賭博神話ゼブライト
【祭】
どこからかお経が聞こえてくる。
それは、和太鼓や笛、打楽器の祭囃子に混じって絶え間なく低く繰り返されている。
お祭とは神様を慰めるものだと父は言っていた。
となると今夜は。
神様でも、死んだのだろうか。
赤金黄赤橙白赤黄金黒赤黒橙黒金――。
眼に見えた色をやたら滅法数えていったらそうなった。周りは灯りと人の流れでいっぱいだ。
それに加えてわたしには一人一体の『像』まで見えるのだから、大通りは人型の樹海と化している。
背の高い大人たちの隙間を縫って私は歩く。
父とは逸れてしまった。
あのひとはこういうお祭りに不慣れだから、どこかで私を探してあたふたしているかもしれない。
おどおどする父を想像したら、なぜだかにやけてしまった。
買ってもらった白狐のお面を斜めに被って、くわえたリンゴ飴をなめていると、二人組の男の子とぶつかった。
あ、ごめん、とたたらを踏みながら私は謝る。
見るとその二人は揃って気の毒になってしまうほど目つきが悪かった。兄弟だろうか。
いこうぜ、と片方の子がいって、二人はさっさと人の森に紛れてしまった。
もうひとりが何か言いたげだったけど、結局、造られかかった言葉は飲み込まれて消えてしまったらしい。
私はお面を被りなおして、いま見たばかりの像のことを考える。
どうして翼に鎖なんかが巻かれていたのだろう。それも二頭ともだ。
やっぱり兄弟だったのかもしれない。
なんだか窮屈そうで、少し可哀想だった。
いらっしゃい、いらっしゃい、私はそんな威勢のいい呼び声に引きずられて顔をあげた。
鉢巻を巻いた口ひげのおじさんが、私に人のよさそうな笑顔を向けていた。さっきお面を買った屋台のおじさんにちょっと似ている。
――お嬢ちゃん、一回百円だよ。何か欲しいものはないかな?
何もなかった。
私は、何か形ある物が欲しいと思ったことがないんだ。
白狐のお面を被って、二つの穴からじっと見つめてくる私の目が不気味だったのか、おじさんは他の子どもたちに新たに声をかける。
子どもたちはそれぞれ名残惜しそうに百円払って、毛むくじゃらに絡み合った紐を引く。
その先にはプラモデルやゲームソフトやむやみに高価そうなジッポライターなんかに繋がっている。
けれどどの子も目当てのものを引き当てられずに、景品の乗った台から落ちるのはその辺のゴミ箱から拾ってきたようなガラクタばかり。
――ああッ、残念。惜しかったねぇ。またやってね。
ぶつくさ文句を言いながら去っていく子どもたちを私とおじさんが見送る。
――お嬢ちゃんはやらないの?
やらない、と言って私は浴衣の背を向けた。
おじさんの首筋あたりから姿を見せている毛むくじゃらの猿の像は、崩れることもなければ、輝くこともない。
そういう像を私はよく知っている。
いかさまをしている人の心は、揺れもしないし、燃えもしない。
あの猿は、そういう猿だった。
きっとあの紐はどれを引いても、大物景品には繋がっていないんだ。
景品なんか欲しくはなかったけど。
あのおじさんをやっつけられないのは、悔しかった。
垂れ下がっているところには大物の紐はないだろうけれど、きっと奥の方にはあるはず。
手を突っ込みさえすれば、運否天賦で引けるかもしれない。
その代わり、おじさんに首ねっこを掴まれてぽいっと放り出されてしまうだろうけれど。
ああ、悔しいッ、私は草履で土を蹴った。
またぶつかった。今度という今度は私だって怒る。仏の顔も三度まで、私は仏様よりも気が短いんだ。
むっと睨みつけてやると、案の定さっきの男の子はバツが悪そうにぷいっと眼を逸らした。もうひとりはいない。
ばーか、と嘲ってやると、男の子は何か言い返そうとしてごにょごにょ口を動かしたけれど、結局ため息ひとつついて、
――これ、やる。
といって何かを投げ渡してきた。
思わず胸の前で受け止めてしまう。
包んだ手を開くと、赤いサソリが出てきた。
生きていないのはすぐにわかった。像が見えない。
木にだって虫にだって魂があることを私は知っている。
そのひとつひとつが、まったく違うものだってことも。
そのサソリは髪飾りらしかった。六本の足と、鋏を構えた二本の腕、弧を描いたしっぽがちょっとかわいい。
提灯の橙色の灯りにかざすと、ぬらりと光った。
男の子は私がびっくりしてひっくり返るとでも思っていたのか、意外そうに口をすぼめた。
そしてもう一度、欲しいんならやるよ、といった。
私は断ろうと思ったんだけど、いつの間にか男の子はいなくなっていた。
またもや人の波に流されてしまったのかもしれない。
手の中のサソリはトゲトゲしていてチクチクした。
ごめんって素直に言えばいいのに。
私は紐のおじさんのところに戻ってきた。
私がお小遣いを親からせびってきたとでも勘違いしたのか、おじさんはまた笑顔になった。
胸元のがま口財布から出した百円を背伸びしておじさんに手渡す。
――さァどれでもいいよ。引いてごらん。
私は被っていたお面をあげた。顔になにかついていたのか、おじさんがぱちぱちと瞬きを繰り返した。
――ねえ、おじさん。
私はまた爪先立ちになって、おじさんに向かって顔を上げ、
んべっ。
赤いサソリの乗ったベロを突き出した。
おじさんの向こう側で、猿の顔ががばっと割れた。ぼろぼろと像を形作っていた砂がこぼれていく。
やっと造り上げたその一瞬の隙に、私は毛むくじゃらの紐の群れの中に腕を突っ込む。
その中から、これだ、と思った紐を引きずり出す。
景品台の中央に乗せられてあった、ジッポライターが紐の海から釣り上げられた。
おじさんがあっけに取られる。
どうだ! やっつけてやったぞ!
最高に気持ちがいい。
得意げに胸をそらしておじさんの前でカチャカチャ火をつけたり消したりしてみる。ちょっと油くさい。
ぬっ、とおじさんが毛むくじゃらの腕を伸ばしてきたので、背中をかすめる指から私は慌てて走って逃げた。
大人に取り押さえられたら私なんて無力だ。
周りの屋台に置いてあるものを片ッ端から投げつけてなんとか逃げ切れたけど、今度からはもうちょっと警戒しよう。
ふもとの神社の裏手から山に逃げ込んで、てっぺんの木のてっぺんまで駆け上がる。息継ぎのように枝葉から頭を出すと、もこもことした街の先に地平線が見えた。
ふもとから地平線まで続く赤い道筋は、この夏祭りの軌跡だ。
傷跡みたいだ、と私は思った。
浮き上がってしまいそうな風が吹き抜けていく――
一雨来るかもしれない。許しを請うように、私は空を仰いだ。
空には赤く燃えた月が懸かっていた。
思わず手を伸ばしてぎゅっと拳を握り締める。掴むように。
掴めた気がした。
夢のように。
ああ、誰かに伝えたい。
わかって欲しい。
この気持ちを。
この想いを――。
誰にも見られることなくこっそりと、その晩、赤いサソリが私の髪を住処にした。