賭博天空録バカラス
32.メッセンジャー
【ラッキー】
午後の大物種目である棒取りが毎年恒例の怪我人をひとりも出さずに、無事終了を遂げた。
校庭に散らばった棒を生徒会役員がせっせと片付けている側で白垣が午前からずっと叩き続けている太鼓が鳴り響いている。
肘を痛めるのではないか、と心配になったが、会長が病気や怪我をしたという話は聞いたことがないのでたぶん平気だろう。
隣にいるミハネの携帯を横から盗み見ようとするとバッともぎ取るようにして隠されてしまった。
「なんだよ、隠さなくてもいいじゃないか」
「うっさい。あんたは関係ないんだから、どっけいけったら」
「いかない」
ここで退いたらミハネの犬を追い払うような仕草に負けたことになる。
「君らはひとりにすると何をしでかすかわからないからね」
「あっそ……まったく。呆れた。勝手にしろっての」
「うん、そうする」
自分では恐らく気づいていないのだろうが、ミハネの横顔は頬がこけ、目の下にクマができている。
その衰弱は時が進むにつれて色濃くなってきていた。
いまにも倒れこむのではないか、と僕は何度も肝を冷やす羽目になった。
極度の緊張の中で博打を打たされている彼女が哀れだった。
一刻も早く、こんなことは終わらせて彼女に平穏が戻ることを祈らずにはいられない。
僕が代わりに引き受けられたら、どんなにいいだろうか。
彼女が苦しんでいるのを見るだけで吐き気がする。
それぐらいならいっそ――
「何してんの」
バコッと足を蹴られて僕は我に返った。
「あいてっ」
「行くよ。ついてくるんじゃないの?」
そう言ってミハネはスタスタと歩き出してしまったので、僕は慌てて後を追った。
黙って置いていかれなかったことに、ちょっぴり喜びながら。
陽が傾き始めたグラウンドの真ん中で、割れるような声援を浴びながら騎馬同士が激しくぶつかりあっていた。
その肌色の群れの中に白組代表の白垣、赤組代表の門屋の顔も見える。
粉塵が舞い上がり、押し込まれた騎馬の足跡が土に深く残っている。
上半身裸になった男子たちは「めんどくせえよ怪我したらどうすんだよ」とぼやいていたことなどすっかり忘れて突進に夢中になっている。
中央で顎を外れんばかりに開放し雄叫びを上げている白垣を見て、僕は眉根を寄せた。
「僕は門屋が勝つと思うけどね。でもミハネは白垣に賭けたんだ?」
「うるさい。ごちゃごちゃ言わないで、気が散る」
彼女がどれほど念じようとも勝敗に影響するはずもないのだが、ミハネは苦しげな渋面を作って馬の一挙手一投足を食い入るように見つめていた。
その様は博打に狂い明けた者たち共通のもののような気がした。
恐怖と焦慮に染まっているミハネの顔の向こうには、期待と情熱がうっすらと滲んでいる。
その時、ほんの一瞬、逆光を受けたミハネの顔が、彼女とまるで似ていないひとりの少女とだぶって見えた。
「あ」とミハネが握り締めていた拳をふいに解いた。
見ると、門屋の馬が無残に潰されて、白垣が奪い取った赤いハチマキを振り回して咆哮していた。
「ラッキー、やっぱりアンタ、ツキ男かもね。縁起がいいよ」
「よかったね、僕が来てから負けてないんだろ。でも僕は白垣には負けて欲しかったんだけどなァ」
カガミさんの暗澹たる未来を思うと胸が痛む。ついでに顔も痛む。うう、まだ熱を持っているみたいだ。
「でも、これでようやく終わった」とミハネが呟いたので僕は頬をさするのを止めて彼女の横顔を見た。
「終わった、ってなにが」
「今回の賭けのほとんどが」
そこで僕はようやく、いまの騎馬戦が終わった時点で残る種目がひとつであることに気づいた。我ながら相変わらずのトロさだ。
「最後の種目って、選抜リレーだっけ」
「そう。でももう勝負は決まってる」
「どうしてさ」
ミハネは台詞とは裏腹に重苦しい声音で告げた。
「雨宮が出るから」
「ああ、あの人。でもそれなら、馬場だってその人に賭けるんじゃないの?」
「雨宮に賭けて当てても、あたしとの差を埋める配当にならない」
「なるほどー」と僕は感心した。
「じゃあ馬場は賭けたくても雨宮くんには賭けられないんだ。じゃあ、もしかして勝ったも同然?」
「そ。ハイ、お疲れ様でした。……ってなればいいけどね」
そこでミハネは張り付いていたフェンスから離れて、校舎の壁に再び寄りかかった。先ほどから立っては座り立ち上がってはまたへたりこみの繰り返しで、まるで病人のようだった。
僕も側へしゃがみこむ。ミハネは、力なく僕の肩に頭を寄せてきた。
嬉しさもあったが、それよりも不安の方が大きかった。
「大丈夫? 今日はまっすぐ家に帰りなよ。その……いろいろあると思うけどさ、ミハネは何も悪くないんだから」
ミハネは何も言わなかった。僕もまた、何も言うべき言葉を持たなかった。
『え、ちょ、何するんですか会長、きゃーっ!』
『えー、おほん。ちょ、ちょっと騎馬戦で疲れたので休憩を挟みます! 会長権限発動っ!!』
『そんな、プログラム通りにやってもらわないと困りますよ!』
『僕が作ったものを僕が壊して何が悪いのかね』
「これで首にならないんだから白垣もすごいよなァ」と僕は思わず笑ってしまった。
放送席でDJからマイクを奪っている白い熊が脳裏に浮かんだ。
「白垣」とミハネはその名前を思い出すように宙を睨んだ。
「あいつって人のプロフィール作るのが趣味なんでしょ」
「らしいね。あんまり褒められたものじゃないけど。そのせいで馬場の助けになってしまったわけだし」
「そうだね。でも」ミハネはこっちを見ない。
「あたしは今まで、みんな大して変わらないと思ってた。
でもこうしてよーく見てみると、自分の命運まで乗せた眼で見てみると、違いがわかって面白かったよ」
「……ミハネ?」
「同じ人間なんていないんだね。
それがわかってた白垣や馬場はきっと、偉いんだろうなあ」
僕がどう返すべきか思案している間に、彼女のジャージがぶるぶると振動し始めた。
「もしもし。――誰? 知らない。なんなの。
……。そう。わかった。ううん、教えてくれてありがとう」
通話を終えると、彼女はほっと息をついた。
だから僕は、それがごく当たり前のなんでもない電話だと思った。
「誰からだったの」
「父さん死んだって」
「……え?」
「ねえ、ラッキー。あたし、闘う理由なくなっちゃった」
引きつるように、どうしていいかわからないのでとりあえず笑って見せた、そんな壊れた笑顔を見せて、ミハネは壁に背を預けて、そのまま眠ってしまったようだった。
僕は、死んでしまったと思った。
震える手で、彼女のジャージから携帯を取り出す。
やり方は盗み見た。
画面には、選抜リレー五組の中からひとつの組を選ぶ画面。
下にスクロールすると、現在のミハネと天馬の獲得ポイントが表示されている。
一番下には、『監督者:黒瀬重樹』という名前が載っていた。この広すぎる校内を、もしかしたらこのサイトの構成員やこの黒瀬という人物がひっそりと侵入し、僕らを監視しているのかもしれないが、知ったことか。
僕は何度も何度も確認した上で、雨宮がいる組に賭けた。
元々、天馬は雨宮に賭けても配当が届かないのでこんなことをしても意味はないのかもしれない。
ただ何もせずにはいられなかった。
彼女の代行をしたまでだ。
ミハネの顔を見る。
その顔が、ほんのかすかでも解放された安堵感に包まれているように見えて、僕はどうしようもなく、死にたくなった。
【ラッキー/】
紺野逸喜は、一番近いところで雨宮の姿を見にいくと言って去っていった。
天馬はその後ろ姿を眩しそうに見送っていた。
最後まで、あの雨宮の正体が腹違いの弟だとは告げなかった。
自分は非情だ、と思った。人でなしのごく潰しだが、どういうわけか生きている。
そうして生まれてきた以上、もう自分を欺くつもりはなかった。
かつてのように顔を伏せるのはうんざりだ。
だから、鴉羽の父親を許せなかったのだろう。
非道を尽くしてもまだ父を名乗る鴉羽も許さなかったし、言葉でしか父親を跳ねつけられなかったミハネも頭に来た。
助けるつもりなんぞ、さらさらない。
自分がいなくなった方が、娘のためだ。そうあの父親は言った。
そしてまた、博打をやめたり、一度壊れた関係を直す努力を死ぬような思いで成し遂げるのも、ごめんだ、と。
死にたくない、と彼は言った。それは死と引き換えにするほどの望みが、もうないということ。
だが自分自身の人生の終焉は望んでいた。死にたくないのに死にたい。矛盾している。
その内実は、誰かに始末をつけてほしいという責任転嫁。
彼は結局、逃げたのだ。
天馬はそれが我慢ならなかった。
いつか訪れる衰弱、天馬には鴉羽父が、自分の未来のように映ったのだ。
このまま行けば、自分もああなる。
どうすればいいのだろう。
その道の入り口で、天馬は自らが踏み出すであろう第一歩の幻を見下ろしている――。
電話が震えた。拡散していた意識をすぐに一括りにして、通話に出た。
「ようイブキ、元気かい」
電話口の向こうの相手が無表情に首を振る姿を幻視する。
「元気じゃないな。負けている」
「そりゃお気の毒に。おまえが後手引くなんざ、相手はどんなやつだよ」
「どんなもなにも、ヘンなやつだ。……そんなことより、おまえの言うとおりになったぞ」
「親父さんは浮いて、残りを自分自身で清算したか」
「ああ。なにかカラクリがあったのか? 終始、やつは信じられないツキっぷりだったぞ」
向こうの麻雀がどうなっているのかまったく情報を得ていなかった天馬だったが、最初の想定通りに事は運んだようだった。
「ジンクスさ。セオリーといってもいいかな。親父さんが生涯かけて負け続けて作り上げた、方法論だよ」
「ふむ。あんなにツクセオリーか。しかも負けて作る? 聴いてみたいな」
「勝てないってこと」
「……は?」
思いがけずイブキが頓狂な声を出したので、天馬はくすくすと笑った。
「いいところまでは行く。勝つ直前まではいける。
でも親父さんはな、いつもそこで負けちまうんだ。
だから、そのまま残ってたら今頃ボロ負けだったと思うぜ」
「なんだそれは。勝てないことがセオリーなのか?」
「それだけが、借金をぜんぶ無くすための方法だったんだよ。
いいとこまで行って、神様でも見抜けない方法で勝ちを確定させたんだ。神様は人間様をなめてるからな。
ま、所詮はただのオカルトだがね」
「理解しかねる。単なる阿呆と変わらないぞ、それは」
「阿呆だとも。
しかしそんな阿呆だからこそ、ミハネを解放してやりたかったんだろう。
さて、このままだと負けちゃうからオレももう一頑張りするかな。
じゃ、イブキ。きちんと狗藤ちゃんを潰してくれよ。オレの債権、チャラにしてちょうだいな。
おまえが債権を狗藤から奪って、オレに支払いを求めなければいいだけなんだからさ」
「考えておこう」とイブキは素っ気無いが心配あるまい。
ふと、聞いておくべき話題を思い出した。
「あ、そうだ。ひとつ聞いてもいいか」
「構わない」
「どうしておまえ、最初の夜、オレに黙って情報をくれたんだ?
おまえは得がないことはしない主義だろう」
「得はなかったが、興味あったんだ」
「おい、ちょっと、なんだよ、照れるなァ。急にデレちゃってまァ」
「姉さんが熱を上げた男がどんなやつなのか、見てみたかったんだよ」
「そうかそうか。――なんだって?」
「じゃあな、馬場天馬。そろそろ次の半荘が始まる。お互いに、幸運を」
「ちょ、ちょっと待て! 誰が誰の姉さんだって? おいっ! ちょ……」
電話は何も答えず切れた。
ただ最後、ほんのかすかに小さな笑い声が聞こえたような、気がした。
【竜二】
白垣が急に休憩を取ったので、竜二はその隙を突いて逃げ出した。
常に側にいようとする女の子たち、そして一部の男子を振り切ってトイレに逃げ込み、小窓から出て、排水用パイプをよじ登って二階の窓から誰もいない校舎へ身体を忍び込ませた。
そうして三階の階段を登り、目当ての教室の前まで来ると、そっと戸の隙間から中を窺う。
なぜか携帯片手に頭を抱えた馬場天馬がいた。
先ほど外からチラリ、と彼の姿を見かけたのでここまで竜二はやってきたのだ。
ガラリ、と中へ入ると天馬がパチパチと眼を瞬いた。
「驚いた。人気者の雨宮くんが何の用だい」
「やめてくれ。その名前は聞き飽きた」
ざまあみろ、と天馬は笑った。
「兄貴の真似は大変か、竜二」
「こんなの正気じゃやってられない。女の子にはまとわりつかれるし、中にはべたべた触ってくる男子とか先生いるし、気苦労で破裂しそうだ」
「じゃあ雨宮再来は今日で終わりか。勿体ないな。せっかく選り取りみどりなのに。
ちょうどさっきまでおまえの彼女とやらと喋ってたんだぜ。タイミング悪いなァ」
「勘弁してくれ。とにかくもう、今日で真似は終わりだ。そもそも続ける気なんてない。俺は静かに暮らしたいんだ」
「偉いね。兄貴とはやっぱり違うな。
――それで、何の用だよ。息抜きなら付き合うけど」
そこで竜二は、天馬のジャージに血がついていることに気づいたが、見なかったことにした。
「今、ミハネとは負けてるのか」
「おや、あいつから聞いてないのか。向こうに回るんだろ?」
「いや、あいつは何も知らないよ。俺が偽者だってことも知らないだろう。
俺はただおまえの敵に回ると言いたかっただけだ」
まぎらわしい、と天馬は苦々しげに吐き捨てた。
「それで、どうなんだ。勝ってるのか」
「負けてるよ」渋面はさらに渋くなる。
「次で一発当てないと、ダメだな。……何か言いたそうだな」
「いや、やっぱり期待外れだった、と思っただけだ。
次のレース、ミハネは俺に張る。
おまえに勝ち目は万にひとつもない」
「ヘッ、勝ち誇れて嬉しいか。何も賭けてない、何も張ってないおまえが偉そうにするなよ」
「だが事実だ。おまえは負けたんだ、馬場」
「オレは勝つ――」
「どうやって」
「知りたいか」
「ああ、教えてくれ」
「わかったよ」
鼻が触れ合うほどの至近距離から、天馬は竜二を睨みつけた。黒い瞳が燃えるように揺らめいている。
「教えろだと? おまえはそればかりだな。
おまえの兄貴もきっと同じことを言うだろうから、今ここでオレが代わりに言ってやる。
おまえはすぐ人に答えを求めるがな、世の中そんな優しくねえんだ。
オレも雨宮も、人の話なんかマジメに聞いたことなんかねえよ、くそったれ。
自分で悩んで、自分で決めて、自分で勝手に負けたんだ。
答えなんかねえんだよ、竜二!」
その台詞をぶつけられた時、ふいに夕日が煌いて、天馬の顔のすぐ裏に、ほんの一瞬、兄の面影がちらついた。
彼の言うとおりだとするなら、その暴言は、竜二が兄からかけられた血縁らしい唯一の言葉になりうるものだった。
腹違いで、別々の場所で育った同じ顔を持つ異母兄弟。
竜二は唐突に、胸の奥を薄ら寒い風が吹き抜けるような思いに駆られた。
(俺なんかよりも、他人のこいつの方が、よっぽど兄貴に似ているな――)
「馬場、後悔するなよ。俺はおまえが泣き言を言うようなら、負けてやってもよかったんだ」
「余計なお世話だとっとと消えろ。おまえなんかに構ってやるほど暇じゃあないんだ」
おまえらしい、と竜二は呟いて天馬に背を向けた。
平生と変わらない表情で隠していたが、彼の頭の中は、それからずっと同じフレーズが壊れたように繰り返されるだけだった。
(答えなんかねえんだよ、竜二――)
兄がいなくなったことも、答えなんかないのかもしれない。
わかりやすく手触りのいい、答えなんて。