教室の窓の外は灰色で、梅雨の雨が穏やかに最盛を極めている。
教室には誰もいない。ぼくと桜田のふたりきりで、雨天の薄暗さの中、照明も消されたままである。
今年は梅雨入りが遅く、気まぐれな天気予報士に騙されて、折角持ってきた傘を何度かただの荷物として持ち帰った。その予報士がすっかり狼少年扱いされだしたころ、下校時刻にタイミングよく鉄砲雨が降り、置き傘も持参の傘もない、ぼくと桜田は教室に取り残されていた。ふたりきりの空間で、先に声をかけたのは桜田の方だった。
「相良くん、きみって女子にそこそこ人気あるって知ってた? 案外競争率高かったりするんだよ」
そこそことか、案外とか、端々の言葉に引っかかるものを感じはしたが、その信憑性についてはぼく自身はどうでもいい気持ちであった。しかしそれを言うならば、まるっきり桜田のほうがその評判どおりなのである。彼女は窓の向こうをぼんやり眺めていることが多く、あまり連れ合いをつくらない珍しいタイプの女子であるが、喋るところころと表情は変化し、なにしろ笑顔が好評である。隠れファンが水面下にたくさんいる。
「なんか、反応薄いなあ。……って、私? え、そうなんだ」
桜田は困ったような驚いたような、照れたような嬉しいような表情をつくった。彼女のはにかんだ笑顔は、窓枠で仕切ると展覧会の絵のようである。
「わ、私のことはいいよ。相良くんは、そういうの、興味ないほう?」
興味がないというか、色恋沙汰にはぴんと来ないのだ。誰か紹介してやろうかともよく言われるが、相手を無理矢理好きにならなきゃいけないみたいでどうも億劫だ。それを断ると奇人扱いである。好きになる相手くらい自分で選ばせろとつくづく思う。ぼくにとって好きという感情は終着点で、ぼく以外のひとたちはそれが全ての始まりなのだろう。
「うーん。大体の女子は少女漫画――いや、ケータイ小説なりテレビドラマなりを見て、それっぽい理想を持っちゃうし。彼氏はステータスだから、見栄とかもあるだろうしね。男子はやっぱヤンキー漫画を読んで、なんていうんだろ、組織的な連帯感に憧れちゃうんじゃないかな。先輩後輩、それ含みの男女関係、みたいな?」
ごっこだよ、と桜田は言い切った。
「国語のテストみたいなものじゃないかな。こう書いておけばマルもらえる、こんなことをしたら私は恋をしてる、そうやって恋愛ごっこ。私や相良くんは、それに違和感を持った。そんなこと思ってません、だから僕は別の答えを書きます。――それで結局、不正解って言われちゃう」
どうしてもタバコを吸ってみたい中学生のように、どうしても恋がしたい高校生は世に溢れんばかりである。恋に恋して、彼らは恋愛の事実があれば満足なのだ。ぼくに言わせればそういうことになるが、それもまた恋愛の側面であるのは間違いないだろう。恋は人それぞれである。画一化しようとする奴が悪いのだ。
「相良君も、分析魔だね。私と一緒だ」
窓の外の雨は決して土砂降りというほどではない。ただ、街は見渡す限り雨模様である。しとしと降る雨は遠くから響き、近くから跳ね返り、大変な規模である。ぼくたちの耳にはざあざあと優しい砂嵐の音として聞こえてくる。
「雨は好きだな。……っていうより、雨音が、かな。なんかさ、優しいじゃない。時間がゆっくり流れてるみたいで」
雨に降られるのはヤだけどね。と言って、桜田は笑ってみせた。
ぼくも桜田も、帰ろうと思えばどうとでもして帰れたのに、雨宿りにかこつけて本当は一緒にいたいだけかもしれなかった。そのうちに顔もわからないくらいに真っ暗になり、雨音も随分静かになったから、話はそこでお開きとなった。
ぼくたちは途中まで一緒に帰ることにした。やはり、昇降口の傘立てには二、三本のぼろっちい傘が、持ち主とはぐれたまま放置されていた。
「恋人のふり、してみよっか」
桜田はそう言って、傘を取らずに外に駆け出た。ぼくは慌てて、適当に放置傘を引っこ抜くと彼女のあとを追い、それを広げて彼女が雨に濡れないよう差し出した。
「ほら、相合傘」
桜田は髪を揺らし、小首を傾げてぼくを見上げる。表情にはにっこりと笑みを湛えて、ぼくは何と言っていいかわからなくなった。
黒っぽい褪せた色の傘は、骨が少々錆付いていて、細かい埃がぱらぱらと舞って降りてくる。
〈おわり〉