賭博神話ゼブライト
01.ソリッド・ステート・スティンガーズ
賭博と宗教は似ている。一度ハマったらなかなか抜け出せないところがだ。
いつ、どこの誰がその似通った性質の悪さに気づいたのか、今では誰も知らない。
その教義はたったひとつ。
「賭けよ、さすれば与えられん」
主よ、もちろんです。
一九九〇年代後半に誕生したその新興宗教は、数え切れない死者と、ごく一握りの勝者によって回転していった。
その歯車に巻き込まれた血肉を潤滑油にして。
信者はばんばん増えた。彼らは会社のオフィスで、団地の中で、学校の教室で、同胞を作り続けていった。
信者たちは表向きは勤勉に働く。だが貯蓄は許されなかった。時には生活費を維持することさえ。
保身は汚く浅ましいことであり、身をていして得るものにこそ価値がある。
働いた金はすべて博打のタネ銭なり。
なるほど実に潔い。当時その存在を知った外国人たちにそのストイックさを侍だの鬼武者だのともてはやされたのも無理はない。
のちに風清会(フォンチン会)と呼ばれ、恐れられたその勝負師集団の本拠地は表向きは山奥の娯楽施設にある。
鬱蒼とした雑木林を分け入っていくと、そこには錆びたレールと地を這う鉄蛇が骸を晒している。
回らない木馬、ライフルと的、ビリヤード台。
誰もいない遊園地。
かつて大勢の信者たちで賑わったその廃墟の入り口に、今、ひとりの男が立っている。
背は高く、その気配は亡霊のように薄い。切れ長の両眼だけが、ぎらぎらと闇夜に浮かび上がる。
首をもたげて中をひとしきり見やった彼は、腕を組んで目の前の鉄柵を睨んだ。重々しい門は侵入者を固く拒んでいる。
だが一発蹴ってやると、門はあっけなく倒れこんだ。土ぼこりが舞う。すでにレールは潰れ、立てかけてあるだけだったのだ。
もうもうと立ち込めた土煙に男は烈しく咳き込んだ。ぴぴっと唾が斑を作る。
「げほっ……がはっ……くそったれが、掃除ぐらいしておきやがれ」
ハンカチで顔をぞんざいに拭き、男は気を取り直したように紫色のコートの襟を正した。
門からまっすぐに伸びる一本の道が、天にも届く教会につながっている。
「さて、着いたはいいが――もしかして無駄足かな?」
茶色く染まったハンカチの端に、丁寧なことに男の名前が刺繍してある。
雨宮秀一。
(なるほどねぇ、表向きは娯楽施設の経営、その裏で地下賭場を仕切ってたわけか。
昼間はガキがきゃあきゃあ喚いて乗るジェットコースターも、夜は破産者を轢き殺す処刑装置、か……。ふん、血生ぐさくて落ち着くぜ)
夜の遊園地を雨宮は歩いていく。暗くはない……丸い月が明るすぎるのだ。
風清会がその歴史に最期の点を打ったのは、一月ほど前。
信者たちはその性質上、売られた喧嘩は買う主義だ。だが、たいてい彼らは胴側に回る。
胴を殺すことはできない。それが博打の本質であった。
だが、彼らは全滅したのだ。
(いや、全滅ってのは正しくねえな――たったひとり、生き残っているから)
その生き残りは、今、三人の勝負師と最後の博打に身を投じているはずだった。
わずかにでも残ったもの、そのすべてを賭けて。
木製の大きな扉の前に、雨宮は立つ。中から絶え間なく、タン、タン、と耳になじんだ音がする。思わず口元がフッ――と緩んだ。
見上げる教会の尖塔は真っ二つにへし折れ、ステンドガラスは投石を受けたようにいびつに割れていた。
扉にわずかな隙間がある。雨宮はそこに蛇のように潜り込んだ。
綺麗だった。
崩れ落ちた天井から丸い夜空が覗いている。砕け散った星の光。黄金の月。天の川は、霊魂のように白かった。
一月前、ここを訪れた三人によって、聖域は破壊されたのだろう。
そして今、トドメが刺されようとしている。
瓦礫の上に、麻雀卓があった。
そこには、四人の少女がはまっている。
三人の襲撃者と、たったひとりの生き残り。
雨宮は彼女たちに堂々と近づいていった。だが誰も彼に気づかない。少しだけ疎外感を覚える。
(雨宮――もし君が彼女らに混ざったら――)
数日前、お気に入りの安楽椅子に優雅に腰掛け、白垣真は愉快そうにいったものだ。
(君の勝つ可能性は、ゼロだ。あの面子はどいつもこいつもくせ者ぞろいの――トリプルSランクだからね)
白垣真の人を見る目を雨宮は信頼している。
だが、自分が負けるというのは納得できなかった。
それがここに来た理由。
決して。
決して殺してもらいにきたわけじゃない。
そんなこと――。
「ロン」
ばたっとひとりの少女が手を倒した。赤い修道服に包まれた白い手が、手牌を倒す。
オーラスだったのだろう、振り込んだ少女は肩をすくめただけで点棒を渡さない。
(あいつが――)雨宮は赤い修道服を眺め回した。
(――陸咲シャガ)
賭博宗教『風清会』は最も強い勝負師を神の器として崇めるカルト宗教である。
(くだらん迷妄なんぞに興味はないが――こいつは)
思わず口笛を吹きたい気分だった。
元・器候補の少女は、雨宮が想像していたよりも、あどけなかった。
シャガは四人の河に囲まれた、卓の中央に手を伸ばした。そこには異質なものが配置してあった。通常、麻雀で使用されないはずのものだ。
銀色のリボルバーの銃身に月光があたり、刃物のような輝きを跳ね返している。
レンコン型の弾倉には、不透明なカバーがはめこまれており、どこに弾丸が入っているのかはわからない。
そこにシャガは一発の弾丸を籠め、シリンダーを回転させて、手渡した。
拳銃を受け取った少女は、じっとその銃身に視線を注いでいる。
シャガがうっすらと微笑んだ。
「心配するにはあたりません――だって弾丸は」
少女が撃鉄を起こす、ガチっという音。
「三発しか入っていないのですから」
シャガの言葉が自分に向けられたものであることを、雨宮は一拍遅れて気づいた。
だが言われなくてもわかっている。
少女がこめかみに銃を持ち上げる。
ぎりぎりと引き絞られるトリガー。
どこからか、隙間風が少女の髪を揺らした。
四人の視線を一身に集めたその表情は恐ろしいほど――
楽しげだった。
撃鉄が虚空叩き、
静寂が訪れた。