天ノ雀――アマノジャク――
07.死魔の流儀
三村の左手が首から口元へと這っていった。悲鳴を上げさせないためだ。
下着を剥ぎ取り、むき出しの乳房を鷲掴みにすると、少女の目端にようやく涙が浮かんだ。あの高慢ちきな女を屈服させている、その快感に三村は酔った。
誰かが来ると面倒だ、と彼は思い、近場の仮眠室に篭ることに決めた。白垣の好意によって誰が使ってもよく、鍵もかけられる、まさにうってつけだ。
勝負が終わる三日目の朝まで、ゆっくりと、麻雀で疲れ傷ついた身体を憩わせ、金と女を手に去っていこう。
(この勝負で一番の勝者は、くくく、実はこの俺だったわけだ。ざまァみやがれ馬場天馬。てめえみてえなやり方は、もう時代じゃねえんだよ)
頬を張って女を黙らせ、三村は立ち上がろうとした。
金が宙から降ってくる、そんな空想は誰しも一度は経験したことがあるだろうが、実際にそれを目の当たりにしたとき、三村の目はその札に釘付けになった。ぽかん、と口を開けて、呆然とまぬけ面を晒していた。
天馬だったら、かわしていただろう。誰かの罠だと気づけただろう。
雪が降るように、札束が舞う中――廊下を大股に駆け抜けた天馬はその勢いのまま、中腰の三村の身体を吹っ飛ばした。わけもわからず転がった三村の右手に組み付き、ナイフを握ったままの手を床に何度も叩きつけた。
「てめえ、このッ――」
だが三村は離さない。そうしてこのままでは反撃を受ける、と天馬は思い、ひとまず三村に頭突きをかまして黙らせた。芯に響く痛みが返ってきたが、怯んでなどいられない。
そうして、口をがばっ、と大きく開き、獣のように右腕に噛み付いた。ぎゃっ、と三村が短く叫んでナイフを取り落とす。天馬はすばやくそれを烈香に放った。襲われた直後ではあったが、彼女は気丈にそれを掴んでさらに遠くへ投擲した。
三村の腹の上で、天馬は渾身の力を両腕に宿して太い首を締め上げた。赤かった三村の顔がだんだんと青ざめていく。
「オレは誰の味方もしねえ――だが、気にいらねえんだ、てめえみてえな野郎は。おまえがオレのことを嫌うようにな」
「ぐっ――」
「殺してやるぜ――おまえは二度ともう女も抱けねえ遊びにもいけねえ。怖いか? 怖いよな、でもオレはもっと怖いことを知ってる」
「――――」
気絶した三村の首を天馬は離した。ちょろちょろと音がしたので首をひねって背後を見やると、三村は失禁していた。慌てて彼の上から飛びのいた。
「きったね! この野郎、ちょっとシャツについたかもしれねえぞ。写メ撮ってやる」
バシャバシャっと天馬は三村の痴態を撮影し、それを『大スクープ』と題名をつけて白垣に送った。三村がこれ以後、天馬に逆らうようなことがあれば、彼は高校三年間を今までより少しだけ慎ましく暮らさねばならなくなるだろう。
「馬場……」
振り返ると胸を隠した烈香が見上げていた。天馬の視線を受けると、さっと顔を逸らした。
天馬は何もいわずにシャワー室へいき、彼女のための新しい衣服を持ってきてやった。ついでに濡らしたタオルもだ。
烈香はそれで三村に触られた箇所を入念に拭いた後、真っ赤なポロシャツからすぽんと首を出した。
「似合ってるぜ。ちょっと派手だけどな」
烈香はどう反応すべきか決めかね困惑したように落ち着かなかった。人に助けられるなど夢にも思っておらず、現実に起こってしまった救援に実感が湧かないのであろう。
(あいつに助けられた時――オレもこんな顔をしてたのかな)
ようやっと聞き取りがたい声で、ありがとう、と礼をいったきり無表情に押し黙ってしまう。
「失敗したかな。あのまま眺めてりゃよかったぜ」
憎まれ口を叩いたみると、わずかに彼女の眼に力が戻った。怒ったようだ。
「だけどよ、おまえ、もう少し気ィ遣った方がいいって」
「あんなやつらに気なんて――」
「そうじゃない。好き勝手やるのはいいことだけどな、そう振舞うならそれ相応の力を持っていなくちゃならねえ。身を守る術をだ。いくら牌を上手く扱えたってそれをぶつけて闘うってわけにもいかねえだろ」
烈香は唇を強く噛み、その言葉を何度も反芻しているようだった。
天馬は辛抱強く待った。すぐに立ち去らなかったのは、彼女から何かを打ち明けようとする顔色を垣間見たからだ。
「――おまえ、どうして私を助けてくれたんだ」
「その方が面白そうだったから」
それは偽らざる天馬の本音だった。烈香は眉をひそめて、訝しげに首をかしげた。天馬は続けた。
「助けないことはいつでもできるが、助けるってのはその時にしかできねえからな。まァつまんねぇただの気まぐれだ。そうして強いってのは、そういう気まぐれをサッとできることをいうんだ」
「自惚れ屋なんだな、案外。そうは見えなかったけど」
「べつに自惚れてねえよ。強くならなきゃ生きていけない。そんなの当たり前だろう。むしろおまえの方こそ、自分の弱さをもっと恥じるべきだぜ」
「いつもは――」といいかけ、烈香は叱られた子供のように顔を伏せた。
それ以上、追い討ちをかける気にもなれず、天馬はぷいっと顔を背けた。
「そろそろ立てよ。戻ろうぜ。ここは小便くさくっていけねえ」
「――ぃ」
「あ?」
「腰が抜けて、立てない」
天馬は改めて、十六夜烈香という少女をしげしげと眺め回した。
白垣にメールで事情を説明すると、メイドさんたちがやってきて三村を回収していってくれた。どこへ持っていくのか、天馬は少しも気にならなかった。
「なんて高スペックの勤務態度なんだ。文句のひとつもいわずに……ああいうのを女性の鑑だと思うんだ。どうだ十六夜」
「ちょっと黙れ」
「はい」
そうして黙っていると、今度は、
「なんか喋れ」
「どっちだよ!」
天馬は無駄口を叩くつもりはなかったので、烈香と同じように地べたに座ってあくびをかみ殺していた。
そうして、少しうとうととしていた時、なァ、と烈香が口を開いた。
「おまえ、麻雀、好きか」
「嫌いだね」捻くれ者は口を器用にひん曲げた。「疲れるし、運の割合がでかいし、やってらんねえよ。クソゲーだ」
そして今度はにやりと笑って、
「おまえは好きで仕方ねえみたいだな」
「まァ、な」烈香はそっぽを向いた。「子供の頃から、これが遊び道具だったから」
「どんな家で育ったんだ。おまえの親父はろくでなしだな」
「そうだな、私の父さんは、昔、博打打ちだったらしいから」
スカートのポケットから、烈香は煙草を取り出し美味そうに吸った。天馬は彼女が喫煙しているのを初めて見た。打っている最中は吸わない主義なのかもしれない。お堅いことだ、と天馬は思った。
「私はな、馬場。麻雀しかないんだ。ずっと打ってきたし、これからも打っていく。そしていつか――人を殺してみたい」
「麻雀でか」天馬は笑わなかった。
「そう。術ってのは人を殺せる力を持った技のことをいうだろ。剣術とか、魔術とか。私は麻雀術を編み出したい。人を生かしたり、殺したり、そういうことがしてみたい」
「麻雀でか」
「そう、麻雀で。――笑うなよ。こんなこといったの、おまえが初めてなんだ」
「オレは人の夢だけは笑わないって決めてる。どんなに阿呆らしくてもな」
一本吸わしてくれ、と天馬は烈香から受け取った煙草の煙を思い切り吸い込むやいなや、烈しく咳き込んだ。眼に涙さえ浮かべている。
「だって、オレも阿呆だからな。阿呆が阿呆を笑っちゃいけねえや」
烈香が女の子らしい軽やかな笑い声をあげた。
「そうだな、おまえは阿呆だ。こんなところで、何の得もないのに私に付き添ってる」
「そいつはわからねえぜ。何か旨味があってこうしてるのかもよ?」
「ふふふ――」と烈香はなぜか上機嫌だった。
「おまえ、なんだかヘンなやつだ。面白いよ」
「よくいわれる。でもおまえだってヘンだよ」
「ヘンなやつは嫌いか?」
「いいや。退屈しない」
先にいくぜ、と天馬は腰を上げた。
「そろそろ落ち目の悪魔もどっかいった頃だ」
「そういえばおまえ、ここのところ沈んでばかりだったな」
「ああ、地獄モードすぎる。親マンの両面待ちで突っ張って八千放銃じゃ勝てねえよ。無理無理」
そうだ、と天馬は振り返りざまにぽいっと、いつの間に三村から取っていたのやら、烈香の財布を放り投げた。
「今度ァなくすなよ」
「ああ、ありがとう、馬場」
「貸しひとつな。シャワー浴びてとっとと戻って来いよ。そろそろおまえと打ちたいぜ」
「ああ、天馬、烈香の様子はどうだった?」
和室に戻ると、にこやかな白垣と出くわした。天馬は肩をすくめた。
「ピンピンしてらァ。それどころか戻ってきたら、きっと今まで以上の気迫になってるぜ」
「へぇ、どうして?」
天馬は白垣の首に手を回し、皆に見えないように自分の財布を開けて見せた。
札束がぎっしりと詰まっている。白垣がにやりと笑った。
「君の金じゃないね」
そういった瞬間、襖が蹴破られて和室を横断した。茶髪の芳野が巻き込まれて畳と襖の間に生き埋めになった。
顔を真っ赤にして怒り心頭の烈香が天馬に詰め寄った。
「よォ、おかえり」
「貴様――抜いたな、私の財布から!」
「何のことだい。夢でも見たんじゃねえか?」
「この――卑怯者ッ!」
「卑怯?」天馬は手の中の札束を指でぴんと弾いた。
「どんな経緯があったにせよ、こいつァ勝負の金で、今はオレの手元にある。それとも何か? 友達にでもなったつもりだったのか? 笑わせるな、オレは友達は作らない」
そこで天馬は、和室に残った雀ごろたちを均等にぐるりと見渡した。それぞれから烈しい視線が戻ってくるにもかまわず、睨みつけてみせる。
「白垣も、てめぇも、こいつらも、みんな敵さ。どいつもこいつも素っ裸にして叩き出してやるからそう思え!」
烈香は一時、眼の縁に涙を盛り上がらせたが、最後の意地をもってその決壊を食い止めた。
天馬は澄ました顔で、彼女の前で『勝ち金』を数えている。
人を簡単に信用しない。それを怠ったやつは喰われたって仕方ない。
死魔の流儀は、今も天馬の中で生きている。