Neetel Inside 文芸新都
表紙

黄昏スーサイド
憧憬ノスタルジア

見開き   最大化      

「まだ帰ってきてないみたい」
「返却期日って今日だよね?」
「そうだけど、放課後とかじゃない?」
「そうだよね」
 神楽直子は友人の図書委員の素っ気ない口調に溜め息を吐いた。
「返ってきたら取っておくように言っとくから、別に明日でもいいじゃない」
「そうだけど、早く読みたいの。とりあえずこれ返す」
 そう言って彼女は返却カウンターに一冊の小説を置いた。
 村上春樹の「ノルウェイの森」の上巻だった。図書委員の彼女はそれを受け取るとカードにサインをしもう一度彼女へと渡した。
「じゃ、それ棚に戻しといてね」
「うん」
 直子は彼女に言われたとおり小説を棚に戻そうと図書館の机を横切った。昼休み中の図書館に人影はあまりなく静かで、彼女はその雰囲気が好きだったが目当ての本がないと言う事には軽いショックを感じていた。彼女は昨日読み終えた上巻の続きである下巻を早く読みたいと思っていたのだが、やはりやってきた棚には見当たらず、もう一度溜め息を吐いたが、その時図書館の扉が開く音が聞こえ、なんとなく彼女はその方向を見てみたのだが、そこにいる男子生徒を見て彼女は「あ」と声をあげそうになった。正確に言うと彼が持っていた小説を見たからだったが。
 そこには確かに今彼女が手にしている「ノルウェイの森 上巻」と殆ど同じ表紙の小説が握られており、彼女はそれがすぐに探していた下巻だと分かった。
(やった)
 内心でそう思い、彼が図書委員へと近付いていくのを見て、彼女もそちらへと移動した。返却が済んだらその場で貸してもらおうと思ったのだ。図書委員も彼女の考えていることが分かったらしくこちらをみてにやりとした。
 だが彼が返却カウンターに立ち、しばらく話していると彼女が少し困ったような顔になり、直子は嫌な予感を覚える。
(どうしたんだろう?)
 そうやってやりとりしている二人を見ていたのだが、彼がカードになにか書き込んでいるのを見て彼女は再び声をあげそうになった。基本返却の際にカードに書き込むのは図書委員の仕事であり、こちらが記入をする事はない。だから今彼がペンを握っていると言う事はなにかを借りようとしている事に他ならないのだが、今の彼が借りようとしているものと言えば一つしかなかった。
「じゃ、お願いしまっす」
 予想通り、彼は持ってきたその本を再び手に取ると出口へと向かって歩き出そうとしていた。
 直子は予想していなかった出来事に再びショックを覚えながら、彼が持つ「ノルウェイの森」を眺める。
(読めるのは一週間後になっちゃうかな)
 そう思いがっくりと肩を落とした時だった。
「どうかした?」
 そう声をかけられ顔を上げると、目の前に男子生徒が立っていた。唐突の事で驚いていると彼は首を傾げたが、その時彼女が自分と同じ小説の上巻を持っている事に気がついた。
「あ、もしかしてこれ借りようとしてた?」
「うん」
 彼はそれを聞いて「あー、マジで?」と大げさなリアクションと共に申し訳なさそうな顔をした。
「いや、俺これ借りたんだけど一週間で読めなくてさ。もう一回借りたんだけど、そっかぁ、俺以外にも読みたい奴いたんだ」
 彼は想像もしていなかったと言うようにしみじみとそう言うとしばらく小説を目の前でくるくると回して見せた。
「あ、でもいいよ。順番だからしょうがないよ」
 直子はそう言うと彼から離れようとした。また一週間後に借りに来ようと思ったのだが、そうする彼女を彼が引きとめた。
「あのさ」
「え?」
「はい」
 そう言うと、振り向いた彼女の前に小説が差し出されていた。
「え、なに?」
「いや、ほら、俺一週間でまた最後まで読めるか分からないからさ。いいよ、先に貸す。君が終わったらまた借りるわ」
「でも、悪いよ」
「いいって、いいって。ちゃんと一週間以内にさえ返してくれれば大丈夫だから」
「本当にいいの?」
「いいよ」と彼に押し付けられるように渡され、彼はそれを見て満足そうな顔をすると「じゃ」と手を上げてさっさと図書館から出て行ってしまった。彼女はあまりの唐突さに呆然とそれを見送ったが、確かに今自分の手の中に「ノルウェイの森」の上官と下巻が存在していた。
「なに? 借りたの?」
「うん、そうみたい」
「へー、よかったじゃない」
 図書委員が笑いながらそう言うが、彼女はなんだか彼に悪い事をしたような気がしていた。
「あ、カード見ていい? あの人、名前なんて言うの?」
「ん? なになに? 気になるの?」
「そんなんじゃないよ。ただ今度お礼言わなきゃと思って」
 そう言っても茶化してくる友人に「もう」と悪態をつきながら彼女は彼が置いていったカードを手に取り、そこに書かれている名前を見て「あ」ともう一度声を上げた。
 渡部透。
「同じだ」
「え? なにが?」
「ノルウェイの森のトオル君と、名前が一緒」

     

「あれ? 本は?」
「あぁ、いや、ちょっと」
 そう尋ねてきた清春に透は曖昧な返事をすると、彼はそれ以上追及してこず何度か頷くだけだった。二人は昼休みが終わりに近付くと教室に戻ろうと校舎の階段を並んで昇った。その間清春は透が少し機嫌が良さそうなのが気になっていた。
「なんかあった?」
「いや、別に、なんで?」
「なんかニヤニヤしてて気持ちわりぃ」
「え? ……そんな事ねーよ」
 透は誤魔化すように右頬の辺りをぐりぐりと擦った。自分では気がついていなかったが、そう指摘されてから、とは言え、たかだか一冊の本を女子生徒に貸してあげたくらいでなにか起こる事なんてそうそうないだろうと思い、軽く苦笑した。
「あーあ、なんか楽しい事ねーかな」
 少し先を歩く清春が背伸びをしながらつまらなそうにそう呟いている。
 それには彼も同意見だったが、そう言ったところですぐになにか見つかりそうな気配はなく、それよりも次の授業は英語で、苦手な教師の授業で憂鬱だった。
 もうすぐチャイムが鳴りそうだと二人は慌てて教室へと戻る。焦ったのか体がドアに辺り、ガタ、と大きな音を立てる。
 その音を聞いて茜ははっと顔を上げ、携帯電話から視線を外した。昼休みの間彼女はずっと携帯電話を弄っており、誰かと会話をする事もなく過ごしていた。そうしている彼女の事を気にする生徒は皆無で、その場所だけまるで時が止まっているようですらある。以前はそうしている彼女に何度か話しかけようとする生徒もいたのだが、今では皆諦めていた。
 勢いがよすぎたのか顔をしかめている二人の様子を見て、生徒が笑っている。彼女は机の中に携帯電話をしまいながらその様子をチラリと冷めた視線を向けた。
 なにが楽しいのだろう、とでも言いたげで、彼女はきっと自分は女子校生としての正しい価値観を持たずに生まれてしまったのだと思う。とは言えその価値観を羨ましいと思うこともなく、ただ彼女は
(……死ねばいいのに、皆)
 と思った。
 放置された携帯電話のディスプレイのバックライトがふっと消える。そこに表示されていたのはモバイルサイトでありいつも見ている掲示板とは違う物のやはり不特定多数の書き込みが行われていた。
 ――死にたいです。けど死ぬ勇気がありません。誰か一緒に死んでくれませんか?
 ――一週間以内に決行しようと思います。材料などは既に揃えています。ここで自殺の方法を教えてくれた皆さんありがとうございました。
 ――死のうと思うんだけど、その前に思い出を作ろうなんて思ってます。同じ考えを持つ方いませんか?
 その書き込みには個人を示すためにハンドルネームが用いられている。茜はそこまで見る事はせず深く気にも止めなかった。名前、とは言ってもそこに書かれているのはアニメやゲームの主人公の名前であったり、いかにもご大層な表現が用いられているようなものばかりだったからなのだが、そこにポツンと「ami」と書かれていた。その名前の書き込みはいたってシンプルだった。
 ――メールしました。
 その名前はシンプルに読めばその通り「あみ」と読む事が出来るが、フランス語ではそれが友達と言う意味でもあり、同時にノルウェイの森に置いては心身を患ったヒロインが静養のためにその身を寄せた場所のローマ字読みでもあった。

     

 何件か不採用の通知を頂き、春日はそれでも溜め息と言うよりは単なる吐息を一つ零した。
「高望みしすぎじゃね?」
「そうかもしれない」
 冬馬の揶揄するような声に短くそう返すと、テーブルの上に置かれているデリバリーピザの一枚に手を伸ばした。しかし彼が取ろうとしたその一枚を、細い指が伸びたと思うとするりと抜き取ってしまった。
「どんな会社受けてきたの?」
 あーん、と恥じらいのない様子で口を大きく開けて奈菜がピザを口にして、その味を堪能して春日の方を見た。
 彼は、どうしてこの二人が一緒に自分の部屋にいるのだろう、とつい先ほどの事を考えたが、深く考えてもまず冬馬が尋ねてきて部屋でくつろいでいると、その後彼女も尋ねてきて遠慮もせずあがりこんできて、冬馬もそれを歓迎しただけとしか言いようがなかった。
「別に職種にこだわりはなくて」
「うん」
「週休二日制で残業があまりなくて夜は家に帰ってゆっくりしていられそうな仕事」
「それは無理じゃないかな」
「そうだね、僕もそう思う」
 さも当然と言うように彼は答えながらもう一枚のピザに手を伸ばした。実際のところそんな上手い仕事がある訳ないとは思っていたのだが、あわよくばと言う程度で面接を受けていたのだが、この不況の折にやはりそんな上手い話はないようだった。
「冬馬君ってなにしてるの?」
「俺? 俺大学生。あんまり行ってないけどね」
「もったいなーい」
「いいんだよ。俺より頭いい奴だって高卒で就職したりするし。真面目に勉強やったってどうせ卒業すりゃ大差ないんだからさ」
 それが自分の事を言っているのだと春日は思わなかったが、確かに彼の学生生活を鑑みていいものだとは思わなかったが、それでも大卒と言う肩書きはきっと将来で少しは役に立つのだろうと彼には思えた。
「ふーん、で、春日君どうすんの? 高望みやめて普通の仕事探すの?」
「それも充分に有り得る話だけど」
 冬馬が持ってきたアルコールをちびちびと飲みながら、彼は漠然としたまま答えた。
 自分は一体なにがしたいのだろう。どう背伸びをしたところで世の中に貢献出来るような事が出来る訳もないし、その逆に自堕落に好きな事だけをして過ごしたいと言う欲求もなかった。言うなればただ、生きているだけで、それすら自分の意思と言えるかどうかも分からず、ただなにかによって生かされているだけだとすら思っており、その中で彼が望むのは、ただその流される人生の中でなにかに引っかかるような事がないように生活出来ればいい、と言う程度のものだった。
「なんとかなるよ」
「だといいけどな」


「死んじゃおう、って本気で思う?」
 冬馬を二人で見送り、そうして彼女も自分の部屋に帰ると思っていたのだが、冬馬の車がアパートから見えなくなると、彼女は当然のようにリビングへと戻り、汚れた部屋に腰を下ろした。二人は特に大した会話をするでもなくテレビを見て過ごしたりしたが、ふと思ったのでそう聞いてみると彼女は質問の内容の割に笑って見せた。
「春日君、私に興味でも出てきた? そんな風に質問してくるなんて」
「単なる好奇心」
 予想通りの反応に彼女は「はいはい」と笑い、誰が呑んでいたが分からないが余っていたアルコールに手を伸ばした。顎を持ち上げて飲んでいて、一口ごと飲み干すたびに彼女の細い首が小さく震えた。まるで彼女は人に見られるために生まれたようだ、と彼は思う。
「別にいつ死んでもいいって思うよ」
「どうして?」
「だって、生きたいって思うような理由がないんだもん、私」
 中年のようにげっぷをしながらそう言い、春日は「なるほど」と返した。
 彼女ならもっとうまく立ち回れば、もっと上手い人生を見つけられるような気もした。だがそれは彼の感想であり、それ以上に彼女は今自分らしく生きていて、その自分らしさが死を肯定しているなら、それを自分が他の行き方を提言してみるのは愚かだと思うのが彼の生き方だった。
「おかわり」
「はい」
 そういう彼女に素直に冷蔵庫からもう一本取り出し渡すと、彼女は満足そうにそれを受け取った。
「春日くんはどうして生きてるの?」
「ん?」
「私はさ、なんとなく生きてるのね。いつ死んでもいいんだけど、別に今すぐ死にたい! あぁ、死にたい! って感じじゃないから生きてる感じ。そうやって生きててさ、別につまらないって訳じゃないし、こうやって楽しい事もあるしね。けど春日君ってさぁ、なにやってもあんまり楽しそうじゃないよね」
「そう見える?」
「見える見える。せっかくこんな可愛い女の子と二人で飲んでるってのに」
 そう言われて、彼は「そうだね」と言い短く笑った。
 彼が笑うのは珍しく、彼女は笑うと意外と人懐こそうな顔をするのだ、と言う事に気がつき可愛らしいと思った。
「どうして生きてるか」
「うん、春日君はどうして生きてるの?」
「生きる事にも死ぬ事にも興味がないからただ今を保っているだけなのかもしれない」
「生きててよかったって思う事ある?」
「どうだろう。もしかすると他人が僕を見て羨ましいと思うような人生を僕が歩んでいた瞬間があったとしても――僕は他人を羨ましいと思った事はないし――僕自身はどうでもよかった気がする。よく言うだろう? 金持ちの家に生まれた子供はそれだけで勝ち組だなんて。本人からすればどうしようもない問題で憤慨していたりする。僕もそう思う。そういう意味では、僕は今まで生きてきてよかった、と本気で思うような事はなかった気がする」
「なるほど」と奈菜がまるで春日の口調を真似するように頷く。
 春日は手に持っていたミネラルウォーターをテーブルに置くと、そのすぐ傍に合ったマルボロを手に取った。灰皿が一杯になっていてそれを捨てようと立ち上がり、戻ってくると奈菜が「ちょっと煙草取ってくる」と自分の部屋に戻り、再びやってくると先程よりも春日に近い位置に腰を下ろした。
「でも生きてるとやらなきゃいけない事っていっぱいあるよね」
「そうだね」
「例えば、どれだけ無心になろうとしてもお腹が減ったとか、トイレに行きたいとか、性欲処理しなきゃ、とか」
 彼女の頭がふと肩によりかかってくる。
「最後の言葉を言いたいだけだろう?」
「あはは。分かる?」
「君には恋人がいる」
「春日君は私と恋人になりたいなんて思ってないよね」
 そう言われ、彼女の方に視線を向けると、彼女はそれを待っていたのかその唇を押し当ててきた。
「君はレズビアンじゃないの?」
「ノー。アイムバイセクシャル」
「なるほど」
「人の魅力に溺れやすいの」
 彼女はふしだらな生活を好む。
 一体、僕の魅力とはなんだろう。
 そう、春日は考えた。価値観の類似がそう思わせたのか。それ以外のなにかだろうか。
 きっと、どうでもいい。
 彼女は今きっと楽しい。
 彼といるから楽しいかどうかは分からない。
 だけど彼と言う存在を――利用とは言わずとも――使用する事によって楽しいのは確かだ。
 彼女は自分のために生きる。
 春日は服を脱ぎ全裸になった彼女の真っ白な肌を見ながら――
 そこに「私は勝手に楽しむからあなたも勝手に楽しんで」と言う文字が見えたような気がした。
 そしてそれは自分が生み出した自分が望むイメージである事に他ならない、と言う事も理解していた。

     

「彼女は処女のまま死んだ」
 その台詞を聞いた時、神楽直子は不謹慎にもロマンティックで壮美だと解釈した。出来るなら自分もそうなりたかったが彼女にとってそれは最早手遅れで、彼女はその事を今更になって悔やみもした。
 そして、その言葉を呟いた皆藤崇は、その一瞬だけ彼女が見たことのない安堵に包まれたような表情になり、彼女はそんな彼のことを好ましく思っていた。
「そしてあなたは彼女を死に追いやった男を半殺しにして学校を退学」
「本当は殺したかった」
 彼はその台詞を躊躇う事無く口にした。
 その時の崇は先ほどとはうって変わり攻撃的な衝動を顕わにする。
 隣のテーブルにいたサラリーマンがぎょっとした顔でこちらを見る。彼の言葉はふと思い付きで出たようなそれとは違い鬼気迫るようなリアリティが込められていたため、彼は二人に目を見開いたが、その視線に気がついた崇が視線をよこすと慌てて目を逸らす。崇はそれを苛立たしそうに舌打ちをした。
 二人が今いるのは夕食と言うにはやや遅く、空いたテーブルがやや目立つファミレスだった。
 直子はテーブルに置かれている紅茶に手を伸ばし、ほんの少し口に含むと苦笑のような音を出した。
「今からもう一度殺しには行かないの?」
「そうしたいと思う時もある。けどもう、興味がなくなった」
「そんな事をしても彼女は喜ばない?」
「さぁ。確かに……鈴はそういう事を喜ばないかもしれないけど。だからって今悲しむあいつがどこかにいる訳でもない」
 彼は先月自殺した幼馴染みの名前をポツリと囁き、間の抜けたような声を出す。
「じゃあ、なんで?」
「なんか無駄だなって。あいつを殺したところでなにもない。鈴がどうこうより、多分俺自身もあいつを殺して喜べるような気がしないし、許せないと言う気持ちはあるけれど、それはきっとあいつが死んでも消える事はない。そういう訳であいつを殺す事なんかもうどうでもいい事だと思った」
「そう。あ、今日ね、ちょっと面白い事があったの」
「面白い事?」
 崇は唐突に話を変えようとする直子に訝しげな様子になるが、それを止める事はしなかった。今の彼にとって殆どの事はどうでもいい事であり、鈴の事に関しても聞かれたから答えただけでとくにその話を続けたいと言う気もなかった。
「ワタナベトオルって名前聞いた事ある?」
「知らない。誰?」
「ノルウェイの森の僕」
「は?」
「だから、ノルウェイの森って小説に出てくる主人公の名前。読んだ事ない?」
「あぁ、村上春樹」
 ようやく合点がいき、彼は首を軽く縦に振る。
「そう」
「それがどうかしたのか?」
「私最近それの上巻を学校の図書館で借りたの。それでね、今日下巻を借りに行こうとしてたんだけど他の誰かが借りてたのね。その時はあきらめ様と思ってたんだけど偶然その誰かさんが本を返しに来たの」
「で、下巻を読んで面白かったって?」
「ううん。まだ読んでない」
「じゃあ、なにが面白かったんだ?」
 彼女が何を言いたいのか分からず呆れた声を出すが彼女は気にしない。
 彼女も分かっている。彼が望むものはもうこの世にはないし、それゆえに誰が何をしようとその行為に否定をする事すらしなくなっている事を。
「その子、またその本を借りようとしたの。読めなかったんだって。けど私がそれを借りたいと思っている事に気がついたみたいで、それを私に譲ってくれたの」
「いい奴だな」
「うん。私もそう思った。でね、図書委員の友達にその子の名前を聞いてみたの。そうしたらね、その子名前が渡部透だったの」
「要するに主人公と同じ名前だったと」
「私の名前自殺しちゃうヒロインと同じ名前なんだ。直子」
 そこまで言うと彼女はにこりと微笑むが、彼は下らないと言うように吐息を一つこぼした。
「ロマンティックってこういう事だと思わない?」
「ノルウェイの森をどれだけの人が読んでいるか分かってるか? 数百万人だ。その中に主人公と同姓同名がいたって別に珍しいような話じゃない」
「でも、その同姓同名がヒロインと同名の女の子にその小説を手渡す可能性はそんなに高くないと思うな」
「あれ、見ろよ」
 そう言うと崇は首だけ動かし、彼女に振り向いてみるよう促した。
 彼女はその言葉に素直に後ろへと視線を動かすが、最初彼がなにを見せようとしているのか分からず、しばらく目線をふらふらと動かす。「なにを?」と尋ねようとしたところで、彼女はようやく彼がなにを見せたかったか理解する事が出来た。
 やや離れたテーブルに一人でやってきているらしい男がいた。その彼はこのようなチェーン店のファミレスですらなぜかうまく自分の居場所を見つける事がうまく出来ていないような不自然な空気を感じ、それがなにからくるのか直子は考えたが、きっとそれは彼のくたびれたファッションセンスと、まるでなにかから逃げてきて偶然ここを見つけて入ったものの、そこも自分にはそぐわないと気がついてしまったような居た堪れなさから来ているのだと思えた。しかし崇はそんな事どうでもよく、彼が見ていたのは、そのくたびれた男の手にしたいる一冊の本だった。
「ノルウェイの森だね、あれ」
「たとえばあいつがワタナベトオルだとして、お前はそれをロマンティックだと思うか?」
「うーん」
 無理かも、という台詞は胸の内だけで済ましたが、彼はその無言を肯定と受け取ったようだった。
 もう一度そちらのテーブルに視線を戻すと彼は小説を手にしたまま立ち上がり、そのままトイレへと入っていった。テーブルに置いておけばいいのに、と思いながらその後姿を見送る。
「どうせロマンティックなんて単なる願望だとか欲望とかをいいように表現しただけのものだろう」
「いいじゃない。そうだとしても。だって、私願望とか欲望って言葉も好きだから」
 鈴とは対照的な女だ。
 彼はそう思う。
 もしここにいるのが直子ではなく、鈴なら、今自分は先ほどの話にどのような返事を返していただろうか。
 だが、その答えはもうどこにもない。
 想像する事すら空しい。
 この世界には、もうなにもない。希望もない。夢もない。
 そして自分の中には、彼女が憧れる、願望も、欲望も、ロマンティックもない。
 あるのは、ただ目の前にいる彼女と、死ぬ事だけだ。その日が訪れるのをただ待つだけの亡羊とした日々を送るだけだ。


 山田太郎はトイレの個室に入るとノルウェイの森を再び開いた。指を挟んでいてすぐにページが開かれる。
(さっきこっちを見てた二人。高校生だと思うけどカップルかな。なんか見られるような事してたかな、俺)
 そう思いながら、彼はこちらをみていた女の子の顔を思い返す。ほんの少ししか見なかったし、目を合わせないようにしたので横顔くらいしか判別出来なかったが、可愛らしかったように思う。
(もう遅い時間だしあの二人これからセックスとかするのかな)
 彼は洋式のトイレに腰掛けずそこに立ち尽くし、片手でベルトを緩めると小説を持ったまま性器に手を添えた。
 ページを読み返す。そこには「直子」が「トオル」の性器を手で触れ射精させる描写があった。
 彼はそのページとこちらを見ていた少女の顔を思い返しながら、片方の手を動かす。
 彼の脳の中で生み出された「直子」と言う現実と想像が入り混じった女性は小説の中では行われる事のない挿入を受け入れ、卑猥に喘ぎ、そして「太郎」と囁いた。
 鼓動が高鳴る。
 そして急激に体温が下がったかのように彼は溜め息を吐くと、トイレットペーパーでそれを拭き取ると、便器にまとわりついた白い液体とともにそれを流した。
 我ながらどうしてこのような所で、時折どうしようもない自慰行為を行いたくなる衝動に苛まされるのか全く理解できなかったのだが、人に溢れている筈のこのファミレスのトイレは、確かに両親だけしかいない、我が家の部屋やトイレで行う時よりも罪の意識を感じる事無く、開放感に包まれる事は、彼にとって確かだった。

     

 想像していたよりも甘えたがりだ。
 ベッドの上で彼の動きに従順に従う奈々の火照った肌に触れながら春日はそう思う。
 彼女は普段よりも甘くて弱々しい声を出しながら、彼の体を嘗め回し、首に手を回しては離れる事を拒むようにその肌を密着させた。
 酒のせいか、彼女の性欲がとどまる事を知らないのか、それとも自分自身が思っていたより欲求不満だったのか、結局あれから朝まで行為を続け、気がつくとカーテンの隙間から朝日が零れだしていた。
「朝だね」
「うん」
「春日君、もう一回しよ?」
「まだしたいの?」
「他人が真っ当な生活をしてる時に自分達は好きなだけセックスをしてるなんてとっても贅沢だと思うの」
「そうかな」
「そうだよ。だって今から仕事とか学校とか、子育てとかごみ捨てとか、つまらない顔をしてそういう事をしに行く人たちがいっぱいいるんだよ。そんな中でこん
なに気持ちいい事を好きなだけしてられるって幸せじゃない?」
 そう言うと彼女は「寝てたらいいから」と言い、仰向けになった彼の上に跨り、挿入をすると彼へと近づき軽く唇を重ねた。
「もう少し能動的なセックスを好むのかと思っていた」
「杏里とはそうだよ。でもたまには私も好き勝手されちゃうようなセックスしてみたいの」
「なるほど」
「春日君、もっと激しくしてくれていいのに。そうしたら私今よりもっと濡れるよ」
 そうして結局、四つん這いになった彼女の尻に白い液体を放つと、彼女は満足したようにそれを手で掬い取りぺろりと舐めた。「うぇ」と色気のない声を出し、洗面所へと裸体のまま這うようにして姿を消すと、春日はやれやれと思いながら自分もベッドから出て服を身にまとった。
 昨日のまま散かった床から煙草を拾い上げ火をつけているとシャワーの音が聞こえだし、彼女が出てくる間彼はなんとなくテレビをつけぼんやりとその画面を見つめた。
 見た目だけで選ばれたと思われるような女性キャスターが言葉に詰まると「ごめんなさい」とまるで友達に謝るかのような笑顔で謝罪をし「今日は全国的にいい天気となりそうです。会社員の皆さんお仕事がんばってください」と言うのを聞き、確かにそんな時にセックスをしているような自分は自堕落で少しお幸せな人間なのかもしれないと思ってしまう。
「なに見てるの?」
「田舎に住む若者たちの就職活動の厳しさについて」
「そういえば春日君はここが元々地元なの?」
「そうだね。奈々は?」
「私はちょっと遠いかな」
「どうしてこっちに?」
 彼女はその質問に少し困ったような顔をした。「うーん」と唸りながらすとんと床に腰を下ろし、青いパッケージのハイライトを一本抜き出す。
「まぁ、色々あって」
「色々あって、一人暮らしを?」
 白い煙が部屋の天井に届くと行き場を失ったように四散した。
 奈々は自分もそうやってゆっくりと消えていく事は出来ないだろうかと思う。
 春日がこちらよりもテレビの方へと視線を向ける事が多いので、聞いては来てもそれほど興味がある訳ではないらしいことはすぐに分かった。それは彼女にとって気が楽で、だからこそ言ってもいいという気持ちになったのかもしれない。
「こう見えてもお嬢様なの」
「確かにお嬢様には見えない」
「こら」と彼の肩を苦笑交じりに小突く。
「両親はどちらも真面目で、本当に。この二人がセックスして私が生まれたなんて信じられないくらい」
「それとも若かった時は母さんもエッチな事好きだったのかな」とあっけらかんと言うので、春日には血の繋がった肉親の事ではなく同年代の友人の話でもしているような錯覚に陥りそうになる。
「合わなくて。私、そういうの。姉がいるんだけどね。そっちは二人の生き写しみたいなの」
「そう」
 短い返事。
 彼女はそういうものが嬉しい。
 人は自己主張を愛しすぎる。
 誰かになにかを伝える事に必死になりすぎる。
 誰かの伝えたい事を受け取る事をしないままに。
「でも周りはそれを認めないのね。あの両親の娘さんなんだから、立派なお姉ちゃんがいるんだから。面倒くさくなっちゃって」
「そして家を出る事にした」
「そう。私の事誰も知らないところ。私じゃなくて私以外をみて、私を決め付けたがる人達がいないところ」
「そして今君は自由に、全員がつまらない顔を浮かべている中贅沢に幸せな生活を送っている」
「だってどれだけ不幸に耐えてもそれで幸せが訪れる訳ないじゃない? だったら不幸から逃げてもいいと思うでしょ?」
「そうだね」
 それに関しては同意見だ、と彼は頷く。
 決して、彼女が抱える周囲の視線に悩まされた過去の光景を自分の事のように想像してみる事はできなかったが。
 自分はきっととても平凡な人間だ。
 過去の自分を懐かしむこともない。
 そんなノスタルジーは自分には何もない。
 寂しい人間。
 誰かはそう言うかもしれない。
 それでも、そうやって違う景色を見てきた彼女が今ここにいると言う現実。
 そういうものが、今の自分が積み重ねられた過去が完全な失敗作ではないという証ではないだろうか。

     

「今日は帰るね」と言う彼女の言葉を思い出しながら次と言う日はそう遠くないような思いを抱く。その時の自分達が一体どうなるのかは分からなかった。今日のように体を重ねるのか、それともその行為の事を気まずく思うのか、何事もなかったように過ごすのか。とはいえ彼自身はなんとなく分かっていた気もするし、どうなっても別に構いはしなかった。杏里と言う奈々の恋人の事を思うと多少申し訳ないと思いはするが、それで自分が面倒に巻き込まれるならそれはそれでしょうがないと諦観していた。
 そう思いながら家から出て、どこに行くあてもなく歩いてみる事にした。
 人気のない道路を淡々と進む。
 時折人や車とすれ違う。その音はきっとすぐ近くで聞こえているはずなのに、どこか壁一つ挟んだ距離から聞こえているような曖昧な感触しか残らなかった。
 いつもと違う。
 春日はふとそんな事を思った。こうやってなんともなく散歩めいた事をする事は珍しい事ではなかった。そして今までだって彼にとって周りの風景はいつも空っぽで、距離感は曖昧で、自分は孤立する。そして彼はそれを愛したし、自然めいた事だった。
 だが今は違う。外界との距離、その距離が今までとは違う。正確に言うと今までとは違う立ち位置であり、そうやって生まれた距離は互いから生まれたのではなく、自分自身が距離を置こうとしているのだった。
(どうかしている)
 きっと彼女のせいだ、と彼は自覚する。
 彼女の存在は、今まで彼が出会ってきたどの人間とも重ね合わない。
 情熱的を装いながら本性は冷めた、強がるくせに本当は弱々しい女。
 彼は彼女の事をそんな風に思う。
 そしてそんな彼女の事をふと気にかけようとする自分がいるのは確かだ。
 それはなんだろうか。
 愛情? そうではないと、彼は思う。彼はそう言った感情の中には美しさと共に醜さが宿っていると言う風に思っており、実際のところ、彼女へ対して求愛と言う名の攻撃的な衝動を持つ事はああやって体を重ね合わせても覚える事はなかった。
(……きっとこれは、そうだ)
 彼はふぅ、と諦めと共に溜め息を吐く。
 言葉と言う存在がまだ、未熟すぎるのだ。もしくは人類がまだそれを本当に旨く扱う術を心得ていない。
 そうとしか言えない。
 そして、その未発達な存在の中でそれでも無理をして現そうとするなら、それは確かに、愛と呼ぶしかない、と彼は嘆息するしかなかった。
 自分も彼女を見習ってバイセクシャルを名乗る事もいつか訪れる日があるかもしれない。
 そんな風に彼は世界と距離をとり、思考に没頭しようとしていたが「ふざけないでよ!」と言うその声は、どんなに距離を取ろうとしても抗えない勢いだった。自然とそちらに目が向く形になり、そして彼が目撃したのはそうやって叫んだのが自分と変わらない年頃の女で、その女が向かい合っている男の頬へ勢いよく平手打ちをかましたところだった。
 パシン、と派手な音が鳴り、男はその勢いに負けたように視線を下の方へと落とす。追い討ちをかけるように女が持っているバッグを彼に向かって投げつけ、中の荷物がバラバラと飛び散った。
「…………」
 二人は見られている事などどうでもいいと言うようで、男の方は沈黙を続けていたが、女の激しい息遣いと肩の揺れが落ち着いたころに「なにか言ってよ!」と叫ぶと、彼は首をゆっくりと動かし、一度彼女の方を見ると、その場に腰を下ろし、散らばった荷物を拾い始めた。
「なにしてんの?」
「化粧品、汚れるよ。財布も」
「そんなの今どうでもいいの!」
 女が再び手を振り上げた。
 春日はなんとなくその様子を見ていた。なんだか情けない男だ、とも思ったが、しかしそうやって地面に手を伸ばしている男の背中には卑しさのようなものがあまりなく、ひどく淡々としたのが妙に気にかかった。
「だって、大事だろ?」
 その言葉に、彼女の手が止まった。まるで録画された映画が停止されたかのように動きが止まり、そして今度はスローモーションになったのかと思うように彼女の体が小刻みに震え、そして「うわあぁぁん」とボリュームがマックスにされたように泣き声をあげた。
「泣く事じゃないよ。君が泣く事じゃない」
「だって、だって」
「いいよ、気にしてない」
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当はビンタなんかしたくなかったの……けど怖くなっちゃってどうしようもなくて」
「いいって。大丈夫」
 奇妙だ、とその目の前のドタバタ劇のようなやり取りに春日は目を細めた。前後の事情が分からないとはいえ、どうしてこのような展開になるのか理解できない。彼女は彼に対して怒っていたはずではなかったのだろうか。それがなぜ今そうやって許しを請う側へと転化しているのだろうか。
 依然涙を流しながら抱きついた女の頭をあやすように彼が撫でると、彼女はほっと安心したように笑顔を浮かべ、一緒になって散らばった私物を拾い始めた。
 ふと春日へ男が視線を向ける。彼は一部始終を見ていた春日のことを見つめ、しばらくすると再び地面に視線を戻し、すべて拾い終えると彼女の手を引いて立ち上がった。
「本当にごめんね、ヒッチコック」
 もう一度そう言い、彼女が「かえろ?」と言う、しかし彼が横に首を振った。
「先に帰っててくれないか? 少ししたら帰るから」
「なんで?」
「ちょっとね」
 その言葉に彼女は寂しそうにするものの、しぶしぶ従う事にしたようだった。一人で帰る事になり、そして少し歩くたびに何度も彼の方を振り返っていたが、やがて見えなくなり、彼はそれを確認すると、先ほど平手打ちを食らった頬を擦り、なにを思ったのか道端にバタリと寝転がった。
 春日はどうしたものか、と考えたがそちらへと歩を進めた。元々なにもなければ今頃そこを通り過ぎていたはずで、彼のために道を変更しようとまでは思わなかった。
 彼の脇を通ろうとする。そこで、目が合った。
「…………」
 男はなにも言わない。ただ、少し驚いたような、懐かしむような、そんな表情だけを浮かべる。
「……変わった恋愛をしている」
 ふとその台詞が紡がれていた。しかし彼はその言葉を聞いていないようで、春日へと尋ね返してきた。
「…………ヒッチコック?」
「ヒッチコックは君だろう? さっき君の恋人がそう呼んでいた」
「僕が……ヒッチコック?」
 彼は、その言葉の意味をしばらく理解出来ないと言うように視線を中空に漂わせた。長い前髪の隙間から覗くその目は生気がなく曇っており、春日は本当に彼は死んでいて、脳が働いていないためなにも理解する事が出来ないのかもしれないとありえない事を考えたが、ややあって彼は「あぁ」と短く呟いた。
「僕はシェルダンと呼ばれていたんだった」
「シェルダン?」
「そう、シェルダン。そして僕をそう呼んだ女が、ヒッチコック」
「僕は女じゃない」
「そう、そして君はヒッチコックじゃなくて、シェルダン」
「なんだって?」
「君も僕と同じ」
 ヒッチコックなのかシェルダンなのか春日が悩んでいると彼はゆっくりとその場から身を起こした。
「君と僕が同じ?」
「そう」
「意味が分からないな」
「さっき君を見た時、鏡を見たような気がした。他人が自分を見ているとこういうふうに見えるんだと思ったよ」
「僕は女の子にビンタを食らって平然としていられるほど強くはないかもしれない」
「あれは僕が強い訳じゃないよ、彼女は弱いけどね。彼女がしていたのはただ僕を叩く事でマイナスからプラスへと転じようとしただけさ」
「マイナスからプラス?」
「人を傷つけないと自分の傷を癒せない人間は、多いんだ。そして本当に傷つけたくないものを傷つける事は本当に気持ちがいいんだけど、それをしてしまった時本当に傷つくのは自分だと言う事を皆本当は分かっている。そして皆探してるんだよ。その行為を許してくれる事が現れる人を」
 彼はやれやれと、だがどうといった事はないように淡々とした口調でそう述べながらふと空を仰いだ。
 吊られて春日も視線を向ける。
 相変わらず、そこには、なにもない。
 青い空と、白い雲が、ただ、ある。
「なにを言いたいのか分からない」
「ヒッチコックと言う女はね。明るく装う事が大好きな暗い女だった。でも、いつも無理をしていた。僕は彼女と一緒に住んでいたけれど、外で彼女がどんな事をしているか知らなかった。だけどきっとどうしようもなくストレスを抱えていたんだろうね」
「君の前ではその反動でとても暗かったと?」
「いや、その逆だよ。とても明るかった。ただ僕の前ではそれが偽りの明るさでもない事は確かだった」
「なら、彼女はその暗い自分の姿を誰に見せていたんだ?」
「僕に見せていたよ。明るい姿の向こう側に、いつも暗い深淵を抱え込んでいた。彼女はね、よく物事を数字に例えた。プラスやマイナスと言う具合に。僕はその頃、そんな彼女の話を理解する事はできなかった。ただ、それでも彼女が僕になにを求めたかは分かったよ」
 彼は一体なにを話しているのだろう。
 今僕は君の話を理解できない。
 春日はそう言おうとする。だが、その言葉が空気を震わす事が出来ない。
 なぜか、本当は理解出来るような気がしていた。その唐突に始まった御伽噺のような意味不明さが、実はひどく自分の身近なものであると言うように。
「彼女は他人の前では許されないと彼女自身も理解している行動を僕に取った。その時彼女はその行為がきっと気持ちよかった。僕はちっとも気持ちいいとは思わなかったけど、僕は僕で、僕はそういう存在なんだろうと思ってもいた。彼女は僕といる間幸せそうだった。本当に。間違った明るさが、本当の暗さを包み隠し、紛い物の明るさを維持させる。僕達はそういう生活を続けていた。それにも終わりが来たけどね。真実を知ってしまうと人はもう一秒だって後戻りする事は出来ない」
「君は、なにを言った?」
「簡単な事だよ。君は結局マイナスだと言っただけの事さ」
 彼が小さく呆けたように笑った。
 それがなんとなく小休止を含んでいるように思われ、春日はマルボロを一本取り出し、彼がそれを見ているのに気がつくと彼に一本差し出し火をつけた。
「君は現実を教えてしまった」
「今思えばあの頃の僕はまだ人間と言うものを理解していなかった。彼女の言う事を理解出来なかったからね」
「だから、今もマイナスの人間にまやかしのプラスを見せているのか?」
「さっきも言ったけど本当の気持ちよさには、他のなににも敵わないエクスタシーがあるんだよ。だから彼女達は僕をどうしても切り離すことが出来ない。最後には慌てふためいて僕に泣いて懇願する。それを愛と言っていいかどうかは知らない。そして僕はその代わりに彼女達から色んなものを受け取る」
「聞く人が聞けば、それは単なるヒモだ」
「見る人から見れば、決して切る事が出来ない紐だよ」
「僕は、君のようにはなれないね」
「そうかな。君は僕ととても似ていると思うよ……ただ、もしかすると僕よりも少し冷たいのかもしれないね」
 そう言って春日の方を見てにこりと微笑んだ。
 その微笑は明るいのか暗いのかプラスなのかマイナスなのか、そう尋ねてみようかとも思ったが、そんな質問になんの意味があるのだろうと思う。彼はそんな春日の思考を読んだかのように「なんだっていいのさ、僕達当人にとっては」と言い、彼に背を向けて恋人が待っている家路へと歩き出した。その後姿を見つめながら、自分は確かに、彼よりも冷たいのかもしれないと思う。
 それは間違った優しさかもしれない。
 だがきっと自分は彼ほどに、誰かを喜ばせる事は出来ないだろうとも思う。

     

「喜んでくれたかな?」
「うん、お父さんありがとうだって」
「そう。よかったね」 
 目の前の少年の頭を軽く撫でると真耶は「じゃあ帰ろう」と車の助手席を開いた。少年が元気に乗り込み、自分も運転席へと座る。
 フルスモークのシボレーアストロがゆっくりと動き出す。荷物を積むのに便利だからと購入した車だが、乗り心地もなかなかよく今ではそれなりに気に入っている。それなりと言うのは、実際のところあまり彼が車に興味がないのだ。
「お父さんね、再婚するんだって」
「そっか」
「でも、僕の事も好きなんだって」
 彼の両親は数年前に離婚していた。彼の父親は小さな会社を経営していたがある事業に失敗し、莫大な借金を背負う事になってしまい、そのために家族は離婚する事となり、父親は借金は自分一人で背負う事を覚悟し、家族とは二度と関わらないと約束をした。
「お母さんにばれたら怒られるかな」
「大丈夫だとは思うけど」
 だがそれでも子供は父親に会いたいと思う。
 少年はなんとか自分にとっては大金であるはずの一万円をそのためになんとか用意してみせた。
「それでもばれたら、俺も一緒に怒られて謝ってやるよ」
「本当に? けど僕もうお金ないよ」
「それは一万円の中に含んでるから大丈夫」
 少年はその言葉に目を輝かせて「やった」とシートの上でガッツポーズをした。
「お兄ちゃんさぁ、いい人だよね」
「なんだよ、それ」
「だって皆お父さんに会いたいって言っても会わせてくれなかったし」
「まー、大人は色々あるんだよ」
「そんなの大人の勝手じゃん」
「まーな」
 真耶は参ったと言うように苦笑する。
 子供に理屈は通じない。そして理屈をいとも簡単に踏み潰す正論を口に出来るから、手に負えない。そして愛らしい。
「兄ちゃんは僕のヒーローだよ」
「マジで?」
「マジだよ」
「ヒーローかぁ。いいな、それ」
 時計をちらりと見る。まだ子供が外で遊んでいても親が心配するような時間ではなく、真耶はアクセルを少し緩めた。
「俺さぁ、ヒーローって奴になってみたかったんだよ」
「もうなってるって」
「いや、今のままじゃ俺はまだヒーローにはなれないな」
「なんで?」
 俺はさ。ヒーローみたいに無償で誰かを助けてる訳じゃないから。
 胸中でそう呟いた。それは一万円ではない。
 彼は求めている。
 求められながら、それ以上のものを。
 それは心と言う事も出来る。
 誰もが胸の内に秘め、そして誰にも曝け出すことが出来ないままの爆発寸前のようなその感情。
 それを、彼は今自分だけが覗いており、そして自分はそれを覗きたいがためだけに、このような行いを続けているんだと。
「ヒーローはさぁ、もっとなんつーか、単純じゃないといけないんだよ。敵を倒した後にすっきり出来るようなそんな終わり方じゃないとな。俺はそういうのとはちょっと違うんだよな」
「ふーん」
 少年は分かったような分からないような顔をしてそう呟き、
「けど、僕はすっきりしたからやっぱりヒーローだよ」
 と言った。
「そっかぁ? じゃあヒーローと一つ約束だ」
「約束? いいよ、なになに?」
「お前が大人になったら、勝手な大人になんなよ」
「うん、分かった」
 彼は元気よくそう答えた。そんな彼の脇腹を小突くと彼はケラケラとシートの上で転がり「もうやめてよ」と彼の手を叩く。
 その柔らかい手の感触を感じながら、彼はこの約束がもし本当に叶うならそれはきっと素晴らしいだろうと思う。
 そうなる事はきっと、殆ど不可能だから。
 それはなによりも自分自身が証明している事だから。


 人間は醜い。電気の消えた自室で彼はいつもと同じような事を考える。
 醜い。醜い。人間は醜い。
 声に出してしまいそうになるほど彼はその言葉を繰り返す。それは彼の中で強迫観念のように行われる。
 そう思わないと、なにかを呪う事で視界を遮らないと。遮らないと思い出してしまう。
 夕暮れの誰もいない教室。
 叫び声。
 破れた制服。
 涙。
 青ざめた顔と赤く腫れた頬。
 スカートの間から太腿を這うように流れた、赤い、血。
 血、血、血。
 振り下ろされる椅子。
 だらしなく下ろされたズボン。
 飛び散る、血。
 血、血、血。
 叫び声。自分の。
 忘れろ。忘れろ。そんな事はなかった。あの日、彼女は、鈴は。


 鈴は、非処女として、死んだ。


「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
 死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
 皆死ね。
 そして、俺も死ね。
 頼むから、死んでくれ。
 もう、ない。なにも、ない。
 なのにこの世界は、相も変わらず雑多に溢れ過ぎている。
 だけど彼にはなにもない。
 鈴と言う彼にとって最愛の女性がいないこの世界には、もうあらゆる存在の全てが意味を持たない。
 あの日彼が並んで彼女と見た憧れた未来の景色はもう永遠にやってこない。
「……死んでしまえ」
 そう呟くと同時に携帯電話がなった。彼は自分を誤魔化すように携帯に飛びつく。一通のメールを彼はじっくりと何度も何度も読み返した。
『返事来たよ。人数は揃ったから。今度その人達と話をする事になったから君も来てね』

       

表紙

綾瀬 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha