ヘヴンズリング
門
俺は少し迷ったが、先に帰ることにした。
というのも、今日は週間雑誌を買いに行く日でもあるからだ。
「沖村玲一さんですね」
校門を出たところで、急に自分の名前が出たので玲一は驚きに振り返った。
「そ、そうだけど……」
顔をみたところ、風紀委員や先生ではないらしい。
しかし、なんというか、同じ生徒にしてはやけに大人びていた。
「あなたに話しがあります。まぁ、義理はないのですが」
「はぁ」
美人に話しがあると言われてついていったら悪徳商法なんてざらなこのご時世、ついていくなど馬鹿げていた。
それでも、この女は何やら形容しがたい雰囲気を漂わせていたのだ。
並んで歩くとすれ違う人のいくらかは振り返っているようだった。やはり美人だ。
二人は街路をいくらか歩いたところで、ファミレスのようなところへ入った。
女生徒と一緒というのはいささか緊張したが、やけに相手が落ち着いていたので玲一も舞い上がっていた気持ちは冷めてくる。
「それで、そっちの名前は」
適当に飲み物を注文し、女へと向き直った。
女ははっとした様子で、
「あ、これは失礼しました。私は神無城香織と申します。二年です」
慇懃な挨拶もほどほどに香織と名乗る彼女はとても同年代とは思えなかった。
「どうしてそんなに真丁寧なんだ。同学年だろ?」
「これからお話しすることが、あまりに馬鹿げているから……」
一般人の理解では、と歯切れ悪く付け加えた。
香織はとある田舎に生まれた。少子化に伴い近くの学校が廃校になったので、今の街に移り住んでいるという。
「私はむかし、その村に根付いていた宗教「カワリノミコト」という儀式を執り行っていました」
いきなり話しが飛んだので玲一は手で制した。
「ま、待ってくれ、そんな話しを俺にする理由は何だ?」
「あなたは最近、妙な感覚に悩まされているはずです。
人類の新しい進化ともいうべきある感覚に」
「は……」
思い当たる節がない。強いて言えば、最近自殺した男に妙な親近感を覚えたことくらいだ。
「……なるほど、自覚はなかったようですね。では、これは見えますか?」
香織はそう言って肩の上を指さした。
うなじから立ち上る白い湯気。それは運動した後なんかの人間が寒い空間で目に見えて発するものだ。
「は? 湯気だろ?」いやあり得ない!
店内の気温は二十度を超えているはず。
ティーカップに注がれた珈琲でようやく蒸気を生み出せるくらいだ。
確かに蒸気だと思っていたものは立ち上るのではなく重力によって足元へ流れた。
「な、なんだよそれは!」
フッとその流れは止まり、店内に静寂が訪れる。香織だけが冷淡な眼差しを玲一に向けていた。
「やはり見えたようですね。剥離はもう始まっているようです」
「な、なにかのマジックか?」
さしずめこの手の現象はドライアイスなどを使ったようにも見える。
あるいは空気中で白く滞留する特殊な燃焼物か。
「何なら私の体を調べてみますか?」
そう言って香織は自分の肩に手を置いた。
「い、いやいい……からかうのはよせ」
「話しを聞いてもらえますね」
「――ああ」
「……私はそのカワリノミコトという儀式を執り行うにつれて、おかしな体験をするようになっていったのです」
それは奇蹟か神秘か、香織はある日を境に人と語らずして見た人を識ることができるようになったという。
「初めは道行く村人でした。私は今政にその人が生まれてから何をしてきて、
これから何をしにいくのかが走馬燈でも見るかのようにはっきり理解できたのです」
作り話としては面白いが、リアルでそんなことを言ってるとしたら電波にかかったとしか思えない、帰る。
「待って下さい。これはあなたに関係あることでもあるんですよ。
そう例えば屋上から飛び降りたあの男のこととも」
帰ろうと腰を上げた玲一は思わず声を上げた。
あの男のことは誰にも話していない事実のはずだ。
玲一は固い椅子の上にもう一度座り直した。
「どういうことだ? 何か調べたのか」
「違います。これがその力の一部なのです」
玲一はこういった話しが嫌いであった。
超能力とか、超常現象とか、そんなものは人を翻弄するだけの紛い物に過ぎない。
「お前が何を調べたのか知らないけどな、だから俺にどうしろっていうんだ?」
香織はしばらく逡巡した後、小さく漏らした。
「先ほどお伝えしました私が行っていた儀式『カワリノミコト』はその名の通り、
『代わりの命(みこと)』というものです。これは本来、人為的な転生術として信じられていた巫術(ふじゅつ)に近いものです」
カワリノミコトは村に起こる災厄や疫病を取り払うのではなく、
巫女や長老といった村に必要な人間の命の代わりを作り上げる儀式だったという。
「そして、この代わりの命は既に生きている人間から取り上げるのです。
その過程で被術者は、あなたのように見えざるモノが見える状態へ移行します」
「はは、つまりもうすぐ死ぬぞ、気を付けろって?」
「有り体にいえばそうです」
玲一は笑うしかなかった。だから何だというのだ。
「まぁそれで、命を取り上げられるとどうなるのさ」
「――死にますよ。ですが、通常の死ではありません。
これは、カワリノミコトの儀式でしか得られない特殊な状態です」
「…………」
玲一はいつの間にか目の前に置かれてあったティーカップを一息に飲みほした。
「あなたの命は長くありません。あなたの命を我がものにストックしようとしている輩がいるのです」
「ちょっとまった。その話しが馬鹿げてるかどうかはさておいて、そっちはどうなんだ?」
見えるかといって出したのなら自分も見えるに決まっている。
香織も玲一と同じということではないか。
「簡単です。私は自分の魂(ミコト)をコントロールできますから取られることはありません」
こいつはイカレてるのか? そう思ったとき、香織の後ろに何かが見え始めた。
「人間は死ぬと、二十一グラム軽くなるそうです。医学的にも立証されているこの事実、その実態は解明されていません」
うっすらと、しかし確かに見えるそれはゆっくりと人型になった。
「……あっ、あぁ――」
玲一は素早く席を立ち、レジに札を投げて店を出た。
とにかくこの女は危険だ。玲一はもう一度その影を見ようとしたとき、香織は背後にいた。
「この話し、信じますか?」
そんな問いかけをしてきた。
「あ、あんなもの見せられたら信じるしかないだろ……俺の錯覚じゃなければな」
「賢明です。周りをよく見て下さい。あなた以外に見えてる素振りのある人はいますか?」
もう一度、香織はそれを『顕現』させた。香織の目がうつろになり、後ろにもやのようなものが立ち上がる。
確かに道行く人間は玲一たちを眼中におさめもしない。しかし、それはぐうぜんジャナイノカ?
「も、もうやめろ。それがなんだってんだ。所詮はお前の言う二十一グラムの何かとかいうんだろ」
人は死ぬと直前と比べて二十一グラム軽くなるという。それは――。
「そうです。これは所詮二十一グラムのミコトです。剥離している状態だからこそこういう使い方もあるということを知っておいてほしかった」
白い塊は確かな形と意志をもって香織の後ろに着いていた。いや、憑いているというべきか。
玲一は目の前の事実を受け入れたくない思いで必死だった。
「死んでいなければ、また会いましょう。あなたはもう人外の入り口に入ってしまったのだから」
香織は義理はないと言った。
確かにそうだった。こんな馬鹿げた話しをあえてする馬鹿がどこにいるだろう。
「私は馬鹿のようですね。ミコトの声に耳を傾けるのです。そうすれば、あなたの後ろにいる霊が最期の道を指し示します」
香織は微笑みゆっくりと振り返り、去っていった。もう週間雑誌を買いに行く気力はない。
世界で一人、玲一はその後ろ姿をいつまでも見ていた。