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速筆百物語
004_血袋

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血袋

 あれは入院した祖母を見舞った時だったと思うが、記憶は既に曖昧になっている。おそらく小学校に入るか入らないかといった年頃だったはずだが、それもはっきりしない。はっきりしているのは、あの日がとても暑く、病院前をうろうろしていた僕が恨めしげに太陽を見上げたという事だ。
 太陽を背にした屋上には黒い人影があった。顔は見えなかったが、そいつは僕を見ているように感じた。眩しさに目を細めてその黒い影を見つめていると、そいつはおぼつかない足取りで柵を乗り越え、ふわりと宙に舞った。
 僕は夢を見ている気分だった。高い所から落ちれば人は死ぬ。だから高い所から人は落ちないと、幼い僕は疑いもなく信じていたのだ。
 真っ黒な影は太陽を隠すようにして落ちてくる。光が完全に遮断された時、スポットライトを浴びたようにそいつの姿は鮮明に色づいた。両腕を広げ、僕に覆いかぶさってくる醜い女の顔。逆立つ長い髪と大きく開かれた曲がった口、そして濃く塗られた真っ赤な口紅は今も脳裏から離れない。
 僕は動くことが出来なかった。女は僕の目の前に落ち、大きな風船が破裂したような音を立ててはじけた。僕は立ち尽くしたまま、真っ赤なペンキをぶちまけられたように、女の血を全身に浴びていた。広がる赤い汁の海は僕の足を浸し、その中心では黒い髪の固まりが浮かんでいる。力の抜けた僕は呆然としたまま生温かい尿を漏らしていた。
 騒ぎを聞きつけた病院関係者に連れていかれ、僕は身体を洗われた。排水溝に流れていく真っ赤な血を眺めていると、視界にあの醜い女の最後の姿が浮かび上がった。僕はそこでようやく叫び声を上げ、火がついたように泣きだした。

 そんなことがあったせいで、しばらくは日常生活に様々な支障が出た。
 ある日の夕食後、母は近所の寄合に出る前に口紅を塗っていた。あの女と同じ、毒々しい赤色だった。僕は母親が出掛けると口紅を叩き折った。まだ事件から日が浅かったために母は何も言わなかったが、新しい口紅を買うたびに僕が同じことを繰り返すものだから、ついにはやんわりと理由を問い質された。けれど僕は何も話さなかったし、どう説明すればいいのかもわからなかった。
 黙りこむ僕から理由を聞き出すことを諦め、母は口紅を買わなくなった。きっと両親は僕が赤いものを怖がっていると考えたのだろう。時を同じくして、我が家からケチャップが消えた。その推測は的外れではなかったが、両親の余計な気遣いのおかげで僕はいまだにケチャップが食べられない。
 縁日に連れていかれた時には、僕よりも少し年上らしき子供が、目の前で水ヨーヨーを地面に落とすのを見た。バシャンという音とともに地面に落ちた風船がはじけ、白い参道に水の跡が黒く広がる。その光景は地面に叩きつけられてはじけた女と重なり、僕は膝をついて激しく嘔吐した。
 視界の端に、半ズボンから伸びる自分の太ももが見えた。正座のような座り方をしていたから、まるで、はち切れる寸前の水風船みたいにパンパンに張っていた。自分も真っ赤な血をぶちまけて破裂してしまうのではないかと恐ろしくなり、この時から僕の頭には、人間が大量の血を詰め込んだ血袋であるという思いが染み付いてしまった。

  *  *  *

「松本春樹です。東中出身です。趣味は読書です。よろしくお願いします」
 僕は必要最小限の自己紹介をして席に座る。高校に入学して最初の授業は、中学と同じように自己紹介の時間だった。あの事件のせいばかりではないが、僕は酷く陰気で無口な性格になった自覚がある。身体だけは鍛えていたから苛められるような事はなかったが、親しく話せる友人は作れなかった。
 自己紹介は黒板の前まで行くのではなく、自分の席の所で立ち上がる方式で進んでいった。話す者に合わせてクラス中がぐるぐると向きを変える。あまり気持ちのいい眺めではなかった。
「神城江利、南中出身です。趣味はこれといってありません」
 左隣りに座っていた神城江利は、僕を上回る素っ気なさで自己紹介を終えると、周りに顔を見せようともせず、ショートにした飾り気のない頭を軽く下げてから座った。血の気のない白い顔には隠しきれない不機嫌さが滲み出ていて、神城がこのくだらない時間にうんざりしていることをありありと示していた。軽い一礼は彼女にできる最大限の譲歩だったのだろう。
 教室の左側へと進んでいく自己紹介を追っていると、頬杖をつく神城の姿が自然と視界に入ってくる。神城の左手首には何本かの細い傷跡が走っていた。ごく浅いものではあったけれども、血の入った袋は切れ目が入れば破れる。久々に顔を出す過去の記憶に嫌な汗が染み出るのを感じながらも、僕は神城の手首から目を逸らすことができなかった。
「えっと、島内梓です。南中出身です。中学の頃は吹奏楽でトランペットを吹いていました。高校でも吹奏楽部に入ろうと思っています。家ではよくラジオとかCDを聞いたりしています。えっと……以上です。よろしくお願いします」
 顔を赤くして、おかっぱ頭の島内が自己紹介を終えた。一目見ただけで可愛いと思える女子で、嫌な記憶に捕らわれかけていた僕を一瞬で現実に引き戻してくれた。今の時点で女子の人気投票をすれば、彼女の優勝は間違いないだろう。そしておそらくその地位が揺らぐことはない。魅力という意味で彼女は頭一つ抜きん出ていた。
 僕は自分が持ち得ないその力を羨ましく思った。あんなふうに素直に照れることができたなら、僕は今とは違う別人になれたのだろう。一方、隣人である神城は、この無為な時間に疲れ果ててしまったのか、机に突っ伏して寝たふりをしている。彼女には自分に似たものを感じた。だから、なるべく神城を見ないようにしていた。

  *  *  *

 早いもので高校に入ってから二ヶ月が過ぎていた。弁当を食べおわった僕は自分の席で小説を読んでいる。クラスメートたちの友人を作る営業活動はとっくの昔に収束していて、昼になればそれぞれが定位置として勝ち取った場所に移動していき、なんでもない話に花を咲かせている。
 話したくない時に彼らはどうするのだろう。落ち込んだ姿を見せ、どうしたのかと尋ねてもらうのか。それとも何でもないふりをして、やりすごしてしまうのか。
 彼らからすれば、僕の方こそ人と話したくなった時にどうするのかと疑問に思っているかもしれない。僕にしてみれば、たまにそういう気分になったとしても、それよりはひとりでいる快適さの方が遥かに重要だ。ほとんどのクラスメートや一般的な人たちは重要なポイントが逆なんだろう。結局、誰もが自分の望むようにしている。悪意を持った誰かがそれを壊さない限り、僕らは大抵幸福なのだ。
 そう考えると、隣で購買のパンをもそもそと齧っている神城もやりたいようにやっているのだろう。まだお互いを知らない四月の頃、神城に近づいた女子たちは例外なく、彼女の攻撃的な言葉で不快な感情にさせられた。その結果、ほとんど他人に関わっていない僕の耳にさえ届くほど、彼女の悪い評判はクラスに渦巻いていた。
 必要最小限の愛想をふりまいて、面倒な人付き合いから距離を置こうとしている僕からすると、神城のやり方は余計な面倒を増やすだけな気がした。けれど、そんな図々しい意見を伝えて、僕までが不快な思いをする義理はない。
 かくして、他に居場所のない僕と神城は一言も話すことなく、日々、自分たちの聖地で昼休みの貴重な時間を過ごしていた。パンを食べ終わった神城は、包み紙をきちんと畳んでゴミ箱に捨てにいく。これから捨てるものを畳むところが彼女らしい気もしたが、どうしてそう思うのかは、自分でもよくわからなかった。
「ねぇ、その本どんな話なの?」
 席に戻ってきた神城が唐突にそう言った。本から顔を上げると彼女は僕を睨むように見ていた。視線が合うと、神城はカバーのついている僕の本を指差した。
「SF。宇宙戦争の話」
「うわ、つまんなさそ」
 言うが早いか、神城は僕から目を逸らして頬杖をついた。左手で頬杖をつくポーズが彼女のお気に入りのようだ。そのせいで僕は、彼女の手首についた真新しい傷跡を見つけてしまう。何も考えないようにして、僕は本に視線を戻した。初めての会話は、たったのこれだけで終わった。

  *  *  *

「それさ、面白いの?」
 初めての会話から一週間後、再び神城は僕に話しかけてきた。いつものように頬杖をついて、目だけをこちらに向けていた。
「最初だけ読みにくいけど、あとは面白い」
「ふーん、読み終わったら貸してくんない?」
 意外な言葉だった。これまで神城が本を読んでいるところなど見たことがない。購買のパンを食べおわった後は、昼休みが終わるまで黒板の上あたりにじっと目を向けているだけだったのだが。
「一巻だったら家にあるから、明日持ってくる」
「え? そんな長いの?」
「これは七巻。十巻まである」
「……まあいいや。一巻持ってきてよ」
「わかった」
 わずかな間だが、視線を本に戻した僕を神城が見ていた気がする。ちらりと横を見た時には、いつものように斜め前を向いていたから、たぶんこれは恥ずかしい類の自意識過剰なのだろう。そうは思ってみても、何か面倒なことが始まりそうな予感がして、その後はなかなか本に集中できなかった。

  *  *  *

 次の日から、神城は僕が貸した本を昼休みに読むようになった。ページを捲るスピードは僕に比べるとずいぶん遅い。最初に神城に説明した通り、この本は導入部分がかなり退屈だ。すぐに突き返してくるかと思ったが、初日はそんなこともなく、帰宅時には鞄に入れて持ち帰っていた。
 次の日も、その次の日も神城は黙って本を読んでいた。読み進んだページの厚さから考えて、退屈な部分は既に終わっている筈だ。ここまで読んで放り出さないのなら、受け付けないジャンルという訳ではないのだろう。
 奇妙な感じだった。話もせずに隣り合っているのはこれまでと変わらないのに、自分が貸した本を神城が読んでいるというだけで、なんだか居心地が悪い。思いがけずにできた小さな繋がりは僕を戸惑わせるものだった。
 黙々と読み進められた一巻は、一週間も経たないうちに残り数ページになった。
「もうすぐ一巻読み終わるから、明日二巻持ってきて」
 昼休みが終わる直前、神城は当然のように言った。
「いま持ってる」
「え? なんで?」
「読み終わりそうだったから」
「じゃあ、貸して」
 僕は鞄に入れておいた二巻を取り出し、神城に手渡した。
「ありがと」
 僕は驚いた。神城が礼を、しかも少し笑いながら言うなんて考えもしなかったからだ。怒り顔マークのように認識していた神城の顔を、この時初めて意識したように思う。確かに吊り目気味ではあるけれど、顔立ちはとても整っていて、血の気のない肌の白さもあってか、僕には神城がショーケースに飾られる高級な人形のように見えた。
「なに?」
 僕の視線に気付いて、神城がこちらを向く。僕は咄嗟に言葉を繋いだ。
「SFとか好きなのかと思って」
「そんなのわかんない。これは面白い」
 端的な言葉で会話を終えると神城は本に目を戻した。それと同時に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。普段はすぐに本を片付ける神城が、今日は教師が来るまで本から目を離さなかった。その理由は帰る時に分かった。
 授業が終わり、帰ろうとした僕は神城に呼び止められた。
「松本、ちょっと待って。あと五ページだから」
 返事も聞かずに神城は続きを読み始めている。机に入れておけばいいと思ったが、わざわざそう言うのも野暮な気がして席に戻った。
「よし、終わり! はい、返す」
 本を閉じた神城は僕に一巻を渡すと、鞄を持って立ち上がった。
「じゃあね、松本。ばいばい」
 軽く手を振る神城に、僕は平静を装って手を振り返したが、実のところは全身の血が熱を帯びたような感覚に捕らわれていた。自分の頬がどうしようもなく火照っていくのがわかる。僕は懐かしい本を少しだけ読み返すような小芝居をして、胸の鼓動が静まるのを待っていた。

  *  *  *

 それからの僕は驚くほど上手に振舞っていたと思う。意識しすぎるでもなく、先走ったコミュニケーションを取るでもなく、ただ、普通であることだけに集中して神城と話していた。自然と本の話をするようになり、打ち解けていくにつれて、ほかの話もするようになっていった。神城は厳しい物言いをすることも多いが、悪意を感じることは少なかったので、すぐに慣れてしまった。時に僕らは本をまったく読まずに、話すだけで昼休みを終えてしまったりもした。
 僕はやはり浮かれていたのかもしれない。クラスの輪から外れている二人が、昼休みに仲良く話していれば目立たない筈がないのだ。そんな簡単なことにさえ頭が回らなかった。
「松本、松本。ちょっとこっち来て、こっち」
 少し長めの休み時間にトイレから教室に戻ってくると、同じクラスの植山和美に手招きをされた。押しの強い印象で、簡単に言ってしまえば苦手なタイプだ。クラスの女子グループには属さず、いつも島内梓と一緒にいる。島内はいまも植山の席の脇で、なぜか困ったような顔をして立っていた。
「何か用?」
「松本ってさ、あいつと仲いいの? 昼に喋ってるのよく見るけど」
 まるで神城と仲良くしているのが犯罪ででもあるような聞き方だった。嫌悪感を隠しもせず、『あいつ』と言った時には神城に向かって顎をしゃくっていた。
「別に普通。何で?」
「あいつの隣なんて大変だろうと思って。つきまとわれて困ってるなら一言いってやろうか?」
「やめてよ、和美ちゃん。いきなりそんなこと言われても困るよ、ねぇ?」
 島内はそう言って僕の目を見つめてきた。話すのは初めてだったけど、自己紹介の時の印象は強く残っている。彼女は細すぎる神城とは違って柔らかそうだった。僕は存在を強く主張する彼女の胸に目がいかないよう気をつけていた。
「よくわからないけど、特に困ってることはないから」
 植山と島内に背を向けると、神城がこちらを睨みつけているのが見えた。思わず二人の方を振り返ると、植山も真っ向から神城を睨み返している。
「ああいうタイプとはさ、距離取った方がいいと思うよ」
 植山は神城から視線を外さないまま僕に言った。僕は、顔を赤くしておろおろする島内と目が合い、少し救われた気がした。

  *  *  *

「なに話してたの」
 席に戻るなり神城は僕に聞いた。
「変わったことは話してないよ」
「嘘だ。私の悪口でしょ」
「気にするようなことじゃない」
 神城は突き放すような僕の言葉を聞いて、怒りでぶるぶる震えだした。そして久しぶりに左手で頬杖をつき、僕からそっぽを向いた。
 昼休みになっても神城の機嫌は直らなかった。無言でパンを食べ終わると、いつものように包み紙を折り畳んで捨て、机に戻ってくると本も読まずにまた頬杖をついた。前はこれが普通だったけど、今となってはまったく意味合いが違う。僕は神城から無言の抗議を受けているのだ。
 ちらりと神城を見る。左手首の傷はほとんど消えていた。だから僕はなけなしの勇気を出すことにした。
「神城」
 神城は答えない。聞こえないふりを決め込んでいる。僕は構わず続けた。
「僕は植山が嫌いだ」
 神城が僕を見た。
「だからあいつの言うことなんて、僕には関係ない」
 僕は言うだけ言うと本を取り出して読み始めた。神城は僕を見ていた。でも、僕は恥ずかしくて顔を上げることが出来なかった。
「もうすぐ……」
 神城が緊張で震えた声を出す。僕は唾を飲んでから、強張る顔を神城に向けた。
「二巻読み終わるからさ……明日、三巻貸してよ」
 神城の白い頬に赤みがさしていた。僕はカラカラに乾いた口から声を出した。
「いま、持ってる」
 僕は鞄から三巻を取り出して神城に差し出した。神城はそっと本を手に取り、しばらくは放心状態だったが、やがて蕩けるような笑顔で呟いた。
「……ありがとう」
 僕は慌ただしく頷いて本に視線を戻した。身体中の血が沸き立って破裂してしまいそうな気がした。

  *  *  *

 同じ日の六時間目、体育の授業を終えてグラウンドから更衣室へ向かっていた僕は、廊下の端に立っているジャージ姿の島内に気付いた。この時間、女子は体育館で授業を受けていた筈で、何か用事でも無ければこちら側にいる理由がない。
 島内はおろおろした様子で男子たちの顔に視線を泳がせていたが、僕と目が合うと、はっとした顔をして小走りで近づいてきた。
「松本くん! 大変なの! 和美ちゃんと神城さんが……」
「神城? 神城がどうしたの?」
「急にケンカし始めて、先生が止めたんだけど二人とも血とか出てて……」
「血?」
 僕の頭には、神城と植山がつかみ合いのケンカになって、体育館の床を転げ回るイメージが浮かんだ。細くて背の小さい神城と、身長が高くてバレー部に入っている植山。神城が組み伏せられて、一方的に殴られたのではないかと胸がざわついた。
「神城は? いまどこ?」
「えっ……、先生が保健室に連れてったけど……あ、待って! 松本くん!」
 僕は島内を残して走り出していた。激しい不安が襲ってきて、居ても立ってもいられなくなる。僕には馬乗りになった植山が神城を殴りつけ、神城の頭から流れ出した血が体育館の床に広がっていく場面がはっきりと見えた気がした。現実よりも現実感のある映像は僕の平衡感覚をおかしくさせ、何度もぐるぐる回った後に全力疾走をした気分になる。
 僕は力の加減が出来ず、普通なら考えられない程の勢いで保健室の引き戸を開いた。響き渡った音の大きさに驚いて、書き物をしていた保健婦の山下さんは、椅子から転げ落ちそうになりながら振り返った。
「びっくりしたあ……。いったい何事よ? そんな慌てて」
 怒鳴られても文句の言えない状況であるのに、母親と同じくらいの歳であろう山下さんは柔らかな口調で僕に訊ねた。
「あの、授業で怪我をした一年の女子二人が来たと思うんですけど」
「ああ、その子たちなら体育の丸山先生に連れられてったよ。たぶん職員室じゃない?」
「怪我って酷かったんですか?」
「全然、全然。大きい子の方は、顔に引っ掻き傷作ってたけど痕が残るほどじゃないし、あとは、すり傷ぐらい。どっちの彼氏さんか知らないけど、そんな青い顔しなくても大丈夫だから」
 僕は大きく息をついた。とりあえず、神城は大きな怪我ではなさそうだ。ほっとした僕を、山下さんが興味深げに見ている。僕は急に恥ずかしくなった。
「すみません、ありがとうございました」
「次は静かに入ってきてね」
「はい、お騒がせしました」
 逃げるように保健室を出ると、息を切らせた島内がちょうどやってきたところだった。
「ひどいよ、松本くん。ひとりでどんどん行っちゃうんだもん」
「ごめん」
「和美ちゃんたちは?」
「職員室に連れていかれたって。怪我は大したことないらしい」
「大したことないんだ、よかったー」
 胸の前で手を合わせ、力の抜けた顔をした島内は可愛かった。そんなことを考えられるぐらいには余裕が戻っていた。

  *  *  *

「どう?」
 こっそりと職員室を覗く僕の耳元で島内が囁いた。
「二人ともまだ丸山に何か言われてる」
 入口の扉をそっと閉め、僕は島内に答えた。耳にはくすぐったい感じが残っていた。
「私、和美ちゃんが出てくるの待ってるけど、松本くんはどうする?」
「僕も神城を待つよ」
 僕はそう言って、扉とは反対側の壁に寄り掛かった。すると、島内も同じように僕の隣で壁に身体を預けた。落ち着いてしまうと二人でいることに気まずさを感じる。ここにいるのは迷惑だったかとも思ったが、そもそも僕を呼びに来たのは島内だった。
「島内さん」
「え? なに?」
「なんでわざわざ教えに来てくれたの?」
 困った顔で俯いてしまった島内を見て、聞き方がストレート過ぎたかと後悔した。失言をごまかすように、僕は職員室の扉へと視線を移した。
「……松本くんと神城さんって付き合ってるのかな、って思ったから」
 島内は遠慮がちに言った。
「付き合ってないよ」
「じゃあ、どうしてあんなに慌ててたの? 走ってった松本くん見て、やっぱりなって思ったんだけど」
 今度は僕が困った顔をする番だった。確かに僕は神城に好意を持っている。けれど、神城が僕をどう思っているのかはわからない。神城と僕の関係は、小学生の男女がふとした拍子に仲良くなったようなもので、周りにからかわれでもしたら、跡形もなく消え失せてしまう程の脆いものに思えた。
「ごめん、自分でもよくわからないよ」
 だから僕は、適当なことを言ってうやむやにしてしまった。島内は複雑な表情でまた俯いてしまったが、しばらくすると言葉を選ぶようにして、ぽつぽつと話し始めた。
「……あのね、私も和美ちゃんも、中学は神城さんと同じクラスだったの。今もそうだけど、神城さんって周りとあんまり話さなくて。和美ちゃんは和美ちゃんで思ったことをすぐ言っちゃうから、神城さんとはよくケンカしてた」
「今回みたいなこと、よくあったの?」
「ううん、こんなのは初めて。二人が何か話してると思ったら、急に神城さんが和美ちゃんを叩いてきたの。神城さんってちょっと怖いけど、手を出してるのは本当に初めて見た」
 話ぶりから察するに、植山ほどではないにせよ島内も神城は苦手なようだった。たしかにこれまでの神城の態度を見ていれば、それが普通の反応だとも思う。けれど、攻撃的でない神城を知ってしまった僕にとって、その評価は悲しかった。
 僕たちはしばし黙り込んだ。沈黙が気になり始める頃、島内が口を開いた。
「……神城さんのことも含めてなんだけど、私、松本くんに話したいことがあるの」
「なに?」
「いまはちょっと……。明日の放課後ってあいてる?」
「特に用事はないけど」
「じゃあ、明日、第二音楽室に来てもらってもいいかな。部活ない日だし」
「わかった、行くよ」
 島内は固い表情をしていた。教室で見かける島内はいつも楽しそうに笑っているから、不安や悩みとは無縁だと思っていた。けれどそれは、神城が怖がられているのと同じで、相手のことをよく知らないだけだ。僕や神城だって楽しいことに浮かれる時もある。同じように島内にも思い悩む時があるのだろう。
 それにしても、ほとんど接点のない僕にわざわざ話したいこととは何なのだろう? お互いの共通点と言えば、神城に関することぐらいしかない。
 嫌な話を聞かされそうな気がして、安請け合いを後悔し始めた頃、職員室の扉ががらりと開いた。憮然とした顔で出てきた植山の頬には、ガーゼが貼り付けられている。神城は職員室から出てくる様子がなかった。
「あれ、待っててくれたんだ」
 植山は引き攣り気味の無理な笑顔を島内に向けた後、怒りの治まらない様子で僕を見た。
「あいつ、絶対おかしいって!」
 植山は捨て台詞を残して歩いていく。島内は慌ててその後を追った。
「あ、待って、和美ちゃん。松本くん、明日ね」
 島内は去り際に念を押していった。神城が職員室から出てきたのは、それからさらに十分程が過ぎてからだった。

  *  *  *

 全身から苛立ちを放出していた神城は、僕に気付くと、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに厳しい表情に戻って横を向いてしまった。けれど、出てきた時に感じた苛立ちは消え去っていて、それは僕がいたからではないかと自惚れた気持ちになった。
 神城は更衣室に向かって、すたすたと歩いていく。僕は黙ってその後ろをついていった。
「なんでいるの」
「島内さんから教えてもらった」
「だからって、来る必要ない」
「怪我したって聞いたから、心配だったんだ」
「私の心配なんてしなくていい」
 僕は言葉を繋ぐことが出来ずに黙り込んだ。更衣室に着くと、振り返ることもなく神城は中へと入っていく。僕は隣の男子更衣室で手早く着替えを済ませ、しつけの行き届いた犬のように神城が出てくるのを待っていた。
「まだ、いたんだ……」
 制服に着替えた神城は、更衣室から出てくるなり言った。本当に困っているように見えて、自分の行動に自信が持てなくなってしまった。神城にとっての僕は、他の人より多少ましな程度で、ここまでしてしまうのは迷惑だったのかもしれない。黙り込んだまま教室に向かう神城の後を、僕は重い気持ちでついていった。
 しんとした教室には誰も残っていなかった。神城は無言で席に座り、鞄に教科書を詰めていく。僕もそれにならって自分の席に座った。
「……植山がさ、松本が私に迷惑してるって言ってきた」
 神城が本当に小さな声で呟いた。
「迷惑? なにが?」
「知らない。迷惑だから松本に話しかけるなって言われた。おまえに言われる筋合いないって言ったら、自分が周りにどれだけ迷惑かけてるか少しは考えろって言われた。だから、思いっきり引っ掻いてやった」
「植山の方がよっぽど迷惑だ。いい気味だよ」
 俯き加減だった神城は首を傾げて、少しだけこちらを見た。神城はちょっとだけ笑っていた。
「ねぇ、松本。私、思ったことは言うようにしてるし、嫌な奴とは話したくないって思ってる。クラスのほとんどの奴は嫌いだけど、そいつらが私を嫌いになるのだって自由なんだから平等でしょ?
 でもさ、誰かをわざと嫌な目に合わせてやろうなんて、あんまり考えたことないよ。だけど思ったようにしてると、みんな嫌な顔するんだ。どうしてか、私にはわかんない。
 ……だからさ、真面目に答えてほしいんだけど、」
 神城は僕の方に向き直って、じっと僕を見つめた。神城は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「迷惑じゃ、ないよね?」
「迷惑じゃない。迷惑ならそう言う」
 僕は正直な気持ちを神城に伝えた。神城は照れたように下を向き、何度も瞬きをしながら、落ち着かない様子で頭を動かしていた。頬を赤くした神城は、僕を上目使いに見ながら、はにかんだ笑顔を浮かべて言った。
「……だと思った」
 大げさに聞こえるかもしれないけど、僕はこの時、神城のためなら死んでもいいと本気で思った。好きな人から好意を寄せてもらえることが、こんなにも心を揺さぶるなんて考えもしなかった。
「神城、僕は神城が……」
 好きだ。そう言おうとした。伝えたい思いが溢れそうになっていた。
「私が……なに?」
「神城が……思うようにすればいいと思う」
 けれど僕は伝えられなかった。まだ早すぎる気もしたし、神城は僕のことをいい友達としか思っていないような不安もあった。真っ白な気持ちに浮かんだその不安は、切り傷に血が滲むように広がっていって、僕の勢いを削いでしまったのだ。
「うん、そうする」
 神城は小さな子のようにあどけない笑顔を浮かべた。神城と僕はどちらからともなく席を立ち、お互いに照れくさい気持ちを抱えながら、このまま帰ってしまうのが勿体ないことであるかのように、もじもじとしていた。
「……じゃあ、帰ろうかな」
「うん」
「また、明日ね」
「うん」
「『うん』以外に言うことないの?」
 神城が拗ねたように言う。僕はちょっと考えて、こう答えた。
「小説……、読み終わったらさ、また別の貸すよ。たくさんあるんだ」
「まだ、先は長いよ? 時間かかるけどいいの?」
「いいよ。いつでも」
「じゃあ、いろいろ貸してもらうからね」
 勘違いかもしれないけど、僕の気持ちは伝わったと思う。そう遠くないいつか、ちゃんと神城に告白しようと思った。使い過ぎてしまったなけなしの勇気が溜まる頃、必ず。
「じゃあね」
「うん、じゃあ」
 神城は教室を出ていった。真っ赤になっていた僕は、机にぺたりと座って、興奮の余韻に身を任せていた。

  *  *  *

 もしも、この時、神城に好きだと伝えることができていたら。
 せめて、人並みの想像力を働かせて、島内が僕を呼びだした本当の理由に気付くことができていたとしたら。

 未来は違うものになっていたのかもしれない。

  *  *  *

 次の日の放課後、僕は島内に言われた通り、第二音楽室へとやってきた。島内は先に来ていたようで、ピアノの横に立って僕を待っていた。昨日は慌ただしかったから意識せずに済んだが、こうして二人きりで話すとなると、どうしても緊張してしまう。初めて島内を見た時の憧れに似た思いが胸に浮かんだ。
「ごめんね、呼びだしちゃって」
「いや、いいよ。話したいことってなに?」
 島内は傍からでもわかる程に緊張していた。おかげで僕の緊張は少し和らいだ気がする。何度か言い淀んだ後、島内は言葉を発した。
「あのね、昨日も聞いたけど、もう一度聞かせて」
「うん、なに?」
「松本くんって、神城さんと付き合ってないんだよね?」
 僕は、もしかしたらという思いが浮かんだ。けれどそれは有り得ないことだ。島内は誰からも好かれて、僕とはほとんど喋ったことすらない。妄想と言っていいような恥ずかしい勘違いを、僕は必死で振り払おうとしていた。
「付き合ってないよ」
 昨日の神城とのやり取りを思い出す。好きだとも言っていない。付き合って下さいとも言っていない。嘘は何ひとつ吐いていなかった。
「松本くんは神城さんのこと、好きなの?」
 島内は真剣に聞いてきた。舞い上がってしまった僕は、答えに窮していた。もし僕が好きだと答えたとして、それが植山に伝わらないとも限らない。そうなれば、昨日のような横槍を入れられるかもしれない。それに、まだ神城本人にも伝えていないのに、ここで島内に僕の気持ちを話すのは、どう考えてもおかしい。
 そう自分に言い聞かせた。真っ先に思い至った理由、もし僕の妄想が現実になるのだとしたら、その可能性を潰す発言をしたくないという思いには蓋をして。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「それは……」
 島内は僕から目を逸らし、短いスカートの裾を左手で握りしめた。右手もぎゅっと握って、口の前へと持ってきている。小さな握りこぶしは小刻みに震えていた。
 僕は島内の言葉を待った。勘違いならそれでいい。むしろ勘違いであってほしい。もし、勘違いでなかったら、僕は経験したことのない選択を迫られることになる。とにかく今は、一刻も早く事態が確定することを望んだ。
「……あのね、私ね……松本くんのことが……」
 そこまで言って、島内はまた目を逸らしてしまう。僕は辛抱強く待った。心臓の音ばかりが響く頭の中で、台本を渡されないまま、舞台へと押しやられたらこんな感じではないだろうかと、全然関係のないことを考えている自分がいた。
「松本くんのことがね……あの……」
 島内は完全に下を向いてしまって、今は両手でスカートの裾を強く握りしめている。さらさらした髪が顔を包むようにかかり、表情を窺うことはできなかった。そして、ほんの少しだけ髪のあいだに見え隠れする、島内の唇が動いた。

「好きなの」

 僕の心臓は激しく高鳴っていく。有り得ないことが起こってしまった。
「……僕を?」
 島内は真っ赤になった顔を上げ、間抜けなことを言った僕を見据えると、強く頷いた。
「ずっと見てたの。お昼に本を読んでるの、いつもこっそり見てた。
 でも……神城さんと仲良さそうに話してるのをよく見るようになって、どうしたらいいかわからなくて、一昨日、和美ちゃんに相談したの。そしたら、松本くんに聞いてやるって昨日みたいなことになったの。本当にごめんなさい!
 ……でも、だから、ちゃんと言おうって思ったの。ちゃんと気持ちを伝えたいって思ったの」
 この想いは本当に僕に向けられているのだろうか。ひっそりと、人に迷惑だけは掛けないように過ごしてきた、なんの取り柄もないこの僕に。
 人の輪に入ることは望まなくても、特別なたったひとりの人をいつも欲していた。手の届かない人を心の中に思っては、住む世界が違うからと最初から諦めていた。ただ、その人が生きているだけで幸せに思える。その人の姿を見かけるだけで今日という日に意味が生まれる。
 そんな想いの対象が島内だった。昨日、思いがけずに島内と話せただけで、勇気が湧いてきた。だから僕は神城に対して、あんなにも素直に気持ちを伝えることが出来た。おかしなことを言っているようだが、それが偽りのない僕の心だ。
 島内は僕にとって女神のような存在だ。女神と付き合う事態になるなんて、想像もしていない。最初から想定の範囲外だったのだ。
 ところが、現実に想定外のことが起こってしまった。神城はもう僕にとって特別な存在だ。現に島内からこんな告白さえされなければ、昨日の続きである今日を過ごし、そう遠くない未来に、僕にとっては身に余る程の幸せを手に入れられたのかもしれないのだ。
 けれど、目の前にぶら下がっているのは、すべてを投げ打ってでも、触れたいと望んでいた相手だ。僕は冷静になることもできず、後先のことを考えることもせず、これまでにあったことを、いま起こっていることを、すべて僕のいいように歪め、正当化し、ただ欲望のままに行動すると決めた。
「だから……松本くん……。あの、もしよかったら、私と付き合ってもらえませんか?」
「……突然で、すごく驚いた」
「ごめん! やっぱり迷惑だったよね……」
「いや、そういうことじゃなくて……。その、驚いたけど……すごく嬉しい」
「え……?」
「僕も、島内さんが好きだったから」
「うそ!」
 島内は両手で口を覆い、大きな目をさらに見開いて僕を見た。僕を見つめる目からは、後から後から涙が溢れ出していた。
「……私……絶対ふられると思ってた。本当に? 本当にいいの?」
「島内さんこそ、本当に僕でいいの? 何か、まだ信じられない」
「松本くんがいい! 松本くんがいいの!」
「ありがとう。本当に嬉しい。すごく嬉しい」
「私も嬉しい……嬉しいよ……」
 島内はぽたぽたと涙をこぼし、今度は両手で顔を覆ってしまった。こんな状況を経験したことのない僕は、おそるおそる島内に近づいた。島内は僕の胸におでこを当てて、泣き続けた。僕は世界を敵にしたとしても、打ち勝てるような万能感に支配されていた。
 島内が落ち着いた後、僕らはメルアドを交換した。神城のメルアドを知らなかったことに、この時初めて気付いた。

  *  *  *

「三巻もあとちょっとで読み終わるから、次、四巻貸してね」
「わかった」
「今回は持ってないんだ。まあ、いいけど」
 神城は僕をからかうように言った。これまで大切にしてきた何でもない会話が疎ましく感じられる。島内と付き合い始めて一週間が過ぎたが、僕はまだ、そのことを神城に伝えられずにいた。
 植山がこちらに近づいてきたのは、神城がいつものように購買へパンを買いに行こうとした時だった。
「松本、こっちで一緒にお昼食べない?」
 僕に対しての問い掛けではあるけれど、植山はあからさまに神城を意識していた。口元には歪んだ笑みすら浮かんでいる。その頬には、まだうっすらと神城のつけた傷が残っていた。
 神城は軽蔑しきった目を植山に向けていたが、非常識な誘いを断らない僕に焦れて口を挟んだ。
「嫌なら断りなよ。いきなり誘ってきて、馬鹿じゃないの」
「あんた関係ないだろ。口出しすんなよ」
「おまえの方がよっぽど関係ない。松本、困ってんだろ。消えろよ」
「あれ? もしかして、神城まだ知らないんだ。ああ、そっかー」
 植山は白々しく言った。島内とのことを、神城を傷つける道具に使われたのが腹立たしい。ぐずぐずしていた僕に原因があるとは言え、植山にこんな形で利用される筋合いはなかった。
「なに言ってんのかわからない。松本、どういうこと?」
「……島内さんと付き合ってるんだ」
「え……何それ。……聞いてないよ」
「だー、かー、らー、あんた関係ないんだって」
 勝ち誇る植山を殴り倒してやりたかった。僕はその怒りを机にぶつけた。教室が水を打ったように静まり返る。神城も植山も僕の行動に唖然としていた。
「植山……少し黙ってろよ。いちばん関係ないのはお前だ」
「……なんで、あたしが文句言われんの。あたしはさ……」
「黙ってろよ、頼むから。すぐ行く。だから向こう行っててくれ」
 植山はしぶしぶ僕たちから離れた。島内は僕の行動で何かが起こっていることにようやく気付き、こちらに近づいてこようとしたが、植山に止められていた。
「……黙っててごめん。僕は島内さんと付き合ってる」
 僕は改めて神城に言った。
「……いつから」
「一週間前」
「じゃあ、あの時、植山が私に言ってきたことって」
「それは違う。その時はまだ付き合ってない。付き合い始めたのはその次の日から」
「次の日……」
 神城は鼻で笑った。当然だと思った。形に残るものは何もなくても、言葉だけ聞けばただの友人同士の会話だったとしても、神城と僕はあの日、確かに思いを確かめ合った。
 僕は知っている。神城も知っている。僕は屁理屈をこねて、互いの信頼を裏切ったのだ。まだ言葉にしていないから。好きだと伝えていないからと。
 神城と僕にしかわからない契約は、僕が知らないふりをして反故にしたとしても、誰に咎められることもない。この世でただひとり、神城を除いては。
「……小説さ、続きどうすればいい?」
 神城が感情のない声で言う。僕はもう、後戻りする気はなかった。
「図書館にあるよ」
「……わかった。三巻は読み終わったら返す」
 神城は教室を出ていった。クラス中の意識が僕に集まっているのがわかる。島内は真っ青な顔をして僕を見ていた。
 僕は島内を守らなければならない。そのためなら、これまでに積み上げてきたものをすべて捨てる覚悟がある。僕は弁当箱を手にして、島内に近づいていった。
「ごめん、びっくりしたよね」
「ねえ、なんの話してたの? どうなったの?」
「神城に島内さんと付き合ってることを話した。もっと早く話すべきだったけど、わざわざ言うのは照れくさくて」
「神城さん、なにか言ってた?」
「なんで黙ってたって感じで怒られたよ。しばらくは喋ってもらえないかもしれない」
 僕は努めて軽い調子で話した。島内はまだ不安そうな顔をしていたが、これからの行動で安心してもらえる自信がある。神城と関わることは、もうないという確信があったからだ。僕は、もうひとつの問題である、ふくれっ面をして横を向いている植山に話しかけた。
「怒鳴ったりしてごめん。でも、神城も大事な友達なんだ。だから、ああいうのはやめてほしい」
「だって、そんなこと言ってたら、いつまでも梓が遠慮してばっかじゃん。梓ってば、お昼食べてても、ちらちら松本の方見ててさ。付き合ってるのに、ほかの女子と二人で仲良くしてるなんて異常だよ」
「うん、わかってたけど、なかなか言えなくて困ってたんだ。だから植山が言ってくれて助かった。ありがとう」
 素直を装って心にもないことを言う僕に、狙い通り、植山は表情を少し和らげた。
「……まあ、あたしもちょっと強引だったかなって気もするし。でも、梓と松本のためにやったんだからね!」
「わかってる。島内さんもごめん。余計な気をつかわせちゃった」
「ううん、そんなことないよ」
 島内はふるふると手を振った。何でもない仕草が愛おしくて仕方がない。島内のためなら、植山をいい気分にさせることぐらいなんでもなかった。
 こうして僕は、島内たちと一緒に昼を食べることになった。きっと明日からも今日と同じように、島内たちと昼を食べることになるのだろう。
 結局、昼休みの間、神城は教室に戻ってこなかった。

  *  *  *

 予想通り、それから神城と話すことはなかった。神城は本を読むことをやめ、昼休みは以前のように黒板の上を見つめ続けるようになった。僕は島内たちと昼を食べるようになり、植山の友人つながりで他の男子とも話すようになった。
 普通に振舞おうとしているうちに、その芝居が僕の本質になっていった。友人関係とはそれほどやっかいなものではなく、これまで押し黙って過ごしていた自分が、随分と窮屈な生活をしていたと感じるほどになった。
 僕の心の中から、神城の存在が消えていくのを感じた。神城を思い出すのは、昼休みが終わって席に戻った時、決して僕と目を合わせない、険しい表情の神城を見る時ぐらいだった。
 神城と一言も話さないまま、学校は夏休みになった。

  *  *  *

 夏休みに僕は島内とよく遊んだ。植山や他の友人たちと海に行ったり、時に島内と二人きりで出掛けたりもした。僕らはとてもうまくいっていたと思う。お互いを思いやり、あまり我がままを言わず、かと言って言いたいことを我慢している訳でもなく、時に小さなケンカをして、その日のうちに仲直りをして、永遠に続くように思える夏休みの日々を僕たちは満喫していた。
 8月も半ばを過ぎた頃、島内が僕の家に遊びに来ることになった。僕は両親がいない時間帯を狙って誘った。
 白いワンピースにピンクのカーディガンを羽織った島内を、自分の部屋に招き入れ、しばらくはお互いの趣味の話をしていた。
 やがて、僕は島内の隣に座る。そして、僕は初めてのキスをした。初めて触れる人の唇は想像よりもずっと柔らかかった。島内は服を脱ぎ、恥ずかしそうに胸を隠して僕に背中を向けた。僕は島内の少し日に焼けた肌にそっと触れた。身体を強張らせる島内を、僕は後ろからそっと抱き締めた。
 僕の胸と島内の背中がぴったりと密着して、体温の違いが伝わってくる。その境目は次第に曖昧になっていき、重なり合う肌に安心を感じた。それは島内も同じだったのか、時間とともに緊張はほどけていき、僕に力の抜けた身体を預けてきた。
 僕は島内をそっとベッドに横たえた。僕たちは態勢を変える時も、必ず身体のどこかを触れ合わせていた。そうしていないと、心もとなくて仕方がなかった。いちど触れ合ってしまった肌と肌は、完全に離れ離れになることを激しく拒否していた。
 僕たちは何ひとつ身に着けずに、強く抱き合った。人の肌は温かくて、柔らかくて、ただ血を中に溜めているだけの皮ではないと感じた。僕の心に痣のように残っていた血袋の呪縛が、静かに消え去っていくのを感じた。

 こうして島内と僕は、幸せに包まれたまま夏休みを終えた。

  *  *  *

 神城はこの夏休みの間に痩せ細っていた。手足には骨が浮かび、頬杖をつく左手の手首には深々とした傷痕が何本も刻みつけられていた。
 二学期最初のホームルームでは席替えが行われた。僕は島内の隣の席になった。勿論、こんな偶然が起こるわけはない。友人たちが気をきかせて、くじに細工をしてくれたのだ。
「神城」
 机を持って移動しようとした時、僕は我慢し切れずに神城に話しかけた。たぶん、これが神城と話す最後のチャンスだと思ったからだ。神城は落ち窪んだ目を僕に向けた。
「余計なお世話なのはわかってるけど……神城も友達とか作ってみた方がいいと思う」
 神城は表情を変えることなく僕を見つめていた。僕は神城の視線と沈黙に耐えられず、新しい席に移動しようとした。
「待って」
 僕は久しぶりに神城の声を聞いた。神城は鞄から小説を取りだし、僕に差し出した。
「借りっぱなしだったから」
「いいよ、そんなの」
「駄目、返す」
 神城の強い意思を感じて、僕は差し出された本を受け取った。移動しようとした神城は机を持ち上げることができず、耳障りな音を立てて机を引きずっていった。僕は神城に背を向け、新しい席へと移った。

  *  *  *

 僕は島内たちと一緒に昼を食べていた。夏休みに何度も会っていたせいか、あまり久しぶりといった気がしない。僕たちはなんでもない話をして、くだらないことに笑い声を上げていた。そんな、これまでと変わらない時だった。
 僕と島内の間に入るようにして、神城がゆらりと立っていた。突然のことに誰もが言葉を失った。神城は僕を見下ろしていた。僕は神城の手に、銀色に光るナイフが握られているのに気付いた。
「……神城」
「裏切り者」
 神城は自分の首にナイフを当て、一気に引いた。力の抜けた神城の身体は血飛沫を撒き散らしながら、ゆっくりと回転して倒れた。僕は頭から神城の血を浴びた。
 僕の隣で島内の悲鳴が上がる。咄嗟に島内の方を見た僕は、全身の血が凍りついた。島内も神城の血を浴びていた。だが、その目鼻立ちは僕の知っている島内ではなかった。
 島内の髪は逆立ち、小さかった口は歪んで大きく開かれ、その唇は真っ赤な口紅で彩られている。あの時、屋上から僕に向かって落ちてきた醜い顔の女が、制服を身に纏って叫んでいたのだ。
 僕は島内から目を背ける。床には神城の血がみるみる広がっていった。青ざめていく神城は冷たい笑いを浮かべているように見えた。

  *  *  *

 それから教室は大混乱に陥った。泣き叫ぶ声が響き渡り、職員室に何人もが走っていった。神城は教師によって保健室に運ばれ、やってきた救急車で病院へと連れていかれた。
 女子生徒が教室で首を切るというセンセーショナルな事件にマスコミは飛び付いた。生徒たちには緘口令が敷かれ、僕たちは不躾なレポーター達の質問に晒されることになった。
 その騒ぎも、三日後に神城が一命を取り留めたという報せによって収束していった。校内では興味本位の噂が絶えなかったものの、僕と神城の関係について正しく語るものは誰もいなかった。
 むしろ僕は一方的に神城に付き纏われ、挙句の果てにこんなことに巻き込まれた憐れな被害者として、無責任な噂に登場していた。僕と島内は腫れ物に触るように扱われ、皆が気をつかってくれた。
 島内は事件当初こそショックを受けていたが、夏休みの間に築いていた信頼は、それを乗り越えるだけの力を持っていた。
 一ヶ月後、神城は教室に戻ってくることなく、別の学校に転校していった。担任はどうでもいいような連絡のあとに、付け足すようにしてその事実を告げただけだった。
 三ヶ月が過ぎる頃には、誰もが神城のことを忘れ去っていた。まるで、そんな生徒は初めからいなかったかのようだった。

  *  *  *

「んっ……、あっ、あっ」
 僕は喘ぎ声を上げる島内を見下ろしていた。流れるような髪に、大きな瞳。バランスの取れた目鼻立ちは間違いなく島内のものだ。
 神城が首を切った時、島内の顔があの醜い女の顔に見えたのは、一瞬だけだった。当然、こんなことは誰にも話していない。話す必要もないことだからだ。
 僕は島内の腰を両手で押さえ、突き上げるようにして自分の腰を振る。そのたびに島内は僕の腕を強く握り、こらえ切れない吐息混じりの声を漏らしていた。僕たちはこれまでに数え切れないほど肌を重ね合わせていた。島内の魅力は何も変わっていなくて、むしろ日に日に美しくなっていくように思える。
 けれど、初めて島内と肌を重ね合わせた時のような感動は、二度と味わうことができなかった。これは成長と言っていいのだろう。僕はもう童貞ではないし、好きな人と肌を重ねる幸せも知っている。生まれて初めて触れた女性が、すべてを捨ててもいいと思える人であったことは、誰もが経験できる幸せではないとも思っている。
 けれど、幸せはすぐに色褪せる。いつまでも残るのは後悔と消しようのない傷だ。神城が最後に僕に告げた『裏切り者』という言葉は決して色褪せることはないだろう。
 誰も僕の犯した本当の罪を知らない。まだ付き合っていなかった、まだ好きだと伝えていなかった。何度、繰り返してみても、自分は騙せなくて、僕が裏切り者であるという事実だけが、ただ、僕の中に残っていた。
 僕の中で快感がせり上がり、腰を振る速度が速くなる。それに合わせるように、島内も顔を快感に歪めて、激しく身体を波打たせる。髪は乱れ、口は歪み、唇は紅く染まっていく。僕の下で快感に身を任せているのは、見間違えようもない、あの醜い女だった。
 僕はさらに腰を振り、島内の体内への侵入を阻む、薄いゴムの壁に向かって射精した。身体から力が抜けていき、僕は目を閉じて、柔らかな島内の胸へと顔を埋める。僕の頭を島内が優しく撫でてくれた。
 荒れた息が落ち着く頃、今度こそは駄目かもしれないと思いながら顔を上げる。僕を見つめている、いつもと変わらない島内の優しい顔を見て、僕はようやく本当の安らぎを得るのだった。
 神城が首を切った後から、僕の興奮が高まっていくと、島内が例の醜い女の顔に見えるようになった。僕は島内と肌を重ね合わせるたびに、毎度毎度、この世で最も嫌悪する醜い顔を眺めながら射精していた。
 今はその瞬間に至るわずかな時間だけで済んでいるが、もし、常に島内の顔があの女の顔に見えるようになったら、僕はどうなってしまうのかわからない。僕は誰にも伝えることのできない悩みを抱えたまま、たったひとりで壊れてしまう恐怖を感じていた。

 神城はいま、どこでどうしているのだろうか。僕の前で首を切ったあの瞬間、僕の裏切りから解放されて、幸せになっていればいいと思った。そしていつか、たったひとりになった僕に、そっと許しを与えてくれはしないかと、虫のいい望みを抱いた。

       

表紙

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Neetsha