体育祭を翌日に控えた金曜日。
予行を終えた生徒たちは堅苦しい整列を崩して方々へ散っていった。
どこへいくのも億劫だが、どうせなら家で寝転んでいた方がまだいくらか楽だから帰る、そんな心の声が聞こえてくるようだ。
もちろん、中には明日の祭りを心待ちにしている者がいないでもなかったが。
五月も末の斜陽を浴びて、校庭は充血したように赤く染まっている。
加賀見空奈と雲間鼎の二人はまっすぐ下駄箱へは向かわずに、八階建ての校舎を登っていった。
「まったくさァ、エレベーターぐらい付けろっての。前日から筋肉痛になるわい」
「エレベーターがあったら、すぐ着くね」
「いや疲れるでしょその前に。ったく、八階までどうやってピアノ運んだんだか……。
白垣も会長やってんなら学校にエレベーターぐらい作れって要求すりゃあいいんだよ」
「で、今度は工事がうるさいとか言うんでしょう、鼎」
あっはっは、と鼎は笑った。もちろん。
カガミは白垣会長のことを気の毒になって、生徒会室がある方角に顔を向けた。
恐らく今頃はそわそわと室内を歩き回っているのではなかろうか。
「でもさ、かがみんを呼び出すなんて無礼を働いたんだから、それぐらいやらせたっていいんだよ」
カガミはジャージのポケットから四つ折りにした紙を取り出した。
そこには達筆な筆ペンで『招待状 白垣真』と書いてある。
朝、下駄箱の中に投函されていたものだ。
上履きの中に入れてあったので、危うく踏んでしまうところだった。
カガミの手からひょいっとそれを抜き取った鼎は、ひらひらとそれをハンカチのように振る。
「やり方が古いっていうか分かりづらいっていうか、あいつらしいなァ」
「鼎は、白垣くんと友達なの?」
何気ない質問だったが、鼎はぴくっと唇をひくつかせた。
「友達ってワケでもないけどね。ま、幼稚園の頃からの知り合いだし。
あんま喋んないけど会えば気遣ったりはしない感じ」
鼎が気を遣う相手なんているのだろうか。
「幼馴染? なんだか羨ましい」
カガミには、昔の自分を見知った存在が家族しかいない。
一緒に育てられた同胞たちは、もう誰一人として残っていない。墓さえない。
これで家族を失ってしまえば、幼い頃の自分が存在したことを証明してくれる人は誰もいなくなる。
それはきっと、恐ろしいことだと思うから。
「いや、昔の自分を知られてるってのも怖いもんだよ。
忘れてたようなバカなことを相手がしつこく覚えてたりするからね。
ホントにそれあたし? って思うことも結構あるし」
「鼎はどんなバカなことしてきたの」
「ああそれはね――って言うわけないじゃんっ!
なんて流れるような誘導尋問。あんたのダンナは浮気できないねぇ」
「ダンナ……」
噛み締めるようにその言葉を口の中で転がしてみたが、あまり実感は湧かなかった。
家族を作る、ということが上手に想像できない。
そもそも家族とは何だろう。
一緒に暮らしていれば家族なのだろうか。
毎日顔を合わせていれば家族なのだろうか。
自分は、父親も、妹も、家族と思えているのだろうか。
放れて暮らし、心も遠く、そんなままで家族だと胸を張っていえるのか。
窮地に駆けつけることができるのか。
自分は、誰かを家族だと思えるのだろうか。
いくら眺めていても、床にも鼎の横顔にも答えなんてあるはずもなかった。
生徒会室の扉は刷毛でニスでも塗ったようにテラテラと光っていた。
しかしよく見ると細かい傷がいくつもついている。
縁の下の力持ち、という単語が脳裏をよぎった。
鼎が乱暴に脚で三回ノックしてからドアノブを捻った。
ずいっと部屋の中に押し入っていく。
「うぃーっす。わわわ忘れ物、っと」
「き、き、き」生徒会長は厚い唇をわななかせている。
「君を呼んだ覚えはないぞ、雲間鼎! あとこないだ借りたハルヒは驚愕が出たら返す」
「利子が転がってることを忘れんなよ。
……相変わらず汚いなァ。宮野さんがまた怒るんじゃないの」
生徒会室には他の役員の姿はない。
前日となっては、もうプログラムも完成していて仕事など残っていないのかもしれなかった。
コの字型になった机の奥、ホワイトボードの前で白垣は大量の書類に埋もれながら眼鏡のつるを押し上げた。
切れ者風の仕草だが彼がやるとどこか愛らしい。
「か、彼女がいる時はちゃんと片付いている。
僕が散らかす度に片付けてくれるからな。でもさっき帰ってしまったから」
「この有様ってわけね。あんたの部屋もかなり汚いんだろうなァ。
ねぇ、かがみん」
顔中シワだらけにした不気味な笑顔で鼎が振り返ったので、カガミは一歩引いた。
「こんなだらしない男と付き合うなんて嫌だよねぇ?」
いきなりの直球ストレートに口に何も含んでいないはずの白垣が噴出した。
「ちょ、おまっ!」
「ね、こいつなんてやめとこーよ、かがみん」
カガミは周囲をきょろきょろと見回すと、制服の袖を少しまくった。
何事かと目を見張る二人に頷いてみせる。
「掃除は得意」
じゃあもう勝手にいちゃついてろよあたしはもう知らん帰る時教えてかがみん、と矢のように言い捨てて扉をたわむほど叩きつけて鼎が出て行ったのが三十分前。
机の上、誰かが零したジュースやお菓子のカスは綺麗に拭い取られ、幾層も積もっていた床のホコリは跡形もなく抹消されていた。
その代わり、白垣が大切に保管していた月間の麻雀誌は「どうせ読まないだろうから」とビニール紐でくくられて隅に塔となって落ち着いていた。
喜ぶべきか悲しむべきか、やるせない表情で白垣はそれを見上げていたが、思い直したのかぶんぶん首を振って礼を述べた。
珍しくつっかえなかった。
今、二人はポットに残っていたお茶をずず……と啜っている。
「すまないね、こんなことさせてしまって。お持て成しもできないけど、まァゆっくりしていってくれ」
「いい。楽しかったから」
「見事な手際だったよ。君は確か、一人暮らしだったかな」
「うん。よく知ってるね。驚いた」
「ほう――」白垣は瞬きしてカガミの顔を見つめた。
「それが君の驚いた顔か。
……僕は生徒会長だから、この学校に通う人たちのことならほとんど知ってるよ。
いや、知ってるから生徒会長になったというべきかな」
「それが、会長になった理由?」
「うん。僕がなんで会長やってるか不思議だったかな?
元から人を眺めるのが好きでね。子どもの頃からクラスメイトのプロフィールをノートに作ったりしてた。
成績とか運動神経とか、体重のデータとか……あと株価みたいに、気持ちに関するグラフも作ってたな。
今日は機嫌がよさそうだぞ、とか、あの子は昨日先生にこっぴどく怒られたからまだ不機嫌そうだな、とかね。
生徒会長になっても、僕がやることはそれをクラス単位から学校単位に拡大しただけ」
お茶の面に、カガミの顔が膨らんで揺らめいている。
「……この学校の生徒、全員分?」
「うん、教師もかな」
「それで、私のも?」
「ああ、もちろん、転校してきた時から気になってたんだ。
いや君の情報を探すのは大変だった。なにせ転校前の情報が一切ないから」
カガミはすぅ……と息を呑んだ。
「間が悪いことは続くものでさ、ちょうど君が来る少し前に身体測定だったんだよ」
「それで?」
「目測と目撃証言だけで三つのデータを完璧に近づけるのは大変なさぎょ」
すべてを言い終わらせる前に、愚かな白垣の身体は宙を舞っていた。
捻り、キレ、スピード、どれをとっても文句なしのエルボーが鼻っ柱に突き刺さり、白垣真はホワイトボードに激突し、ずるずると滑り落ちて大の字に伸びた。
カガミの肘鉄を食らって鼻血ひとつ出さなかったのは、彼のプロフィールに特記しておくべき事項になるだろう。
さてバカは置いて帰ろうと席を立つと来訪者があった。
前髪が長すぎて鼻のあたりまで覆っている男子生徒で、その隙間越しに両目が覗いている。
彼は昏倒している生徒会長を一瞥したが、大して興味もないらしかった。
大騒ぎされたらどうしようかと思案していたカガミは、その様子にほっと肩を撫で下ろした。
「また会長がなんか言ったんだろう。この人は言わなくていいことばかり言うからな」
彼は自分もここの役員だ、と名乗った。
「ごめんなさい。会長に用意があったんでしょう」
「いや、いいんだ。置手紙のひとつで済むことだから。明日、休むっていう連絡だけ」
「なにか用事でも?」
「ちょっと家の後片付けをしなくちゃいけなくてね。しばらく来れそうもないんだ」
前髪の男子はその旨を記したメモを白垣の口に詰め込むと(窒息しないようにさりげなく気道を確保していた)何事もなかったかのように出て行った。
生徒会室を出ると、すっかり日は暮れて廊下は闇に飲まれかかっていた。
だから窓枠に腕を乗せて、中空を見つめている鼎が急に浮かび上がったように見えて、ほんの少しぎょっとした。
鼎、と呼びかけると彼女は振り向いて片眉を上げて見せた。
「ね、変なこと言われたでしょ」
「粛清した」
「うむ、お後がよろしいようで。じゃあ帰ろうか。晩御飯なに食べたい?」
「そのセリフは作る人が聞くものだと思う」
「やだなー深読みしすぎだよ。ところでハンバーグとトンカツってさ、なんであんなに合うんだろうね」
「わかった」
カガミは軽く息をついて時計を見た。
「商店街に寄ろう」
「ああ、ホント、あたし男だったら絶対あんたに惚れてるわ……」と鼎に言われて、カガミは少し歩調を速めた。
商店街を鼎と一緒に巡って買い物を済ませると、すっかり夜になってしまっていて、これから夕飯を作るとなると少し遅くなってしまいそうだった。
「ごめん、鼎。付き合わせちゃって」
「あ、こんちはー。えへへ、そうでしょそうでしょ。……ん、かがみん何か言った?」
オモチャ屋のおじさんに挨拶していて耳に入らなかったらしい。
「知り合いなんだ」
「ああ、この商店街はあたしの庭みたいなもんだからね。
ガキの頃から走り回ってたし、知らない顔はいないよ」
そういえば白垣を尋ねる前に似たような話をしていたな、とカガミは思い出していた。
「カガミってさ、子どもの頃はどこに住んでたの?」
「山奥。地名は、よく覚えてない。小さかったから。
その後は、父さんの都合で転々としてた」
「ふうん、そうなんだ。かがみんののんびりした気性は田舎仕込ってことだね」
「のんびり?」そんな形容詞を使われたのは初めてだった。「私が?」
「他に誰がいんのよ。あんたほどノンキなやつ、あたしの友達には他にいないっての」
牛丼屋のガラスに、自分の顔が映っているけれど、のんびりなんていう形容詞よりは暗いや怖いが似合いそうな無表情が見つめ返してくるだけだ。
もっとこう、柔らかい表情をした人がのんびりしているのだと思っていたものだから、鼎の唐突な指摘にカガミは内心でかなり狼狽していた。
こんな些細な発見も、この街に来なければ埋もれていたのだろうか。
そう思うと、この道へ進まなかった自分というものが、どこか空恐ろしく感じられるのだった。
塾帰りらしい子どもがランドセルとは違ったカバンを携えて少し前を歩いていた。
その背中はどこかくたびれていて、子どもらしい若々しさが痛めつけられた結果のように感じられ、カガミは目を逸らした。
「鼎って」
「うん」
「昔からここに住んでるんだよね」
「きっと骨もここに埋まると思うよ」
「だったら」なぜか息が詰まった。
「天馬が、どうしてあんなに嫌われてるのか、知ってる?」
ちょうど商店街を抜けて、薄暗い住宅地へ踏み出したところで、鼎は肩越しにカガミを振り返った。
眼鏡のレンズが街灯を反射して、その奥がよく見えない。
「そういえば、カガミってあいつと知り合いなんだっけ」
友達、と訂正すると鼎は肩をすくめた。
彼女らしくない皮肉げな仕草だった。どこかの誰かさんのように。
いつも一緒にいる鼎にだけは、天馬とのことを少しだけ打ち明けていた。
とはいっても、自分の素性やそれに関わる彼との出会いを話すわけにはいかずに、いくらか都合よく改ざんしていたのだが。
鼎が天馬のことをよく思っていないのは知っていた。
いや、クラスの誰もが天馬に対して静かな反発を放っていた。
それがなぜなのか、カガミには分からない。
「細かい逸話はね、いくつか耳にしてると思う。女子を突き飛ばしたとかエンピツ取ったとかね。
でも、そんなことは実はどうでもいいんだ」
「なら、どうして」
「中学の頃、転校してきた子がいてさ。カガミと同じように田舎で育ってきた子で、茶道が趣味の落ち着いた子だった。
その子が、天馬を見るなりこう言ったんだ」
鼎の背中は石よりも硬く見えた。
「あの人、宇宙人みたい――ってね。それであたし、長年の謎が解けた。
あいつ、何か似てると思ったら、宇宙人に似てるんだ」
「鼎は」カガミは慎重に言葉を選んだ。「宇宙人を見たことがあるの?」
冗談みたいな質問だったけれど、彼女は真摯な声音を崩さなかった。
「ないよ。あくまで、あたしの中にある宇宙人というイメージに、あいつがぴったり符号するってだけ」
「でも天馬は八本足でもないし、肌が銀色でもない」
「眼だよ」
「眼?」
「あの眼……」
鼎は自分の身体を覆うように腕を抱えた。五月の夜、寒空の下にいるかのように。
「何もかも見通してるような、黒い眼だよ。
何を考えてるのか分からないし、なんていうか、今にも爆発しそうな眼。ちゅどーんて。
何もかも、ぶち壊しにしちゃいそうな、不気味で嫌な感じ……」
「もういい」
「そう、宇宙人っていう形容はホントにピッタリだった。
だって、それは、異物ってことじゃん。侵略者って意味じゃん。
本当にあいつに、お似合いの……」
「もういい、鼎」
鈴を鳴らしたように凛としたカガミの声に、鼎の背中が小さく震えた。
「ごめん、カガミ。ちょっと熱くなっちゃったみたい。
でも、あたしや、クラスの連中はみんな、多かれ少なかれ、そう思ってる。
目立たないやつで、何ができるってわけでもないのに……人を不安にさせるんだ、あいつは。
だから嫌われるし、避けられるし、傷つけられる。
あたしが言えるのは、それだけ」
「もうやめよう、この話は」
「そうもいかないみたいだよ」
「え?」
鼎は顎で前方を指し示した。
街灯の下、自販機とゴミ箱の周りに何人かの人間が立っていた。
見知った顔だった。
同じクラスで、転校してきたカガミを歓迎してくれた女子生徒たちだった。
しかし一人だけ、見知らぬ女子が混じっている。
身長が低く、ひょっとしたら一年生なのかもしれない。
一目で見て、ぱっと印象に残った。
髪が前髪から一房だけ、明るい金色に染められているのだ。
その子を取り囲むように、二年の女子たちが陣を作っていた。
向こうはこちらに気づいているだろうに、振り向きもしない。
何かをぼそぼそと喋っている。
話しかけようとしたら、鼎に腕を取られた。
驚いて見返すと、友人は黙って首を振るだけだった。
「見過ごすんだ」と耳に囁かれる。
「でも」
「それこそ、天馬みたいに冷たくされちゃうよ、カガミ」
背骨の中に冷水を流し込んだように、その言葉はカガミの中に溢れかえった。
俯き、何も言えなくなって、前をいく鼎の背中を防波堤のようにして、その場を通り過ぎた。
すれ違い様に、金髪の房を垂らした子の顔が眼に入った。
どこかで見た表情だった。
口元に薄笑いを浮かべて、ガラス玉のように透明な眼差しをアスファルトに注いでいる。
ああ、そうだ。思い出した。
初めて会った時の天馬に、瓜二つだったのだ。
あの夜、シマに連れられてやってきた、今にも消えてしまいそうだった少年。
カガミの進む道が切り替わった夜。
何か、鼎が言っている。謝られているようだった。
彼女は悪くない。むしろ、この一月あまりの間、ずっとカガミは彼女に守られてきたのだから。
それでも、ショックだった。
いじめの現場を目撃したからではない。
わかってしまったからだ。
きっと自分は、今見たあの金髪の房をした子が鼎でも、天馬であったとしても、こうして逃げ出しただろう、と。
腕力なんて何の強さにもならなかった。
人と関係していく、ということは社会的な事柄であって原始的な闘争を覆うものなのだから。
自分のことを一人前だと思っていた。
なのに、何もできなかった。
自分がただのちっぽけな小娘に過ぎないなんて、初めて思った。
子どもと何も変わらない。
私は、何も変わっていない。生まれた時からずっと。
彼なら、と思った。
こんな苦しい気持ちを放って抱えたりはしないだろう。
たとえ勝てないと思っても、目の前で気に入らないことが起こっていれば、突っかかっていくのだろう。
それがあの夜、天馬が得た強さ。彼が選んでしまった茨の道。
その道の前で、カガミは立ちすくんだまま、一歩も踏み出すことができなかった。