第三話 活動写真館での密談
起 ”誰にも予測不可能な出来事”
”いつ何事が起こるか、分かったものではない”
これはグレアム=グリーンの「第三の男」の書き出しの一文である。
実際の所、未来を予知出来ない限り、何らかの事故や事件を見通す事など出来やしない。
何と言うか、あの日…超人Xからの予告状を受けた先生は非常に珍しい事に、言葉も少なく、予告状だけ僕に見せてくれたが、肝心の超人Xからの先生への手紙は結局見せてくれなかった。
普段の先生からは信じられない事であったが、先生は僕に隠し事をしているとしか思えない素振りであった事を覚えている。
先生は、あくまで普段道理に接している心算(つもり)であろうが、僕は違和感を感じた。
それもそのはずである。
先生は後日、常識では考えられない事を行う事に成ったのだ。
これは、後ほど先生から聞いた、その”常識では考えられない”話の顛末(てんまつ)である。
承 ”活動写真”
「失礼。探偵の佐伯先生でしょうか?」
先生が梅田の活動写真館の前で煙草を吸っていると、一人の青年が声をかけて来た。
洋装で身を包み、縁(ふち)の広い帽子をかぶっている青年は深々と頭を下げ、先生に対し声をかけた。
「左様でございますが、貴方様は?」
「私は貴方とお約束をしておりました、大阪府警刑事の大谷と申します。お待たせ致しまして申し訳ありません」
「あっ、これはとんだ御無礼を。では参りましょうか」
二人は活動写真館の中に入り、出口傍の人気が無い席を選んで座る。
彼らの他、観客は疎ら(まばら)にしかおらず、弁当として持参して来た握り飯の匂いがあちこちから漂って来た。
しばらくして大きなブザーが鳴り響き、照明が落とされ辺りは真っ暗闇に包まれる。
そして暗黒空間と成り果てた室内に一筋の光が走り、真っ白な幕に映像を映し出した。
「貴方は御本人様でしょうか?それとも代理の方ですか?」
頭上から大きな声で活動写真の物語を語る”語り部”の声に掻き消されそうな囁き声で、先生は大谷と名乗る刑事に声をかける。
「手紙にも書いておりました通り、私は一人ですよ。だからそれは無意味な質問でございます」
大谷はそう答える。
彼らの目線には米国人と思われる俳優が拳銃を手に持ち、華麗なるステップで敵の銃弾を避け、見事に脳天を撃ち抜く。そんな場面が映し出されていた。
そして物語の語り部の口調も熱く、「バァーンバァーン」と銃声を叫ぶ辺りでは耳元が痛くなるほどの大声を上げている。
「成程、それは失礼致しました。では質問を変えて宜しいですか?」
「ええ。四半刻しかない上映時間の内にお互いの事を知り合いたいので、出来れば直球でお願い致します。私も貴方と本音で話し合いたくこの場を作らせて頂きましたので」
大谷は目線を活動写真の映像から逸らさずに、小さく、しかしながら脳内まで響く様な口調で話す。
「左様ですか。では”超人X殿”。貴殿が私と直接話したいと思った理由などを聞かせて貰えませんか?」
大谷はこの時初めて目線を先生と合わせ、深く濁った笑みを見せた。
転 ”そして幕は開かれた”
先生は大谷を”超人X”と呼び、彼もまたそれに応じた。
”常識では考えられない事”とは、つまり”世紀の大怪盗”との直接対談についてであった。
「私が貴方に興味を持った事は先日の招待状に書いておりましたね。実は私もあの時、警察の中に入り込んでいました」
思いがけない告白であったが、先生はそれに対し恐れも驚きもせず、じっと彼の言葉に耳を傾ける。
「意外でした。私の仕事をあれ程明確に推理出来る方がいた事に。それ故に私の興奮は収まらず、貴方に優先して予告状と失礼ながら、お手紙を添え付けしまして郵便箱に入れて置いたのです」
超人Xはニコリと微笑み、手提げ袋から水筒を取りだし、「どうぞ」と先生に対し渡す。先生もまた「どうも」と言うと、疑いも無しにその水筒から注がれたお茶を三口で飲み干した。
先生の目の前に居る男は再び頬笑み
「貴方は私の想像以上だ。一見無防備に見え、それでいて緻密に計算された行動。穏やかな様で、激流の様に激しい情熱。そしてその大胆さ…とても素敵です」
超人Xはそっと彼の右手の上に手を置き、
「拳銃を取ろうとするのはおやめ下さい。私は血を好みませんが、必要があれば其れなりに対処しますし、何より貴方自身の安全の為です」
先生は彼の手を退け、目を周りに走らせる。先程まで響いていた語り部の口調は少し硬く、緊張した様な声で物語を淡々と述べていた。
「実際に仕事を行うのは一人ですが、私にも手下が至る(いたる)所にいるのです。何かあれば直ぐに命を賭けて此処にやってくるでしょう」
超人Xは勝ち誇った様な口調で先生に語る。しかし先生はそれらに対しても落ち着き払い、動揺の色を見せずに言葉を返す。
「なぁに、此処で貴方を捕まえる事は非常に簡単ですよ。但し、今此処で貴方と勝負する訳では無いのでしょう?場所は三日後、府立美術館」
「そう。私の業(わざ)で貴方と勝負し、”永遠の炎”を奪ってこそ美しい決着。必ず貴方を膝まずかせて見せましょう」
そう言うと彼は席を立つ。
「楽しみにしていますよ、佐伯先生。ではごきげんよう」
彼の顔はまるで別人の様に歪んで見える。
後方から扉を開く音がして、暗く闇に包まれている室内に太陽の光が差し込んだ。
「バァーンバァーン、ジェイムスの放った弾丸は大盗賊ロビンロイドの脳天を貫き勝負は着いた。牧場を脅かす悪を正義の弾丸が打ち倒したのだ」
再び語り部は映像に合わせクライマックスの場面を熱く語る。
「まったく…とんでも無い奴に惚れこまれたものだ…」
先生の手には大谷刑事の”顔”が作り込まれた仮面が握られており、
”俺の顔を覚えても無駄だぞ”
と言う超人Xからの無言の伝言に冷や汗を垂らしていた。
結 ”今日もコロッケ”
「夕飯はコロッケがいいなぁ」
井戸端で水浴びを済ませた先生はいつもの笑顔で僕にお使いを頼んだ。
ようやく、僕もホッっと胸を撫で下ろし、先生から渡された1円札を握り締め洋食屋へ走る。
事務所に帰って来た時の先生は、とてもじゃあないが異常であった。
何時も笑顔を絶やさない人と思っていたが、汗まみれの服を脱ぎ散らかすと、全裸のまま井戸へ向かい何度も何度も冷たい水を体に浴びせた。
その姿は一種の狂気を孕んでおり、情熱と言うより執念。熱意と言うより決意を漂わせていた。
四半刻後、僕が事務所に戻るといつもの様に大森警部がそこに居り、先生と真剣な顔で話し合っていた。
「今日…超人Xと会いました…」
先生の言葉に僕も大森警部も、一瞬体が金縛りにあったかの様に動きが止まり、手に持ったコロッケの入った袋を床に落とす。
事務所内は、不思議な緊迫感が流れ、誰もが無言となった。
そんな中、大森警部が口火を切る。
「…佐伯君…今日もコロッケかね?」
「ええ…警部もどうですか?」
「有り難い。今日は忙しくて昼を抜いていてね」
いやいや…そこが重要じゃあないでしょう!!
僕の心の声など届く訳も無く、買って来た四つのコロッケの内、三つは大森警部の腹の中に収まり
いつも通り僕の口には、一個のコロッケの更に半分しか入る事は無かった。