黄昏スーサイド
暗転メランコリィ
此花怜は最近少し寂しい。
「ねぇ、和寿」
「なに? ってだから名前で呼ぶなって。店長か、苗字で呼べって言っただろ?」
「あ、ごめん」
「他のバイトいなくても客とかにだって聞かれないほうがいいんだから」と松本和寿は前回と同じ台詞を繰り返した。
バイト先の居酒屋で彼女は短いエプロンの裾を軽く握り反省した振りをする。和寿は叱るくせにそう呼ばれるのがまんざらではないようで彼女に向けて笑ってみせるが、怜はそういう時笑う男があまり好きではないが、自分に優しくしてくれるところは気に入っており、我慢する事はそんなに難しい事ではない。
今年三十四になる妻子持ちの彼から告白されたのが半年ほど前だ。それから二人は一応付き合っている、と言う事になっている。当然他のバイト達は知らないが。
一応と言うのは当然彼が結婚していると言う事もあるし、彼女は彼女で彼と言う相手がいるにも関わらず他の男と平然と遊んだりしているので、実際のところお互いがお互いにどれほど好意を寄せているのか分かったものではなかった。
彼は事ある毎に「嫁なんかよりお前のほうがいい」と言うが彼が自分のために離婚をするようには見えないし、むしろ彼女としてはそれは有難かった。
結局のところ、形式などどうでもいい。ただ、嫁の次にでも、自分を大事にしてくれる存在にずるずると進んでついていっているだけだった。
「で、なに?」
「なにが?」
「さっき、なんか言いかけてただろ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。ったく怜は天然だからな」
んな訳ないじゃん。と彼女は思った。どうして間の抜けた女をわざわざ男は可愛がろうとするんだろうと思う。
「別に大した事じゃないから」
あんたがしてほしいからしてやってんだ。
格好つけてるくせが見え見えで、それがダサいって事も分かってないくせに。本当に間の抜けてるのがどちらか分かってる?
そうやって曖昧な返事とやり取りを交わしているうちに他のバイトもやってきて、二人は自然と距離を取った。
松本は適当に挨拶を交わしながら時折大きな声で「いらっしゃいませ!」とやってきた客の注文に取り掛かる。
厨房にいても聞こえるグラスの割れる音が聞こえまたやりやがった、と内心で思いながら、表面上は心配するように「大丈夫か? 誰が割った?」と声をかけると「此花さん」と言う返事が返ってきて、彼女にしては珍しいと思った。彼女は仕事ができると言うタイプではないが、むしろダラダラとするので無理をして一度に大量の料理を届けたりと言う事をしないのであまりそういう事を起こした事はなかった。
やる気でも出したのだろうか? とバイトに状況を聞いてみると、しかし彼女はいつもと同じくグラスを二つ持っていただけで謝ってその一つを落としてしまったようだった。
(なにやってんだよ)
と毒づくが、割れたグラスを片付けて捨てにやってきた彼女が「ごめん、割っちゃった」とあっけらかんと言う様子に怒る気も起こらず「気をつけろよ」とだけ声をかけた。
「うん」
そう答えるものの、怜はどこかぼんやりとした様子で割れたグラスをゴミ箱へと入れながら全く関係のない事を考えてる。
(なんか、寂しいな)
目の前に彼氏いるじゃん。分かってる。
日曜日に遊ぶ予定あるじゃん。分かってる。
分かってるけど、分かってるのは誰かがいるって事だけじゃん。予定だけじゃん。
(春日君、今なにしてるんだろ?)
彼女は一度だけ会い、その日の内にセックスをして、それ以来会ってもおらず連絡の仕様もない男の事を思い出した。
やっぱり連絡先聞けばよかったな。あの人なら教えてくれ、と言えばきっと教えてくれたんだろうな。
そうしなかった自分に今更後悔する。
それからも彼女は浮ついた様子で仕事をし、閉店までその調子だったためか、松本がちょっとブラブラするか? とドライブに誘ったものの行き着いた場所は結局ラブホテルで、それまでどんな会話をしたか彼女は覚えてなかったし、以前よりも雑になった彼の腰の動きを感じながら、
(春日君、優しかったな)
とやはり違う男の事を考えていた。
「六歳だっけ?」
「そ。可愛いだろ?」
そう言われても、浮気相手が相手の子供を褒めるのはなにかおかしいような気がするが、彼女は「うん」と頷いておく事にした。
彼はなかなか子煩悩な男だった。妻のほうにはもう随分と前から愛情が失せてしまったようだが、それでも離婚しないのは子供が可愛くてしょうがないからだ、と言う話を何度か聞いた事がある。確かに離婚なんて事になればこうやって浮気をしているような男のところに真剣がやってくる訳もないだろう、と怜は他人事のように携帯電話の画面の中で無邪気に微笑んでいる幼子を見つめた。
「怜も自分の子供が出来たら分かるよ」
「そうかな」
「そうだよ。多分怜の親父さんもそうだぜ」
「私、父さんいないから」
「え? そうなの?」
「そうだよ」
その事実に驚きながら、そういえば面接時保護者の同意欄のところに書かれていたのは母親の名前だったと言う事を思い出す。最近の女子高生は父親をうざったがり、母親に同意を求める事も珍しくないので気にかけた事もなかったが彼はふと納得する。
「そういえば怜からあまり親の話って聞いた事なかったな」
「別に話すような事じゃないし」
彼女は特に深い意味もなくそう答えたのだが彼はそれを強がりとでも理解したのか、彼女を自分のほうへと引き寄せた。
もう、やめてよ。
なんで分からないかな。
そんなのしてほしいとか私思ってないじゃん。
私は今の話なんてどうでもいいと思ってる事分かってないじゃん。
そんなどうでもいい事でいい人を演じられたってうっとうしいだけじゃん。
ねぇ、あんた私のなにを分かってんの?
彼女は珍しく内心で怒りを覚えた。自分でもなぜ今そんなにも苛立ちを覚えたのかは分からない。だがそれを自覚するとそれは余計増幅し、彼の手が伸びようとしたところで、その手を振り払った。
「怜?」
「ごめん」
「いや、いいけどさ。いや、俺も悪かったよ。怜にとっては辛い話だもんな」
だから違うって。辛くなんかない。
「ねぇ、そろそろ帰らないと奥さんやばいんじゃない?」
「あ、やば」
彼はその一言で先ほどまでのやりとりをもう忘れたかのようにベッドから飛び出して服へと手を伸ばした。
怜は彼の見えない場所で深いため息を吐きながら、彼に合わせて服を着るとラブホテルから家の近所まで送ってもらう事にする。
「なぁ、怜」
「なに?」
車の中で彼がポツリと尋ねてきた。
「もし俺が独身で、お前と普通に付き合って、そのうち結婚とかするとするじゃん。二人の子供って可愛いだろうな」
「そうだね」
そういう状況になることはまずないだろうが、と彼女は胸中で付け加える。彼を選んだのが面倒くさくなかったからだ。その前提が変わってしまうとするなら、きっと彼女は同じ職場で頻繁に顔を会わせる事が確実な男と付き合う事などする訳がなかった。
「送ってくれてありがと」
「おう、じゃあまたな」
去っていく車を見送る事もせず、彼女はさっさと家へと入る。玄関の明かりがついていて彼女は「ただいま」と奥に向かって声をかけると「おかえり」と言う母親の声がした。
「まだ起きてたの?」
「ちょっとやる事があって」
「明日も朝早いんでしょ? 早く寝たほうがいいよ」
玄関で靴を脱ぎながら、離れた母親の笑い声を聞く。
「大丈夫よ。怜こそ早く風呂入っちゃいなさい」
「はーい、ねぇ、ママ」
「なに?」
彼女はそこで一泊起き、玄関で座っていた姿勢からごろりと寝転がり、さかさまの視線を廊下の奥へと向けた。
「彼氏とかーいないのー!?」
「バカな事言わないでよ。それどころじゃないでしょ?」
「ママ、美人じゃーん」
「もうおばさんよ」
「……そんな事ないよ」
最後の台詞は母親には届かなかったようだ。彼女は立ち上がり、風呂場へ向かうと浴槽に浸かり、目を閉じた。
ママは、可哀相だ。
私がいなかったら、もっと違う人生を歩めていたのに。
結婚なんてしなかったらよかったのに。
私達を置いて出て行ったあの男と、出会わなければよかったのに。
私なんて、生まれなければよかったのに。
だけど、今私が死んだらママは悲しいよね。
「ねぇ、和寿」
「なに? ってだから名前で呼ぶなって。店長か、苗字で呼べって言っただろ?」
「あ、ごめん」
「他のバイトいなくても客とかにだって聞かれないほうがいいんだから」と松本和寿は前回と同じ台詞を繰り返した。
バイト先の居酒屋で彼女は短いエプロンの裾を軽く握り反省した振りをする。和寿は叱るくせにそう呼ばれるのがまんざらではないようで彼女に向けて笑ってみせるが、怜はそういう時笑う男があまり好きではないが、自分に優しくしてくれるところは気に入っており、我慢する事はそんなに難しい事ではない。
今年三十四になる妻子持ちの彼から告白されたのが半年ほど前だ。それから二人は一応付き合っている、と言う事になっている。当然他のバイト達は知らないが。
一応と言うのは当然彼が結婚していると言う事もあるし、彼女は彼女で彼と言う相手がいるにも関わらず他の男と平然と遊んだりしているので、実際のところお互いがお互いにどれほど好意を寄せているのか分かったものではなかった。
彼は事ある毎に「嫁なんかよりお前のほうがいい」と言うが彼が自分のために離婚をするようには見えないし、むしろ彼女としてはそれは有難かった。
結局のところ、形式などどうでもいい。ただ、嫁の次にでも、自分を大事にしてくれる存在にずるずると進んでついていっているだけだった。
「で、なに?」
「なにが?」
「さっき、なんか言いかけてただろ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。ったく怜は天然だからな」
んな訳ないじゃん。と彼女は思った。どうして間の抜けた女をわざわざ男は可愛がろうとするんだろうと思う。
「別に大した事じゃないから」
あんたがしてほしいからしてやってんだ。
格好つけてるくせが見え見えで、それがダサいって事も分かってないくせに。本当に間の抜けてるのがどちらか分かってる?
そうやって曖昧な返事とやり取りを交わしているうちに他のバイトもやってきて、二人は自然と距離を取った。
松本は適当に挨拶を交わしながら時折大きな声で「いらっしゃいませ!」とやってきた客の注文に取り掛かる。
厨房にいても聞こえるグラスの割れる音が聞こえまたやりやがった、と内心で思いながら、表面上は心配するように「大丈夫か? 誰が割った?」と声をかけると「此花さん」と言う返事が返ってきて、彼女にしては珍しいと思った。彼女は仕事ができると言うタイプではないが、むしろダラダラとするので無理をして一度に大量の料理を届けたりと言う事をしないのであまりそういう事を起こした事はなかった。
やる気でも出したのだろうか? とバイトに状況を聞いてみると、しかし彼女はいつもと同じくグラスを二つ持っていただけで謝ってその一つを落としてしまったようだった。
(なにやってんだよ)
と毒づくが、割れたグラスを片付けて捨てにやってきた彼女が「ごめん、割っちゃった」とあっけらかんと言う様子に怒る気も起こらず「気をつけろよ」とだけ声をかけた。
「うん」
そう答えるものの、怜はどこかぼんやりとした様子で割れたグラスをゴミ箱へと入れながら全く関係のない事を考えてる。
(なんか、寂しいな)
目の前に彼氏いるじゃん。分かってる。
日曜日に遊ぶ予定あるじゃん。分かってる。
分かってるけど、分かってるのは誰かがいるって事だけじゃん。予定だけじゃん。
(春日君、今なにしてるんだろ?)
彼女は一度だけ会い、その日の内にセックスをして、それ以来会ってもおらず連絡の仕様もない男の事を思い出した。
やっぱり連絡先聞けばよかったな。あの人なら教えてくれ、と言えばきっと教えてくれたんだろうな。
そうしなかった自分に今更後悔する。
それからも彼女は浮ついた様子で仕事をし、閉店までその調子だったためか、松本がちょっとブラブラするか? とドライブに誘ったものの行き着いた場所は結局ラブホテルで、それまでどんな会話をしたか彼女は覚えてなかったし、以前よりも雑になった彼の腰の動きを感じながら、
(春日君、優しかったな)
とやはり違う男の事を考えていた。
「六歳だっけ?」
「そ。可愛いだろ?」
そう言われても、浮気相手が相手の子供を褒めるのはなにかおかしいような気がするが、彼女は「うん」と頷いておく事にした。
彼はなかなか子煩悩な男だった。妻のほうにはもう随分と前から愛情が失せてしまったようだが、それでも離婚しないのは子供が可愛くてしょうがないからだ、と言う話を何度か聞いた事がある。確かに離婚なんて事になればこうやって浮気をしているような男のところに真剣がやってくる訳もないだろう、と怜は他人事のように携帯電話の画面の中で無邪気に微笑んでいる幼子を見つめた。
「怜も自分の子供が出来たら分かるよ」
「そうかな」
「そうだよ。多分怜の親父さんもそうだぜ」
「私、父さんいないから」
「え? そうなの?」
「そうだよ」
その事実に驚きながら、そういえば面接時保護者の同意欄のところに書かれていたのは母親の名前だったと言う事を思い出す。最近の女子高生は父親をうざったがり、母親に同意を求める事も珍しくないので気にかけた事もなかったが彼はふと納得する。
「そういえば怜からあまり親の話って聞いた事なかったな」
「別に話すような事じゃないし」
彼女は特に深い意味もなくそう答えたのだが彼はそれを強がりとでも理解したのか、彼女を自分のほうへと引き寄せた。
もう、やめてよ。
なんで分からないかな。
そんなのしてほしいとか私思ってないじゃん。
私は今の話なんてどうでもいいと思ってる事分かってないじゃん。
そんなどうでもいい事でいい人を演じられたってうっとうしいだけじゃん。
ねぇ、あんた私のなにを分かってんの?
彼女は珍しく内心で怒りを覚えた。自分でもなぜ今そんなにも苛立ちを覚えたのかは分からない。だがそれを自覚するとそれは余計増幅し、彼の手が伸びようとしたところで、その手を振り払った。
「怜?」
「ごめん」
「いや、いいけどさ。いや、俺も悪かったよ。怜にとっては辛い話だもんな」
だから違うって。辛くなんかない。
「ねぇ、そろそろ帰らないと奥さんやばいんじゃない?」
「あ、やば」
彼はその一言で先ほどまでのやりとりをもう忘れたかのようにベッドから飛び出して服へと手を伸ばした。
怜は彼の見えない場所で深いため息を吐きながら、彼に合わせて服を着るとラブホテルから家の近所まで送ってもらう事にする。
「なぁ、怜」
「なに?」
車の中で彼がポツリと尋ねてきた。
「もし俺が独身で、お前と普通に付き合って、そのうち結婚とかするとするじゃん。二人の子供って可愛いだろうな」
「そうだね」
そういう状況になることはまずないだろうが、と彼女は胸中で付け加える。彼を選んだのが面倒くさくなかったからだ。その前提が変わってしまうとするなら、きっと彼女は同じ職場で頻繁に顔を会わせる事が確実な男と付き合う事などする訳がなかった。
「送ってくれてありがと」
「おう、じゃあまたな」
去っていく車を見送る事もせず、彼女はさっさと家へと入る。玄関の明かりがついていて彼女は「ただいま」と奥に向かって声をかけると「おかえり」と言う母親の声がした。
「まだ起きてたの?」
「ちょっとやる事があって」
「明日も朝早いんでしょ? 早く寝たほうがいいよ」
玄関で靴を脱ぎながら、離れた母親の笑い声を聞く。
「大丈夫よ。怜こそ早く風呂入っちゃいなさい」
「はーい、ねぇ、ママ」
「なに?」
彼女はそこで一泊起き、玄関で座っていた姿勢からごろりと寝転がり、さかさまの視線を廊下の奥へと向けた。
「彼氏とかーいないのー!?」
「バカな事言わないでよ。それどころじゃないでしょ?」
「ママ、美人じゃーん」
「もうおばさんよ」
「……そんな事ないよ」
最後の台詞は母親には届かなかったようだ。彼女は立ち上がり、風呂場へ向かうと浴槽に浸かり、目を閉じた。
ママは、可哀相だ。
私がいなかったら、もっと違う人生を歩めていたのに。
結婚なんてしなかったらよかったのに。
私達を置いて出て行ったあの男と、出会わなければよかったのに。
私なんて、生まれなければよかったのに。
だけど、今私が死んだらママは悲しいよね。
「はい、じゃあお待ちしてます」
バイトの休憩中だった清春は、そう言って店長が電話を切るとなにやらメモを取っているのを見て求人が来たらしいと見切りをつけ、再び陳列棚から取ってきた雑誌に視線を戻した。
「面接希望だって」
「あ、やっぱり」
そっけない返事だが、やはりどんな人物がやってくるかは気になったので雑誌をめくりながら印象を尋ねてみた。
「うーん、なんか暗そうな感じだったなぁ。ちょっと会ってみないと分からないけど……なんせ人手足りないからなぁ」
「まぁ、とりあえずとってみて様子見たらいいんじゃないすか?」
「清春君、高校卒業したらここに就職しない?」
「絶対嫌です」
「冗談だよ」とどこまでが冗談なのか分からない様子で店長はははと笑い、販売期限の過ぎた弁当に箸をつけた。
「で、どうするの?」
「は? なにがすか?」
「清春君は高校卒業したらどうするの?」
そんな事を聞いてくるなんて珍しいと思いながら、雑誌をめくる手を止めた。
「そうっすね」
腕組みをして、うんうんと考える。しかしこれと言って大したものが浮かんでくることはなかった。正直にそれを伝えると彼は大げさに「夢がないなぁ」と言いながら両手を挙げた。
「夢って……そんなのないっすよ」
「なんかないの? したい仕事とか」
「まぁ、とりあえず大学行くんでそれからっすね。けど別になんでもいいっすよ、仕事なんて」
「最近の若者は冷めてるよなぁ、プライベートを尊重しすぎるというか。昔は仕事にもっと情熱を持ってたはずなんだけどな」
こうやって人気のないコンビニで弁当を食べてる姿が情熱的なのだろうか、と清春は突っ込みたくなったが、確かにフランチャイズ契約の数百万を用意するのは当時苦労したと嬉しげに語っていたあの姿を思い出すと、少なくともそのころはこの仕事にも彼の言う夢とやらがあったのかもしれない。その結末がどんなものだったのか、もしくはこれからどうなるのかは、あまり問いただしたくもなかった。
彼にとって店長は確かに社会人としては一般的な労働人かもしれないが、やはり四六時中コンビニに居座り毎日売り残った弁当を食べるような生活は遠慮被りたかった。
「はぁ、一万円で願い事叶えてもらえないかな」
「なんすか、それ?」
「いや、俺も吉井さんから聞いたんだけどね」
吉井さんと言うのはここで働いているフリーターの女の人だ。
「なんでもネットでは一万円で願いを叶えたりしてくれる人がいるそうだよ」
「……まーた吉井さんはそんな適当な話」
そんな事あるわけないじゃないすか、と口先を尖らせて馬鹿にするように返す。吉井さんは清春から見て地味を通り越して野暮ったい女性で、確かにそういう謎めいた話が好きそうではあったが、さすがにそんなうまい話が転がっているわけがないだろう。
「大体、一万円でなに願うんすか?」
「俺? 俺はねぇ」
彼は真面目な顔をして悩んだが口にしたのは「近くのコンビニ店をつぶしてもらう」と言う陳腐で馬鹿げた話だった。
「はいはい」
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様」
休憩室にバイトを終えてやってきた彼を見て、自分の休憩時間が終わろうとしている事に気がつき立ち上がった。脱いでいた上着に再び袖を通し、やれやれと軽く首を鳴らす。
「じゃ、行ってくるんで」
「はいはい。あ、そうだ、清春君」
「はい?」
「まだ言ってなかったんだけど今日から新しいバイトの人来るから」
「は? いつとったんすか?」
「一昨日。清春君休みだったから」
「さっきの電話は?」
「まだもう一人くらい欲しいんだよね」
そう弁当を食べ終わり、一緒に店へと出てきた店長が困ったように言う。
その時、自動ドアが開き客がやってきたと思った清春は「いらっしゃいませ」と声を出したが、そうやって声をかけられた相手はそんな彼を見て、軽く首をかしげた。と言うよりも清春はそれがこちらに向かってお辞儀をしたのだという事にしばしの間をおいて理解した。
「お、来たね。とりあえず裏に行こうか。制服とか準備してるから」
「はい、分かりました」
自分の後輩になるようだが、自分より年上のようだった。裏に入ってしまった一人取り残された彼はふと駐車場を見やる。先ほど彼が乗ってきた車がきになったからだった。
(セルシオじゃん。結構若いのにいい車乗ってるなぁ)
「清春君、ちょっと」
「あ、はい」
すぐに出てきた店長に呼ばれ振り向く。そこには自分と同じように制服を着た新人が立っていた。
「今日から働く事になった瀬名君。清春君色々教えてあげてね」
「あ、分かりました」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
清春は軽く笑い、彼にお辞儀をし返した。
真面目そうな印象だが、どことなくふわふわしていて掴みどころのない雰囲気を持っていたが、それでも印象としては一緒に働く身としては接しやすそうだったので彼は安心する。退屈な仕事も彼とならそれなりにうまく潰していけるのではないかと甘い考えも添えて。
新人――春日はそんな彼にもう一度お辞儀をするとふぅ、と一つ吐息をこぼす。
「瀬名さん」
「はい?」
「瀬名さんって前どんな仕事してたんすか?」
「普通の会社員ですけど」
「へぇ、それでセルシオって凄いですね」
「そうでもないですよ」
彼は、人受けしそうな微笑を浮かべると朗らかに否定をした。
ふと、以前会った少女の事を思い出す。彼女も車の事について聞いてきた事を覚えている。
まぁ、あまり自分に似合った車ではない、とそれだけ思うと思考を戻した。
「杏里、今日家来る?」
「うん、行きます」
迷いなく即答した彼女の様子がなんだか面白くて、思わず笑ってしまう。
「なにかおかしかったですか?」
「普通予定とか確認しない?」
「だって奈々さんとずっと一緒にいたいもん。最近二人っきりってなかったし」
「そういえばそうだね」
「最近なにしてたんですか?」
「特になにもしてないんだけど」
二人で並んで歩きながら奈々は、ミニスカートの裾の当たりに軽く触れた。
その動きに気がついた彼女がしばらくその動きを見ていたが「可愛いですね、そのスカート」と言って手を伸ばしてくる。
「どこで買ったんですか?」
「どこだったっけ? 覚えてない」
「私もこういうの着てみようかな」
「えー、なんか杏里はちょっとタイプ違うでしょ。なんか可愛らしいって感じだし」
「奈々さんも綺麗じゃないですか」
奈々先輩から、奈々さん、に呼称が変わったのがいつ頃だったかはもう忘れたが、奈々は杏里との距離が以前よりも近づいてきていると実感した。
結局彼女は妥協する事を選んでいる。
春日に言われた他の選択肢はどうにもリアリティがなく彼女からすればずるずるとした付き合いなのだが、彼女の腰ほどまで伸びた長く透き通るような黒髪が、今この手から離れていってしまう事を想像するとなんだか少し勿体無いような気がしてしまう。
(まぁ、そんな事考えてる時点でこの子はセフレって認めてるようなものだけど)
「あの人、元気ですか?」
「あの人?」
「ほら、奈々さんの家の隣に住んでいた人……春日さんでしたっけ」
「あぁ、春日君? うん、元気だよ」
「そうですかぁ。やっぱりお隣同士だしよく会ったりするんですか?」
その質問に彼女は少々吟味して、
「それなりかなぁ、最近働き出したし」
けどたまにお互いの部屋に行ってセックスしたりする、と言う事は当然言わない。
だがそれを言うまでもなく杏里は少し不機嫌そうな表情になる。
「あの人、綺麗な顔してますよね。お人形みたい」
「あぁ、そうね、本当人形みたい。つるっとしてるし」
「私、最近ちょっと心配なんです。あの人と奈々さんが付き合ったりするんじゃないかって」
「えぇ? それはないと思うなぁ」
「本当ですか?」
彼女の歩みが止まり、奈々は数歩一人で歩く事になってしまった。そこから振り返り、彼女を見つめる。
本当だよ。
そういう事はたやすい事だった。きっとそういう関係にはならないだろうと、彼女も、そして彼も思っているはずだった。ただ、そういう関係ではなくても、彼と行っている行為のことを知れば杏里はきっと二人の事をそういう関係だとして捉えるだろう、と言う事も間違いのない事だった。
だからと言って、今奈々に言える台詞は「本当だよ」しかなかった。妥協とは、諦める事と同時に、残酷でもある。
「そうですかぁ、よかったぁ」
胸を撫で下ろすようにそう言うと杏里は、安心感を形にするように彼女の手を取った。
いつか、きっとこの手が離れる日が来るだろう。
それは自分からだろうか、と奈々は思う。
もしかするとこうやって残酷な付き合いをしていても、最終的に捨てられてしまうのは、自分の方かもしれない。
捨てられたって、構わない。どうせ彼女の代わりはきっと見つかる。
やっぱり私は彼女を性欲の対象としてしか見ていないのだ、と奈々は多少憂鬱に思う。
だったら、いつか彼女が私に飽きてしまって恋愛が終わったと言う事にして離れていく事が彼女にとって一番の幸せなのかもしれない。
そして自分にとっての都合のいい結末でもある。
バイトの休憩中だった清春は、そう言って店長が電話を切るとなにやらメモを取っているのを見て求人が来たらしいと見切りをつけ、再び陳列棚から取ってきた雑誌に視線を戻した。
「面接希望だって」
「あ、やっぱり」
そっけない返事だが、やはりどんな人物がやってくるかは気になったので雑誌をめくりながら印象を尋ねてみた。
「うーん、なんか暗そうな感じだったなぁ。ちょっと会ってみないと分からないけど……なんせ人手足りないからなぁ」
「まぁ、とりあえずとってみて様子見たらいいんじゃないすか?」
「清春君、高校卒業したらここに就職しない?」
「絶対嫌です」
「冗談だよ」とどこまでが冗談なのか分からない様子で店長はははと笑い、販売期限の過ぎた弁当に箸をつけた。
「で、どうするの?」
「は? なにがすか?」
「清春君は高校卒業したらどうするの?」
そんな事を聞いてくるなんて珍しいと思いながら、雑誌をめくる手を止めた。
「そうっすね」
腕組みをして、うんうんと考える。しかしこれと言って大したものが浮かんでくることはなかった。正直にそれを伝えると彼は大げさに「夢がないなぁ」と言いながら両手を挙げた。
「夢って……そんなのないっすよ」
「なんかないの? したい仕事とか」
「まぁ、とりあえず大学行くんでそれからっすね。けど別になんでもいいっすよ、仕事なんて」
「最近の若者は冷めてるよなぁ、プライベートを尊重しすぎるというか。昔は仕事にもっと情熱を持ってたはずなんだけどな」
こうやって人気のないコンビニで弁当を食べてる姿が情熱的なのだろうか、と清春は突っ込みたくなったが、確かにフランチャイズ契約の数百万を用意するのは当時苦労したと嬉しげに語っていたあの姿を思い出すと、少なくともそのころはこの仕事にも彼の言う夢とやらがあったのかもしれない。その結末がどんなものだったのか、もしくはこれからどうなるのかは、あまり問いただしたくもなかった。
彼にとって店長は確かに社会人としては一般的な労働人かもしれないが、やはり四六時中コンビニに居座り毎日売り残った弁当を食べるような生活は遠慮被りたかった。
「はぁ、一万円で願い事叶えてもらえないかな」
「なんすか、それ?」
「いや、俺も吉井さんから聞いたんだけどね」
吉井さんと言うのはここで働いているフリーターの女の人だ。
「なんでもネットでは一万円で願いを叶えたりしてくれる人がいるそうだよ」
「……まーた吉井さんはそんな適当な話」
そんな事あるわけないじゃないすか、と口先を尖らせて馬鹿にするように返す。吉井さんは清春から見て地味を通り越して野暮ったい女性で、確かにそういう謎めいた話が好きそうではあったが、さすがにそんなうまい話が転がっているわけがないだろう。
「大体、一万円でなに願うんすか?」
「俺? 俺はねぇ」
彼は真面目な顔をして悩んだが口にしたのは「近くのコンビニ店をつぶしてもらう」と言う陳腐で馬鹿げた話だった。
「はいはい」
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様」
休憩室にバイトを終えてやってきた彼を見て、自分の休憩時間が終わろうとしている事に気がつき立ち上がった。脱いでいた上着に再び袖を通し、やれやれと軽く首を鳴らす。
「じゃ、行ってくるんで」
「はいはい。あ、そうだ、清春君」
「はい?」
「まだ言ってなかったんだけど今日から新しいバイトの人来るから」
「は? いつとったんすか?」
「一昨日。清春君休みだったから」
「さっきの電話は?」
「まだもう一人くらい欲しいんだよね」
そう弁当を食べ終わり、一緒に店へと出てきた店長が困ったように言う。
その時、自動ドアが開き客がやってきたと思った清春は「いらっしゃいませ」と声を出したが、そうやって声をかけられた相手はそんな彼を見て、軽く首をかしげた。と言うよりも清春はそれがこちらに向かってお辞儀をしたのだという事にしばしの間をおいて理解した。
「お、来たね。とりあえず裏に行こうか。制服とか準備してるから」
「はい、分かりました」
自分の後輩になるようだが、自分より年上のようだった。裏に入ってしまった一人取り残された彼はふと駐車場を見やる。先ほど彼が乗ってきた車がきになったからだった。
(セルシオじゃん。結構若いのにいい車乗ってるなぁ)
「清春君、ちょっと」
「あ、はい」
すぐに出てきた店長に呼ばれ振り向く。そこには自分と同じように制服を着た新人が立っていた。
「今日から働く事になった瀬名君。清春君色々教えてあげてね」
「あ、分かりました」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
清春は軽く笑い、彼にお辞儀をし返した。
真面目そうな印象だが、どことなくふわふわしていて掴みどころのない雰囲気を持っていたが、それでも印象としては一緒に働く身としては接しやすそうだったので彼は安心する。退屈な仕事も彼とならそれなりにうまく潰していけるのではないかと甘い考えも添えて。
新人――春日はそんな彼にもう一度お辞儀をするとふぅ、と一つ吐息をこぼす。
「瀬名さん」
「はい?」
「瀬名さんって前どんな仕事してたんすか?」
「普通の会社員ですけど」
「へぇ、それでセルシオって凄いですね」
「そうでもないですよ」
彼は、人受けしそうな微笑を浮かべると朗らかに否定をした。
ふと、以前会った少女の事を思い出す。彼女も車の事について聞いてきた事を覚えている。
まぁ、あまり自分に似合った車ではない、とそれだけ思うと思考を戻した。
「杏里、今日家来る?」
「うん、行きます」
迷いなく即答した彼女の様子がなんだか面白くて、思わず笑ってしまう。
「なにかおかしかったですか?」
「普通予定とか確認しない?」
「だって奈々さんとずっと一緒にいたいもん。最近二人っきりってなかったし」
「そういえばそうだね」
「最近なにしてたんですか?」
「特になにもしてないんだけど」
二人で並んで歩きながら奈々は、ミニスカートの裾の当たりに軽く触れた。
その動きに気がついた彼女がしばらくその動きを見ていたが「可愛いですね、そのスカート」と言って手を伸ばしてくる。
「どこで買ったんですか?」
「どこだったっけ? 覚えてない」
「私もこういうの着てみようかな」
「えー、なんか杏里はちょっとタイプ違うでしょ。なんか可愛らしいって感じだし」
「奈々さんも綺麗じゃないですか」
奈々先輩から、奈々さん、に呼称が変わったのがいつ頃だったかはもう忘れたが、奈々は杏里との距離が以前よりも近づいてきていると実感した。
結局彼女は妥協する事を選んでいる。
春日に言われた他の選択肢はどうにもリアリティがなく彼女からすればずるずるとした付き合いなのだが、彼女の腰ほどまで伸びた長く透き通るような黒髪が、今この手から離れていってしまう事を想像するとなんだか少し勿体無いような気がしてしまう。
(まぁ、そんな事考えてる時点でこの子はセフレって認めてるようなものだけど)
「あの人、元気ですか?」
「あの人?」
「ほら、奈々さんの家の隣に住んでいた人……春日さんでしたっけ」
「あぁ、春日君? うん、元気だよ」
「そうですかぁ。やっぱりお隣同士だしよく会ったりするんですか?」
その質問に彼女は少々吟味して、
「それなりかなぁ、最近働き出したし」
けどたまにお互いの部屋に行ってセックスしたりする、と言う事は当然言わない。
だがそれを言うまでもなく杏里は少し不機嫌そうな表情になる。
「あの人、綺麗な顔してますよね。お人形みたい」
「あぁ、そうね、本当人形みたい。つるっとしてるし」
「私、最近ちょっと心配なんです。あの人と奈々さんが付き合ったりするんじゃないかって」
「えぇ? それはないと思うなぁ」
「本当ですか?」
彼女の歩みが止まり、奈々は数歩一人で歩く事になってしまった。そこから振り返り、彼女を見つめる。
本当だよ。
そういう事はたやすい事だった。きっとそういう関係にはならないだろうと、彼女も、そして彼も思っているはずだった。ただ、そういう関係ではなくても、彼と行っている行為のことを知れば杏里はきっと二人の事をそういう関係だとして捉えるだろう、と言う事も間違いのない事だった。
だからと言って、今奈々に言える台詞は「本当だよ」しかなかった。妥協とは、諦める事と同時に、残酷でもある。
「そうですかぁ、よかったぁ」
胸を撫で下ろすようにそう言うと杏里は、安心感を形にするように彼女の手を取った。
いつか、きっとこの手が離れる日が来るだろう。
それは自分からだろうか、と奈々は思う。
もしかするとこうやって残酷な付き合いをしていても、最終的に捨てられてしまうのは、自分の方かもしれない。
捨てられたって、構わない。どうせ彼女の代わりはきっと見つかる。
やっぱり私は彼女を性欲の対象としてしか見ていないのだ、と奈々は多少憂鬱に思う。
だったら、いつか彼女が私に飽きてしまって恋愛が終わったと言う事にして離れていく事が彼女にとって一番の幸せなのかもしれない。
そして自分にとっての都合のいい結末でもある。
どうして「ノルウェイの森」にしたのかと問われても、大した理由はなかった。村上春樹だから、とか、最近になるまで日本で一番売れている小説だから、とかそういった表面的な事なら口に出来たが、そんなものは聞かれた時にようやく思いつく程度の事で、本当の理由ではない。あえて言うなら浸透や刷り込みのようなものだった。小説を読もうと思い、なにを借りようか迷った時。妥当な選択肢としてそれはあったのかもしれない。
なので透は放課後彼がやってくるのを待っていたように、静かな図書館の椅子の一つに腰掛けていた彼女に嘘でもいいから喜んでもらえるような事を口にしたほうがいいと思いもする。
「この前はありがとう。ちゃんと読めたよ」
「そっか、面白かった?」
「うん、色々」
色々、と直子はそこに含みを込めた。
たとえば小説の内容もそうだが、今こうやって目の前にいる小説の主人公と同姓同名の少年から小説を受け取った事もそこには含まれているのだが、どうやら彼はそれには気がついていないようだった。実際、名前は一緒でも現実にいる渡辺透は亡羊さもなければ、長い手紙を書けそうにもなかったし、そのくせ自分の無力さに打ちひしがれて衝動的に出鱈目な旅行に出かけてしまうような印象もなかった。
そして彼女はどうしてこの小説を借りたのか、と尋ねてみる事にした。
透はしばらく悩んだが、ありきたりな返答をした。
「有名な作家の有名な作品だったから」
「普段から小説は読まないの?」
「あんまり。友達に読んでみたら、って言われたからそれで」
「ふーん、けど、はじめってどんな事でもそういうところから始まるよね。始まりはいつも些細だけど、気がつくとすっかりのめりこんでたり」
「あぁ、そういうの分かる気がする」
机の上に置かれた小説を挟み彼らは笑いあった。その姿はとても自然なものだったが、透はこんな風に彼女とゆっくり話せる事など考えてもいなかったので、こんな事ならもっとちゃんと上巻を読んでおくべきだったと悔やんだ。
「えっと」
ふと出たその一言に彼女が
「直子」
と合わせてきた。
「直子さんは」
「直子でいいよ」
唐突だと透は思ったが、自分でも同級生にさん付けで呼ぶのも変な話だと思い気にしない事にする。
「直子はなんでノルウェイの森読もうと思ったの?」
「私?」
「そう」
「まだ読み終わってない透君に言っちゃうと悪いから言わない」
「なんで?」
「話の最後のほうが好きだから」
「余計気になるだろ」と彼が急かす。どうやら展開を先に知ってしまう事に抵抗がないようで、しょうがないなぁと彼女は笑う。
「ヒロイン死んじゃうのよね、自殺なんだけど」
「あぁ、それはなんとなく知ってる」
「それまでの話も好きなんだけど、あのね、主人公と、ヒロインに親身になってた女の人がね、セックスするの」
透は目の前のどちらかと言えば大人しそうな少女が躊躇いもなくセックスと口にするのに戸惑いを覚えた。それとも自分が知らないだけで女性の持つ恥じらいなど所詮その程度のものなのかもしれなかったし、もしくは物語の延長線上としてならばそんな言葉も文学的として片付けられたのかもしれなかったが、実際のところどちらかと言う事は分からなかった。
「それってお互いのためにしてたのかなって。言葉ではお互い当人同士を見てそうしたような気もするんだけど、実際はお互いの中のヒロインの姿を求めてたんじゃないのかなって思うの。そう思うとね、おかしいよね。セックスって生存本能で行われるって言うけどあの二人はセックスをしながら死者を弔ってたのよ。ねぇ、そういうのって素敵じゃないかな。二人とも自分達とは違う、同じ人の事を想ってするセックスってとっても綺麗な気がするの」
笑いながら言う直子だが、透は一体その話のなにがおかしいのか理解する事が出来なかった。どちらかと言えばそれはとても虚しい事ではないだろうか、と思えたのだが、どうやら彼女はそれも含めた上で好意的な解釈をしているようだったが、なぜそんな風に思えるのかは彼には理解出来なかった。ただ、なんだか目の前の女がひどくいやらしい生き物に見え、それと同時に危うい印象と、それゆえだろうか、酷く儚いと思えた。
「じゃあ直子はさ」
「うん」
「例えば女友達が死んだら、そいつの彼氏とセックスしようとか思う?」
それは単なる下卑た好奇心のようなものだった。要するに今自分が言っているのは所詮字の集まりによって表現された想像上の生き物ではなく、現実の彼女が自分の知らないどこかで痴態を見せているとして、その見えない影に少し触れようとしているだけのものだった。
直子はそれを分かっているのかいないのか、意味深に彼の目をじっと見つめる。
「分からないけど、するかも」
「女友達を思って?」
「うーん」
苦笑。やれやれ、と彼女は内心自分自身に嘆息する。
自分は小説にちょっと淡い夢を見すぎているかもしれない。
そうやって自分へと置き換えた時に浮かんだ発想は自分が先ほど口にしたものとはかけ離れたものだった。
「思わないかもしれない」
「思わないのにやるの?」
「もしその彼氏がすごく落ち込んでて、私にセックスしようって言ってきたらしちゃうかもしれないけど、多分、私その時は友達の事よりその彼氏の事を見ちゃうかもしれない」
「あぁ、でもまぁ、そうかもな」
透はその台詞の受け取り方が間違っている事に気がつかないままに受け取ってしまっていた。
その時彼は、友達の彼氏とセックスする是非はさておき、そうやって悲しんでいる相手の事を見るというのは優しさの現われだろうと判断した。
だが実際はそうではなく、彼女がそういう結論を出したのは、ただただ、うちひしがれた男が行き場をなくし自分に助けを求めた時、一体どんな顔で身体に触れようとするのか、そしてそこに罪悪感を覚えたとして、それでもその行為が続いた時、そんな風に行われるそれは退廃的で壮美だと感じた。
(崇君だったら……あの子はそんな事しないか)
胸中でそう呟く。
彼のあそこまで純粋に一人の女性を愛する精神は見上げたものだと彼女は思う。そのためにそれ以外の一切のものが目に映らなくなり、ただ一つの目的のためだけに生きている今の彼を彼女は理解できないし、面白みがないと思いもするが、それなりに好感を抱いてもいるし、美しいとも思う。
彼女は美しいものを好む。だがそれは誰が見ても美しいと思うものではない。
「透君は?」
「俺? 今彼女いないから俺が死んでもどうにもならないな」
「じゃあ、私が彼女だとして、私が死んだら私の友達とセックスしちゃう?」
「……いや、しないかな、やっぱ悪い気がするし」
「優しいんだね」
(つか普通はそうじゃねーかな?)
そんなふうに苦笑しながらそろそろ帰ろうかと言うと、彼女が小説を渡してきた。結末を聞いてしまったもののせっかくだから読もうと思い、カウンターに行こうとしたところで彼女が「あ、カード書かなくていいよ」と静止してくる。
「え?」
「前貸してくれたお礼に今度は私が透君の分借りたから」
「そうなの?」
「一週間以内に返してくれたらいいから」
以前自分が彼女に言った台詞だった。
彼は笑いながら「ありがと」と言い、小説を鞄にしまいながら
「じゃあ、お礼とかしていい?」
と問いかけた。
「お礼?」
「帰りマックでも寄ろうと思ってたんだけど、よかったら奢るよ」
「いいの?」
「全然」
「じゃあ、甘えようかな」
立ち上がり、彼と一緒に図書館を出る。
随分簡単だ、と透は逆に拍子抜けて「なんだったら日曜日にどっか誘えばよかったな」と頭をかいたが、彼女はそれに首を横に振った。
「ごめん、日曜日は予定あり」
「あ、そうなんだ」
「なに? どこか連れてってくれる気だったの?」
「……まぁ、そうかな」
「じゃあ、今度予定が合ったらいいよ」
その時私が生きてたらね。
それは言う必要がない。
透君、あなたは私が死んだらどう思うでしょう?
私はあんまりそれには興味ない。
でも生きている間に生まれる興味には私は正直に生きようと思う。
彼女、神楽直子は、刹那主義者であり、前向きに生きようとし、そして前向きに、死を望む。
なので透は放課後彼がやってくるのを待っていたように、静かな図書館の椅子の一つに腰掛けていた彼女に嘘でもいいから喜んでもらえるような事を口にしたほうがいいと思いもする。
「この前はありがとう。ちゃんと読めたよ」
「そっか、面白かった?」
「うん、色々」
色々、と直子はそこに含みを込めた。
たとえば小説の内容もそうだが、今こうやって目の前にいる小説の主人公と同姓同名の少年から小説を受け取った事もそこには含まれているのだが、どうやら彼はそれには気がついていないようだった。実際、名前は一緒でも現実にいる渡辺透は亡羊さもなければ、長い手紙を書けそうにもなかったし、そのくせ自分の無力さに打ちひしがれて衝動的に出鱈目な旅行に出かけてしまうような印象もなかった。
そして彼女はどうしてこの小説を借りたのか、と尋ねてみる事にした。
透はしばらく悩んだが、ありきたりな返答をした。
「有名な作家の有名な作品だったから」
「普段から小説は読まないの?」
「あんまり。友達に読んでみたら、って言われたからそれで」
「ふーん、けど、はじめってどんな事でもそういうところから始まるよね。始まりはいつも些細だけど、気がつくとすっかりのめりこんでたり」
「あぁ、そういうの分かる気がする」
机の上に置かれた小説を挟み彼らは笑いあった。その姿はとても自然なものだったが、透はこんな風に彼女とゆっくり話せる事など考えてもいなかったので、こんな事ならもっとちゃんと上巻を読んでおくべきだったと悔やんだ。
「えっと」
ふと出たその一言に彼女が
「直子」
と合わせてきた。
「直子さんは」
「直子でいいよ」
唐突だと透は思ったが、自分でも同級生にさん付けで呼ぶのも変な話だと思い気にしない事にする。
「直子はなんでノルウェイの森読もうと思ったの?」
「私?」
「そう」
「まだ読み終わってない透君に言っちゃうと悪いから言わない」
「なんで?」
「話の最後のほうが好きだから」
「余計気になるだろ」と彼が急かす。どうやら展開を先に知ってしまう事に抵抗がないようで、しょうがないなぁと彼女は笑う。
「ヒロイン死んじゃうのよね、自殺なんだけど」
「あぁ、それはなんとなく知ってる」
「それまでの話も好きなんだけど、あのね、主人公と、ヒロインに親身になってた女の人がね、セックスするの」
透は目の前のどちらかと言えば大人しそうな少女が躊躇いもなくセックスと口にするのに戸惑いを覚えた。それとも自分が知らないだけで女性の持つ恥じらいなど所詮その程度のものなのかもしれなかったし、もしくは物語の延長線上としてならばそんな言葉も文学的として片付けられたのかもしれなかったが、実際のところどちらかと言う事は分からなかった。
「それってお互いのためにしてたのかなって。言葉ではお互い当人同士を見てそうしたような気もするんだけど、実際はお互いの中のヒロインの姿を求めてたんじゃないのかなって思うの。そう思うとね、おかしいよね。セックスって生存本能で行われるって言うけどあの二人はセックスをしながら死者を弔ってたのよ。ねぇ、そういうのって素敵じゃないかな。二人とも自分達とは違う、同じ人の事を想ってするセックスってとっても綺麗な気がするの」
笑いながら言う直子だが、透は一体その話のなにがおかしいのか理解する事が出来なかった。どちらかと言えばそれはとても虚しい事ではないだろうか、と思えたのだが、どうやら彼女はそれも含めた上で好意的な解釈をしているようだったが、なぜそんな風に思えるのかは彼には理解出来なかった。ただ、なんだか目の前の女がひどくいやらしい生き物に見え、それと同時に危うい印象と、それゆえだろうか、酷く儚いと思えた。
「じゃあ直子はさ」
「うん」
「例えば女友達が死んだら、そいつの彼氏とセックスしようとか思う?」
それは単なる下卑た好奇心のようなものだった。要するに今自分が言っているのは所詮字の集まりによって表現された想像上の生き物ではなく、現実の彼女が自分の知らないどこかで痴態を見せているとして、その見えない影に少し触れようとしているだけのものだった。
直子はそれを分かっているのかいないのか、意味深に彼の目をじっと見つめる。
「分からないけど、するかも」
「女友達を思って?」
「うーん」
苦笑。やれやれ、と彼女は内心自分自身に嘆息する。
自分は小説にちょっと淡い夢を見すぎているかもしれない。
そうやって自分へと置き換えた時に浮かんだ発想は自分が先ほど口にしたものとはかけ離れたものだった。
「思わないかもしれない」
「思わないのにやるの?」
「もしその彼氏がすごく落ち込んでて、私にセックスしようって言ってきたらしちゃうかもしれないけど、多分、私その時は友達の事よりその彼氏の事を見ちゃうかもしれない」
「あぁ、でもまぁ、そうかもな」
透はその台詞の受け取り方が間違っている事に気がつかないままに受け取ってしまっていた。
その時彼は、友達の彼氏とセックスする是非はさておき、そうやって悲しんでいる相手の事を見るというのは優しさの現われだろうと判断した。
だが実際はそうではなく、彼女がそういう結論を出したのは、ただただ、うちひしがれた男が行き場をなくし自分に助けを求めた時、一体どんな顔で身体に触れようとするのか、そしてそこに罪悪感を覚えたとして、それでもその行為が続いた時、そんな風に行われるそれは退廃的で壮美だと感じた。
(崇君だったら……あの子はそんな事しないか)
胸中でそう呟く。
彼のあそこまで純粋に一人の女性を愛する精神は見上げたものだと彼女は思う。そのためにそれ以外の一切のものが目に映らなくなり、ただ一つの目的のためだけに生きている今の彼を彼女は理解できないし、面白みがないと思いもするが、それなりに好感を抱いてもいるし、美しいとも思う。
彼女は美しいものを好む。だがそれは誰が見ても美しいと思うものではない。
「透君は?」
「俺? 今彼女いないから俺が死んでもどうにもならないな」
「じゃあ、私が彼女だとして、私が死んだら私の友達とセックスしちゃう?」
「……いや、しないかな、やっぱ悪い気がするし」
「優しいんだね」
(つか普通はそうじゃねーかな?)
そんなふうに苦笑しながらそろそろ帰ろうかと言うと、彼女が小説を渡してきた。結末を聞いてしまったもののせっかくだから読もうと思い、カウンターに行こうとしたところで彼女が「あ、カード書かなくていいよ」と静止してくる。
「え?」
「前貸してくれたお礼に今度は私が透君の分借りたから」
「そうなの?」
「一週間以内に返してくれたらいいから」
以前自分が彼女に言った台詞だった。
彼は笑いながら「ありがと」と言い、小説を鞄にしまいながら
「じゃあ、お礼とかしていい?」
と問いかけた。
「お礼?」
「帰りマックでも寄ろうと思ってたんだけど、よかったら奢るよ」
「いいの?」
「全然」
「じゃあ、甘えようかな」
立ち上がり、彼と一緒に図書館を出る。
随分簡単だ、と透は逆に拍子抜けて「なんだったら日曜日にどっか誘えばよかったな」と頭をかいたが、彼女はそれに首を横に振った。
「ごめん、日曜日は予定あり」
「あ、そうなんだ」
「なに? どこか連れてってくれる気だったの?」
「……まぁ、そうかな」
「じゃあ、今度予定が合ったらいいよ」
その時私が生きてたらね。
それは言う必要がない。
透君、あなたは私が死んだらどう思うでしょう?
私はあんまりそれには興味ない。
でも生きている間に生まれる興味には私は正直に生きようと思う。
彼女、神楽直子は、刹那主義者であり、前向きに生きようとし、そして前向きに、死を望む。
その日教師から雑務を渡されたため、いつものようにすぐに帰宅できなかった茜は若干憂鬱な思いで廊下を歩いていたところで、校舎から出て行く渡辺透と神楽直子の姿を見かけた。彼女にとって二人は特別親しくも――直子とはクラスも違ったし――ないが、その姿に意外な組み合わせだ、と思いもしたが、かと言ってそうやって男女が並んでいる光景など彼女にとってはどうでもいい事で、馬鹿なクラスメイトのように、二人がどういった関係なのかと言う事に興味を抱く事もしなかった。もし、彼女がもう少しでも他人に敏感でもあれば、直子の時折見せる一見間の抜けたようなその表情は自分に近いものがあることに気がついたかもしれない。それは彼女以外の誰も気づいてはいないが。
彼女は視線を廊下に戻し再び歩き出すと手早く雑務を追え、用がなくなると彼女も早々に校舎から出ると、一切の寄り道などする事無く、家へたどり着くと部屋へと戻り、鍵を閉めた。
いつものようにパソコンの電源をつける。ぶぅん、と言う起動音が鳴る。デスクトップの壁紙は買った時の初期設定のままだ。彼女は装う、と言う事に殆ど関心がなく、画面に並んでいるフォルダも使うものと、あまり使用しないものに分けているくらいで統一性がなく雑多としている。
ネットに接続し、複数のページを眺める。ふと面白そうだと思うものをクリックしてみるが、そういう時は大体期待外れな事が多く、彼女はふと自分はこの世に存在していない自分の中の理想のなにかを延々と探し続けているようで、ひどく怠惰な気分にさせられた。
(……代わり映えしない毎日)
まるで詩でも詠むかのようにそう思う。
それは彼女にとって単なる独り言だった。世界は殆ど退屈で構成されているし、誰もがその中に組み込まれ、それを当然として生活を送っている。そしてその中には当然自分も含まれており、彼女にとって退屈や、諦めと言った感情は常に身近なものだった。
時折笑うことがあっても、胸が締め付けられても、優しい気持ちが生まれても、悲しさに沈んでも、それはジェットコースターのように刹那に通り過ぎていくし、それが彼女にとっての人間の生き方だ。そしてその他大勢が例えば学校や、近所の公園や、騒がしいゲームセンターや、静かに音を立てる海であったりとする中、自分はこの部屋のパソコンと向き合っているのが、普通の生き方だと思っている。
複数のページを何度か見返しながら彼女はふと掲示板に目を留めた。例の『一万円の男』が現れるその掲示板をなんとなく上下にスクロールさせながら書かれている言葉を斜め読みする。今日は彼が現れる日ではないので静かなものだったが、そこにはいくつか彼への願い事が書かれたりもしていた。
――ムカつく会社の上司を殴ってくれないかな
――彼氏が浮気してるかもしれないから、調べてほしいんだけど
――俺と友達になってくれないかなー
――友達とか金で作るもんじゃなくね?
――お前らの願い事ってそんなもんかよ!?
――じゃあ、お前はどんなんだよ
――ばあちゃん結構金持ってんだけどもうすぐ死にそう。遺産相続めんどい。なんとかして独り占め出来ないかな。
――願い事ってもなぁ、そんな大したの出てこない俺って小さい人間なのかなぁ?
――いや、満たされてるって事で幸せだと思っていいんじゃね?
下らない事ばかりだ、と彼女は鼻で笑った。
一万円でどれほどの事が出来るのか分かりもしないが、そうやって願望として書くだけならもっと思いついてもいいのに、と彼女はマウスを動かし違うページを表示した。そのページはわざとらしい黒い背景に染まり、本物ではなくイラストだがばらばらになった人間の内臓が写されている。
そのサイトは自殺願望の類を持つ者が集まり、お互いの現在の心境や状況を吐露したり、人によっては自傷だったり、死に損ねた際に負った傷の画像を載せたりしている。茜はそのサイトを見ながら死にたがっている割には皆馴れ馴れしく思えるし、一日に数千人が訪れている割に実際に死ぬ人はこの内の何割だろうと考える。きっと他の似たようなサイトもあまり代わり映えしないのだろう。今ではこんなサイトは珍しくもないし、こんなサイトを作った本人は他人の死を推進しても自分は死ぬ事無く、その死のサイトを更新する作業を行っていると言う事が彼女にとっては騙されているような気がしてしょうがない。
彼女にはリアリティがない。
ふと自分に生きる価値があるかどうかと言う疑問にぶち当たる事がある。もしくは他人の事を値踏みするようにそう思う事も。
だが例え、何度も繰り返したその思考がある日は価値なし、と言う結論にたどり着いても、だからと言ってそれがなんなのだろう。
実際誰が死んだところでなにも変わらない。そして生き続けても。そうやってどちらでも一緒なのだと気がついた時、彼女にとって全ての事は下らないし、他人の事を自分がどう思おうがその行為こそが無価値だった。
――こんばんは
開かれていたチャットルームにその文字が表示され、茜はすばやく「こんばんはー」と返事を返した。相手は彼女がこの世でもっとも心を開いている恵子で彼女の頬が少し緩む。
――今なにしてるの?
――暇してましたよ。ネットサーフィン中です。
――面白いサイトとかあった?
――今日はあんまり……あ、恵子さんが言ってたサイト見ましたよ。
――一万円でお願い聞いてくれるって話?
――そうそう!
――へー、どうだった? もしかしてお願いとかしたの?
――それがすぐに書き込まれちゃって。なんどか見たんですけどその度に置き去り状態。
目の前のディスプレイに彼女はははっと笑いかけた。滑稽なようではあるが、彼女にとってはそこからそれに対してのリアクションは当然帰ってくると思っているような自然な光景だった。
――けど茜ちゃんもし願い事叶えてもらうとしたら、なにをお願いするの?
――うーん……内緒。
――気になるじゃない!
――言ってもいいかなと思ったらいいますよー
そんな風にしばらく会話を続けていたが、恵子が旦那が帰ってきたから落ちるね、と言いチャットルームから出て行ってしまった。茜はそうやって自分一人取り残されるのが嫌いで、普段は出来る限り自分が先に落ちる事にしていた。
落ちる、と言う表現もあまり好きではない。なんだかそれは今こうしている居場所から望んでもいない場所へと落下していかなければならない、と言っているように思えたからだ。
取り残された自分も、落ちなければならない。こんなところで一人でいるのは酷く物悲しい。
落下する。単調で、つまらなくて、ありふれて、雑多で、そのくせ矮小な世界へと。
つまらない女だ、と恵子は茜の事をそんな風に思っている。
暇つぶしではじめたチャットにも最近飽きてきている自分を感じ、ふと恵子は彼女のせいだ、と思えた。以前は偶然出会う不特定の誰かと話す事に楽しみを見出す事もできたのだが、彼女が自分に付きまとうようになってから他の人と話す機会も減ってしまった。
確か高校生だと言っていたが、殆ど毎日ネットばかりしているようだし、きっと現実でもつまらな女なのだろうと思っている。
パソコンの電源を切り、やれやれと思いながら彼女は自室から、帰ってきた夫が食べるものを探しているらしく物音が聞こえてくるリビングへと向かう。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
彼は視線を冷蔵庫に向けたまま、こちらに振り返る事もせず短い返事だけを返した。「なにか作ろうか?」と言いかけたが、彼の背中がそれを望んでいない事を感じ取ると、彼女はなにか自分が出てきた用事を別に作る事にした。
澱んでいるような思い空気を感じながら恵子はキッチンの水道の蛇口をひねり手を洗う。
彼の背中姿を見ながら、彼女はいつからこうなってしまったのだろうと記憶を遡る。以前は優しかった夫は今では意識しているのか、それとも無意識なのか距離を置くようになり、自分が近づこうとすればするほどそれを面倒くさがりうっとうしがるようになった。
自分がなにかしたのだろうか、そんな風に考えてもみたし、確かに円満ばかりとは言えない生活ではあったが、自分としては彼に出来る限り尽くしてきたつもりだし、一般的な主婦としての仕事はしていたという自負もある。
だが、彼は離れていく。
そして、彼が自分よりも違う誰かを見ている事も、彼女は気がついている。
「ねぇ、和寿」
「なに?」
「今度の休みの日、皆で買い物に行かない?」
「なに買うんだよ」
「なんでもいいじゃない。久しぶりにどこか出かけましょうよ」
「疲れるからいいよ。一人で行ってこいよ。裕也の面倒は見といてやるから」
また、裕也。
今は寝室で静かに眠っているだろう息子と触れ合うときだけ、彼はこの家で親になる。そしてその時、彼女は孤独だ。
孤立する。
自分の居場所はどこにあるのか。三人で住んでいるのに、私は一人だ。
叫びだしたくなる。
ねぇ、裕也があなたの帰りを楽しみにしている時、私はとても憂鬱だ。あなたは誰のためにここに帰ってくる? なんのために帰ってくる? 玄関が開かれ裕也があなたに抱きつき、あなたは笑い、そして私を素通りする。それは現実で、そしてそうなる事が分かっていてそれを待っている私のこの憂鬱を誰が理解してくれる?
皆、皆……
そこで、彼女の思考は止まる。衝動の台詞はそこでいつも止まる。そしてリビングから出て行く和寿の背中を見つめながら、彼女は誰にも知られず静かに涙を流す。
それでも彼を愛している自分がいる。
そんな彼からの愛を受け取っている存在が自分以外にいる事。
それは美しく、とても醜い、愛と表裏一体の憎しみ。
彼女は視線を廊下に戻し再び歩き出すと手早く雑務を追え、用がなくなると彼女も早々に校舎から出ると、一切の寄り道などする事無く、家へたどり着くと部屋へと戻り、鍵を閉めた。
いつものようにパソコンの電源をつける。ぶぅん、と言う起動音が鳴る。デスクトップの壁紙は買った時の初期設定のままだ。彼女は装う、と言う事に殆ど関心がなく、画面に並んでいるフォルダも使うものと、あまり使用しないものに分けているくらいで統一性がなく雑多としている。
ネットに接続し、複数のページを眺める。ふと面白そうだと思うものをクリックしてみるが、そういう時は大体期待外れな事が多く、彼女はふと自分はこの世に存在していない自分の中の理想のなにかを延々と探し続けているようで、ひどく怠惰な気分にさせられた。
(……代わり映えしない毎日)
まるで詩でも詠むかのようにそう思う。
それは彼女にとって単なる独り言だった。世界は殆ど退屈で構成されているし、誰もがその中に組み込まれ、それを当然として生活を送っている。そしてその中には当然自分も含まれており、彼女にとって退屈や、諦めと言った感情は常に身近なものだった。
時折笑うことがあっても、胸が締め付けられても、優しい気持ちが生まれても、悲しさに沈んでも、それはジェットコースターのように刹那に通り過ぎていくし、それが彼女にとっての人間の生き方だ。そしてその他大勢が例えば学校や、近所の公園や、騒がしいゲームセンターや、静かに音を立てる海であったりとする中、自分はこの部屋のパソコンと向き合っているのが、普通の生き方だと思っている。
複数のページを何度か見返しながら彼女はふと掲示板に目を留めた。例の『一万円の男』が現れるその掲示板をなんとなく上下にスクロールさせながら書かれている言葉を斜め読みする。今日は彼が現れる日ではないので静かなものだったが、そこにはいくつか彼への願い事が書かれたりもしていた。
――ムカつく会社の上司を殴ってくれないかな
――彼氏が浮気してるかもしれないから、調べてほしいんだけど
――俺と友達になってくれないかなー
――友達とか金で作るもんじゃなくね?
――お前らの願い事ってそんなもんかよ!?
――じゃあ、お前はどんなんだよ
――ばあちゃん結構金持ってんだけどもうすぐ死にそう。遺産相続めんどい。なんとかして独り占め出来ないかな。
――願い事ってもなぁ、そんな大したの出てこない俺って小さい人間なのかなぁ?
――いや、満たされてるって事で幸せだと思っていいんじゃね?
下らない事ばかりだ、と彼女は鼻で笑った。
一万円でどれほどの事が出来るのか分かりもしないが、そうやって願望として書くだけならもっと思いついてもいいのに、と彼女はマウスを動かし違うページを表示した。そのページはわざとらしい黒い背景に染まり、本物ではなくイラストだがばらばらになった人間の内臓が写されている。
そのサイトは自殺願望の類を持つ者が集まり、お互いの現在の心境や状況を吐露したり、人によっては自傷だったり、死に損ねた際に負った傷の画像を載せたりしている。茜はそのサイトを見ながら死にたがっている割には皆馴れ馴れしく思えるし、一日に数千人が訪れている割に実際に死ぬ人はこの内の何割だろうと考える。きっと他の似たようなサイトもあまり代わり映えしないのだろう。今ではこんなサイトは珍しくもないし、こんなサイトを作った本人は他人の死を推進しても自分は死ぬ事無く、その死のサイトを更新する作業を行っていると言う事が彼女にとっては騙されているような気がしてしょうがない。
彼女にはリアリティがない。
ふと自分に生きる価値があるかどうかと言う疑問にぶち当たる事がある。もしくは他人の事を値踏みするようにそう思う事も。
だが例え、何度も繰り返したその思考がある日は価値なし、と言う結論にたどり着いても、だからと言ってそれがなんなのだろう。
実際誰が死んだところでなにも変わらない。そして生き続けても。そうやってどちらでも一緒なのだと気がついた時、彼女にとって全ての事は下らないし、他人の事を自分がどう思おうがその行為こそが無価値だった。
――こんばんは
開かれていたチャットルームにその文字が表示され、茜はすばやく「こんばんはー」と返事を返した。相手は彼女がこの世でもっとも心を開いている恵子で彼女の頬が少し緩む。
――今なにしてるの?
――暇してましたよ。ネットサーフィン中です。
――面白いサイトとかあった?
――今日はあんまり……あ、恵子さんが言ってたサイト見ましたよ。
――一万円でお願い聞いてくれるって話?
――そうそう!
――へー、どうだった? もしかしてお願いとかしたの?
――それがすぐに書き込まれちゃって。なんどか見たんですけどその度に置き去り状態。
目の前のディスプレイに彼女はははっと笑いかけた。滑稽なようではあるが、彼女にとってはそこからそれに対してのリアクションは当然帰ってくると思っているような自然な光景だった。
――けど茜ちゃんもし願い事叶えてもらうとしたら、なにをお願いするの?
――うーん……内緒。
――気になるじゃない!
――言ってもいいかなと思ったらいいますよー
そんな風にしばらく会話を続けていたが、恵子が旦那が帰ってきたから落ちるね、と言いチャットルームから出て行ってしまった。茜はそうやって自分一人取り残されるのが嫌いで、普段は出来る限り自分が先に落ちる事にしていた。
落ちる、と言う表現もあまり好きではない。なんだかそれは今こうしている居場所から望んでもいない場所へと落下していかなければならない、と言っているように思えたからだ。
取り残された自分も、落ちなければならない。こんなところで一人でいるのは酷く物悲しい。
落下する。単調で、つまらなくて、ありふれて、雑多で、そのくせ矮小な世界へと。
つまらない女だ、と恵子は茜の事をそんな風に思っている。
暇つぶしではじめたチャットにも最近飽きてきている自分を感じ、ふと恵子は彼女のせいだ、と思えた。以前は偶然出会う不特定の誰かと話す事に楽しみを見出す事もできたのだが、彼女が自分に付きまとうようになってから他の人と話す機会も減ってしまった。
確か高校生だと言っていたが、殆ど毎日ネットばかりしているようだし、きっと現実でもつまらな女なのだろうと思っている。
パソコンの電源を切り、やれやれと思いながら彼女は自室から、帰ってきた夫が食べるものを探しているらしく物音が聞こえてくるリビングへと向かう。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
彼は視線を冷蔵庫に向けたまま、こちらに振り返る事もせず短い返事だけを返した。「なにか作ろうか?」と言いかけたが、彼の背中がそれを望んでいない事を感じ取ると、彼女はなにか自分が出てきた用事を別に作る事にした。
澱んでいるような思い空気を感じながら恵子はキッチンの水道の蛇口をひねり手を洗う。
彼の背中姿を見ながら、彼女はいつからこうなってしまったのだろうと記憶を遡る。以前は優しかった夫は今では意識しているのか、それとも無意識なのか距離を置くようになり、自分が近づこうとすればするほどそれを面倒くさがりうっとうしがるようになった。
自分がなにかしたのだろうか、そんな風に考えてもみたし、確かに円満ばかりとは言えない生活ではあったが、自分としては彼に出来る限り尽くしてきたつもりだし、一般的な主婦としての仕事はしていたという自負もある。
だが、彼は離れていく。
そして、彼が自分よりも違う誰かを見ている事も、彼女は気がついている。
「ねぇ、和寿」
「なに?」
「今度の休みの日、皆で買い物に行かない?」
「なに買うんだよ」
「なんでもいいじゃない。久しぶりにどこか出かけましょうよ」
「疲れるからいいよ。一人で行ってこいよ。裕也の面倒は見といてやるから」
また、裕也。
今は寝室で静かに眠っているだろう息子と触れ合うときだけ、彼はこの家で親になる。そしてその時、彼女は孤独だ。
孤立する。
自分の居場所はどこにあるのか。三人で住んでいるのに、私は一人だ。
叫びだしたくなる。
ねぇ、裕也があなたの帰りを楽しみにしている時、私はとても憂鬱だ。あなたは誰のためにここに帰ってくる? なんのために帰ってくる? 玄関が開かれ裕也があなたに抱きつき、あなたは笑い、そして私を素通りする。それは現実で、そしてそうなる事が分かっていてそれを待っている私のこの憂鬱を誰が理解してくれる?
皆、皆……
そこで、彼女の思考は止まる。衝動の台詞はそこでいつも止まる。そしてリビングから出て行く和寿の背中を見つめながら、彼女は誰にも知られず静かに涙を流す。
それでも彼を愛している自分がいる。
そんな彼からの愛を受け取っている存在が自分以外にいる事。
それは美しく、とても醜い、愛と表裏一体の憎しみ。
「男女の間に友情って存在すると思いますか?」
レジを挟んでそう尋ねている杏里と、その質問をぶつけられた制服姿――酷く似合っていないと思えた――の春日を少々離れた雑誌コーナーから見つめて、奈々はやはり一緒に来るべきではなかったと、ばれないように小さく溜め息を吐いた。
「どうしたの? 急に」
ふと彼女は自分達の関係に気がついたのだろうか、と思ったが、じっとこちらを見て目を逸らす様子のない彼女を見て、どうやら疑問めいたものは抱いているかもしれないが確信とは言えないだろうと判断した。
勤務先にと選んだコンビニは想像以上に退屈だった。立地が悪いのか、店の雰囲気が悪いのか、客足の少ない店でこうやって会話をしていてもそれを見咎めるような人すらいないのが実情だ。
「個人的にはあると思うけど」
「でもね、それが気がつくと愛情に発展する、なんて事あったりすると思いません?」
「それは時と場合によると思うよ。そうなる事もあるかもしれないけど、そうはならずにちゃんと友情として成立するものがある事もなくはないと思うね」
「そうですか?」
彼女はその回答に不満げな顔をした。
いっその事、「そうだね、友情なんて成立する訳がない。僕と君の恋人は君に内緒で恋人同士がするはずのセックスをしたりしているし、広義では僕は彼女の事を愛していると言えなくもない」と言った方が喜ぶのではないだろうかとすら思えた。そして「残念だけど君は狭義では彼女から愛されていない」とも。
「僕はそうだね」
それだけを伝える。
どうして肯定を歓迎したがるのだろう。
悪い想像ですら、人は他人に同意を求めたがる。自分は間違っていないと言ってもらいたがり、自分の考えが正しいと再確認したがる。過ちだった方がいいとしても。思考に取り付かれる。そしてその思考に乗ってあげる事は簡単だ。そうだね、と言ってあげることは簡単だ。思考を切り離してしまえば。彼はきっとそんなやりとりが円満な人間関係を構成するのだろうと思っているし、それが上辺だけのものであるとか、本質から逃げている、なんて理想主義者のような事を言うつもりはないものの、彼自身はそういう行為をしてまで他人に好かれようと言う気もなかった。
「春日さんってなんだかふわふわしてますよね」
「どういう事?」
「なんか、ちゃんと地に足つけてるって感じはするんだけど、でもなんか心ここにあらずというか、空にふわふわって浮かんでるみたいな変な感じ」
「まぁ、あまり張り詰めるタイプではないね」
「あの、私、奈々さんと付き合ってるんですよ」
知ってる。
「……そう」
「ほら、普通ならもうちょっと驚いてもいいと思うんですけど」
「他人の恋愛にいちいち驚いていたらきりがないだろう」
「女同士ですよ? レズですよ? おかしいと思いません?」
なら君はどうしてそのおかしい関係を続けているんだ? そう問いたくなるような事を言っている彼女に、観察されるような視線を向けられる。逸らすべきだろうかとも思ったが、そうする理由が特に見当たらなかったのでしばらく見詰め合っていると、彼女のほうが先に視線を上へと向けてしまった。
「春日さんってあんまり他人の事に興味ないです?」
「そういう訳じゃないけど、そういう性的嗜好に関してはあまり頓着がないね、当人達が幸せならいいんじゃないかな」
だって、君は彼女と一緒にいられて幸せなんだろう?
それでいいじゃないか、と思う。知らない事は不幸だが、幸せだ。見えない不幸などずっと気づかなければいい。紛い物でも目に見える幸せと寄り添い、それによって君は癒されるし、安らぎを得られる。それは間違いなく、幸せだ。
「ちょっと、あんまり春日君困らせたらだめよ」
「困らせてないですよ」
いつの間にかドリンクを二本持った奈々が背後へとやってきていて、杏里の肩に手を置いた。杏里は拗ねたように口を尖らせながらそれでも嬉しそうに彼女へと微笑む。
「ごめんね、仕事中に」
「いいよ、見ての通り暇な店だしね。店長もずっと裏から出てこない」
だからこうしている事になんの問題もないさ、と言うように肩をすくめると、彼女が差し出した。ドリンクを受け取る。会計を済ませ、袋にそれを入れる。
奈々はそれを見ながら、彼の動きはいちいち落ち着いていて、それがとても似合うと、彼の様子を見つめた。コンビニは寂れているのになんだか彼がいるところだけ切り取ったかのように違う空気が流れているようだった。
「ねぇ、春日君。空気の味って分かる?」
「味?」
「うん」
「いや、感じた事はない。と言うか考えた事もなかった」
期待した答えとは違う返答に、彼女は少々がっかりしながら、袋を受け取った。もしかすると頷いてくれて、美味しい空気とはどんなもので、不味い空気を含んだ時、それがどれだけ不快になるか教えてもらえたりするんじゃないだろうか、などと想像していたのだが、そうは言ってももし本当にそうなったなら、きっとそういったものが分からない自分を思うと嫉妬してしまったかもしれないので、むしろ自分と同じでよかったと思う事にした。
「ねぇ、春日さん、私の奈々さん取らないでね」
「なに言ってんのよ」
「だって春日さんってもてそうだから」
「そんな事ないよ」
「もーくだんない事言わないの」
そんなやり取りを交わしている内に久しぶりと言っていい程その意味を失っていた自動ドアが開き、一人の男性が入ってきた。春日は二人の会話から離れるように「いらっしゃいませ」と言いそちらをみやる。男性は買い物に来たはずなのだが、入り口付近で立ち止まり、こちらのほうをやけにまじまじと見つめている。
どうかしたのだろうか、そう思いながらこちらからも彼に視線を送ると、彼はその視線に怯えるように目を逸らしきょろきょろとし、挙動不審な様子を見せていたのだがややあってなにか諦めたような表情を浮かべ、こちらへと歩み寄ってきた。
「……あの」
「はい?」
「……今日……面接で来たんですけど」
「あぁ」
店長から今日面接がある事を聞いてはいたのだが、予定していた時間よりも随分早く来たため彼がそうだとは思わなかったため、春日は若干抜けた返事をした。それを見て奈々が「可愛い」と言っているが無視して彼に尋ねる。
「面接ですね。名前、教えてもらえますか?」
そう尋ねると、彼は先ほどから変わらないそわそわとした様子で答えた。
「山田です……山田太郎」
レジを挟んでそう尋ねている杏里と、その質問をぶつけられた制服姿――酷く似合っていないと思えた――の春日を少々離れた雑誌コーナーから見つめて、奈々はやはり一緒に来るべきではなかったと、ばれないように小さく溜め息を吐いた。
「どうしたの? 急に」
ふと彼女は自分達の関係に気がついたのだろうか、と思ったが、じっとこちらを見て目を逸らす様子のない彼女を見て、どうやら疑問めいたものは抱いているかもしれないが確信とは言えないだろうと判断した。
勤務先にと選んだコンビニは想像以上に退屈だった。立地が悪いのか、店の雰囲気が悪いのか、客足の少ない店でこうやって会話をしていてもそれを見咎めるような人すらいないのが実情だ。
「個人的にはあると思うけど」
「でもね、それが気がつくと愛情に発展する、なんて事あったりすると思いません?」
「それは時と場合によると思うよ。そうなる事もあるかもしれないけど、そうはならずにちゃんと友情として成立するものがある事もなくはないと思うね」
「そうですか?」
彼女はその回答に不満げな顔をした。
いっその事、「そうだね、友情なんて成立する訳がない。僕と君の恋人は君に内緒で恋人同士がするはずのセックスをしたりしているし、広義では僕は彼女の事を愛していると言えなくもない」と言った方が喜ぶのではないだろうかとすら思えた。そして「残念だけど君は狭義では彼女から愛されていない」とも。
「僕はそうだね」
それだけを伝える。
どうして肯定を歓迎したがるのだろう。
悪い想像ですら、人は他人に同意を求めたがる。自分は間違っていないと言ってもらいたがり、自分の考えが正しいと再確認したがる。過ちだった方がいいとしても。思考に取り付かれる。そしてその思考に乗ってあげる事は簡単だ。そうだね、と言ってあげることは簡単だ。思考を切り離してしまえば。彼はきっとそんなやりとりが円満な人間関係を構成するのだろうと思っているし、それが上辺だけのものであるとか、本質から逃げている、なんて理想主義者のような事を言うつもりはないものの、彼自身はそういう行為をしてまで他人に好かれようと言う気もなかった。
「春日さんってなんだかふわふわしてますよね」
「どういう事?」
「なんか、ちゃんと地に足つけてるって感じはするんだけど、でもなんか心ここにあらずというか、空にふわふわって浮かんでるみたいな変な感じ」
「まぁ、あまり張り詰めるタイプではないね」
「あの、私、奈々さんと付き合ってるんですよ」
知ってる。
「……そう」
「ほら、普通ならもうちょっと驚いてもいいと思うんですけど」
「他人の恋愛にいちいち驚いていたらきりがないだろう」
「女同士ですよ? レズですよ? おかしいと思いません?」
なら君はどうしてそのおかしい関係を続けているんだ? そう問いたくなるような事を言っている彼女に、観察されるような視線を向けられる。逸らすべきだろうかとも思ったが、そうする理由が特に見当たらなかったのでしばらく見詰め合っていると、彼女のほうが先に視線を上へと向けてしまった。
「春日さんってあんまり他人の事に興味ないです?」
「そういう訳じゃないけど、そういう性的嗜好に関してはあまり頓着がないね、当人達が幸せならいいんじゃないかな」
だって、君は彼女と一緒にいられて幸せなんだろう?
それでいいじゃないか、と思う。知らない事は不幸だが、幸せだ。見えない不幸などずっと気づかなければいい。紛い物でも目に見える幸せと寄り添い、それによって君は癒されるし、安らぎを得られる。それは間違いなく、幸せだ。
「ちょっと、あんまり春日君困らせたらだめよ」
「困らせてないですよ」
いつの間にかドリンクを二本持った奈々が背後へとやってきていて、杏里の肩に手を置いた。杏里は拗ねたように口を尖らせながらそれでも嬉しそうに彼女へと微笑む。
「ごめんね、仕事中に」
「いいよ、見ての通り暇な店だしね。店長もずっと裏から出てこない」
だからこうしている事になんの問題もないさ、と言うように肩をすくめると、彼女が差し出した。ドリンクを受け取る。会計を済ませ、袋にそれを入れる。
奈々はそれを見ながら、彼の動きはいちいち落ち着いていて、それがとても似合うと、彼の様子を見つめた。コンビニは寂れているのになんだか彼がいるところだけ切り取ったかのように違う空気が流れているようだった。
「ねぇ、春日君。空気の味って分かる?」
「味?」
「うん」
「いや、感じた事はない。と言うか考えた事もなかった」
期待した答えとは違う返答に、彼女は少々がっかりしながら、袋を受け取った。もしかすると頷いてくれて、美味しい空気とはどんなもので、不味い空気を含んだ時、それがどれだけ不快になるか教えてもらえたりするんじゃないだろうか、などと想像していたのだが、そうは言ってももし本当にそうなったなら、きっとそういったものが分からない自分を思うと嫉妬してしまったかもしれないので、むしろ自分と同じでよかったと思う事にした。
「ねぇ、春日さん、私の奈々さん取らないでね」
「なに言ってんのよ」
「だって春日さんってもてそうだから」
「そんな事ないよ」
「もーくだんない事言わないの」
そんなやり取りを交わしている内に久しぶりと言っていい程その意味を失っていた自動ドアが開き、一人の男性が入ってきた。春日は二人の会話から離れるように「いらっしゃいませ」と言いそちらをみやる。男性は買い物に来たはずなのだが、入り口付近で立ち止まり、こちらのほうをやけにまじまじと見つめている。
どうかしたのだろうか、そう思いながらこちらからも彼に視線を送ると、彼はその視線に怯えるように目を逸らしきょろきょろとし、挙動不審な様子を見せていたのだがややあってなにか諦めたような表情を浮かべ、こちらへと歩み寄ってきた。
「……あの」
「はい?」
「……今日……面接で来たんですけど」
「あぁ」
店長から今日面接がある事を聞いてはいたのだが、予定していた時間よりも随分早く来たため彼がそうだとは思わなかったため、春日は若干抜けた返事をした。それを見て奈々が「可愛い」と言っているが無視して彼に尋ねる。
「面接ですね。名前、教えてもらえますか?」
そう尋ねると、彼は先ほどから変わらないそわそわとした様子で答えた。
「山田です……山田太郎」
駐車場からレジに立っている店員の様子をしばらく見ていたのだが、知り合いらしい女の子二人と話しているばかりで仕事をしているようにはとても見えなかった。見た目は小奇麗で、特別真面目そうにも不真面目そうにも見えないがそうやって職場で堂々と女の子と話している姿を見ていると、なんだかそれだけで彼と一緒に働く事になるのかもしれない、と言う事が憂鬱に思えてきて、太郎はこのまま面接をボイコットしてしまおうかとマイナスな思考を巡らせたが、なんとか自分を思い止まらせる事にした。
(……今のままじゃだめだって、決めたじゃないか)
そう自分に言い聞かせ、立ちすくんでいた自分に発破をかけ、何とか一歩を踏み出す。自動ドアが開くと、レジのところにいた三人に同時に見つめられたため彼は動揺し言葉を失ったが、店員の男はこちらが動き出すのを待っているように黙っていたためなんとか落ち着く事に成功すると「今日……面接で来たんですけど」と伝える。店員が「あぁ」と短い返事をし名前を聞いてくると「ちょっと待っていてください」と言い裏へと引っ込み、すぐに同じ制服を来たもう一人の男を連れて帰ってきた。
「あ、山田君ね、随分早く来たんだね。じゃあ裏のほうに来てくれるかな」
彼が店長のようだ、と山田は推察し言われるがままについていき店内に比べるとかなり狭い一室に通された。レジに立っていた男が自分のほうを見て軽く頭を下げてきたが、もし採用されなかったらと思うと彼が出来たのはそれに気がつかない振りをする事だけだった。
(もし落ちたらもうこのコンビニには来れないな)
後ろ向きな発想が出てくるのはきっとこの狭い部屋のせいだ、と自分に言い訳をしていると「じゃあ履歴書もらえるかな?」と手を差し出される。いつも使ってくたびれたバッグから昨日なんとか書き上げた履歴書が入った封筒を手渡すと店長はしばし無言でその紙切れを見つめていた。
(……高校中退、職歴なし)
今年二十二と言う事は四年以上なにをしていたのだろうか、とちらりと彼の姿を盗み見る。彼はどこか心ここにあらずと言った感じでこちらの視線にも気がついていないようだった。ぼってりとした小刻みに揺れる腹が彼の緊張を表していたが、なんだかそれが店長にはいまにも風船のように破裂するのではないかとそんな事を考えた。
「どうしてうちで働こうと思ったの?」
「は……はい、あの」
「うん」
履歴書の志望欄にはそれこそ高校生だって書けるような見る気も起こらないような定型文の羅列が並んでいる。
手のひらに汗がにじむ。
言わないと、なにか言わないと。
言わなきゃ。
僕は、変わりたいんです。働きたいんです。コンビニの店員なんて誰にでも出来る仕事かもしれない。
今レジに立っている男はなんて事のない仕事としてこなしているのかもしれない。だけど僕がそう出来るかどうかは分からない。
でも、始めたいんです。僕は、僕のスタートを切りたいんです。始めの一歩を、踏み出したいんです。今。
「…………」
そんな事言って、誰が頷いてくれる?
母が倒れた。
それは突然の事で、その日部屋に閉じこもっていた彼はそのバタリ、と言う音を聞いた時はきっと母がなにかを落としたのだろうと思い、しばらく部屋から出なかったが、ふと空腹を覚え台所に向かったところで床に倒れこみ微動だにしない母の姿を目撃した。
彼はあたふたと自分がなにをすればいいのだろうと動転する頭で考え、時折唸るような声を出す彼女の身体を何度かゆすったり呼びかけたりした後に、救急車を呼ぶ事を思いつき、それが済むと今度は父親へと連絡をした。内容を聞くと父親はしばらくしたら病院に行くと告げ、電話が切れた。
太郎は救急車が来る間、母の身体を抱きかかえ、その間、目を閉じている母の顔と、久しぶりに聞いたような気がする自分に向けられた父親の感情のある声を反芻させていた。
幸い軽い貧血だという事で太郎もやってきた父親も胸を撫で下ろしたが医者の「心労でもたまっていたんじゃないですかね?」の一言に二人は言葉を返す事も出来なかったし、太郎はその時父の顔も、医者の顔も見る事が出来なかった。
数日入院する事になりベッドで横になっている母は「ごめんね」と困ったように笑った。
謝る事じゃない。太郎はそう声をかけようとしたが、うまくそれを言う事が出来ず、そうしている間に父が口を開き、太郎はぽつんと取り残されたような気持ちになった。
「でも太郎が家にいてくれて助かったわ、ありがとね」
「……うん」
それだけ行って、彼はトイレに行くと言って病室を出た。広い院内でトイレを探すのは彼にとって一苦労で道を尋ねる事も出来ず彼はしばらくうろうろとさまよった。
なんとか辿り着き、用を足しながら自分は随分と長い間言葉を発していなかったようだと考えていた。思考している時、彼はいつも自分の声を音声として脳の中で聞いていたが、久しぶりに耳を使い聞いたその声はまるで喋る為の組織のどこかが退化してしまっていたかのように掠れてしまっていた。
そして同じようにさまよいながら病室へと戻ってきたのだが、ドアを開けようとすると向こうから両親の声がかすかに聞こえてきて、彼の手がぴたりと止まった。
「心労がたまっているんだろう、だそうだ」
「大丈夫よ、ちょっと最近疲れが溜まっていただけよ」
「……太郎の事で悩んでるんじゃないのか?」
「……そんな事ないわよ」
「あいつもいつまでもこのままふらふらさせている訳にもいかないだろう」
「大丈夫よ、あの子もいつかはちゃんとした大人になるはずよ」
いつか。
いつかって、いつだろう。
再び手のひらに汗が滲む。
逃げている自分。両親から逃げるように家から逃げる。逃げた場所で、自分を追い越してどんどん先に行ってしまう同年代を見かけてはまたそこから逃げ、自分の同類を探し、それらを見て安心を覚えながら、しかし現実に変わりがない事を思い知る日々。
太郎が家にいてくれて助かったわ。
本当に、そうだろうか。もし、今、違う自分が、違う山田太郎が彼女の息子として存在していたなら、今日彼女が倒れるような事はなかったのではないだろうか?
いつか。か
いつかを決められるのは、間違いなく自分しか、ここにはいなかった。
「……あの……」
「うん?」
「興味があったからです」
「コンビニの仕事? どんなところ?」
「あ、あの、商品の仕入れとかを自分達でやるというのを聞いて、そういうのを自分もやってみたいと思いました」
「あぁ、そうなんだ」
太郎はなんとか思いついた台詞をまくし立てる。その剣幕に店長は多少苦笑しながら彼のほうに向き直った。
「結構楽そうに見えたりするんだけどね、商品の陳列とか結構重いのあったりするけど大丈夫? 時間帯もフリーターだし深夜勤務お願いする事もあったりすると思うけど」
「は、はい、いつでも大丈夫です」
そう返事をした時、店に通じるドアがガチャリと開けられ「ちぃーす」と言いながら高校生くらいの少年が入ってきた。彼は座っている太郎の姿を怪訝そうに見つめてきたが「清春君、今面接中」と言うと彼は「あ、そうなんすか」と言い、バッグを適当に床に置くと制服を着込んだが、まだ勤務時間には余裕があるのか椅子に座り携帯電話を弄りだした。
「じゃあ合否の方はまた連絡します。多分一週間以内には連絡するよ」
「あ、はい、分かりました」
太郎はその言葉にどっと脱力感を覚えながら、同時に思っていたよりもシンプルで、こんなものなのかと思いながら立ち上がった。「じゃあ今日はありがとうね」と言う店長にお辞儀をして背を向け、その彼の姿を清春はちらりと見ると目が合い、太郎は彼にも軽くお辞儀をすると出て行った。
「なんかいかにもおたくって感じっすね」
「うん、そうだね」
「で、採用するんすか?」
「うーん」
「え、悩んでるんすか? 絶対取らないと思ったのに」
太郎の内心など知る由もない清春は、あっけらかんとそう言うと、店長は「でも今すぐ人が欲しいのは確かなんだよな」と頭をかいた。清春はテーブルに置かれた履歴書を覗き込む。高校中退、と書かれそれ以降空欄のそれを見て「どうせすぐやめるんじゃないんすか? ああいうの。春日さんとかは元社会人だししっかりしてて仕事の覚えも早かったからいいっすけど」と呆れたように言う。
「まぁ、すぐ辞めるならそれはそれでいいんだけどね、とりあえず様子見てみようかな、あんまり期待出来ないけど」
「うへぇ、俺ああいうタイプ苦手なんだよなぁ」
「そう言わずにとりあえず面倒見てよ。やめても清春君のせいとは思わないから」
「へいへい」
勤務時間が近づき、彼は立ち上がると店内へと向かい春日に向かって「お疲れ様ーっす」と声をかけた。清春から見て随分大人びていると思える彼は「おはよう」と落ち着いた返事を返した。
「面接見ました?」
「うん。見たけど」
「なんか俺ああいう陰気そうな奴嫌いなんすよ。あいつと二人で働く事になったらだるそう」
「僕もそんなに明るいわけじゃないよ」
「春日さんは全然いいっすよ。知ってます? 女の客が春日さんの方見てるの。結構多いっすよ」
「それは気がつかなかった」
軽く笑って答えると彼ははぁ、とため息を吐いた。
「もてる男はそういうとこあるよなぁ」
腕を上に上げ背筋を伸ばしながらあくびを一つこぼしながら目に涙を浮かべている清春の姿を見ながら春日は、つい先ほど出て行った山田と名乗った男のことをふと考えた。
どこか思いつめたような顔をしていたが、彼にとって採用されようがされまいがたいした事ではないものの、彼は彼なりに働きたいのだろうし、受かればそれなりに喜ぶのではないだろうか。彼からすれば共に働く相手がどんな人物かと言う事は些細な問題でしかなかった。
「……今度給料入ったら服買おうと思うんですよ。春日さんってなんか欲しいものとかないんすか?」
「欲しいもの?」
「そう」
考えてはみたが、特に思い浮かぶものはなかった。とりあえず今の貯金が減らない程度の生活費をまかなう事が出来れば不満はない。
満たされる事によって満たされる事もあるだろう。ただそれは満たされない事で不満を覚えるような人にのみあてはまる。自分はむしろ空っぽでいる方が気楽だった。
(……今のままじゃだめだって、決めたじゃないか)
そう自分に言い聞かせ、立ちすくんでいた自分に発破をかけ、何とか一歩を踏み出す。自動ドアが開くと、レジのところにいた三人に同時に見つめられたため彼は動揺し言葉を失ったが、店員の男はこちらが動き出すのを待っているように黙っていたためなんとか落ち着く事に成功すると「今日……面接で来たんですけど」と伝える。店員が「あぁ」と短い返事をし名前を聞いてくると「ちょっと待っていてください」と言い裏へと引っ込み、すぐに同じ制服を来たもう一人の男を連れて帰ってきた。
「あ、山田君ね、随分早く来たんだね。じゃあ裏のほうに来てくれるかな」
彼が店長のようだ、と山田は推察し言われるがままについていき店内に比べるとかなり狭い一室に通された。レジに立っていた男が自分のほうを見て軽く頭を下げてきたが、もし採用されなかったらと思うと彼が出来たのはそれに気がつかない振りをする事だけだった。
(もし落ちたらもうこのコンビニには来れないな)
後ろ向きな発想が出てくるのはきっとこの狭い部屋のせいだ、と自分に言い訳をしていると「じゃあ履歴書もらえるかな?」と手を差し出される。いつも使ってくたびれたバッグから昨日なんとか書き上げた履歴書が入った封筒を手渡すと店長はしばし無言でその紙切れを見つめていた。
(……高校中退、職歴なし)
今年二十二と言う事は四年以上なにをしていたのだろうか、とちらりと彼の姿を盗み見る。彼はどこか心ここにあらずと言った感じでこちらの視線にも気がついていないようだった。ぼってりとした小刻みに揺れる腹が彼の緊張を表していたが、なんだかそれが店長にはいまにも風船のように破裂するのではないかとそんな事を考えた。
「どうしてうちで働こうと思ったの?」
「は……はい、あの」
「うん」
履歴書の志望欄にはそれこそ高校生だって書けるような見る気も起こらないような定型文の羅列が並んでいる。
手のひらに汗がにじむ。
言わないと、なにか言わないと。
言わなきゃ。
僕は、変わりたいんです。働きたいんです。コンビニの店員なんて誰にでも出来る仕事かもしれない。
今レジに立っている男はなんて事のない仕事としてこなしているのかもしれない。だけど僕がそう出来るかどうかは分からない。
でも、始めたいんです。僕は、僕のスタートを切りたいんです。始めの一歩を、踏み出したいんです。今。
「…………」
そんな事言って、誰が頷いてくれる?
母が倒れた。
それは突然の事で、その日部屋に閉じこもっていた彼はそのバタリ、と言う音を聞いた時はきっと母がなにかを落としたのだろうと思い、しばらく部屋から出なかったが、ふと空腹を覚え台所に向かったところで床に倒れこみ微動だにしない母の姿を目撃した。
彼はあたふたと自分がなにをすればいいのだろうと動転する頭で考え、時折唸るような声を出す彼女の身体を何度かゆすったり呼びかけたりした後に、救急車を呼ぶ事を思いつき、それが済むと今度は父親へと連絡をした。内容を聞くと父親はしばらくしたら病院に行くと告げ、電話が切れた。
太郎は救急車が来る間、母の身体を抱きかかえ、その間、目を閉じている母の顔と、久しぶりに聞いたような気がする自分に向けられた父親の感情のある声を反芻させていた。
幸い軽い貧血だという事で太郎もやってきた父親も胸を撫で下ろしたが医者の「心労でもたまっていたんじゃないですかね?」の一言に二人は言葉を返す事も出来なかったし、太郎はその時父の顔も、医者の顔も見る事が出来なかった。
数日入院する事になりベッドで横になっている母は「ごめんね」と困ったように笑った。
謝る事じゃない。太郎はそう声をかけようとしたが、うまくそれを言う事が出来ず、そうしている間に父が口を開き、太郎はぽつんと取り残されたような気持ちになった。
「でも太郎が家にいてくれて助かったわ、ありがとね」
「……うん」
それだけ行って、彼はトイレに行くと言って病室を出た。広い院内でトイレを探すのは彼にとって一苦労で道を尋ねる事も出来ず彼はしばらくうろうろとさまよった。
なんとか辿り着き、用を足しながら自分は随分と長い間言葉を発していなかったようだと考えていた。思考している時、彼はいつも自分の声を音声として脳の中で聞いていたが、久しぶりに耳を使い聞いたその声はまるで喋る為の組織のどこかが退化してしまっていたかのように掠れてしまっていた。
そして同じようにさまよいながら病室へと戻ってきたのだが、ドアを開けようとすると向こうから両親の声がかすかに聞こえてきて、彼の手がぴたりと止まった。
「心労がたまっているんだろう、だそうだ」
「大丈夫よ、ちょっと最近疲れが溜まっていただけよ」
「……太郎の事で悩んでるんじゃないのか?」
「……そんな事ないわよ」
「あいつもいつまでもこのままふらふらさせている訳にもいかないだろう」
「大丈夫よ、あの子もいつかはちゃんとした大人になるはずよ」
いつか。
いつかって、いつだろう。
再び手のひらに汗が滲む。
逃げている自分。両親から逃げるように家から逃げる。逃げた場所で、自分を追い越してどんどん先に行ってしまう同年代を見かけてはまたそこから逃げ、自分の同類を探し、それらを見て安心を覚えながら、しかし現実に変わりがない事を思い知る日々。
太郎が家にいてくれて助かったわ。
本当に、そうだろうか。もし、今、違う自分が、違う山田太郎が彼女の息子として存在していたなら、今日彼女が倒れるような事はなかったのではないだろうか?
いつか。か
いつかを決められるのは、間違いなく自分しか、ここにはいなかった。
「……あの……」
「うん?」
「興味があったからです」
「コンビニの仕事? どんなところ?」
「あ、あの、商品の仕入れとかを自分達でやるというのを聞いて、そういうのを自分もやってみたいと思いました」
「あぁ、そうなんだ」
太郎はなんとか思いついた台詞をまくし立てる。その剣幕に店長は多少苦笑しながら彼のほうに向き直った。
「結構楽そうに見えたりするんだけどね、商品の陳列とか結構重いのあったりするけど大丈夫? 時間帯もフリーターだし深夜勤務お願いする事もあったりすると思うけど」
「は、はい、いつでも大丈夫です」
そう返事をした時、店に通じるドアがガチャリと開けられ「ちぃーす」と言いながら高校生くらいの少年が入ってきた。彼は座っている太郎の姿を怪訝そうに見つめてきたが「清春君、今面接中」と言うと彼は「あ、そうなんすか」と言い、バッグを適当に床に置くと制服を着込んだが、まだ勤務時間には余裕があるのか椅子に座り携帯電話を弄りだした。
「じゃあ合否の方はまた連絡します。多分一週間以内には連絡するよ」
「あ、はい、分かりました」
太郎はその言葉にどっと脱力感を覚えながら、同時に思っていたよりもシンプルで、こんなものなのかと思いながら立ち上がった。「じゃあ今日はありがとうね」と言う店長にお辞儀をして背を向け、その彼の姿を清春はちらりと見ると目が合い、太郎は彼にも軽くお辞儀をすると出て行った。
「なんかいかにもおたくって感じっすね」
「うん、そうだね」
「で、採用するんすか?」
「うーん」
「え、悩んでるんすか? 絶対取らないと思ったのに」
太郎の内心など知る由もない清春は、あっけらかんとそう言うと、店長は「でも今すぐ人が欲しいのは確かなんだよな」と頭をかいた。清春はテーブルに置かれた履歴書を覗き込む。高校中退、と書かれそれ以降空欄のそれを見て「どうせすぐやめるんじゃないんすか? ああいうの。春日さんとかは元社会人だししっかりしてて仕事の覚えも早かったからいいっすけど」と呆れたように言う。
「まぁ、すぐ辞めるならそれはそれでいいんだけどね、とりあえず様子見てみようかな、あんまり期待出来ないけど」
「うへぇ、俺ああいうタイプ苦手なんだよなぁ」
「そう言わずにとりあえず面倒見てよ。やめても清春君のせいとは思わないから」
「へいへい」
勤務時間が近づき、彼は立ち上がると店内へと向かい春日に向かって「お疲れ様ーっす」と声をかけた。清春から見て随分大人びていると思える彼は「おはよう」と落ち着いた返事を返した。
「面接見ました?」
「うん。見たけど」
「なんか俺ああいう陰気そうな奴嫌いなんすよ。あいつと二人で働く事になったらだるそう」
「僕もそんなに明るいわけじゃないよ」
「春日さんは全然いいっすよ。知ってます? 女の客が春日さんの方見てるの。結構多いっすよ」
「それは気がつかなかった」
軽く笑って答えると彼ははぁ、とため息を吐いた。
「もてる男はそういうとこあるよなぁ」
腕を上に上げ背筋を伸ばしながらあくびを一つこぼしながら目に涙を浮かべている清春の姿を見ながら春日は、つい先ほど出て行った山田と名乗った男のことをふと考えた。
どこか思いつめたような顔をしていたが、彼にとって採用されようがされまいがたいした事ではないものの、彼は彼なりに働きたいのだろうし、受かればそれなりに喜ぶのではないだろうか。彼からすれば共に働く相手がどんな人物かと言う事は些細な問題でしかなかった。
「……今度給料入ったら服買おうと思うんですよ。春日さんってなんか欲しいものとかないんすか?」
「欲しいもの?」
「そう」
考えてはみたが、特に思い浮かぶものはなかった。とりあえず今の貯金が減らない程度の生活費をまかなう事が出来れば不満はない。
満たされる事によって満たされる事もあるだろう。ただそれは満たされない事で不満を覚えるような人にのみあてはまる。自分はむしろ空っぽでいる方が気楽だった。
もう――それこそ彼女と出会う前から――慣れてしまった頬への痛みを感じながらヒッチコックは泣いている彼女を見た。彼女は家に帰ってきたとたん泣き出し、出迎えたヒッチコックに向けて手にしていたハンドバッグを投げつけると喚き散らしながら彼へと突進し、その身を突き飛ばした。女の細腕では彼を倒すには至らず軽くよろめいた程度だったが、それは彼女も分かっていたのかもう一歩近づくと乱暴に手を振り回し彼の身体を殴り続けた。そうしながら彼女は「最低」と言い、または「死ねばいい」とヒッチコックの知らない誰かの事を罵っていた。
「…………」
彼にとってはいつもの光景。
彼は、いつも誰かに殴られている。もうずっと昔から続いているからか、痛みを覚える事はあっても、それに表情を歪める事はなかったし、声を出す事もなかった。彼の中で、自分とはそういう存在なのだと思っているし、きっとそういう存在はこの世の中にそれほど多くもないと判断している。
自分以外の誰かへ向ける怒りを、それでもそのまま全て受け止めきる事。彼女達は、彼に遠慮をしない。きっと他の誰にも、そして本人にすら曝け出す事が出来ないその怒りを彼の前でだけ、何一つ隠す事無く曝け出す。
たったそれだけの事。だがそれを受け止めようとすれば、自分は空っぽにでもならなければ到底付き合いきれる事でもない。不条理な怒りを甘んじて受け入れる事などできない。表面上だけでなく心の底から先になにもない、ただただ純粋で乱暴な怒りと言う感情を向けられ続ける事。
(…………)
彼は静かに終わりが来るのを待つ。抵抗する事など叶う事もなかった幼かったあの頃と変わらない。
違うのは彼がそれを全て受け入れきった時、相手は今まで以上に彼に愛情を注ぐようになった事だが、彼はそんなものちっとも欲しくなかったし、ただ夜の仕事をしそれなりの収入を得ている彼女といれば自分は自堕落な生活を送る事になんの問題もないからそうしているだけだった。
傷と、金の、等価交換。
彼はそんな風に思う。それ以外の事はどうでもいい。自分はヒッチコックではなく、シェルダンと呼ばれていた事を彼は時の流れの中で忘れてしまっていたが、それはおろか本名すらなんの意味も持たない。
彼女の怒りがいつもよりも中々収まりそうになく、ヒッチコックはされるがままになりながらふと、先日会話を交わした男の事を思い出していた。自分によく似ていた男だった。
この世界になんの執着もなく、欲望や渇望と言ったものを何一つ持たない。そしてそんな生活に歓喜を抱くでも、絶望を覚えるでもなく、ただ亡羊と生きている。世界と関わりを持つ事をせず、全ては他人事だ、そしてどうでもいいからこそ、拒む事を知らない。いつでも無防備で、誰かが距離を縮めてくればそれを拒む事はしない。そして去っていけば、追おうともしない。
喜びも、悲しみも、傷も、愛も、全ては一過性のものだと思っており、それにいちいち自分の色を付け足して脚色する事もしない。当時の事を思い出して感傷に浸る事もしない。それを引きずって今の自分に疑問を呈する事もしない。常に自分は同じ立ち位置で、変わるのはその周りのものだけだ。自分は変わらない。
(彼女は僕を殴る時、いつも笑っていた。そして今、彼女は僕を泣きながら殴る)
だからそういう思いも、ただの比較でしかない。
現実は、ここにしかない。
過去は消える。
未来など見えもしない。
ただ、今ある現実を、無闇に自ら壁を作りそれを乗り越えようとしている他人に付き合う事もせず、今目の前の出来事を消化していけられればいい。
「いなくなっちゃえばいいのよ!!」
彼女の指先から伸びる長すぎる付け爪が、コントロールを失い彼の眼球にぶつりと触れた。その感触にようやく彼女は我を取り戻したのか「あ」と間の抜けた声を出し、ようやくその動きが止まる。
それほど深くではないが切れてしまった彼の眼球から、一筋の血が零れ落ちた。すっと頬を滑り落ちたそれはまるで涙のようでもあったし、彼と言う肉体からなにかが滲み出て消え去ろうとしているようでもあった。
「あ……ご、ごめんなさい、ヒッチコック」
「いや、大丈夫」
「でも、目から血が」
「そんなに深くはない、少ししたら止まるよ」
「でも……でも」
「いいんだ」
彼女は再び泣き出した。それは今度こそ彼のための涙で、そして自分を許すための涙でもある。
だからと言って自分にとってそれがなんになるというのだろう
彼は彼女を許す事もない。許さなければならない事などないのだから。
そして、自分のための涙など、必要ともしていないのだから。
それでも彼は泣きじゃくる彼女の肩にふれ、柔らかくその身体を撫で上げた。
きっと、彼女は今日の事をしばらくすれば忘れる。
不条理な傷を彼に負わせてしまったという傷だけを覚えて。そしてそれは彼が望むところでもある。
きっと、この部屋は暗闇に包まれている。彼女がどれだけ着飾り明るい色を敷き詰めたとしても。彼女と言う存在がその全てを崩壊させ、世界は光から闇へと暗転する。
だけどそれは彼女にとって光へと向かう一番の近道だ。
「…………」
彼にとってはいつもの光景。
彼は、いつも誰かに殴られている。もうずっと昔から続いているからか、痛みを覚える事はあっても、それに表情を歪める事はなかったし、声を出す事もなかった。彼の中で、自分とはそういう存在なのだと思っているし、きっとそういう存在はこの世の中にそれほど多くもないと判断している。
自分以外の誰かへ向ける怒りを、それでもそのまま全て受け止めきる事。彼女達は、彼に遠慮をしない。きっと他の誰にも、そして本人にすら曝け出す事が出来ないその怒りを彼の前でだけ、何一つ隠す事無く曝け出す。
たったそれだけの事。だがそれを受け止めようとすれば、自分は空っぽにでもならなければ到底付き合いきれる事でもない。不条理な怒りを甘んじて受け入れる事などできない。表面上だけでなく心の底から先になにもない、ただただ純粋で乱暴な怒りと言う感情を向けられ続ける事。
(…………)
彼は静かに終わりが来るのを待つ。抵抗する事など叶う事もなかった幼かったあの頃と変わらない。
違うのは彼がそれを全て受け入れきった時、相手は今まで以上に彼に愛情を注ぐようになった事だが、彼はそんなものちっとも欲しくなかったし、ただ夜の仕事をしそれなりの収入を得ている彼女といれば自分は自堕落な生活を送る事になんの問題もないからそうしているだけだった。
傷と、金の、等価交換。
彼はそんな風に思う。それ以外の事はどうでもいい。自分はヒッチコックではなく、シェルダンと呼ばれていた事を彼は時の流れの中で忘れてしまっていたが、それはおろか本名すらなんの意味も持たない。
彼女の怒りがいつもよりも中々収まりそうになく、ヒッチコックはされるがままになりながらふと、先日会話を交わした男の事を思い出していた。自分によく似ていた男だった。
この世界になんの執着もなく、欲望や渇望と言ったものを何一つ持たない。そしてそんな生活に歓喜を抱くでも、絶望を覚えるでもなく、ただ亡羊と生きている。世界と関わりを持つ事をせず、全ては他人事だ、そしてどうでもいいからこそ、拒む事を知らない。いつでも無防備で、誰かが距離を縮めてくればそれを拒む事はしない。そして去っていけば、追おうともしない。
喜びも、悲しみも、傷も、愛も、全ては一過性のものだと思っており、それにいちいち自分の色を付け足して脚色する事もしない。当時の事を思い出して感傷に浸る事もしない。それを引きずって今の自分に疑問を呈する事もしない。常に自分は同じ立ち位置で、変わるのはその周りのものだけだ。自分は変わらない。
(彼女は僕を殴る時、いつも笑っていた。そして今、彼女は僕を泣きながら殴る)
だからそういう思いも、ただの比較でしかない。
現実は、ここにしかない。
過去は消える。
未来など見えもしない。
ただ、今ある現実を、無闇に自ら壁を作りそれを乗り越えようとしている他人に付き合う事もせず、今目の前の出来事を消化していけられればいい。
「いなくなっちゃえばいいのよ!!」
彼女の指先から伸びる長すぎる付け爪が、コントロールを失い彼の眼球にぶつりと触れた。その感触にようやく彼女は我を取り戻したのか「あ」と間の抜けた声を出し、ようやくその動きが止まる。
それほど深くではないが切れてしまった彼の眼球から、一筋の血が零れ落ちた。すっと頬を滑り落ちたそれはまるで涙のようでもあったし、彼と言う肉体からなにかが滲み出て消え去ろうとしているようでもあった。
「あ……ご、ごめんなさい、ヒッチコック」
「いや、大丈夫」
「でも、目から血が」
「そんなに深くはない、少ししたら止まるよ」
「でも……でも」
「いいんだ」
彼女は再び泣き出した。それは今度こそ彼のための涙で、そして自分を許すための涙でもある。
だからと言って自分にとってそれがなんになるというのだろう
彼は彼女を許す事もない。許さなければならない事などないのだから。
そして、自分のための涙など、必要ともしていないのだから。
それでも彼は泣きじゃくる彼女の肩にふれ、柔らかくその身体を撫で上げた。
きっと、彼女は今日の事をしばらくすれば忘れる。
不条理な傷を彼に負わせてしまったという傷だけを覚えて。そしてそれは彼が望むところでもある。
きっと、この部屋は暗闇に包まれている。彼女がどれだけ着飾り明るい色を敷き詰めたとしても。彼女と言う存在がその全てを崩壊させ、世界は光から闇へと暗転する。
だけどそれは彼女にとって光へと向かう一番の近道だ。