賭博天空録バカラス
24.射的無双伝カガミ
近年の体育祭といえば父母はあまり参観しないのが主流であると思われるが、天馬たちの通う高校は校庭が広く、ほとんど全校生徒の家族を収容してやっと溢れかえる程度だった。
ゆえに中央グラウンド以外では来校者のための屋台や出店がどこからともなく出現し、まさしく祭りの体をなしている。
頭上を蜘蛛の巣のように交差している各国の旗(なぜ?)を見上げながら、紺野逸喜はひとつ年上の先輩の横に腰掛けていた。
その先輩は出店の客寄せに売りつけられた焼き鳥を頬張りながら、中央グラウンドの方に目をやっている。
茶色い土を横断して横たえられた綱を役員が足で整えている。
「綱引きか。綱にはいい思い出がないんだよな」
「おまえの話なんて聞きたくない」
事もなく一蹴。
紺野逸喜にとって、馬場天馬の情報なぞ教科書の中身よりも興味がない。
まだ手元の焼きそばから紅ショウガをのける作業の方が有意義だ。
「うん。雨宮と一緒に公園にいった時の話なんだが」
逸喜は反射的に顔を上げた。馬場天馬は素知らぬ顔で続ける。
「ガキの頃、オレはあいつと妹と、三人で遊ぶことが多かった……って話はもうしたよな。
けどたまに、公園とかで知らん顔ぶれと混じって遊んだこともなかったわけじゃない。ケードロとかしたりしてな」
「あそこにいる、あいつ」と天馬は焼き鳥の串で二人の女子を指し示した。
一人は髪が長く、もう一人は短髪で眼鏡をかけている。
「あの眼鏡はな、雨宮に拳骨喰らわしたことがあるんだぜ。
いやァ雨宮のやつは当時から女たらしでな。あの眼鏡の友達に手を出して……っておいちょっと待て昔の話だ昔の! 怒るなバカ! 向かっていこうとすんな、こら!
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ってわけで、雨宮はどこにいっても、いつの間にかルールを決めたり喧嘩の仲裁したりと、まァ役に立つやつで、子どもながらにみんな尊敬していたんだな。
あいつに逆らうやつはほとんどいなかった」
「当たり前だ。秀一は私の彼氏だぞ。この世で一番すごいんだ」
えっへん、と薄い胸を張って威張った自称彼女に、天馬は苦笑してみせた。
「オレもそう思ってたよ」
「嘘つけ。おまえ、いじめられてたくせに」
「まァな」と天馬はさすがによい思い出ではないのか、顔をしかめた。
「でも、心の底で尊敬していないでもなかった。能力があったことは間違いないし。
分かりがたいかもしれないけど、自分をいじめているやつが誰にも負けない強さを持ってることを、オレはちょっとした慰めにしていたんだな。
……おかしいと思うかい?」
「いや全然」と逸喜は当然のように答えて、珍しく笑った。
「おまえにしては、正しい判断だ。褒めてやろう」
「……。先輩なんだがなァ、オレ。おい、もう少し言葉遣いってものをだな」
「そんなことどうでもいい。綱の話はどうしたんだ」
「ツナ? サンドイッチに入ってるやつか」
「殺すぞ」
「すいませんでした。
えーとですね、ある時、公園に遊びに行ったんだ。
知ってる? 井戸公園ってんだ。
ちゃんとした名前は知らないが、井戸があるから井戸公園。いまでもあるのかな」
「そこ、うちの近所だ。あ、綱って丸太がくっついてるやつ?」
「そう、それ」
「よく乗って遊んでた。秀一も、乗ったのか?」
恋人との思わぬ幼少の繋がりに、逸喜は顔を輝かせた。
「ああ、乗ってたとも。
オレはよく揺らす役を買って出たんだが、ある時、雨宮が丸太から転がり落ちてな」
「だ、大丈夫だったのか?!」
「ああ、落ちて怪我はしなかったんだが、ちょうどオレが丸太を押しちゃってね。
勢いよく雨宮の耳にぶつけちゃってさァ。
もう血は出るわあいつ泣くわで大変だったぜハハハハハハぐうぇ!」
突如暴徒と化した逸喜にのしかかられ、女子とは思えない膂力で首を締め上げられた天馬の顔から血の気が引いた。
「死ね。今すぐ死ね」
「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ」
彼女の目が本気だったので仕方なく天馬は、靴を素早く脱ぎ落として逸喜の腹をふわっと蹴り上げた。
「わっ!」
体重の軽い彼女は綺麗な縦回転を描いて地面に転がった。
柔道でいうところの巴投げである。
若干の衝撃はあったはずだが、せいぜいジャージが汚れた程度の後遺症しか残るまい。
げっほごっほ死ぬかと思った、とむせ込みながら天馬は靴を拾う。
「おまえなァ、昔の話だって言ったろ?
あいつの耳には傷ひとつ残っちゃいねえよ」
「知っている。だからといっておまえが許されていい道理はない!」
「なんだよ、許してくれないのか。頼んでも?」
「殺す」
「じゃあもう昔話はできねェなァ」
そう言われては逸喜はぐっと黙り込むしかできない。
固く結ばれた両拳と耳元が真っ赤に染まっているのを見て、天馬は意地悪く笑った。
彼は、この単純で一途な後輩を少し気に入り始めていた。
それがどんな形のものであれ、馬場天馬が優先するのは真剣さや情熱であり、そこに善悪はさしたる価値を見出されない。
ぽん、と逸喜の頭に手を置いた。
「じゃ、これから競技だからよ。行ってくらァ。
話はまた後で、次週をお楽しみに!」
じゃあな、と手を振って別れる間際、逸喜が触られた頭を素早く叩いているのをみて、天馬はやっぱり苦笑した。
×××××
鼎の両親に挨拶を済ませると、彼女とカガミは次の競技までの時間、ぶらぶらと歩き回ることに決めた。
なぜか射的の屋台が出ており、二人ははライフルを構えてそれぞれの獲物を狙った。
「あーもう、ホント、恥ずかしいなァ」パン。
「なにが?」パン。
「親、来てると思わなかった」パン。
「よく似てたね、鼎に」パン。
「うん、まあ親子だから。ねぇ、どっちに似てた、あたし」パン。
「お母さんの方」パン。
「やっぱりそうかぁ。でも、足のサイズは父さんと同じだよ。あ、もっかいやる」パン。
「足、大きいんだ。私ももう一回」パン。
「言わなきゃよかった。気にしてるのに」パン。
「ごめん」パン。
「えへへ、うっそーん。気にしてないしー。
ね、かがみんの親御さんも見たいんだけど」パン。
「私の家族は……来てない」パン。
「ふうん。残念。かがみんは、どっちに似てるの。やっぱお母さん?」パン。
「父さんが言うには、私は父さんのお母さんに似てるんだって。
母さんに似てるのは、妹の方」パン。
銃声が止んだ。鼎があんぐりと口を開いている。
「妹?」
「うん」パン。
「なんでそんな重要なこと黙ってんの」
「あまり仲良くないから」パン。
あれ、とカガミがライフルを下ろした。
「もう、当てるもの、無くなっちゃった」
ふと気づくと、店員がどこから持ってきたのか白旗を振っていて、「終了」の張り紙をべたっと壁に貼り付けた。
その後、焼き鳥やらじゃがバターやら二人で食い荒らしていると、中央グラウンドから遠い喧騒が伝わってきたので戻ってみた。
障害物競走が始まったらしい。
コース上で麻袋の中に入った男子たちがぴょんぴょん跳ねている。
その群れの中に、馬場天馬の顔を見つけて鼎はむっと顔を曇らせた。
「なんだあいつ、トップ走ってやんの」
元来、馬場天馬は運動神経に恵まれた方ではなかった。身体も細く、華奢である。
その彼が善戦できた理由はひとえに障害物競走には短距離が得意な者よりも、笑いを取れる人間が選出されていたことが挙げられよう。
平均台を渡り切り、網のトンネルを絡まりながら通り抜ける。
小麦粉の中から飴玉を見つけ出す場面では、たらいに顔を突っ込んだ瞬間に飴玉を口に含んでいた。ぽこっと頬が膨らんでいる。
「天馬にしては」カガミがぽつりと呟く。「頑張ってるじゃないですか」
「え、何か言った?」
「ううん、なんにも」
レースは最終コーナーへ突入した。
天馬は必死なのかそうでないのか分からない表情で走っている。無論、顔面小麦粉まみれのためである。
そうして最後に、ひょいっと二位の選手に抜かれてしまった。
「あ――」
また、彼は負けてしまうのか、とカガミがふっと沈み込むような気持ちになった時。
白テープの目前でトップ走者が消えた。
×××××
宮野怜と鴉羽ミハネは本部のテントにいたため、その光景をよく眺めていられた。
二人のほんの数メートル先で、余裕の表情で走っていたトップ走者は滑り込むようにして尻から落とし穴にはまり込んだのである。
それ自体はおかしなことではない。落とし穴は白垣会長が企画し、自らスコップで昨日掘ったものだ。
二人の目が見開かれたのは別の要因である。
「今、彼」と怜。
「トップが転ぶ前に、穴を飛び越えなかった?」
天馬はそのままトップでゴールインし、すでに校庭を去っている。
「……そう見えた、けど」
怜はその時、ミハネの顔色が一気に青くなっていることに気づいた。
「ミハネ? どうかした?」
「……。べつに、なんでもない。ごめん、ちょっと用事思い出した」
明らかな嘘に、怜は黙って頷く。
テントから出て行く少女の後ろ姿は、どこか傾いで見えた。
なにか不吉なものを感じながらも、それをどうすることもできず、怜はただ校庭を見渡すことしかできなかった。
×××××
昔の日本では、男性の目に病気の女性ほど魅力的に映ったらしい。
その妖しく儚げな雰囲気が非日常を思わせるのは分かるが、倫理的にはどうなのだろうか。
そんな偉そうなことをほざいたところで、僕――あだ名はラッキー――もまた、好きな女の子の暗い顔にときめいてしまったのだった。不純だ。
「おーい、ミハネ!」
人垣越しに、実行委員本部のテントから出てきた彼女に呼びかけたが、案の定無視されてしまった。
きっと聞こえなかったに違いない。そう信じたい。
追おうかと一瞬考えたが、今にも倒れそうなほど具合が悪いようには見えなかったし、なにより今の僕は使命を帯びた身だったので、後ろ髪を鷲掴みにされる思いで、彼女が出てきたテントに入っていった。
テントといっても、三角柱を横にして形に張られた屋根を四本のポールが支えているだけである。
中では忙しそうに腕章をつけた生徒たちが行き交っていた。どこかの出版社のようだ。
宮野怜は最前席で腕を組み、こう言ったら怒られそうだが偉そうに座っていた。
「やあ、宮野さん。いってきたよ」
「お帰り、ラッキー」
うーん、どう見ても睨まれている気がするが、これが彼女の平常な視線らしい。
「どうだった?」
「ああ、綱引きの件だけど――」と僕は調査結果を報告する。
「確かに、片側だけひどく傷つけられていたよ。
生徒からも握ると痛かったって苦情が出てる。
誰かが最近、作為的に縄を傷めたと思って間違いない」
「タチの悪い悪戯」と怜はそれだけ言った。「他には?」
「やっぱり、僕が見た通りの証言は得られたよ。
みんなが縄を引っ張ってるドサクサにまぎれて、何人かが片側にこっそり追加参戦してるのを見てたやつがいる。
それは、傷つけられた縄を握ってた方だった」
「だから私は反対だったのよ。
紅白どっちが勝つかでカガミさんが付き合う男が決まるなんてなったら、せめて彼女が幸せになりそうな方に与するバカが出てくるって」
「彼女、すごい人気だもんね」
「迷惑極まりないわ。ったく……」
「それから、今の障害物競走のことだけど」
宮野怜は静かに首肯して先を促した。
僕の言いたいことは察しているらしい。
「馬場天馬は、明らかに穴の位置を知っていた。
この間の盗難事件――会長の生徒プロファイリングノートと、障害物競走の障害リスト、あれ盗ったのたぶん彼だ」
「なんのためにそんなことしたのやら……だから私はあいつが嫌いなのよ、余計なことばかりして」
僕も同意見だ、と告げると宮野さんはへえ、と驚いたようだった。
「あんたでも、人を嫌うことがあるのね」
その言葉にちょっとドキっとした。
悪意はないのだろうけれど、何者かに責められたような気がした。
「――とにかく」と僕は喋りながら気を落ち着かせる。
「彼と話をしてみる。返してくれたなら、それでいいし」
「一筋縄でいくバカじゃないから、気をつけてね」
任せておいてよ、と請け負って、僕はテントを後にした。
思えば、あの馬場天馬と話したことは、まだ一度ないのだった。