視界に緑色がよぎったので顔を上げると、非常灯だった。
棒人間がやる気があるんだかないんだかわからぬ格好で駆けている。もっと本気で逃げるべきだ、と思った。
雨宮秀一は誰もいない病院の廊下でひとり、壁にもたれてくゆる紫煙を眺めていた。無軌道な灰色の陽炎はいつまで見ていても飽きない。
年寄りくせえな、と唇が苦く歪んだ。
「何をしみったれてんの、雨宮?」
対面に烈香がいた。ふう、と雨宮は白い息を吐く。
「おや、いつからいたんだ」
「三分くらい前かな。あんたが柄にもなく沈んでいるから観察してた――ああ、シャガのやつのことだけど、いま治療中だよ。持ち直すかどうかは五分五分だってさ」
ふうん、と生返事をして雨宮はぷかあ、とドーナツの輪を吐き出した。
「興味なさそうじゃない。助けようとしたのは、あんただろ」
「べつに――シマも反対しなかったしなァ」
「あいつは勝負が終わったらただの躁病患者。言動に信憑性なんかないよ」
「はっはっは、言えてらァ」
「ねえ――どうしてシャガを助けたの。あのまま放置しておけばよかったじゃない。友達じゃないんだから」
「そうだな。そうすればよかったのかもしれない」
「――ホントになんだか、今晩はあんたらしくないね。いつもの憎まれ口はどうしたの」
口調とは裏腹に烈香はさほど雨宮を心配している素振りはない。単なる暇つぶしの相手にされているのだろう。
雨宮は壁で煙草の火をいじめるように消した。
「どうだい、初めて麻雀で人を殺した感想は」
その問いは、静かな廊下を不気味な空洞に変えるほどの威力を持っていた。烈香の瞳がぎらんと光る。
「決めたのはシマだ。あたしは――満足できない、こんなんじゃ」
「いいね、そうでなくっちゃ。めそめそして白垣んとこに帰るかと思ったぜ」
「まさか」
結局、と烈香は細く小さな背を雨宮に向けた。
「こうでもしなきゃ、感じられないんだ――麻雀を打ってる、って」
「生まれてくる世界を間違えたのかもな、烈香」
「――かもしれない」
どこか寂しげなセリフを残して、十六夜烈香は狂人の道を歩いていった。
それを雨宮は、見送るばかりだ。去っていく彼女が、ひどく遠く感じる。
願わくば、彼女がいつか完全に充足できる局面が来ますように。
廊下の奥から白い人影が戻ってくるのが見えたので、雨宮は寄りかかっていた壁から背中を離した。
病院を出ると、シャガを運んできた烈香の四輪駆動車は影も形もなかった。雨宮はシマのバイクに期待していたのだが、とっくの昔に事故って廃車してしまったらしい。こいつに関わるとみんな壊れるんだな、と雨宮はどこか雄々しい戦慄を覚えた。
夏の夜を二人はとぼとぼと歩き始めた。鈴虫やら蛙やらが喧しいほどに鳴いている。それに耳を傾けているのか、躁病気質の少女は珍しく大人しかった。
その小さい背中を雨宮は追っていく。
「あの白さ――」
呟くような問いかけに、ん、とシマはあどけなく振り返った。
「いったい、どっから持ってきたんだ? まさか一筒の模様がシールになっててそいつを剥がしたってわけじゃねえだろう」
「ああ……あれ?」
口元を覆い、身体をちょっと折り曲げた。細い眉が八の字を描く。
怪訝な顔をした雨宮に差し出されたシマの掌には、一筒が乗っていた。
「これとあの白を入れ替えたんだ。山を積むときにね」
「ふうん、腹ん中ね――」雨宮はひょいと片眉を上げた。
「だけどそれじゃおかしいだろ。その一筒は一度河に打ち出されたはずだ。さくみはそれを見ていたから、安牌だと思って一筒を打ったんだからよ」
「ふっふっふ」
どこか得意げな顔をすると、シマは今度はポケットの中から一牌取り出して、雨宮に放った。
虫でも捕まえるように牌を掴んだ雨宮は、目を細めてそれを観察する。
一筒が彫ってあるのは同じだが、その裏面は――
「ハハァ、白になってるな。なんだこれ」
「えへへ」
なんてことはない手品だった。
まず、打一筒を打ち出し、それをさくみに見せる。
次の順、打牌したときに河の右端に打つ。牌が見えたときにはシャガがツモるので、視線はそちらに集中。
その隙に打牌(実際は五萬)を一筒に寄せるときに、人差し指で一筒をひっくり返す。
一筒は白になり、さくみはシャガのことしか眼中になく、一筒はタンヤオ手のシャガには高確率で安全牌。
それを討ち取る。
もうすでに入れ替えた後と見せかけて、実は種も仕掛けもその場に残っていたというわけだ。きちんと検められていればシマのチョンボになっていたであろう。
「シャガは――死なないと思ったのか?」
雨宮の問いに、誰でもわかることだと言いたげに、こくんとシマは頷いた。
「うん。四回戦、弾丸が出るならさくみしかいないと思った」
「勘か。それでわざわざ霞野を飛ばしたのか。だが、霞野がオーラス、三順で国士でも張ったらどうするつもりだったんだ? 振ればおまえが沈むんだぜ」
確率的には論じるまでもなく低い話だ。けれど完全にありえない展開ではない。
「そのときは――」
「黙って引き鉄を引けばいい」
「けっ、それだけのこと、ってわけか。大層潔いことで」
「えへへ。でも――たぶん、わたしは正しくないんだと思うよ。あそこでシャガを飛ばしておくべきなのは間違いない」
「ほう、おまえでもそんな風に思うことがあるのか」
「うん、わたしのやり方が、他の人にとっても正しいわけじゃないからね」
ふうん、自分の異常さってやつに鈍感なわけじゃないのか――雨宮はじっとシマを見つめ、隙を窺う戦士のごとき顔つきになった。
「ずいぶんご立派な勘だが――ホントにそうか」
「何が?」
「さくみは勝負師としては完成形だった」
夜を透かすようにして雨宮は喋った。
「それに比べてシャガは運と勘だけで打っているだけで、まだまだ甘い。おまえらの中じゃ一番下っ端だったろう」
おまえは、と続ける雨宮を、シマは面白そうに見つめて返す。
「これから先、いまよりもっと強くなって自分に反逆してくる可能性は、シャガの方が高いと思ったんだ。烈香もそうだな、まだ成長過程にある。完成していたのは、やっぱりさくみだけだ」
「だから?」
「おまえはさくみが邪魔になったんだ。だから、勝負を長引かせてまでさくみを討った――」
ちらりと顔色を窺うと、五秒前となんら変わっていない。
「勝負は勝負。そんな余計なこと考えながら打ってなかった。それだけは本当」
「じゃあ無意識だ」
「ちょいちょいちょい、話がトンデモな方向にいってるよ?」
「いいんだよ、おまえが一番トンデモじゃねえか」
「君に言われたくないなぁ」眼を細めてシマは雨宮を見上げる。
「ずいぶん心変わりをしたくせに」
「俺が? 冗談だろ、俺はいつだって俺のままだ」
「似てきたよ」
「誰に」
「天馬に」
一瞬、二の句が継げなくなった雨宮だったが、すぐに舌打ちして調子を取り戻した。
「馬鹿言うな」
「おっ? なんか文句ある?」
「当たり前だ。俺があいつに似てるんじゃねえ」
「じゃあなんなの?」
「あいつが俺の真似をしてるんだよ」
微笑ましいね、とからかうシマに勝てる気が、雨宮には起こらなかった。
「そんなことより、雨宮!」
くるりと身を翻し、シマはかつての敵の顔を下から覗き込んだ。
「君さ、いったいぜんたいこんなド田舎まで何しに来たの?」
「怪獣大決戦を特等席で見たくって」雨宮はすっとぼけた。
「あんまりふざけてるとね、火吐くからね、火!」
「へへへ、怖ェなァ。――まァ用事ってほどでもないんだがね、ほらよ」
ぴらっと差し出された紙片をシマに差し出す。
「何コレ」
「新婚旅行のチケットさ」
シマは笑わなかった。
真剣な眼差しで、上海行のチケットを見つめている。目を凝らせばそこに雨宮の真意が浮かび上がってくるかのように。
「何まじめになってんだ。冗談に決まってんだろ」
「あ――そっか、そうだよね。うん、知ってた知ってた」
「ホントかよ」
「それで?」話題を先に進めたいのか、シマは少し早口になっている。
「上海にいって何するの? あ、カニ? カニかな?」
「カニ味噌ならおまえの頭の中に詰まってるよ」
「ひどっ!」大きな眼を潤ませて頭を抱える仕草は子どもと変わらない。
まったく演技なんだか本気なんだかわからんやつよ――悪魔的なほどに。雨宮は苦く微笑んだ。
「何、おまえも知ってるだろうが、いま世界中で麻雀が大流行してる。タチの悪ィ疫病みてえにな。いわば麻雀病患者が巷にウヨウヨしてらァ。これを逃す手があるか? そんなもったいねえことは俺にはできねえね」
なあ、と雨宮はシマの首に一本腕を絡めた。
シマはくすぐったそうにもがいた。
「いつまでもこんな島国にしがみついてるこたァねえよ。おまえなら言葉なんぞ通じなくったって平気だろう」
街灯の丸い証明の下で、二人の距離は限りなく零に近かった。
「いこうぜ、シマ。撃鉄を叩きによ。弾丸は、そうあるべきなんだ」
その誘いに、シマは間髪も悩まなかった。
「いこっか、世界」
「ふふふ、おまえならきっとそう言ってくれると思っていたぜ。
ところで――やり残したことがあるんじゃないか?」
「え?」
「いいことを教えてやるよ――」
嗜虐的な笑みを浮かべて、雨宮は囁いた。尖った鼻のすぐ下に、不思議そうに小首をかしげるシマの顔がある。
それはちょっとした仕返し、だったのかもしれない。