納豆は、淫乱だ。
突然何を言い出すのかとお思いであろう。だが、わたしは至って真面目である。
ちなみにわたしことへーちょは超絶美少女という設定なので、存分に萌えて頂いてかまわない。
さて、納豆は折からの健康ブームもあり、今や日本の朝食の帝王として、その座を確固たる物としている。
健康的な朝食に幾度となく登場することによって、納豆は清く正しい、というイメージを形成することにすら成功している。
しかし、それは見せかけではないのか。
納豆はそんなに清く正しくはない。
わたしの直感がそう告げている。
大体、糸を引くということがすでにどこかいやらしくすらある。
納豆が淫乱であるかどうかを検証するために、今回わたしは近所の西友で納豆を買ってきた。
三パック八十四円の何の変哲もない納豆である。
こいつを一つ、卓上に置く。
目に映るのは、雪のように真っ白のスチロールパックだ。
清楚。
貞淑。
純潔。
そんな言葉が思い浮かぶ。
だが、見た目とは裏腹、一皮剥けばその本性は、とんでもない淫乱なのだ。
わたしはそれを知っている。
だというのに、納豆の奴は、そ知らぬ顔で真っ白な衣装を纏って澄ました顔だ。
なんという欺瞞か。
なんという粉飾か。
この嘘、あばかでおかれじと文語体の義憤と正義感に突き動かされて、スチロールのパックを開けると、中で納豆のやつめは下品なビニールに組み伏せられて大人しくしている。豆はそれぞれしっかりとした粒を保って、ビニールの下にきちんと詰め込まれている。
監禁、という言葉が頭に浮かぶ。
その様子は、一見哀れにも見える。
だがそのビニールを剥がそうとすると、納豆の奴はそれを手放すまいと糸を引く。
わたしは驚いた。のみならず、いきり立ちもした。
この納豆という奴は、どこまで色狂いなのか。
どうやら、きついお仕置きが必要のようである。
わたしは納豆を見下ろし、嘲りの笑みを浮かべながら、
「そんなビニールなんかより、もっといいのをぶち込んでやるからな」
すると納豆は、ぬらぬらと豆を光らせなんともいやらしい。
それでも口では気丈に、
「あなたなんかに、思い通りにはされないわよ」
その言葉通りに、納豆のやつめに少しでも触れれば糸があっちゃこっちゃくっつき合ってやっかいこの上ない。中々思い通りにならない。
「言うことを聞いたほうがいいんじゃないか? 何せ君の大切な人は、こっちの手の中にいるんだから」
彼女ははっと目を見開き(納豆の目ってどこだ)、
「主人は、主人はどこですか?」
納豆は伴侶の姿を捜し求める。だが、彼女の良人たるゴハンは、炊飯器の中に監禁されているのだ。だから手の中というより、釜の中である。
彼女は悔しそうに目を潤ませる(だから目ってどこだ)。
そう、納豆の良人はゴハンなのである。
納豆に対してゴハンより相性のいい相手は、他にない。
昨今はうどんやスパゲッティやカレーに納豆をかけるという趣向もあるようだが、やはり納豆といえば白いゴハンにとどめをさす。
この見解には日本人の九割が首肯してくれるのではないだろうか。首肯しない人は帰化人か、関西人に違いない。あっち行け。しっしっ。
日本人は納豆が大好きだ。平均年に百回は納豆を食べる(気がする)。我々の独自の調査によると、水戸の人に至っては、一日五回は納豆を食べるという。(朝昼晩と夜食、おやつに食べる計算)
さて、話を目の前の納豆に戻そう。
わたしが箸を構えると、納豆は恐怖に震え、嫌がってみせる。
だがそんな見せ掛けの態度に誤魔化されるわたしではない。
内心では、この箸が欲しくてたまらないに決まっているのだ。
わたしは嗜虐的な悦楽すら覚えながら、ちょうど納豆の中心のあたりに、ずぶりと箸を突き立ててやる。
そのまま少しずつ動かす。
最初はまだ固さが残り、抵抗があるが、徐々にほぐれて柔らかくとろとろと糸を引き始め、まるで箸を包み込むように納豆の方から腰を振ってくる。(腰ってどこだよ)
「あぁっ、だめ……っ!」
なんて口では言ってても身体は正直に糸を引く。
ぐりぐりと、時に捻りもくわえつつ、(スチロールパックの)ナカをかき回してやる。
納豆はその動きに敏感に反応して、にちゃにちゃといやらしく粘る。
「はぁっ……、粒が、粒が溶けちゃうっ!」
小粒納豆が極小粒くらいになったあたりで、箸を止めてやる。
名残惜しげに気泡の弾ける音がぷちぷちと聞こえる。
やっぱり、口ではあんなこと言っておきながら、身体は飢えてたんだな。
納豆は肩で息をしながら、
「……もう、満足したでしょ? 早く主人を離してよ」
だが、これでご飯と対面できると思ったら大間違いだ。
存分にかき回された納豆へ、まずはタレが注入される。
泡立ち糸引いたねばねばの中に、どろりとしたタレが注入されるのだ。
そしてさらにかき回す。
今度はネギとカラシ。
辛味を二つも同時に投入されて、納豆はもう息も絶え絶え、かつては元気だった臭いすら弱っていくようである。
始めのきちんとと豆の詰まった様子はどこへやら。今や納豆は、自らの糸と砕けた豆と、ネギとカラシとによって少し黄色いふわふわの姿と成り果てている。
そこへほかほかの白いゴハンを持ってくる。お待ちかねの、夫婦対面である。
しかしようやくゴハンと対面できたときには、もう彼女は変わり果てた姿なのである。
それでもゴハンの上にたらされると、納豆は飯粒一つ一つにいとおしげに絡み付き、二人は抱き合って永遠の愛を確かめ合うのである。
美しき夫婦愛に、合掌。
愛の結晶は、大層うまかったです。