Neetel Inside ニートノベル
表紙

賭博天空録バカラス
17.揺らめく影

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 精気が吸い取られていると思った。
 身体は火照っているのに、うなじのあたりだけすうっと冷たい。
 そこから自分の命がこぼれだしている。
 そんな幻覚を感じてしまうほど、鴉羽風彦は憔悴していた。
 カジノのオーナー、狗藤たちと高レート麻雀を始めてから一週間が経過していた。
 十半荘ごとの休憩の間は軽い食事とシャワーで終わり、その隙間を縫って浅い眠りに落ちるだけの睡眠では、初老の身体はロクに回復してくれなかった。
 目だけがゴロゴロして、それ以外の部分は油の切れた機械のごとく緩慢だ。
 疲労しているのは鴉羽だけではなく、他の三人も同様だった。
「ハコテンにならなきゃ、いつまで打って頂いても結構ですよ」
 なんて最初に吹いていた狗藤はベッドに転がったまま動かない。
 腕で目を覆っているのは頭痛を覚えているためかもしれないな、と鴉羽は虚ろな頭でぼんやり思った。
 部屋の中には四人分のベッドが等間隔の距離を置いて設置されている。
 イブキと呼ばれていたお下げの少女は立て膝を立てて目を伏せていた。絹のように細い前髪が額を覆っている。
 戦を控えた侍のような静謐さだ。
 どうすればもっとも効率よく身体が回復するか知っているのだろう。
 ただぼんやりとしているだけの自分とは大違いだ。
 格闘家は食べることもトレーニングというらしいが、博打打ちにとっては集中を保つための憩いさえガソリンの補給か何かと同じで、心緩める時ではないのだろう。
 その凄烈さを前にして、鴉羽は身を縮めて萎縮しきっていた。
 自分など完全に場違いで、同じ卓に座ることもおこがましく思える。
 だが、許されなくたって自分に逃げ道など初めからないのだ。
 負け続けた借りを返さなければならない。
 そして、自分は幸運にもこの土壇場で、まだその希望を捨てなくていいらしい。
 時計を見るとそろそろ休憩が終わる頃合だった。
 狗藤やイブキが身を起こし始めた。
 卓に顔を向けると、華奢な少女が革張りの椅子にもたれて眠っていた。
 白いスーツに白い髪。異なる色はワインレッドのシャツと、瞼の向こうの琥珀色の瞳だけ。
 闇の中にぽっかりと浮かび上がった舞台で、彼女――嶋あやめは凍りついたように停止していた。
 一見すればベッドで休まないのは単なる意地のようにも見えるが、イブキと同様、自分を痛めつけてでも勝つという信念ゆえの選択なのだろう。
 それに比べて鴉羽たち男性陣は休憩の度、ベッドに辿り着くだけで精一杯だった。
 本来ならば、こんなにも長引く予定ではなかったのだろう。
 狗藤の苛立たしげな表情を見れば一目瞭然。
 そう、驚いたことに。
 自分はこのメンツの中において、善戦しているのだった。
 アガってアガってアガりまくる。平均テンパイ速度が四順前後。愚形なし。
 もちろん鴉羽はイカサマなどしていないし、できるはずもなかった。
 卓に着く時にそっとシマの横顔を盗み見た。向こうもこちらを見ていた。
 げっそりこけた頬とギラギラ輝く目は、きっと四人に共通した特徴。
 場決めの東南西北を抜き取りながら、鴉羽はチラリと思った。
 誰かに守られているようなこの勝ち積もりは、果たして偶然のものなのだろうか。
 疑問を吟味する暇もなく、新たな半荘が始まった――。


 ×××××


 階段の曲がり角で女子生徒と正面衝突してしまった。ふんわりとシャンプーの匂いが散った。
 明らかにスピード違反をしていたのは向こうだと思うのだが、彼女はきっとこちらを睨み分散してしまった書類をかき集めると走り去っていった。
 僕は尻餅をついたまま呆然と彼女の細い二の腕に巻かれている生徒会の腕章を眺めていた。
 去年まであんな自己アピール甚だしいアイテムは義務化されていなかったのだけれど、今年の生徒会長の白垣は何かと異端児で、ホイホイとなんでも改革してしまう。
 それに反感を持つ人も多い。
 かく言う僕もその一人だ。スカート丈の長さを短く規定するなんて公私混同の鑑に他ならないだろう。
 だが会長の暴走はそれで止まらないらしい。
 転校生に手を出して空気の読めない告白をしたり、体育祭を勝手に自分の勝負事に巻き込んだり。
 今の生徒会役員が全力疾走する原因もきっと彼に違いない。
 廊下の窓から校庭を見下ろすと、どこかのクラスがムカデ競争の練習をしていた。
 だるそうな男子生徒を一部の女子生徒が焚きつけているが、その効果はそよ風よりも弱々しい。
 これから夏が来るというのに、最後の涼しく過ごせる時に走り回らなきゃいけないというのは、一般的な高校生にとって気が重いことなのだ。
 ふと、彼女も今、どこかでだるさを覚えているのかな、と思いを馳せた。
 たった一晩の同居人……あれから音沙汰はまったくない。どこでなにをしているのやら。
 僕がのんびりと放課後の凪に身を浸していると、足を蹴られた。
「おいラッキー、暇そうなので仕事をやろう」
「わっ、鬼蜘蛛」
「ああん?」
 ギロリと睨みつけられて、僕は縮み上がった。素直に平身低頭するばかりだ。
 満足げに雲間鼎は頷いて、白い粉の詰まった袋を押し付けてきた。
 ずしっと腰に来る重さがのしかかってくる。
「吸うんじゃないぞ。じゃあそれ、倉庫に運んでおいて」
「え? は?」
「こっそり掃除サボってここにいんの知ってんだぞ。ちったァ協力しなさい。じゃね」
 僕の抗議などどこ吹く風、雲間は手をひらひらと振って去っていってしまった。
 せっかく今日は黒板消しという、目立たない役だったから抜けてきたっていうのに。
 ため息をついて、白線引きの粉を抱え直した。





 校舎は差し迫った体育祭に向けて、ざわめきが木霊のようにどこからでも聞こえてくるようになっていた。
 頻繁にすれ違う同級生たちに挨拶を飛ばしていると、見知った顔に出くわした。
 仏頂面をして腕を組んで歩いてきた宮野怜は、怪しげな袋を抱えた僕に気づくと立ち止まった。
「ああ、ラッキー。お手伝い?」
「うん」僕はよいしょと袋を抱え直した。「鬼蜘蛛に押し付けられた」
 宮野さんは道端の小石を見るような風情で「可哀想に」と言った。嘘つけ。
「まァでも、頼んだらなんでも断らずに引き受けてくれるラッキーはホント役に立つわよ」
「いやーそれほどでも」
 褒められてしまったが、どこか宮野さんの笑顔に含みがあるように見えるのは僕の疲れが原因だろうか。
 宮野さんは眼鏡のつるを優雅に押し上げると、手をひらひらと振ってみせた。
「じゃあ、頑張ってねラッキー。暇だったら生徒会を手伝ってよ。
 こないだの泥棒騒ぎで、もうずっと蜂の巣突いたみたいになってるから」
「泥棒騒ぎ?」
 聞き返した時にはもう、宮野さんの背中は遠くなってしまっていた。
 生徒会室に泥棒が入ったのだろうか。盗むようなものなど何もないはずだが……。
 まさかとは思うが白垣会長が密かに作っている『全校生徒完全マニュアル』が狙われたのだろうか。
 成績から身体データ、果ては誰が誰に好意や敵意を持っているかまで表記されているという伝説があるが、実在したとしたら確かに見てみたい。
 もっとも僕は臆病だから、手に入れたとしても部屋に飾っておくか捨ててしまうかして、結局目を通すことはしないだろうけれど。
 自分がされて嫌なことを、人にするほど僕は堕ちちゃいない。






「おうい、ラッキー、テント貼るの手伝ってくれよー」
 校舎側のグラウンドに、教職員や来校者のためのテントが分解されて散らばっていた。これから組み立てるらしいが、残念ながら僕には白い粉の運び手という役割がある。
 僕は門屋に大声で叫び返した。
「知らないよ! 門屋にはカガミさんがいるだろォ」
 そうだそうだ、と周囲から野次が飛んで門屋の猿顔が真っ赤に染まった。
「ま、まだ決まったわけじゃ……うるせーお前ら、黙ってろっつの! ばーか!」
 グラウンドの土を蹴り上げて友人軍団を追い払っている門屋を微笑ましく思う。
 白垣会長じゃなくて、門屋がカガミさんと付き合えばいいな。うん、それがいい。
 この間、ドーナツ屋で見かけた時も息が合っていたし。
 二人が付き合う姿を脳裏に思い描いてみた。
 最初は遠慮がちだった二人が徐々に近づいていく内に、あのカガミさんの鉄面皮もマシュマロみたいに綻んでいくのだ。
 その光景は、他人の僕さえ幸せにしうるものだった。
 この世のすべてを祝福するかのように、ブラスバンド部の演奏が音楽室から校庭を軽やかに渡っていく。

 夕日を鈍く照り返しているオンボロ体育倉庫の前に鼻歌混じりで辿り着き、僕はさっそく中に白線引き用の粉を運び込もうとした。
「――で、どんな気分だった?」
 咄嗟に声も上げず、壁に張り付いたのは我ながら賢明だった。
 中にいる彼女に気づかれた様子はない。
 なぜ隠れなくてはならないのか、自分でも説明できない。
 彼女の邪魔をしたくない、と無意識に思ったのかもしれない。
 鴉羽ミハネは、誰かと話しているようだった。
 相手の姿は一瞬しか見えなかったので分からないが、学ランを着ていた。
「気分?」その男子生徒の声は、ひび割れたノイズを思わせた。
 上ずった声が、その人物の皮肉屋な性格を雄弁に語っている。
「どの気分のことかな。お前にカモられたことか、崖から落ちたことか、それとも告白されたときの気分か?」
 男子生徒の余裕さに腹が立つのか、ミハネは重く低い声で答えた。
「人の父親を唆して、あんな場所に叩き落とした時の気分のことよ」
「ああ、それか」彼の口調から、こいつ分かってたんだな、と僕は感づいた。
「嫌な気分だったぜ。オレは止めたんだがな、お前の親父さんがどうしてもっていうんでな」
「……何言ってんの? ふざけてると殺すわよ」
「怖いなァ。そうカリカリすんなって。
 オレも色々と苦労したんだぜ? 親父さんからお前に話が伝わるとマズイと思って、口調を変えたり眼鏡かけたり。あとちょっと髪梳かしたかな。
 ま、あんま役には立たなかったみたいだが」
「……。そして、あたしを、まんまと追い詰めたってわけだ。
 どこからあたしは、あんたのシナリオに乗っかっていたわけ?」
「そうだな……とりあえず、オレが負けたあの日。
 あれより前に、オレはお前の親父さんと接触してたよ」
 息を呑んだミハネが、何かにぶつかったようだ。跳び箱ではなかろうか、と僕は推測した。
「……冗談じゃないわ。聞かなきゃよかった。
 じゃあアンタはハメられてるって知ってて、あたしの誘いに乗ったのね」
「まだハメられてる証拠があったわけじゃねえが、親父さんの周辺が真っ黒だったからなァ。疑いもするさ。
 元々、オレに告白なんざおかしいと思ってたんだ。性格の悪さはこれでも自認してんだよ。
 で、試しにお前の身辺を洗ってたら案の定……だ」
「……アンタが人間不信の落伍者のクズってことは分かった」
 おいひどくないか、と反論する男子を無視してミハネは続ける。
「あたしを信じてなかったなら、どうしてわざわざ誘いに乗ったの。理解できない」
「お前は唾を吐きかけられたら、殴りたいと思わないのか」
 当然だろ、と言わんばかりの彼を僕が殴りたくなった。
「ムカつきはしても、ホントに殴ったりしないわよ。メリットがない」
「メリットね。今回のことに関しちゃ、一応メリットがあるぜ」
「なに?」
「それは秘密だ。運が良ければ分かるだろうな」
「……言うことを一つ聞くとかいう、あれ?
 ホント、この、ゲス野郎――」
「ヘッ、人を陥れて手っ取り早く金稼ごうってのはゲスじゃねえってのかよ」
「…………」
「ま、いいさ。何、お前の親父さんだって打ち筋は悪くない。
 さっきイブキに連絡したら、ちょっと浮いてるそうだ。
 やったな鴉羽。こっから応援してやれよ、パパがんばれーってな」
「ちょっと待って。……なんでイブキとアンタが知り合いなのよ」
「言ったろ、あの夜にもうオレはこの絵を描き始めたんだ。
 お前にアッパー喰らった後、オレは帰り道でイブキと会って話をしたんだ。色々事情を教えてくれたよ」
「なんでイブキが……」
 その問いかけに、ふざけていた男子生徒の口調がやや沈んだ。
 僕はその時、彼の仮面がほんの一瞬だけずれて、冷たい本当の顔が覗いたような気がした。
「そこがオレにも分からない。ま、あの狗藤ってヤツの人徳不足ってとこだろ。
 とにかくオレはイブキから、あの場所のことやお前らの詳しい事情を聞けたってわけだ。
 綱渡りの連続で正直、段取りだけでヒヤヒヤしたが、まァなんとかなった。
 ――おいおい、そんなに睨むなよ。
 分かんないぜ? お前のオトン、このまま勝っちゃうかもしれないんだから。
 そうなりゃ借金はチャラ、バラ色じゃないか。
 信じてやれよ、娘だろ」
 体育倉庫の壁越しに、ミハネの怒気がびりびりと伝わってきた。僕の背筋が冬の朝に放り出されたように震えた。
「あたしはあいつの娘なんかじゃない。誰があんなやつ……。
 二度とそんな風に呼ぶな、この人格破綻のキチガイヤロー」
 ――僕は慌てて壁を回りこみ、出入り口からの死角に入った。すぐにミハネが出て行った気配がする。
 彼は中に残るのかと思いきや、呟きを残してさっさと校庭を横断していってしまった。
「ひどい言われようだな。ま、その通りだけどよ。
 ……ああ、待ちきれないぜ、本番が。
 ったく……つくづくバカだな、オレも」

 正直に言って、僕には事情がよく分からなかった。
 それでも、この男子生徒は良くない。それだけは確かだ。
 何が、と聞かれても答えられないが……少なくとも、あいつは。
 人を幸せにできるやつじゃない。

 去っていく彼とミハネの影が夕日に長く伸びて、揺らめいていた。

       

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Neetsha