ニーノベ三題噺企画会場
お題②/鉛の傘/ムラムラオ
「教授!」
黒い雨が振り続けていた、今からそんな遠くない時代のこと。
ある大学キャンパスの外で、僕は尊敬する人に声を掛けた。
「――なにかしら? 藤田君」
彼女は白い白衣に身を包み、周りの景色に溶け込んでしまいそうな、黒い長髪をなびかせている。
風は弱い。
けれど、そんなことは関係ない。
鉛色に光る傘を無邪気に回す教授に、僕は二階の研究室から訴える。
「危険です! 放射能が体の組織を破壊してしまいます!」
隣国の発展途上国で、原子力発電所が相次いで爆発炎上したのはもう一週間前のことだった。
日毎に勢いを増す各局ニュース番組は、当初事故であると報じていたものの、結局その国の急進派のテロだということに落ち着いている。
だが、そんなことはどうでもいい。
こうして黒い雨が連日振り続けている、今この現状に対処することが第一だ。
原因理由を突き止めたところで、時間は巻き戻らない。
そして、この国でも既に幾千の人間が死の床に伏してしまった。
自体は切迫している。
非常に。
「違うのよ、これは実験なの」
「……実験?」
「そう、そして懺悔でもあるの」
「意味がわかりません。早く研究室に戻ってください、天原教授」
数年前に発表した論文が世界に認められ、30代で若くして原子力研究の権威となった彼女がなぜこんなことをしているのか。
僕には理解が出来なかった。
「大丈夫。この傘をさしていれば人体への影響は抑えられるわ」
鉛を薄く伸ばして表面に貼った傘に、一体何の効果を期待出来るというのだろう。
僕は教授の狂言に近い言葉に失望し、愕然と肩を落としながら、わめいた。
「自分が何をしているのか分かってるんですか!?」
「えぇ。これは私の運命なのよ」
僕がその言葉に噛み付こうとするのを抑えるように、彼女は続ける。
「私の曽祖父は――――マンハッタン計画に加わっていた研究者の一人だったわ。もちろん、歴史の教科書に載ってるような有名人ではないどね。戦後日本にやって来て、そしてこの地に住み着いたの」
教授がこの辺りに住んでいるというのは既に知っていた。自転車でここに通っているからだ。顔立ちがどこか日本人離れしているのにはそんな理由があったのか、と納得もできる。だが、それを今ここで僕に伝えてどうしろというのか。
僕が黙り込んでいることをいいことに、教授はさらに続ける。
「私がその話を聞いたのは、丁度小学校を卒業する頃だったわね。それからは勉強の日々だったわ。なにせ、尊敬していたはずのひいおじいさんが人類史上最悪な殺戮兵器の一つ、原子爆弾の開発に加わっていたんですもの。失望したわ。憎んだわ。それで、そんな爆弾が最悪にならないように――――無効化出来るようなモノを作るのが私の使命だと確信したのよ」
教授の論文は放射能が人体に与える影響を緩和する物質について書かれたものだ。
僕はそれを何度も熟読している。
なるほど、そんな背景があったとは。
「…………」
だが、もうそんなことはどうでもいいじゃないか。
こうしている間にも、僕が教授を見下ろす窓枠にいたカタツムリが力無く落ちていく。
病院に入り切らなくなった患者さんが、大学の構内に設置されたベッドでうめいている。
今は、そんな昔話をしている場合じゃない。
「教授、そういう理由で今回の事件に関してそこで懺悔をしているのなら、それは非常に無益なことです。むしろ、あなたを失ったことで全人類が大きな損失を被るでしょう。早く戻ってきてください」
「いいえ、無益ではないわ」
教授は鉛の傘を少しどけて、僕を真下から見上げた。
エキゾチックで大きな瞳に捉えられ、僕は少しドキリとしてしまう。
そして、こんな綺麗で美しい人を失いたくないと、文学的なセンスの欠片もない言葉で頭を埋め尽くす。
こんな時に、僕は一体何を考えているんだ。
性欲なんて、何も生み出さないというのに。
夜の夢に出てくる、白衣の膨らみから目測できた教授の裸体が僕を刺激的に満たしたこともあった。
僕は、最低な学生だ。
「私の研究は、もう殆ど終わっているのよ。あとは人体実験だけ。でも、その実験は人の命を欲するわ。だから、私はいつまでも研究を最終段階へと移行させられなかった。けれど、今回の出来事で決心がついたのよ」
言って、教授はニコリと笑った。
僕は、もう頭が真っ白になっていた。
ピンク色に染まっていた脳髄が、一気に漂白された気分である。
「藤田君、頼んだわよ」
「何を……」
「私が死んだら解剖しなさい。私の机に全ての研究資料が入っているわ。私の体を細胞の一つ一つに到るまで調べつくして、研究を完成させなさい」
「何を言ってるんですか!?」
理性が理解出来ていても、感性が理解を阻んでいる。
「あなたにだから、頼めるのよ」
教授は僕に軽くウィンクした。
「あなたには大分お世話になったわ。それによく働いてくれたわ。ありがとう」
顔が赤く染まっていくのを、僕は痛切に体感していた。
喜ぶべきところなのだろうが、喜べない。
悲しむべきところだが、悲しめない。
もう少し彼女を早く発見しておけば、と僕は自らを責める。
今から行っても、もう命は助からない可能性が高い。
それに、助けることが正しいのだろうか。
わからない。
どうしていいのか、わからない。
突然、教授が倒れた。
「教授!」
僕は悪態をついて階段を降りていく。
――――結局、僕は教授の命令を守ることにした。
それが、僕にとっての彼女への愛情だと思ったから。