そこは暗闇。明かりは点いていない。一寸先は、間違いなく闇。
驚くほどの静けさ、閑散として物音ひとつない。音もなければ、光もない、当然ながら動きもない。まるで、何もないかのようだ。しかし、この空間には確実に、そして着実に満ちている。嵐の前の静けさが。
静けさを破る規則音は、彼の胸の鼓動のみ。
「……チッ、何にも見えやしねえな」
言いつつ彼は、腰のホルスターから電磁銃を引き抜いた。一歩前に進み、フロアの床を踏む込む。床は大理石だろうか、固い音が二重三重にフロアに響いた。隣のりんごも歩調を合わせて前へと出る。
そして、背後でエレベーターの扉が閉じる。
光が、閉じる。
ここまで来て、戻るわけにもいくまい。大封はそんな通告を受けたように感じた。
訪れた本当の暗闇には、すぐ一点の光が投げかけられた。大封の手元の電磁銃が、レーザーポインターのごとく強烈な白光を前方へと放っている。壁の色と形と影が、空間に戻ってきた。りんごも同様にすると、周囲の光景が少しハッキリする。
白い壁には、不規則な間隔で絵画や美術品が展示されていた。布のようなものをかけらられた彫刻も見受けられる。
かなり遠くの前方に、非常用の灯りが微かに見えていた。
どうやらそこが、終着駅のようだ。
「……ネット情報によると、このフロアは入れ子構造みたいになってやがる。『回』っていう漢字を想像すれば分かりやすいか? あれのもっと複雑なヴァージョンだ」
「ふうん、なるほど。それで、どう進めばいいのかな?」
「しばらくは真っすぐでいい」
エコーのかかる声で言いつつ、探るように大封は右脚を踏み出す。
「どういう順番でセキュリティを解除したのかは知らねえが、俺らがどう動きまわっても問題ないはずだ。そんくらい今このフロアは蛻の殻だろうからな」
「……へへへ、ワクワクするね」
彼とは対照的に、りんごがスイスイと歩を進めた。一瞬の遅れをとりつつ、大封もそれに続く。響いて、再び彼らの耳に戻ってくる靴音が、空間の広さを思わせた。
横たわる静けさにはさまれて、禁忌を犯しながら、正義を掲げた男と女が通り抜けていく。二人分の足音が、後に闇を落しながら大理石の上を進んでいく。
「視線誘導も何もない美術館だね。やる気あるのかな?」
「さあな」
返答は短い。そこに彼の感情を読み取る事ができるだろう。
隣の女は一体何を考えている? 彼はふとそんなことを考えた。そして隣に目をやろうとして、止めた。
どうせ無駄だ、俺にこいつはわからない。食えねえ女だからこそ、相棒でいいんだ。
大封は、なんとなく笑った。
「……? どうしたのさ」
「いや、なんでもねえ。それよりここらで左にそれるぞ」
少し声を落した彼に、わかった、とりんごが頷き、二人は三つ目の区画を左折する。そして突き当りを右折、しばらく進んで、また右折する。中央には、四方から通路が伸びているのである。『回』の字の例えで言えば、下辺から中央に進んでいたところを、左辺から中央に進む形になったわけだ。
足音が再び進み。
確実に、白い明かりが二人に迫る。宝石を照らすように、小部屋の四隅からスポットライトの役割を果たす光が、はっきりと確認できる。そして、その紅い宝石も。
そして、停止する。
「……ここで待つ」
「……コテンパンにしてあげるよ」
二人は、通路の両側に分かれて立つ。そして壁を背に、銃を構えなおす。大封は右肩ごしに、りんごは左肩越しに、宝石を見る形となった。二人は電磁銃の白光を消す。
『モニカチミの炎』は、透明度の高いケースがその赤光の身を覆っていた。
強化ガラスだろうか。どちらにしろ、一般的な材質では出来ていないだろう。
大封は考える。
自分なら、セキュリティを解除させる順番は、『最も解除されていなくても問題ないモノ』を最後に持ってきて、優先順位を付けていくはずだ。だとすれば、あのケースに仕掛けられた何らかのセキュリティ、それを強引に解除しようとするのが定石。勿論、常日頃奴は目立つことを厭わないが、今回は事情が事情だ、そうもいかないだろう。優先して解除させるべきは、感知系のトラップ。それを高順位に持ってきているはず。
それなら、ここで見られるかもしれない。規格外の力、とやらを。
「……」
そうして、不意に思う。
全てが全て、希望的観測だな。
そのモノローグは、今さらだった。
「まあ、なるようになるだろ」
「……大封君」
反対側で銃を構えるりんごが、その独り言に反応する。
「なるようになる、じゃ困るんだよ。私は君の正義と意思を買ってるんだ。いい?」
多分、彼女は笑っていただろう。
「なるようにさせるの、力技でね」
それを聞いて、大封も小さく笑いとばした。
「そうだな、俺たちにはそれしか――ッ!?」
コツン。
冷たい冷たい、そんな音。大封は、口をつぐむ。身体がこわばる。ぐっと、手に汗がにじむ。足音は一人分。
コツン。
それは、二人が息を飲む間に近づいてきた。大封は唇を舐めて、部屋の中を目だけで覗く。人影が、中央展示室に見えた。
鼓動が、急速に早鐘を打つ。
視界が半分見きれているため、彼からは顔がよく見えない。りんごからはまた別の光景が見えているはずだ。一体何が見えている? 注意深く、動きを観察する。瞬きはしない。見逃すことは許されない。
だが、くそ、見えねえ。一体何をする気なんだ。
焦れて、汗が頬を伝う。その人影が、動く。
動く。
心臓が、未だかつてないビートを打ち始める。時が、その刻みの間隔を緩め始める。溶けるように、時間が融解し始める。
世界が、スローモーションに突入し始める。
一体、何をするんだ――!
しかし。
一度宝石へと伸びかけた手が、ピタリと停止する。
「……!?」
そして、それは懐へと突っ込まれる。その動きと呼応するように、赤色の輝きを乗せる土台から、何かがスライドする。りんごはそれがよく見えていないのだろうか、反応する様子はない。しかし大封からはそれが何か判別できる。
ケースの制御コンピューター。そうとしか見えない。そしてその人間の手に握られたのは、カード。
カードキー。
大封は、視界が明滅するような感覚を覚えた。
何故奴がそんなものを! ……駄目だ!
もはやこのままここで静観してることには意味がねえ!
放っておけばそのまま訳のわからんやり方で逃げられる!
そこまで考えて、思考よりも身体が優先された。脳髄から発せられた電気信号が、時速百二十キロで彼の両腕を跳ね上げる。
「おいテメエェッ!」
大封は怒号と共に、影から飛び出した。
「動くんじゃねえッ!」
手に持つ電磁銃を、その男に突きつけて。その動きに合わせてりんごも飛び出す。一瞬の出来事。
二人分の電磁銃の先には、もう一人の人間。
「おやおや」
非常用の白いライトに照らされて。
鳥取登坂が、立っていた。
「な……テメエ、鳥取!?」
彼は、上下黒のジャージに身を包んで闇に溶けていた。その顔だけが、ライトアップされて白く浮かび上がっている。
「可愛らしい鼠が二匹、紛れ込んだものです」
悠々とした動作で首を振って、彼は二人を交互に眺めた。
「貴様と話をするのは初めてですね、水火大封君」
「……テメエが、鼠小僧……」
大封は、驚きが隠せない。銃は下ろさないまま、言葉が舌の上から消えた。
どういうことだ? クラスメイトが鼠小僧?
じゃあ、あの雷鳥のマークは、本当はやはり、犯人が都立高校の生徒である事を示唆するものだったのか?
いや、待て、そもそもコイツの苗字は――
「大かた、貴様の考えている通り。俺様の父親は鳥取雷鳥、このバベルタワーのオーナーです。ああ、その前にお礼を言っておきましょう。あなたがたがセキュリティを解除してくれたおかげで、助かりました。俺様にはあのプログラムは少々難解でしたので。自力で解除することは出来なかったんですよ。しかもキッチリ順番通りに廻らなければならない、という仕掛けでしたのでね。自分一人でやるには荷が重すぎたのです」
「……礼には及ばねえぜ、このクソ鼠野郎」
登坂のその手には、カードキーが握られたままであった。大封の目がそれに固定されているのを見かねてか、彼は目を細める。
「ちなみにこれは、鏡界に保管されていたものですがね」
「……いつ手に入れたんだ。俺らが封界のセキュリティプログラムを解除したのは十一時ごろだぞ。テメエが鏡界に居たとして、それを手に入れてここに来る時間なんかねえはずだ」
「いつ? これはまた面白いことを聞きますね」
「……? どういう意味だ」
大封は自分の理解の及ばない文脈に、怒りを募らせて銃を構えなおす。
「貴様が知らないというのなら、知らないのでしょう。しかし東条りんごさん、貴様が知らないということはあり得ないはず」
「……」
りんごは黙って銃を構え続けていた。
「……まあ、言ってみれば保険ですよ。このケースが開けられないとなると、さすがに困りますから。本当は遠隔操作でもセキュリティ解除出来るのですがね、というか、そちらの方がより安全で確実だったんですが。この保管ケースには例外的に直接的解除方法も存在していたのですよ。そちらは別に凄腕ハッカーは必要ないんです。大胆に行けばそれでよかった」
「おい、どういうことだ、東条……」
体勢を崩さぬまま、大封は問いかける。
饒舌な登坂を除けば、この場の空気はピアノ線より張りつめていた。
「例えば、コンビニの陳列商品に、こんなカードキーを紛れ込ませていたり、ね」
登坂が言う。
「……土曜日、鏡界で強盗事件があったみたいだね」
りんごの言葉に、彼はは指先でカードを廻した。
「そういう保険を作るよう父に箴言したのは、まあ俺様なのですが。ふふ」
そして、禍々しく口の端を釣り上げる。
「貴様の親父の計画――テメエが知っていたのも当然というわけか」
「計画……?」
そこで初めて、登坂は表情を曇らせた。そして大封を馬鹿にするように笑う。
「ふふ、貴様は何か勘違いをしているらしい」
「……テメエの親父は、鼠小僧に盗まれる前に自分の宝石を自分で盗んだ。あたかも鼠小僧に盗まれたように仕組んで、そこの趣味の悪い石ころを守ろうとしたんだ。違うか!」
「違います」
サラリと否定されて、大封は動揺する。
「そんなことを計画できるほど、俺様の父は頭がよろしくないのですよ、残念ながら」
「じゃあどういうことなんだ!」
「……やれやれ、本当に気付いていないのですか? 貴様は」
そう言ってかぶりを振る登坂に、大封は歯をかみしめた。
「……イライラするぜ。もういい、話はおしまいだ。どうせテメエはこれから散々吐かされる。ここは痺れて、寝ちまいな」
そして、引き金に指をかける。勿論ロックは外れている、
「そうですね、そろそろ御仕舞にしましょうか、この茶番は」
その台詞の意味を考える必要はない。
大封は、自分に対してそう繰り返していた。こんな奴のペースにはめられるな。躊躇なく引き金を引け、それで終わりだ。だが、彼自身危惧していた。
『人の力ではない』
コイツは、何をしでかすかわからない。
それならなおさら、早く仕留めちまえ!
汗が額を伝って、目に入る。
よし、引くぞ。引き金を、引く。
――引き金を。
「すいか君、早くそいつから離れてええぇぇぇえぇッ!」
「ッ!?」
その叫び声は、彼の反対側から飛んできた。大封には、聞き覚えのある何処か舌足らずな悲鳴。思わず登坂から目を離し、真正面にその姿を捉える。
「胡桃ッ!? 何でテメエこんなところに!」
「そんなことはいいの! 早くそいつから離れてッ!」
離れろ? 何を馬鹿げたことを。こっちは圧倒的に優位、もう引き金を引くだけ。それだけなんだ。
全てが、彼を混乱させていた。だから、思考のフォーカスを一点に絞り込む。
離れる必要なんて何もねえ。
ぶれない。ぶれてはならない。
ただ、打ちぬく、その一点のみに。
「やはり――気付いていない、ですか」
そのターゲットは、不敵な笑みを浮かべている。だが、そんなものはハッタリに違いない。大封はそう思い込む。
思い込む。
『本当に気付いていないのですか?』
思い込む。
『やはり――気付いていない、ですか』
待て。
だが。一瞬、心に弛みが出来た。
気付いていない? わかっていないではなく、気付いて……?
違和感。違和感、違和感、違和感。
刹那のうちに、モノローグが溢れだす。
そうだ、そもそもコイツが鳥取雷鳥の息子だというのなら、そしてなおかつ鼠小僧だというのなら、計画が発動する前に予告状を送るなりなんなり出来たはずだ。なのにそれをしなかった。何故だ?
いや、そもそもその入れ知恵を仕込んだのがこの本人だとしたら、何故こんな面倒な真似をしなければならない結果を残した。そんなものはなんとでもなったはずだ。
何か、何かが抜け落ちている。
「すいか君聞いて――」
そもそも、何故今日なんだ?
前回の犯行はたった三日前、何故この短期間で守護者を動かそうと思った?
いや、まてそもそも本当に守護者にやらせたことなのか? 守護者の捜査をもってすれば、自分たちが解除させられていたプログラムが美術館のセキュリティプログラムだと知ることくらい、容易いはずじゃないのか。
爆弾も、その他も。
俺たちが偶々二人組でいろいろやっていたから気付けなかったこともあるかもしれない。だけど今回鼠小僧がやったことは、人間離れした曲芸じゃない。ただの謎かけ、ただのクイズ。それが守護者には解けねえと考えるのは、無理があるんじゃねえのか。
そうだ。
そうだよ。
「東条りんごは今ニホンに居ないの! 半年前からずっと、父親の出張で海外にいるの! だからそいつは――」
何で東条、コイツは。
今回になって、鼠小僧を捕まえようなんて気になったんだよ。今までその機会は何度でもあったはずなのに、よりによって今回。
何故だ?
「東条さんじゃないのッ!!」
大封の頭に、銃が突き付けられていた。
東条りんごの、電磁銃が。
「ちょっと遅かったね、大封君」