銀色の魔王
二章 戦うサラリーマン
二章 戦うサラリーマン
―目覚めて、どうしろと言うんだ?
〝奏でろ〟
―何をだよ?
〝歌だ〟
―歌?
〝そうだ。奏でろ〟
〝我らが王を称える歌を〟
詩織と何か思い出したくもない壮絶な戦いを繰り広げてから、一週間ほど。
最近になってだが、俺にもこの〝闇の世界〟ってのの法則が理解できはじめてきた。
要するに、俺みたいな狼男や、詩織みたいなサキュバスってのか?そういう〝闇の種族〟の血を引いている奴は、別段珍しいもんじゃないらしいのだ。学校なんかにも、ちらほらそういう血を引いてる印象を受ける奴がいたりする。人間と共に生きた闇の種族ってのが結構居て、それの血を知らずに受け継いだりしてるんじゃないか、と俺は勝手に想像しているが、当然詳細は不明だ。だって俺には、そういう事情に詳しそうな知り合いは―居るけど、相談できない状態だし。
まあそれは置いておくとして、実はその闇の血に〝目覚めている〟奴となると極端に少なくなる。どんな血が流れていようと、その血を自覚せず、無意識にその血を否定する生活を送れば、そいつはなんら人間と変わらないし、事実人間そのものであるという言い方もできる。その方が逆に幸せだろうとさえ思える。それでその〝闇の種族〟である存在はたいして世の中に居ない訳だ。
そして俺は何が原因だか知らないが、〝目覚め〟た。俺の中には人狼の血が流れていたようだ。おそらく、親父か母親のどちらかががそうだったのだろう。もしかしたら両方ともそうだったのかもしれない。まだ俺が小さい頃に二人とも死んでしまったので、今となっては確かめる術はないが―。
つまりは、俺の兄弟も俺と同じ血を引いている事になる。
そう、俺には兄と弟、二人の兄弟が居る。
二人は目覚めているのか、居ないのか。
実のところ、それを判断する方法はない訳で、どうしていいのかさっぱりではある。
まあ、見たところ目覚めてはいない様ではあるのだが―
「と、いう訳で」
明守の奴は、にこやかに言った。
「今月は赤字なんだよぉ」
次の瞬間には泣いていたけど。
「兄さん……。顔を上げてくれ。大丈夫。僕らは決して兄さんを責めはしないよ」
俺はそんな明守(兄)の肩に手をおいて、優しく微笑みかけた。
「だから、その無修正シリーズ全六巻、後で俺にも貸してくれな」
「ううっ!わかってくれるんだね、僕の夢をっ!たとえ今月の給料を棒に振ろうとも、これを買わずにいられなかった僕の気持ちをっ!ありがとう正貴ぃぃぃっ!」
「わからいでか兄さんっ!」
俺達はがしりと抱き合い、分かり合う。美しい兄弟愛である。
「……………」
そんな俺達に無言で軽蔑の眼差しを向ける奴の存在に、俺達は多少汗を掻いて気まずく固まる。
「……兄さん達の、スケベ」
ぼそりと大樹が呟く。重い。何かずしりと重い一言である。わが弟ながら、末恐ろしい奴。
「な、何を言うんだい、大樹。このビデオはね、そういう不健全な気持ちから買ったものじゃなくて、純粋に女体の神秘の研究の為にね―」
明守が必死になって大機にいい訳をする。しかし大樹は軽蔑の眼差しを一時も緩める事はなく。
「嘘つき」
大樹の攻撃に、明守は涙目になって後ずさる。狼森明守、二十五歳。早くに両親が死んだ狼森家の家計をまかなう一家の大黒柱にあるまじき姿なら、逆に狼森大樹、十三。まだ中二にすぎぬ小僧にあるまじきプレッシャーである。
「最近物価が上がってきて大変なんだけど。残り二万で、どうやって一ヶ月食べていく気?」
ぎろりと大樹が俺達を睨む。恐ろしいまでのプレッシャー。こいつ、本当はすでに闇の血に目覚めているんじゃないだろうか?怖い。
「今月の生活費、後二万。兄さん達で、何とかしてね」
そう言い残して大樹は立ちあがる。
俺は実感した。
父母亡き後、我が家最強の座は名実共に大樹のものとなってしまった事を。
結局、俺はバイトをする事になる。何故俺かといえば、明守は曲がりなりにも会社づとめ。当然バイトは禁止で、かつそれを破ったりしたら大樹が怖いからである。
「そういう訳でね、詩織君。とてもじゃないが、僕は君と一緒に遊んでいる暇はないのだよ」
俺は目を閉じて、和やかに語っていた。ちなみに手にはバイトの情報紙が握られている。
「そんな、まーくん……貴方は友達より家族をとるというの?しおりんちょっと悲しいわ。でも、同時に私にはそれを止める権利がない事もわかるの……」
詩織がよよよと泣き崩れる。
『と、いう訳で』
そこで俺と詩織の声が見事にはまり、同時に俺達は目の前に立つ人物に手を差し出した。
『よろしく、太郎君』
「……………」
その人物、田中太郎は無言で俺達の差し出した手を見つめ続ける。
「どうしたの?もう一回説明が必要?」
詩織が首を傾げて太郎に聞く。
「いや、いい。大体話はわかったよ。要するに、詩織さんは人探しをしてて、正貴の代わりに俺に手伝って欲しい訳なんだろう?なんでそれが芝居形式で説明されるのかは、どうしてもわからないけど」
「そう。予備兵力として当初予想していた正貴が、急なバイトの為使えなくなってしまってね。変わりに予備予備兵力として想定していた、貴方を抜擢した訳」
詩織はにっこりと笑って言う。悪意のない、無邪気な笑みである。その笑みを浮かべながらあの人を人とも思わない台詞を吐けるのだから、さすがは我が親友というところだ。もしくは好敵手。
「まあ別に暇だしさ。で、一体誰を捜す訳さ?」
太郎は少し照れて頭をかきながら、ぶっきらぼうに言う。基本的に人がいい奴なのである。それでよく詩織の様な性の悪い悪々女に食い物にされる、可愛そうな奴。それが田中太郎のすべてといえばすべてといえる。他にも成績優秀で顔がいいので結構もてて生意気だとか、名前がださいとか色々あるけど。
と、そこで詩織がぴんと指を立てて言った。
「何か狼っぽい奴よ」
「はぁ?」
詩織の言葉に、太郎が眉を潜める。俺は一瞬咳き込みそうになるのを、気合と根性で必死に耐えた。
「だからあたしの知り合いで、何か狼っぽいやつ。多分男。この条件にピックアップする奴を、一人一人あたっていくの。ぼろをだした時がそいつの最後。ふふふ…」
詩織は何か形容しがたい笑みを浮かべて言う。
……やはり諦めてなかったのか。
太郎が「なんでそんな奴捜すの?」とか聞いている横で、俺は天井を見上げて詩織のあの言葉を思い出していた。あの、俺に負けた次の日に、本気の目で呟いていたあの台詞を。
〝あの人狼だけは、絶対に殺さなくちゃ〟
俺は、もう二度と変身はしないでおこうと、硬く心に誓っていた。
―目覚めて、どうしろと言うんだ?
〝奏でろ〟
―何をだよ?
〝歌だ〟
―歌?
〝そうだ。奏でろ〟
〝我らが王を称える歌を〟
詩織と何か思い出したくもない壮絶な戦いを繰り広げてから、一週間ほど。
最近になってだが、俺にもこの〝闇の世界〟ってのの法則が理解できはじめてきた。
要するに、俺みたいな狼男や、詩織みたいなサキュバスってのか?そういう〝闇の種族〟の血を引いている奴は、別段珍しいもんじゃないらしいのだ。学校なんかにも、ちらほらそういう血を引いてる印象を受ける奴がいたりする。人間と共に生きた闇の種族ってのが結構居て、それの血を知らずに受け継いだりしてるんじゃないか、と俺は勝手に想像しているが、当然詳細は不明だ。だって俺には、そういう事情に詳しそうな知り合いは―居るけど、相談できない状態だし。
まあそれは置いておくとして、実はその闇の血に〝目覚めている〟奴となると極端に少なくなる。どんな血が流れていようと、その血を自覚せず、無意識にその血を否定する生活を送れば、そいつはなんら人間と変わらないし、事実人間そのものであるという言い方もできる。その方が逆に幸せだろうとさえ思える。それでその〝闇の種族〟である存在はたいして世の中に居ない訳だ。
そして俺は何が原因だか知らないが、〝目覚め〟た。俺の中には人狼の血が流れていたようだ。おそらく、親父か母親のどちらかががそうだったのだろう。もしかしたら両方ともそうだったのかもしれない。まだ俺が小さい頃に二人とも死んでしまったので、今となっては確かめる術はないが―。
つまりは、俺の兄弟も俺と同じ血を引いている事になる。
そう、俺には兄と弟、二人の兄弟が居る。
二人は目覚めているのか、居ないのか。
実のところ、それを判断する方法はない訳で、どうしていいのかさっぱりではある。
まあ、見たところ目覚めてはいない様ではあるのだが―
「と、いう訳で」
明守の奴は、にこやかに言った。
「今月は赤字なんだよぉ」
次の瞬間には泣いていたけど。
「兄さん……。顔を上げてくれ。大丈夫。僕らは決して兄さんを責めはしないよ」
俺はそんな明守(兄)の肩に手をおいて、優しく微笑みかけた。
「だから、その無修正シリーズ全六巻、後で俺にも貸してくれな」
「ううっ!わかってくれるんだね、僕の夢をっ!たとえ今月の給料を棒に振ろうとも、これを買わずにいられなかった僕の気持ちをっ!ありがとう正貴ぃぃぃっ!」
「わからいでか兄さんっ!」
俺達はがしりと抱き合い、分かり合う。美しい兄弟愛である。
「……………」
そんな俺達に無言で軽蔑の眼差しを向ける奴の存在に、俺達は多少汗を掻いて気まずく固まる。
「……兄さん達の、スケベ」
ぼそりと大樹が呟く。重い。何かずしりと重い一言である。わが弟ながら、末恐ろしい奴。
「な、何を言うんだい、大樹。このビデオはね、そういう不健全な気持ちから買ったものじゃなくて、純粋に女体の神秘の研究の為にね―」
明守が必死になって大機にいい訳をする。しかし大樹は軽蔑の眼差しを一時も緩める事はなく。
「嘘つき」
大樹の攻撃に、明守は涙目になって後ずさる。狼森明守、二十五歳。早くに両親が死んだ狼森家の家計をまかなう一家の大黒柱にあるまじき姿なら、逆に狼森大樹、十三。まだ中二にすぎぬ小僧にあるまじきプレッシャーである。
「最近物価が上がってきて大変なんだけど。残り二万で、どうやって一ヶ月食べていく気?」
ぎろりと大樹が俺達を睨む。恐ろしいまでのプレッシャー。こいつ、本当はすでに闇の血に目覚めているんじゃないだろうか?怖い。
「今月の生活費、後二万。兄さん達で、何とかしてね」
そう言い残して大樹は立ちあがる。
俺は実感した。
父母亡き後、我が家最強の座は名実共に大樹のものとなってしまった事を。
結局、俺はバイトをする事になる。何故俺かといえば、明守は曲がりなりにも会社づとめ。当然バイトは禁止で、かつそれを破ったりしたら大樹が怖いからである。
「そういう訳でね、詩織君。とてもじゃないが、僕は君と一緒に遊んでいる暇はないのだよ」
俺は目を閉じて、和やかに語っていた。ちなみに手にはバイトの情報紙が握られている。
「そんな、まーくん……貴方は友達より家族をとるというの?しおりんちょっと悲しいわ。でも、同時に私にはそれを止める権利がない事もわかるの……」
詩織がよよよと泣き崩れる。
『と、いう訳で』
そこで俺と詩織の声が見事にはまり、同時に俺達は目の前に立つ人物に手を差し出した。
『よろしく、太郎君』
「……………」
その人物、田中太郎は無言で俺達の差し出した手を見つめ続ける。
「どうしたの?もう一回説明が必要?」
詩織が首を傾げて太郎に聞く。
「いや、いい。大体話はわかったよ。要するに、詩織さんは人探しをしてて、正貴の代わりに俺に手伝って欲しい訳なんだろう?なんでそれが芝居形式で説明されるのかは、どうしてもわからないけど」
「そう。予備兵力として当初予想していた正貴が、急なバイトの為使えなくなってしまってね。変わりに予備予備兵力として想定していた、貴方を抜擢した訳」
詩織はにっこりと笑って言う。悪意のない、無邪気な笑みである。その笑みを浮かべながらあの人を人とも思わない台詞を吐けるのだから、さすがは我が親友というところだ。もしくは好敵手。
「まあ別に暇だしさ。で、一体誰を捜す訳さ?」
太郎は少し照れて頭をかきながら、ぶっきらぼうに言う。基本的に人がいい奴なのである。それでよく詩織の様な性の悪い悪々女に食い物にされる、可愛そうな奴。それが田中太郎のすべてといえばすべてといえる。他にも成績優秀で顔がいいので結構もてて生意気だとか、名前がださいとか色々あるけど。
と、そこで詩織がぴんと指を立てて言った。
「何か狼っぽい奴よ」
「はぁ?」
詩織の言葉に、太郎が眉を潜める。俺は一瞬咳き込みそうになるのを、気合と根性で必死に耐えた。
「だからあたしの知り合いで、何か狼っぽいやつ。多分男。この条件にピックアップする奴を、一人一人あたっていくの。ぼろをだした時がそいつの最後。ふふふ…」
詩織は何か形容しがたい笑みを浮かべて言う。
……やはり諦めてなかったのか。
太郎が「なんでそんな奴捜すの?」とか聞いている横で、俺は天井を見上げて詩織のあの言葉を思い出していた。あの、俺に負けた次の日に、本気の目で呟いていたあの台詞を。
〝あの人狼だけは、絶対に殺さなくちゃ〟
俺は、もう二度と変身はしないでおこうと、硬く心に誓っていた。
それは、俺がバイトを採用にこぎつけ、さっそくそこに向かっていた、その放課後の出来事だった。
とん。
じゅわー。
俺に向けて護符みたいのが投げられてきて、避けた場所にあった地面が音を立てて解けた。
「……………」
なんだか最近、世の中には色んな不思議な事があるんだなぁ、と思い知らされていた矢先の俺にとっても、それは少し無言で固まってしまうに充分な出来事だった。
「おやおや、あれを避けれるとは、やはり君、目覚めていますね。上手く隠しているつもりでしょうが、私は多少こういう事には詳しいので、通用はしませんよ」
その護符を投げた張本人はといえば、人の良さそうな背広姿のおじさんで、事実人の良さそうな笑みを浮かべて俺に語りかけてきた。
「それもこの感じからするに、すこぶる強力な〝人狼〟の様だ」
おじさんはそう言って目を細める。元々目の細い人なので、そうすると本当に閉じているみたいである。どう見ても、合った事はない。初対面。
「ふーむ。ここまで完全に目覚められると、どんな封印も効果がないなぁ……。これは退治してしまうしかないみたいだ」
固まっていた俺の前で、勝手に納得して勝手に決心したおじさんは、懐に手を入れて先程の札みたいのをたくさん取りだし―
「悪く思わないでくれ、人狼君」
ばふっと帽子を押さえて。
俺に襲いかかってきたのだった。
「うわぁぁぁぁっ!俺が何をしたっていうんですかぁぁぁっ!」
頭上を飛んで行く護符を必死でかがんで避けつつ、俺は泣いて叫んでいた。だって、解けるんだ。あの護符に触れた物が、じゅわーって。
「確かに君自身に罪はないんですけどね。〝人狼〟というのはすこぶる危険な種族なもので、出来るだけ早く退治しないといけないんです」
おじさんはにこにこしながら、俺に札を投げつけてくる。見たところ中年ぐらいのくせに、凄い体力である。人間のままの状態でも普通の人間の数倍の速度で走ったりはできる俺に、ほいほいついてくるのである。息切れもなしに。
「くそっ!真昼間から人が襲われているのにっ!なんで誰も気づいてくれないんだ!?」
「結界をしきましたからね。私が術を解くまでは、私達二人は誰にも見えないし、誰にも影響を与える事はできません」
帽子を押さえながら走るおじさんが、にこやかに答えてくる。おじさんの言葉どおり、俺に当たらなかった札は、別の何かに当たっても風化して消えるだけである。さっきは地面溶かしてたのに。
「あちっ!」
そして俺に当たった時だけ、効力を発揮して俺を溶かしてくれる。まあ、回復力も普通じゃないみたいな俺は、これくらいで死ぬ事はないみたいだ。けど熱いし、痛い。これだけはいかんともしがたい。
「くそったれっ!」
俺は思いっきり飛び上がり、民家の屋根に乗りあがる。どうやら見たところ、変な術みたいのを使うが、あのおっさんは生粋の人間みたいである。さすがにこの高さに登ってくるなんて事は―
とん。
「私、こう見えても少し仙道をかじってましてね。肉体のすみずみまで把握し、持てるその力すべてを解放する―それが仙道の極意でして。まあ平たく言えば、この程度の高さがなんだい、てとこですか」
なにやらにこやかに言って、屋根に飛び乗ってくれたおっさんに。
俺はダッシュで逃げ出すしかなかった。
ふと、頭に浮かぶ事がある。
去年のお正月。
金欠の為、家族みんなで詩織の家に押しかけ、おせちをごちそうしてもらったあの時。
〝まあ、別に気にしなくていいわよ。そのかわり、後で代金分働いてもらうから。正貴に〟
と笑顔で詩織に言われて、背筋が寒くなった時の、あの時のあの感覚。
何で俺だけが?
何でこんな事に?
「それって今の気持ちとそっくりだぁぁぁっ!」
俺は泣きながら叫んで居た。頭上やすぐ横を、例の札がびゅんびゅん飛んで行く。あのおじさん、何処にこんなに大量に札を隠し持っていたんだろう?というより弾切れしないのか?
だんっ。
俺はだんっと飛び上がって廃ビルの上に跳びのる。昼間からこういう真似は避けたいところだが、あのおっさんの言う限りでは俺の姿ってのは、今は誰にも見えなくなっているらしいから大丈夫だろう。事実、誰も俺を見て騒ぐ奴は居ないし。
「やれやれ、本当に元気な人狼君だ。これだけ走ってまだそんな余裕があるとは」
俺の後を追ってビルに飛び乗ってきたおっさんが、やれやれと息を吐く。俺はそれより更に深く息を吐いて、おっさんに振り向いた。
「そりゃ、こっちの台詞だ。おっさん、あんた人間だろ?いくらなんでもこの高さに飛び乗ってくるのは、ちょっと犯罪じゃないのか?」
「そう言われると返す言葉もないんですが、修行のたわものだと思ってください。これでも仙人のはしくれでしてね」
おっさんは帽子を風に飛ばされないように押さえながら、にこやかに返す。無論、もう一方の手には例の札がいつでも投げれる様に握られている。
「まあ、そんな事を言えば、君の様な〝人狼〟が野放しにされている方が余程犯罪な訳で。人の姿でこれだけの力を出せるとなると、これは本当に危険すぎますよ」
おっさんはじりっと俺に一歩近づく。
「さて、もう逃げるのは諦めてくれたととっていいのかな?それにしては、まだまだ体力が尽きたふうには見えないですがね」
「ふっ。逃げながら色々考えてると、どうして何もしてない俺がいきなり襲われなくちゃならないのかとか、何でいきなり腕を札で火傷させなければいけないのかとか、よく考えるともうバイト遅刻だとか色々腹がたってきてな。悪いが今からは報復作業にはいらせてもらう」
俺はにぃっと笑って目を輝かせる。おそらく、俺の目の色は変わったはずだ。黒から、銀へ。人のそれから、人狼のそれへと。
「ふぅむ。それで昼間でも月が見える高い場所へ、私をおびき出したって訳ですか。いやはや、これだけ〝目覚め〟ているのにまだそんな知恵があるとは、これまた厄介だ」
そう。おっさんの言う通り、俺達の頭上には薄くだが、月が半円を描いて輝いている。
「しかし、何故完全に変身しないんですか?人の姿のままじゃ、戦闘能力は変身時の何分の一かに抑えられてしまう事ぐらい、知っているんでしょう?」
「いや、よく知らんけどな。……あんたより怖い奴が、変身した俺を捜してるんだ。そいつ普通じゃないからこの結界とやらも効き目がないかもしれんし、怖くってな。そういう理由だ」
俺はぼりぼりと頭を掻く。そして手をおろすと、ぐっとそれに力をこめる。
「でも、このままでも人間のおっさん一人ぐらい、適当にやっつけて適当に逃げるぐらいの事はできそうな気はするんだけどな」
俺の手の爪が、にょきりと伸びる。狼の爪だ。すべてを切り裂く、鋭き爪。俺はその爪でぶんと空を裂き。
「それはそれは。一つ、おてやわらかに頼みますよ」
おっさんは帽子を押さえたままにこやかに頭を下げて。
そして次の瞬間には、戦いは始まっていた。
とん。
じゅわー。
俺に向けて護符みたいのが投げられてきて、避けた場所にあった地面が音を立てて解けた。
「……………」
なんだか最近、世の中には色んな不思議な事があるんだなぁ、と思い知らされていた矢先の俺にとっても、それは少し無言で固まってしまうに充分な出来事だった。
「おやおや、あれを避けれるとは、やはり君、目覚めていますね。上手く隠しているつもりでしょうが、私は多少こういう事には詳しいので、通用はしませんよ」
その護符を投げた張本人はといえば、人の良さそうな背広姿のおじさんで、事実人の良さそうな笑みを浮かべて俺に語りかけてきた。
「それもこの感じからするに、すこぶる強力な〝人狼〟の様だ」
おじさんはそう言って目を細める。元々目の細い人なので、そうすると本当に閉じているみたいである。どう見ても、合った事はない。初対面。
「ふーむ。ここまで完全に目覚められると、どんな封印も効果がないなぁ……。これは退治してしまうしかないみたいだ」
固まっていた俺の前で、勝手に納得して勝手に決心したおじさんは、懐に手を入れて先程の札みたいのをたくさん取りだし―
「悪く思わないでくれ、人狼君」
ばふっと帽子を押さえて。
俺に襲いかかってきたのだった。
「うわぁぁぁぁっ!俺が何をしたっていうんですかぁぁぁっ!」
頭上を飛んで行く護符を必死でかがんで避けつつ、俺は泣いて叫んでいた。だって、解けるんだ。あの護符に触れた物が、じゅわーって。
「確かに君自身に罪はないんですけどね。〝人狼〟というのはすこぶる危険な種族なもので、出来るだけ早く退治しないといけないんです」
おじさんはにこにこしながら、俺に札を投げつけてくる。見たところ中年ぐらいのくせに、凄い体力である。人間のままの状態でも普通の人間の数倍の速度で走ったりはできる俺に、ほいほいついてくるのである。息切れもなしに。
「くそっ!真昼間から人が襲われているのにっ!なんで誰も気づいてくれないんだ!?」
「結界をしきましたからね。私が術を解くまでは、私達二人は誰にも見えないし、誰にも影響を与える事はできません」
帽子を押さえながら走るおじさんが、にこやかに答えてくる。おじさんの言葉どおり、俺に当たらなかった札は、別の何かに当たっても風化して消えるだけである。さっきは地面溶かしてたのに。
「あちっ!」
そして俺に当たった時だけ、効力を発揮して俺を溶かしてくれる。まあ、回復力も普通じゃないみたいな俺は、これくらいで死ぬ事はないみたいだ。けど熱いし、痛い。これだけはいかんともしがたい。
「くそったれっ!」
俺は思いっきり飛び上がり、民家の屋根に乗りあがる。どうやら見たところ、変な術みたいのを使うが、あのおっさんは生粋の人間みたいである。さすがにこの高さに登ってくるなんて事は―
とん。
「私、こう見えても少し仙道をかじってましてね。肉体のすみずみまで把握し、持てるその力すべてを解放する―それが仙道の極意でして。まあ平たく言えば、この程度の高さがなんだい、てとこですか」
なにやらにこやかに言って、屋根に飛び乗ってくれたおっさんに。
俺はダッシュで逃げ出すしかなかった。
ふと、頭に浮かぶ事がある。
去年のお正月。
金欠の為、家族みんなで詩織の家に押しかけ、おせちをごちそうしてもらったあの時。
〝まあ、別に気にしなくていいわよ。そのかわり、後で代金分働いてもらうから。正貴に〟
と笑顔で詩織に言われて、背筋が寒くなった時の、あの時のあの感覚。
何で俺だけが?
何でこんな事に?
「それって今の気持ちとそっくりだぁぁぁっ!」
俺は泣きながら叫んで居た。頭上やすぐ横を、例の札がびゅんびゅん飛んで行く。あのおじさん、何処にこんなに大量に札を隠し持っていたんだろう?というより弾切れしないのか?
だんっ。
俺はだんっと飛び上がって廃ビルの上に跳びのる。昼間からこういう真似は避けたいところだが、あのおっさんの言う限りでは俺の姿ってのは、今は誰にも見えなくなっているらしいから大丈夫だろう。事実、誰も俺を見て騒ぐ奴は居ないし。
「やれやれ、本当に元気な人狼君だ。これだけ走ってまだそんな余裕があるとは」
俺の後を追ってビルに飛び乗ってきたおっさんが、やれやれと息を吐く。俺はそれより更に深く息を吐いて、おっさんに振り向いた。
「そりゃ、こっちの台詞だ。おっさん、あんた人間だろ?いくらなんでもこの高さに飛び乗ってくるのは、ちょっと犯罪じゃないのか?」
「そう言われると返す言葉もないんですが、修行のたわものだと思ってください。これでも仙人のはしくれでしてね」
おっさんは帽子を風に飛ばされないように押さえながら、にこやかに返す。無論、もう一方の手には例の札がいつでも投げれる様に握られている。
「まあ、そんな事を言えば、君の様な〝人狼〟が野放しにされている方が余程犯罪な訳で。人の姿でこれだけの力を出せるとなると、これは本当に危険すぎますよ」
おっさんはじりっと俺に一歩近づく。
「さて、もう逃げるのは諦めてくれたととっていいのかな?それにしては、まだまだ体力が尽きたふうには見えないですがね」
「ふっ。逃げながら色々考えてると、どうして何もしてない俺がいきなり襲われなくちゃならないのかとか、何でいきなり腕を札で火傷させなければいけないのかとか、よく考えるともうバイト遅刻だとか色々腹がたってきてな。悪いが今からは報復作業にはいらせてもらう」
俺はにぃっと笑って目を輝かせる。おそらく、俺の目の色は変わったはずだ。黒から、銀へ。人のそれから、人狼のそれへと。
「ふぅむ。それで昼間でも月が見える高い場所へ、私をおびき出したって訳ですか。いやはや、これだけ〝目覚め〟ているのにまだそんな知恵があるとは、これまた厄介だ」
そう。おっさんの言う通り、俺達の頭上には薄くだが、月が半円を描いて輝いている。
「しかし、何故完全に変身しないんですか?人の姿のままじゃ、戦闘能力は変身時の何分の一かに抑えられてしまう事ぐらい、知っているんでしょう?」
「いや、よく知らんけどな。……あんたより怖い奴が、変身した俺を捜してるんだ。そいつ普通じゃないからこの結界とやらも効き目がないかもしれんし、怖くってな。そういう理由だ」
俺はぼりぼりと頭を掻く。そして手をおろすと、ぐっとそれに力をこめる。
「でも、このままでも人間のおっさん一人ぐらい、適当にやっつけて適当に逃げるぐらいの事はできそうな気はするんだけどな」
俺の手の爪が、にょきりと伸びる。狼の爪だ。すべてを切り裂く、鋭き爪。俺はその爪でぶんと空を裂き。
「それはそれは。一つ、おてやわらかに頼みますよ」
おっさんは帽子を押さえたままにこやかに頭を下げて。
そして次の瞬間には、戦いは始まっていた。
たたん。
たん。
たん。
おっさんが、見事なくらい華麗なステップを踏んで俺の爪をかわしていく。
動きはむしろ遅いくらいだ。なのに俺の攻撃が次に何処に来るかわかっているみたいに、ひょいっと体をそらしてかわしてくれる。
……人間じゃねぇ。このおっさん。
「いけませんねぇ、人狼君。君は多少無駄な動きが多すぎます。〝自然と一体と化し、それすべてを味方にせよ〟というのが仙人の教えの中にはあるんですが―」
おっさんは言いながら、すっと俺との間合いを詰める。速くない。この前戦った詩織などと比べれば、むしろのろいといっても差し支えない動きだ。
「貴方の動きは、むしろ逆にその自然のすべてを敵に回してしまっている」
なのに、避けられない。動きが鋭かったとかいうのとは違う。予測できない、反応できない―そんなふうな言葉がぴったりだ。俺は思いっきり鳩尾を痛打され、後ろに吹っ飛ぶ。
「急所、というのって何だと思います?当たれば致命傷になりかねない場所。成る程、それも確かにそうだ。しかし本当の急所というのは、そういうのとは違うものなんですよ」
おっさんは俺の考えを知ってか知らずか、にこやかにずれた帽子をなおす。
「〝必ず当たる場所〟。それが真の急所です。簡単に言えば隙のある場所、ですね。精神的な死角になっている場所とも言います」
おっさんは俺とは対照的に息一つきらせてない。それどころか、あのふわふわした帽子を落しさえしていない。化けもんだ。俺より、よっぽど。
「…訳わかんない事ばっかほざきやがって。あんた一体何者なんだよ?絶対普通の人間じゃねぇだろ」
俺はぺっと血を吐きながら、だんっと立ちあがる。この程度なら、降り注ぐ月の光がすぐに癒してくれるのでさしてダメージは残ってない。俺は思いっきり床を蹴っておっさんに飛び掛った。
「何者と言われましても、ただのしがないサラリーマンですよ。ほんの少し趣味で仙道を齧っていて、人より少しだけ正義感が強い―それだけの、おじさんです」
とん。おっさんが流れる様な動きで俺の爪をかわす。そしてかわしざまに俺の腹部に札をとんとおいた。
「〝滅〟」
おっさんの言葉と共に何かが破裂する様な音がして、その札をおかれた場所に鈍い痛みが走る。俺はたまらず腹を押さえて床を転げまわった。
「ふぅ。それにしてもタフな人狼君ですねぇ。普通なら今ので、絶命していてもおかしくないところなんですが……」
おっさんは息を吐いて、また懐から札を取り出す。一体何枚札を持っているんだ。くそぅ。俺は咄嗟に立ちあがって後ろに跳んだ。
「……何が何でも俺を殺すきかよ、あんた」
俺は必死で構えながらうめく。まだ腹がずきずきしている。
「ええ。先程も言った通り、〝人狼〟は危険すぎる」
おっさんは札をすっと投げた。空中でそれは音を立てて破裂する。と―、俺がそれに気を取られていた隙に、おっさんは元の位置から消え失せていた。
「ましてや、それだけ強力な血が完全に目覚めている。貴方にはおそらく自覚はないでしょうが、きっともうその手で何人も殺めるているはずです」
「っ!」
後ろからの声に俺が振り向くより速く、おっさんの言葉が響いた。
「〝縛〟」
きぃぃぃぃんっ。
途端、金属音の様な音がして、何かにがんじがらめにされた様に俺の全身が強張る。動こうにも、指一本動かせなくなっていた。
「ふぅ、さすがにこれは効いてくれた様ですね。もっとも切り札の一つですから、効いてくれないと困るんですが」
おっさんはふぅと息を吐いて帽子を押さえる。
「お、俺がすでに何人も殺めてるだぁ?どういう事だよ?自慢じゃないけど、俺は誰も殺したりなんかしてないぞ……?」
何とか動く口で、俺はおっんに言葉を投げかける。俺は自慢じゃないが、変身は二度しかしていない自信はあるし、詩織以外に手を出しもしていない。詩織との時だって完全に正当防衛だ。しかも殺しちゃいない。つまりは、俺は誰も殺したりなんかしていないはずである。
「いえ、そのままの意味ですよ。〝自覚はない〟っていうね。つまりは〝人狼〟というのはそういうものなんです」
おっさんは懐に手を入れると、今度は短刀みたいのを取り出した。そして大きく息を吐く。
「でもね、正直貴方には感心しましたよ。それだけの怪我をおいながらまだ人の姿を保てる精神力の強さとい、それだけ目覚めていながら自分を失っていない自我の強さといい、本当たいしたものだ。しかし、人の精神はもろい。それもいつまで続くかわからない―」
おっさんは目を細くして言う。精神力?自我?何か意味がさっぱりなんだが、とにかく、俺は誰一人殺していない自信だけは―絶対何か勘違い―
「とにかく、滅ぼさせてもらいますよ」
おっさんが短刀を、俺の心の臓に向けて寸分たがわず振り下ろす。
俺は目を閉じて、深く息を吸った。
簡単な二択だ。
このまま黙って心臓を貫かれて確実に死ぬか。
我が親愛なる親友殿に狙われていてあんまりなりたくないけれど、この程度の術なら破れて、とりあえずはその短刀をかわせる〝人狼〟になるか。
俺は迷わず、後者を選んだ。
ばきっ。
「ウォォォォォォォォォォォォン!」
俺は咥え取っていた短刀を噛み砕くと、大きく天に向かって吠えた。これはなんていうか、人狼としての本能ってやつだ。すでに銀に覆われている俺の体は、その天への遠吠えにより更に輝きを増す。気合いが入ったのだ。
「こ、これは……」
おっさんは変身した俺を見て、驚きの声をあげて後ろに飛ぶ。しかしそのおっさんが着地する前に、俺は飛んでおっさんの頭上に移動していた。
ざくんっ。
俺の爪は、地面に深い五本の跡を残す。それをぎりぎりで横に交わしていたおっさんは、俺を見て呆然とした感じで唇を動かす。
「まさか、銀………狼?」
「アオォォォォォォォォォォンっ!」
俺は再びおだけびを上げて地面を蹴る。変身中は自分で言うのもなんだが、結構狂暴な気分になる。ただでさえ訳もわからず襲われて腹がたっていのにそれが加わり、俺はかなりの狂暴モードに突入していたのだ。
「ただの人狼君ではないとは感じていましたが、まさか銀狼とは……いやはや、さすがに〝王の眠る地〟ですね。厄介なことだ」
俺の爪が目前に迫る。しかしおっさんは深く帽子をかぶってそう呟くだけで、避けようともしない。完全に俺の爪は、おっさんを捕らえたかに見えた。
たん。
が、次の瞬間に地面に叩きつけられていたのは俺の方だった。
〝斬〟
ざくんっ。
同時に俺の背中が裂け、俺の誇り高い銀の毛並みが鮮血で赤く染まる。
「がっ!?」
「しかし、ここで変身というのは、あまりいい判断ではありませんでしたね、銀狼君。確かに変身すれば純粋な戦闘能力は上がりますが、本能だけのその動きは酷く単調になる。実を言うと、私はずっと貴方が変身してくれるのを待っていたんですよ」
〝斬〟
おっさんの呪と共に、裂けた俺の背中がもう一度がばっと裂ける。更に血が吹き出し、我が誇り高き毛並みをけがしていく―って、何時の間に毛並みなんかに誇りを持ったんだよ、俺は。
まあそれはそれとして、変身してみるとよくわかったが、おっさんのアレは〝破邪の法〟ってやつだ。なんとなく直感的にわかる。俺みたいな闇の種族にだけ効果を発する、それ系の術ってところだ。なんて嫌な術だ。
「うがぁぁぁぁぁぁっ!」
俺は気合いで傷口をふさぐと、上に乗っているおっさんを跳ね飛ばして立ちあがった。が、おっさんはただ立ちあがらせてくれはしなかった。跳ばされる前に、すっと俺の手足に黒い札を何枚かはっていっていたのだ。
「〝爆〟」
そして呪文と共にその札は弾け、俺の両手両足を巻き込んで爆発する。無論血も出る。そして死ぬほど痛かった。衝撃で足を取られた俺は、ばたんと地面にひれ伏す。
「ふっ……ふふふ」
しばらくそのままでいた俺は、やがておもむろに喉を震わせた。
「ふふ…ふふふふふ……ふははははははははははっ!」
そしてその姿勢のまま高笑い。おっさんは少し眉を潜めていたが、気にせず続ける。そしてひとしきり笑ったところで、どんっと起きあがっておっさんに向き直った。
「この狼森正貴十六歳っ!決して人殺しだけはしないでおこうと思って今まで生きてきたが、やめた!おっさん、あんただけは殺すっ!本気で殺すっ!俺が何にもしてないのに襲ってきて!そしてざんってがばってびーされて!これだけされて黙ってられる程俺は人間できてねぇぞ!もう本気で手加減はなしだっ!」
言い終わらない内に俺は地を駆け、がおぅと口を広げた。噛み付こうとする俺の牙を咄嗟に避けたおっさんに、ほぼ同時に放っていた俺のまわし蹴りが炸裂する。
「うらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
俺はかけ声をあげてだんっと跳び、そのまわし蹴りで跳ばされたおっさんの後ろに着地、背中から思いっきり上に蹴り上げる。更には頭上に跳び、俺は両手を組み合わせて思いっきりおっさんを打ち据えた。
どごおおおんっ。
俺の怒涛の連続攻撃の前に、おっさんは声をあげる間もなく地面に叩きつけられる。俺はようやくちょっとすっきりして、おっさんの前にたんっと足を下ろして着地した。
「うーむ。すっきりしたところでちょっと後悔。もしかして本当に殺してないよな?俺はこの年で殺人者にはなりたくないぞ」
「いやいや、それは大丈夫ですよ。一応仙人のはしくれですし、このくらいでは死にません。第一、不老不死っていうのが仙人の条件だったりしますからね」
ちょっと冷や汗をかいていた矢先、おっさんはにこやかに笑って立ちあがって見せた。ぱんぱんとほこりを払い、帽子を拾ってかぶりなおす。そして。
「いやはや、どうやら完璧に私の早とちりだった様ですね。どうもすみませんねぇ」
と何故か頭を下げてきたのだった―。
「要するに、普通は人狼って変身中は人格がなくて、めっちゃ暴走して人を襲いまくる種族だって事ですか?それで俺もそうだと思って退治しようと思った、と」
とある喫茶店。俺はおっさん―鈴木恭平というらしい―のおごりのチョコパフェをつつきながら、ため息混じりに返していた。ちなみに服は破けてしまっていたので、近くで買ってきた五百円ぐらいのTシャツでまかなっている。
「ええ、変身中も自我を失わない人狼君なんて、まさか本当に居るとは思ってなかったもので。本当に悪い事をしました」
恭平さんはばつが悪そうな顔で、ところ天をすすっている。どうてもいいが喫茶店でところ天はなんていうか、ちょっと……だいたい普通喫茶店に置いていないぞ、こんなの。
「ふっ、つまり俺は素晴らしい人格者だから、本能を押さえ込めてる訳なんですね?」
俺は自慢げにチョコパフェをほおぼる。
「いえ、むしろそういうタイプの人は性格が本能に近いものがあるので、それと対立せずに上手くやっていけるんではないか、と言われてますけどね。とにかく、貴方の様なタイプの場合は絶対に暴走して人を襲うような事はないらしいですから。しかし、まさか銀狼君とは―いやはやさすがに〝王の眠る地〟だ。奥が深い」
恭平さんはそう言って楽しそうににこにこと笑う。人を勘違いで殺しかけといて、その笑顔はないもんだ。しかしよく考えると、この人の笑顔以外の表情は見ていない気がする。
「見たところ、君はその力で悪事を働く様な人種でもないみたいですしねぇ。これは本当に悪い事をしましたよ」
それでも結構悪いとは思っているみたいで、恭平さんは俺にぺこぺこと頭を下げてくる。あくまで笑顔のままだったが。
「まあ、そんなに気にしないでいいですよ。服代も弁償してもらったし、事情を聞いて納得できましたし。何より怪我なんてすぐに治る体質ですしね。俺は気にしませんから」
俺はぽりぽりと頭をかいて言う。いくら何でもこう謝られると、何か照れくさいものがある。
「ええ、そう言ってくれると有難いです。本当にすみませんでした」
「いえ。それに何かチョコパフェが美味いので、もう完全に許しましょう」
「これはこれは。さすがに伝説の銀狼くんだ。心が広い」
恭平さんはばふっと帽子を押さえて笑みをみせる。まあ話してみると悪い人じゃない。どうやら本当にただのサラリーマンらしいのには驚いたが。昔仙道にこっていた事があって、その技術を用いて、たまに人に迷惑をかける様な妖魔を退治しているのだという。もちろん、街の平和の為に無償で。何とも偉い人である。
「でも、その銀狼とかいうのは何ですか?何か俺の事みたいですけど」
「なに、人狼というのはその体毛の色に強さが現れる種族なんです。白、灰色、黒、そして銀という順番ですね。つまり貴方は人狼の中でも跳びぬけて格が高いという事ですよ。自信を持っていいですよ。歴史上最強と言われた狼王フェンリル以来、恐らく始めての銀狼でしょうから」
恭平さんはそう言ってにこにことところ天をすする。何だかなぁ。ここは素直に喜んでいいのやら、だからどうしたって気もするやらで、何とも複雑な気分だ。だいたい、他の人狼ってのに会った事がないし。
「だけど、俺の兄弟とかも人狼の血を引いてるみたいなんですが、やっぱあいつらも目覚めたら、その見境無しに人を襲うヤツになる確立が高い訳ですか?」
「いえ、貴方がそれだけ濃く血を受け継いでいるのなら、逆に御兄弟はあんまり濃く血は受け継いではいないはずです。闇の血というのは、分散しにくいものですから。断言はできませんが、多分大丈夫でしょう。他の御兄弟は目覚めるのに必要な程強く血は引いていないはずです」
俺は恭平さんの言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろす。もし明守や大樹がそんなのだったらどうしようと思っていたところだったが、これで一安心である。
「ところで恭平さんって、闇の種族とかそういうのに詳しいんですよね?」
「ええ、何せもうかなりの年数こういう事を続けていますから。趣味でして」
「じゃあちょっと聞きたいんですが、サキュバスってどんな種族なんですか?あと何かこう、その種族への降伏の意思表示を示す方法とかも知ってたら、教えて欲しいんですがっ」
俺はぐいっと恭平さんに詰め寄ってそれを聞いていた。
〝サキュバスですか?まあ基本的には夢を操る能力を持った種族なんですが、たいした力は持ってません。ちょっとした悪戯をする程度の、基本的に人には無害な種族ですね。女性だけで構成されており、背の翼以外は人と姿は変わりません。ただその容貌は美しく、人を虜にする。これは彼らが人の夢から生まれたものであり、人の願望に影響を受けて存在しているからに他なりません。そういう意味では、多少は厄介な存在ですね〟
「夢ね。これは要チェックだ。だけど詩織ってそんなに美人じゃ―ないとか言ったらまた詩織に殴られるから止めておこう。まあ見ようによってはそんなに悪くもないし」
喫茶店を出て、家への帰り道。俺は腕組みをして恭平さんの言葉を思い返していた。
〝ただ、たいした力は持ってないとはいっても、中にも色々いましてね。これはその筋では有名な話なんですが、現在のその種族の王の地位にある、『クイーン・オブ・ダーク』の称号を持つアリエスという少女。これがまた、とてもサキュバスとは思えないとてつもない力を持っているらしいんですねぇ。噂では、一度はこの国の闇の住人すべてをその支配下においた事があるとかないとか〟
―脂汗が、たれる。
〝まあ彼女は現在ではすでに第一線からは身を引いていて、時たま気まぐれに他の種族との戦いを楽しむ程度にしか、こっち側の世界には顔をださないらしいんですが。いや、でも貴方も気をつけた方がいいですよ。一応はこの国の闇の種族すべてを統べていた様な存在です。彼女に目を付けられたら、間違い無くただではすみませんから〟
「……………」
すでに目をつけられている場合、どうしたらよいのでしょうか?
俺は結局あの人には言えなかったそれを心で叫びながら、泣きそうになって横の電柱柱に顔をうずめた。だって、まさかその『狙われたら命がない存在』とは親友でしかも命を狙われているなんて、どう説明していいかわからなかったんですもん。
〝彼女は基本的には悪ではないんですが、一度敵だと認識した相手には容赦ありませんからね。降伏条件、なんてものはありませんよ。その翼は天をかけ、その瞳はすべてを居抜く―彼女のイビル・アイを受けて生きている者は、存在したためしがないとか〟
何なんですか?そのやたら英語っぽい必殺技は?まあいかにも詩織の趣味っぽい名前だけど。
〝まあ、あくまでそれらは聞いた話なんですけどね。何処まで本当なのかは疑わしいものです。なにせその話によると、彼女はたった一月でこの国のすべての闇の住人を跪かせたというんですから。もしそれが本当なら、史上三番目ぐらいの力を持つ妖魔という事になってしまいますよ〟
何故に三番目という中途半端な数字なのかは不明だが、そういえば詩織の奴、中学の時、武者修行の旅に出る、とかいって夏休みに一月程姿を消した事があったよな。帰ってきた時、〝誉めて、正貴。あたしはクイーンになって帰ってきたわよ〟とか訳のわからない事をほざいてて、その後何処言ってたんだって親に思いっきり叱られてたりしたけど―
「考えれば考えるほど、手に汗握ってしまうのは気のせいなんだろうか……?」
俺はちょっと薄暗くなってきたお空を見上げて、ぽつりと呟いていた。
やっぱり、詩織さんには秘密にしとこう。
彼女との美しい友情にヒビをいれかねないから。
俺はそんな事を考えながら、もう姿をあらわした一番星さんに微笑んでいた。ちょっと泣きながら。
『あ、狼森君?君、クビ』
その夜。俺はバイト先の主任さんに、電話でどんと言い渡されていた。
『うちとてしても、初日から無断欠勤してくる様な人はちょっとねぇ。じゃ』
ぷつん。
…俺は、怖くて振り向けなかった。
「バイト先の人、なんて言ってたの?」
なのに、大樹は話しかけてくる。容赦ない声で、容赦無く。
「ク、クビさんに……されました……」
「川に落ちて制服引っ掛けてダメにして、着替えなくてさ迷っててバイトに遅刻して、おまけにそのバイトクビになったの?滅多にできない経験できてよかったね、正貴兄さん」
無感情に大樹は言い放つ。その口調からは、大樹の言いたい事がありありと伝わってきた。
〝この無能〟と。
「うーんと、ほら大樹っ!お星様がキラキラ輝いてて綺麗―」
俺は大樹から目をそらして窓を見て言い―
どくんっ。
月が目に飛び込んできて、慌てて目をそらす。そしてまた大樹と目が合って、その一点の曇りも無く俺を軽蔑する視線に、俺は汗をたらして立ち尽くす。
「ま、正貴ぃぃぃっ!凄いよこれは!我が青春に悔いなしだよぉぉぉっ!特に四巻の御巫さんものがねっ!とってもね―!」
例の全六巻を手に感涙して階段をどたどた降りてくる明守の声が、静まり返った我が家に怖いくらい響く。そんな中、月の光は俺に力をどくどくと注入してくれて。更にはそしてこの異質な空気に気づいた明守は、そのまま二階へと再移動してくれ。
俺の味方は誰もいてはくれないのが、悲しかった。