それから――。鳥谷と貫己の二人はろくに口を利くこともなく、どこがギクシャクした空気のまま、しかし準決勝を突破した。貫己の苦悩の一つや二つ、今の清陽には関係無いというように、能見はノーヒットノーランで北区地区前年度優勝の北辰を捩じ伏せていた。
「整列!!」
――青空の下、グラウンドに並ぶ選手達。長身の雛形が小柄の貫己を見下ろす形で、両キャプテンの目が合った。
「よろしく」
貫己は擦れるほどの小さな声で、雛形の差し出した右手に応えた。
(これが雛形かぁ)
能見は……自身の正面にいる男などには興味を示さず、雛形ただ一人を観察していた。能見は野球を始めて以来、自分より上の人間に会ったことがない。周囲が自分と同等、もしくは自分より上と称する雛形に対して、意識過剰なほどに強い興味を抱いていた。
「…………」
能見が後ろを振り返ると、明らかに今までとは違う人種がネット裏に潜んでいるのが視界に映る。たかだか中学軟式の地区予選に、熱視線を送る高校野球関係者達。
(こいつら……雛形を見に来てんのかなあ。こいつらの目の前で圧勝したら、気持ち良いだろうなあ)
不純な動機混じりに、体のテンションが最高潮に達する能見。血が体中を駆け巡り、ジンジンと張りつめた痛みが両腕を走る。
「それでは、清陽中学校と美香保中学校の試合を始めます! 礼!!」
雲一つない青空に球児達の大声が駆けて消えて、北区地区予選決勝戦の幕が開けた。
先攻 札幌美香保中学校
中 高橋 章吾(.372)
三 木村 一哉(.339)
投 雛形 翔太郎(.488)
捕 青田 健一(.392)
遊 内田 友作(.421)
左 藤山 誠也(.288)
一 谷坂 慶介(.301)
右 藤井 敦(.229)
二 杉村 貴志(.289)
後攻 札幌清陽中学校
右 田上 圭一(.397)
遊 上本 貫己(.000)
投 能見 忠(.672)
捕 原口 史也(.443)
中 白仁田 和博(.416)
一 狩野 正樹(.238)
右 岩田 俊(.375)
左 浅井 秀介(.216)
二 柴田 元(.286)
(ワクワクするね)
能見自身、自分の体が過剰に興奮していることを感じていた。心を落ち着かせるように、スパイクでマウンドを均し続ける。
「プレイ!」
審判の右手が上がり、能見は興奮気味のままピッチャーズプレートに右足をかけた。
(やべ……、楽しみすぎる)
落ち着こうとしている為か、いつもよりもゆっくりとした挙動で大きく両手を振りかぶる。
(……こんな試合、初めてだ)
胸の鼓動が高鳴るのが聞こえる。喉が渇いてゴクリと鳴る。能見は初めて味わう感覚を体一杯に感じながら、その右腕を振り抜いた。
(今日は、誰にも打たせたくねえ!)
能見の渾身の一投は、打者にバットを振らせることなく原口のミットを唸らせた。
「ストラーイク!!」
「!!」
ネット裏、美香保ベンチ、グラウンド周りの観戦者。波のようにざわめきが起こり、その中心で能見は興奮からくる体の痺れが落ち着いていくのを感じた。試合の中で放った全力投球が、能見に平静を取り戻させていた。
「ナイスボール!」
原口のそれは心からの本音だ。マックスに近い球速が程良い荒れでコースを突き、原口の左手をまだ痺れさせている。
(でも、今のは駄目だった)
今の一球に納得していないのはグラウンドの中で唯一人、能見だけ。
(……何が駄目なのか分かんねえけど、今のは良くなかった)
まともなピッチング指導を受けたことのない能見は、球の「キレ」という概念をしっかりとは理解していない。ただ、体が緊張した状態で遮二無二放った今の一球が「棒球」であり、自分の「良い球」とは違うということを誰よりも理解していた。
(緊張してたのが悪かったのかな)
左手で右手の肘を三回揉んだ。一回、二回と肘をほぐす度に、また張りつめていた自分の腕が和らいでゆくのを感じている。
――もちろん、今の一球がキレのない棒球であったことは打者の高橋も気付いていない。ただその球速に驚き慌てふためいているだけである。
(……くそ、初球から振るって決めてたのに)
振ると決めていたのに、体が動かなかった。高橋は、自分ではこの投手――少なくとも、この打席の間には到底太刀打ち出来ないだろうと思い知らされた。考えもまとまらない内に、二球目がミットを貫く。
「よし」
今度は紛れもない、能見の最高のストレートであった。一球目に感じた違和感を、その直後に修正できた。
(……ヤバイ。今日良い感じだ)
能見は初回をあっさりと三者凡退に仕上げ、観客の注目を一身に浴びながらマウンドを引き上げた。
「ナイスピッチ!」
歓迎されながらベンチに入る能見。監督が興奮気味に能見の肩を叩く。
「今日、多分調子良いから。お前らはさっさと点とってくれや」
「お、おう!!」
能見の快投もあって最高に盛り上がる清陽ベンチ。決勝戦にして、とりあえずは出来すぎたスタートである。
(でも……)
鳥谷は微塵も楽観視できなかった。今日は、能見が完封しても勝てるかどうかは分からない。
父母陣の歓声を浴びながら、ゆっくりとマウンドに上がる美香保中の大エース。
「さ、行くよ」
雛形翔太郎の投球練習。その一挙一動を観察する清陽の選手達。能見の凄さは重々理解していても、一目見ただけでその「完成度」の違いが分かる。恐らくは研究し調整しつくしたのであろうピッチングフォーム、まったく淀みなく行われる動作。
(逆に、こんなひっどい未完成の状態で雛形くんと張り合う能見も凄いと言えるかもしれないけど……)
「プレイ!」
球審の発声と共に投球動作に入る雛形に、能見のような興奮は見られない。
雛形がその右腕を奮うと、白球は田上をあざ笑うかのように捕手のミットを高々と鳴らした。
「――安原さん!? 来てたんですか!?」
「おー。お前も来たのか」
グラウンドを囲うように整えられている芝生の上で、二人の男性が腰を下ろした。
「いやあ、そりゃもう。雛形君と能見君の話は入ってきてますから。中学軟式とはいえ、見逃すわけにはいきませんよ」
「ふーん。……お前はどっちが目当てだ?」
安原と呼ばれる男は煙草を一本取り出し火をつけた。
「んー、能見はまだ情報が少なすぎますからね。とりあえず今日の試合を見てみますけど。まあ個人的には能見のようなピッチャーが好きなんで……」
空を仰いで吐いた煙は綺麗な輪っかを形作って、そしてすぐに消えてゆく。
「……この前、谷坂君が来てたぞ」
「えっ。谷坂って、慶一君ですか!?」
「ああ、彼の弟が美香保の野球部なんだ。今試合に出てる」
そう言って安原はファーストベースのあたりを指さした。
――谷坂 慶一。名門花弁和歌山高校の元主将であり、昨年夏に甲子園出場を果たしている。
甲子園の歴史に名を刻んだと言われる花弁和歌山の強力打線は、しかしその投手陣の弱さを嘆きながら準々決勝で姿を消した。
「谷坂君が弟の試合を見ながら、こう言っていたよ」
――もしあの雛形ってのがウチにいたら、甲子園の歴史は変わってましたよ。
「ストライーク、バッターアウト!!」
アウトカウントは、何事もなく積み重なってゆく。田上、上本、そして能見の三人が三者連続三振に倒れてイニングを終えた。
「す、凄い……」
若い男がごくりと息をのむ。
「こんな投げ合い、なかなか拝めるもんじゃねえ。……この試合、どうなるか分かんねえぞ」