ヘヴンズリング
ななみ
人は誰でも一度や二度、死にかけたことがあるだろう。
かくいう俺も死にかけた経験がある。
しかし、その死にかけた後に続く、日常は果たして本物だろうか?
白昼夢のような夢の続きにはなっていないだろうか。
――あの時。死んでいた方がマシだった、と思える日常になってはいないだろうか。
かくいう俺も死にかけた経験がある。
しかし、その死にかけた後に続く、日常は果たして本物だろうか?
白昼夢のような夢の続きにはなっていないだろうか。
――あの時。死んでいた方がマシだった、と思える日常になってはいないだろうか。
高層ビルが建ち並ぶマンションの住宅に一人の男が住んでいた。
この男、若い風貌でありながら錬磨されたような鋭い眼光を持っていた。
先日このマンションの屋上から飛び降りた人間があったことを除いては、男の日常は平和そのものだ。
「妙だな……」
高校二年になる沖村玲一(おきむら れいいち)はその自殺か他殺かわからぬ死んだ人間が何故か気になっている。
いや、正確には識っているような気がするのだ。
そして気の迷いを正すように、鋭い眼光は目の前の扉を突き刺すように向けられていた。
いつもなら今時に起きてくるはずの妹の部屋。
正確には六年前から転がり込んできた親戚の家の養子だ。
つまりは赤の他人――。
「七海、起きているか?」
夏木七海(なつき ななみ)。夏に海なんて、実に都合の良い名前だと初対面でからかってやったことがあったか。
「……」
「おい、入るぞ」
すぐに返答が来る。
「だめっ、今着替えてる!」
ドアノブは何の抵抗もなくすんなりと回った。
年ごろの男女二人が同居しているなんて、うちの両親もいい加減な考えなのではないか。
「いやぁああ――」などど、聞こえつつ玲一の目にはその柔肌が飛び込んでくることはなかった。
「その悪趣味な録音はいい加減に消してくれないか」
最新型の録音機とでもいうのだろうか。七海の趣味はここ最近、録音機で遊ぶことだった。
愚妹はベッドの中から、腕だけを出して唸っていた。
「昨日はテストで疲れたの。朝ご飯いらないから寝かせてよ」
素行バツ、品性バツ、しかし学校では信じられない優等生を演じる夏木七海の実態はこれだ。
「お前、そんなこと言ってまた朝会でまたぶっ倒れる気か? いいから起きろよ」
七海が優等生でなくなった日には、単なる美少女として生きていくことになるだろう。
そんなことは義兄である玲一が断じて許すはずがない。
ベッドから七海を引きはがそうとするところで、玲一はあることに気がついた。
レコーダーは先とは違う色で点滅している。
「――お前、何を録音している……?」
「……ぇっ?」
こんな噂を聞いたことがある。
沖村玲一ボイス、ワンテープ五百円。
いや、ギャグではない。体育館裏でそんな取引があるという。
内容は歯牙にもかけていなかった。今日までは。
しかし、実行犯が身内であったのなら話しは別だ。
「まさか、お前。俺の声を……?」
ダッシュでベッドから飛び出していく七海。あろうことか、既に制服着用済みだった。
「確信犯かっ!」
もう朝飯を食っている暇などない! 今すぐ七海を追い掛け、噂の真相を確かめなければならない!
七海の背中を廊下越しに見る。
「屋上……だと?」
あろうことか、七海は上へ上っていった。
この部屋は13Fですぐ上が屋上になっている。逃げるなら下だろうに何故屋上へ行ったのだろう。玲一は疑問を持ちながらも屋上へと駆け上がった。
「七海!」
開け放った入り口からは冷たい風が吹きつけてくる。
一瞬目を細めた玲一は七海の姿をすぐに見つけた。
「ば、ばかな真似はよせ!」
七海はフェンスを乗り越えようとしていた。正気の沙汰ではない。
「バレたらもう死ぬしかないっ」
「はぁ? 何いってんだ。もうやらなければいい話だ。それで許してやるから!」
「本当?」
「ああ、本当だ。だから早く下りてこい」
「じゃあ最後に愛してるって言って……」
「はぁ?」
「言ってくれなきゃもう死ぬしか……」
「ばか、やめろっ。愛してる、愛してるから早く下りてこいって!」
玲一はようやく緩慢な動きで下りてきた七海を引っぱたこうかと思ったが、どうやら様子がおかしい。
「……フフ」
不敵な笑みを浮かべる七海。
「本当に苦労しちゃった。なんでもっと上手くできないのかなぁ」
玲一の振り上げた手が寂しそうに下へとおりた。
「お前なぁ……」
「今度何かおごってあげるね」
そういえば、こんな義妹だった。
喧嘩になったことは一度もない。この愛らしい笑顔を見ては怒りもどこかへいってしまう。
「女優にでもなればいいと思うよ、まったく」
完全に遅刻か、などと考えていると七海は一日くらいは良いと言った。
この時はまだ、これから日常が崩れていくとは思ってもみなかった……。
とにかく朝から一日分の体力を使い切ってしまったような疲労感に玲一は授業の休み時間、教室でぐったりしていた。
七海は言った。
「だってああでもしないと、お兄ちゃんいい加減でしょ」
確かに愛してるなんてあれほど本気で言ったのは生まれて初めてだ。
もちろん、非人情的にではある。しかし、得も言われぬ不安というか、暗翳を感じずにはいられない。
誰かがあれを買うんだろうか……? せめて女であってほしい。
BLなどという不純なものが、女子の間で一部の人気を獲得しているのだというから油断はできない。
「お兄ちゃん」
快活な女の声が喧騒の中から聞こえる。
「なんだ、もう録音はやめろよ」
高校二年生にもなれば、少しは恥じらいというものを覚え、兄妹が教室で会うなんてことは滅多ではなくあり得ない。
しかしこの妹、七海は少し変わり者で知られていた。
「え? もうしないよ。必要なくなったしね……」
「? そういえば、俺が七海の教室に行ったことはなかったな」
「そう? みんな知ってるから遠慮しなくていいのに」
「いや、遠慮しておくよ」
兄としては七海がクラスでどんな存在なのか少し気になるところではあった。
だが、そうでなくとも最近の俺は少し過敏な気がする。特に変わったことがあるわけでもないのに……。
何となく過ぎていく日常。気がつけば気の早い太陽は沈みかけ、俺は校門にいた。