日は落ちたが若者たちの一日は終わらない。
体育館の中には、真っ白なテーブルクロスを敷かれた丸テーブルの上に菓子やペットボトルが並んでいる。
カガミは隅の方で小さくなって菓子を摘まんでいた。
ぼーっとしているのか、開封された袋が山のように積みあがっている。カロリー無視の極みである。
最初は冷やかし半分の祝福を投げかけていた同級生たちも、あまり騒ぐのはよくないと気を利かしたのか遠巻きに見守っていた。
また別の方ではカガミ争奪戦に破れた門屋を慰めようと人の環が出来ている。
ほくろが目立つ少年が我がことのように嘆き悲しみながら背をバンバン叩いて、門屋がむせた。
ステージの上では、前座という題目で漫才部の生徒二人がどつき合っている。
鼎の話によると以前コントのはずが本当に喧嘩に発展してしまったこともある親友同士らしい。
その二人が観客よりもゲラゲラ笑いながら段を降りると、白垣会長がよいしょっとステージによじ登った。周囲がどっと沸く。
司会役の生徒からマイクをむしりとると、カガミの名前を大声で呼んだ。
びくっと身体を震わして、カガミがおずおずと壇上に上がるとどういうわけか拍手が起こった。
なんだなんだ、と生徒たちが身を乗り出すようにして二人に注目する。
カガミは依然としてぼーっとしていた。なるようになれ、ではないが、自発的な意思が起こってこない。
どうしたんだろう、と白垣を見上げる。
白垣がそっと耳元に口を寄せてきた。男子から激しいブーイングが起こる。
「君は」と囁かれる。
「本当に表情が見えないな。僕じゃ欠片も拾えない……この種の技能には自信があったんだけどね。
だから、僕が感づいたという事実が、君の感情の激しさを物語っているんだろう」
「……なに、言ってるの?」とカガミも呟き返す。本当に意味がわからなかった。
「コミュニケーションの話さ。
隣にいる人と喋らなければ意思疎通できないのと、顔だけでほとんどを伝えてしまえるの、どっちがいいかってこと。
僕はしばらく君と一緒に遊ばせてもらったけど、君が楽しんでいるのかそうでないのか、結局最後まで分からなかったよ。
どこぞのラッキーみたいに希望的観測で事実を捻じ曲げるのも趣味ではないしね。
となるとやはり、餅は餅屋に任せようと思うんだ」
「私は餅じゃない」
「いや、餅のように柔らかそうな頬だと思うよ?
……うーむ、黙られると、睨まれてるのかスルーされてるのか分からないな。いやごめん、悪かった」
いつの間にか、例のどもり癖がなくなっている。
もしかしたら、この今の白垣こそが彼の素顔なのかもしれない。
さっと白垣は身を放した。
「さて、僕の出番はここまでだ。後は君らで面白くしてくれ。
僕はいつだって、お話を書くより、読む方が好きなんだ」
「よく、分からないけど」カガミは小さく頷いた。「ありがとう、白垣くん」
「礼には及ばない。僕も彼と同じく、退屈が嫌いだっただけだから」
そう言って白垣がカガミの手をそっと取ろうとした時。
閉じられた暗幕からにゅっと突き出た手が、それを振り払った。
間髪入れず、そのままステージを隠す布を押しのけて、ひとりの男子生徒が現れた。
顔は馬のお面をつけていて分からない。
体育館がどよめいた。
何かの趣向かと思われたのか楽しげな野次も飛んでくる。
「な、なんだね君は」とあとずさる白垣に、馬のお面の少年は、
「誰が餅屋だ」
と言って、生徒会長の腹に飛び蹴りを食らわした。
哀れな白垣は「あー」と転がり落ちて、周囲の女生徒が悲鳴を上げる。
「まったくおまえは、最後まで名役者だよ」
と馬のお面の少年が言う。
それにはどこか親しげな響きが込められていた。
「て」と口を開きかけたカガミに、
「……いいから、来い」と少年はぶっきら棒に言う。
乱暴に腕を取られ、ステージから飛び降りる。
少年とカガミは見事に白垣の背に着地し、足元から「ぐえ」と呻き声があがった。
そのまま少年はカガミの手を引いて、驚き戸惑う生徒たちの群れに身体ごと突っ込んでいった。
咄嗟に止めようとした生徒たちを振り払いながら少年は駆け抜け、体育館から転がるように飛び出した。
周囲にはまだ生徒が残っていて、皆ぽかんとした表情を浮かべている。
「そいつを止めろ! 誰でもいいから!」
二人に遅れて、門屋とその取り巻きたちが怒鳴り声を上げて出てきた。
もしかすると転落した白垣に代わって襲撃者をとっちめれば、まだ自分にも芽があると思って出てきたのかもしれない。
門屋に言われて動き始めようとした生徒の鳩尾に「邪魔だッ!」前蹴りを喰らわして吹っ飛ばし、また少年は逃走を再開する。
門屋が思いつく限りの知り合いすべてのメールを回したのか、どこへいっても生徒たちは二人を阻もうとした。
その目が非難の色に満ちていることから、あることないこと門屋が尾ひれを付け加えたのかもしれない。
少年は頻繁に急ブレーキをかけては行く手を変えた。
カガミにとっては容易い疾走も、少年からすれば重労働であったらしくすでに息は絶え絶えである。
「運動不足ですか?」
「栄養不足だ。ちょっと血が出たからな」と少年はにべもない。
カガミは不思議だった。この少年はいつも、自分を不思議な気持ちにさせる。
どう考えてもさっきの体育館での襲撃は白垣に非はないようにカガミには思えたのだが、少年を責める気持ちは微塵もない。
それどころか、初めて制服に腕を通した時のような、感動と喜びがあった。
この気持ちはなんだろう。ずっと考え続けた。走りながら想い続けた。
そうして、ひとつの結論に達した。
「天馬」
「なんだよ」
天馬は振り返らない。お面越しに人気がない道を探しては走っていく。
外まではもう少しだ。
「私――」
カガミが二の句を継ごうとした時、ひゅん、と風切り音と、固い何かが肉を打つ音が鳴った。
宙を舞う馬の面とバレーボール。
廊下の先に、悲痛な顔をしたラッキーと門屋たちが立っていた。
「馬場……僕はもう我慢がならない」
「そいつはもう聞き飽きた。九官鳥かてめえは」
天馬はじんじんと痛みを発する頬を擦りながら、カガミを庇うように背で隠した。
それを見て門屋たちが鼻で笑う。
「なんだこいつ、なにかっこつけてんの?」
見たこともない門屋の醜悪な怒りの表情に、カガミは目を丸くした。
彼はそんな感情があるような素振りを一度として彼女に見せたことはない。
「悪ふざけも大概にしろよ馬場。いくら彼女が欲しいからって、こんなやり方はまずいっしょ」
「ふん……。白垣が動いたからって大慌てで名乗り出た臆病者がほざいてやがら。
自分ひとりじゃ、一生何もできねえくせにな?」
その台詞は相当に門屋に響いたらしい。周囲の取り巻きがさっと離れるほど、彼は激怒で身体を震わせた。
ラッキーがそれを片手で制する。
「やめなよ、門屋。こんなやつの言うことを真に受けちゃダメだ」
「じゃあどんなやつの言うことなら聞くんだ。大人か。口の上手いやつか。それとも皆から好かれるやつか。
ラッキー、おまえは自分の言うことを皆が聞いてくれるからって調子に乗りすぎだぜ」
「君ほどじゃない……。カガミさんを放すんだ」
ちら、とラッキーは天馬の身体越しにカガミを盗み見た。
その瞳にかすかに、彼女の無事であることの安堵の色が浮かぶ。
カガミには、それが恐ろしかった。
自分を心配してくれる人たちが、自分の友達を傷つけようとしている。なぜこんなことが起こるのか分からなかった。
殺す、殺さないだけの世界よりも社会というのはよっぽど複雑怪奇だった。
迷走し始めかけたカガミの意識が、手を握り締められて一気に安定した。
「オレはこいつを放さない」
(天馬……)
「もういいよラッキー。とっとと懲らしめようぜ」と取り巻きたちがいきり立つが、ラッキーは渋面を作った。
「彼女が人質に取られてるんだ。無闇には動けない」
「賢いぞラッキー。よしよししてやりたいところだが、わかってんならさっさとどけ。おまえなんかに用はないんだ」
「本当に、君には同情するよ。馬場」
カガミはふと人の気配を感じて振り返った。
いつの間にか雲間鼎が青白い顔をして立っていた。
「かな」
名を呼ぼうとして、抱き寄せられた。天馬の手がほどける。
「ラッキー!」鼎が叫んだ。
防御する間もなく、天馬の薄い腹にラッキーの拳が突き刺さった。
「こんな時にまで、人に裏切られるのだものな」
「鼎、放して!」
「落ち着いてカガミ。大丈夫だから」
大丈夫じゃない、天馬が目の前で殺されかかっている。
必死に抵抗の意思を見せているが五対一では勝負にもならない。
腹を蹴られ頬を張られ、突き飛ばされる。血が舞った。鼻から川のように赤い血が流れ出している。
カガミは鼎を振り払おうとして、躊躇った。
天馬が友達であるように、鼎もまた友達だった。
だがそれでも、と身体に力を込めた時。
「邪魔をするなッ!」
と天馬の、擦り切れた叫びがカガミを硬直させた。
鼻血を乱暴にぬぐって、床にひざまずきながら、天馬が見上げてくる。
その目はいつかと同じ、暗い炎を宿して揺れていた。
「おまえは何も、しなくていいんだ」
「こいつ、まだ勘違いしてるよ。自分を彼氏だと思い込んじゃってるんだな」
「あぶねー。ちゃんと身の程ってのを分からせないと、な!」
門屋の爪先が天馬のわき腹に突き刺さった。ぐ、と呻いて天馬は壁に激突し、ずるずるとへたりこんだ。
赤い裂傷が走った唇が、動く。
「おまえらみてえな……やつらにだけは……」
「あ? なんだよ、言いたいことがあるなら言ってみろよ。
誰が、一生何もできないだって?」
ジャージの胸倉を掴み上げ、門屋が高々と天馬の身体を引きずり上げた。
ぷらんぷらんと両足が揺れる。
「オレは……
負けたくないッ……!」
そうして、天馬は両手で自分を吊るす門屋の腕を掴むと、その指先に思い切り噛み付いた。
みちりっ、と肉が裂ける音がして、続いて門屋の絶叫が廊下を乱反射して駆け巡った。
顎の力は強靭だ。この時、門屋の親指の傷は骨にまで達していた。
べたん、と両手足で床に着地した天馬は、そのままひとり、体格が自分とほぼ同じ程度の者の首筋を掴んで、もうひとりの顔面と正面衝突させた。
そのまま、廊下の壁と人の頭を何度も何度も素早く強烈に打ち付け挟んだ。
そうして新たに背後から飛び掛ってきたもうひとりに、掴んでいたひとりを押し当てて、そのまま廊下のガラス目がけて蹴り飛ばした。
破裂するような音を立ててガラスが割れた。
二人はもんどりうって外へと落下する。といっても一階なのでそう高くはないが、戦闘不能になったことは間違いない。
天馬はそのまま間髪入れずに振り返って両手を突き出した。考えての行動ではなかった。
ただそこにラッキーがいる気がして、事実、そうだっただけのことだ。
噛み付いてから一分も経っていないうちに逆転してしまった状況に雲間鼎が呆然としている。
天馬とラッキーは両手を組み合って、膠着状態に陥っていた。
「どうして君は……こんなことばかり……!」
「おまえらの方がオレに構ってくるんだろう」
「君が、カガミさんを誘拐したりするからだ!」
「誘拐? ……」
「違う」とカガミは押し殺した声で呟いた。ラッキーがこちらを向いた。
「違う」とカガミは繰り返した。
「カガミさん……」
「だ、そうだが、ラッキー。おい、どう申し開きするつもりだ」
「君は……いったい彼女のどんな弱みを握ってるんだ」
天馬はとうとう笑い出した。
「すげえよ、ラッキー。もう無理。おまえだけは説得できねえわ」
「諦めろ、馬場。大人しく罪を償うんだ。門屋たちに、会長に、ミハネにしたことを!」
「罪を償うなんてのは、罪を犯した自覚のないやつだけの台詞だ――ひとつ教えてやる。
人間、そう簡単にひどいことをされたら、許さないもんだぜ。
オレは確かにてめえらを痛めつけたが、同じくらいおまえらは無自覚にオレを痛めつけてたんだ。
昔っからな!」
ラッキーが動いた。繋いだ手を捻って天馬を組み伏せようし――
天馬は、単純明快、頭突きを喰らわした。視界一杯に星が散り、ラッキーがよろける。
続いて、まっすぐ撃ち出された拳が、ラッキーの顔面を正面から打ちのめした。
その拳を引く同時に回転し、反対の拳をラッキーのアバラに叩き込んだ。
腰の入った一発。ずどっ、と重く鈍い音。
がくん、と膝を折ってラッキーは崩れ落ちた。
それを見下ろしながら、天馬は皮肉げに笑む。
「オレはさ、おまえみたいな正義の味方に助けて欲しかったよ、ずっとね。
だが誰も来ちゃくれなかった。
オレたち、もっと早くに出会ってたら案外、友達になれたかもなァ、ラッキー」
ラッキーはその言葉を耳にすることなく、気絶していた。
「くそったれ……クラクラしやがる」と天馬がよろめきながら二人を振り返った。
いまだにカガミを拘束している鼎が後ずさる。
天馬はそれを見て肩をすくめた。
「嫌われたもんだな、雲間。おまえともずいぶん古い仲だと思うけど……黙って見逃してくんない?」
「あたしはカガミの友達だ。おまえなんかに渡したら、この子はダメになる」
「鼎」と抗議しようとするカガミに鼎は子どもがいやいやをするように首を振った。
「わかってよ、カガミ。こいつはダメなんだよ。わからないの?」
「分からない、鼎、どうかしてる」
「どうかしてるのはあんたたちだよ――」
「べつにオレは、鬼蜘蛛が間違ってるとは言わないよ。だがな」
と天馬はぴりりと顔を引き締めた。
「それ以上、放せと言ってるカガミにしがみついててみろ。
二度と女だと名乗れねえ面ァにしてやるぞ」
「天馬!」とカガミが叫んだ。
「それはダメです。やりすぎです」
「ダメかどうかはオレが決める。でも、ホントにやったりしねえよ」
「……鼎」とカガミは、震える手で自分を守ろうとしている相手に呟いた。
「お願い、放して」
「……カガミ、あたしは」
「ちょっと話をしてくるだけだから。お願い」
ずいぶん長い沈黙の後、鼎は腕を解いた。
その表情には、本当にこれでよかったのか、という懐疑の念がありありと刻まれていたが、彼女なりに友人の意見を尊重しようと決めたのだろう。
カガミが一歩、天馬に近づいた。
「……カガミ」
「はい」
だが天馬の話は続かなかった。廊下から
「いたぞ!」
という怒声と共に男子たちが殺到してきたからだ。今度は他学年の生徒も混じっている。
「くそったれ、どいつもこいつも大嫌いだ。また逃げるぞ、カガミ」
カガミは静かに頷いて、再びその手を少年に預けた。
今にも降り始めそうな曇天の下、誰にも祝福されない二人が駆けていく。