夕闇が丘駅から徒歩五分のところにある通りに、ビフレストという喫茶店がある。
北欧神話における虹の橋の名前を冠したその店は、隣の美容院と書店に挟まれる形であまり目立たない位置にぽつんと建っていたが、落ち着いた雰囲気から物静かな学生や営業回りに疲れた会社員にとても重宝されていた。
十歳年下の妻に逃げられ、それを機に半ば自棄になって脱サラしたマスターは男手一つで店を切り盛りし、ゆくゆくはひとり娘に店を任せよう、なんていう勝手な夢を描いていたが、まァもらってやってもいいかなと門鐘真理は思っている。
同年代の友人たちの部屋と比べても整理整頓されていると自負する自室で、マリはベッドに転がって漫画を読んでいた。
ちっとも面白くない。時計を見た。午前零時。
店はとうに閉まり父は隣の部屋でぐっすり眠りこけているだろうが、彼女は一日を終えるために電気を消す気にはなれなかった。
漫画を棚に戻して、布団を被ってみるが、すぐに起き上がってうろうろとピンク色のカーペットの上を右往左往するばかりである。
(どこ行っちゃったんだろう。今日は帰ってこないのかな)
知り合ってからまだ日は浅いが、勝手にいなくなることは今までなかった。
メールを送っても返事はない。
脳裏に先のホームレスバラバラ殺人事件が浮かび上がった。頭を振って不安を消そうと試みるが、かえって嫌な汗をかいてしまった。
そうしてとうとう、鏡の前に座ってポニーテールを結び直し、様子を見にいくことに決めたのだった。うだうだ悩んでいるよりはいい。
学校指定のダッフルコートを羽織って慌しく階段を降りると、示し合わせたかのように店の入り口が開き、件の門鐘家に巣食う居候がぬっと顔を出した。
「ミルナ!」
ミルナと呼ばれた金髪の少女は重そうに背中に背負った誰かを担ぎなおしながら、「よっ」と手を上げた。
マリはととと、と駆け寄ってミルナの頭をぽかりと叩いた。
「心配したでしょ、馬鹿」
「痛いなーもう。ごめんって。それより背中の人はスルーなわけ?」
ちら、とマリはミルナに背負われたウインドブレーカーの中身を見、はっと息を呑んだ。
金色の猿は、荒い呼吸のまま今は瞳を閉じている。
「お猿さんを拾ってきたよ」ミルナは笑った。「道に落ちてたんだ」
マリは腕を組んで、深くため息をついた。
「戻してきなさい」
「えー……」
ミルナがどうしてもと愚図るので、マリは渋々猿を部屋に上げた。
マリの部屋の隣は、元々は誰も使っていない八畳の和室だったのだが、今は居候のミルナが占拠している。
二人で協力して猿をミルナの布団に寝かすと、じわ……とシーツに血が滲んだ。
ミルナは学ランを脱いで、その背中を広げて見た。それも真っ赤になっている。
「ひどい…tね」とマリは呟いた。「あちこち切り刻まれてる」
「うん、よっぽど強いやつに出遭ってしまったのだろうね。合掌」
チーン、手を合わせるミルナ。
「もしかして例の……」
とマリが言いかけた時、猿が呻き声を上げたので、二人は揃ってその顔を覗きこんだ。
猿の瞳がうっすらと開いていき、赤い目が露になった。二人を見て、瞼を激しく瞬いた。
「マリ……姉?」
その声を聞いて、マリの顔が血を吸われたように青ざめた。事情がわからないミルナは小首を傾げている。
「その声……もしかして、師走なの」
「師走?」とミルナ。
「ほら、私が毎日、朝ごはん作りにいってる家の」
「ああ」とミルナはにやけた。「マリたんの旦那のことですな」
「違うから」とマリはミルナを一刀両断してから続けた。
「クリスの弟の空木師走。どうして、こんな……」
マリはひどく痛ましそうに猿の頬に触れた。
「やられ……たんだ……」と師走は微かな声で呟いた。
「やられたって、誰に?」
「殺人鬼に……」
マリには見えない角度で、ミルナがうっすらと微笑を浮かべた。
「マリ姉……びっくりさせちゃってごめん……僕……」
と猿は苦しげに身もだえした。
「いいから黙ってて。その姿のことは、なんとなくわかってるから」
「え……」
安心させるように、マリは猿の毛を撫でた。
「ずっと隠していたんでしょう。心配しないで。――私もだから」
「私も……って」
マリは立ち上がると押入れの中からプラスチックのケースを取り出した。小学生の子どもなら入れそうな大きさだ。
その中には色彩鮮やかな衣服が多数仕舞われていて、彼女はその中から何枚かのマフラーを取り出した。
毛糸で編まれた暖かそうなそれらを、師走の身体にぐるぐると巻いていき、終えるとよし、と一仕事済ませたような顔をした。
何がよしなの? と猿に顔を向けられ、ミルナは得意そうに語った。
「マリの能力ってのはね、手のひらから糸を出すことなんだ。すごいんだって、伸びたり縮んだりくっついたり切ったり、なんでもござれ」
「切ったり?」と師走。
「うむ、それで今から君を楽にあいてっ」
「だから、ミルナは変なこと言わないの」とマリが眼鏡のつるを指で押し上げながらお調子者の居候を小突いた。
「そういうこともできるけど、私の糸は編んで身に着けると、どうしてかわからないけど、身体にいいみたいなの。傷口とかに当てると治りがよくなったり。
あ、もう変身を解いても平気だと思う」
言われたとおりに人の身体に戻してみると、なるほど確かに即死しない。
ようやく師走は、張り詰めていた緊張をいくらかほぐした。
「ねぇ師走、一体何があったの? どうして殺人鬼に?」
「話すよ。話すけど……その前に聞きたいことがある」
「何?」
「そいつ、誰?」と師走は顎で彼女を示した。いつの間にか、壁にもたれて煙草をくわえている。
少女の吐く紫煙が中空に揺らめいている。
「架々藤未流那です。職業は、いまんとこ命の恩人」
真正面から見つめられて、師走はもじもじと顔を背けた。
<顎ノート>
ビフレストとはなんかの神話の虹の橋のこと。
虹の女神をIrisっていうってwikipedia先生が言ってた!
マリって結局読者の同情引くためにいたキャラだから思い入れ薄いんだなー。
俺は話じゃなくって人が書きたいんだって再認識した回。
「なに人生が悲しい? うるせえ黙ってとっとと死んどけ邪魔だゴルァ!」がシマウマクオリティだったことを思い出したわ。
闘わざるもの生きるべからず。哀れまれたいなど言語道断甚だしい。
ミルナのセリフはほぼシマと同じですが語尾とかがチラチラ変わってたりする。
緑の目って碧眼って書いていいのかな? 青と緑って古語だとごっちゃになってたりするから面倒です。
唐突にマリの能力が出てきましたが、この小説の肝(だと思っていたもの)は「設定が設定じゃないこと」だったのでスゲー唐突だったりします。何言ってんだかわかんねーね。
要するに超能力みたいなの持ってるんだけど、それがどこから来て何が目的なのかわからない、みたいな。
スタンドだったら弓と矢とか隕石とかルーツあるじゃないすか。そのルーツがまったくないことがテーマみたいな?
ない頭を使っちゃダメだね。