を委ね、頭ん中を空っぽにする。
続く
3 ハツ―1
1
迷いっていない、と言えば嘘になる。
村での生活に慣れてきたからこそ、楽しめている自分がいるからこそ、私は、町への
郷愁を捨て切れない。私の生まれ育った町だ。たしかに、イエスさんやみんなが言うよ
うに、つまらないしおかしな町だったかもしれない。それでも、不便はなかったし、不
満もなかった。ただ、少し憧れただけ……
世界を救うことが私の使命だと思ってきた。物心ついた時からずっと。物語の中の英
雄たちに自分を重ね、私が15歳のなった日に報道された、宇宙が膨張も収縮もせずに
止まっているというニュース見て、運命を感じた。宇宙は私に救われるために存在して
いる、と。
妄想癖があって、少し暗くて、教室の片隅で本を読んでいるような子。
自分を変えようと思ってはちゃめちゃしても、似合ってなくて、電波、なんて陰口を
叩かれる。
知ってる。私は自分がどれほどの人間か、よく理解してる。私はフツーだ。悲しくな
るほど、フツーだ。ユキほど強く意思を持つこともできず、キリコさんのような美貌と
迫力もなく、ヨウジやユウみたいに自由にもいられない。
ユキや村の女性たちと洗濯をしながらでも、今が良くてもこの先ずっとこんな生活を
するのか、とか、町はきらびやかだった、まやかしでも美しく見えた、とか考えてしま
う……恐れている。村の生活が死ぬまで続くことを……
なんなら、今すぐにでも、逃げ出したい!帰りたい!
2
村の女性たちと世間話をするくらいには良好な関係を築けている。でも、いつも思う。
彼女たちは暗い。目に生気がない。表情が硬直している。反応が鈍い。古びたロボット
みたい。彼女たちはみな、夫がいる。それだけでも、うら若き私やユキはうらやましい
と思ってしまうんだけど……色んな人の馴れ初めを聞いたりしたけど、話してる彼女た
ちはあんまり楽しそうじゃない。普通だったら、照れたり、聞いてるこっちが恥ずかし
くなるくらいのラブロマンスを語ってくれるのに……普通の恋愛、普通の結婚。物語も
何もない出会い。そんな話を聞いてると怖くなる。自分もこんな風になっていくのだろ
うか、と。
町で聞かされていた――雑誌に書かれていたものや、同級生の女の子たちの――恋愛
はどれも甘かったり、せつなかったり、感動的だったりして、輝いているように思えた。
イエスさんはあの町をニセモノという。幻想だ、と。そしてこっちをホンモノだと言う。
現実だ、と。でも、こんな現実なら、要らない。現実はとても、退屈。事実は小説より
奇なり、と言う。でも、実際は、事実は小説よりげんなり、だ。
私のことを夢見がちだと、みな、笑うかもしれない。でも、夢の中にずっといられる
のであれば、それはそれで幸せなんじゃないかな?醒めない夢があるなら、それは、理
想郷だと思う。私は夢から起こされた。目を醒ましたかった、というのも事実。でも、
できるなら、もう1度眠りたい。
3
私は、今、すごく緊張してる。
ジープに乗って、ある場所に向かっているのだけど、運転しているのはアリサワさん。
車内に2人っきり。
どうしてこんなことになったかというと……
朝起きて、いつものように私とユキは畑に水遣り。そこへアリサワさんがやってきた。
初めてのことだから、私もユキも驚いた。アリサワさんはいつも朝早くにイエスさんと
出かけていくからだ。たしかにここはアリサワさんの畑だけれど、世話をしてるのは私
やユキやノアちゃん。それにユウやヨウジ。顔を出すのは初めて。
「いつもすまんな」
アリサワさんは大根の葉っぱを触りながら私たちに微笑む。30過ぎくらいかしら。
深みのある声。穏やかな表情。優しい眼差し。整った顔立ち。格好良いと思うけれど、
少し苦手だったりする。だってアリサワさんは教祖様なんだ。あの、新生教の。
「村の生活には慣れたかい?」
はい、と私たちは声を合わせて返事をする。
「うん」
そしてアリサワさんは私の方を見る。
「ハツ、さんだったかな。一緒に来てもらえないかな?今日はあなたの代わりをコウイ
チロウがするから」
私は目を白黒させながら、どぎまぎする。
「大丈夫、変なことはしないよ」
そう言ってはっはっはっ、と笑うアリサワさん。
そして私はジープに乗ってる。
「どこへ向かうんですか?」
アリサワサンの方は見ないように、フロントガラスに映る荒野を見ながら尋ねる。
「あなたは、村と町のどちらが好き?」
私は答えに困る。そうやって黙ってるとアリサワさんは笑う。
「町は良いところだ。何でもある。私はコウイチロウほどあの町を嫌ってはいない」
アリサワさんの考えがわからない。突然こんな話をするなんて……
「もちろん、村も良い所だ。生活、というものがある。自分で活動し、生きる。それ
こそが生の本質であるのかもしれない。我々が、ヒト、という言葉がどうして生きて
いるのか、『神話篇』では何と語っているか知ってるかい?」
「え、と。〈大きな声の神〉の喉を癒すため、かな」
「その通りだ。しかし、〈大きな声の神〉は、ヒトを嫌った。意に沿わなかったから
だ。そして洪水を起こした。身勝手だと思わないか?」
「それは、悪徳の限りをつくしたからだって……」
「そうだね。『神話篇』にはそう書いてある。だが、それでも、ヒトは〈大きな声の
神〉のためにそれらを行った。気に食わないからといってそれを滅ぼすほど、〈大き
な声の神〉は偉いのだろうか。そんなことでヒトを殺せるほどに。それは傲慢である、
と反抗したのが、〈大きな音の神〉なんだ」
私はなんて言っていいかわかんない。宗教が持つ力はすごい、ということはよく知
ってるし。私にはアリサワさんみたいな大層な意見は持ってないし……
「『神話篇』は我々にとっては経典ではない。多くはそう思ってるがね、信者の中に
もそう考えるものはいる。嘆かわしいことだ。我々にとって、あれは、勝者の〈大き
な声の神〉の書いた歴史書なんだ。もちろん都合の悪いものは書かれていない。真実
は常に表には出てこない」
車が停まる。目の前には石で作られた小さな小屋みたいな建物。
「さ、着いた」
アリサワさんは車から降りる。私も後に続く。
4
小屋の中には地下へ降りる階段があった。アリサワさんと私は、長くて暗い階段を
降りていく。
「我々は、はじまりの場所へ行かなければならない。そこで行われる〈大きな声の神〉
の策略を打ち砕かなければならない」
階段を降りた先には町にあるようなセキュリティ機能がついてる扉。アリサワさん
は指紋照合と声門照合を行う。そして扉が開く。
「我々は研究を続けなければならない。〈大きな声の神〉の喉を癒すことは、〈大き
な声の神〉の力の中心である「声」を手に入れることと同義なんだ」
扉の先には多くの機械、そして白衣を着た研究員と思われる人たちが作業をいた。
中央に大きなモニター。図鑑で見たことのある、世界地図が映し出されている。地図
の中には1つの赤い点。
「過去に日本呼ばれていた地だ。そこにはじまりの地はある。我々はそこへ行かなけ
ればならない。ただし、そこへ行くのは難しい。罠があるからだ」
「罠?」
「そうだ。我々はその罠の解除に、現在、苦心している。だが、なかなかうまくいか
ないんだ。鍵が足りないんだ。ある、重要な鍵が、ね。そしてそれは、町にある」
アリサワさんはモニターの前の肘掛け椅子に腰を下ろす。私はどうしたらよいかわ
からず、後ろに手を組んで、俯く。
「どうして、そんな話を……」
私はやっとそれだけ言う。そして、見上げるように、アリサワさんを見る。アリサ
ワさんは微笑んでいる。
「こっちへ」
アリサワさんは手招きする。私は磁石に吸い寄せられるみたいに、アリサワさんの
元へ近づく。アリサワさんは私の手をとる。
「ハツさんには理解してほしいから。そして、あなたには望むものを与えてあげたい
から」
「どうして?」
「ハツさん、あなたは特別なんだ」
「特別?私はフツーです」
「フツーというのは貴重な個性なんだよ。どいつもこいつも個性を叫ぶ時代だ。みな
個性を見につけることに必死」
私だってそうだ。必死だった。だけど、駄目だった。
「だが、あなたは個性に体を重くした愚か者たちよりもずっと身軽。それはフツーだ
から。あなたこそ私の求めていたもの。そして、あなたこそが世界を救うんだ」
アリサワさんは強く手を握る。私の顔は火がついたみたいに熱くなる。
「頼みを聞いて欲しい」
「はい」
私は、今、特別な存在になった。そんな気がした。
5
「ハツ、あなたには町に戻ってもらう。そして鍵を手に入れてもらう。それはあなた
にしか出来ない。CGも鍵には苦労している。ただし、あなたならそれが可能なんだ。
頼まれてくれるか?」
「町に戻れるんですね」
「ああ」
「こっちにはもう戻れない」
「いや、行き来できるようにするつもりだ。そのための手はすでに打ってある。ただ
少し時間がかかるんだ。今すぐにそれができるわけじゃない。だから、しばらくは今
までどおりの生活を続けて欲しい」
「わかりました」
「ありがとう。これで安心だ。我々の大願は成就する」
アリサワさんはにっこりと笑う。
「ただし、ほかのみんなには内緒だ」
「どうして?」
「それが彼らのためだ。それに、彼らに町に帰りたいなんて言えるかい?」
無理だ。そんなことは口が裂けても言えない。
「それじゃ、あなたへの信頼の証に、とっておきをお見せしよう。こっちへ」
私は部屋の奥へ誘われる。私は特別な存在であることを確信する。少なくともアリ
サワさんにとっては……
「これはコウイチロウにも見せていないんだ」
そう言って、アリサワさんは部屋の奥の、なんでもない壁に触れる。すると、壁が
動き、その先に通路が現れる。
「さあこっちへ」
私はアリサワさんに手を握られて、通路を進む。そして目の前に先ほどの部屋より
も大きな空間が現れる。
私は、今物語の中にいる、と思う。アリサワさんの手は暖かい。これは私の物語な
のだ……
続く
4 ユキ―2
1
外に出てからこっち、夢を見る回数が増えている。それに、以前よりも夢は鮮明にな
っている。私は相変わらず荒野を歩いている。外界に出て気づく。その荒野は外界なの
だ、と。私は外界を旅する運命にあるのだと信じる。そしてそれが世界を救うことに繋
がるのだと強く信じる。
けど、まだきっかけは見つからない。
私は村の生活を気持ち半分で楽しみながら、その時を待っている。縫い物をしていて
も、畑に水を遣っていても、もう半分の気持ちは、世界を救うことに向いている。ただ、
私はまだ、世界の危機が一体どういうものなのか知らない。荒廃した地上がその危機な
のか、人間の寿命が短くなっていることがそれなのか、それとも宇宙が止まっているの
が危機なのか……漠然とあるのは、世界はもう限界だ、ということだけ。
限界とはなんだろう。これ以上はないという境界。そこまでしか行けないという区切
り……私は世界を限界の先へ導くことが使命なのだろうか、それとも限界の上限を上げ
ることが使命なのだろうか……
キリコさんが言ったこと。旅人が世界を救う手段になるかもしれない、ということ。
夢の中の私は荒野を旅している。私が旅人なのだろうか?キリコさんは『旅行記』の完
全版に何を見たのだろうか?
2
キリコさんは村の仕事を手伝おうとしない。何を言っても、忙しい、の一点張り。村
の女性からは非難轟々。まぁキリコさんが家事をするところは想像できないし、やらせ
てもひどいことになりそうってのがわかるから、私やハツは諦めてる。でも、なんだか
んだで、私たちはまだ居候みたいなもんなんだから、少しは周りに気を遣ってほしい。
ってかこんなことを年下の私たちが心配するってのはどうなんだろう?……まぁ、キリ
コさんらしいんだけど。
アリサワさんと出かけていってから、ハツが少し変だ。落ち着きがないっていうか、
心ここに在らずっていうか……何かあったの、と尋ねても、何にも、としか言わない。
どこへ行ったの?と聞いても、ドライブよ、とだけ。
嫌な予感がする。ハツ、アリサワさんには気をつけて、って言いたい。怪しいの。私
の勘はけっこう当たる。でも、言えない。たぶん、言ったら嫌われる。ハツのアリサワ
さんへの眼差しを見たらわかる。恋、だろう。私にはどうにもならない。恋路を邪魔す
る奴はなんとやら、だ。
3
夕食はいつもアリサワさんたちの家で食べることにしている。私、ハツ、ノアちゃん
の3人で食事をつくる。アリサワさんとイエスさんはいつも夕飯ぎりぎりに帰ってくる。
ヨウジとユウ、キリコさんは夕飯の手伝いもせずにテーブルでだらけてる。ユウとヨウ
ジはわかるけど、どうしてキリコさんはいつもあんなに疲れてるんだろう。いつも何を
してるのかな?
夕飯を食べながら、私たちはいつも色んな話――イエスさんとノアちゃんはほとんど
喋らない――をする。座の中心はアリサワさん。今日村であったこと、昔話、新生教の
説話など、色んな話をする。私たちはそれにつられて舌を動かす。話しが盛り上がって
くると、アリサワさんはニコニコしながら、みんなの話を聞いてる。大人、なんだろう。
いたわり、なのかもしれない。そんなアリサワさんをハツはうっとりとした表情で見つ
めている。
人は変わるもんだ、と私は思う。私も恋をすれば変わるのだろうか?う~ん、想像も
できないな。そもそも誰を好きになればいいの?そんな出会いなんてこの先あるのかし
ら?
別に必要ないけどね。私には世界を救うっていう大事な仕事があるし。そう思いなが
ら、ヨウジのきわどい下ネタを聞き流してお茶をすする。
4
キリコさんが珍しく家にいる。いつもは村の外を駆け回ってるのに。私は昼食に使っ
た皿を洗い終えてテーブルにつく。キリコさんは紙に何かを書いている。
「邪魔していいですか?」
「いいよ、何?」
キリコさんは髪をかき上げ、くわえたタバコを上下させ、こっちを見る。
「「旅行記」どんな内容だったんですか?」
「う~ん。簡単に言えば4賢者と旅人の約束の話ね」
「約束?」
「そうよ。4賢者は旅人の手伝いをすることを誓ったの」
「手伝いですか」
「うん。旅人は寂しかった。せっかく2人になったのに、ともに歩けない。旅人は一緒
に歩きたかったのよ。でも神はそれを認めなかった。旅人と4賢者は旅先で何度も話し
をした。そして仲良くなり、4賢者は新しい世界で旅人の願いを叶えるという約束をし
たの」
「一緒に旅ができるように?」
「そうね。初めの世界では4賢者はヒトのために働かなければならなかった。だから次
の世界では、ってね」
「それで、どうして旅人が謎を解く鍵なんですか?」
「『神話篇』の中心には、旅人がいる。これまでもそう考えてはいたんだけどね。「旅
行記」を読んで確信したの。具体的にポイントをあげてみるね。
神が声を失って以降、世界を拡げていったのは旅人。
ヒトの研究が進歩したのは旅人が世界を拡げたから。
2度目の世界で旅人は世界を拡げきった。あとは空の先だけ。
3度目の世界には旅人は現れなかった。
旅人がいないと世界が存続できない。
4賢者はヒトの中で唯一〈大きな声の神〉の側についた。旅人のために。
あげればキリがないんだけどね。最大のポイントは旅人なしでは世界は存続できない
というところ。神はいなくても存続できるが、旅人がいないと存続できないという解釈
ができる。そして世界を拡げるのは旅人。旅人は言葉を創るものではない。旅人が知覚
するから、言葉が存在するようになる。なんだか哲学ね。
3度目の世界では姿を隠してたみたいで、神ですら見つけることができなかった。神
ですら、よ。そして「旅行記」にはこんな一文があった。
“旅人は神が予想もしなかった強大な力を持つようになった。神はそのために、ともに
歩くことを絶対に許さない”
神の本音。ヒトのように旅人が道を間違うことを恐れたんじゃなくて、その力を恐れ
た……ここまで聞いてどう思う?」
「旅人ってすごいんですね」
「そうよね。でも、考えてみて『神話篇』には旅人に関する記述が少なすぎると思わな
い?これほど重要な存在なのに」
「う~ん、確かに」
「もしかして、現存していない部分って、旅人に関する章なんじゃないかしら?」
「まさか」
「じゅうぶん、あり得るわよ。そしてマルセイユ写本を不完全なものにした犯人は、旅
人の情報が広まるのを恐れているんじゃないかしら」
「推理小説みたいですね」
「やっぱり欠けた正伝を集める必要があるわね」
「でも、どうやって?」
「それはなんとかなる。アリサワとイエスが日中にどこにいってるかを突き止められれ
ば……」
「そうなんですか?」
「この村にはね、科学的なものは一切ない。それなのに、車があって、ガソリンがある。
たぶん、別のところに工場みたいなもんがあるはず。そして、そここそが新生教の本拠
地よ」
5
キリコさんともっと話をしていたかったのに、ヨウジとユウがどやどやと家に入って
きて、それまでのシリアスな雰囲気は台無し。ヨウジとユウも汗臭いし、着てるものは
どろどろ。
「畑仕事舐めんなよ、ユキ!」
私が嫌そうな顔で見てるとヨウジが怒鳴る。ヨウジはそのまま上着を脱いで上半身裸
になって床に寝転ぶ。ユウも上着を脱ぐと、椅子に座ってテーブルに突っ伏した。
「朝からしんどい……水……ユキ、水をくれ……」
2つのコップに水をついで、2人に渡す。2人は一気に飲み干しお変わりをねだる。
「水浴びしてきた方がいいんじゃないの?2人とも汗臭いよ」
「これは尊い労働の汗なのだよ。そう簡単に流されてはいかんのだ」
ヨウジが寝転んだまま拳を突き上げる。つくづく阿呆だ。
「で、成果は?」
キリコさんはタバコを口から離してテーブルの上に立てる。そしてそれを指先で突っ
ついて倒す。
「畑全面耕し終わった。種植えも完了。おかげで死にそう」
ユウが2杯目の飲み干して、言う。
「お疲れさん」
そう言ってからからと笑うキリコさん。私もつられて笑う。
こういう生活も悪くない。でもこういうのって、結局、長くは続かない。
続く
5 キリコ―3
1
先生、あたしは今でも頑張ってますよ。
あたしは口にくわえた、火のついてないタバコを上下させる。タバコを吸うことを止
めてからも、口が寂しいからと、タバコをくわえている。火をつけずに上下させて。も
う癖になってる。
先生のこと、たまに思い出します。
目の前の紙には村についてから考えに考え抜いた『神話篇』の考察が断片的に書かれ
ている。主に旅人のことについて。
旅人は「言葉」じゃない。神が特別に創ったモノ。必ず世界に存在する。神に比類す
るほどの力を与えられたモノ。ヒトの形をとっていることは鍵と鍵穴の話でわかる。
旅人は死ぬのだろうか?
これは1つの疑問。ヒトは「運命」と「死」を与えられている。よって、死ぬ。しか
し、旅人は馬車馬のように旅をし続けて世界を拡げている。その間、旅人が死んだ、と
いう記述は「旅行記」にはなかった。そんな記述は『神話篇』にはない。少なくとも現
存するものには……
仮に、旅人に「死」がなければ、旅人はすべての世界を生きていることになるが3度
目の世界には姿を現していない。「姿を現していない」という文から推測すると、その
都度旅人は生まれ変わるなり、なんなりして世界に現れる。ヒトや言葉たち洪水に洗い
流されて、新しい姿になる。だが「旅人は洪水の影響を受けない」。洪水がくる前に命
を落とせば生まれ変わることができるだろう。だが、旅人は死なない。この仮説から導
かれる答え。
旅人に「死」は訪れないが、生まれ変わることはできる。
完全な転生……考えていて馬鹿馬鹿しくなった。完全にオカルトだ。学問とは正反対
の代物。
ただ、1つだけ言えるのは、旅人とは神と同じで「システム」であるということ。世
界拡張システム。これが旅人の本質。外見が変わろうが、中身はそれ。
あたしは、くだらないことを考えつく。
旅人というシステムはヒトの形をとって現れるモノである。その、モノ自身は自らが
旅人だと理解していなくても、旅をすれば世界は拡がっていく。自動的に……パソコン
に潜り込むウイルスと同じ。自動的にスパムメールを送るってのがあったはず。そんな
もの。そのモノの能力の拡張パックの名前が、旅人……
あたしは、笑う。
先生、不出来の弟子は相変わらず駄目駄目です。
2
アリサワによると、この辺りは昔、死海と呼ばれていた湖があったんだそうだ。過去
の地図で探すと地中海に近い。
「地中海って、箱舟が造られたところよね」
アリサワはにっこりと微笑む。
アリサワから話を聞けるのは朝食を食べた後、イエスが車を持ってくるまでの短い時
間。あたしは毎日アリサワに食いついてる。
「ああ。そしてマルセイユ写本は地中海沿岸のマルセイユというところで発見されたと
言われてる」
「ここから遠い?」
「かなり、ね」
「ふ~ん」
「マルセイユには過去の遺跡が多く残っていると言われている。行ったことはないけど
な。もしかしたらそこであなたの探し物も見つかるかもしれないな」
アリサワはそう言って微笑む。食えない奴だ。何を考えているのかわからない。相当
に腹黒い奴ってのはわかる。
「あたしに何をさせたいの?」
「何も」
アリサワは首を振る。
「ねえ、あんたとイエスっていつも日中どこに行ってるの?」
「仕事だよ」
「この村にはないモノがたくさんある場所に行ってるんでしょ?」
アリサワは、おお、というような驚いた顔をした。たぶん、演技。
「よくわかるもんだな。その通り。だけど、あなたの望むものはないがな」
「でも『神話篇』の欠落部分には興味がある」
「そうだな。ただし興味があるのは「フクロウ書」と「イエスからの手紙」だけだ」
「それ以外は手元にあるってこと?」
「いや、持ってない。ただ、他の部分に関しては必要ないってところだな」
「どうして?」
「〈大きな音の神〉が必要ないと判断してるからさ」
「相変わらず胡散臭いわね」
「宗教なんてものはそんなもんさ。特にそのトップとなればね」
家の外からエンジン音。イエスが迎えに来たようだ。
「それじゃ、失礼するよ」
アリサワは立ち上がり出口へ向かう。
「ピクニックにでも行こうかなって考えてるの」
あたしが大声でそう言うとアリサワはこちらを向いた。
「それはそれは」
「車、貸してくんない?」
「わかった、手配しておこう」
「ありがと」
アリサワはにっこりと微笑むと家を出て行った。あたしはそれを見届けてから、タバ
コをくわえる。
胡散臭さもここまでくると、清々しいわね。
3
その日の夕食後、アリサワたちの家から帰って、あたしは部員たちにピクニックの提
案をした。一様に、なんで?って顔。
「いきなピクニックたぁどういうことですか?」
ヨウジが身を乗り出す。ヨウジの口の端には夕食後のジャムがまだ残っている。さっ
さと拭きなさい、と指導したくなるのを堪える。
「ちょっとね。そろそろ活動を再開するって頃合よ。この村にも長く居過ぎたしね。あ
たしたちは新生教徒じゃないんだからさ」
「でも、やっと生活に慣れてきてたのに。村の人たちとも仲良くなってきて……」
ハツは必死な顔。ここまで必死なハツの顔は初めて見る。ちょっと異常とも思える。
「行くのよ。行かなきゃならないのよ。マルセイユに」
「写本に関係することですか?」
それまで黙ってたユキが口を開いた。ユキは覚悟はできてるって顔。そうそう、こう
いうのを、あたしは期待してた。
「そうよ。欠落部分の探索。マルセイユになら手掛かりがあると思うの。これはアリサ
ワからの情報よ。確度はかなり高いと思われる。まぁ、あの男が何を考えてるのかはわ
からないけど」
「罠みたいなもんですかね」
ユウが神妙な顔で言う。この子は賢い、とあたしは思う。いつも、すべてを疑ってか
かる。学者向きね。
「せっかくの招待よ、罠にのってやろうじゃないの」
「言うと思いました。俺はいいっすよ」
ユウはそう言って欠伸。ヨウジは何か考え込んでる。ハツは不安そうな表情。ユキは
行く気満々ってところ。
「行くのよ。何のために外に出てきたのよ?」
「全部決めないでください。私たちだって想いはあります!」
ハツの語気は荒い。息を切らし、自己主張。こんな子だっただろうか?もっと控えめ
で……外界の空気は人を変えるのかもしれない。町を出て、この子たちは変わりつつあ
るのかもしれない。環境の変化は人も変える、ってか。
「ハツ、あなたはどうしたいの?」
「私は、私は、ここに残ります」
「そう……」
あたしはくわえていたタバコを口から離す。
「わかった。自由参加にしましょう。出発は明日。いいわね」
「ちょっと待ってください。みんな一緒がいいです!」
ユキが立ち上がり、ハツを見つめる。ハツはユキとは目を合わさずに、下を向いてる。
「ユキ、人にはそれぞれ考えがある。あたしはそれを尊重したい」
「でも、今更……」
「ユキ、別にいいじゃん。ここは町でもないんだし、学校でもないんだ。仲良く肩を並
べて、ってもんでもないだろ」
ヨウジがからかうように言う。
「そう……だけ……ど」
ユキは暗い表情で椅子に座る。
「それじゃ、解散」
あたしの一声で、みなが椅子から立ち上がる。仕方ないわね、とあたしは思う。ずっ
と一緒なんて、おままごと、いつまでも続かない。それはわかっている。もうずっと昔
にあたしはそれを知った。でも、やっぱり、こうなると、寂しさもある。
4
話のあと、あたしは散歩に出た。夜風が火照った頬を冷やす。夜空には華美なほど光
る星、欠けた月。夜の村は静か。家々の灯りは消され、月明かりが青白く村を照らす。
貧相な木々の葉がわさわさと揺れ、時折ブーンという羽虫の飛ぶ音がする。
村外れの井戸で水を飲む。体が震えるほど冷たい。あたしは井戸の石垣を背に体育座
りをする。目を閉じると、背中越しに、桶から垂れる滴が遥か下方の水面に落ちる音が
聞こえる。
「何やってんだ?」
目を開けるとそこにはイエスが立っていた。イエスはタバコを吸いながら、あたしを
見下ろしている。
「散歩よ」
「そうか」
イエスは井戸から水を引き上げ、手酌で水を飲む。口に入らなかった水が喉を伝って
地面に落ち、小さな水溜りをつくる。
水を飲み終えたイエスは井戸の縁の腰を下ろす。
「あんた、いつもタバコをくわえてるけど、火はつけないんだな」
「タバコは止めたのよ」
「そうか」
イエスは大きくタバコを吸って、煙を輪にして吐き出す。暗闇に煙の輪っかが舞う。
「マルセイユに行くんだって?」
「アリサワから聞いたの?」
「ああ。ノアが寂しがってる」
「そう」
しばし、無言。イエスがタバコを吸う音だけ。
「あんたはなんで『神話篇』にこだわるんだ」
「世界を救う鍵になるからよ。それに、あたしは学者なの。飽くなき探究心よ」
「『むかしむかし、2人の旅するものがいました。』」
「『旅人と4賢者』の冒頭ね。みんな知ってる絵本だわ」
イエスはタバコを地面に落とし、靴の踵で踏み消す。
「絵本とか昔話ってさ、そのままだからいいよな。科学的に、とか学術的に、とかって
なってくると、なんつーか、色気がなくなるとは思わないか、学者さん」
「強い物語はそれでも、なお、艶っぽい」
「あんた、良い女だな」
あたしはびっくりして、体をイエスから遠ざける。
「え?」
「気にするな。ただの言葉だ」
「うん」
「これを」
イエスは上着の中から銃を抜いた。
「ベレッタというタイプの銃だ。お守りとして持っていけ」
「どうして?」
「あんたが、良い女だからさ」
「……ありがとう」
あたしは銃を受け取る。ずっしりと重い。これでイエスは人を殺したことがあるんだ
ろうか?
「それじゃ、おやすみ」
腰を上げて帰っていくイエス。何か言わないと、と思ってあたしはちょっと大きめに
声をかける。
「タバコのポイ捨ては駄目よ」
イエスは振り返って手をあげる。
「昔、同じようなことを言われたことがあったよ」
そしてイエスは夜の闇に消える。
5
あたしはピクニックの準備を始める。アリサワがジープを一台調達してきてくれた。
用意の良いことに行って帰ってくるにはじゅうぶんな量のガソリンもだ。
食料や生活品を片っ端から集めてまわるあたしを、村の人たちは怪訝な目で見る。
どうせ、あたしは余所者ですよ、と舌を突き出してやりたいところだが、我慢してお
こう。
ユウとユキも同じように準備。ハツの姿は見えない。たぶん、どっかで、悩んでるん
だろう。悩み多き十代!素晴らしいことだ。それは、もう、あたしにはナイこと。戻れ
ない時代!情けなく、ニキビ面だったあの頃!
あんたはどうすんの?とヨウジに聞くと、俺はキリコさんとならどこにでも行きます
よ、って生意気な返事。だったら準備くらい手伝え!
「いや~俺なりに、色々準備してるんですよ。ご心配なく」
そう言ってへらへら笑う。
出来の悪い子ほど可愛いと言うが……こいつは……阿呆だ。間違いない。
イエスから預かったベレッタをリュックに入れる。安全装置は外れないようにする。
これを使う時がくるんだろうか、とあたしは思う。思ったけど、すでに仕方ないとはい
えCGの兵士を数人あの世の送っている。たぶん、あたしは躊躇なく引き金をひけるだ
ろう。その時がくれば。
アリサワによると、地中海はいまでも残っているという。規模はだいぶ小さくなって
しまったようだが……それでも、海だ!波だ!マルセイユに着いたら、まず、海を見に
行こう、とあたしは思う。そうだ、そうしよう。そうして、ホンモノの波の音をしっか
りと耳に焼き付けてから、調査をしよう。
続く
6 ユウ―7
1
席が1つ空いてるから、車内を広々と使えていいんだけど、なんかやっぱりしっくり
こない。部に入ってからずっとキリコさんと部員4人の体制できたからだろう。情もあ
るし、慣れもある。もちろんいつか、ハツがいないってことにも慣れてくるんだろうけ
ど……
目に見えてユキが落ち込んでる。ハツと仲良かったし……
「それだけじゃない。なんだか、離れたら駄目な気がするの。私たちはやっぱり揃って
ないといけないって……」
ユキのそんな言葉も、ヨウジはどこ吹く風で、出発してから1時間も経ってないのに、
高鼾。たぶんヨウジからしたらキリコさんがいればいいやってことになるんだろう。
ユキほどじゃないけど、俺も少し、気にしてる。あの夜の必死なハツはやっぱり変だ
ったし、それに、残って何をするんだろうって思う。あんな村に思い入れなんてないは
ず。理由を考えても俺にはわかりゃしないし、思春期の女の心変わりに意味を考えても
しょうがない。青春だよ、青春!なんて言うキリコさんも、ハツのことを気にしてるみ
たいで、ちょっと元気がない。
外は相変わらずの荒野。地面のでこぼこ以外変化はない。たま~に、雑草なんて見つ
けると、おっやるじゃん、とそこに生えてる心意気に感服したりする。そんで、雑草が
視界から消えると、もう二度と会えない気がして、少しへこむ。そしてそれは、多分、
真実。雨なんてほとんど降らないらしいし、どう見たって栄養も水分もあるようには見
えないとこに頑張って生えてたから、数日中に干乾びちまうだろう。俺達人間だって同
じ。こんな荒野に放り出されたら、一週間ともたずにミイラになっちまうだろう。ここ
は人が生きてくとこじゃない。
酷い所だ。残酷だし、容赦がない。俺達生き物を拒絶してるみたいに思える。その昔
この地上に人類がひしめき合ってた、なんて今となっては御伽話。信じろってほうが無
茶だ。
2
今日1日でたどり着くんですか、ってキリコさんに聞くと、わからん、との答え。地
図はもらったみたいだけど、縮尺とか距離とか、よくわからないみたい。地図に弱いっ
てのが男心をくすぐるチャームポイント。ヨウジなんかはそういうキリコさんの一面に
イチモツをたまらなく刺激されてる様子。キリコさん、そういうとこ可愛いっすね、っ
て後部座席から身を乗り出して言ったヨウジは、見事に裏拳を頂戴し、鼻血を出した。
阿呆な奴だ。垂れる鼻血を舌で舐めとって、笑ってやがる!
見渡す限りの荒野――別に珍しいことではないけど――のど真ん中で野営。穴を掘っ
て、荷台に載っけてた枯れ木を敷き、火を点ける。真っ暗な荒野で焚き火。焚き火に向
かい合ってると背中がスースーして、世界の広さを思い知る。ここには4人しかいない。
実に心もとない。寂しいし、世界中生きてるのは俺達だけみたいな気分になる。
飯盒で米を炊き、鍋で汁を作る。ユキの手際は見事なもの。村で鍛えられたから、と
笑うユキの表情は、やっぱり暗い。ハツのことが引っかかってんだろう。引っかかりっ
ぱなしなんだろう。
いただきまぁす、と夕飯を始めても、会話はない。アリサワでもいれば違ってくるん
だろうけど。米を食んで、汁をすする。そんな音がわずかに響くだけ。
文明を遠く離れ、拠り所としていた村をも離れると、とても寒い。ただ、夜空の星は
やけに綺麗。空が澄んでる。痛いくらいの輝き、瞬き。欠けた月は、すいません、って
頭を下げてるように見える。月明かりと焚き火の火で、俺達の影は大地に交差してる。
風情はある。あるけど、温かみはない。やっぱり、人は群れないと、生きてけない。そ
んなことを、今更のように悟る、荒野の夜。ジョンジョンジョン――俺に楽器は演奏で
きないけど。
3
ジープん中で毛布に包まって就寝。俺はなかなか寝付けずに、携帯に入れてたストロ
ークスをイヤホンで聴いてる。外界でもやる気のないジュリアンの声は相変わらず。ち
ょっとホッとする。
どんくらい経っただろう。ごそごそと誰かが動き出す音。闇に慣れた目で見ると、ジ
ープを降りてくヨウジの姿。
小便か?
俺はゆっくりと体を起こし、窓からヨウジを見る。ヨウジは前輪のタイヤにもたれて、
地べたに座ってる。ポケットからシャーペンを取り出し、上蓋を開け、鼻に突っ込んで
る。ここで俺は気づく。ヨウジはヤクをやってる。
どうしようか迷った挙句に、俺は意を決して外に出る。俺の登場にも動揺せずに気持
ち良くなってるヨウジ。俺は奴の正面に立つ。
「ヤクやってんだろう?」
「あぁ?なんだ、ユウか」
ヨウジは鼻をすする。
「頭空っぽになるぞ、そんなことやってたら」
「最高に気持ち良いぜ」
「馬鹿野郎」
俺は拳を握る。このだらけた顔面にきついやつを一発見舞ってやろうと、思う。
町の若い連中にヤクは大流行りだった。ヤクのやり過ぎで生きる力を失った連中も多
い。どんなタイプのヤクも、最後はそいつを虚無に陥れて終わり。息をするだけの木偶
にしちまう。みんなそれがわかってるのに、ヤクの流行は止まらなかった。終末思想っ
ていうのかな?宇宙が止まってるってニュースがあって、もともとあった閉塞感が助長
されて、厳しく管理されてる社会に嫌気がさして、どいつもこいつも逃げ出すことを選
んだ。弱い奴らだ、と多くの自称常識人は、彼らを蔑んだ。弱い奴らにしたのは誰だよ?
って怒鳴りつけてやりたい。そいつら全員。俺はヤクはやってないけど、あの町にいる
時は、正直、諦めてた。色んなことを。ローティーンのうちから自分がどんな将来を生
きるのか見通せるような、多様性のない社会。そんな世界でどうやって夢や希望を持て
というんだ。俺だって外界に出るって目的がなかったら、たぶん、のらりくらりやって
ただろう。重要なのはヤクがあるかないかじゃない。あの町が腐ってるってことだ。
そして、目の前に、その被害者がいる。
思い切り横面をぶん殴ってやった。うめき声も上げずに倒れるヨウジ。
「だせえことしてんじゃねえ」
俺がそう言うと、ヨウジは急に笑い出し、立ち上がり、飛び掛ってきた。俺達は互い
の襟首をつかみ合い、大声で罵り合って、地面の上を転がりまわる。
「何やってんの!」
車からキリコさんが飛び出してきて、俺達を引き離す。俺もヨウジも目がマジになっ
てて、相手を殴り倒さないと、どうにも収まりがつかないってとこまできてる。
「ユウー、てめえ、ぶっ殺してやるよ」
「あぁ?聞こえねえなジャンキー!」
ユキも起き出してきて、成り行きを見守ってる。
キリコさんの制止を振り切って殴りあう。俺はかなりムカついてた。今回の件でヨウ
ジに失望してたし、何より、そんなクソ野郎が親友だったなんて許せなかった。
「止めろって言ってんのよ、馬鹿どもが!」
暗闇を吹き飛ばすような咆哮。キリコさんは手に持った銃を空に向かって発砲。その
強烈な音に、我に返る俺とヨウジ。
「こいつ、ヤクやってるっす」
俺は口の中の血を地面に吐き出す。ヨウジは、へへ、と笑いながら力なくその場にへ
たり込む。
「本当なの?」
キリコさんの強い追及の眼差し。ヨウジは、へへ、へへ、と笑いながら、大地に許し
を請うように、頭を垂れる。
4
キリコさんがヨウジからヤクをすべて没収した。リュックの中身はほとんどそれだっ
た。馬鹿みたいにリュックに突っ込まれたシャーペンは注射器に見えた。中身は白い粉。
中身は全部荒野の塵となった。
ヨウジは昨晩から毛布に包まって、動こうとしない。声をかけても無視。ヤクをやっ
てることがばれたのが嫌なのか、ヤクを全部捨てられたのが癪なのか。とにかく無視を
決め込んでる。
キリコさんもヨウジをどう扱って良いかわからない様子。こんな経験初めて――俺達
の学校でも何人かヤクであげられてたけど――みたい。厳しく叱るべきか、優しく接す
るべきか……悩んでるのはそんなとこだろう。
俺だったらどうするだろうか?昨晩みたいに殴りつける?話を聞いてやって懐柔する
か?どっちにしたって今のヨウジには効果ないってのはわかる。
「問題は2つ。どうしてこの子がこんなに大量のヤクを持ってたかということ、そして
これからヨウジを襲う禁断症状をどうするかってこと」
キリコさんはそう言う。前者については、新生教がヤクを資金源にしてたって噂があ
あるからあの村で何らかの手段で手に入れたんだろう、という程度しかわからない。聞
いたところで、ヨウジは教えてくれないだろう。後者については……どうにもならない
ってのが正直なところ。村に引き返そうにもかなりの距離。マルセイユの方が近いって
くらい。
「進むしかないんじゃないっすか?」
俺がそう言うと、ハンドルにうつ伏せになってたキリコさんは頭を上げた。俺は助手
席にいて、座席に体育座りして、フロントガラスの先の荒野を見てる。ユキは車の外で
手持ち無沙汰の様子。
「どうせ、どっちにいっても、あいつには地獄だろうし。下手に村に戻ってどっかから
ヤクを入手された元の木阿弥。それよりかは、ヤクが手に入らないマルセイユにいって、
縛り付けとけばいいでしょ」
「ユウ、冷静ね」
「そんなんじゃないっす」
俺は体育座りを止めて、ドアを開ける。外からの風が目に沁みる。
「なんか、あたしって教師失格ね。駄目ね」
キリコさんの愚痴――弱音ってやつ。キリコさんには似合わない。相当ショックだっ
たんだろう――を俺は背中で受け流して、後部座席に移動する。ユキが俺の後について
くる。後部座席では相変わらずヨウジは毛布に包まったまま微動だにしない。
座席について、しばらくしてから、車は動き出した。
5
日が暮れる頃、前方にマルセイユと思しき遺跡が見えた。そのすぐ傍にでかい水溜り
がある。海だ。俺は身を乗り出してフロントガラスの先の景色を見てると、ヨウジの唸
り声。振り返ると、毛布を放り出して、頭を抱えてるヨウジの姿。多分、禁断症状だ。
こんなにすぐにやってくるとは思ってなかった。短時間で表れた症状に、ヨウジがどん
だけヤクにどっぷりだったかが窺い知れる。キリコさんが車を止める。
「ロープで縛るのよ。自傷行為をさせないようにしないと」
「キリコさぁぁぁぁん。勘弁してくださいよぅぅぅぅ」
叫ぶヨウジを無視して、俺達は縄でヨウジの両手足をきつく縛る。ヨウジは体を揺ら
して抵抗する。
「少しだけで良いんだ。少しだけで。そしたら、楽になるから。迷惑かけないから。も
うしないから。二度としないから。あと一度だけ。ほんの少しでいいんだ。ヤクを俺の
鼻に突っ込んでくれよぉぉぉぉ。ユウー助けてくれよう。助けてくれよう」
縄で縛った後、毛布をかけてやった。ヨウジのためじゃない。ヨウジの姿を見るのが
嫌だからだ。俺も、キリコさんも、ユキも。
ヨウジの声は止まない。時に汚い言葉で俺達を罵り、時に柔らかい言葉で俺達に懇願
する。痛ましいとはこのこと。ユキはずっと耳を覆ってる。
マルセイユと海がどんどん近づくけど、夜の帳が下りてきて、斜めに倒れこんでた夕
陽が海を一瞬、赤紫色に染めて、そんで何も見えなくなった。車のライトはほんの少し
先の地面を照らしてる。そして、車内の俺は何も言えないでいる。
続く
7 ユキ―3
1
マルセイユは遺跡、というより廃墟といった風情。前の世界の遺跡ということだけど
――前の世界の遺跡は世界中に点在しているそうだ――思った以上に原型を留めている。
数百年前に滅んだ都市だと言われても疑わないような状態。この状態にはキリコさんも
驚いていて、しきりに頭を捻ってる。
「もしかして、マルセイユがあった場所に似たような町が作られたのかしら?」
それでも遺跡と、近くにある海に、私達は興奮してる。本当なら早速、調査といきた
いところなんだけど、そうもいかない。
マルセイユに着いた初日。私達はヨウジにかかりっきりだった。ヨウジは暴れ、嘔吐
を繰り返し、脱糞失禁し、叫び声を上げたり、泣いたり、もう滅茶苦茶。嘔吐がひどく、
脱水症状になる恐れがあるから、無理矢理水を飲ませるんだけど、すぐに吐いてしまう。
たった1日で、ヨウジくんはひどく衰弱してしまった。翌朝、私達が目を覚ますと、ヨ
ウジの髪は真っ白になっていた。驚く、というより、怖かった。ヤクに溺れた者の末路。
代償は、大きい。
2日目もヨウジの世話。昨日よりは激しい反応を見せなかったから相手をするのは楽
だったんだけど、時折ピクリとも動かなくなるところを見ると、ドキっとする。死んで
しまったんじゃないだろうかって思ってしまう。そうなると、キリコさんやユウが頬を
叩いて確認をする。
嘔吐は断続的に続いている。気味が悪いほど体中の筋肉がぐにゅぐにゅ蠕動運動をし
ていて、まるで体の中を悪い生き物が動き回ってるみたい。
「このままじゃ死んでしまう。あたしたち素人には対処しようがない……」
ヨウジの口に水を持っていきながら、キリコさんが言う。私とユウは何も言えずに力
弱く苦しんでいるヨウジを見守っている。歯痒い。私に力があればいいのに、と思う。
医師としての能力でもいい、超能力でもいい、何でも良い。ただ、力があれば救えるの
に……
2
4日目。もはや、ヨウジの命は風前の灯に見えた。このまま衰弱して、心臓が鼓動を
打つ力を失くし……水も受けつけずただひたすらにヤクを求めているヨウジ。
「クスリ、捨てなきゃ良かったかな……」
キリコさんの後悔の言葉。こと、ここに至っては、もはや手遅れ。知っていてヤクを
認めるということは、人道的に不可能。刹那的な感情で、クスリを捨ててしまったとは
いえ、そうするより仕様がなかった。キリコさんを責めることは誰にもできない。
「こいつが悪いんすよ。そんなの、こいつ自身だってわかってる」
ユウはそう言うと、ずれた毛布をヨウジに掛け直した。
「こいつはしぶといですから。死にはしないですよ。大丈夫。俺が保証するっす」
「そうね。阿呆な子だけど、頑丈だしね」
キリコさんは泣き笑いの顔。たぶん、一番責任を感じてる。我儘で無鉄砲で強引だけ
ど、やっぱり、私達のことを生徒だと思っていてくれてる。だからこそ、ヨウジのこの
姿は余計に堪えるだろう。キリコさんが疲れてるのがわかる。本当なら遺跡の調査に飛
び出していきたいはず。誰よりもここに来ることを望んでいたから。
私達はすっかり疲れきってた。慣れない外界の旅。ヨウジのこと……本当に疲れてた。
絶対に目を離さないようにってみんなで確認し合ってたのに、4日目の夜。私達は3人
とも、眠りこけてしまった。翌朝、痛いほどの朝陽に目を覚ますと、ヨウジの姿はなか
った。ただ、ヨウジを包んでいた毛布だけが、形を変えずに、その場で包まっていた。
3
私達は海を眺めている。生まれて初めての潮風は生臭く、それ以上に、寄せては返す
波が生き物みたいに見えて不気味だった。
「風が起こしてるらしいわね。それと、満ち干きは月の引力だって」
キリコさんは膝を抱えて小さくなってる。ユウは寝そべってる。
どうしてか、海を見てると飽きない。授業で習ったけど、生命は海から生まれたんだ
そうだ。『神話篇』の話とはたいぶ違う。普通、科学って物語をつまらなくするものだ
けど、海から生まれた、ということだけは、割かし気に入ってる。なんだか、魔法みた
いな気がするから。もちろん微生物が生まれて……なんて細かくやってしまえばつまら
ないんだけど、単純に言葉だけ、海から生まれた、ってとこだけ見れば、魅力的。
私達は限界にきてる。ハツが抜けていって、ヨウジが姿を消して、それにここには私
達しかいない。5人いた神話学部もいまでは3人。
「ヨウジ、どこ行ったんすかね」
ユウがゆっくりとはっきりした声で言う。誰も返事をしない。
「どっか行ったってことは、行ける体力があるってことは、生きてるってことっすよね」
そう言って立ち上がるユウ。見上げる私とキリコさん。
ユウは手についた砂を払い、背伸びをする。一仕事終わったような顔。ぼんやりとし
た眼。
「飯でも食いません?ここのところまともに飯食ってないでしょ。それからですよ。そ
れから、ちょっと寝ましょう」
「そうね。食事くらいはしないとね」
キリコさんが立ち上がる。私も釣られて立ち上がる。
「波の音。そうね、こういう音ね。懐かしい感じがするわ」
キリコさんはそう言って大きく息を吸う。
そうだ、ご飯にしよう、と私は思う。何かを食べて、そしてちょっと寝よう。小一時
間眠ったら、きっと、今よりはマシになってる、はず。
4
食事を終えて、みんなで車で眠る。
私は夢を見る。旅をしている、いつもの夢だ。これまでよりも鮮明な夢。まるで目の
前で見ているよう。私はマントみたいなのを顎まで巻いて、長い黒髪がマントの背面に
流れている。なぜだか銃を1挺、肩にさげている。周囲は果てしない荒野。私はそれを
見ている。
……見ている?……長い黒髪?……私はショートカットでパーマ。それに歩いている
のは自分なのに、私はそれを見ている。夢ならよくあることだが……
歩いている私――たぶん、だけど――がこちらを振り返る。
そこで夢は覚めた。
目を覚ました私は、どうしてだか、泣いていた。そして、ハツとヨウジと離れ離れに
なってしまったことが不安で仕方がなかった。取り返しのつかないことをしてしまった
のだという予感があった。
5
実は丸1日寝ていたってわかってみんなびっくり。相当疲れてたんだなぁ、としきり
に肯く。それでお腹が減ってることに気づいて、食事。眠る前より、なんだか、私達は
明るい。明るいというと語弊があるが、すこし気分がすっきりしてる。
粥をすすりながらキリコさんが言う。
「さて、と。遺跡の調査でも始めましょう。それにマルセイユのどこかに、いなくなっ
たヨウジがいるかもしれないし」
どっちが本当の目的?とは聞かない。なんだか、下品な気がしたからだ。それを言っ
ちゃあお終いですよ……
張り切ってマルセイユ探索。ヨウジのことを考えないようにするためか、みんなはし
ゃいでる。倒壊したビルに小便をひっかけるユウを見て笑い、錆びた空き缶を見つけて
中身を想像する。ジュースかしら?コーヒーかも!いや、ビールよ!
昼過ぎから始まった探索は夕方になって終了。一応の区切り。明日の探索が楽しみだ
と目を輝かせて語るキリコさん。
夕飯時。地を闇が包むと、月とともにやってきた思い空気が私達に圧し掛かる。
「夜は嫌ね。何も見えないくらい黒いおかげで、無駄に想像力がはたらいちゃう。人類
の最大の発見が火だったってのは言い過ぎじゃないわね。こうやって焚き火がないと、
どんどん重たくなっていって、押し潰されそう」
キリコさんはそう言ってタバコを上下に揺らす。キリコさんがタバコをくわえるのは
マルセイユに着いて、初めてだ。
「想像力を最大限に働かすと闇を見てしまうってなことを言ってたミュージシャンがい
ましたよ、たしか。まぁ、間違っちゃいないですね」
ユウがそう言って焚き木をくべる。
「なんだか、闇とか夜とかって、そういうものなのかもね。想像を強制するっていうか。
見えないものを恐れるのは人間の本能みたいなもんだけどさ」
そう言ってキリコさんは笑う。夜に笑い声が響く。今夜はとくに暗い。新月だ。星の
光も盟友を欠いては心細いようで、何となく、か弱く見える。
ホーホーホーホー……
生き物の鳴き声。外界で、村を出て初めての生き物の声。私達は声の出どころを探す。
闇が濃くて姿は見えない。
「何の声かな」
私が小声で言うとキリコさんが、たしかフクロウよ、と教えてくれた。町の動物園で
見たことがあるのだそうだ。
「首が一回転するの」
キリコさんがそう言って首を回す素振りを見せた。その様子が滑稽だったから、私も
ユウも吹き出してしまった。
その夜、フクロウの声を聞きながら私は眠った。
続く
8 キリコ―4
1
みんないなくなる。先生もいなくなって、ハツ、そしてヨウジ。結局、誰もあたしに
はついてこられないのだ、と強がってみても、1人は寂しい。せめて、ユウとユキだけ
は守ってあげたいと思う。
あたしがタバコを止めたのは、大学時代の終わりの頃。師事していた先生が死んだ時。
寿命だった。41歳なら大往生だ、と同輩だちは言っていた。だが、あたしは、そうは
思わない。不出来な弟子ほど可愛かったらしく、先生には目をかけられていた。
先生は神話学に人生を捧げていた。偏屈で、3日風呂に入らなくても平気な顔で研究
に打ち込む先生を、周囲の人間は、頭がイカレテいると陰口を叩いてた。
「そんなに長い人生じゃないんだ。研究だけの一生なんてつまらない」
と笑った経済学の教授を、持ってた分厚い本でボコボコにした時は痛快だった。あた
しはそんな先生に似たのかもしれない。憧れ……口に出せばくだらない響き。恋愛なん
て50になってすればいい、と笑っていた先生。あたしは、たぶん、好きだった。
寿命が近づいた先生は鬼気迫る勢いで研究を続けていた。死の1ヶ月前、先生はあた
しにこう言った。
「キリコくん。君は不器用だし頭も悪い。そのうえ短気だから研究者には向いていない。
だが、熱意はそこらの研究者が束になっても適わないくらいだ。君は教師になりなさい。
そして、子供達を導いてあげなさい。より良い未来に。
どうして、私達は40で死ぬのだろうな。おかしな話だ。人生が短すぎる。心半ば。
こんな運命を甘受する必要はない。すべてぶち壊してしまいなさい。私はそのつもりで
研究を続けてきた。『神話篇』は人が現在こうなってしまった理由を解き明かすための
モノだ。大学を出ても研究は続けなさい。そして出来るだけ長く生きて、答えに近づき
なさい。だからタバコは止めなさい。口が寂しかったら、くわえてるだけでいいだろう?
タバコは体に悪い」
まぁ、色気もクソもない言葉。そして先生は死んで、あたしは言いつけどおり教師に
なり、『神話篇』の答えに辿り着くまでタバコは吸わないと決めた。
先生、あたしは長生きするよ。
2
夢のマルセイユ!前時代の遺跡!
神話学を学ぶ者にとって、前時代の遺跡は最高の教科書になる。前時代の文化がわか
るし、思いもかけない発見があって、後世に名前を残せるかもしれない。
中央は神話学者が研究のために外界に出ることを許可しなかった。これまで多くの神
話学者たちが文句を言い続けてきたが――先生は議事塔前に一週間座りこんで、栄養失
調で倒れた――それでも許可は下りなかった。理由は、前時代の遺跡は危険だから、と
いうもの。嘘だって子供でもわかる言い訳。
まぁ、それはいい。もうどうでもいい。だって、あたしはここ、マルセイユにいるの
だから!
探索してわかったことがある。壁に残る弾痕、爆破された跡の残る倒壊したビル、土
に返らず風化もしていない薬莢。おそらく大昔、ここで戦争があったのだろう。
戦争が起きたことがわかっても、『神話篇』への手掛かりは見つからない。ここであ
の写本が発見された――発見された過程はよくわかっていない――のだが、この、戦場
だった地で、いかなる理由でその本が見つかったのだろうか?
2000年前まで人々は地で暮らしていた。歴史書や資料を見ると、世界中至るとこ
ろに大きな町があったということだから、当然このマルセイユ付近にも町はあったはず
なのだが見渡す限りの荒野……そこでひっかかる。なぜ、2000年前の町の跡は見つ
からずに、前時代の遺跡がこういった形で残っているのだろうか?新しい時代のものよ
り古い時代のものが残っていることは、ままあることだが、ここまではっきりと時代の
入れ違いが起こっていると、おかしいと思ってしまう……
もう少し調べてみよう。ここで単なる閃きを信じて探索を止めるのも馬鹿らしいし。
3
「フクロウどこ行っちゃったんでしょうね」
瓦礫を避けながらあたしたちはマルセイユの町中を歩いてる。ユキは朝からフクロウ
にご執心の様子で、きょろきょろしながら、フクロウの姿を探してる。
「森にでも帰ったんじゃないの?」
あたしがそう言うとユキは、う~む、と首を傾げる。
「近くに森があるんですかね。そんなもの見当たらないけど……まさか、幻聴じゃない
ですよね。3人とも聞きましたもんね」
「わからないわよ。みんな疲れてたから」
「いやだなぁ。自然の生き物を見てみたいなぁ……」
ぶつぶつ呟いてるユキ。
ユウはあたしたちとは別行動。あたしは反対だったんだけど、二手に分かれた方が効
率がいいからといってユウは聞かなかった。
「大丈夫っすよ、俺はいなくなったりしませんから」
自虐的な言葉。ユウは笑う。
昼食はユキが作ったおにぎり。いちいちジープまで戻らなくて良いから楽。あたしと
ユキは倒れた街灯に腰掛けて食事。
「なんだか、すごく昔の遺跡って感じがしないですよね。変な感じ。ここだけ時が止ま
ってたって言われても信じてしまいそう」
ユキは指についた米粒を食べている。たしかにそうだ、とあたしは思う。この違和感
はなんなんだろう、と。
「戦争があったみたいね」
「そうですねえ。そこら辺にも薬莢や錆びた銃が落ちてるし。嫌ですね。戦争。歴史で
習いましたけど、良いこと1つもないじゃないですか。昔の人は馬鹿ですよね」
「新生教とCGの争いも戦争みたいなもんだけどね」
「う~ん、なんかCGが一方的に殺してる気がしますけどね。そもそも戦争の定義って
なんですかね?」
「それはわからないね。でも何かの為に理由をつけて人を殺して、殺される人がいて、
もうそれで戦争って気もするけど。思想も規模も宗教も関係なく、ね」
「難しいですね」
あたしは水筒の水を飲む。温い水が米粒を胃に流し込む。
ホーホーホー
ユキが立ち上がって周囲を見回す。
「いました、いましたよ、キリコさん!」
あたしの背中をばんばん叩く。ユキの指差す方を見ると、フクロウ――らしき――鳥
が1羽、空を舞っている。そして飛び去っていく。
「おっかけましょう」
走り出すユキ。
おいおい、あたしはそんなに若くないんだから……
しょうがなしに、ユキの後を追って、足首を捻らないように小走り。
あ~あ、歳は取りたくないもんだ……
4
はぁはぁはぁはぁ……
もう限界。ユキを見失った。心臓がバクバクいってる。このままじゃぶっ倒れる。膝
に手をついて、流れる汗を地面に滴らせているあたし。30過ぎた女の体力の限界。
たぶん、とあたしは思う。体力の分かれ目は26歳ね。
ここはどこだろう?周囲を見渡す。正面に大きな建物。まるで宮殿。壮麗とはこの事。
まるで御伽話に出てくる宮殿みたい。噴水跡みたいなのがあって、その奥に宮殿。中央
は塔みたいになってて門がある。建物は両翼に拡がっている。左右対称。ところどころ
崩れてはいるが、過去の栄光の名残がある。どっかの偉い人の慰みかな?
あたしは噴水跡の手摺を背もたれにして、地べたに座る。水を飲もうと水筒を逆さに
したが、水が1滴舌に落ちただけ。いつの間にかカラになってる。
がぶがぶ飲むんじゃなかった……あたしは変に落ち込んでしまう。ユキを見失ったこ
とがとても怖い。それでも疲労と年齢が体を絞めつけて、動かせない。
「何やってんだ、あたしは」
あたしは誰にともなく呟いて、タバコをくわえる。そして空を見上げる。いい天気だ。
…………
「こういう日はストーンズの「ディア・ドクター」を聴きながらごろごろするのが最高
ですよ」
あたしはゆっくりと声の方を見る。あたしの右後ろ、手摺に1人の少年が――ユウた
ちと同じくらいの歳かしら?――座ってる。いつの間にって思うよりも、恐怖が先に立
ちあたしは後ずさりした。
「ストーンズ最高ですよね」
どこかの学校の制服を着ている。あきらかにおかしい。こんなところにこんな格好を
した人間がいるわけがない。もしかして近くに町があって、そこの学校の生徒が授業を
サボタージュしてきた……なんて馬鹿な話しがあるもんか。ここは不毛の大地だ。
「そんなに怖がらなくても……」
少年はばつが悪そうに顔を赤らめて、頭を掻く。あたしは弁当と一緒に持ってきてい
たベレッタをリュックから取り出し、少年に向ける。
5
「あんた、誰?町じゃそんな制服見たことないけど。CGの回し者?」
「そういえば、昔、同じようにベレッタを向けられたことがありましたよ。ちょうどあ
そこら辺で」
少年は前方の地面を指差す。
「昔は歩道だったんだけどな」
「答えなさい」
「CGじゃないよ。ただのロック好きの高校生ですよ。悪いですかここにいちゃ」
「悪いわね。外界にあんたみたいなのがいるって聞いたことないわ」
「まぁ、確かに、僕が観てきた限りでも、僕みたいなのは他にはいなかったけど」
少年は手摺から降りて、宮殿を指差す。
「一緒に行きません?面白いものがある」
少年はあたしが向けてる銃を気にも留めずに歩き出す。
「待ちなさい」
少年は振り返ってにっこりと笑い、また歩き出した。あたしは銃を構えたまま、少年
の後を歩く。
建物の中はひんやりとしている。外から差し込む陽光の中に埃が舞っている。少年は
何度もこに来たことがあるようで、迷いもせずに進んでいく。
「どこに行くの?」
少年は答えない。あたしの手は震えている。引き金にかかった指先が汗をかいている
のがわかる。
着いた先はこざっぱりとした一室。ベッドが1つ。椅子と机。それだけ。
「たぶんここらへんにあったと思うんだけど」
少年は机の引き出しを開けてごそごそと中を探ってる。
「お、あった」
少年は引き出しの中から、手帳を取り出す。表紙を叩いて埃を落とす。
「あなた、名前は?」
少年は手帳をぱらぱらとめくって、閉じる。
「シンジ」
「なんでこの建物に詳しいの?」
「色々あってね」
「答えなさい」
あたしは近寄って少年の額に銃口を押し付ける。
「撃っても死なないよ、僕は。そういう風になっちゃったんだから」
少年は手帳を差し出す。
「『神話篇』の欠落部分じゃないけど、それよりももっと重要な神話の日記。僕も当時
はそんなものがあるなんて知らなかったんだ。でも全部終わった後にもう1度ここに来
てみたら見つけたんだ」
あたしは銃を構えたまま手帳を受け取る。
「あんまり時間がないんだ。そろそろ行かなきゃいけないんです」
「どこに?」
「友達が待ってるんです」
「ねえ、もしかしてあんた幽霊とかの類?」
「違いますよ。ただの観察者です。まぁ成り行きでそうなっちゃったんですけど……」
「目的は何なの?こんな手帳をあたしに渡して」
少年は肩を落とす。どうしてだか落ち込んでるみたいだ。
「本当は駄目なんですけど。でも、こうでもしないと、どうにもならないから」
「あんたは何を観察してるの?」
「全部です。僕だって……いや、望んだんだけど……たぶん僕は無になっちゃうんだろ
うけど、物語を終わらせたいんです。めでたしめでたし、って感じに」
「わけがわからない!」
あたしは銃口を強く押し付ける。少年は悲しそうな目でこちらを見ている。
「これ以上は駄目です。もう少し、僕も色々やりたいことがあるから……大丈夫、また
会えますよ。僕ははじまりの地にいますから。ていうかそこにこれから行くんですよ。
友達が待ってるから」
少年は銃に手をかける。あたしは咄嗟に引き金を引いてしまう……
「すいません。なんか……なんていうか、本当にごめんなさい」
少年はそのまま部屋を出て行った。あたしは少年を追わなかった。いや、追えなかっ
た。全身の毛穴から汗が噴出し、頭がくらくらする。あたしはベッドに倒れこむ。銃か
ら手を離す。
これはきっと夢だ。これは疲れてるあたしの脳みそが見せた幻覚の類だ。
「ああ、それと」
少年が入口から顔をのぞかせる。あたしは飛び起きる。
「ハツさんは町に戻りました。ヨウジくんは無事です。それだけです」
そしてまた、少年は消えた。
少年の――シンジとかいったか?――言葉を信じたいと思った。まぁ、あんだけもっ
たいぶった話し方と態度だから、たぶん普通の高校生ってわけじゃないんだろうから、
信じてもいいはず。本当なら少年を拷問してでも知ってることを吐かせたいと思ったけ
ど……あたしはベッドにまた、倒れる。
……銃弾はたしかに少年の額をとらえた。けれど、1滴の血も出ずに、傷口もすぐに
閉じてしまった……
はじまりの地か……あたしは目を閉じる……行ってみるかな。
とても静か。でも、どこかから、微かに波の音が聞こえる。
そして、あたしは眠る。
続く
9 ユウ―8
1
実は、俺は戸惑っていた。いざ外界に出てきて、海を見て……それでどうなる?それ
で俺は何をする?当初の目的は達成できたんだ、もう外界に用事はない。町に戻る?そ
れは嫌だ。じゃあ別のどこかへ?
こんな何もない世界に何があるって言うんだ?自由しかないじゃないか。自由があれ
ばまだマシな方なのかもしれないけれど……
キリコさん達と別行動したかったのは、1人になりたかったから。ヨウジがあんなに
なっちまって、俺は打ちのめされた。ヨウジはいつも俺を「何か」に巻き込んでくれた。
でも、もうヨウジはいない。俺はこれから「何に」巻き込まれるの――もうじゅうぶん
巻き込まれてる気はするけど――だろうか?それとも「何か」を巻き込んでいくのだろ
うか?
瓦礫の町を歩いてる。前時代の遺跡も、神話学馬鹿の2人とは違って、俺にとっては
ただの散歩道。『神話篇』の手掛かりになるようなもんを探せったって、どれがそれな
のかさっぱりわかってないから無駄。
まぁ、色々と考えることはある。来し方行く末……町にいた頃は諦めてたけど、外界
に出てきた俺は困ってる。キリコさんやユキみたいに神話学にはまってたんなら話は別
だろうけど。やることがない。世界を救うったって話しがでかすぎて掴みどころがない
し、『神話篇』の断片を集めたところで願いが叶うわけでもない。
そもそも世界を救いたいなんて俺は思ったことは、1度もない。俺はもっと小さいこ
とのために何かをしたい。身近な何かの為に……こんなこと言うとヨウジの奴はロマン
ティストだな、なんて笑うんだろう。まったく……
ぶらぶら歩いてて、なんだか眠くなってきた。俺は倒れた壁の上に寝そべって眠る。
2
「おい、起きろ。死ぬぞ」
激しく体を揺さぶられてる。地鳴り。爆発音。発砲音。目を覚ますと、目の前には無
精髭を生やした浮浪者風の男。風呂に入っていないのか、ひどく臭う。
「義勇兵か……いや自衛隊の制服だな。中学校上がりか?戦場で寝るなんていい度胸だ」
男に引き起こされる。肩にはずっしりと重い小銃。どこかで見たような制服を着てい
る俺。夢の中にしてはリアルだな、なんてのん気に構えてたら、数メートル先で大きな
爆発。
「危ない!」
砂煙と瓦礫の破片が飛んでくる。俺と男は爆風にのまれる。
爆風が落ち着く。見ると男が俺をかばったせいか、背中にガラスの破片が刺さってい
る。
「大丈夫、ですか?」
俺がそう言うと、男はにっこりと笑う。
「ちと、まずい」
男はそのまま気を失う。俺は焦って、小便漏らしそうなほどびびりながら、男を担い
で、安全な場所を探す。仲間らしき兵達は俺と男を無視して突っ込んでいく。
なるほど、兵士たちの逆を行けば前線から離れられそうだ……冷静な判断とは裏腹に
俺のパンツはちょろっと漏らした小便で濡れてた。
兵士達の逆を行く俺。陣地なんてわかりゃしないから、きょろきょろしながら歩く。
そんな俺を不審に思ったんだろう、若い兵士が話しかけてきた。
「ねえ、どこ行くの?」
俺は男をが怪我して気を失ったことを告げる。
「それなら、この道を真っ直ぐ行けばロンシャン宮につくから、そこで手当てを受けれ
ばいいよ」
「ありがとう」
俺は礼を言って歩き出す。
「ねえ。見ない顔だけど、義勇兵?」
俺は何て答えればいいかわからない。わからないが、口をついて出た言葉は先ほど男
に言われたことの真似。
「中学校あがりの自衛隊さ」
「そうなんだ。なぁ、看護兵にアミって子がいるからそいつの看護頼むといいや」
「そうなんだ」
「俺と同じ義勇兵なんだ。高校の同窓でね」
若い兵士はげっへっへと笑う。
「俺の女なんだ」
そう言うと敬礼をして、前線へ向かって走っていった。
いいもんだな、彼女かよ。戦場で結ばれたのかな?
俺は言われたとおり、道を真っ直ぐ歩いてく。気を失ってた男が目を覚まして声をか
ける。
「悪い」
「いや、守ってもらったし。気にしないでください」
ありがとう、と男は言う。俺はとにかく、男を死なせてはならないと思いながら歩く。
3
ロンシャン宮ってところは怪我をした奴や怯えてる奴、怒鳴ってる奴、看護してる女
たちで溢れかえってた。いろんな色の肌の人間がいる。まるで世界中の人間が集まって
るみたいだ。俺は看護兵を探す。足を撃たれた兵士に包帯を巻いてる看護兵を見つけ、
話しかける。
「すいません、アミって人いますか?」
「ああ、アミちゃんならあっちよ。ほら、ロンシャン宮の入口くらい。あそこら辺にい
るはず」
看護兵に礼を言って、ロンシャン宮の入口へ向かう。
入口前はさらに人、人、人。俺は男を担いで、アミという看護兵を探す。アミという
女は入口から少し中に入った通路で見つかった。ちょうど看護していた兵士の治療が終
わったところだった。
「アミ、さん?若い義勇兵の人に言われてきたんだけど。この人の治療をしてほしいん
だ。俺をかばって、背中にガラスを受けてる」
女は男の怪我の様子を見て、顔をしかめる。
「こっちへ。ここじゃ難しい。先生を呼んでくるから、そこの部屋に入ってて。ベッド
にうつぶせに寝かせて」
「わかった」
俺は男を担いで、部屋に入る。部屋の中にはベッドと丸椅子が2つ。洗面器やら注射
器やらがトレイの上に置かれている。血のついた使用済みの包帯を見て、俺は気分が悪
くなる。
なんだ、これ。この臭い。最悪だ。血、汗、消毒液、死……カオスな臭い。臭いと雰
囲気だけで死ねるな、こりゃ。
男をベッドにうつぶせに寝かせる。男は意識はあるみたいだが、息遣いが荒い。制服
の背中は血でべっとり。触れると粘度の高い血が指先にへばりついた。
医者が入ってきて、人払い。俺は通路に出される。体育座りして壁にひっついて、目
の前を行き来する兵士や看護兵の姿を眺めてた。
完全に場違い。みんな覚悟してる面。たくさん人が死んでるだろうし、これからも死
んでいくってことを知ってる顔。俺には、ちょっと、出来ない。今すぐここから逃げ出
したい。怖い。こんな恐怖初めて。前線から離れてるはずなのに、体の震えが止まらな
い。夢なら早く覚めてくれって思う。風化したマルセイユに戻りたい。
ドアが開いて女が出てきた。俺の前に立って腰を屈める。
「大丈夫?顔色悪いよ。それに、ほら、眉の上を切ってる。血が出てるわ」
そう言って女は脱脂綿で俺の眉辺りを拭く。消毒用アルコールが蒸発していって、眉
がスースーする。
「若い奴に紹介されたんだ。アミって看護兵のとこに行けってさ。それで、あのおっさん
大丈夫なの?」
「ええ、血はたくさん出たけど、傷は浅いから。縫合の必要もないみたい」
「それは良かった」
俺は安堵する。目の前で、俺のためなんかに死なれたら、最悪だ。
女は傷口に絆創膏を貼ってくれた。
「これでよし」
「ありがとう」
女は俺の顔をまじまじと見る。
「初めて見るわね。若い子って地球軍には少ないから目立つはずなのに」
「まあ、こんだけ人がいるんだ。そんなこともあるさ」
「そうね。ところで、さ」
女は腰を下ろし、顔を近づけてくる。
「サヨリ、見た?」
「え?誰だって?」
「サヨリよ。知ってるでしょ。無事かしら、あの子」
サヨリって誰?って聞こうとして、やめた。どうやら有名人らしい。それを知らない
となると、厄介なことになりそうだ。
「あの男、あんたの彼氏らしいな」
「あの馬鹿そんなこと言ったの?」
「ああ」
「はぁ」
女はため息をつく。
「いい、ケンジと私はね……」
と、それから女は愚痴のようなのろけ話を続けた。
4
「あ、そろそろ行かなきゃ。あっちで昼ご飯始めてるから行ってみたら?少しは元気出
るよ。食べると」
アミはいそいそと立ち上がり、それじゃ、と言って歩き去った。たしかに、腹が減っ
ていた。夢の中でも腹が減るんだな、と俺は思う。まぁ、ここが夢なら、だけど。俺は
腰を上げて、アミに教えられた方へ向かう。
昼飯のとんでもない行列を――最後尾からじゃ、飯をくばるテントが見えないくらい
――を乗り切って、薄いスープを1皿もらった。
どこか人のいないところで、ゆっくり食べようと場所を探す。結局ロンシャン宮近く
の歩道に落ち着く。薄味のスープをゆっくりと飲む。目の前を兵士達が通ることもある
が、ロンシャン宮の正面ほどではないので、まだ、マシ。
スープを飲み終わって、横になる。寝たら夢が覚めるってのはよくあることだ。目を
閉じる……数分して――なかなか寝付けない――近くに人が座る気配がする。薄目を開
けて見ると、2挺の銃を持った女がスープをすすってる。背中に1挺、1挺は抱えるよ
うにスープを持つ腕の中に抱え込んでる。
俺と同じで人ごみを嫌ったのかな?
女は長い黒髪。埃で汚れた頬。目は虚ろ。ごついブーツが華奢な体に似合ってない。
大き目の制服。俺にロンシャン宮を教えてくれた男と同じもの。
しばし女を盗み見。なんでか目をそらせなかった。危なっかしい感じ。頭のネジが飛
んでるようにも見える。前を通る兵士達は女に気づくと顔をしかめる。
女はスープを飲み終えるとポケットからipodを取り出して、イヤホンをつける。
「何聴いてるの?」
ついつい声をかけてしまった。それでも女は聴こえてないみたいで、目の前の空間を
見つめながら音楽を聴いている。
「ねえ、何聴いてるの?」
俺は手の平で女の視線を遮る。女はハッとして、右の耳のイヤホンを外す。
「何?」
女が俺を見つめる。強い目。生き残ろうという目。敵を殺し続けて生き延びている戦
士の目。俺はたじろいでしまう。なんだか、戦う前から負けたって感じ。
「いや、何を聴いてるのかなって」
これだけ言うのが精一杯。女は首を傾げる。
「ごめん、タイトル知らないの。友達にもらったんだけど……」
そう言って、女は外してたイヤホンを俺に差し出す。俺は顔を近づけて、イヤホンを
耳にはめる。石鹸の匂い。女の匂い。俺は少し、緊張する。顔を上げればすぐに女の顔
がある。白い肌。薄い唇……
5
イヤホンを外し女に返す。
「レディオヘッドだな。「パラノイド・アンドロイド」名曲だね。俺はストロークスの
方が好きだけど」
「へ~そういうんだ」
女の表情は曲に興味があるって感じじゃない。なんとなく聴いてるみたい。女はイヤ
ホンを右の耳にはめようとする。俺はそれを遮るように喋る。
「なんで、2挺も銃を持ってるの?動きづらくない?重そうだけど」
「背中のは狙撃銃。近くの敵にはこっち」
と抱えてた銃を爪でこつんと叩く。
「なんか、おかしく見えるけど。そんなことしてるの誰もいないし」
「いいのよ。別に」
女はそう言ってイヤホンをはめる。会話は終わる。俺としてはもう少し話をしたい。
俺は女のことが気になり始めてる。なんだか、どうしようもなく、気になってる。
「ねえ、名前は?」
「サヨリ」
女はこちらも見ずに答える。
「ああ、あんたがサヨリか。アミって子に聞いたよ。友達なんだろ?」
「うん」
「有名人みたいだな。知らない人はいないって」
「わかんない」
サヨリの返答はそっけない。俺に興味がないってのがばればれ。というか、この女の
の意識はどっか遠くへ向いてる。目が遠くを見てる気がする。だから虚ろに見える。
「たくさん敵を殺してるの?」
「うん」
「楽しい?」
「楽しいわけがない」
サヨリはこちらを睨む。俺はその視線に耐え切れず薄ら笑いをしてしまう。びびって
るんだ。
「だよな」
「できるなら殺したくない。でも殺さないと生き延びれないから、わたしは生きないと
いけないから」
「そっか」
…………
なんとなく、気詰まり。女は相変わらず音楽を聴いてる。何か言わないといけないと
俺は思う。
「俺がお前の代わりに敵を殺して、生き延びさせてやろうか?」
女はイヤホンを外す。
「あなたには無理よ」
「なんでそう思う?」
「無理だもん」
「約束するよ。俺がお前の代わりに敵を殺して、生かしてやる」
じっと俺の方を見つめるサヨリ。ただ、見つめているだけ、という瞳。
「……ありがと」
そしてまたサヨリはイヤホンをつける。
まぁ、これでいいや。この女の代わりに敵を殺してやろう。こいつを生き延びさせて
やろう。やることなかったから、ちょうどいいや。女と約束するなんて初めてだ。たぶ
んヨウジがこんなとこを見たら、げらげら笑うんだろうな。
そして、俺はまた、横になる。眠くなってきた。
…………
よくある話で、目を開けると、風化したマルセイユ。やっぱり夢落ち。遥か上空を鳥
が舞ってる。ホーホーと聞こえるから、昨晩のフクロウって奴かもしれない。フクロウ
はしばらく上空を旋回してから、東の方へ飛んでった。
あの女も夢……か。せっかくの約束も台無し。俺の一世一代の台詞は夢落ちにて儚く
散った。ちょっと、恥ずかしい。
起き上がって、大きく欠伸をする。そして何気なく額を掻いた手が絆創膏に触れる。
最近の夢はやけにリアルに作られてるもんだ、と納得……するわけもなく、急にドキド
キする。状況としては過去にいったってことだ。だけど、どうやって?どうして?
考えてもわからん。でも、あの約束は夢じゃないってことに気づく。そんで、あの子、
サヨリといったあの女の子のことを思い出して、また、少し恥ずかしくなる。
続く
10 ヨウジ―4
1
この世のありとあらゆる責め苦を俺は感じてる。体の中を蛇が這い回り、肌のどこか
しこが、虫がわいてるみたいに痒くて、頭ん中は硬い棒でぐちゃぐちゃにかき回されて
るみたいだし、目をつぶってても、嫌なモノ――反吐やコオロギの大群とか骸骨のプー
ルとか――が見えるし……このまま殺してくれって俺は願う。内臓を引きずり出して洗
浄してほしい。脳みそをそっくり入れ替えてもらってもいい。体すべてを新しいのに取
り替えて、綺麗なまんまで死んでいきたいって思う。ヤクが切れてもうどのくらいにな
るのかわからない。時間の感覚なんてあったもんじゃない。
体を襲う苦痛以上に、ユウやユキ、そしてキリコさんにだせえとこを見られたっての
がきつい。不愉快。情けない。みっともない。そんな目で俺を見ないでくれ!憐れまな
いでくれ!
キリコさんが失望してんのがわかる。ユキに見下されてんのがわかる。ユウに馬鹿さ
れてんのがわかる。俺が俺をあざ笑ってんのがわかる。
今頃思い出した、俺は俺のことが大嫌いなんだ!
2
ヤクを始めたのは中学校1年の夏。繁華街で売人から買った。興味本位。初めての快
楽のあと、激しい後悔。もう2度としないと誓って、1週間後、売人から2度目の購入。
意思が弱い自分が情けなかった。快楽に身を委ねての自慰に耽る自分が恥ずかしかった。
ちょっと悪いことしてるみたいで格好良いと思ってる自分が許せなかった。
言い訳をさせてもらうと、俺はその時、悩んでいた。将来に。自分に。不安で不安で
堪らなかった。クラスメイトたちの前でおどけてる自分を心の中で馬鹿にしてた。不安
の正体もわからずに怯えてた自分を臆病だと笑ってた。悩んでることが悩みだった。俺
の中にはいつも、2人の俺がいた。現実に生きて這いつくばってる俺と心地良いとこで
好き勝手文句を垂れてる俺。悩んでびびってたのが前者であぐらをかいて馬鹿にしてた
のが後者。どちらも俺だった。前者は小心者の善人で、後者は達観してる悪人だった。
思春期にはありがち、と片付けられれば楽なんだけど、そん時は切実だった。
俺はまるでピエロみたいな人生を送ってきた。みんなの前でおどけて、あいつなにや
ってんだよ、って苦笑されるのが生きがいみたいになってた。そんで、それが個性だと
思ってた。事実、みんな俺のことを変な奴だって言ってた。変な奴イコール普通じゃな
いってこと。俺は個性的であることを装ってた。
たしかに、俺は間違えてたかもしれない。でも、そうでもしないと、自分でいること
に我慢できなかったんだ!俺の中にいる2人の俺は互いに互いを憎んでた。だから、2
人の俺は、自分が大嫌いだった。
3
俺が無くなっていく。あんだけひどかった発作も収まってきて、同時に命の揺らめき
も弱くなってきて、存在が薄くなってく気がする。手足に力が入らない。このまま煙み
たいに風に散るかもしれない。誰にも気づかれず……
俺が終わっていく。人生40年だけど、俺はその半分も生きちゃいない。それなのに
こんな終わり!ヤクで削った命の残滓が肌の内側に澱んでるから存在できてるだけ。残
滓の澱みもいつかどこかへ流されていって、俺は冷たくなるだろう。
やけに静かになった。たぶん、今は夜。意識が正常に戻るのは刹那。その時だけは真
冬の湖みたいに冷静になって、頭ん中が冴える。毛布をどけると、みんな寝てる。ジー
プの中に外から闇が染み込んできてる。
疲れきったみんなを見てると、涙が出てくる。ごめん、と心の中で呟く。
どうしてこうなっちゃったのかな?もっとうまくやれなかったのかな?どうして俺は
こんな愚かな存在なんだ!ちっぽけで、情けなくて、阿呆で……
そして、また、異常な精神が俺を支配し始めた瞬間、頭ん中に誰かの言葉が入り込ん
でくる。
“今ならまだやり直せる。我の元へ来い”
俺は目を閉じる。ああ、行きます。なんでもするから、俺を助けて!
闇が俺を包んで、ジープから連れ出す。すぐに俺を発作が襲う。また、責め苦が俺を
襲う。
4
どんだけの時間、俺は地獄を彷徨っただろう。体の中で這い回ってた蛇もどっかいっ
ちまって、体の中にあるもの全部吐き出して、すっからかん。おかげで体が軽い。頭の
中も空っぽになって、もう、何も考えられないってとこまで来てる。廃人になったのか
もしれない。
のろのろと瞼を持ち上げ、久しぶりの「外」の光が眩しくてだらだら涙が出てきて、
それでも視力だけはなんとかしようと、流れる涙を両手でかき分けると、目の前には見
たことのある男。
「やあ、ヨウジ。起きたか。体が弱ってるからな、無理しないほうが良い。まだ、休む
んだ」
「あんたか」
「君が望めばヤクを持ってくるよ。どうする?」
「いや、もういらない。もうこりごりだ」
「そうだな。あれは、体に悪いから」
男は笑う。癪に障る。
「アリサワさんよ、助けてくれたのはあんたか?」
「いや、〈大きな音の神〉だよ。神の思し召しさ」
「けっ、ヤクを世話する奴が教祖やってるとこの神様なんて胡散臭くてやってられねえ
よ」
「神は人が望むものを与えるものさ」
アリサワはそう言って、手をのばし、俺の瞼を優しく閉じる。
「寝るんだな。ゆっくりと」
ああ、と呟いて、俺はまた眠る。
5
村でヤクを世話してくれたのはアリサワ。誰に声かけてみようか迷ってたところ、向
こうから持ちかけてきた。渡りに舟とはこのこと。すぐさま申し出に飛びついた。なん
でもヤクは外界で作られてるらしい。教団がヤクの元締めってのは本当だった。かなり
質の良いやつをタダでまわしてくれたから、感謝感激。
「あまりやり過ぎないように」
って注意するわりには、アリサワは、頼むたびにかなりの量のヤクを持ってきてくれ
た。
おかげであの醜態。このザマ。
体調が良くなると、生まれ変わった気分になる。ヤクを乗り越えて生還した勇者って
ところ。そうなると自分がいるところがどこなのか知りたくなる。
狭い部屋。監獄って言われても信じるだろう。ベッドに便所。そんだけ。出入り口の
ドアには鍵がかかってて勝手に出られない。まるで狂人扱い……いや、まぁ、その通り
だったんだが……
「ここがどこかだって?ああ、ここは教団の施設だよ」
アリサワが毎日3食運んできてくれる。だいたいメニューは同じ。硬いパンに薄味の
スープ。
「外界?」
「そうだね」
「ここでヤク作ってんの?」
「まあそうだな。でもメインは別さ」
「悪だくみか?」
「どうかな?」
アリサワは笑う。笑うってことは悪だくみなんだろう。
「キリコさんたちは?」
「彼女たちはまだマルセイユにいるんじゃないかな?彼女たちには悪いことをした。君
を黙って連れてきたんだからね」
「そう」
俺はあの時のことを思い出して、へこむ。前みたいな関係ではいられそうもない。俺
は自分で居場所をぶち壊してしまった。
「気に病むことはない。君はまだ若い。やり直しはきく」
「ヤクをくばってる奴が言う台詞じゃないな」
「嫌味が言えるほど元気なら問題ないな。やり直すチャンスもあるし」
「チャンス?」
「そう、チャンスだ」
「胡散臭いな」
「君はキリコさんが何をしたいか知ってるかい?」
「世界を救いたいんだろ?」
「その通り。彼女は人の寿命が40年であることや町でしか暮らせないこと、宇宙が止
まっていること、諸々の状況をすべて打開したいと思っている。現状に疑問を持つ人間
は稀だ。彼女は貴重な存在だ。彼女をそうさせたのは1人の男の死だ。男は彼女の先生
だった。大学のね。彼女は男を好きだったんじゃないかな?それから彼女は世界に疑問
を持つようになったんだ。どうして人の寿命は短いんだ?ってね。そしてその鍵は『神
話篇』にあると、思い至った」
「詳しいな」
「まあね」
「それで……何が言いたい?」
アリサワはにっこりと微笑む。
「人の寿命を延ばしたいと思わないか?そうすれば、キリコさんもお前を見直すだろう」
「悪だくみの手伝いをしろ、って言いたいんだろ?ヤクから解放されて頭がすっきりし
てんだ、回りくどいのはやめて欲しいな」
「なるほど、それはそうだ。だが、実際、それができれば、君は仲間のところへ戻りや
すいだろう?」
「どうかな……」
「それに」
とアリサワは大きな声で、俺の言葉を遮る。
「君の愛するキリコさんの寿命は尽きかけてる。わかるだろう?人生40年だ」
「……俺が断ったらどうする?またヤク漬けにするか?」
「何もしないさ。だが、君は断らないだろう?」
俺は、苦笑する。
冴えた頭で、長生きしてキリコさんと長い時間を過ごすところを想像する。世界なん
てどうでもいいけど、あの人にだけは長生きしてほしいなって思う。そして俺はさらに
苦笑する。こんなことユウに言ったら、お前もロマンティストだ、って馬鹿にされそう
だな……
別にいいか。俺は馬鹿だから……
続く