春夏
「はるにゃつ」
『はるにゃつ』
早朝。そろそろ寝るかなと思った時だ。
「にゃぁにゃぁにゃぁ」
カリカリと、窓をひっかく音がした。鍵は開いているから自分で入れるだろうに、部屋の灯かりが点いていたせいで、奴は私に『ここを開けろ』と命じているらしかった。
「……まったくもう」
立ち上がり、カーテンを引く。
「――ナツ」
庭に、黒い毛並みの美猫(母談)がいる。薄明るくなりはじめた夜空のなか、そこだけ、切り忘れたかのように黒かった。
「にゃあにゃにゃ~」
「……どしたの?」
名前は夏に拾ったのでナツ。
母は言う。我が家の前のゴミ収集場で、朝方、鴉と争って生ゴミを求めている姿が初見であったと。
『ニャァ!』
吼え、悠然と黒き翼を持つ者に挑む、騎士のようだった。気高く、それでいてどこか高貴な雰囲気があり、繰り広げる死闘さえもまた、優雅な舞踏の色があり、一目で心奪われた――とかなんとか。
母は無類の猫馬鹿だ。
ちなみに鴉は、私が箒で追い払わされた。真夏日であったせいか、雪白さん家の娘さんは、いよいよダメになったのね。大学を七年かけて卒業して、結果が実家住まいのコンビニフリーターですものね。等という噂が経ったものだ。
後半は哀しいことに、真実なんだけど。
「にゃ~にゃ~にゃ~」
「うるさいよ。早く入りな」
「にゃ~~~っ」
「なんなのもう」
金色の瞳の視線を追う。
「あれ?」
我が家の塀の上。一匹の猫が、私達を窺うように見ていた。ナツとは対照的な白の毛並みで、翡翠色の瞳が印象的だ。
野良でうろついている猫って感じじゃない。明らかに血統書つきの猫様だ。首輪が無いのが気になったけれど。
「アンタねぇ……どこのお姫様を捕まえてきたのよ」
「にゃあ!」
「にゃあ、じゃねーわよ」
得意気に鳴く黒猫の頭を、ぺちっと叩いた。
「……にゃっ……」
すると白猫が、小さな声で案じるように鳴いていた。そして、ぴょんと塀の上から、跳び『落ちた』。
ころん……にゃー。
「おーい!? 家の塀、二メートルないぞーっ!?」
「にゃあっ」
てててっと、ナツが側に駆け寄る。さすがに心配になって、私もサンダルを履いて庭に出る。
「大丈夫なのアンタ。っていうか、ほっそ!」
「……みゃ~」
ガリガリ、とは言わないけれど。ギリギリ細身と言えるぐらいの体躯だった。手足はすらっと細い。子猫じゃないのだろうけど、ナツよりも一回り小さい。
「骨とか、どこか折れてるのかな」
「にゃあにゃあ」
ナツが、大切な宝物を気遣うみたいに、白猫の身体をぺろっと舐めた。
「みぃ……」
白猫は応えるように小さく鳴いて、ゆっくり起き上がる。それからスリスリと、うちのナツに顔を寄せていた。
「にゃっ!」
ナツが『こっちおいで』と、窓の隙間から家の中に入っていく。白猫も私の方を一度だけ見てから、家に入ってしまった。
「あれー、普通に走ってたよね、今」
妙な震え方もしていなかった。
やっぱりまさか、普通に落ちたんだろうか。前にテレビで、塀に跳びあがれない、太った猫っていうのは見たけれど。
あの子、細いしなぁ。
「運動音痴? さすがにそこまで音痴な猫がいるわけないか」
*
後日、連れていった獣医からハッキリ言われた。
『異常ありません。単に運動音痴なんでしょう』
念のため、いくつか病院を梯子したが、結果は同じだった。
「……アンタ、なんで猫に生まれたの?」
「……にゃぁ……」
思わず言ってしまうと、白猫はとっても哀しげに応えた。ナツが素早く側に寄って、慰めるように身体を摺り寄せる。すると白猫もまた、くすぐったそうに、嬉しそうに鳴く。
そんな白猫は、母命名で『ハル』と名付けられた。
「二匹合わせて、はるにゃつね~♪」
「お母さん、えらい気にいってるね」
「だって、孫の顔が見れる気配がないんですもの」
「…………」
聞かなかったフリをした。
ちくちくと、地味に刺してきますね、お母さま。
*
春と夏は、二匹共メスだった。
「にゃ~」
「にゃあにゃあ」
「……にゃ……」
「にゃあお」
「にゃん」
「にゃー」
仲睦まじく、私の膝上空間で、いちゃラブってくれている。
雄雌であったならば、子猫がぽこぽこ出来ているだろうと思えるぐらい仲が良い。それでいて二匹とも、私の膝上空間が一番のお気に入りらしいので、素直に邪魔。
「にゃ~♪」
「みゃ~♪」
エターナルすりすりすりすり……。
「もう勝手にやってろ貴様等」
飽きもせず、互いの身体を舐め会う二匹を見つつ、私は膝かけをしたまま、カチカチマウスをクリックして、ネットに興じていた。
「にゃっ!」
したらナツが『撫でろー』と催促してくる。気まぐれで、甘えたがりなところのあるコイツは、こうなるとしつこい。
「わかったわよー、もう」
片手でマウスとキーボードを操作して、反対の手で、よしよしと黒い毛並みを撫でてやると、
「……にゃー」
ハルが不安げな声を出して、翠の瞳で見上げてきた。
『――あまり、にゃるみさんに触らにゃいでください……』
とか、訴えていそうだ。
誰だよ、にゃるみさんって。
それでも気にせず撫でていると、恐る恐る、
かぷっ。
「いたぁ!」噛んだし。
「にゃーぅ……」うるうる瞳で、じーっ。とっちゃだめ。
「……ごめんごめん、取りゃしないわよ」
言って、今度は反対の手で、ハルをよしよし撫でてやる。中々人に慣れない美猫は、それでもゆっくり、目を閉じていった。じっとしていると、まるで『置き物』みたいだと思った時だ。
反対側から、むぎゅっと、肉球の感触が来た。
猫ぱんちっ。
『はるにゃは、あたしのにゃんだから、あんまり触るにゃあにゃあにゃあ~~~っ!』
「今度はアンタか!」
だから誰だよ、はるにゃて!
これも放っておくと、そのうち爪を立てて本気で引っ掻いてくる。二匹がじーっと、私の方を見上げてる。
『はやく撫でろよー! でもはるにゃを撫でちゃダメだぞ』
『撫でてくれると嬉しいです。でもにゃるみさんを撫でちゃイヤ』
「――面倒くさいわあああぁぁぁっ!!」
本から手を離して、両手でそれぞれの猫をわしゃわしゃ撫でる。噛むなら噛め! ひっかくならひっかけよ! もういいよ!
『……にゃるみさんに……はう、でも気持ち良いです……』
『はるにゃに……むぅ、気持ちいー……」
うみゃうみゃと、白と黒の二匹が安らかに寝息をあげていく。
よし、私の勝ちだっ!
「……猫と本気で張り合ってしまった……」
やれやれと、私もまた、瞼の重みを感じていた。
今日は二匹分の小さな重みを抱え、眠りにつくとするか。
『――という夢を見たんだけど、聞いてんの、ユミさん?』
「アンタ来世でも私につきまとう気かっ! 他所でやれっ!」
『はるにゃ2』
ウチの猫は、最近土鍋にハマっている。二匹が身を寄せ合うと、ちょうどすっぽり収まるサイズだ。
「にゃぁにゃぁ!」
「みゃ~」
こたつの上、土鍋の中で相変わらず、イチャイチャする二匹。他所でやれよと思いながら、うるさいので蓋を被せておいた。
『……ゃ~……』
火を点けずとも、この二匹は年中お熱いのだ。
*
「――ただいま」
早朝にコンビニバイトから帰って来た私は、さっさと靴を脱ぐ。今日もしんどかったなと思いながら居間に戻ると、こたつの上には土鍋と、一枚の千切ったメモ帳が添えてあった。そこには母の字で、
『はるにゃ2 入ってます♪』
と書いてある。しらんがな……。
(しかしまぁ、眠ってるコイツらは可愛いんだよねー)
私は音を立てないように、そぉっと土鍋の蓋を持ち上げる。そして絶句した。
「…………とうとう、できたか……」
土鍋の中。
白いのと、黒いのと、小さな三毛猫いのがいた。二匹に挟まれて、幸せそうに「ぷーぷー」寝息を立てていた。
*
猫大好きな家の母は、翌日からご機嫌だった。
「うわーい♪ は~る、にゃ~つ、あ~き~♪」
歌うように言ってから、私を見た。
「……ふゆー……」
「喧嘩売ってんのお母さん!?」
一応、猫の育成費は、すべて私持ちなんだけど。食費もネット代も入れてんだけど。フリーターの肩身はここまで狭いのか……っ!
「冬美、月末までに嫁にいってくれると助かるんだけど」
「なにその邪魔な粗大ゴミを扱うような言い草!?」
「孫産んだら認知してあげるからね。冬美を」
「私かよ!」
「実は貴女は、橋の下で拾ったのよ……」
「それ最初の猫だろ!! 私そろそろ泣くよ!?」
「泣く前に嫁にいくか働いて」
「うわーーーん!」
お母さんなんて、だいっきらい!
私、絶対お嫁さんなんかにならないもん!
一生フリーターでいいんだもーんっ!!
『――という夢を見てさぁ。いやー、さすがに心配になってー』
「ナル、ちょっとツラ貸しなさい。おねーさん怒ってないから」