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速筆百物語
018_ゴムボールは川を流れていった

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ゴムボールは川を流れていった

 休日の電車は、僕たちと同じように遊園地から帰る人で混み合っていた。興奮気味に今日のことを話す子供と、曖昧な笑顔に疲労が透けて見える大人の組み合わせが目立つ。
 そういう僕もエネルギーの塊みたいな息子の爽太に丸1日付き合い、抜け切らなかった仕事の疲れも加わって、きっと自分で想像するよりも疲れた顔をしているはずだ。最近は少しの無理でもすぐ顔に出る。鏡を見てうんざりすることも多くなってきた。年は取りたくないものだ。

「よく寝てるね」

 僕の背中で穏やかな寝息をたてる爽太の顔を覗きこんで、妻が言った。ドアの前に立った妻はつかまるところがなくて、僕の服の裾を握っている。僕の方はおぶった爽太を片手で支え、空いた手でドア横の手摺につかまっていた。

「初めてジェットコースターに乗って興奮してたからなあ」
「ぜんぜん怖がってなかったね。パパとは大違いだ」
「ああいうの、僕は絶対無理。肝が据わってるのは母親ゆずりかな」

 僕は身体を揺すって、背中の爽太を背負い直した。また重くなったと実感する。今日が昨日のリピート再生であるような大人からすると、子供は本当に凄いスピードで大きくなる。顔を合わせるたびに「大きくなったね」と口にしていた親戚のおじさん・おばさんの気持ちが子供を持った今になってよくわかった。
 高架を走る電車は街中を過ぎ、大きな川を渡り始めた。秋の柔らかな光は無数の白い星のように水面にちりばめられ、彼方の海へ向かってひとつに収束していく。綺麗で無機質な景色のなかに、僕は岸辺に沿って流れていくゴムボールを見つけた。

「どうしたの?」
「あそこ。ゴムボールが流れてる」

 両手の塞がった僕は、ゴムボールの方に顎をしゃくった。

「ほんとだ。なんか可哀そうだねえ」
「うん」

 この人と結婚してよかったなあと思いつつ、僕はゴムボールを眺めていた。

「僕が爽太ぐらいの頃かなあ。うちの実家の近くにも大きな川があるじゃない? あそこでよく弟と遊んでたんだよ。理由は忘れちゃったけど、ある日遊んでたらケンカになっちゃってさ、弟が大事にしてたバレーボールぐらいのゴムボールを川に投げ捨てちゃったんだよ」

 記憶の底からふわりと浮かんできた情景を僕は言葉にした。前にも同じことがあったみたいに自然と言葉は繋がって、妻はそれを黙って聞いていた。

「弟は大泣きして家に帰っちゃったんだ。僕はしまったと思って、流れていくゴムボールを追いかけていった。流れは緩やかだったから、小さな子供の足でも十分追っていけたんだけど、岸から水辺までは高さがあってボールを取ることはできない。結局、流れていくボールのあとを、ただついていくだけだった。
 1時間ぐらい歩いたのかな。水門があったんだけど、その手前に高いフェンスがあって、そこから先には進めなくなっていた。回り道もないし、僕はフェンスの網を握り締めてガシャガシャ揺らすぐらいしかできなかったんだ。その間にボールは流れていって見えなくなっちゃった。ずいぶん長いこと、ボールの流れていった川を眺めていた気もするけど、それからどうやって帰ったとかはぜんぜん覚えてないんだよね」

 電車の振動や走行音が身体に染み込んでくるようで心地がよかった。話しているうちに電車は川を渡り終えていて、ゴムボールは視界から消え去っていた。よく晴れた秋の空には夕焼けが広がり始めていて、もう少ししたら空は真っ赤に染まりそうだった。
 公共の場だというのに、僕はすっかり、からっぽで無防備になっていた。だから、妻が僕の頭を突然撫でてきた時、思わず身体をすくめてしまった。

「なに突然? 爽太の頭はもう少し後ろだよ」
「んー、今日はこっちでいいの」
「……変な思い出話をしちゃったけどさ、別に何がどうしたってわけでもないよ?」
「いいの」

 そう言って、妻はいいおっさんである僕の頭を撫で続ける。僕の戸惑いなどまったくお構いなしだ。周りの目が気になり始めた僕に向かって、妻は言った。

「パパじゃなくて、フェンスの前で泣いてる子を撫でてるんだからいいの」


 ――あの日、ゴムボールが飲み込まれていった川の果てを見つめて、僕はいつまでも、ぼろぼろと涙を流していた。失くしてはいけないものでも、消えてしまうことがあると知ったあの日。どんなに願っても叶わないことがあると知ったあの日。
 冷酷な世界の片鱗に触れて呆然としていた僕の頭に、温かな手がそっと乗せられ、優しく髪を撫でてくれた。あの時、僕は、頭を撫でてくれた人の顔を確かに見た。記憶の中に刻まれていたその人は、父でもなく母でもなく……いま、目の前にいる妻だ……。

 もしもあの時、あの手がなかったら。
 もしもあの時、気付いてしまった世界の真実をひとりぼっちで消化していたとしたら。

 きっと僕は、ここからほんの少しだけずれた場所にいただろう。僕がいまここにいるのは、あの手があったからだ――


「爽太落ちる。ちゃんとおぶって」

 はっとして、僕は爽太をおぶり直した。妻はもう僕の頭を撫でてはいなかったし、空には真っ赤な夕焼けが広がっていた。車内放送では間もなく終点に着くというアナウンスが繰り返し流れていた。
 現実感の乏しい曖昧な数分間は、まるで短い夢でも見ていたかのように思える。でも、思い出せなかった僕の記憶は、はっきりと蘇っていた。幼い僕を優しく見つめたあの人は、しゃがみこんで僕の手を取り「さ、帰ろうか」と言った。そして僕は、あの人と手を繋いで、日の暮れていく川べりを歩いたんだ。

「あ、ちょうど目が覚めたかな」

 僕の背中で爽太がもぞもぞと動く。その重さは僕を現実に引き戻してくれた。

「ほら、家まであとちょっとだからな。もう少し寝てろ」

 僕がそう言うのと同時に、終点のホームが窓の外にすべりこんできた。肩越しの爽太は小さく頷いて、僕の背中に顔を押し付けてくる。まだ半分寝ぼけているようだ。妻は僕と目を合わせて微笑み、

「さ、帰ろうか」

 と言った。はっとした僕を見て、妻はいたずらっぽく笑っていた。

       

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