Neetel Inside ニートノベル
表紙

春夏
姫宮秋の恋心

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 * 二年目、姫宮秋の恋心。

 私の好きな人は、ますます大人びて、綺麗になった。
 近寄り難い空気と、陰りのあった表情が薄れ、花咲くように笑う姿が増えていた。言葉を選ばない率直な人達は、「一年の時と比べて、愛想が良くなったよね」なんて言う。
(――綺麗だなぁ)
 窓から、気持ちの良い風が流れ込んでくる。長い髪が、少し揺れた。
 私の席は窓際だった。幸運なことに、藤原さんの一つ後ろ。凛と伸ばした背筋を、一番の特等席で眺められる。
(ほわぁ……藤原さん、とてもお美しいですぅ~)
 去年はまだ、自分の気持ちが恋なのか、一種の憧れなのか、微妙なところだった。けれど日が経つにつれて、気持ちは燃え上がる一方で、確信してしまった。
 
 好きです。貴女が大好きなんですよぉ~~~~~~っ!。
 
 身体を前に伸ばせば、触れる事が叶う距離。
 華奢な後ろ背を。ぎゅって、ぎゅうぅぅってしたいぃぃ~~っ。
(嗚呼! 春は貴女の季節! そして、私のラブもファイヤーシーズンっ!)
「……というわけで、第一次世界大戦後、戦勝国の集ったベルサイユ会議においても、アメリカとイギリスは、白人主義を掲げたわけですな」
 飛んでいた意識が、現実に帰ってきた。
 そうでした。今はお昼休みを終えた、世界史の授業中なわけでした。
「あらゆる人種は平等である。人は人種によって差別されない。しかし当時の国際連盟規約には拒否されてしまったわけですな。さてさて、今学生である皆様が、この意味をどう捉え、感じておられるのか。個人的にも、非常に興味深いところでありますなぁ」
「お爺ちゃん」というあだ名の先生は、のんびりと、穏やかな口調で授業を進めてくれる。春の陽気とも相まって、夢の世界へと引っ張られてしまうのだった。でも藤原さんは、時折小さく頷いて、きちんとノートを取っている。私はそんな後ろ姿に見惚れながら、幸せな午後の授業を過ごしているのだ。
「そんな中、人種平等を述べた、日本の代表は立派だったと言えましょう。しかし……話は少々逸れますが、この十数年後、日本が中国の領土に、満州という国を設立し、支配体制を築いたのは皆さんもご存じでしょう。満州事変について生じた西欧との鋭い対立、および後の戦争への繋がりを考えた際、これは非常にデリケェトな問題の一つです。……さて、ここは重点的にテストに出す…………かもしれませんぞ」
(むむっ!)
 姫宮アンテナに反応アリ。私は急いで、教科書にぴぴーっと赤線を引く。
 お爺ちゃん先生ってば、さらっと重要な事を言うので、油断できない。うん。大変な時代背景があったことは理解しています。いますけど。私達にとっては、テストで良い点を取ることも大事なのです。ごめんなさい、過去の偉い人達。
(……それから、もっと大事なことは、やっぱり好きな人に振り向いてもらうこと! あぁ、藤原さん大好きっ! 私の超熱い視線に気がついてぇ~~っ!)
 藤原さんの背に、念を送る。目からビームが出そうなほどに、姫宮パワーを送り続けた。
「……?」
 真面目にノートを取っていた、その手が止まる。
 これはっ! ま、まさか、愛の力が届いたのっ!?
「…………ふふ」
 私にだけ聞こえる、小さな声。
 胸がドキドキする。でも彼女の視線は、私ではなく外に向けられていた。つられて校庭の方を見れば、赤いジャージを上下に着込んだ、女子生徒の集団があった。見覚えのある女子生徒が、軽く手を振っている。
(……な、なん、です、とーーっ!?)
 三階の教室からでも分かる程の、イケメンっぷりだ。色気なんて微塵もない、学校名の刺繍が入ったジャージ姿でさえ、憎らしいほど様になる。
(うぬ~っ! またしても夏野さんなのですかぁーっ!?)
 私の好きな人の、好きな人。
 二人は恋人なのだと言う人達もいる。でもでも、私は断じて認める訳にはいかない。だって、藤原さんは、素敵な乙女なのですからっ!
(騙されちゃダメです藤原さんっ! 夏野さんは性質の悪いオオカミですよっ!)
 露骨にフェロモンを撒き散らし、気安く「愛人にしてあげるよ」なんていう、ホスト系色女に、大事な藤原さんは渡せませんっ。
 きっと嫌がる藤原さんを「俺も寂しいんだ……」とかなんとか言って、押し迫るんです。その後、悪い人達と付き合って、ヤバイ薬に手をだして、借金も一杯作っちゃって、泥沼にハマったところで、ぜーんぶ藤原さんに押し付けるんです。最低っ。
 夏野さんは「世の中が信じられくなった」とか無責任なことを告げ、組織から逃げだして、行方知れずになっちゃうんです。どうにかして見つけたところで、
「……最低な人生だったけど。春奈のことは本当に愛してた。ごめん、な……」
 とか調子良いこと言いやがって、ぐふっと血を吐いて死ぬんです。
 藤原さんは一杯泣いて、お腹には子供もいて、周りに反対されて中絶しちゃって、それから新しい男が出てくるんだけど、それもまた悪い奴なんですよぅ!
(最近、携帯小説でそーいうの読んだんですからっ! 超リアル系純愛って書いてたから、間違いありませんっ! 正直あんまり面白くなかったけどっ!)
 顔の良い、ホスト系のイケメンが悪い奴だということは、よく分かった。ちょびっと騙されたいなと思うけど、藤原さんは、ダメ、絶対! だって乙女だからっ!!
(夏野さんは、藤原さんから離れるのですぅぅぅ~~~!)
 念を送る。ぴぴーっと送りまくる。
 藤原さんから離れろ~、別れろ~。おー、おー、おぉぅおぅおぅ~。
「――世界恐慌。暗黒の木曜日とも呼ばれる、株価の大暴落です。さて、一転してこうなった理由を、簡潔に説明してもらいましょう。はい、姫宮さん」
「おおぅっ!?」
 いきなり自分の名前を呼ばれて、慌てて席を立つ。その時、大きな音を立ててしまって、お爺ちゃん先生が、びっくりして私の方を見てた。藤原さんも、少しきょとんとした顔で、私を見上げている。
「あ、あ、あのあのっ、すみません! 念を送ってましたっ!」
「は? 念?」
「い、いえっ! その、ぼーっとしてました!」
「素直でよろしい」
 お爺ちゃん先生がそう言うと、クラスの中で笑いが巻き起こる。藤原さんも一緒になって、くすくす笑ってた。うわ~~~ん!
「では、代わりに藤原さん。解答を頼めますかな」
「はい。イギリスによる国際的な貿易と金融システムが、戦後、イギリスの国力が衰退したことにより、麻痺していた事が原因です」
 藤原さんも窓の方を見ていたはずなのに。あっさり答えた。
 うんうんと、お爺ちゃん先生が頷いた。
「そうですね。アメリカはそれに気がつかず、国内生産に重点的な力を注ぎました。戦後補償もあったため、国民は総じて豊かになり、大量生産・消費・投資ブームとなりました。しかし冷戦の終了によって、海外に投資したお金が、旧ソビエトや旧東ドイツに流れ込んだまま、返ってこなくなったのですな」
 きーん、こーん、かーん、こーん。
「はい、では本日の授業は、ここまでにしましょう」 
(……はうぁぁー……)
 最悪だ。なんていうかもう、とにかくとっても最悪だった。

 女子寮に帰ってから、私は早速、同室の沙夜ちゃんに泣きついた。
「――なので今! 私は! 世界で一番優しくされたーいっ!」
「はいはい」
「今、世界中で私の相手をしてくれるのは、沙夜ちゃんだけなんだよぉ~~~っ!」
「はいはい」
「私、可哀想」
「……」
 机に座って、パソコンをカタカタ動かす、沙夜ちゃんの後ろ背に抱きついた。
「すりすりすり」
「アキラさん、邪魔よ」
「ひにゃん!」
 椅子をきゅきゅっと動かして、弾きとばされた。
「沙夜ちゃんヒドイ。私達、幼馴染みなのに」
「えぇ。おかげ様で十周年ですわ」
「違うもん、今年で十一周年だもん」
 ぎゅーっと抱きしめると、小さく呆れた返事がきた。
「まったく……」
 沙夜ちゃんが、片手で眼鏡を持ち上げる。普段はコンタクトなんだけど、部屋では眼鏡をつけて、髪を一つにまとめてる。そんな姿は、とっても仕事ができる感じのお姉さんだ。
「アキラさんの話を聞いていて、ふと思ったのですけれど」
「うみゃ?」
「なんだか娘を取られたくない、お父さんみたいな物言いですわね」
「……えー?」
 言われて、思わず首を傾げてしまう。
 お父さんって、つまり。
「大事な娘を、どこの馬の骨かもしらん、貴様のような奴にくれてやれるかァァーっ!
 ……っていう、朝ドラ風のあれ?」
「えぇ、それですわ」
 沙夜ちゃんが、的を得たりという感じで頷いた。
「そんなことないもん。それだと、私が一人で空回りしてるみたいじゃない」
「そこは自覚しなさい。ハムスター」
「ハムスターぢゃないもんっ、去年は二センチも伸びたんだからっ!」
「誤差の範囲内ですわねぇ」
「誤差じゃないもん~~~っ! 機械の奴で、超正確に、ぴぴっと計ったんだからぁ! 二センチっ、本当に二センチ伸びたのー!」
「はいはい。よかったわね。気が済んだらあっちで遊んでなさい」
「ひどい~!」
 これは抗議しなくては、と思った時だ。
『――おーい、姫、沙夜、そろそろ夕飯できるから降りてこいってさー』
 扉の先から、諸悪の根源である、夏野さんの声が聞こえてきた。
「あ、はーいっ!」
 扉を開けると、去年よりも、一段と格好良くなったお顔が立っていた。

 ご飯を食べてお風呂に入った後、
「なんとなく、顔が見たくなってさ」
 ピンクのパジャマ姿で、イケメンが部屋に押し入ってきた。
「アキラさん、塩撒いて追い返しなさい」
「うん」
 残念ながら塩を切らしていたので、ポテトチップの袋、うす塩味を開ける。
「あっ、寝る前のお菓子は太るんだぞ。仕方ないな、あたしも手伝ってやるよ」
「カロリー計算は完璧なので、ご心配なくー」
「なんだよー、姫のけちんぼ」
 気安い王子さま。もとい、ダークな色気を放つイケメン(ピンクのパジャマ姿)が、後ろ手に扉を閉めた。実に堂々と部屋を横切って、ポテチを数枚掴みとり、二段ベッドの下に腰かける。
「んー、あたしはやっぱ、ポテチはコンソメ派だね」
「ちょっと、零さないでくださいよっ!」
「だーいじょうぶだって」
 肉食獣のように、ニヤリと笑うこの人は、ほんっとーに性質が悪い。去年、女子寮で初めて顔を合わせた時には、確かに、ときめいたりもしたけれど。
「……藤原さんは、どーして、こんな人が好きなんだろう……」
「そりゃあ、顔がいいからじゃないの?」
「うわっ、今本気で『うざっ!』ておもいましたよ!」
「姫、最近はだな、ウザ可愛いっていう新ジャンルが―――いてぇぇっ!?」
 ひゅんっと風を斬る音。イケメンの後頭部に、割り箸が片方、突き刺さって落ちた。机に座っていた沙夜ちゃんが、手首だけを返した状態で、こっちを睨んでた。
「まったく。貴女の言動はいちいち耳触りでしてよ」
「なんで割り箸?」
「ポテチ専用ですわ。手が汚れるのが嫌なのよね、わたくし」
 ふっ、と笑う沙夜ちゃんは、どこかのスナイパーみたいで、格好良かった。
「夏野、少しは目上の者に対する礼儀を改めなさい」
「お断り。あたしは、あたしの思ったように生きるんだ」
 不敵に流して、それから私をいきなり、ぎゅぅっと抱きしめてきた。
「ちょ、なんですかいきなりっ!」
「お姫サマ、沙夜が卒業したら、来年は相部屋になろうねー」
 甘い吐息が、ふーって耳元にかけられる。
「は、離してくださいっ、わ、私はっ、夏野さんのライバルなんですから~~っ!」
「えー、三角関係より、三人幸せの方がいいじゃんか」
 気安く、そんな事を言って、ほっぺにちゅ、なんてことをしてくれる。――と、
 ヒュンッ!
 ぱしぃっ!
 高速で飛んできた割り箸を、イケメンが片手で掴み取る。
「遅いな。二度は喰らわないぜ?」
 女子とは思えない低い声をだして、口端を吊り上げてみせるイケメン。手には、さっき後頭部に刺さった、もう一つの割り箸が捕まっていた。
「……生意気ね。一撃喰らっただけで見切ったのは、貴女が初めてよ」
「そりゃどーも」
 ぱっ、と握った手を放せば、割り箸は重力に従って、床に落ちていく。
「アキラさんから離れなさい。ダメ女」
「やーだね」
 もう一度、ちゅっと触れる。あわわわわっと、顔が火照ったのを感じた時だった。
「……わたくしのアキラさんに、ポテチ食った汚い手で触んじゃないわよっ!」
 沙夜ちゃんが、怒っていた。
 いつもは微笑を湛えて怒る沙夜ちゃんが、眉をハの字に曲げて、怒り狂っていた。
 机の端に置いてあった、必殺の凶器が眠る小瓶を手にする。
「げっ!?」
 さらさら取りだしたのは――つまようじ。
「まて! それは反則だろっ! つーか、なんでつまようじっ!?」
 漬物用です。ぷすっと刺して食べるんです。
「離れなさい! アキラさんから離れなさい! このっ! このぉっ!」
 ひゅひゅひゅっ!
 ひゅひゅひゅっ!
 ひゅひゅひゅんっ、ひゅんっ!
「いっ、いてっ! 馬鹿やめろ! ちくちくしてすげぇ痛てぇぇぇっ!」
「ほーほほほ! 幼少の頃にアキラさんと、『くの一ごっこ』をして編み出した秘技を、たーっぷり味わうがいいですわぁ~~っ!」
「くそっ! なんて奴だ! こうなったら……!」
 がしっと、両肩を掴まれた。
「へ?」
「姫、バリアーッ!」
 ちくちくちくっ!
「いったああああああああああ!?」
「ア、アキラさんっ!? くっ、夏野鳴海! どこまでも卑劣な女……っ!」
「沙夜ってばひどいよなぁ。本当、サイテーだぜ」
「そう言いながら盾にしないでくださいっ!」
「ごめんな、姫のことは超愛してるんだけど、痛いのは嫌なんだ」
 最低だ。このイケメン。
 全私が泣いた。
「もーっ!」 
 決めた。ぜーったいに、あげない。
 朝ドラ風の親父と言われようがっ、そもそも私がそんなこと言える義理なのかとか。
 そんな事、この際、どうでもよろしいっ!
「夏野さんなんかにっ、藤原さんはあげません~~っ!」
「おっ、姫が怒った怒った」
「でてけー! でてけバカ~~っ!」
「はいはい」
 ぺしぺしと、部屋からイケメンを追いだすことに成功した。そして胸を張って、勝利のぽてちを一掴みしようとして、気がついた。
「……ぽ、ぽてちが、ない……っ!」
 いつのまにか、空の袋と化していた。
 おのれ、おのれイケメン!
 夜、お布団に包まれていると、お腹がちょびっと鳴いてしまった。

     

 次の日の、早朝。もうすぐ雨季が訪れる、五月最後の日。
 皆が同じ制服を着て、流れるように歩く中でも、貴女の後ろ背ならば、一目で見分けられる。
「藤原さぁん!」
 声をかけると、ぴたっと足が止まる。
「あっ、姫宮さん」
 振り返った表情は、とても穏やか。
 素敵だ。女神様のようだ。
「おはようございます」
「お、おはよーございますっ! きょ、今日も良いお天気ですねっ!」
「えっ」
 藤原さんの瞳が、ぱちくりした。静かに空を見上げ、私もつられて顔を持ち上げると、空は「どよ~ん」って曇ってる。太陽が見えない。
「……えぇと、今日は午後から、雨が降るそうですよ?」
「そ、そうでしたねっ!」
 彼女の手には、学生鞄と紺色の傘がある。私の手にも、コンビニで買ったビニール傘があったりする。藤原さんの笑顔が眩しすぎて、今日見た天気予報を、すっかり忘れていた。
「え、えへへへへー、バカですねー、私」
 誤魔化すように笑えば、藤原さんも、ほんの少し微笑んだ。
「いいえ、そんなことありません」
(……はうあー!)
 胸がきゅんきゅんする。
「あ、あのねっ、昨日ねっ! 夏野さんがねっ!」
「鳴海さんが、どうされたんですか?」
「えぇとねー」
 私は幸せ気分で隣に並び、傘を時々鳴らしながら、二人一緒に正門を抜けた。
 他愛のないお話をしながら、靴箱まで歩く。途中、こっちをチラチラ窺う視線を、なんども感じていた。
(すっごい見られてるよねー)
 藤原さんは二年生になって、ものすごーく綺麗になった。以前から美人さんだったけど、それは額縁の中に収まった、名画のような印象だった。決して手の届かない、心まで触れることは叶わない、そんな距離があったのだけど。
「ふふっ、鳴海さんったら相変わらず、ダメな人ですね」
「そーなんですよー。本当に我儘で自分勝手なのですっ」
「でも、鳴海さんの中身は、実はとっても、乙女なんですよ」
 肩を震わせて、屈託なく笑う藤原さん。頬を赤くして笑う彼女は、本当に、綺麗だ。
 去年の暮れ辺りから、私は藤原さんと仲良くなったけど、彼女の一番にはなれなかった。
(まだまだっ、諦めてないもんっ!)
 今はこうして、憎っくき恋敵の話題で、彼女の笑顔を見ているだけ。でもいつか、その眩しい笑顔を一人占めできるまで。私のファイトは続くのだっ。
(きっと、貴女を振り向かせてみせますっ! いちゃいちゃらぶらぶと、白い家で二人きり、「はい、あーん」なんてことをする、そんな爛れた甘い毎日を目指すのですっ!!)
「――姫宮さん?」
「はっ! す、すみません。幸せな妄想をしていて、心、ここにあらずでしたっ」
「楽しいですよね。私も最近、些末な事を、空想している自分に気がつきます」
 藤原さんはまるで、自分の夢や目標といったものを、今まで、考えたことすらなかったようだった。そんな彼女を変えたのは、

『――まったく、あたしってば、存在自体が罪だよな。まいっちゃうぜ』

 脳裏に浮かんできたウザメンを「そいやっ!」と投げ飛ばす。宙に浮かんだところを、沙夜ちゃんと遊んだ格闘ゲームの、必殺十六連コンボを決めている途中で、「ばぎゃーん!」と気持ちのいい音がした。
「はうーーッ!?」
 右肘が、とっても痛い。
 びりびりっ、ときた。
 ぶんすか手を動かしていた時に、現実の靴箱の角に、ぶつけてしまったらしい。
「だ、だいじょうぶですか?」
「ひゃ、ひゃい~!」
 半分涙目で頷く。あぁもう、最近本当に、ダメダメだ。
 まるでアホの子だ。がっかりして、自分の靴箱を開けた時だった。

 はらり……。

「う?」
 なにかが落ちてきた。白い、長方形の小さな封筒。なんだろうと拾い上げた時、
「まぁ、恋文ですか?」
 少し弾んだ感じの、藤原さんの声が聞こえてきた。
 あまり性能のよろしくない、姫宮こんぴゅーたーが、フリーズした。
「………………ほげん?」
 半端に口を開いた、カバみたいな顔をしていたと思う。たっぷり十秒間悩んで、恋文というキーワードがヒットした後、最も単純で、あたりまえの答えに辿り着いた。
「わわわっ、ごめんなさい、はい、藤原さんっ!」
「えっ?」
「やだなー、靴箱を間違えるなんて、うっかりさんですよねー」
「あの、それは、姫宮さん宛てだと思いますよ?」
「そそそ、そんなはずはははははっ」
 ガクガクブルブルと、膝が震えだした。
「ななな、ないない! そんなわけないないですっ!」
「でも名前が書いてますよ、ほら」
 長くほっそりした指先が、白い紙片の中で、唯一黒い文字を指し示す。
 私もカバみたいな顔で、ほげーっと、その場所を眺めた。

『 姫宮 秋 様』

 姫宮こんぴゅーたーが、熱暴走を起こした。
「ふ、ふおおおぉぉぉぉlーっ!?」
 まず、言語能力が一気に低下した。顔が真っ赤に熱くふおー、手足の指先にまでふおー、心臓が大変なふおおおーことにふお~~~~~っ!

『――ぴよぴよぴよ~っ!』

 その時いやん、私の頭がやんやん、黄色いひよこが羽ばたいてっ。
『――ぴぴっ! 残念な秋に代わって説明するっぴ! 姫宮秋がテンパったり、残念な状態になった時、頭の中に寄生している僕等『姫宮ひよこ』が活躍するんだっぴ!』
『ぴよー! こちら脳内っ! かなり混乱してるみたいなので、鎮静剤を一本投与しておくっぴ~。嘴アタック! 嘴アタック! 嘴アタックぴょっ!』
『ぴよんっ! こちら心臓部! ハートがドキドキしすぎなので、お経を唱えて落ち付けておきますっぴよー、はんにゃ~ほ~れ~ぴ~よ~ん~』
『ぴぴ~! こちら手足! 緊張で筋肉が麻痺してるので、羽でこしょこしょしておきますぴょん。こしょこしょこしょ~~っ!』
『ぴよんっ! こちら胃袋! 今日の朝は山菜ご飯とお味噌汁、秘伝のお漬物に加え、ししゃもだった模様っぴ! 実に健康的だっぴ! 合格!』
『ぴよー! 稼働率五十パーセントまで復帰っ! そろそろ再起動かけるぴよ~!』
『らじゃ~~っ!』
「――落ちついて、落ちついて姫宮さん。気を確かに」
「ぴよっ!?」意識レベルが、ハムスター並みに 復 活 完 了 。
 姫宮秋――それは確かに、私の名前だった。自分の黒歴史ならともかく、こんな一途なまでの「らぶなれたー」を貰うなんて。初めてだった。
(あ、ありえないっ……なにかの間違い……いや、これは……っ!)
「藤原さ―――」
「素敵な方だといいですね」
「ああああぁぁぁんっ!」
 彼女はキラキラと、優しい眼差しで私を見ていた。一縷の望みは、あっさりと崩れ去る。
「姫宮さん。ひとまず、教室に行きましょう」
「……そうですね――いえ、あの、えぇと……ごめんっ! 私、ちょっと、トイレにっ!」
「あっ、もうすぐ予鈴が鳴り―――」
 きーん、こーん、かーん、こーん。
 祝福の鐘なのか、それでも破滅への一歩なのか。判断のつかないままに、全力ダッシュで女子トイレに駆け込んだ。
(よ、よしっ! だれもいないよね……っ!)
 超特急で、一番奥の個室に滑り込む。便座を下ろして、鍵を閉める。
(……お、落ちついて、落ちついて落ちついて落ちつけえぇぇぇっ!)
 ドキドキ土器怒気。
『――出番ピヨ?』
 うぅん、まだ大丈夫。
(は、はふぅー……)
 息を零せば、やっと少し、落ちついた。
 緊張感が通り抜けていく。封に手を添えると、しゅぼっと、また火が点いたように熱が戻ってきた。いっそのこと、イタズラだったらいいのに。そんな風にさえ思って――
「あ」
 指先は正直だった。「ぴり」と微かな音を立てて、あっさり封を開いてくれる。

『一年一組の、卯月慧と申します。
 いきなりこのような手紙を差し上げたことを、まずはお詫びさせてください。
 直接にお話をと思っていたのですが、まったく接点のない自分が、先輩に声をかけていいものか迷い、このような手紙を書いた次第です。
 もしご迷惑でなければ、本日の放課後、図書室にてお待ち申しております』

(……し、知らない名前だ……っ)
 とは言っても、一年生の名前なんて、同じ女子寮の子ぐらいしか知らない。所属している生徒会にも、まだ新しい一年生は入ってないし。思えば一年生男子の名前って、一人も知らないや。
 何度も何度も、手紙の文字を目で追った。
 ようやく熱が冷えた頃。私はほけーっと、トイレの天井を眺めていた。
(……これは、まごーことなき、らぶなれたー、です、よね……?)
 実名が書いてあるんだから、悪戯とかじゃない気がする。というか仮にも受験をして、高校生になってまで、その程度の悪戯をする人間がいるとか、想像したくない。
(……とゆーことは、だから、でぃす、いず、らぶなれたー、なのですよね?)
 魂が抜けたみたいに、力が入らない。ぼーっと、ぼーっと、繰り返していた。
 らぶなれたー、らぶなれたー。
 きーん、こーん。
 らぶなれたー。らぶなれたー。
 かーん、こーん。
(……えーと、今って何時……?)
 我に返ってみると、トイレの個室とはいえ、辺りが妙に静かだったりする。さっきまで、廊下を歩いていた生徒の声が、すぐ側まで聞こえていたような―――
「あわっ、あわっ、あわわわわーっ!?」

 ざばーっ。

 反射的に水を流した後で、壁の張り紙が目に留まる。
『――節水にご協力を』
「ごめんなさいっ!」
 姫宮ダッシュでトイレを出る。廊下を走り抜け、階段を上り、二年一組、自分の教室の扉を開けた。同時に担任の先生が、ペンを持った手で「ぴしっ!」。
「残念だったな、姫宮。ギリギリ遅刻だ」
「はうあっ!」
 この日、私の皆勤賞は、トイレの泡と消えてしまった。

 私は昔から、同時に二つの事が考えられない。
 頭の中にはずっと、らぶなれたーの影が、チラチラ過っている。
「……うー」
 お昼休みになるまで、授業はもう、さっぱりさっぱりでした。それどころか、何をやっていたのか、すぽーんと記憶が抜け落ちています。
「今日はもう、ダメです……私はダメ人間です……ハムスター以下です……」
「姫宮さん……」
 生徒会室で、藤原さんと二人でお弁当を広げている。哀しいことに、フォローが無かった。
「あ、あのですね……」
 藤原さんが、おずおずと、心配そうな顔で私を覗き込んでいる。
「合同体育の授業で、一人だけ逆周していたのは、覚えてますか?」
「……記憶にございません……」
「では、お爺ちゃん先生の授業で、日清戦争の起こった年代を尋ねられて『ラーメンです』と答えたのは?」
「記憶にございませんっ!」
「三限目の英語の授業中に、トムがスーパーマーケットで買った物は、『愛はプライスレス。初めてのレモンは淡い香り』と答えたのは?」
「あ、あのっ、私、本当にそんな事をやらかしたんですかっ!?」
「……残念ながら……」
「ゆ、ゆめじゃなくてっ!?」
「現実です」
「ア、アホーーーーっ、私のアホーーーーーっ!」
 なんていうかもう、穴があったら潜って埋って、上から漬物石で蓋をしてしまいたい。
 半泣き気分になりながら、「もっさもっさ」とお弁当を突くしかなかった。
 おのれ、おのれ、らぶなれなー、め。
「姫宮さん、今朝の手紙、やっぱりそうだったんですね」
「………そうみたいなのです……」
 きんぴらごぼーを貪りながら、助けを求めるように、藤原さんを見る。
「素敵なお相手だといいですね。陰ながら応援させて頂きます」
「あ、ありがとぅ……」
 超複雑な気持ち。らぶなれたーが、藤原さんからだったら、喜んで胸に飛びこませて頂いたのに。
(……どうせ、私はハムスターですよぅ)
 ガッカリした時だった。がらっと音を立てて扉が開いて、夏野さん、沙夜ちゃん、昴様の三人が部屋に入ってきた。
「あら二人共、早かったのね」
「はい。授業が早めに切り上がったので。お先に頂いてます」
 藤原さんが軽くお辞儀する。
 もはや生徒会室でお昼を取るのが、日常的なことになりつつある今日この頃。
「春奈ー、あたし、お腹空いたー」
「はい。今日は体育があったので、カロリー高めに、中華がメインになってます」
 ぽんっと、まるで魔法みたいに、夏野さん専用のお弁当箱が出てくる。
 藤原さんと夏野さんは、今日もらぶらぶです。
 コの字型に並んだ机、空いた藤原さんの隣に、夏野さんが座る。沙夜ちゃんと昴お姉さまは、私達三人の対面に。これが自然に生まれた定位置だった。

 夏野さんがお箸を動かしながら、ふと私の方を見た。
「あっ――ところでさ、姫」
「なんですか?」
「今日の体育の時、どうしたの。一人で逆走してたろ」
「うっ!」
 藤原さんの言葉を信じなかったわけじゃないけれど、まさか本当にそんなことしてたとは。なんか、真面目に自分が心配になってきた。
「……なにをやってるの、アキラさん。無意味な反抗をするよりは、相手の心意を掴んで、籠絡させた方が後々楽ですのよ」
「その行為に、振り回される部下の身にもなって頂戴ね」
 ぺしりと、軽いツッコミが的確に入った。昴様と沙夜ちゃんもまた、らぶらぶです。
「……寂しい……」
 思わず呟いてしまう。
「一体どうしたの、アキラちゃん」
 優しく、にっこり。
 昴お姉さまが、やわらか~い笑顔で、ぽかぽかと慰めてくれる。あぁ、素敵な乙女って素敵。私の頭は一瞬でお花畑状態になって、そわそわ漂う蝶々のようなご気分で、例のブツを取り出してしまう。
「見てください、お姉さま。実はこんな物を貰ってしまったのですよー」
「あら、まぁ。ラブレターね」
「なんだと!」
「なんですって!」
 夏野さんと沙夜ちゃんが、焦った様に席を立つ。そんなに驚かなくても。失礼な。
「あれ。でも、よく分かりましたね?」
「ふふふ。乙女の直感かしらね」
「なるほどっ!」
 それなら至極、納得なのです。
 どれどれ、と両隣から覗き込む二つの顔。三人が、私のらぶなれたーの文面を目で追っていた。藤原さんもこっそり、鳴海さんの後ろから覗き込んでいます。いやん恥ずかしい。
「うーん、姫に手を出す物好きが、あたし以外にもいるとはねぇ」
「きっと、ロリコンに違いありませんわぁ」
「なんでこんな時だけ、息ピッタリ合わせるのっ!」
 イケメンと美女に文句たらたら抗議する。どうせ二人共、こーゆうのなんて、貰いなれてるんでしょうねーだっ。
「差し出し人は、卯月慧さん、ですか。日比谷さんはご存じですか?」
「えぇ、知ってるわ」
 平然と頷いたお姉さま。スカートのポケットから、茶色い手帳を取り出して、ぱらぱら~っと捲っていく。表紙には赤い丸文字で『マル秘』って書いてあった。
 とっても、あからさまに、あやしい。
「あのぅ、昴お姉様、それはなんですか?」
「マル秘ノートよ」
 そのままだった。そして優しい笑顔で、さらりと交わされてしまう。
「卯月慧、一年一組の男子。学力、運動能力は平均以上。ルックスも良い方で、女の子からもそこそこ、モテるみたい。ただ、若干融通が効かないというか、頑固者な一面もあるそうよ。あぁ、お家が道場で、本人も剣道部だから、そういうところがあるのかしら。少なくとも、浮気したりするタイプじゃないでしょうから、安心していいと思うわ」
 詩でも謳うように、軽やかに言葉が溢れ出た。
 そして「ぱたん」と手帳が閉じられて、制服のポケットに戻っていった。
「どうかしら、お役に立ちそう?」
「あの、その、やけに……お詳しいのですね……?」
「そうでもないわ。噂程度のものを収集しただけよ」
 平然と言うのだけど、それにしても細かい。まだ一年生って、入学して二ヶ月経つかどうかってとこなのに。
「昴、さすがね。今年の生徒会役員として、使えそうな人材を既に見繕っていらしてるのね。仕事熱心は、いいことですわよ」
「……アンタってば本当にもう……」
 ぺしっと、絶妙のタイミングで突っ込みが入る。
「痛いじゃない」
「痛くしたのよ。なんでもかんでも、自分の利益に結び付けるのやめなさい。人間観察は私の生涯におけるライフワークなのよ」
「あら、視姦趣味があるの?」
「違うわよっ」
 ぺしぺしぺしっ。
 あぁ、私もお姉さまに叩かれてみたい。とか思った時、
「――あの、日比谷さんの考えるライフワークというのは?」
 藤原さんが、隣から問いかけていた。その瞳の色は、いつもより少し、深い。
 真剣さが滲んだ色合いに、昴様は、微笑んで答えた。
「私はね、趣味で絵を描いたり、小説みたいな物を書いたりするのだけど、モチーフやテーマがどんなものにしろ、『人間』っていう概念が組み込まれてきちゃうの。だから自然と、皆がどんなことを考えているのか、気になっちゃうのよね」
「それをわたくしが、有効利用してさしあげますわ」
「頼んでないわよ。本当にもう。私の生涯で、沙夜以上に外面のいい女子にあったのは、生まれて初めてよ」
「あら、そんなに褒めないで」
「なんでや、ねんっ」
 ぺしっと叩こうとした手は、未然に防がれてしまう。
 うん。なんていうか、本当にいいコンビだと思う。
「――だってさ、春奈」
 夏野さんが、楽しそうに笑いながら、話に割り込んでくる。
「でも春奈はね、あたしだけ観察してればいいんだよ?」
「……そういうことを、当然のように言わないでくださいね?」
 藤原さんの顔が、ちょびっとずつ赤くなっていく。
 嬉しそうだ。とっても。
 姫宮サーチの、イチャイチャセンサーが警戒モードっ!
「藤原さぁ~ん! 私もっ、私もっ、観察対象にしてくださぁいっ!」
「姫は珍獣だよな。遠くから見てても飽きないし」
「むにーっ!」
 夏野さんへ、姫宮パンチっ。
「私の手帳には、『ハムスターよりハムスターっぽい』って、書いてあるわよ」
「昴、その後ろに『お馬鹿さん』って付け加えておいて」
「ハムスターぢゃありません~っ! 今年は二センチ伸びてるんです~~っ!」
 私は必死に抗議する。
 なんか最近、私の扱いがひどくないですかっ。

     

 いつも通りに、お昼休みはにぎにぎしく過ぎていった。
 沙夜ちゃんとお姉さまは、午後一の授業が体育なので、早めに部屋を出ていた。部屋に残った私達も、そろそろ行こうかと、お弁当箱を片づけていた時だ。
「お姫は結局、どうすんのさ」
「はい?」
「放課後だよ。ラブレターの相手への、お返事」
「え、え、えーとっ! それはっ!」
 手紙には、図書室でお待ちしています、って書いてある。
 私の頭の上、ヒヨコが四匹ぐらい飛びまわり、井戸端会議を始めてくれた。
『やっぱり返事はしないとねー、ピヨピヨ』
『私は藤原さんのことが大好きなのにー、ピヨピヨ』
『じゃあやっぱり、お断りかなー、ピヨピヨ』
『でもでも、もしかしたらもう二度と、こんなお手紙貰えないかもよー、ピヨピヨ』
 ぴーよぴよぴよぴよ。
 ぴぴよぴーよぴよよーぴよー。
 どうする~、はむすたぁ~。
「――でも、もうすぐ最初の中間テストですよね。図書室を利用する生徒は、多そうですが」
「だよな。ってことは、ちょっと場所変えて告白タイムか」
「こ、こくはくたいむっ!?」
 急に、生々しい響きになった気がした。頭から「しゅぽー!」って水蒸気が噴出。
 ヒヨコが一気に卵から孵化して、百羽ぐらいに増殖。騒ぎだした。
『告白!』『マジで!?『告られちゃうの!』『ハムスターが!』『愛を!』『叫んだ!』
『好きです!』『貴方が!』『大好き!』『ぴよーーーーーーっ!』『キスか……いよいよ』
『その後は……ゴクリ』『大人への階段ぴよ!』『のぼっちゃうぴ!?』『ドキドキ!』
『昼ドラよりすごいっぴっ!?』『携帯小説よりエッチっぴ!?』『破廉恥だっぴょ!』
『……もしかすると……年齢制限が入るやもしれんぴ……』
『アール指定ぴよ~~~~~~~~~~~~~~~っ!?』
「――あっ、姫が熱暴走起こしてる!」
「姫宮さん落ちついてっ!」
「……ぴよよよよ……」
 もうダメ。お子様には見せられないのです。えっちなのはダメ。いや~んです。

 くらくら眩暈がしてきて、ふにゃーっと椅子に座りなおしてしばらく。藤原さんから冷たいお茶をもらって、どうにか気分を落ち着ける。
「大分落ちつかれたみたいですね」
「ありがとー、藤原さん」
「あはは。お姫は可愛いなぁ。あと五分で昼休み終わっちゃうけど、立てるかい?」
「はい~、なんとか~」
 よしよしって、夏野さんが頭を撫でてくれた。
「しっかし、相手も意気地のねー野郎だよな。直に顔見せて、好きですって言やーいいのに。いちいちやり方が回りくどいぜ」
「鳴海さんが言えた義理ではないと思いますよ?」
「あたしはいいの。オンナノコだからさ」
「ふふ、そうでしたね」
 くすっと、藤原さんが僅かに笑ってみせる。夏野さんは、ちょびっと罰が悪そうな顔をしていた。もう一度、私の方を見る。
「まぁ、あたしもその一年坊が気になるし、放課後は図書室寄ってみよっと」
「えーっ! ダメですよ~っ!」
 陰で夏野さんに、ニヤニヤされているところを想像して、必死に首を振る。後で絶対、面白可笑しく、尾ひれや背びれがついてしまう。
「べつにお姫の邪魔するわけじゃないしー、ねぇ春奈、図書室で勉強教えてよ」
「……とか言って、姫宮さんの邪魔しちゃダメですよ?」
「しないってば。あたし、信用ないなー」
「元からありませんよ?」
 にっこり。
 容赦のない微笑みが、イケメンをぷすっと突き刺した。
 
 あっという間に、放課後です。
 午後の授業も、午前と同じように、さっぱりさっぱりでした。そして今、私は廊下を歩いているですよ。
『左足~、右足~、左足~。ぴっぴっぴ~~っ!』
 ぎっちょん、がっしょん、ぎっちょん、がっしょん、と。
 電池の切れかけたロボットみたいな動きで、生徒の波に揉まれながら進んでいるです。一階まで下りて、靴箱とは反対方向にある、図書室へ。
『ぴっぴっぴ~! ぴっぴっぴ~! 今日は大忙しぴっぴっぴ~っ!』
 ぎっちょん、がっしょん、ぎっちょん、がっしょん。
 藤原さんが言った通り、最初の中間テストが近いこともあって、生徒の数は、それなりに多めです。
(はうううううっ……!)
 また、心臓がドキドキしてきた。
 両足がぴたりと止まって、それ以上、前に進まなくなってしまう。まわれ、みぎっ。
「はいはいはーい、なにやってんのー。こっちじゃないっしょー」
「にゃっ、夏野さんっ!」
 まわれ、みぎっ。
 イケメンに両肩を支えられて、すたすたすたと、軽い足取りで図書室に強制連行。
「さぁて、お姫様のお相手は、どこにいるのかなーっと」
「鳴海さん」
「いってっ!」
 後ろから現れた藤原さんが、夏野さんの耳たぶを、ぎゅーって引っ張った。
「まったく貴女は、数時間前に約束したことすら、守れないんですか?」
「あたし何か言ったっけ?」
「邪魔しないって言ったでしょ」
 藤原さんが、眉を少し潜めて、珍しく怒っていた。
 私のことを心配してくれたんだって思うと、胸が、じーん。
 あぁ、やっぱり、貴女の事が大好きですっ。
(うん。お手紙をもらったのはとっても嬉しいけど、やっぱり、)
「――姫宮先輩」
「ほえ?」
 低い声だった。思わず、カバみたいな半開きの口のまま、振り返ってた。
「はじめまして」
 廊下の先から、少し三白眼の癖のある、目つきがちょびっと怖い男の子が立っていた。だけど目鼻立ち整った、格好良い男子だ。
 髪の長さは耳元にかかる程度の短さで、身長も夏野さんと同じぐらい高そう。それから身体つきが、全体的に「がっしり」してる。剣道やってるからなのかな。いかにも頼もしげ。まっすぐ、直立不動に立って、私の方をじっと見ていた。
「卯月慧です。手紙、読んで頂けましたでしょうか」
「え、あ、はい……っ!」
 予想外です。まさかの正統派イケメンです。
 側で夏野さんが小さな声で、「へぇ」なんて言葉を漏らしています。ルックスは、彼女のお眼鏡にも適ったのでしょーか。
「あたし程じゃないけど、中々よさげじゃん」
「恐縮です。夏野先輩。時々テレビで、お姿を拝見させて頂いております」
 正統派イケメンが、折り目正しく一礼する。
「鳴海さん、私達はお勉強しにいきましょうか」
「そーだねぇ」
 夏野さんが私の方を見下ろした。口を格好良く吊り上げて、頭を、ぽんぽん軽く叩いて。
「んじゃ、ま、がんばって」
「あっ!」
 それだけ言って、藤原さんと図書室に入っていった。
(い、いかないでぇぇ~~、二人とも、置いてかないでええぇぇ~~~っ!)
 気分は『姫宮ダッシュ寸前』だった。だけどいきなり「ごめんなさい」とか言って、後を追うのも流石に失礼だ。
「あ、あの、ど、どうも、お、お初におめにかかるです……」
「はい。お会いできて光栄です」
「あっ、ありがとっ! あっ、そと、雨、ですねっ!」
「はい、小雨が少々降っていますね」
 二人して窓の外を見た。天気予報の通り、小雨がぽつぽつ降っていた。雲の切れ間もあるから、たいして降らないのかもしれない。
 ――で、改めてイケメンの方を見る。まごうことなき、イケメンだぁ。
(ってゆーか! 相手がこんなイケメンなんて聞いてない! 聞いてないよ~っ!)
 嬉しい。でも怖い。素直に言えば超嬉しい。でも超怖い。イケメン怖い。
「姫宮先輩、場所を変えた方がいいでしょうか」
「あ、うん、そ、そうです、ねっ!」
 廊下で二人して突っ立っているので、さすがに視線がちくちく痛かった。顔を見上げれば、三十センチ高いところから、三白眼の瞳が、私を見下ろしている。
 なにかっ、なにか言わなきゃっ。
「あ、あ、あにょねっ!」
 噛んだしっ!
「はい」
「う、うぇるかむっ!」
「はっ?」
「ち、ちがっ! まちがえましたっ! えっと、こちらへどうぞっ! ささっ!」
「了解しました」
 私は再び、ぎっちょん、がっちょん、ロボットみたいに歩きながら、階段を上っていった。一段後ろから重たく響く、男の子の足音が、聞こえている。

 人気のない所を求めた結果。無人の生徒会室へやってきた。
 もうすぐテスト期間なので、お仕事はお休みだったし、卯月慧君も、部活動はテストが終わるまでお休みなんだろう。とか思いながら、備え付けの給湯ポットの頭を、ぺちぺち叩く。
 後で、沙夜ちゃんに怒られるかもしんない。
「手伝いましょうか。姫宮先輩」
「だ、だいじょぶ! 座っててっ!」
「了解しました」
 紙コップを取り出して、お湯を注ぎ、ティーバックの緑茶を煎れた。それから、ピンと背筋を伸ばして、椅子に座っている慧君に手渡した。
「そ、そちゃっ、ですっ!」
「頂きます」
「お、お煎餅とかも、あったりっ! するですっ!」
「いえ、お気づかいなく」
「う、うんっ!」
 私は向かいの机に、落ちるみたいに座リ込む。もう、頭がワニワニパニック状態ですよ。混乱したままお茶に口付けたら、
「あっ、ひゅっ!」
 舌を火傷しそうになった。
 アホです。この子、アホの子です。
「姫宮先輩、大丈夫ですか?」
「う、うんっ! うんっ!」
 何度も何度も、ふぅふぅと、冷まして口付けた。上目遣いに、こっそり慧君を見たら、その顔が、少し楽しそうな色合いになっていた。
「……このような言い方は失礼かもしれませんが……姫宮先輩は、見ていて飽きません」
「う、うんっ! よく言われるっ! えっと、それで、」
「はい、手紙にも記しましたが、先輩に、お話したいことがあります」
 き、きました!
 こくはくたいむっ!
『――総員! 覚悟はできたピヨか!』
 貫禄のある、眼帯を纏ったヒヨコが指揮を執る。
『ヒヨコ元帥様~! こちら心臓部ですっ! 心拍数が挙がりすぎてっ! もう持ちません~ぴ~っ!』
『こちら脳内! 特殊な姫宮アドレナリンが大量に分泌され――ピピピピピィィ!』
『らぶですっぴょ!』『だめですっぴょー!』『私には主人がいるっぴょーっ!』
『えぇい! 総員落ちつけ! 落ちつくのだ! ……ぴ!』
 ヒヨコ元帥が熱く、激しく立ち上がった。
『ここで一時の感情に流されてみろ! 藤原さんが夏野の魔の手にかかってしまうやもしれんのだぞ! ……ぴ!』
 その言葉に――私、復 活 。
 藤原さんと夏野さんが、イチャイチャパラダイスなんてっ! そんな事は断じて許せません! 私の眼が黒いうちは、娘はやらんぞ朝ドラ風なの~っ!
『その意気や良しっ! ……ぴ!』
 よーし。どーんと、告白しちゃってくださいっ!
 申し訳ないですが、全力でお断りさせて頂くです~~っ!
「――姫宮先輩は」
「はいっ!」
「小説を読まれたりはしますか?」
「はいっ! 時々―――え?」
「『妖精騎士ノ物語』という小説を、御存じでしょうか」
「―――へ?」
「こちらです」
 正統派イケメンが、学生鞄の中から、一冊の本を取り出した。文庫本サイズのそれは、キラキラした感じのお姫様と、ちょっと得意気な顔をした王子様。それからお姫様の肩には、掌サイズの人形みたいな生き物が、ちょこんと乗っていた。
『……なんだ、これは。若人向け小説か、ぴよ?』
 みたいですね、ぴよ。
「こちらが先月出版された、第一巻になります」
「…………え、えぇと……あ、はい。初めてお目にかかりますです」
 彼は、小さく頷いた。
 どういう意味が込められていたのかは、ちょっと分からない。
 それにしても、イケメンと、少女小説って。
 とってもミスマッチなのですよ。思わず、交互に見比べてしまっていると。
「……俺みたいな男が、このような物語を読んでいるのは、気持ち悪いことと、承知の上でお話させて頂きますが……」
「えっ! ち、違うよっ! 意外だなーっていうか、いきなりあれ~? みたいなっ、あはははは……」
 てっきり「好きです」的な事を言われるのかと思ったのに。期待やら、不安やらで、思わずヒヨコ元帥まで出陣してきたのに。なんていうか、これは流石に、予想外だ。
「えっと、これがどうしたの?」
「はい。こちらの書籍は、自分の知人である、とある女性が書かれた物なのです」
「へ~、じゃあ作者の人って、高校生?」
 反射的に、そう聞いていた。慧君は三白眼の瞳を、ますます険しくした。
「……それは……その………」
 怒られた、のではなくて、言い辛いことみたいだった。
「ごめん、話に割り込んで迷惑だったかな」
「いえっ、そんなことはありません」
 一つ、咳払いを挟んで。もう一度口を開いた。
「いきなりこのようなお話を持ち込んで、混乱されていると思います」
「うぅん、大丈夫っ」
 むしろピークを越えてしまって、逆に落ち着いてきたですよ。
「順を追ってお話しますと……この知人がですね。姫宮先輩を街でお見かけして、ぴぴっと来たのです」
「え? ぴぴっと?」
「はい、ぴぴっと」
『――呼んだぴよ?』
 呼んでないよ。
 電波だろうか。私、ひよこ電波を発信しているんだろうか。
「姫宮先輩を見て、その……インスピレーションといいますか……ぴぴっと、来てしまったのだそうです」
「ほ、ほほぅ……ぴぴっと、来てしまったのですか」
「はい、ぴぴっと……」
 私達は、静かな部屋で向き合っていた。ぴぴっと、ぴぴっと。ぴよぴよぴ。
「この知人が今、第二巻を執筆中なのですが、実を申しますと、今までになく煮詰まっている状態でして」
「お話が書けないってこと?」
「はい。それで姫宮先輩に、アドバイスをして頂けないかと……」
「えぇっ! でも私、小説とか時々読むぐらいで、全然わけわかめだよっ!?」
「いえ、知人もそこまで具体的な進言を求めているわけではないのです。プロット――下書きに軽く目を通して頂いて、一言感想を頂ければ充分です」
 正統派イケメンが、言うなり礼儀正しく、お辞儀をしていた。少し口を開いて、閉ざして。また開きかけて。なにか迷っているようにしながらも。
 心に決めたように、深く息を吸い込んだ。
「姫宮先輩のご都合が良い日。一度、知人とお会いして、話をして頂けませんでしょうか」

 藤原さんと夏野さんと一緒に、一時間ぐらいお勉強をしてから、三人一緒に正門を抜けた。
 雨はあがっていて、お月さまがぼんやり見えていた。
「――で、で、なんかあっさり戻ってきたけど、どーだったんだよ」
「それがー……」
 夏野さんにせっつかれながら、私はさっきのことを話すと、
「つまり、恋文のような物では無かったんですね」
「うん。私の勘違いでした……」
 藤原さんは、なんだか附に落ちないという顔をしてた。
「仕方ないですよ。あの文面からすれば、誰だってそう思います」
「なーんだ。つまんねーの。お姫があの野郎に落ちてたら、後で攫ってやったのにさぁ」
 反対に夏野さんは、露骨にニヤニヤと、意地悪そうな顔で笑ってる。
「夏野さんって、絶対生まれる性別間違ってますよねー?」
「そうかな? あたしは別に、どっちでもよかったよ」
 得意気に笑う顔。モロ肉食獣です。うん。やっぱり間違ってる。
「姫宮さんは、なんて答えたんですか? やっぱりお断りを?」
「いいえ~。せめて本を読んでから、またお返事しようかなと思って。それにもうすぐ中間ですし、会うにしても、テストが終わってからですねー」
 私の鞄の中には、慧君から貰った(知人さんが、出版社の人から頂いた内の、一冊だったらしい)『妖精騎士ノ物語』が入っていた。テスト勉強の合間にでも、少しずつ読んでいこうかなーって思ってる。
「だけど姫宮さん。その作者さんとはまったく面識がないのでしょう? 卯月さんを疑うわけではないですが……少し、危なくないですか?」
「うーん、大丈夫だと思います。慧君、悪い人じゃ無さそうでした」
「お姫、ラブレター貰ったからって、ひいき目に見てんじゃねーの?」
 夏野さんが、ぷにぷにと、私のほっぺを突きながら言う。
「一言で言えば、夏野さんとは正反対の、生真面目オーラが滲んでたのですよ~」
「なるほど。それなら大丈夫ですね」
「うわ、二人共ひでぇー」
 夏野さんが拗ねた。
「どーせ、あたしは悪者だよ」
「はい。鳴海さんは、タダ飯食らいのツケが沢山溜まってるんですよ」
「そーですよぅ。しかも愛人囲っちゃって、紐ですよ、紐~っ」
「なんだよー、あたし紐じゃねーぞ」
 不貞腐れた夏野さんを見て、私と藤原さんは笑う。それから別れ際まで、楽しくお喋りしながら、帰っていった。

 女子寮に戻ってから、夕飯を食べて、お風呂に入って。歯を磨いて。
 お勉強の復習も大体こんなものかなーと思って時計を見たら、九時だった。
 特別みたいテレビともなかったから、そのまま畳みの上に転がって、慧君から借りてきた『妖精騎士ノ物語』を開いてみた。最初にいくつか、漫画っぽいカラーイラストがあって、上手だなーって思いながら、ページを捲っていった。
 ぱらぱらと読み進めていく。
 お話は、日本というか、地球とはまったく関係ないっぽい、ファンタジーの世界だった。
 中世ヨーロッパ風の世界で『エイステール』という大陸があるみたい。
(ほむほむ。主人公は、ハーフエルフなんですね。えーと、お父さんが貴族のイケメンで、口髭がふっさふさのナイスミドル。お母さんが美人のエルフさん)
 その息子であり、主人公の『ラキアス』君。
 イケメンのハーフエルフだ。容姿は限りなく「エルフ」なんだけど、さっぱり魔法が使えないらしい。だから、エルフの仲間とは折りあい悪くて、人間とも仲が悪かったりする。
 さらにお母さんとお父さんは、既に別居状態で、お母さんは、エルフの森に帰ってる。
(苦労してるんだねぇ)
 割と生々しい設定だなーって、思ったんだけど。
 このイケメンエルフ、剣の扱いは超一流。それから妙に口が上手くて、悪知恵も働くのだった。下手に顔も良いから、女の子を上手にあしらったりして、人生楽しく生きていた。
『ちょろいもんだぜ。生きるのなんざ超簡単。金、酒、女、望めば簡単に手に入るなぁ。ハハハハハ。おーい、こっちにボトル追加で!』
 ホスト系、イケメンの、ハーフエルフだった。
「本場の人達が見たら、怒りそうな設定だ……」
 だけど、読んでいて結構面白い。
 このハーフエルフ、嫌味なまでに自由奔放なのでした。
 第二章になると、街外れの盗賊団をあっさり騙して、金銀財宝かっさらって、綺麗な女の人がいるお店で、バラ撒いたりしてる。
(うーん……これ、悪いエルフだよね?)
 こういうのって、確か、ダークエルフとか言うんじゃなかったっけ。違ったっけ。
 読み進めていくと、ある日ラキアス君がいよいよ、仲間のエルフ達から「世俗に穢れた奴め!」とか言われてしまう。
「貴様には、エルフの誇りがないのか!」
「残念ながら、そんなんじゃあ飯が食えないんでね。魔法が使えないせいで、テメェ等からは仕事を割り振ってもらえねーしなぁ。剣と口先だけで生きるのが、せいぜいだったぜ」
 皮肉気に言い返す、ラキアス君。
 弓を向けているエルフ達の奥には、彼のお母さんもいるんだけど、目を逸らされてしまう。
「貴方はもう、私達の仲間ではないわ。やはりお前を産んだのは、過ちでした」
「……そうかよ」
 厳しい言葉と一緒に放たれた実の矢。それを上手に避けて、彼は言う。
「次の子は物心ついた後も、母親から名を呼ばれることを祈ってる」
 ひらひら手を振って、今度はお父さんの家に向かう。だけどお父さんにも、新しい人間の奥さんができちゃってる。
「お前と、私達では、やはり住む世界が違うのだよ。二度と此処へは来ないでくれ」
「せめて一晩、親子の語らいでもしないか親父? 思えばあんたと一緒に、酒を酌み交わしたことってなかったろ?」
「……行ってくれ。『私の家族』が、目を覚ましてしまう」
「そうか、そうだな。アンタの子が愛されるよう、せめて祈っててやるよ」
 彼はもう一つ、皮肉な笑みを残して、お父さんの家も出ていった。
(……むぅ、ちょっと辛い展開になってきましたね……)
 あまり活字慣れしてなくても、さくさく読めてしまうので、お気楽に終わるのかと思ってた。だけど、どうやら上手くはいかないみたいなのです。
「――旅にでてみるか」
 ラキアス君は、軽い調子で言う。
 けど。彼は必ず、最期には一人になってしまう。
 心のどこかで、人間もエルフも、信じきれていなかった。
(イ、イケメンがっ! イケメンがぁ! 寂しくて、死んじゃうよ~~~っ!)
 ハラハラ、ドキドキ。
「――アキラさん、わたくしそろそろ眠いのだけど、電気消してもいいかしら?」 
「あ、うん。いいよー」
 ぱちん。
 私は枕元にある電気スタンドの灯かりをつけて、続きを読むことにした。ここまでで、ちょうど半分ぐらいだ。
「おやすみなさい」
「おやすみ沙夜ちゃんー」
「明日も学校なのだから、ほどほどにね」
「うん」
 時計を見ると十時過ぎ、まだぎりぎり、大丈夫かなーって思いながら、続きの頁を捲った。

     

『 第五章 白亜ノ森 魔王ノ庭』

 ラキアスが足を踏み入れたその森は、あまりにも、静謐な場所だった。
 起伏は少なく、履き慣れた革靴で、短い下草を踏みつけていく。
 針葉の木々は、等間隔で左右に分かれており、来訪者を奥へと誘うように並んでいた。根元にはどれも、白き『聖石』が供物のように添えられている。エルフの血が、その石から放たれる『魔力』を感じ取っていた。
「……薄気味悪ぃ……」
 ラキアスは率直な感想を漏らした。彼が手綱を引く愛馬もまた、ブルルッ……と嘶きを震わせている。一人と一匹の立てる足音のみが、妙に耳に届く。
「生き物の気配が、まったくしねぇ」
 強く気高いオオカミ、リスや野兎のような、小さな獣。木々に巣を作る小鳥、花の蜜を求める蝶や蛾、それを捕食する蜘蛛。地を歩く一匹の蟻でさえ、目につくことがない。
 本来、森に満ちているはずの生命の匂いが、まったく、ない。
 それがたまらなく勘に触り、同時に不安だった。
「森っていうよりゃ、一つのデカイ結界――聖域だな」
 白亜の森は、一片の穢れさえなく、澄みきっている。臓腑に落ちてゆく空気は、どこまでも清涼だった。
「この森で暮らしてりゃ、無欲の善人になれるかもなぁ」
 口端を吊り上げ笑い、彼は改めて、馬に背負わせた荷を見つめた。そこには先程、城に仕える『星術師』より受け取った、装綴も大きさも様々な、書籍の山が積まれている。静謐な森の気配から逃れるように、記憶を手繰り寄せた。

『――森の中に、己の時を止め、その身に魔王を封じ込めた、呪われし姫君がおります』
『彼女の知識は、この魔法大国グランヴァールの礎です』
『貴方には、彼女の下まで、我々の研究書物を運んで頂きたい』
『そして、魔王の書いた書を持ち帰って来るがよい』
『うん? お前のような旅人に金を払って頼む理由?』 
『……魔王の姿を眼に映した者は、二度と、森の中へ踏み入りたくないと告げるのだ。まったく、臆病者ばかりよ』
『なぁに、欠片の危険もあるまいて。子供にさえできる使いじゃよ』

 星術師たちは、口元だけ覗かせた夜色のローブを着て、そんなことを口々に告げた。だったら自分で行けよと言いたくなるのだが、恐らくそんな仕事は、身分の高い自分達には相応しくないとでも思っているのだろう。
「……まぁ、そんな理由で、金が貰えるなら十分だ」
 ラキアスは唾を吐き捨てながら言う。路銀の尽きかけた今、この仕事は確かに単純で、報酬はとびきり高い。本当に危険が無ければの話だが。
「ったく、どんなおぞましい姿なのかね、魔王サマってのはよ」
 もし、悪夢に悩まされる程の容姿であるというならば、美味い酒をたらふく飲みつつ、一晩限りの美女を抱けばいい。朝焼けのまどろみと共に、怠惰な眠りに耽れば良いのだ。悪夢が追いかけてくるならば、根の無い草は、悪夢の届かないところまで、離れるだけだ。
(……最期は、ここじゃない何処かで、野たれ死ねばいい)
 森を奥へ、奥へと進む。
 清涼な気配はますます強くなり、白い霧さえ浮かびはじめた。相変わらず等間隔に並ぶ木々は、それさえもが白く透明に、生気のないものに変わりつつあった。
 愛馬が一層不安げに嘶き、時折、足を止めようとする。
「……本当に、薄気味悪ぃ……」
 彼は無意識に、剣の鞘に手を添えていた。今にも森の奥から――
『ちょっと! あなた!』
「!」
 ゴーストか、ウィスプか。小さく瞬く光源が、ラキアスの目前に躍り出た。
 剣を抜きかけ、しかしそれが故郷の森で馴染んだフェアリーの姿だと分かり、眉を潜めるに留めた。
「んだよ、お前が魔王か? ちいせぇなぁ」
『ち、ちっちゃくなんてないっ! 失礼なニンゲ……エルフ?』
「ハーフだよ。魔法なんざ、一つも使えねぇがな」
『ふーん、ハーフエルフなんだぁ』
「俺のことはどうでもいい。それより城の連中に言われて、研究書とやらを持ってきてやったぜ。俺が持って帰る書物とやらは、どこだ?」
『そう。姫様はこちらよ』
 あまり興味なさそうに返事をして、フェアリーは、白い霧の中を突き進んでいく。
「姫様……? あぁ、魔王を封印したとかいう奴のことか」
『ちょっと! あなた!』
 ひゅんっ、と勢いを反転させて戻ってくる。小さな小さな瞳は、とても素直に怒っていた。
『姫様を、そんな失礼な呼び名で、口にしないでもらいたいわっ! あのお方は、それはもうとぉってもお美しいのよっ!』
「そりゃ楽しみだ。なんなら一晩泊めてもらおうか」
『あなた失礼! さっきから、とっても失礼っ!』
「うるせぇな。ハエみたいにブンブン飛び回んじゃねーよ」
『きーっ! 用が済んだらとっとと帰るのよっ!』
「言われなくともな」
 飛びまわるフェアリーを、しっしっと、わざとらしく手で追い払いながら、足を前に出す。
(……近いな)
 何者かが、この先にいる。
 いつしか地を踏んでいる感触すら怪しくなった。馬の手綱を握っていることを、しっかり意識しなくてはいけなかった。やがて、自分の存在さえ、希薄に感じ始めた頃――
 唐突に、視界が開けた。
「――――」
 透明に澄んだ、湖が広がる。
 対岸まで、さほど距離のない小さな湖の中央に、石造りの塔が、天へと伸びていた。見上げれば、そこだけ木々の遮りがなく、蒼い空が見渡せた。そこから落ちるこもれ日は、湖のほとりに在る存在を照らしだす。
 硝子のような、透明な蔓草で形取られた机と椅子。その場所に、彼女は在った。
『姫様ぁっ!』
「………………」
 書物を見ていた双眸が、僅かに持ちあがる。
 はらり、と揺れる絹糸のような銀髪。アルビノのように薄い色素の肌。持ちあがる双眸と、結ばれた唇だけが、深紅であった。
 剥き出しにされた手足は、不健康に細く、やはり白い。女性であることを示す膨らみのある体躯、そこを覆い隠す服は、依頼した星術師たちと同じ、夜の色。
「………………」
 言葉を失った。
 彼女はひたすらに美しく、花のように、手折れてしまいそうな存在だった。あるいは、歴史に名を残した高名な絵師や、彫刻家が作りあげた傑作が、間違って、命を得てしまったかのようだ。
「………………」
 紅い瞳に力はない。ただ、ラキアスを見ていた。この森にそびえる、木々や花のように、生気の欠片さえも感じられない。
(なるほど、な)
 この森に、二度と足を踏み入れない者達の気持ちを、彼は理解したと思った。
 確かにこれは、『触れてはならない』と感じさせる、なにかがある。
 あまりにも美しいということ。それもまた、異端なのだ。
 よく見れば、首筋にうっすら、黒い刺青のような跡が見える。果たしてそこに、魔王が眠るのだろうかと、ラキアスは思った。
「…………そこに、」
 ゆっくりと、指先が持ち上がる。
「以前の研究資料に対する……解が、あります……」
 ラキアスが指差された方を見ると、下草の上に、束になった羊筆紙が落ちてあった。
「あぁそう」
 短く興味なさげに応え、ラキアスは無視して歩みを進める。
 彼女との、距離を近付けた。
『ちょっと! ハーフエルフ! 姫様に近づかないでよっ!』
「うるさいな」
『ひゃうっ!?』
 指でぺちんと弾いて、彼は姫君の前に膝をついてみせた。彼女は黙って、意思のない双眸でぼんやり見つめるだけだった。
「――お手を失礼」
 けれど、ラキアスが気安く手を取り上げると、びくっと、子リスのように震え、
『あーーーっ!』
 手の甲に口付けてみれば、途端に顔を赤く染めあげた。驚いた顔を作りなれていないのか、少しだけ赤い瞳を見開いて、ゆるゆると手を逃げさせた。
「なんだ。随分な反応を見せてくれるじゃないか。どこかの田舎娘と大差がないな」
『姫様になんてシツレ――』
 べちこん。
 飛びまわるフェアリーを指で弾いて、形の良い彼女の顎に、手を添える。
「今まで誰も、君に触れた奴なんざいなかったから、驚いてるのかな?」
『むにーっ! 離れなさい! 姫様から離れなさい~~っ!』
 ぺちこん。
「こんなところで一人、世界のことを解りきったつもりでいるなんて、つまらないだろ?」
「…………あ、の……」
「どうだろう。この腐った森から連れ出してやる代わりに、俺に帰る場所をくれないか」
『なにを勝手な事を言ってやがるんですか~~っ! 帰――』
 ぺちこん。
「またくるよ。考えておいてくれ」
『二度と来るなあああああぁぁぁ~~っ!』
 ぺちこん。
 妖精を指先でぺちぺち弾きながら。
 美しき魔王の両頬に、軽く口付けてみせたのだった。

 私は、イケメンでダークなハーフエルフが帰ったのを見届けた後、超大急ぎで姫様のところに戻った。
『姫様ぁ~! 入口に塩撒いておきましたからねっ! 今度アイツが来たら、スーパーフェアリーボンバーで追い返しますのでご安心をっ!』 
「………………」
 姫様は黙ったまま。ほっぺに手を添えて、真っ赤になって座ったままだ。かと思えば、そわそわと椅子から立ち上がり、森の出口の方へと駆けだそうとする。
『姫様、どこへ!?』
「あの方を、追いかけます」
『ダ、ダメですッ、ダメダメダメ!』
 私は必死に八の字飛翔をするのだけど、姫様は止まってくれない。
「おにょれ、おにょれイケメンーっ! 私の姫様をぉぉ~~っ!」
「アキラさん、うるさくってよ」
 ぺちこん。
「………………はれ?」
「いい加減に起きないと、遅刻しますわよ」
「…………ひめさま~?」
「女王様と呼びなさい。ともかく、早く起きなさい」
 沙夜ちゃんの怒った顔が、視界に飛び込んできた。お庭からは、ちゅんちゅんとスズメさんの鳴き声がしている。
「……あれ、もう朝……?」
 身体を起こすと、いつもよりしんどい。ダルい。頭が、ふら~ふら~する。
「……うー、沙夜ちゃん、今日は早起きだねぇ……」
「なに言ってるの、もう七時半よ」
「えっ!?」
 咄嗟に枕元の時計を見ると、本当だ。七時半だ。
「ええええええええっ! お弁当作る時間がないよおおおぉっ!」
「起こしても、起きないんですもの。わたくしがどれだけ、おつむを叩いたと思ってますの」
 沙夜ちゃんが溜息をこぼした。言われてみると、確かにおでこの周りが、ヒリヒリする。
「煩悩の数までは覚えているのですけれど」
「百八回も叩かないでよっ!」
 ひどい。最近、私の扱いがひどすぎる。
「夜更かしは程々にしなさいと忠告したでしょう」
「うー……ごめんなさい」
 涙目になりながら、つけっぱだった、枕元の電気スタンドを消した。
「眼がしぱしぱするぅ~~」
 結局、昨日は『妖精騎士ノ物語』を、日付が変わる頃まで、読み耽ってしまった。
 物語のラストは、力を合わせて、お姫様の身体に眠る魔王の一部をやっつけた。だけどラキアス君は、残った魔王のせいで、別の世界に飛ばされてしまう。
 お姫様と妖精さんは、イケメンで、ダークなハーフエルフを探す為に(妖精さんは嫌々)旅に出ることを決めた。そこで、一巻はおしまい。
「アキラさん、早く顔を洗って、ご飯食べてきなさい。間に合わなくなりますわよ」
「うん~……」
 私は左右にふらふら揺れながら、どうにか階段を降りていく。そこでばったり、夏野さんとすれ違った。
「――あれ、お姫。今日は珍しく遅いな。どしたの。風邪?」
「スーパーフェアリーボンバーっ!」
 ドドドドドドドっ。
「んだよー、いってーな。なんで叩くんだよ」
 イケメンは「わけわかんねー」と言い残して、さっさと階段を上っていった。

     

 毎度、お昼の時間がやって参りました。
 今日のお弁当箱は、ご飯に梅干しが一つ。あとは特製のお漬物が少々。
 経済的と言えばそうなんだけど、別の言葉にすると「わびし~」。
 ダイエットをしていない育ち盛りの女子高生にとって、これは辛かった。
(――そんなわけで、初めて購買に来たのですけどー)
 入口前、私はお財布を持って、ぽつんと立ち尽くしていた。友達皆が口を揃えて『あそこは戦場よ』とか言ってましたが、正にその通りでした。
 お昼休みの学生購買。そこは戦場。
 男女平等、年功序列。生徒と教師という関係は、一切が無に返すのです。テストの点数での優劣などそこにはなく、ただ、飢えた雑食動物たちが、おにぎりやサンドイッチ、ハンバーガーの並んだワゴンの前で、死闘を繰り広げているですよ。
「ぐあああぁーーーっ!?」
 一人の男子生徒が、宙を舞った。
 手に持っていたコンビニおにぎりとカロリーメイトも、さらに上空へと舞い上がった。
「しゃけー! しゃけおにぎりぃー! 俺のだぁ~っ!」
「男子は草でも食らってなさいよぉ~~っ!」
「ざけんなーっ! 女子は女子らしくダイエットしてろっ!」
「今の発言した男子! 三枚に下ろして味醂かけて食ってやるから、私の前に出てこいっ!」
「カロリーメイト、カロリーメイト、カロリーメイト、カロリーメイト、カロリーメイト、カロリーカロリーカロリーアルティメイトォォッ!!」
 伸ばされる無数の、手、手、手。
 そして高く飛びあがる一人の影。
「リバウンドを制する者はぁ! 試合を制すぅ!」
 どこかで聞いたことのあるセリフです。
 彼が、おにぎりを大事に胸に抱いて、地につきかけたとき――
「残念。足元がお留守よ?」
「うっ!?」
 最小限の動きで、足払いを決めたポニテの女子生徒がいた。再び手から零れたおにぎりを、素早く掌に収め、放り投げる。
「センタァーっ!」
「はい!」
 しゅっ、とおにぎりは弧を描き、高く軽やかに、天井スレスレの位置を舞い飛んだ。
 離れたところで、グローブを持つ別の女子生徒が、ナイスキャッチ。レジ前にダッシュ。
「おばちゃんよろしくっ!」
「毎度、八十円ね」
 おつりは用意せず、グローブとは反対の手から、ピッタリの金額がでていた。肘のところに回していた透明のビニール袋に、素早く投げ込んだ。
 中身は既に、結構な大きさに膨らんでいる。袋に入った物には手をだしてはいけないというルールがあるんだろうか。他の生徒たちは、指を咥えるように見ているだけだ。その子は中を見て、素早く数え、大声で叫んだ。
「キャプテーンッ! メンバーの分が揃いましたあぁぁっ!」
「よしっ、撤収よっ! 全員! 部室までランっ!」
『はいっ!』
 どこにいたのか、グローブを手にした女子部員たちが覇気のある返事をして、一斉に入口の方に走りだした。すれ違う際に、足払いをかけたポニテの人と目が合う。
『――あなた、ここは初めてね?』
『です。今日はお弁当、作る時間がなかったのですよ~っ』
『帰りなさい。ここは狩るか、狩られるかの世界よ。素人が一人でどうにかできる場所じゃないわ。まずは仲間を集めてくることね』
『でも! 私、お腹が空いてるんですっ!』
『気持ちは分かる。私も最初はそうだった。けれど、怪我をしたくなければ、まずは素直に自分の力量を認めることが大切よ。床上で無残に転がる、あそこの男子生徒のようになりたくなければね……それでも行くと言うのならば、私は止めない。貴女に幸運を。可愛い戦士さん』
『うぅ……っ!』
 目線だけで多くの言葉を交わし、そして颯爽と去っていく背中を目で追った。
「おのれ女子ソフト! 全国レベルは伊達じゃねぇな!」
「あぁ、さすがの連携。見事なもんだぜ……」
 メガネをかけた二人の男子生徒が、彼女達の背を見て解説をしていた。
 お昼休みの購買……恐ろしい子っ!
(どうしよう。ご飯とお漬物だけで、お昼を乗り切るとゆーのですか……?)
 お腹が、きゅるる~。
(……い、否! 断じて否ですっ!)
 覚悟を決める。
 お財布を胸ポケットに入れて、まっすぐ、姫宮、ダーッシュ!
 
 べちこん。

「はうあーーっ!?」
 二秒と持たない。弾かれた。足がふらついて、これはこけると思った時。
「大丈夫ですか」
「ぴよ?」
 両肩に、自分の物ではない、大きな手が添えられた。振り返ればそこに、三白眼の、少し怖いけど、格好良いお顔が見えていた。
「け、けーくんっ!?」
 咄嗟に下の名前で、しかも愛称っぽいもので、名前を呼んでしまった。
「ご、ごめんっ!」
「お気になさらず、それよりも、姫宮先輩」
 つぅ、と瞳が細くなる。
「な、なにかなっ!?」
「こちらでお見かけするのは、初めてです」
「う、うんっ! 私、はじめてなのっ!」
「では、少しこちらへ。ここでは戦闘に巻き込まれる恐れがあります。物資も少なくなってきました故、これより先の戦闘は、さらに激化の一途を辿ります。此処は危険です」
「う、うんっ!」
 私は手を引かれて、入口の方までついていった。慧君の反対の手には、しっかり戦利品が握られている。ビニール袋の中にはおにぎりと、サンドイッチが一つずつ。
「どうぞ、姫宮先輩」
「え」
 手に持ったビニール袋が、がさっと音を立てて、前に差し出された。思わずお腹が「きゅ~」って鳴りそうになってから、慌てて首を振る。
「う、受け取れないよっ! 戦利品でしょコレっ!」
「構いませんよ。昨日の突然のご無礼と、煎れて頂いたお茶の礼にも及びません」
 怖い目元が、ほんの少し緩んだ。ほわ~っと見惚れてしまいながら、無意識に両手を伸ばして受け取ってしまう。
「……じゃ、じゃあ……サンドイッチだけ、もらって、いいかな?」
「どうぞ」
 がさこそと、サンドイッチを取り出すと、カツサンドだった。レタスも挟まってる。
「ありがとう~、これでお昼、乗り切れそうですっ!」
「それは良かった。ところで姫宮先輩は、昼餉は普段、どうされているのですか?」
「いつもはお弁当なんだけどね。今日は朝遅くて。慧君はいつも購買?」
「そうですね。作る時間が無い事も無いのですが、此処は良い修行の場ですので……」
 そして彼は、ちらりとワゴンの方を見た。私もつられて、見た。

 ドガッ、バギッ、ドギャ、メメタァッ!
 ドドドドド! ガガガガガ! デュラララララララッ!

 目を逸らした。
 横たわる人が増えていたのは、見なかったことにする。
「あっ、そうだ。あのねっ! 昨日もらった本、最後まで読んだよっ」
「なっ、」
 そう言うと、慧君の三白眼の瞳が、おっきく開いた。そっぽを向いて、「ごほっ!」と一度大きな咳をする。
「ど、どうかした?」
「いえ……あ、あの、どこまで……読まれましたか?」
「全部読んだよー」
「全部ッ!?」
 カッ! と睨まれた。
「ひう!」
 反射的に、両手で顔を庇ってしまう。
「し、失礼しました!」
 そしてすぐ、今度は深々とお辞儀されてしまう。
「姫宮先輩の貴重なお時間を、物語の風上にも置けぬ稚拙な内容の書物にて煩わせてしまいましたこと、平に、平にご容赦を……っ!」
「えっ? えっ?」
 下手をすれば、そのまま土下座されそうな勢いだった。
「……なんだ、あそこ?」
「あぁ、なんかちっちゃい生き物が、イケメンに頭下げさせてるな」
 さっきのメガネ男子が、こっちをチラチラ見ていた。他のとこからも、妙な光景を見るような視線が突き刺さってくる。
「はわわわわ……あ、あのねっ! 確かにお弁当作れなかったのは、小説読んで、寝不足だったせいだけどね」
「なんですとッ! 弁当を作れなかったのは、そういう事情があったのですかッ!」
 カカッ! と三白眼が一杯に見開かれていた。それからぼーっと天井を見上げたかと思うと、名案を思いついたように口にした。
「そうだ。腹を斬ろう」
「そこまで思い詰める程なのっ!?」
「はい。思い詰める程なのです」
 真顔で言われた。ちょびっと、面倒臭いなって思ってしまった。
「斬らなくていいから。小説面白かったから、だからね」
「真ですかっ!?」
 カカカッ!
「ひぅ~~っ!?」
「し、失礼しました! 土下座を、」
「しなくていいからっ! むしろしないでっ!」
「はっ! 姫宮先輩の寛大なご容赦っ、痛み入りますっ!」
「……うん」
 あぁなんだろう。私、こんなにツッコミに回ったの、生涯で初めてかもしれない。

 そんなこんなで一騒動ありまくって、生徒会室に戻ってきた。
(むむぅ……このカツサンド、私的に許せないですね……)
 頂いておいて申し訳ないけど、肝心のトンカツが、「スカスカ」しすぎている。
(こんなトンカツの為に、狩るか、狩られるかの生活をしているなんて)
 生徒たちの気持ちを考えると、納得いかない。
(明日にでも、姫宮工房のトンカツを、慧君に食べさせてあげなくてはっ!)
 ハートにファイア~っ! 
 胸に火が点いた時だった。
「そうだ、姫宮さん。昨日おっしゃっていた本、私も読みましたよ」
「ほ、本当ですかーっ」
「えぇ、少し気になりましたので、帰り道に書店に寄って購入しました」
 予想外にも、藤原さんと共通の話題が持てて嬉しい。ほくほくと、幸せ顔でお弁当を食べている夏野さんを横目に、一歩リードなのですっ!
「どこまで読みました?」
「最後まで。二十分ぐらいでしょうか」
「はやっ! 私なんて、三時間以上かかりましたよっ!」
「要点を整理する読み方が、癖になっているので。物語をきちんと楽しめたかは、自信がありません」
 困った様に、もしくは寂しそうに、藤原さんが微笑んだ。その頭を、夏野さんがすかさず「よしよし、いいんだよ」ってするのが腹立つ~。
「――面白かった?」
 そう尋ねて来たのは、沙耶ちゃんの隣に座った、昴お姉さまだった。いつもと変わらない優しい微笑で、ふらりと風に揺れる三つ編みが、今日もまた素敵です~。
「はい。私的には楽しめました」
「面白かったですよねー。イケメンのラキアス君が、ウザ格好良いのです~っ」
「なんだかちょっと、鳴海さんみたいでしたよね」
「あ、そうかも」
「へ? そーなんだ?」
「えぇ。我儘なところとか、素直じゃないところとか」
 藤原さんが口元に手を添えて、思いだしたように笑った。私の向かいに座っていた沙夜ちゃんが、鼻で笑う風に続く。
「ふっ。アキラさんが徹夜までして読んでいらしたから、少し興味があったのですけれど。わたくしにはとても合いそうにないですわ~」
「あらあら。あきらちゃん、徹夜してまで読んだの?」
「それで朝起きられなかったんですよぅ。続き物みたいなので、二巻が楽しみです」
「ふふ、はたして世間知らずのお姫様と、心配性な妖精さんは、無事に彼を見つけることが出来るのかしらねぇ」
「昴、貴女も読んでるの?」
「……え?」
 沙夜ちゃんが尋ねた。僅かに小首を傾げるお姉さま。そっと、口元に手を添えていた。
「え、えぇ……」
「そう。純文学や、海外の話ばっかり読んでる貴女には、珍しいこともあるものね」
「たまには……ね」
 気のせいか、微笑みが少し硬い気がした。
「タイトルは?」
「え? あ、確か『妖精騎士ノ物語』だったかしら……」
 お姉さまが口にした本は、確かに、昨日読んだ本だった。
(あれ? そういえば、タイトルとか、言ったっけ?)
 イケメンのラキアス君って言ったけど。それだけで、何の本読んでるか分かったのかな。
『――こちらの小説は、俺の知人が書いたものでして――』
 なんでだろう。突然ふわっと、昨日、この場所で言われた言葉を、思いだしていた。カツサンドを頬張りながら、お姉さまの方を窺う。
(まさかねー)
 いくらなんでも、昴先輩が作者さんな訳ないよね。だけどもし、お姉さまみたいな人だったら。会ってみたいなぁ。サインとか貰えちゃうかもしれない。

     

 次の日の、朝。
 実家から持ってきた、ひよこの目覚まし時計が「ぴよぴよ」鳴る音を聞いて、目を覚ました。部屋はまだ、かなり薄暗くって、探るみたいにして目覚ましを見つける。固いボタンの感触はすぐに見つかった。
「ていっ」
「ぴよぴ……コケッコー!」
 鳴いてる目覚ましの頭を叩いて止める。どうしてだか、最後は鶏の声で鳴き止むのだった
「……んー、アキラさん~……?」
「あっ、ごめん、起こしちゃった?」 
「……十年前に、わたくしが贈った目覚ましの音がしましたわ~……」
 二段ベッドの上、布団がもぞもぞ動いて、沙夜ちゃんが寝返りを打つ気配がした。
「……もう七時ですの……?」
「ごめんね、まだ五時半だから寝てていいよー」
「…………五時半?」
 むくり、と沙夜ちゃんが起きあがる気配がした。ベッドから降りて着替える途中、上の段を見上げる。
「……朝の五時半なんて時間帯、存在するのねぇ……」
 確認する風に言う。眠たげな細目で、じと~っと、十年前にお返しでプレゼントした『みらくる☆くのいち』の目覚まし時計を見つめてた。
「……アキラさんが、お婆ちゃんになってしまいましたわぁ……」
「要約すると、お年寄りの朝は早いってこと?」
「えぇ。わたくしは健全な若人なので、もう一眠りさせて頂きますわね」
「私だって若人だもんっ! ピチピチの女子学生だもんっ!」
「最近はハムスターも魚介類になったのね……ふわ……」
「しつれーなっ」
 二センチ伸びたって言ってるのにっ。十一年前は、歳下の私の方が背が高かったのに。沙夜ちゃんってば、絶対忘れてるんだから。

 着替えてから一歩部屋を出ると、「しん……」と、静けさばかりが募っていた。さすがの五時半でも、六月に入ったせいか、空気の冷たさはさほど感じない。
 一階の洗面所にぬるいお湯を張って、顔をぺたぺた洗う。お肌のお手入も一通り終えて、ドライヤーで髪も整えたかったけど、まだ皆寝てるだろうし、櫛で簡単に整える程度にしておいた。
「……うーん」
 鏡に映った自分のお顔を、目をパチパチしながら、じーっと覗き込む。なんとなく、掌をほっぺたに、添えてみたりもする。
「私、ハムスターじゃないよねぇ」
 ころころ丸くもないし、ほっぺたも、特別ぷくっとしてるわけじゃない。背が小さいから、そんなことを言われちゃうんだって、分かってはいるんだけど、
「……小さい人でも、美人な人っているのになぁ……」
 私はたぶん、整形手術とかに挑戦しない限り、美人さんにはなれそうもない。
 沙夜ちゃんや、藤原さん、夏野さん、昴お姉さま。皆タイプは違うけれど、とっても綺麗な人達ばっかりだ。一緒に並んで写真を取ったりすれば、私だけが見劣りしてしまう。
 そんなこと絶対、口には出さないけれど。やっぱり思ってしまうのだ。
(……美人さんに、生まれたかったなー)
 貰った手紙も「らぶなれたー」じゃなくて、よかったのかもしれない。
(慧君は、格好いいもん。イケメンだもん)
 もし、私が彼女になったりしたら、不釣り合いだ。とても似合わない。
 相手に恥をかかせてしまうかもしれない。
『……いかんのぉ――』
 その時、ふと、姫宮脳内から声がした。ふわ~っと、霞のように現れる、その人。
『――心ぢゃよ。大切なのは、それだけぢゃ』
(ひよこ仙人様っ!?)
 お正月の初夢、ひよこ大宴会中に『神』と崇められている仙人様が、ひょっこり顔を出していた。金色の雲に乗り、鏡の中をゆっくり、楽しげに舞っている。
『お前の友人は、顔で、お前を判断しておるのかのぅ?』
 私のおつむを曲がった杖でぺちぺち叩きながら、ふぉっふぉっと笑う。
『人間もひよこも素直が一番ぢゃ。しかしそのことが、自分や他人を貶める理由になって良いわけもなかろうて』
(はうあー! その通りでございますですっ!)
 私は鏡の中の仙人様に、深くお辞儀した。ふぉふぉふぉ~っと、愉快そうに笑う声が追いかけてくる。
『さぁて、こんなところでぼやぼやしとる訳にもいくまい? お前はどうして、今日はこんなにも早く、目を覚ましたのじゃったかいのぅ?』
 すべて承知の上、という風に告げる仙人様だった。
『まっすぐ、素直に、心が自然に命じるままに進むのぢゃ』
 そう言って、仙人様は再び、すーっと消えていった。
「よっし!」
 ぺちんっ、とほっぺを一度叩いて気合いを入れる。それから洗面所を後にした。向かうは調理場。冷蔵庫を開けて、ラップをかけていた特製の豚カツと、サンドイッチ用の食パンを取り出した。
『つまみ食い厳禁! 特に夏野さんっ』
 ぺりっとメモを剥がして。いざっ、お料理開始っ!
 美人さんになれないなら、せめて女の子らしいことを、得意になろう。そして素敵な恋をはじめよう。そう思って、小学生の時から、せっせとお料理を勉強した。
 今のところ、恋には繋がっていないどころか、むしろ恋敵だったりする子にお菓子の作り方を教えたりして、叶わぬ恋を増やしちゃったんだけど。
『秋ちゃんのおかげで告白できちゃった! ありがとうっ! 大好き~~っ!』
 そう言われた時の、乙女の可愛らしさと言ったら、反則だった。
 うっかり、同じ女子に恋をしてしまうぐらい、反則だった。その子とは高校で別々になっちゃったけど、今でも連絡を取り合う、大切なお友達の一人だ。
「ふふんふんふ~ん♪」
 おいしーお料理は、誰かを幸せにする。それだけは、間違いないのです。
 私は台所に立っている時、自分のことを、ちょびっと誇らしいって思うのだ。

『――ぴっぴっぴー! 落ち付くっぴ~、左足ー、右足ー、左足ーっ!』
 ぎっちょん、がっしょん。
 今日もロボになりながら、廊下を歩いていた。
 お昼休みで、わいわいと賑やかな周りの声も、今はほとんど聞き取れない。
『心拍数上昇中っぴ!』『血圧もアップぴょ!』
『――そろそろ出番か。最近多いな。やれやれ、あまり老兵に無茶をさせんでくれよ……ぴ』
 ヒヨコ元帥が重々しい溜息をこぼす。私はいよいよ、どきどき、その教室の前までやってきていた。去年、私や藤原さんが通った、一年一組の教室だ。
『作戦ポイントに到達しましたっぴ!』『ターゲットとどうやって接触するぴ~?』
『落ちつけ。まずは教室の中を視察せよ。意外に窓際の席かもしれんからな……ぴ』
『了解ぴー。その作戦で行動をお願いしますっぴ!』
『こちら脳内! らじゃーですぴよ!』
 ヒヨコ会議の結果、生徒の出入りが激しい教室の中を、そぉ~っと覗き込んでみる。
「慧よぉ、お前はめんどうくせーんだよマジで」
「うるさいな、余計なお世話だ―――」
 ほとんど同時に、イケメンの二人組が教室から出てきた。
 生真面目な正統派タイプが、茶髪のホスト系イケメンに、腕を回されて絡まれている。
『……イケメン×イケメンだっぴ……』『……ゴクリ……っ』
 イケない、キラキラした妄想が、一瞬脳裏を過っていった。
「おや、姫宮先輩ではありませんか。こんにちは」
「こ、こんにちはっ!」
「どうされたのですか? こちらにご用でも?」
「あ、あのねっ!」
「うわーっ! なにこの小せぇのっ! コレが先輩!? 持ち帰りてぇっ!」
「如月、貴様、先輩に失礼なことを申すな」
「んなこと言ったってさぁ~。マジ可愛いんだもん」
(か、可愛いって!)
 姫宮メーターが一瞬で「ぼぎゃーん!」って振り切れた。
『ぴ~っ! 理性が半壊しました!』『可愛いって、可愛いって言われちゃったぴ!』
『イケメンに可愛いって言われ……ぴーよぴよぴよぴよっ!!!』
『くっ! いきなり夏野タイプのイケメンが登場だとっ!? ぬかったわ! ……ぴっ!』
『脳内オーバーヒート! 脳内オーバーヒート! ピピピピピピピッ!」
 はうああうああわわわあうああぁぁ。
 はーうーあーうーあーっ!
『姫宮秋! 操縦不能です! 動けませんぴー!』
『思考レベルがさらに低下! もはや残念! ぴよー!』
『えぇい! まずは理性をハムスターレベルまで上昇させろ! ……ぴっ!』
『らじゃ~~っ!』
 どたばた、どたばた。
 頭の中で、ひよこ達が頑張ってくれている。その時、一つの言葉が蘇った。
『――心ぢゃよ』
 KO・KO・RO・!
「う、卯月くんっ!」
「年下ですので。慧と呼び捨てにしてやってください」
「けーくんっ!」
「はっ」
 彼がぴしっと、直立不動の姿勢を取る。私はその胸元へ、タッパーを持った両手を伸ばす。
「カチュシャンドですっ! ぜんぶ! カヒュヒャントれすっっ!」
『――ぴぃ! 言語レベルが再び低下していますっ!』
『いかん。急いで持ち直せぇ! ……ぴ!』
「全部カツサンドですね」
『つ、通じただとっ!? この男、できるっ! ……ぴ!』 
 首をなんとか上下に振る。十数個入ったサンドイッチは、全部カツサンドだ。
「え、えっと! いろいろ、スパイスとか、ソースとか、いろいろです! 甘いのとか辛いのとか、お漬物に合いそうなのとか、コーヒーに合いそうなのとかっ! 分かんなかったので!」
「……すみませんが、お話が見えて――」
「アホかお前はっ!」
 イケメンが、イケメンの頭を「べっちこーん!」って叩いた。慧君が叩かれた後頭部を抑えて、思いっきり顰め面をする。
「いきなり俺の頭を叩くな、如月」
「叩くわっ! 今のは俺でなくとも叩くわバァカ!」
「アホなのかバァカなのか、ハッキリしろ」
「うっせぇよ! そこはどうでもいいんだよ! あぁもう面倒くさいなテメーはよっ!」
 もう一度平手をかますも、綺麗に白羽取りされていた。ぐぬぬぬぬ……と二人がじゃれあっていると、
『ピョピョ……す、素敵な世界に乾杯……ぶふっ!』
『元帥ーっ! 脳内のぴよ美ちゃんが鼻血吹いて倒れてしまったぴよ~っ!』
『小言で、薔薇が、吹き荒れている……とか呟いていて、不気味ですっぴ~~っ!』
『……そっとしておいてやれ』
 脳内が大変なことになっている間に、決着はついたらしい。茶髪イケメンが、諦めたように溜息をこぼして、私の方を見てた。
「姫宮先輩って、言いましたっけ?」
「で、ですっ!」
「俺、如月翠(きさらぎ すい)です。この朴念仁の唯一無二の親友やってんの。よろしくね」
「誰が親友だ。せいぜい悪友に留めておけ」
「んだよ、テメーの面倒くせぇ性格に付き合ってんのは、俺ぐらいのもんだろが」
「ふん。入学一月で髪染めして、平然と一悶着起こす貴様の方が面倒臭い」
 イケメン二人が睨み合う。そんな絵も素敵だなぁとか思っていると。
「そうだ。昨日、この馬鹿を学食までパシらせて、カツサンド買わせて来ようと思ったんすけど、こいつ、どこぞの可愛い先輩にくれてやったとか言うんすわ。マジ使えませんよねー」
「……如月ィ」
 ゴゴゴゴゴっと、三白眼の瞳が、怒りオーラを放っていた。正直迫力ありすぎです。
 怖かったけど、私のせいでもあるので、慌てて間に入る。
「ご、ごめんねっ! 私、知らなくて!」
「いえー、姫ちゃん先輩は悪くないですよ。でもそーいうことなんで、そのカツサンド、俺にくれるのが筋ってもんだと思いません?」
「え?」
 イケメンの笑顔が、キラキラ~と輝くのが見えた。また脳内で、気持ちの良くなる麻薬物質が溢れ始めた。ぴよ美ちゃんが担架に乗せられて、血液の中を運ばれていく。
「冗談すよ。それ、慧の為に作ってきたんでしょ?」
「う、うんっ!」
「……俺の?」
 ちらっと慧君を見上げると、慌てたように、若干視線を逸らされちゃう。余計なお世話だったかなと思いそうになった時、折り目正しく、お辞儀されていた。
「……光栄です。俺なんかが、頂いても宜しいのでしょうか」
「ど、どぞどぞどうぞっ!」
「ありがとうございます、姫宮先輩」
 カツサンドのタッパーを手渡した。指が触れないように気をつけて、ドキドキした。
「じゃ、じゃあっ! またねっ! タッパー捨てちゃってもいいからねっ!」
「――あぁ、姫宮先輩、すみませんが少しお待ちを」
 言って、素早く教室の中に踵を返していく慧君。私は夏野さん風イケメンと二人、廊下で待つ格好になってしまう。
「姫ちゃん先輩」
「なっ、にゃにかなっ!」
「実はですねぇ~」
 こっそりと、内緒話をする風に、耳元まで近寄られた。
(近いっ、顔が近いよぅ!)
「あいつね、実は相当、味覚音痴なんすよ」
「えっ、そ、そうなのっ?」
「甘いか辛いか、マジでその程度判別がつくぐらいで。だから平然と『ご馳走様でした』とか言うんですけど、他意はないんで――」
「貴様、勝手な事を言うなっ!」
 少し息急いて、慧君が戻ってきた。どうやら席がすぐそこだったみたい。片手には、糸で束ねて、丸めた紙を持っていた。
「本当のことじゃん。つーか、お前何持ってんの? 卒業証書?」
「そんな訳あるか! そして豚肉と牛肉の違いぐらい、食えば分かるぞ!」
「……お前なぁ」
 どうやら、味覚音痴っていうのは、本当らしかった。
「なんでそーやって自分から株落とすんだよ。親友のフォローを十秒で無駄にしやがって。馬鹿野郎が」
「……む?」
 ちらっと、慧君が私の方を見る。「俺、何かやらかしましたか?」という意味合いの視線が飛んできていた。
「だ、大丈夫だよっ! 中にはすご~く辛いのとかも、入ってるからっ!」
「へー、ロシアンルーレットですか?」
「うぅんっ。辛いんだけど、学食のハムみたいな豚カツよりは、絶対美味しいからっ!」
「おっ、姫ちゃん先輩って、料理に自信ありですか?」
「す、すこしはっ、腕に自信があったりするですっ!」
「そりゃ楽しみ。じゃあ俺も一個、二個、もらっちゃっていい?」
「うん、皆で食べてっ。美味しいご飯は、人を幸せにするのです~っ!」
 そこまで言うことないのに。これは絶対笑われちゃうって思ったんだけど、
「へぇー、姫ちゃん先輩って、いい人ですね~」
 思いの他、優しげな笑顔を向けられてしまった。
 胸がっ、胸がっ、ドキドキするのっ!
『……え、笑顔がっ! まぶしいぴよ~~っ!』
『イケメン様が見てる……ぴぃ~……』
『……ぽー。こちら~、卵~。もー、孵化しても、いいぴよ~?』
 卵の殻に、ぴきぴき亀裂がはしっていく。
「姫ちゃん先輩。今、ケータイ持ってます? 良かったら番号交換しときません?」
「おい、いい加減にしろ貴様」
 ぱこん。
 慧君の手にあった丸めた紙が、イケメンの頭を軽く叩いた。
「姫宮先輩、こちら――例の、続きです」
「えっ、例の?」
 そう言って、私の前に差し出してくる。
「その……二巻の予定の……」
「あっ、うんっ!」
 妖精騎士の二巻なのかなって、思い浮かんだ。
「……まだプロットの段階で、かなり荒削りですが。その、よければ、ですね」
「あ、うんっ、時間のある時でもいいかな? 今度はゆっくり読むから、もうちょっとかかるかも」
「是非。よろしくお願い致します」
「へー、なにそれ、なにそれ?」
「如月には関係ない」
「なんだよー、親友に隠し事かよー。見せろよ」
「見せん、お前だけには絶対見せん」
 仲良いなぁ。
 なんとなく、私と沙夜ちゃんみたいだなーって思ったりした。
 それから口実――じゃないけど、思っていた事を、彼に告げた。
「あっ、あのねっ、慧君」
「はっ、なんでしょうかっ」
「この前のお話。知人さんに会うっていう……」
「はっ! あれは、その、申し訳ありません! 勢い、口が過ぎたことでして――」
「う、ううんっ! 中間テストが終わってからでも、いいのかなって思ったんだけど」
「なっ! それはつまり、会ってもよろしい、と?」
「うん。お昼食べてお話するぐらいなら、全然大丈夫だよ」
 告げると、彼は本当にびっくりしたような顔をした。それから考える風に、何もないはずの天井を見上げる。なにを考えてるんだろうって思った時、
「照れてやんの」と、小馬鹿にするような声が、微かに響いて消えていった。

     

『終章 妖精騎士ノ物語』

 ――平原を駆け抜け、海を渡り、時に空を馳せる竜の地をも巡り、魔王の欠片を宿した姫君は、彼の存在だけを求め、生き続けていた。
 陶磁器のようであった肌は、陽に染まり、黒い染みが広がっていた。滑らかに伸ばされた髪は、今やぼさぼさと、鳥の巣の手前である。手足の爪はひび割れてもいたし、身に付けた最初のローブは売り払い、今は肌を晒さぬことだけを是とした、ボロの衣服である。
 彼の存在はどこにも見当たらぬ。
 未だ魔王の力が残り、人でない彼女は、食を得る必要はなかったが、心は飢えていた。
 二本の足と魔法を使い、世界を渡り歩くも、影すら捕えることは叶わない。
 瞳だけは、絶えず変わることなく、ぼんやり赤く、虚空を見つめていた。
『……姫様、諦めましょう』
 変わらず付き従う妖精は、同じことを繰り返した。美しい面影など一切失ってしまった彼女に、ひどく胸を痛ませて、懇願するように告げていた。
『この世界はもう、すべてを見て回りました。もうじき、大陸をぐるりと一周いたします。森に帰りましょう、姫様』
「……そうね」
 姫君は知らず、ぽつりと呟いていた。
「あの人は、帰る場所を欲していたものね……」
 叶わぬ望みと知りながら、白き森の最奥で待てばいいのか。
 身が朽ち果てた後、魂の楽園と呼ばれる場所で、初めて再会が叶うのかもしれない。
 
 目を閉じて横たわる。
 下草を踏み分ける足音が、遠く耳に聞こえ――。


     


 * 二年目 彼と彼女達の恋心。

 テストが無事に終わった次の土曜日、
 私はいつもより早起きして、身支度を整えて、お昼前に女子寮をでた。今日は小説の作者さんと会う日だった。サインしてもらえるかなっていう下心から、もう一冊本を買って持ってきた。
(格好、変じゃないよね)
 毎月実家から送られてくる、ひよこの涙なお小遣いを貯め込んで買った、新しいワンピースと靴。バッグは沙夜ちゃんから借してもらった。昨日は美容院にも寄ったし、沙夜ちゃんにお化粧の具合も見てもらったし、たぶん、大丈夫。
(それにしても、やっぱり緊張する~っ!)
 正直、慧君のこともほとんど知らないのに、さらに見知らぬ人と三人でお食事。慧君によると、知人さんは女の人で、同じ高校生らしいから、そこはちょびっと安心だ。
『――いつも知人と打ち合わせに使っているファミレスがありますので、そちらでよろしいでしょうか?』
 というわけで、全国チェーン展開している、普通のファミレスでお会いすることになった。お財布の中身に余裕があるわけじゃなかったから、そこも安心だ。
(それにしても『打ち合わせ』っていう言葉が格好いいよねー)
 なんとなく、プロっぽい。
 あの日、慧君にそう言ったら、彼は少し慌てた風に返してきた。
『そんなことは、全くもってありません。むしろ修羅場の時などは、地獄絵図です』
 机の上には原稿用紙が散らばり、空いたグラスが十以上も並び、「無理無理……」とのたうち回りながら、丸一日近く、カンヅメしたりするらしい。知人さんが。
『さすがに当日は、そんなことはありませんので。普通に食事をしながら、小説の話をさせて頂いた後、気が向けば……その……どこへなりとも――はっ、もちろん三人でっ!』
「……えへへ」
 電車の中で少し、思い出し笑いをしてしまう。
 男の子が慌てた顔っていうのは、予想外にも可愛かったのだ。
(ラキアス君も、あんな顔したりするのかな~)
 カタンコトン、と揺れる電車の中。
 貰った用紙に綴られていた、物語の続きを思い返してく。
 二巻の下書き「ぷろっと?」は、どよーんと、ひたすら暗いお話だった。
(本当に同じ人が書いたのかなっていうぐらい、ひたすら暗くなっちゃったよねー)
 正直、今度こそハッピーエンドなんだろうなって思ってたから、あれ~って感じ。
 物語のラストも、微妙に空白のままだったしね。

 三つ離れた、街の中心街に近い駅で電車を降りた。
 何度かお買い物をしに来たこともあるから、迷いはしない。ケータイを開いて、時間を確かめようとした時だ。
「姫宮先輩?」
「あれっ!」
 いつも通り生真面目な、それでいてちょびっと、目付きの怖い男の子が、いた。
「同じ電車だったのですか。車両が離れていて、気がつきませんでした」
「う、うわっ、偶然、だねっ!」
「はい。珍しいことです」
(うわ~! 慧君、私服なのですっ!)
 休日だから当たり前なんだけど。それにしてもやっぱり、ドキドキする。
(さ、さすが、イケメンっ!)
 同じ黒でも、堅苦しい制服とは違う、ラフな黒Tシャツと、少し破れたジーンズだ。銀色の装飾が目立つ革ベルトに、靴もゴツゴツした黒色のアンクルブーツ。部活動で鍛えているんだろう二の腕と、そして覗いた胸元にかかっている、シルバーアクセサリー。
「私服、結構派手なんだねー」
「……姉の世話焼きが介入しまして……」
「あっ、おねーさんいるんだね」
「はい。絶対的な君主として、俺を生まれた時から使役しています」
 彼はふーっと、珍しく心の底から諦めた顔をしていた。
「……このような服装は、俺には似合わないと言ったのですが」
「うぅん、そんなことない。似合ってるよ」
「そうですか?」
「うんっ!」
 普段から見慣れている、年中得意気な、茶髪の『イケメン女子』も良いものですが、慧君みたいな真面目な『イケメン男子』が、派手めの格好をしているというのも、アリです。むしろ超アリアリです。ギャップが良すぎて、
「不覚にもっ、鼻血が出そうですっ!」
「不整脈血液ですね。救急病院が近くにありますのでご安心ください。先輩は何型ですか?」
「び、びー、ですっ!」
「解りました。大事の際には手配させて頂きます――さて、店は西口から出たところにありますので、行きましょうか」
「う、うんっ!」
 先導されて、ちょこちょこ後ろをついていく。
「先輩、歩くのが早すぎれば、言ってください」
「だ、だいじょぶっ! 問題ありませんっ!」
「了解致しました。ではこの速度を維持します」
 足取りが軽い。舌をギリギリ噛まないで済んだ。ひよこ達もハラハラしながら、見守ってくれている。心の片隅で、貰ったお手紙が「らぶなれたー」だったらな……とか思って、慌ててその考えを追い払った。
(う、浮気じゃないよ藤原さんっ! イケメン男子と歩いてドキドキするのは、乙女としての正常な反応であって、だから致し方ないのですっ!)
 改札が見えてきた。慌ててお財布からカードを取りだして、ぺちっとやる。
「はごわっ!?」
 ばちーんって、弾かれた。
 改札扉が『ブブーッ!』って言う。
「先輩?」
「あ、うん、今――」
 もいっかい、ぺちっ。
『ブブーッ!』
「きゅっ!?」
 通してくれない。もしやこれは、浮気ブロッカーっ!?
 いや、落ちつくのです。姫宮秋。
 そんな高性能マッスィーンが、駅の改札口にあるはずが……てりゃっ。
『ブブーッ!』
「お、おのれ! そりゃ、うみゃ、はああああっ!」
 カードを、読み取り機にスーパー叩きつけっ!
『ブブー、ブブー、ブブゥーッ!』
「な、なんでぇ~~っ!?」
「先輩」
 正統派イケメンが、私を試すように、扉を抜けた先から見ていた。不意に胸がキュンとして、激しくドキドキ動悸しはじめた。
『――恋ですな。ぴよ』
『ロマンピョック――はじまるぴょ』
『とまらな~い、とまらな~い。ぴよよよょ~』
(ち、違うのっ、違うのこれはっ!)
「先輩、手にお持ちのそれ、学生証ではありませんか?」
「……うきゅ?」
 間の抜けたチンパンジーみたいな顔をして、自分の右手を見たと思う。
 はい。それは、学生証です。まごうことなき、学生証です。
「す、すみませんっ!」
 後ろに列を作ってしまったお客さんに謝りながら、今度こそ電車用のカードを取り出して、改札口を抜けだした。
「ご、ごめんね……っ」
 初っ端からやらかしてしまった。今だけは、私の方が、土下座して謝りたい気分でござる。
「お気になさらず。姫宮先輩は、やはり見ていて飽きません」
「……あ」
 両肩を震わせて、楽しそうに笑う、男の子。
 今度こそ、私は。
 自分の胸が、淡い痛みを覚えるのを、確かに感じとっていたのでぴよ。

 身体が、熱い。
 男子と二人きりで歩くのって、小学生の時には、もしかしたらあったのかもしれない。でもこんな気持ちで歩くのは、きっと生涯初めてだよねって思った。
 とっても緊張して、怖くて、足が震える。
「あそこです」
「らじゃですっ!」
 駅前から徒歩三分。至ってフツーのファミレスのお家が、横断歩道を挟んだ向こう側に見えていた。赤信号なので止まって待っていると、慧君が腕時計を見た。
「まだ少し、時間に余裕がありますね」
「そうですですっ! どうしよっかかっ!」
「知人に連絡を入れてみます。こちらまで時間がかかりそうならば――少し書店に寄ってもよろしいでしょうか」
「どっ、どうぞどうぞっ! なのですっ!」
「ありがとうございます。この辺りは大きな書店が多いので、色々と便利なんですよ」
 微笑を浮かべた後で、ケータイからメールを送ってた。イケメンなので、そんな何気ない動作さえも、うっすら絵になって映ってしまう。
(イケメンはお得ですね~)
 そして、そんな姿を見られる自分も、ちょっと得した気分だ。彼を見ていると、ふと、ストラップが躍っているのに目が留まった。
 お腹を上にして、仰向けに寝転がっているのは『だるぱんだ』だ。今話題の『だるキャラNEET』連盟の一匹だった。だるぱんだは特にダメな奴で、
『……寝るより楽は無かりけり。あぁそうか。俺、働いてるんじゃん。寝よ寝よ……』
『……ゆるキャラって肩書きいいよな。存在してるだけで許される。勝ち組だぜ……へへ』
『……パクリ、パロディ、版権無視、好き勝手やってくれよ……ただし一割寄こせ、な?』
 などの名台詞が山ほどあって。
「働け~っ!」って、思わず突っ込みたくなるのだった。
「はっ! なにか御入り用でしょうか、姫宮先輩っ!」
「えっ? あっ、いやいやいやっ、違うですっ!」
「左様ですか。なにかあれば、遠慮せずお申し付けください。先輩の御用とあらば、海千山千越えましてでも、地方限定産の缶ジュースを購入してくる所存でありますっ」
 格好良い真面目な顔で、心なしか、キラキラ瞳を輝かせて言われてしまった。
『……便利なイケメンだっぴ~』
『試しに北海道辺りまで、パシらせてみるっぴ?』
『沖縄限定の、ハイパーゴーヤジュースミックスとやらが気になるっぴ~』
 こら、勝手なこと言わないの。
 うっかりお醤油切らしちゃった時なんかに、面倒臭がらず、コンビニまで買い出しに行ってくれそうで助かるなぁ、とか思っても言っちゃダメ。
『らじゃ~~っ』
「――姫宮先輩?」
「ふぇ?」
「いえ、なにかこう、時々、目に見えぬ何かと会話されているような……」
「ないないないっ! ひよこなんて見えてないよっ! あっ、あのっ、それ可愛いねっ、だるぱんだっ!」
 無理やり話題を持っていく。
「そういえば、お姉さんいたって言ってたよね。それもお姉さんから貰った奴とか?」
「いいえ、これは個人的に――その、可愛い、と言いますか……」
 慧君は少し顔を赤くして、ぼんやり空を見上げて、誤魔化していた。照れた表情を見られたくない時の、癖なのかもしれない。
「……見目麗しいとは言えませんが、その、なにか、なごむので……」
「うん、わかるよー。『リラック魔』とか可愛いよねぇ」
「はい。その意見には激しく賛同させて頂きます。人を三桁ほど殺めたかのような、凶悪な豪傑熊の風貌と人相でありながらも、何故か、見ていて癒されます」
『……お前、理解できたぴよ?』
『……少なくとも、今の説明で癒されるのは難しいぴよよ……』
「俺の一番のお薦めは、NEET連盟のボス『モウダメリス』ですね。平べったく「のし」の体制で、世界を死んだ魚の瞳で見つめる、やる気の無さが実に愛らしい。UFOキャッチャーで陳列されていましたが、俺には才能がないらしく、如月の奴をハンバーガーで釣りあげて強制回収させました」
「ほ、ほほ~……」
 慧君の表情は変わらず生真面目で、相変わらずちょびっと怖い顔で、言った。
 私は頷くのが精一杯だった。
「――すみません。つい……あぁ、信号が変わりましたね、渡ってしまいましょうか」
「あ、うん」
 いきなり言われて、慌てて後をついていく。その時の足取りは早すぎて、駆けないと追いつけなかった。
(それにしても意外だなぁ)
 可愛いキャラクター物とか、好きだったりするのかな。男の子ってよく分かんない。

     

 高校生のカップルに見えなくもない二人組が横断歩道を横切っていくのを、彼女は眉をひそめて見つめていた。
「――もー、何やってるんだか……」
 若干自分への問いかけも含まれていたが、その言葉は概ね、男の方に投げかけられていた。なんて気配りの足りない、と臍を噛む思いである。状況によれば、都合が悪くなったとでも言っておいて、適当にショッピングにでも繰り出せばいいかと考えていたが、
「見てらんないわっ、あの朴念仁!」
 これはやはり、お節介でも私が出て行って、なにかしらきっかけを作ってやるしかない!
 手にした携帯を「ぐっ!」と握りしめる。つい先ほど、男の方からメールを受信したばかりだった。

『脳内でカッパが大量発生いたしましたっぱ。テンぱっているので、至急救援を願いますっぱ。かしこ』

 常人には意味不明であった。ともすれば救急車を呼んでしまうかもしれぬ。しかし付き合いの長い彼女は、彼のことを、他人よりは、幾分知っていた。
「……もう、世話が焼けるわね~」
『いまいく』と、短いメールを手早く送信し、目前に見えているファミレスへと向かおうとした時だ。
「――ねー、そこの彼女、ガイジンさん?」
 すぐ後ろから、吹けば飛ぶような、軽い声が聞こえてくる。
 彼女は「ちっ」と舌打ちしてから振り返る。予想通り、まぁ見れなくもない、そこそこの男が二人立っていた。髪を茶に染めて、耳と口元にピアスが嵌っている。
「ほらよ、やっぱガイジンじゃん。すげーブロンド。目も青いしー」
「ねぇねぇ、観光客なの? 日本語分かる? よかったら俺等と飯食いにいかね?」
 気安く声をかけた余裕は、容姿よりも資金源にあるのかもしれない。腕に回した腕時計だけで、一本百万は越すだろうと彼女は見た。
(どこのボンボンだか、成金坊ちゃんなんだか……)
 こんな時でもなかったら、本当に唾を吐いて追い返すところだ。ただ、あまり騒ぎ立てを起こしては『ひよことかっぱの二人組』に、余計なトラブルを持ちかねない。
「……」
 ひとまず無言で、眉を潜めてやってから、歩きだした。
「あーあ、フラれてやんの」「うっせーよ」と、軽薄な笑い声が聞こえてくるだけで、追っては来ない。
(小物ね。私をそこまで安く見ないで欲しいわ)
 胸の内で嘲笑する。
 横断歩道まで来た時、信号が、ぱちっと点滅しはじめた。
 渡れるかと、小走りしかけた時だった。
「ハァイ、ナンシー。ハウ・ア・ユー?」
 足が止まった。今の彼女にとって、切っても切り離せない。いや、気がつけばいいようにこき使ってくれる『上司』の声。
「……誰がナンシーよ」
「あら、人違いだったかしら~」
 不思議だった。
 普段顔を合わせているクラスメイトや、教師ですら気がつかない、彼女の『変装趣味』を、高校に入ってろくに言葉も交わしていない内に、一目で見破ったのだ。苦しくも今日と同じように、休日だった。偶然に街ですれ違っただけで、
「こんなところで、何をなさっているのかしら。す・ば・る・さ・ん?」
「……沙夜」
 日比谷昴、蒼月沙夜。学園では『日夜コンビ』などと呼ばれている二人が、休日の街の一角で、しかし本日は偶然ではなく、必然的に顔を合わせていた。
「相変わらず化けるものねぇ~。被ってるのはカツラ? 瞳はカラーコンタクトなんでしょうけど。ふふっ、とっても素敵でしてよ」
「沙夜の口から出るのは、嘘ばっかりね」
「あらあらぁ、髑髏のついたバックルがオシャレね~。おヘソも出しちゃって、パンクファッションでも気取ってるのかしらぁ?」
「……うるっさいわねー。大体そういう貴女はなんなのよ。なにそのサングラスと唾広帽」
「あら、尾行と言えば、唾広帽とサングラスとトレンチコートよ。流石にコートは今の季節には暑くって、着れたもんじゃなかったけれど」
 もしかしたら、着てみようと思ったのかもしれない。この六月に。
「……それで、タイトなブランドワンピ着て、バッグ提げて、オシャレなヒールサンダル履いて。いつもの貴女らしいファッションで出て来たわけ? 帽子がすっごい違和感すぎて逆に目立つんだけど」
「ふふ、さしずめ『美人迷探偵』コロンボ。代理助手希望、と言ったところですわ~」
「意味わかんないわよ」
 いつもの癖で、ちょっぷ。
 なんだかんだ言いつつ、沙夜もまた秋のことが心配で、後をつけて来たに違いなかった。
(――シスコンと、ブラコン、此処に在り、ね)
 彼女はやれやれと溜息をこぼす。ちらりと先を見れば、とっくに信号は変わっていた。ファミレスの入り口前に立つ二人が、なにかしら話しているのが、ギリギリ分かる距離だった。
「それで、昴」
「なによ」
「アキラさんのおっしゃっていた、小説の作者とやらは、貴女なのね?」
 いつのまにか、肩を寄り添わせる距離。自然と隣合っていた。
「……なんのことかしら?」
「貴女って本当に隠し事が多いわね。私が今まで会った人で、一番に多趣味で、一番にミステリアスな女性ですわよ」
 口元に手を添えて、ふふっと笑っている。
「昴のそういうところ、好きよ。とっても面白いわ」
「……」
 心臓が軽く、とん、と何かを訴えた気がした。隣を見ると、にっこりと優しい微笑が浮かんでいた。
「でもね。わたくしのアキラさんに手を出す時は、一言くれないと、ね?」
 にっこり。
「ぜんぶ、自白してくれますわよねぇ~~~~?」
 超、にっこり。
「ごめん沙夜! 私にも言えないことがあるのよっ! アデュー!」
「あっ! こら待ちなさい昴っ!」
 信号が変わる。青になったと同時に、ファミレスとは全く逆の方向に走りだした。
ブーツとサンダルでは、さすがに勝算は見えている。ぐるりと一回りして、奴を撒いてからしかる後、別の場所で―――。
『昴、どこへ行くおつもりかしら~?』
「!?」
 自分の胸元から、突然声がした。
『さっき貴女に近付いた時、盗聴機と、特殊なGPSを仕掛けさせてもらいましたわぁ。うふふ。わたくし自慢ではありませんけれど、アキラさんと隠れんぼをしていて、一度も見つけられなかった事がありませんのよ~?』
 振り返れば、携帯らしい物を口に当てて、にっこり微笑む『美人迷探偵』がいた。
『いいんですのよ~。昴がお話しをしたくなければ、それはそれで、ね。その代わり、一仕事頼まれてくれますわよねぇ~?』
 にっこり。
(……地獄の鬼より怖いわね……)
 彼女は諦めて、すごすごと、上司に従うのだった。

       

表紙

五十五 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha