クロ電話ノ鳴ル処
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家に明かりが点いていなかった。鞄の中から鍵を取りだして、玄関の格子戸を開ける。手探りで電気の場所を探しあて、一応、声にだして呼んでみた。
「ただいま。じーちゃん、いねーのか?」
返事はない。靴を脱いで、少し軋んだ音のする廊下を進む。僅かに漂ってくる良い匂いにつられて、居間と向かい合わせの場所にある、台所の明かりをつけてみた。
「ん? 晩飯作りの途中か?」
流しの上、まな板と包丁が出しっぱだった。板は調理後、洗った様子がなく、刻んだ野菜の欠片が散らばっている。その隣には、コンロの上に乗った大鍋が一つ。蓋を開けてみると、たまご、こんにゃく、スジ肉、大根。出汁に漬かったおでんの群れ。
「おー、腹減ったし、一口」
菜箸を手にとる。直接大根を突く。「ぷすっ」と柔らかく突き刺さるのを期待して、
「……なんだこれ、煮えてねーし」
あっさり阻まれた。他も突いてみるが結果は同じ。腹が余計に減っただけだった。自然と溜息がこぼれ、とにかくガスを点火。火力は最大。
「くそ、ジジィの奴。飯作りかけて、どこ行きやがった」
鍋の中を見ても、食材は一通り揃っている。冷蔵庫の中には、ジジィ愛用の「激辛二十倍カラシ」も完備済みだ。買い足しの類で、席を外したのではなさそうだった。
「電話してみるか」
制服から携帯を取りだして、番号を入力しかけた時。ちょうど着信が届いた。
「もしもし?」
『信也。今帰ったところか?』
「そうだけど。じーちゃんこそ飯作りかけで、どこほっつき歩いてんだよ」
『すまん。今、特急列車の中におる』
「……は?」
『実は、美津子んとこから電話があっての。財布と鍵だけ持って飛び出してきたところじゃ。急いで家を出たせいで、お前に連絡残しとらんことに気がついた。鍋、火は切っとったか?』
「あー、はいはい、鍋の方も大丈夫だよ」
聞いて納得した。美津子さんはじーちゃんの実妹で、極道顔のじーちゃんとは全然似ていない。多少気は強いが、俺からすれば天女様みたいに優しいばーちゃんだ。そしてじーちゃんは、実はシスコンなんじゃねーかと疑ってしまう程に、美津子さんのことになれば、文字通り駆けつけていく。
しかし実のところ大した用事はなく、最近は主に同居している息子夫婦の愚痴を聞かされるばっかりだ――と、帰ってきたじーちゃんから、愚痴を聞かされるのも慣れてしまった。
「……だからって、いくらなんでも、平日のこんな時間に出ていくかよ普通。新幹線でも、片道一時間かかるじゃねぇか。帰りどうすんだよ」
『最終には間に合わんだろうし、一晩、泊まることになるかもしれん』
「かもしれんっつーか、確定だろ」
『いや、正直なところ、途中で降りて引き返そうか迷っとってな』
「なんで?」
予想外の返事だった。まさか今夜一晩、俺だけ残していくのが不安だということも、今更ないだろう。即断即決、徹頭徹尾。それが信条の頑固ジジィの口から、「迷っている」なんて言葉がでてくるとは。
「おい……実は余命十年ですとか言われて、落ち込んでんじゃねーだろうな」
『バカ言え。たかが八十半ばで死んでたまるか。真面目な話、美津子の話がさっぱり要領を得んのだ』
「どういうことだよ」
『向こうから電話をかけてきた時は、なんぞ切羽詰まっとる様子だったんだが、駅について電話をかけなおしてみれば……美津子の奴、家に電話なんぞかけてないと言いおるんだ』
「なんだそれ? どういうこと?」
『……うーむ……』
電話の先、真剣に悩んでいるじーちゃんの唸り声が聞こえてくる。腹を空かせた野獣のようにも聞こえる。付近に偶然居合わせてしまった乗客にとっては、この上なく不幸なことだろう。ご愁傷様。
「まぁ、とにかく行ってきて、話聞いてこいよ。最近顔だしてないんだし、丁度よかったんじゃねぇの」
『お前は一人で大丈夫か』
「それこそ馬鹿言うな。一晩二晩、ヤクザ顔のジジィがいないぐらいで、どうってことねぇよ」
『やかましいわ、クソガキが。……あぁ、まぁ、ともかくだ。用心のため、戸締りはしっかりとな』
「わかってる。そっちも周りの乗客に、怖い思いさせんなよ」
『ふん。それじゃ切るぞ』
「おう、おやすみ」
通話を切った後、おでんが煮えるまでの間に、洗い物を片づけた。手持ち無沙汰になって、携帯を手の中で回しながら、穴吹のことを考えてた。
「……あいつ、大丈夫かな」
別れ際のことを思いだす。電話をかけようかと思ったが、宛先不明の脅迫じみた二通のメールと、真っ青になった穴吹の顔を思い出し、少し迷った後に、携帯を閉じた。
「……くそっ」
思い出して、胸が痛くなる。同時に、メールの送り主を殴り飛ばしてやりたいと思った。直接メールが届いてない俺にも、得体の知れない気味の悪さに、背筋が寒くなったぐらいだ。携帯の持ち主である穴吹の恐怖感は、計り知れない。
隣にいる「彼」から、離れて
あれは、やっぱり俺のことなんだろうか。それにしても、相手は俺達の行動を筒抜けなのだと言っているようで、穴吹の本名は知らない感じでもあった。イタズラ的な、不特定多数に送信した「チェーンメール」と呼ばれる類なのかもしれない。ただ、それにしては、一通目と二通目の内容が、繋がりすぎていた。
「気味が悪いよな……」
明日もバイトがないので、穴吹と一緒に店に行って、新しい携帯を買おうと約束した。穴吹の方は当然部活があったが、それでも了承してくれた。別れ際に、少し笑ってくれたのだけが、幸いだった。
「……はぁ……」
あのまま楽しく、お互い家に帰っていれば、なにか他愛のないことでも話せたかもしれないのに。くそ、誰だかわかんねーけど、腹立つ。
ぐつぐつと腹の底から煮えたぎる頃合いに、鍋の火を止めた。
「よっ、と」
取ってを掴んで、居間の方まで運ぶ。こたつを点けて中に入る。
なにはともあれ。
「腹が減っては、なんとか。いただきます」
熱い卵を救いあげ、箸を通して割って―――
「ん?」
なにか、いつもと違う。なにか、妙に静かな気がする。
「あれ?」
その違和感。静けさはいつもと同じだというのに、確かに、いつもより静かだと感じる。口喧しいじーちゃんがいないからではなくて。
「―――クロ?」
そうだ。家に帰ってきてから、クロに会っていない。いつもなら、それとなく壁からすり抜けてきて、無表情に近い感じで頭を下げてくるのに。何をするわけでもないが、それとなく側にいるのに。
「二階か?」
暖かいこたつから立ちあがって、居間を出る。じーちゃんがいないので、階段の方に向かって呼んでみた。
「クロ、俺の部屋にいんのかー?」
返事がないのはともかく、しばらく待っても姿が出てこない。一応、辺りを見回しても、やっぱり姿は見えない。
「おかしいな?」
あいつは、この家から離れることが出来ない。だから家のどこかにいるはずだった。依代の黒電話がある限り。
耳に馴染んだ、ギシギシと軋む階段を上った。
「クロ?」
部屋の襖を開けた。電気を点けた。見慣れた自分の部屋にも、クロの姿はなかった。ただ、一点。
「……………………」
部屋の中央。畳の上。言葉を失った。
黒い破片が散らばっていた。粉々になって砕けていた。
「……なんでだ」
胸元までしかない箪笥の上、畳みの上に落ちたとしても、ここまで細かく砕けるはずもない。ヒビが入るかどうかさえ怪しいはずだった。それが、まるで、黒電話自体が、内側から破裂したかのように砕けている。修復など望めそうにない程に、砕け散っていた。
「クロ……クロ! クロッ!?」
心臓が激しく高鳴り、言葉になって叫び出た。身体の中に溜まった熱が、波打った後のように引いていく。手足が冷たくなって、視界が揺れた。『失った』という想いが、頭の中ををかけ巡る。
「おい、クロッ! どこにいるんだよッ!!」
あいつと、話をしたばかりだったのに。
変われるといいよなって、言った。約束もした。
「文化祭! 連れてってやるって言っただろーがっ!!」
ぬくもりもなく、触れ合うことも出来ない。目で捉えるまでは気配すら感じさせない。受話器を手に取るまでは、彼女の声すら聞こえない。なのに分かってしまう。理屈ではなく、漠然と感じてしまっていた。
「黙って消えんな! バカやろ……!!」
もう、この家には、自分の側には、クロはいない。
「……っ!」
足の裏に突き刺さった、小さな破片。黒電話だった物の一部を拾い上げた。なにかから逃れるように、耐えるように、蹲った。
「……クロ……」
針が突き刺したような痛みを感じた。そして聞いた。
――――じりりりりりりん。
とても懐かしいその音。呼んでいる。呼ばれている。