Neetel Inside ニートノベル
表紙

短編(フジサワ)
後悔しない生き方を選べなかった。

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後悔しない生き方を選べなかった。


 悔しいことを悔しいと感じなくなったら。
 悲しいことを悲しいと感じなくなったら。
 楽しいことを楽しいと感じなくなったら。
 それは疲労からくるものだ。身体か、精神、あるいは両方の。
 死のうと思う。でも死ねない。わたしが今死ねば、もう一つの命が失われる。
 疲れた、もう疲れた。死にたい、死ねない。
 この子は、わたしの命を繋ぎとめている、重い重い、鎖だ。


 産んでしまったのはおろすお金がなかったからだ。それだけだ。
 わたしだってスーパーのパート勤めで決して貯金が百万とかあるわけではない。毎日がギリギリだった。それなのにあの人はお金を入れてくれなかった。食費さえも。
 そっちは立派な会社に勤めて、収入も良かったんでしょう(あの人は結局最後まで年収を教えてくれなかった。同棲していたのに)。何度、心の中で問いかけたことか。
 あの人は性欲の強い人で、どんなに遅く帰ってきても毎日必ず求めてきた。初めの頃は毎回顔に出された。顔に出すのは止めて。目に入ったら失明するかもしれないから。そう言うと舌打ちしていた。次からは避妊をしない人になった。それでもずいぶんマシになったと思った。わたしの言うことを聞いてくれて嬉しいとさえ思ったし、それも愛情なんだろうと思っていた。能天気に。実に見事な思い込みだった。
 愛情なんてなかった。あるのなら、妊娠した時点で男らしい決断を下してくれるはずだと思う。そもそも愛情があるのなら毎回中に出さないはずだ。自分だけが満足して、終わった途端着替えて外へ飲みに行くようなことはしないはずだ。今思えば、あれは外に女がいたのだ。底なしだから、性欲が。
 あの人の半径三メートル以内限定で震度八の大地震が起きればいいと、ある日の事後にふと思った。いつものように外に出て行ったあの人は、もう二度と戻ってはこなかった。


 勘違い、思い違いに彩られてきた人生だった。
 十六歳の頃、つまらなかった中学を卒業して、ようやく高校生になれたと思ったら、高校は中学以上につまらなくて、わたしはもうどうしようもないと悟った。街を歩いていたら怪しい男に声をかけられた。男の話はたぶん都合のいい嘘なんだろうと思ったけれど、まあ、このままつまらない日常などと呼びたくもない日常が続くくらいなら、いっそ落とし穴にでも落ちてやろうかという気分だったので応じた。
 それは笑ってしまうくらい見事な落とし穴だった。目の前に穴があるとわかっているのに落ちてしまう。まるでどこかの芸人のようだと思って、少しおかしかった。
 金で身体を売るというのはありふれているという認識ではあったけれど、いざ自分の身を売り物にしてみると、さすがにありふれたものとは捉えられなかった。最初の頃は実に無難に商売をしていた。客の金でラブホテルに入り、客と一緒にシャワーを浴びて、キスをしたり手で扱いたり。手で発射させれば七千円で、口で受け止めれば一万三千円。だいぶ上前をはねられて、そのとおりの金額を得られたわけではなかったけれど、高校一年生が稼ぎ出す金額としては十分すぎるほどだったと今でも思う。少なくとも、スーパーでレジを叩いてるよりはよほど時間効率がいい。それは間違いない。入れさせたことも何度かあった。ゴム有りで二万円、生で三万五千円。中出しで五万円。
 楽しいとは思わなかった。お金を手に入れても本やCDくらいしか買わなかった。ただ、興奮した。いけないことをしているのだと。相手の体温が上がっていく感覚。ちょっと喘いでみせることで相手を意のままに操る優越感。相手は単純でバカな猿だと思った。
 惜しむらくは、その程度のことでつまらない日常を抜け出したと勘違い、思い違いしていた当時の自分があまりに子供すぎたということだろうか。
 すっかり慣れて油断した頃に、先に風呂を上がった客に生徒手帳を写メ撮影されて、学校にバラされてアウトだった。慣れとは本当に恐ろしいものだ、と心底教えられた。それからは慣れた作業でも慎重に行うようになった。何事にも。
 元々親との折り合いは悪かった。貯金だけは貯まっていたので、逡巡もせず家を出てアパートを借りた。そのときも、ワクワクしていた。
 アパートを借りて間もなく、時給六百八十円のスーパーでレジ打ちを始めた。立ちっぱなしで疲れるし、その割に実入りも悪いし、ロクなものではないことはわかっていた。それでも、もうあの怪しい男と連絡を取ろうとは思わなかった。あれは自分の立ち位置がわからないからこそ成立した遊びだった。わたしはもう退屈ではなかった。
 半年経って、店の閉店間際にいつもいるサラリーマンと仲良くなっていた。あの人は素人目にも立派だと思えるスーツやネクタイをしていた。会計のとき取り出す財布やスーツの袖から覗く腕時計も高そうだった。財布はいつも分厚かった。そんな人が毎日のようにこんな大衆店に現れるのが不思議でならなかった。買い物はいつも決まってビール一缶だけ。
 独り暮らしだと思った。
「ビール、もう一缶買いませんか」
 レジ打ちを始めてちょうど二百日目にそう言ってみた。あの人はさすがに頭の回転が速かった――。


 まもなく十九歳、子持ち。高校中退。
 ああ、これはダメだ。
 今ではパートさえクビになった。高校中退の女が父親のない子を産む。わたしが責任者であったとしても、間違いなく同じ選択をする。その自信だけはあふれ出るほどにある。
 元々少なくなっていた貯金は、出産費用が止めとなった。家賃三万八千円のアパートから、一万二千円の風呂台所トイレ共同の幽霊屋敷に越した。荷物は大方処分したがほとんど二束三文にしかならなかった。
 貯金がもう本当に全くなくなるまでに、なんとかしなければならない。それはわかっている。だけど身体も頭も動かない。
 この子がいるから。
 託児所のあるバイト先? 思いつかない。そんなもの、あるのだろうか。
 今さら実家には戻れない。十六で出て行った馬鹿娘が三年後、父親のない子を連れて戻ってきた――無理だ、とても無理だ。そんなありふれた筋書きに自分を貶めたくはない。
 あの人がどこにいるかは、もうわからない。
 人に頼ろうとしてはいけないんだ。自分の力で生きていかなければ。この子を育てなくては。
 でも、どうやって? こんなにやつれていては、風俗店でも雇ってくれるかどうか。ただでさえ今は不景気で、来るもの拒まずかどうかもわからない。なにもわからない。わたしにはなにもわからない。
 もうわからない。なにもかもわからない。わからない、わからない。
 死ねないのは悲しいね、ね? わたしは自分が産んだ赤ん坊のとても小さな鼻のあたりを見た。目を合わせるのはまだ怖かった。
 ダメかもしれないけど、風俗店をさがしてみる。なんとかできるかわからないけど、さがしてみるから。


 本を読んでいるだけで、CDを聴いているだけで、日々を過ごせていた時代があった。そんなときは、きっともうわたしには訪れない。でも、この世はそれで正解だ。
 後悔しない生き方を選べなかった。ごめんなさい。

       

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