木島は、弁当を食べ終えてまた、図書館に戻った。
そして、『資本論』の続きを読み始める。その内容は相変わらず彼にはしっくりとこなかったが、彼は読み続けた。
いつの間にか木島は読む事に没頭していた。彼は四十年前と同じように理解したのだ。マルクスの理論を。
マルクスの理論に圧倒的衝撃を受けた彼は呟いた。
「すごいな」
と。そして木島は自分がこの本を完全に読み終える前に共産主義を捨てた事を後悔した。闘争で忙しくて、本を読む暇があまりなかったのだ。
木島が時計をふと見るともう、いつも家に帰る時間になっていた。彼は急ぎ足で、駅へと向かった。
木島には、家のドアが怖くて開けられなかった。何分もドアの前で彼は立っていた。やがて、彼は意を決してドアを開けた。
そして、大声で言う。
「ただいま」
と。が、返事はない。しかたなく、彼は二階に上がり、着替えてまた一階に戻った。夕食をとるためだ。
リビングに、木島が入ってきても、妻と娘はほとんど反応を示さなかった。しかたなく、彼は自分で料理を盛った。
食事中、木島は結局何も言えなかった。いつも、木島は夕食の会話に参加しないのだ。まあ、遥か昔はそうでもなかったのだが……。
夕食が終わった後、妻と二人きりになって木島はやっと声をかける事ができた。
「あの、相談があるんだが」
と。小さい声で言う。彼の妻は不機嫌そうに答える。
「お小遣いの値上げだったら無理。二万円もあげてるんだから十分でしょ」
と。彼はもじもじする。その態度に妻はいらだちながら質問する。
「違うの。だったら早く言って。こっちだって暇じゃないんだからね」
木島は重い口を開いた。
「実は俺は今日会社が倒産したんだ。本当のことだ」
彼は妻をおそるおそる見た。妻は木島を一瞥すると話を切り出した。
「そう。じゃあ私も言う事がある」
と。彼は、妻がそれほど怒っていないので少し安心した。だが、しかし妻の言葉に彼は驚愕した。
「離婚しましょう」
と、妻は言ったのだ。彼は慌てながらその理由を問う。
「なんでだ。しょ、職を失ったからか」
妻はうんざりした顔で答えた。
「もともと会社を退職したら、離婚する予定だったの。無職になったからとかじゃないわ」
彼は愕然とした。そんな彼を見て妻は言った。
「じゃあ。私と娘は出て行くから。詳しい話はあとでね」
そして、妻は自分の部屋に戻っていった。
台所に一人、ぽつんと残された木島の心のなかに沸々といろいろな怒りがわき上がってきた。
一つは会社への怒りである。これは当然と言えよう。一つは妻と娘への怒りである。これも当然と言えよう。一つはそんな二人のために働いてきた自分への怒りであった。まったくもって馬鹿らしい。彼はそう思った。
だが、しかし彼の心の中にはそれらとは全く違う種類の怒りが込み上げてきていた。それは社会への怒りであった。そしてその怒りが最も大きく、激しかった。
社会が悪いのだ。そうだ。社会が悪いのだ。社会がもっと良ければ会社への倒産はなくて、俺は幸せに暮らせたかもしれない。また、妻や娘ももっといい性格だったかもしれないのだ。彼はそう思ったのだ。
そして、彼は心に深く誓った。社会への復讐を。
それにしても連中は腐りきってる。彼はそう思った。一体今まで誰のおかげで生活してきてると思ってるんだ。ふざけるなよ。俺のおかげで生活して来れたんだ。
彼の心の中はそんな思いで満ちあふれていた。
やがて、木島のもとに妻と娘がやってきた。そしてこう告げる。
「じゃあ、私たちはとりあえず私の実家に戻るから」
「勝手にしやがれ」
彼はやけくそ気味に呟いた。
二人はそそくさと出て行く、二人を木島は見送らなかった。
木島は二人が出て行った後、玄関に塩を撒いた。
そして、押し入れのアルバムに挟まっている反社会同盟の名簿を取り出し、順番に電話をかけていく。
連絡が取れたのは、十七人中十一人だった。まずまずと言うべきだろうか。そして、こう言う
「明日の土曜日、暇なら集まろう。集まって反社会同盟の同窓会をやろう。まず東京駅に集まろう」
と。来ると言ったのは七人だった。
木島は反社会同盟を再結成しようとしているのだった。
木島は疲れきってリビングに戻り、寝転んだ。彼は、暇つぶしにふとテレビをつけてみた。やっていた番組は面白くなかったが、彼はかかっていた音楽に惹き付けられた。
かかっていた音楽はビートルズのGetBackだった。ちょうど彼が、大学に入った頃の曲だ。それに、彼はビートルズの大ファンだったのだ。曲名のGetBackとは帰ってこい、とかいう意味だ。
木島はぼーっとしながら音楽に聴き入っていた。彼はいつのまにか呟いていた。GetBack、GetBackと。曲が終わっても呟き続けていた。何故だろうか。彼はあれほど怒っていたのにGetBack、GetBackと延々と呟き続けた。
木島は、そのまま眠りについた。