蟲籠 -deity world-
深い深い闇の底
「油断してはいけないよ静馬君……」
「はい、分かってます瀬川さん……」
ちらりとアイコンタクトを取りながら、静馬は手先に神経を集中させる。指先が震えて上手く焦点が合わなかったが、一呼吸置くと一気に獲物との距離を詰める。
静馬の額に汗が走る。瀬川の息を呑む音が耳を掠める。
すんでのところで手元が狂ってしまいそうになりながらも、静馬は落ち着き払って自らの右手に五感の全てを集中させる。
願わくは快刀乱麻のごとく、するり、と。
して、刹那。
静馬の一手と共に、その対象が大きくよろめき、体勢を崩す。
「…………ッ!!」
「大丈夫だ静馬君。気後れしちゃいけない」
瀬川の言葉に後押しされ、静馬はもう一度ターゲットに照準を絞りなおす。
見たところ、幸いにもこちらの動揺具合には気付いていないらしい。むしろ、それがどうしたと言わんばかりに堂々と立ち誇っている。もしかしたら、相当の自信があるのかもしれない。
静馬は一瞬脳裏に流れた『敗北』の二文字に気圧されそうになりながらも、歯を食い縛ってその右手の力を強くする。
力んではいけないということは知っていた。
しかし、それすら忘れてしまうほど、今の静馬は動転しきっていた。動転、と言うよりは、迷路に浸った人間が四六時中その中を彷徨し続けるような、そんな心情。
「焦ると、間違いを犯しかねない。慎重に、ゆっくりと遂行するんだ」
瀬川の言葉も耳から耳へと流れ、静馬の聴覚は自身の脈動の音だけに支配されつつあった。
そのくせ視界だけは敏感で、対象がよろめくたびにはっとその方を見てしまう。すかさずそこで「諦めたら負け」という自制心が働きかけ、何とか取り乱してしまうことだけは避けられた。
静馬としては、これは巧まざる進歩なのかもしれない。
以前は理性を感情や本能によって完全に塗り潰されていた静馬だったが、それから三ヶ月もの時期を過ごした所為か、徐々に理性を保つことが出来るようになっていった。これは"経験者"である瀬川の目から見ても、著しい回復傾向だった。
だからこそこのような大事な場面で、瀬川は静馬に全てを託した。
それこそが信頼に繋がると、瀬川は考えていたから。この身寄りのない少年を少しでも安心させてあげるには、信頼出来る人物が身の回りにいなければいけないと考えていたから。
静馬に、全てを任せた。
「あと……少し……」
静馬が対象に顔を近付けながら呻く。
真夏の太陽が容赦なく顔を照らし出したが、静馬の心中はそんな物ごときに構っている余裕はなかった。
蒸されたような空間の中で、静馬は静かに決意を固める。
(ここでやらなきゃ……僕は変われない!)
もう後には引けない。
静馬は歯の上に唇までも食い縛り、手先の末端に全身の神経を集中しつくす。その感覚はまるで、漫画で言う『なんかオーラのようなものが漂ってる』雰囲気に限りなく近いものだと、静馬は実感した。
実際に感じたことはないものの、どうもそんな気がした。
そんな事を適当に考え、目標が油断した隙を狙い――――
「ここだっ!!」
静馬は思い切り、自身の指先を引いた。
そして、次の瞬間。
「な……!?」
静馬の思惑は外れ、崩れ落ちてしまった。
が、崩れ落ちたのは、自信でもなければ、静馬の命でもない。だからといってこの『雑貨屋 アトランジェ』でもなければ、ことの終末を見守っていた瀬川でもない。
「やったー! これで五連勝ですね雪村さん!」
「……二人とも、こういうことに関しては本当弱いのね……」
静馬の眼前に広がるのは、無残に散らばる木製のジェンガだった。
†
「それじゃあ、今日はこれで」
「うん。また明日もよろしく頼むよ」
瀬川と軽く会釈を交わしてから、静馬は『雑貨屋 アトランジェ』を後にした。
空は茜から黒色に模様替えする途中で、どことなくノスタルジアな空気が漂う町並みに足を踏み入れると、部屋のあるアパートへと向かう。
初めて"蟲"と遭遇した後、静馬は『雑貨屋 アトランジェ』に居候することを進められた。家事全般はしなくてよい、朝昼夜飯付き、安全、とこの上なく好条件の揃った状況だったが、静馬は自ら断って新しくアパートに住むことにした。家賃は雪村が出してくれるとの話だが、静馬はいずれはそれも断るつもりでいた。
静馬が単身で住むと決めた理由については、静馬自信さえもよく分からなかった。ただ、静馬の直感的な何かが、そうするようにと促してきたことに起因する。それが自立本能の果てから漏れたものなのか、あるいは排他的主義の一環として生み出されたのかは、全く分からない。
――――もしかしたら、自分の中にはまだ"蟲"がいて、再び襲いやすくなるような環境を造るために脳を支配しているのではないだろうか。
いつの間にか静馬は、そう思うようになった。
ありえないことではない。あれほど信じられないような現象を引き起こす、"蟲"。それならば人の意識を支配する蟲がいたとしても、おかしい話ではない。実際、瀬川の腕から撒き散らされる蟲よりもその"蟲"の方が現実味が強い。
(その蟲もいつか、僕の中から出て来るんだろうか)
確証こそなかったが、来る時期には現実になるだろうと、不思議な確信があった。
欧風建築の立ち並ぶ通りを抜けながら、静馬は似合わないハンチングを片手で押さえて、帰路を辿る。茫、と灯りだす家々の明かりが足元を薄く照らした。それをかいくぐるようにして、黒くなった地面だけを踏み鳴らし、歩みを速める。時折往来する黒い人々を避けるように掠め、何の目にも留まらぬように暗夜を独歩する。
吹き始めの風が前髪を軽くなぜると、静馬は気持ちの悪そうに顔をしかめた。
宵闇に堕ちた半月の不気味な光で等身大の影が地面に映って、静馬はそれにいつまでも追い掛け回されているような心持ちがした。
「……おかしい」
ぴたりと足を止めると、人が変わったように目を見開いて、静馬は独白した。
不意に、視界に残ったままの街路樹が、ざわ、と呻いて、どこからともなく陰鬱な風が唸り、言葉の端々を紡ぐように吹き荒れた。
静馬はそれを言葉としては受け取れなかったが、一種の"言語"としては感じ取れた。もう一度辺りを見回して、人がいないことを確認する。
それは、自分ではない誰かが呟いたものかと確かめるための行動か?
――――否。確かめる必要などなかった。
静馬が夜の街を見回したとき、確かに感じる違和感が、そこにはあった。
突如として姿を消した、往来の人々。
そして、その代わりに、唯一静馬の視界に飛び込んできた。
一匹の、白い"蛾"。
一般人には、ただの気味の悪い蛾にしか見えない。
静馬には、ただの気味の悪い蛾には見えない。
この空気を作り出した中優雅に飛び回る白蛾は、信じがたくとも信じざるを得ない、また今現在最も静馬が出会いたくなかったものの出現の証でもあった。
不幸の運び手は静馬の頭上をくるりと回ると、やがて紺色の空を駆け巡っていた一点の白は、すう、と闇に解けるように消えてしまった。
後に残る、妙な虚無感と、一抹の不安。
静馬は深く息を吐くと、眉をひそめて一言だけ呟いた。
「……"蟲"、か」
………………
…………………………
月の光が映るドアノブを捻って、静馬は部屋の中に入る。暗闇から暗闇へ身体を移し、手探りで電灯のスイッチを探す。その拍子に何かが倒れたが、気にせずに奥へと進む。
やがて灯った目映い光に、静馬は一瞬よろめいた。暫くして目が慣れると、静馬は倒れこむようにしてベッドへと寝転んだ。どさっ、と音を立てて、静馬の身体は布団の中へ埋もれる。俗に太陽の香りと呼ばれる焦げたダニの臭いが嗅覚を刺激して、静馬はゆっくりと目を瞑った。
「…………」
自分の"力"が目覚めたあの日以来、静馬はいくつもの"蟲"と関わり、そして自身の力を使うことなく、生き延びていた。
あれ以来大規模な蟲は出現していないため、静馬が力を発揮できるような事件は、ほとんどなかった。やったことと言えば、、力の一つともいえる直感力や考察力で蟲の居場所を調べることぐらいだった。
直接的な戦闘にかかわったのは、<インセクター>としてはまだ一回だけ。
「…………」
静馬はぼやけて光る蛍光灯を見上げ、溜め息を漏らす。
不甲斐なさと空虚感が入り混じった阿吽の塊は、すぐに溶けていってしまう。部屋の空気が、鉛のように重くなった。
静馬はただぼんやりと頭上の光を見つめ、無心で布団の中に蹲った。
体が、沈む。
頭が、沈む。
意識が、沈む。
暗い暗い、底の知れない暗闇の中に。
幾度か眠りの淵から呼び起こされるにつれ、浮かび上がる意識の中で、静馬は瞼を上げる。
闇色をした、吸い込まれていきそうな無重力空間。
いくらもがこうとも、眼下に地はなく、周囲に壁はない。触れることの出来るもののない、小宇宙の片隅のような場所で、静馬は力なく項垂れていた。
寝ているのか、起きているのかも定かではない。
ただ、その事実が今のこの状況に関連してくるとは思えなかった。
目を開けても閉じても変わらない、縦横無尽に拡がる無限闇。耳を劈いてくる、耳鳴りにも似た一種の悲鳴のような奇怪音。
鳥の声。
人間の金切り声。
古ぼけた金属音。
発信源は、全く分からない。
自分の心臓の音を聞きながら、そっと耳を澄ます。
遠いどこかから響いてくる、近付いてくる、何かの叫喚。虚ろになる意識の向こうから、段々とその意識を表していく。
暗闇の中、耳だけに神経を研ぎ澄ます。
そして、
きぃ
と、一つだけはっきりとした"声"が聞こえた。
物音ではない、と聴覚が判断を下した。人間の声域を限界まで上げたような、超音波に近い"声"。
きぃ
もう一度、今度は若干声が大きくなった気がした。
胸元にこみ上げる気味の悪い嗚咽感を押さえ、息を殺して耳をそばだてる。
………………
……………………
が、それきり声は響かなくなった。
いつの間にか訪れた沈黙の中で、静馬は少し狼狽する。
何だったんだ……?
ここは自分の部屋なのか。そうでなければここはどこなのか。
そんな疑問の前に、静馬は小さく呟いた。
目を頑なに閉じたまま、静馬は再び呼吸を始めた。
額から垂れた汗が、つう、と流れ、首元に行き服の襟を濡らして――――
その時だった。
静馬は自らの身に、強烈な違和感を覚えた。
静馬は、目を閉じている。 ……違う、目を、"何者かに押さえつけられている"。
全身に感じる、ひんやりとした感触。それはいわゆる自然現象の類ではなく、例えるなら、"死体が持つ独特の異臭に満ちた冷却感"。
「………………!!」
気付いたときには、喉元まで前の嗚咽がこみ上げていた。
身体の奥深くに眠っていた何か、恐らく、"蟲"であるそれを吐き出そうと、静馬は腹に力を込め――――
「うぐ……っ!!」
すんでのところで、再び何者かに口を抑えつけられた。
その所為で、"何か"が放つ腐肉臭に嗅覚を盗られ、一瞬にして嘔吐感を催した。
全身に走る悪寒が、みるみるうちに増幅する。口の中で渦巻く吐瀉物の海が更に小間物店を広げる。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
生きたい。
生きたい。
生きたい。
静間の中で死への恐怖が張り巡らされ、同時に生への切望が頭の奥からこみ上げてくる。
して、刹那。
その思考を、遮るように。
「みぃつけた」
鉛のように、重く沈んだ声が脳裏に響いた。
「…………!!」
次に目を開けたときは、元通りぼんやりとした光が僅かに揺れていた。
顔の横から漂う、焦げたダニの匂い。静馬は、自分の部屋に横たわっているままだった。
時計を確認してみると、既に深夜二時を回っていた。
……夢?
それにしては、感覚が現実じみていた。
暗い、暗い、深海の底のような場所で。
静馬は――――
「………………? あれ、どうしてたんだっけ……?」
とんでもなく恐ろしいものに襲われていたと言う記憶は残っているが、それが何だったのかは、まるで脳が記憶を再生するのを拒むように、思い出せなかった。
一種の記憶喪失のような、ひどい倦怠感。
視覚が薄れてモノクロになった視界の中に、静馬は一つの異変を感じ取る。
見上げた光の中で蹲る、一つの影。
それからぱらぱらと舞い落ちてくる、白い、何かの、粉。
卵の形に似た、白い粉。
これ以上見逃すことは出来ない、揺るがない証拠。
あの事件以来感じることはなかった、妙な寒気。
明るい暗闇の中、ただその茫とした光に包まれた、静馬ともう一つ――――
"蛍光灯に張り付くようにして死んでいる、大きな白い、蛾"。