蟲籠 -deity world-
幕間 「蟲姫様の喜劇」
「"蟲"の……居所? もう、居場所が分かったというの?」
驚く雪村の問いに、いつもの平静さを取り戻した瀬川は答える。
「はい。それはまた後で報告するとして、僕のことです」
そう返すと、瀬川は俯くようにして語り始める。
「僕は中山君に話を聞いた後、心当たりのある場所を、手当たり次第に当たりました。……最も、こんな風貌だから変人扱いされましたけどね」
瀬川は、小さく笑う。
「……それで最初に行った家が、まさに"蟲"の潜有している所だったんです。運が良いのか、悪いのか。その家のインターフォンを鳴らしたときに、やっと気付きました」
「まさか……」
雪村の剣呑とした言葉に、瀬川は頷く。
「もう既に、寄生者《パラサイター》になっている可能性が非常に高いです。インターフォンのスピーカー部分からは、"鮮血に塗れた蛆"が溢れてきました。ドアの鍵も開いていて、中はもう手のつけられない状況で……。一般人から発見されてもおかしくありませんでした」
「と言うと、犠牲者が?」
瀬川は一瞬躊躇ったが、踏ん切りのついたように答える。
「……残念ながら、二人ほど。恐らくその家のご主人と奥さんだと思います。見るも無残で、人間だったと言うことが疑わしいくらい、おぞましい姿でした。そう考えるとなると《パラサイター》、いや、変異体《ミュータント》になっている可能性が高いのは……」
答えを待つかのように、瀬川は押し黙る。
「その家の子ども、かしら」
「……そういうことになると思います」
雪村は納得したように何度か頷いた。それを見て瀬川は、安堵の表情で溜め息をつく。
それを見逃さなかったように、雪村は少し悪戯っぽい顔で、瀬川に迫った。
「それで、どうして今回はこんな単独行動に走ったの?」
「え……」
その答えは全く考えてなかったのか。はたまた聞いてほしくないと思っていたのか。
瀬川は大きく動揺して、しどろもどろのうちに答えた。
「あ……っとですね、その……」
答えた、というより、誤魔化した、に近い瀬川。
呆れ返るように雪村は、こんと軽く瀬川の頭を小突いて、ふふっと笑った。
「やっぱり、"あの子"のことね」
「いやー……、雪村さんには敵いませんね」
「何年世話してきたと思ってるの?」
瀬川もようやく朗らかに笑い出すと、ゆっくりと重い腰を上げた。
「さて、帰りましょうか。みんな、心配してるでしょうから」
「ふふ、きっともう寝てるけどね」
二人は互いに笑いながら、商店街へと続く道を歩き始めた。
θ
誰も、何も知らない。
この"蟲"を主軸にした舞台の結末は、悲劇かも分からない。
それぞれがそれぞれの思いを抱えて、それぞれがそれぞれの行動をする。
誰がどう足掻こうと、結果は絶対に変わらない。
それの結果は、言語学上《神》と呼ばれる意識の元に成立する。
そして――
夜が、明ける。
θ
あくる朝。
窓から直接射す、麗らかとは言えない直射日光に和也は叩き起こされた。
昨晩、カーテンどころか窓さえ開けっ放しにして寝てしまったため、部屋内は夜風やら何やらでしっちゃかめっちゃかになっていた。床には放りっぱなしだった教科書がそのままで、庭先にある柿の木から飛んだ葉っぱが無尽蔵、とまではいかないものの緑の絨毯を作っている。外からは人々の雑談が聞こえ、土曜日の朝らしい、のどかな世界が窓の外には広がっていた。
しかし――――
「ちょっと、和也!? どこ行くの朝っぱらから!?」
呼び止める親の声も無視して、和也は鎖から放たれた狂犬の如く家を飛び出した。
周囲から明らかに不審な目で見られたが、全く気に留めもしなかった。それほど今の和也は焦燥感に駆られていて、周りに広がる緑も人間も住宅地も全てが風景画のように見えた、というよりも背景としか認識できなかった。
白の無地Tシャツ、紺のジーンズと実に一般的な格好で、ポケットに携帯を突っ込んだまま和也は不確かな道を勢いよく走った。
原因は、ある一件の着信による。
和也が携帯の着信音にうなされて起き、眠気交じりで聞いた相手の声。
それは明らかに、"尋常のものではなかった"。
「はいもしもし、だれで……」
『かっ、和也君!? た、助けて!!』
「え? その声は……倉野? ど、どうしたんだ?」
『分からない、唯ちゃんが……。はやく、助けて!!!!!』
「高原が!? ど、どうしたって!?」
『そ、それが……、えっと、どうすればいいか、何も、わかんない』
「わ……分かった。とりあえずすぐ行く」
携帯電話の向こうで何が起こっているかは予測できなかったが、同級生の倉野に危機が迫っているということは、和也の正義感にとって許しがたいことだった。
唯……もいると聞いたが、あいつなら大丈夫だろう。というか、何故あいつがいる?どうしてあいつがいるのに、倉野に危機が迫っているんだ?
和也は息を切らしながら、様々な考えを頭にめぐらせた。
しかし、見慣れない景色に一瞬戸惑うと、その足を止めてしまった。同時に思考回路も、ぷっつりと途絶えるように消えてしまった。
「……!? どこだ、ここ……」
和也は自分の家の周り、宗太の家の周りは大体マッピング出来ていたが、倉野の家の周りと言うと、ほとんど行ったことがないので地図上の家の位置しか分からなかった。いや、それも定かではない。そこまで覚えられるほど頭は良くない。
要するに、和也は道に迷ってしまった。辺りを見回しても、見慣れない建物ばかり。
喉元にせり上がってくる焦燥感は、その隙にも膨張してゆく。
「っの野郎……! どうしろってんだ……!?」
和也が呻いていると、背後から何かが迫ってくる気配がした。
何かが、猛スピードで突っ込んでくる音。何か硬いモノが、空気の中を邁進する風切音。和也は何故かそれに一種の恐怖心を覚え、思わず身動ぎ一つしなかった。
刹那。
"それ"は和也の隣で停止したかと思うと、同じく息を切らして話しかけてきた。
「和也! 乗れ!」
和也と呼んだのは自転車を思いっきり立ちこぎしてきたらしい宗太。宗太は自転車の荷台のほうを指差し、和也に二人乗りすることを要求していた。
もちろん和也は虚を突かれ、呆然とする。
「そ、宗太!? どうしてお前が……」
「いいから早く!!」
おぅ、と驚きながら返事した和也が急いで荷台に腰を乗せると、宗太は、よし、と確認するように呟き、二人乗っているにも拘らず猛スピードで再びペダルを漕ぎ始めた。
その速度は走るとでは段違いで、宗太は器用に角を曲がり、目的地へと急いだ。
「倉野の家は分かる! 掴まってろよ!」
「……!?」
和也は声にこそしなかったが、内心訳が分からなかった。
和也の家と宗太の家は大分離れており、しかも道が曲がりくねっているため、距離にして軽く三キロはあった。それに、今向かっている方向は宗太の家とほぼ逆方向、倉野の家。加え、和也がいたのは人通りも少ない、本当にさびれた道だった。
そして、"なぜ宗太が和也の目的を知っていたかということ"。
確かに倉野が宗太にも連絡したという可能性はないことはなかったが、あの焦っている状況で二人の人物に電話をかけるということは限りなく困難に近い。いわんや、倉野のこと。電話をかけるにしても、昨晩通話履歴があった和也にかけたであろうことは、ほぼ間違いない。
和也はその疑念を言葉にこそしなかったが、脳内神経にどう抗おうとも、また消えることもなかった。
宗太が息を切らして、
「悪いな、ちょっと色々あって遅れちまった! "始まる"前にたどり着ければなんとか……」
「"始まる"? 何がだ?」
「……今は言えねえ。すぐに分かると思う」
答えに詰まるように、宗太は答える。
その、明らかに尋常ではない様子に、和也は自らの思惑とそれが一致していると想起し、見えないところで黙って肯いた。
「あと……少しだ。もうすぐ倉野野家が見えるはずだ」
宗太は呟くと、学校に遅刻するなんかよりもよっぽど気合を入れて自転車をこぎ、坂のない平坦な道を滑走した。
あと少し、で、目的地が見えようとする。
ぎ、
錆びかけた自転車のチェーンがいっそう耳に鳴り響くが、もうそんな音は雑音として受け取ることすらない。
二人を乗せた錆び自転車が定期的に悲鳴をあげ、一種の電子音とも聞き分けがつかないそれが和也の耳の中で縦横無尽に駆け巡る。
「あと少し……」
思わず漏れた声を察知して、自転車の速度は更に増す。
と。
運転手の視界に目的地が確認できたのか、今度は次第に速度を緩めていく。
和也が奥を遠望すると、パステルカラーで彩られた、まさに現代建築といった建造物がゆっくりの視界の隅へ姿を現した。
宗太の口からは安堵とも何ともとれない息が漏れる。
和也は眉を訝しく寄せ、その家にじっと焦点を合わせた。
その時。
「うわっ!!!」
二人の進んでいた道の脇から、猛スピードでタクシーが飛び出してきた。
幸いこちらも猛スピードだったため、ギリギリのところでかわし、その後ろでタクシーがすぐ傍のコンクリート製の壁にぶつかる音が鼓膜を引っ掻いた。
……和也からすると、事故を引き起こす可能性もあったに拘らず止まらなかった宗太、タクシーとの衝突を免れたこと。全てが、嘘のように思えた。
正確にいえば嘘ではなく、非、現実。
「っぶねー、何考えてんだあのタクシー」
「警察……連絡した方がいいよな?」
当然のこと、それも人間として常識の内を和也は尋ねたが、
「……いや、いい」
「え?」
ただの確認で終わらせるつもりだった和也の顔が、僅かに曇る。
「今は、それどころじゃねえ……。てか、きっとあれは"違う"」
「違う、って……だから何がだよ。さっきから」
「…………」
宗太は黙り込む。そのことを聞くなと、和也に無言で促す。
和也もそれを察知したか、
「……わかった、先を急ごう。もう、倉野ん家は目と鼻の先だ」
「あぁ」
宗多が勢いよくブレーキをかけると、その反動をバネにして和也は飛び降りる。
続いて宗太も自転車を放ると、駆け寄って和也に並んだ。
目の前に聳える、本当に普通の住宅を目の前に、
「急がねえと……」
和也は慌しい中、ひどく冷静にこぼした。
†
想像以上に広い、同級生倉野美紀の住宅の中。
構造上その中心部にのびている廊下を、二人は歩いていた。
フローリングで設えられた床を土足で、焦りもせず、初めて友達の家に遊びに行ったような感覚に、和也は陥る。
初めて、なのだが。
宗太が先頭に立ち、その後ろを辺りを見回しながら和也が歩いて、室内を踏破する。
家の中からは恐ろしいくらい物音一つせず、二人の床を軋ませる音だけがまるで空き家と化したような家を覆った。
「…………」
和也は正直、今自分が何をしているのか分からなくなっていた。
ここまで自転車に二人乗りしてまでやってきたが、それまで起こった情報を整理しているうちに、思考回路がうまく働かなかった。
朝早かったというのもあるが、理由はそれだけではない。
倉野の突然の連絡。そして焦燥感に駆られたその声。
さらに到着直前、計ったか如くタイミングで飛び出してきた謎のタクシー。
そして、尋常ではない親友の様子。
全てが信じられない事象そのもので――、また、疑わしい対象の全てだった。
だが、和也は何もおくびにはしない。
足音だけが、何もない空間を埋め尽くす。
「…………」
沈黙を破ることは、どちらも出来なかった。
窓があまり目に留まらず照明も落とされた状態のため、廊下は昼間、いや朝であるにも拘らず暗さを持ち、ひっそりと佇んでいる。
どの扉を開ければ倉野の部屋に通ずるかも分からず、薄暗い隘路を二人は床を軋ませながらたどった。
一歩ずつ、慎重に。
和也は走ってでも突入したかったが、宗太が「慎重に行こう」と言うので、何を考えているかは分からない、されど自分より今の状況を把握しているだろう宗太に従うことにした。
一階の大体の部屋を見て回り、玄関の方を振り返って、
「やっぱり、二階だな」
あぁ、と宗太が強張った顔で答える。
和也は率先して階段を上がり、その上にあるだろう倉野の部屋へ――――
刹那。
"ぞわ、"
と、底冷えする恐怖に似た生温い風が、上の階から流れてきた。
それこそ、破壊の始まる三秒前の笑顔のような、無慈悲で残酷極まりない空気。
粘っこくて、身体に纏わりつくようなそれは、ただでさえ極限状態に迫っている和也の精神をさらに追い詰める。
「ッ……」
和也は胃の内容物を吐き出しそうな悪寒を覚えたが、それを無理矢理押し飲んで、目指すべき方向へ目を向ける。
「和也……大丈夫か?」
「あぁ、心配かけて悪ぃな」
宗太の憂いを含んだ表情に、和也は笑って見せた。
(大丈夫だ。きっと、何も起こらない)
根拠のない言葉が頭をめぐり、何とか自分を宥めようとする。
一歩段を上がるたびに、心臓が強く波打って、呼吸の律動が速くなる。
何があるのかは分からないが――
"何かがある"ということは、わかる。
その揺るがない卓説を壊したくて、和也はやや焦ったように、先走って階段を駆け上る。
宗太は少し戸惑いつつも、その後を追って階段を軋ませる。
――頼む。
何も、起こらないでくれ――
宗太は決して叶わないと分かっていながら、そう思わざるを得なかった。
なぜなら、こうなることは"あの男"が言っていたから。
あの男が――瀬川と名乗った、霊能者が。
階段を上り終わるやいなや、和也は駆け足で、直感的に倉野の部屋の方へと向かった。
遅れないように宗太も、できるだけ息を殺して和也の影を追う。
「物音一つしないな……大丈夫なのか?」
和也が不安の念をいっそう強くして、呟く。
宗太は今更ながらその事実に気付いて、表情から血の気が引いていく。
考えたくはなかった。
宗太は、瀬川という男から最悪の状況の可能性がありうると聞いていた。
それがゆえに、その現実的な非現実を受け入れられなかった。
頼む。
頼む。
頼む。
宗太は一心に、そう願った。
今この場で起きていることが、夢であって欲しい。
あわよくば、何もかもが嘘になって、どこか遠い海へと流れ去ってしまえばいい。
どこか、遠い場所。自分達がいない、遠方地。
その、消えていった物が再び戻ってきてしまわないか、心配だった。
薄氷を踏む思いで、只管に願い続けた。
「倉野ッ!!」
和也は「MIKI」とネームプレートの飾られたドアのノブをひねると、そのままの勢いで思い切り押し開けた。
……そして、絶句した。
和也も、その状況を予測できていた、宗太さえも。
視界に飛び込んできたのは――
頭から血を流して横たわる、倉野美紀。
そしてその傍に立つ、血まみれで屹立している少女の後姿。
その毅然と立ち尽くす人影は、音に気付くと、静かに和也たちのほうを向いた。
その顔に、"ぶくぶくに膨れ上がった蜂の幼虫のようなものの群生を湛えながら――"
ゆっくりと、笑った。