賭博天空録バカラス
36.Over Heat Heart Beat
今にも降り始めそうな曇天の下、イブキは隣町へ続く鉄橋の上にいた。
上流ではすでに降り出しているのか、水かさが増している。
夜は浅いが、通行人の姿はない。
皆ひとり残らず、自販機や電信柱の細長い影に吸い込まれてしまったかのよう。
そんな陰鬱な空想をイブキは頭を振って払った。羽織ったコートの前を重ね合わせ、冷たい風から身を守った。
もうこの街に用はない。
狗藤は鴉羽亡き後の三人麻雀で、今まで貯め込んだ全財産とオーナーの権利を失って、丸裸で路頭に叩き出した。
イブキとシマの二人に囲まれてはどんな雀士といえどもひとたまりもない。
これから彼がどんな人生を送ろうが構わないが、できることなら速やかに死んで欲しいと願わずにはいられない。
この街にやってきた道を辿り、イブキは歩き、そして立ち止まった。
振り返らなくても聴こえる。
カジノから走って追いかけてきたのだろう、手を膝について、ぜえぜえと息を切らしている。
シマだった。
「待っててって言ったのに、ひどいよ、勝手にいっちゃうなんて」
「おまえを待つ理由がなかった」
振り返りながらイブキは淡々と答えた。
「仕事は終わったからな」
「終わってないよ」シマは首を振る。「まだ何も」
イブキは髪をかき上げて、ため息をついた。
その様は出来の悪い教え子を前にした教師のようだ。
「何がだ。狗藤は沈んだ。それで何を続けると言うんだ。二人麻雀でもしようというのか」
「それでもいいよ。それがいいなら。だってまだ、決着がついてない」
「決着」とイブキは繰り返し、鼻で笑った。「決着だと?」
「そうだよ。こんな中途半端じゃ終われない」
「決着なんて必要ない。私は十分に稼がせてもらった」
そう言って、ぽんぽんと懐の換金チケットを叩いた。
イブキは口座を作らないため、急遽GGSに頼んで取り立てを一任したのである。
期日になれば、取立人がイブキのいる場所まで金を運んでくる。
もっとも現金そのままでは嵩張って仕方ないため、似たような紙切れの形で渡されるだろうけれど。
「そう、それを賭けてもいい」とシマもまたスーツの内ポケットから一枚の紙切れを取り出して指の間に挟んだ。
「わかりやすくていい。――オールインだ」
「だから、意味がない」
「なくていい」
どちらも一歩も引かず、お互いを気配だけで押し潰そうとしているかのように重い殺気が辺り一帯に充満した。
ぽた……とそんな二人の間に天から雫が落下してアスファルトに染みを作った。
かと思うと、あっという間に雨が降り注ぎ、道路から濡れていないところは無くなってしまった。
霧雨で、お互いの姿が霞む。世界が灰色に、曖昧に、揺らめく様は陽炎のごとく。
「白黒ハッキリさせよう。どっちが、上か」
「おまえの勝ちでいいったら。私はそんなこと、どうでもいい」
ギリ、とシマの奥歯が噛み鳴らされた。決して曇らぬ琥珀色の双眸が悔しげな色に輝く。
そんなシマをイブキは深い傷痕を見るような顔で見返した。
「私にあまりひどいことを言わせるな。私はおまえが嫌いじゃないんだ」
「わたしもだよ。君のこと、好きだ」
「ならよそう。ここで別れよう。それとも友達になるか。
寝物語くらいなら、これから毎晩のように電話してやってもいいぞ」
冗談半分のイブキの提案に、シマはふっと頬を緩めた。
「ふふ、ありがと。楽しそうだけど――それはまたべつの話だ。
君との勝負は本当に久々にドキドキしたんだ。だから――」
「それでいいじゃないか。これ以上、何を望むんだ」
「とびっきりの、死闘――」
イブキはシマをまっすぐに見返した。彼女もそれに応える。
「勝負って大変なことでしょ。人を呪わば穴二つ。勝負もそうだよ。
勝てば官軍? お金がすべて? どうかな。
ホントに何もかも賭けて死闘なんかやらかしたら、共倒れしかない。
どっちも傷を負い、どっちも死ぬんだ。――だから死闘っていうんだ」
「私におまえの自殺に付き合えというのか」とイブキは忌々しげに吐き捨てる。
「死にたいわけじゃない――けどわたしは、ケリをつけたい」
その無謀とも言える真摯さがイブキの癇に触ったのか、冷静な彼女らしからぬ激昂を見せた。
カッと両眼を見開き、怒鳴ったのだ。
「この、分からず屋がッ! だからおまえは災いの種だというんだ、シマ!」
「――災い?」とシマは小首を傾げた。
吹きすさぶ嵐に負けぬように、イブキの口調が右肩上がりに激しくなっていく。
肩口で切り揃えられた黒髪が弄ばれて激しくたなびく。
「今夜の鴉羽の自殺も、元はと言えば一月前の馬場天馬の事件も……おまえがいなければ起こらなかった。
あの臆病者の鴉羽が、麻雀を始めてからどんどん目つきがおかしくなっていった。
何かに酔ったようにな。気づいていたか?
あいつは元々自殺なんてできる男じゃない。
そして、おまえに出会うまでは単なるカスに過ぎなかった馬場天馬が、今では狂人じみた戦闘衝動に駆られている。
二人ともおまえに魅入られて、闘いに心を塗り潰されてしまったんだ!」
「――――」
「今、思えば、私も今回の麻雀は楽しかった。そうとも、ドキドキしたよ。
バカバカしい、楽しいわけがないんだ。
これは私にとって商売だ。金を得るための手段だ。
素人じゃあるまいし、博打に感傷を持ったことなんて一度もない。
その私が、おまえと打つのを楽しいと感じた。それが証拠だ」
「人を悪魔みたいに言うんだね」
悲しそうでもない、淡々とした口調だった。もう何度も同じことを言われてきたのかもしれない。
「悪魔だろう。違うのか」
挑むようなイブキの質問に、シマは色のない表情で答えた。
それは凄絶な美しさを伴っていた。人を見惚れさせるほどの。
「悪魔でいいよ。
人形のままでいるよりは」
すう……と何かを確かめる間を求めたように、イブキが息を吸いこんだ。
「――人の、心を惑わせ、誘導し、破滅させる。
おまえには何も守れはしない……。
平穏も快楽も求めないおまえは、生命に対する冒涜者で、自由への衝動を喚起させる扇動者。
そして鮮血と虚無に塗れた破壊者だ。
――それがおまえの正体だよ、嶋あやめ。
決着だと? 笑わせるな。命よりも大事な決着など、人は求めはしない!」
「わたしは求める。それだけだ」
しばらく、まるで二人で雨の音に耳を傾けているのかと思うような沈黙の後。
静かに穏やかにイブキは問うた。
「本当に――そんな風にしか、生きられないのか」
その問いは、シマは遠い記憶を呼び覚ました。
かつて同じことを問われた。いつも、一番言われたくない人の口から。
永遠に忘れられぬシマの分岐点。
彼女の始まり。長く辛い闘いの起源。決して報われぬ闘争。
数え切れぬほどの寒い夜を、たったひとりで過ごした。
それでも、変えられない答えがあるのだと、シマは信じていた。
「心から――そんな風に、生きていたいと思ったんだ」
ざっ……とシマが半身に身体を構えた。
ゆっくりと片手を持ち上げて、何かを差し出すような姿勢を取る。
「さァ何をする? なんでもいいよ。心ゆくまで、一緒に遊んであげる。
ねぇ――わたしと踊/闘ってよ、イブキ」
「シマ」
「なに」
「付き合わないと言ったろう」
言うやいなや、イブキは欄干を軽々と飛び越えた。
灰色のコートの裾が旗のように翻る。
息を吸うのも忘れて突き出されたシマの手が、虚空を掴んだ。
欄干から身を乗り出し、闇に吸い込まれていくイブキと空中で視線が交錯する。
(――――)
激しい水飛沫が上がり、イブキのいた痕跡が風雨にかき消された後もずっと、最後の一瞬に閃いた憐憫の色を湛えた彼女の瞳が暗闇に浮かび上がっていた。
伸ばした手の先に墨を溶かしたような暗黒が広がっている。
(おまえの手は、血で穢れている)
耳元でイブキの囁く声がする。それはシマの心の奥から聴こえてくる断罪だった。
シマは欄干に手を戻し、その声を聴き取ろうとするかのように眼を瞑る。懐に手をやり、湿った煙草を一本抜き取った。最後の一本だった。
ライターが幾度も火花を散らすが、火は点かない。けれどシマは気にした風でもなく、薄くかすかに目を開いた。
死んだ煙草をくわえながら、火照った身体と心が冷めてくれるまで、シマはじっと雨に打たれていた。
その姿は今にも宙に溶けて消え去ってしまいそうなほど、儚かった。