賭博天空録バカラス
23.シマの魔雀 その1
中央に麻雀卓が置いてあり、灯りを浴びているのはそこだけだった。
だから、部屋の端から眺めると闇の中に卓と椅子、そして四人だけがぽっかり浮かび上がって見える。
なにもない永遠の虚空を漂っているよう。
きっとそれが真実であって全身の血が沸騰したとしても彼らは打つのだろう。
それが麻雀狂いのサガなのだ。
けれど現実においてこの場所は地下カジノの特別室に過ぎない。
正方形の部屋、それぞれの壁の隅に木製のベッドが置かれている。
シンプルだがしっかりとした造りで、装飾よりも快適な寝床として特化している。
出入り口はひとつ。
その先からは絶え間ないざわめきが潮騒のように遠くここまで響いてくる。
昼夜問わず賑わうカジノの喧騒は、時間感覚を狂わせる一因を担っていた。
もう四人はここに来てから何日経ったのかよくわからない。
十荘ごとにある休憩と食事、それを数えようにも半荘自体が荒れ模様の回ばかりで、十二連荘する親番があったり、東一局からハコテンが発生したりと一定のリズムに落ち着かない。
その原因は、ひとえにある一人の圧倒的な強運だった。
今、その人物はシャワーを浴びにいっている。
ユニットバスは四人共同なので、休憩時間のうちに交代で使用することが暗黙に了解されていた。
残った三人のうち、このカジノのオーナーを任されている伊達男、狗藤は素顔のままベッドに引っくり返っていた。
軽いイビキが鼻から漏れている。
今、彼は三位と微差のラス。
閉じた瞼の向こうは真っ赤に充血しているはずだった。
そして後二人は、卓から身動きひとつせずに睨み合ったままだった。
イブキと呼ばれるおさげの少女は、外のディーラーと同じ制服を身に着けている。
男装の文学少女とでも形容するべきだろうか、しかしその瞳は大人しげな風貌に似合わず熾烈なものを宿していた。
その対面で、その視線を真っ向から跳ね返しているのは、同じ年頃の少女。
霧のような白い髪に、陽光に似た琥珀の眼。
嶋あやめは、薄い唇を笑みの形に整えて、目の前の相手を睨み返していた。
バタン、とユニットバスの扉が開く音。中から一人の男が髪を拭きながら出てくる。
部屋に戻ってきた鴉羽風彦は、戸惑ったように二人を見比べた。
それに気づいたイブキがさっとそれまでの緊迫感を消し、入れ違いにユニットバスへと消えていった。
着替えはバニーちゃんたちが運んできてくれる。
先ほど四暗刻をツモった熱がまだ消え去っていない鴉羽は横になる気にもなれず、手持ち無沙汰気味に卓へ腰掛けた。
そして、隣に座る少女に、たまにはベッドで休んだらどうか、と忠告してみた。
少女は静かに首を振って答えた。
そんなものいらない、と。
シャンプーの香りと共に戻ってきたイブキが戻ってきた。
シマはじっと卓上の牌を広く眺めている。
対面の敵と再びバチリと視線を合わせて。
勝負、再開。
鴉羽一辺倒の流れは最初の半荘からほとんど変わっていなかった。
これまでの成績はほとんど浮き。三位、ラスは数えるほどしかない。
今ではもう三人ともこれが単なるバカヅキであることを了承しているが、当初は鴉羽と誰かが組んでいるのではないか、と三者三様に疑っている有様だった。
それほどの強運、こんな土壇場で起こるはずがない、というのは素人で、レートが高ければ高いほど通常とは違ったおかしなことが発生するようになる。
まるで人の情念が魔物を引き寄せるかのように。
とにもかくにも、狗藤、イブキ、シマの三人はトップを狙うことを一時的に放棄していた。
消極的な姿勢に思えるだろうが、これが一番苛烈なやり方でもある。
まずは、誰か一人を沈めてしまうこと。
最下位を決めて、そいつを徹底的に潰しておき、自分のダメージを軽減する。
ビリッケツというババの押し付け合いだ。
致命傷さえ負わなければ再起の芽もある。
弱者にムチ打つこの戦略は、麻雀にしろ実生活にしろ合理的かつ冷酷な有効手段である。
「――テンパイ」
流局し、手牌を開けるシマとイブキ。
二人の待ちは同じ北単騎。
「イブキ」と狗藤が彼女の手牌に顔を寄せた。
「おまえ、十三順で二筒を取っておけばタンピンじゃないか。
それじゃ出アガリできまい。せめてリーチをかけろよ」
イブキは肩をすくめてみせるだけ。感情の窺えぬ表情のまま手牌を卓へと流し込む。
チートイツでリーチをかけていたシマは、しかしそれでは納得しなかった。
(うーん、なんでも危険牌を切ってくるから何かなーって思ってたら、役なし同テンかぁ)
(確かに、わたしの河はチートイ傾向で字牌が安全とは言えないけど)
(でもそれなら、無理しないで面子から安全牌を切り出して撤退すればいいのに)
(ふうん……。一点読みされてた……ってことかな)
勘か技か、イブキは流局時に他家と同じ待ちをしているか、暗刻で固めていることが多かった。
この子だ、とシマは思った。今夜の敵はこの子なんだ。
この澄ました顔でリーチを捌く少女から一本取れれば、流れが自分に向いてくる。
だが、その突破口がなかなか開かない。
やはりまずは、狗藤を沈めるべきだろうか――。
卓の下でぐっと拳を握り締め、シマは次なる局に臨んでいった。
不意に好手が訪れた。役こそないが、ドラ暗刻の三面張。二五八萬。
その局はオーラスで、シマはマンガンツモでトップをまくれる状況にあった。
親の狗藤が数牌を早くから切り出している。
早い手か、チートイ、チャンタ、国士無双等の変形手。
なんにせよ高い。
しかし、これをツモれば現在トップ目のイブキを堕とせる。
迷わずリーチと打って出た。タァン、と牌が悲鳴を上げる。
下家の鴉羽は案の定ベタオリ。
二位である彼は今までの貯金もあることだし、無理する必要はないからだ。
そして河に放たれた鴉羽の牌をイブキがさらりと喰った。
ノータイムで打五索。シマの瞼がぴくっと震えた。
シマのテンパイは、三四索のターツに五索を引き入れてのものだった。
二五八萬を先に引いていれば、放銃になっていた牌。
(ああ、そっか)
上家の狗藤が唸り声をあげて追っかけリーチを打ってきた。
シマは次のツモ牌を見もせずに狗藤の手牌の前に叩きつけた。
(今、狙われてるのって)
「ロン――!」
(わたしか)
リーチ一発純チャン三色ドラ。親倍満、二万四千点。
シマ、痛恨の打ち込み――。
これで、しばしこう着状態にあった三人の中で、明確なラスが確定してしまったのだ。
この先は、今まで以上にシマのチャンスを潰そうとイブキと狗藤はかぶせ打ち(シマに利する打ち方を避けること)に徹するだろう。
完全にシマを潰した後、二人で決着をつけるなり、風が変わる頃合を見計らって素人の鴉羽をゆっくり料理してもおいしい、というシナリオ。
まさに彼らにとってシマは、ようやく網にかかった大事な獲物、というわけだ。
そう易々と逃がしはするまい。
けれど、二人はひとつ誤解している。
嶋あやめという少女は、こんな最悪の立場に陥ったときこそ。
(――――おもしろい)
身体を火照らせ、両眼を爛々と輝かせるタイプなのだということを。