クロ電話ノ鳴ル処
You:
この世界は、真っ暗、闇の中だった。
ぽつんと、小さな光が見えるまで。
「―――ツクモカミ?」
「そう、九十九神。物に宿る神様よ。だからね、陶也。悪戯なんてしちゃだめよ」
「神様に怒られるから?」
「そうよ」
映し出された一つの光景。懐かしむことさえ及ばない、遠い、知らないはずの記憶。暖かい夢を見ているように、坊主頭の少年と、その母親らしき、着物を身につけた女性の会話を耳にした。
「かあさんは見たことあるの。ツクモカミ」
「ないわねぇ」
「じゃあ嘘じゃん。そもそもいないし、神様なんて」
「……まったくもう」
坊主頭のガキが、何故か得意気に言い張った。母親が呆れたように、その頭を軽く叩いた。
「いいこと? かあさんが帰ってくるまでの間、おとなしくしてるのよ。今度黒電話を玩具にしたら、お父さんに言いつけますよ」
「えー」
『じりりりりりりん』
ふと、二人の目線が向けられる。笑顔で駆け寄ってくる子供を制して、母親が受話器を取り上げた。
「はい、もしもし――って、あら?」
「どうしたの」
「切れちゃったみたい」
「一回しか鳴ってないのに? 間違い電話?」
「さぁねぇ。もしかしたら陶也のせいで、神様が怒ったのかもしれないよ」
「えっ!?」
「大変、もしかしたら、祟られるかもしれないわ」
「えぇぇぇぇっ!!」
坊主頭のガキが泣きそうな顔になる。母親がここぞとばかりに言ってみせた。
「神様はいるわよ。陶也が悪い事してたらね、ちゃーんと見てるんだから」
「……うぅ」
両肩を落として、自信なさげに視線を彷徨わせた。祟りという単語がよっぽど怖いらしい。母親が手にした受話器を催促して受け取って、ぽつりと呟いた。
「……かあさん」
「なに?」
「ツクモカミ様の電話番号、教えて」
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
ダイヤルが回る音。それに伴って、流れ込んでくる世界の光景が移ろうた。ここには、すべてが残されている。
「―――あら、黒電話。まだこのお家には残ってるのね。懐かしいわ」
「親父が懐古主義なんだよ。買い替えろって言うのに、まだ使えるって口喧しいんだ」
「いいじゃない。古き物こそ、大事にすべきだわ」
二人の男女。男の方はどことなく、少年の面影が残っていた。そして女性の方は、落ちつきと、優しさを同居させたような人だった。
『―――――――』
叫んだ。大声で叫び求めた。気が狂えるほどに強く、引き裂かれるように必死になって、両手を伸ばして二人を呼んだ。けれど、
『―――――――』
届かない。すぐそこに見えているのに。世界を隔てたかのように、果てしなく遠かった。
「最近の電話って、黒電話と比べて、なんとなく味気ないのよね」
「それわかる。いちいちダイヤル回す手間がなくて、楽っちゃ楽なんだけど、なーんか、イマイチしっくりこねーんだよなぁ」
「そうなのよねぇ」
「ところでさ」
「なに?」
父さんが、楽しげに口元を綻ばせて、受話器を手に取った。
「智子さん、ツクモガミって知ってる?」
「物に宿る神様でしょ。伊達に四年間、民俗学専攻してないわよ」
「さすが。で、この電話に、ツクモガミが宿ってるって言ったらどうする」
「えっ、それ本当なのっ!? すごいわ陶也くんっ!!」
母さんの目が、急に生き生きしはじめる。新しい玩具をねだる子供のように受話器を取り上げる。
「どこどこー! どこにいるのツクモガミ~!」
「ごめん、今のはたとえ話だから」
「えぇ~……」
「本気でがっかりすんな。まぁ、二十年ぐらい使ってるから、見えないだけで、どっかにいるかもしんないけど」
「名前はなんて言うの?」
「なまえ? ツクモガミの?」
父さんが首を傾げる。母さんは大真面目な顔で言ってのけた。
「もちろん。万物すべての存在は、名前ありきだわ」
うんうん、と一人頷いている母さんを見て、父さんが口元を押さえて噴き出した。
「智子さんって、やっぱ、ヘン」
「惚れなおしたでしょ?」
「無い胸張らなくていいから。それで、智子さんならどんな名前つけるの」
「クロ。黒電話のクロちゃんよ」
「即答かつ安直だ!」
「うるさいわね。じゃあ、」
母さんが静かに受話器を戻した。にっこり笑顔で応えてみせる。
「じゃあ、お腹の赤ちゃんは、陶也くんが責任持って考えて」
「…………はい?」
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
流れるように、ダイヤルが回る。回り続ける。世界はさらに輝き続ける。闇が消え、光の粒が繋がって、やたらと眩しい。
『――――――――』
そう。眩しいだけで、結局のところ、なにひとつ自分の元へは届かなかった。むしろ黒い殻に包みこまれた自分の存在を意識して、一層空しくなるばかりだった。
『じりりりりりりん』
どこかで電話が鳴る。誰かが求めて腕を伸ばす。手に取った受話器を耳元に押し当てて、小さな声で呟いた。もしもし、と。
その声が聞こえる。悲哀を含んだ、物悲しい声が聞こえてくる。
『私は、この世に存在して以来、ずっと孤独でありました』
『私は彼等から必要とされていましたが、光の中に映る、あの人達の仲間にはなりえませんでした。何故なら彼等は、自分たちと同等の存在としての私は、求めていなかったからです』
『彼等は常に、私を道具とみなしていました。だから、私は懸命に応え続けました。それで良かったのです。私は道具なのですから』
『彼等はとても残酷です。戯れに私を九十九神だとおっしゃりました。戯れに、名前を授けてみせました。私を求めてもいない癖に。必要とするのは、常に道具の私だというのに』
『眩しい世界。己以外の存在を認識し、互いに支え合って生きてゆく。孤独である私にとって、それがどれだけ眩しく映ったか。一人であり続けた私が、どれほど寂しかったのか。どれほど鳴り叫んで求めたか。貴方に分かりますか―――信也』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
新しい光景。見慣れた人達の輪の中に、小さなガキが増えていた。
「―――こら、信也! 電話は玩具じゃないと言うとるだろうが!!」
「だって、おもしれーんだもん。きゅるるるる~って、ぐるぐる回るんだよ」
「……おい陶也、血は争えんなぁ」
「うるせーよ。つーかいい加減、電話買い替えろ。今日ここに連絡入れた時だって、よく聞こえなかったしよ」
「ふん、聞こえておるのだから良かろうが」
「この頑固親父が……」
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
今と変わらないじーちゃんの家だった。
こたつに入って向き合っている二人の男。机の中央に一升瓶が置かれていて、グラスを傾けている顔は、両方赤ら顔になっていた。
「母さんが生きてた時の物、できるだけ残して置きたい気持ちは分かるけどさ。いざって時に、電話が繋がらなかったら困るだろ。親父だってもう歳なんだし。いつ、なんかあってもおかしくねーぞ」
「喧しいわ。まだ六十過ぎたばっかりだ」
「……親父、日本人男性の平均寿命、知ってるか?」
「ワシが平均程度で死ぬ玉だと思っとんのか。たわけぃ」
「思ってねーよ。でも親父みたいに、どいつもこいつも頑丈なわけじゃねーだろ。万が一、俺になんか起きて、親父の助けが必要になった時に、この家に電話が繋がらなかったら、困るんだよ」
「情けない。その年になって、まだワシをあてにしとんのか。自分の家庭ぐらい、しっかり守ってみせろ」
「分かってる。でも、母さんが病気だってわかった時もさ、突然だったろ。だからさ、時々考えて、怖くなるんだよ。もし、俺が死んで、智子と信也だけが残ったらって。今、俺が死んだら、なにもかも中途半端で放り投げちまうことになるだろ。そうしたら、残った二人はどうなるんだろうって。すげー怖い」
「……わからんでもないが」
「別に弱気になってたり、現状に問題あるわけじゃないからな。ただ、そういう風に思う事が増えたんだ」
「……ふん」
じーちゃんが、ぐいっと酒を煽る。もう一杯注ごうとして、
「もうよせ、頑固親父。飲み過ぎてるぞ」
「まだまだいけるわ。お前も飲め」
「いらねぇよ」
「なんじゃ、つまらん」
父さんが酒瓶とグラスを取り上げて、立ちあがる。そのまま部屋を出ようとした時だった。
「のぅ、陶也。信也の誕生日は再来週だったか?」
「そうだけど、いきなりどした?」
「……ちょうどえぇわ。来週にでも家の電話を信也にくれてやる。妙に気に入っとるようだし。線が繋がっとらんでも、喜ぶだろ」
「ありがとよ」
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
『―――かくして私は、必要とされる道具としての存在も失いました』
『繋がっていた光を失いました。黒い殻で覆われながらも、 九十九神という概念と、"クロ" という名前が、私を保ち続けました』
『……どれほど、貴方達を恨んだか……』
『信也、貴方は私にとって、最も憎むべき存在でありました。私に残された最後の繋がりを外させた元凶です。いつか貴方もまた、私を必要としなくなる癖に』
『今思えば、私は消えることを望んでいた。この世界は私にとって眩しすぎたからです。自分の存在が許せなかった。貴方に見限られ、打ち捨てられたその時こそ、私は道具としての本分を終え、この暗闇の中に溶け込み、消えてゆく』
『それなのに、貴方は求めた。この世界を』
『果てしない、この虚無のような、暗闇を』
『あの時、貴方は、世界を否定した』
『道具の存在を否定した。人の役に立つよう作られた物の存在を、間違っているのだと叫び続けた』
『けっして届かないことを知りつつ、回り続けた』
『どこまでが正しく、誤りなのか。どこからが外であり、どこまでが内なる場所なのか。境界としての役割を果たしていた黒い殻は、貴方のせいで、もしくは貴方のおかげで、溶けあい、消えたのです』
『そして私は、貴方の下へ、降り立った』
『貴方が私の声に応えてくれた時、どれほど嬉しかったか、そして、それ以上に、どれほど心苦しかったのか、貴方に、分かりますか』
『結局、貴方も他の人達と同じでしたね。私を "クロ" と呼び、その存在を認めてくれるものの、自らと同じ存在であるとは、けっして認めてくださらなかった。だから、私は、貴方に触れることができず、黒電話の道具を用いることでしか、繋がることができなかった』
『あなたは、本当に優しくて。ひどい人』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
『でも、この身が消えてしまう、その刹那』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
『貴方は初めて、私と対等に話をしてくれた』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
『私もまた、変われるのだよと、言ってくださった』
カララ……キュルルルルル……。
カララ……キュルルルルル……。
『ふふ、うふふ、うふふふふ』
カララ……キュルルルルル……。
『信也。貴方のおかげです。私は変わることができました』
『今こそ、貴方の願いを、叶えて差し上げます』
『そして、私の願いも、お聞き届けくださいませ』
カララ……キュルルルルル……。
「貴方を愛してます。ずっと側にいて。どこにも行かないで」
「―――信也、おい、起きろ。信也」
誰かが肩を揺さぶっていた。頬を軽く叩かれて、目を覚ませと呼びかけてくれていた。瞼を開いて最初に映ったのは、口元を緩めて不敵に笑う、父さんの笑顔だった。
「ほら、家に着いたぞ。さっさと起きて降りろ」
「……ぁ……うん……」
頭の中が、霞が立ちこめたように働かない。長い間、十年ぐらい、眠り続けていた気分だった。僅かに指を動かして、動くことを確認する。
「……生きてる」
「うん? なにか言ったか?」
「……うぅん、なんでもないよ……お父さん……」
背を起こして、脱いでいた靴を履く。静かに自分の両手を見つめた。なにか物足りない気分だった。得体の知れない寂しさを感じたけれど、それがなんだったのか、分からない。思いだせない。
「ほら、信也。しゃきっとしろ」
「……うん」
「あなた、荷物持ってちょうだい。一人じゃ持ち切れないわ」
「わかった」
父さんが後ろのトランクへ向かう。僕も車から降りて、扉を閉めた。
「しんクン、おはよ」
「……おはよう、お母さん」
スーパーのビニール袋を両手に持ったお母さん。お父さんも一つ片手に持っていて、空いた方の手で、トランクを閉めた。
「お母さん、僕も一つ持つよ」
「あら、ありがとう。いい子ね」
「……ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
「今日の晩御飯、なんだっけ……僕、お腹が空いてる……」
「カレーライスよ。しんクンの大好きな、ね?」
「……うん」
あぁ、そうか。そうだった。
僕はお母さんの作るカレーライスが大好きで、今日の晩御飯は、カレーを作るからねって言ってた。
「お手伝いする」
「ありがとう、しんクン」
お母さんは嬉しそうに笑った。僕も嬉しくなって笑った。そうだ。今日は三人一緒におでかけして、家に帰ってきたんだ。三人が住んでいるマンションの一階、「101」号室が僕たちの家。電話番号は『XXX-XX-XXXX』
「よし、荷物持ったな」
「えぇ」
僕たちは三人揃って、一緒に歩いた。
帰って、きたんだ。
家に帰ってから、僕はお母さんのお手伝いをしました。ニンジンとタマネギの皮をむきました。それから包丁で、トントン切りました。お父さんは、僕よりへたっぴです。
「こうやるんだよ、お父さん」って教えてあげたら、
「いつのまにこんなに上手くなったんだ?」って、驚いてくれました。それから二人とも、いっぱい、僕のことを褒めてくれました。
「じゃ、後はお母さんに任せて。しんクンとあなたは、少し休憩してていいわよ」
それから、カレーが出来上がるまでの間、お父さんとゲームをしました。お父さんが剣で敵をやっつけて、僕は後ろからマホウで敵をやっつけました。ボスのところまで進んで、セーブするところが見つかって、セーブします。ちょうど、炊飯器が「ぴぴーっ!」となりました。
「ここまでにしとくか」
「うん」
ゲームを片づけました。ご飯が食べられるように、台所に戻ります。お母さんが炊飯器の蓋を開けると、もわもわ煙が昇っています。とってもおいしそうな、炊き立てのご飯です。
「あ~、腹減った」
「今日は、運転お疲れ様でした」
「うん。また行こうな」
「えぇ、三人でね」
お父さんが言って、お母さんが嬉しそうに頷きます。お母さんが大皿にご飯を乗せて、その上にカレーをかけて、お父さんに手渡しました。
「はい、あなたの分。大盛りよ」
「ありがと」
今度は僕の番です。お皿をお母さんに渡します。
「はい、しんクンの分」
「……あれ?」
「どうかした?」
お皿にちょびっと乗ったカレーライス。お腹が鳴ります。
「お母さん、僕、もっと食べられるよ」
「あら、じゃあこれぐらい?」
「……えっと、もっと……お父さんと、おんなじぐらい……」
「あら、それはちょっと無理だわ。食べられたら、おかわりしてね」
「うん……」
足りなかったら、おかわりすればいいよね。そう思って、僕も席に着きました。
「いただきます」
「はいどうぞ。今日はしんクンが手伝ってくれたから、飛びきりおいしいはずよ」
「おぉ、今日のは美味いな!」
お父さんが言いました。僕もわくわくしながら、小さなスプーンで、熱々のカレーライスを救います、一口、ぱくっ。
「おいしいでしょ?」
「えっと、うん……でも、あんまり、辛く、ない……」
「そう? いつものカレールーと変わらないけど」
「これ、激辛じゃないよね?」
「しんクン、中辛も食べられないでしょ?」
「……そう、だっけ?」
「そうよ。甘い食べ物が好きだけど、辛いのは苦手のはずでしょ?」
「…………」
思いだそうとしました。けど、また頭がぼんやりします。
十年間眠っていたようで、上手く―――思いだせない。
二人がどこか心配そうに、僕の方を見ていました。
「……ごめん……覚えて、ない……」
「いいのよ。次はもう少し辛いの作ってみるわね」
「口に合わなかったか。残念だったな」
にこにこと、二人とも、優しく笑ってくれます。
そんな表情を、もうずっと、見た記憶がなくって。
僕が、知っているのは――――俺が知っているのは、笑えば、般若のように険しい表情になってしまう、極道顔で、頑固者で、融通の利かない笑顔だった。
『軟弱者が』
甘ったるい食べ物がなにより苦手で、汗と涙が噴き出そうなぐらい辛い食べ物を、好んで食べていた。飲み物も、火傷しそうなぐらい熱いものを好んだ。俺が辟易してみせると、くっくっく、と鬼のように笑うのが常だった。
結果として、俺は自分で包丁を持ち、台所に立つようになった。それなりに上達し、自分に合っている味ばかり優先するようになると、今度は口喧しく文句をつけてきた。面倒くせぇと思いつつ、相手にも合わせた、妥協できる範囲の料理を作れるように頑張った。そうしていつからか、当番制になることが決まり、交互に、日替わりで、料理を作っている。
「――じーちゃんは? どこ?」
「信也」「しんクン」
目の前にある二人の顔は、優しい笑顔から変わらなかった。隣に座った父さんの掌が、俺の肩に添えられた。不思議と、あまり大きいとは感じられなかった。
「ここにいなさい。大丈夫だ。もうなにも心配することはないからな」
「そうよ。ここにはなんにも、辛いことはないの。だから、しんクンはそのままでいいの。無理に変わる必要なんてないのよ」
「…………」
甘く、どこまでも甘ったるい気配が、全身を包み込む。それは確かに優しく、際限のない幸福だった。なにを心配することもなく、一生ぬるま湯に浸っていける安心感。一度目を閉じてしまえば、楽に溺れていけるという確信があった。
「ねぇ、しんクン。また、三人で一緒に暮らしましょう。ね?」
「もうお前を、一人にはしないからな」
自然と口元が緩んだ。十年前の俺ならきっと、諸手をあげて、二人に抱きついていたんだろう。
「ごめん、母さん、父さん―――」
「……信也?」
「俺、帰るわ。カレーごちそうさま。美味かったけど、俺の好みじゃなかったよ」
肩に乗った手を払いのける。席を立って玄関に向かう。後ろから絡みつくように手が伸びてくる、腕を捉えられた。
「まて信也っ!」
「離せよ」
「お前っ! 父さんと母さんと一緒に居たくないのかっ!?」
「それなら聞くけど、ここに明日は来んのかよ? 布団に入って眠ったら、いつも通り七時に起きて、朝飯食って、学校行って、バイトして、勉強して、休日は友達と遊んで――――」
「そんなもの来るはずないだろう!! 必要ないっ!!」
「しんクン。ここにいればずっと、なにひとつ変わることなく、幸せに生きていけるのよ。貴方が望んだ "平和な" 世界が、永遠に変わらず、存在しているのよ」
「悪いけど、そんな世界に居たくない。つまらないだろ」
腕を掴んでいた父さんの手に、力が籠る。
「楽しければいいのかっ!? お前の言う "楽しい" 世界は、手軽に、簡単に、不条理に、大切な存在が一瞬で消えてしまう世界だぞ!! お前の世界はなに一つ保証されていない!! 一度幸福を望んでしまえば、裏切られ、傷つけられ、殺し合う、不完全な代物ばかりだッ!!」
「叶わないから、だから、諦めろっていうのか」
「そうよ。一つの夢が完全に満たされる、この世界こそ、正しい世界よ」
「………………」
どこまでも優しいその言葉。
自分の中で「ぷつん」と切れた。
『ふっざけんじゃねぇッッッ!!!』
胃が捻じれあがるぐらい、声を張り上げた。
そんなのは、初めてだった。
「俺は、アンタらの所有物じゃねぇッ!! いつまでも庇護を受けるつもりなんぞ毛頭ねぇし! そんなんじゃ将来やってけねぇって分かってんだよッ!! 俺は確かにまだガキで、一人じゃ生きらんねーかもしんねーけどッ! それなりに努力してきたんだッ! クソジジィの背中が格好良く見えてから、自分なりに目標決めて、精一杯やってきたんだッ!! その生き方に文句つけんのは他人の勝手だッ!! でもなぁ! 俺の尊敬してる、ジジィの生き方を、全否定すんじゃねぇッッ!!!」
バカみたいに両肩が上下する。ひどく息が荒かった。苦しい。夢の中でも疲れんのな。そんな事を思っていたら、どこか余裕が沸いてきた。笑えてきた。
「おい、でてこいよ。クロ」
名前を呼んだと同時だった。目の前の二人が、ドロリと溶けた。十年前に眠る記憶の家が、ばらばらと黒い破片になって砕け散っていく。その裏側から、十年間付き添ってきた、九十九神の姿が浮かぶ。
「クロ。壁抜けはやめろって、言ったろ」
「…………」
無表情。無感情。
光のない、まっくらな瞳。
裏切られた、失望したというように、静かに、まっすぐ、見ていた。
怯まず射抜き返す。
「クロ」「信也」
同時に言葉を発し、互いの言葉を受け止めた。
「俺にはもう、お前は必要ねぇよ」「私には、貴方が必要です」
正逆。正しく相容れない。
「俺はお前が嫌いだ」「私は貴方を愛しています」
互いに容赦はなく、譲れなかった。
「帰せ。ここは俺の家じゃない」「ここが貴方の居るべき場所です」
築き上げた自分を否定することが、なによりも怖かった。
「お前とはもう、二度と会わねぇ」「貴方と永遠に、共に在りたい」
唯一重なる意思。
「俺は、変わりたいんだ」「私は、変わりたいのです」
完全な肯定。全否定。
「誰かのために」「貴方のために」
目の前にいるのは、十年前に捨て去った、俺自身だった。