天ノ雀――アマノジャク――
17.さよならの始まり
――お味噌汁のにおいがした。
私はぱちぱちと瞬きをする。視界は黒い布に覆われたように何も見えなかった。
あの薬の影響で、数日間視力は戻らないのだ。
父に対して一瞬でも油断してしまうとは、私もどこか、甘くなってしまったのだろうか。
手の平が柔らかい布に触れているのを感じる。布団だ。
どこかに寝かされているらしい。
くう、とおなかが軋んだ。
このまま飲まず食わずではミイラになってしまう。そんなのはごめんだ。
私は起き上がり、くんくんと鼻を動かした。
「おう、起きたか」
すぐそばで天馬の声がした。
とたん、がくっと肩の力が抜けた。
無意識のうちに緊張していたらしい。ここは、自分の家のはずなのに。
「おはようございます、ところで何かいいにおいがしますね」
「おう、ヒバリが作ってくれたんだ。食うか?」
「はい」
「こっちに来いよ。よそってやる」
「…………」
「うん?」
「だるいです」
舌打ちしつつも天馬はこっちにやってきてくれる。
態度と内心が正反対の彼と接していくには、信じるしかない。
だから、それができない人たちは彼から離れていく。
私の日記には、仕事の内容と彼との会話の記録が延々と書き連ねられている。
そのうち彼の説明書だって作れるだろう。
天馬の動きが、ぴたっと止まった。
「……目が見えないのか」
「はい。でもすぐに直ります。心配は無用です」
そうか、と安心げに呟いて、天馬は私に近寄ってきた、ようだ。
畳を膝でする気配がする。
「天馬? 少し痩せましたか?」
「ん、どうかな。夏バテかもな」
「カレーのせいではありませんから、クレームはお断りです」
「カレー? ……ま、いいや。ほれ、食え」
私は布団を首元までたくし上げた。
パジャマを着ているとはいえ(誰が着せてくれたのだろう)、この土地の朝は少し冷える。
「寝たまま食うと胃もたれするぞ」
「やけどしないようにお願いします」
「人の話を聞いてないなおまえ」
私の唇を味噌汁の湯気がくすぐった。
何度か息を吹きかけてからスプーンを口に含むと、ふやけたジャガイモが口の中で溶けた。私は、はしたなくない程度に急いで食べた。
「あったかい」
「よかったな」
「天馬」
「なんだよ」
喉に詰まりそうになる弱気を飲み込んで、私は言った。
「――見ましたか」
心臓が痛い。聞かなければよかった。
でも私は知っている。天馬は肝心なときに、ごまかせない人なのだ。
ぴりっとした朝の空気に天馬の声はよく響いた。
「見たよ」
じわ、と目が熱くなる。いろんな呪いの言葉が、自分を哀れむ声が、耳のうしろあたりから騒々しくなる。
「気持ち悪かったですか」
天馬は答えなかった。
私は答えを知りたい。知りたくない。ああ、もう。
「私は――」
「うん」
この人の側から離れた方がいいことくらいわかっている。
自分は幸せになんてなれない。人並みの幸せなんて。
だから一刻も早く、この人に傷を負わせないように、さよならを言わないといけないのに。
ああ、私も天馬と同じだ。
しなくちゃいけないことと、やりたいことが、違ってる。
「信じてますから」
私のことは忘れてください、そう言わなきゃいけないのに。
この家は、私の夢を壊すもので溢れかえっているというのに。
とても言えません。とても諦められません。
私はあなたを信じたいんです。
誰からも信じてもらえなかったあなたを。
私だけは、信じてあげたいんです。
私を嫌わないでくれると、わがままに、身勝手に、疑うことさえしたくないんです。
そして、あなたを信じられる、そんな自分を信じたいんです。
そんな自分を、好きでいたい。
そんなあなたを――
「帰ろう、カガミ」
「どこへ?」
「もっと、見晴らしのいいところに」
そこにあなたがいるのなら。
乗り換える駅まではまだだいぶ余裕がある。
私は人気のない列車に乗っていた。
ボックス席の前には誰もいない。雨宮と天馬は二人してトイレにいってしまった。先頭車両から後尾車両までどこまでいってもトイレはないはずだが、私は何も考えないことにした。
目はまだ見えない。暗闇が私を取り巻いている。それでも手の甲や頬に注ぐ太陽の光が、心も体も暖めてくれるから怖くはない。
私は、膝の上に転がっているこけしを取り上げた。
天馬が帰り際に土産物屋で買ってくれたものだ。彼の趣味はよくわからない。それでも、彼にもらったものは部屋にすべて部屋に飾っておくから、これも今日の夜には戸棚の先輩たちに挨拶することになるだろう。ぬいぐるみとか、透明麻雀牌とかと一緒に。
お返しに、小さめのボトルシップをプレゼントした。
雨宮が「俺も欲しい」とか言い出すといけないから、こっそりと背中伝いに渡した。
受け渡すときに、私の指ごと握られて、へんな気分がした。
どうしてあんな小さなびんの中に船があるのだろう。そこには何がしかの理由や工程があるのだろう。
でも今は、ただ、それが不思議で素敵だと思う私の気持ちを大切にしたい。
そう思った。
足音がしたので振り返った。目は見えなかったから意味はなかったけれど。
「天馬……雨宮?」足音はひとり分だった。
「俺だよ、天馬だ」
「雨宮はどうしたんですか」
「まだトイレ」
よっこらせ、と彼は私の前に座る。
「どうした? ……心配するなよ、あいつならきっとうまくやるって」
「ええ……でもなんだか、申し訳なくて」
「やつが自分で望んだことだ。おまえが気に病んだって仕方ない」
「そう……ですね。ありがとう」
「べ、べつにおまえを励ましたわけじゃないんだからねっ!」
「わかってます」
なんだかヘンなムードになってしまって、天馬は慌てたように立ち上がった。
「ちょっと雨宮の様子を見てくる」
足音が遠ざかっていく、そのたびに私の心は細くなっていくようだった。
がたんがたん、電車が揺れる。