泡沫の剣 憧憬の天地
プロローグ
”リーナ、こんな話を知ってるかしら?”
「なぁに? おかあさま」
”私達は皆、夢を見るでしょう?”
「うん、わたし、きょうもみたよ!」
”そうなの。……実はね、あなたが見たその「夢」。それは、何も私達、人間だけが見ている訳じゃないのよ”
「えっ!? それじゃあ、ウサギさんやネコさんも、ゆめをみるの?」
”そうね、色んな動物さん達も夢を見るわ。でも、私達以外に見るのが動物さん達だけでもないの”
「うーん……どういうこと?」
”この世界に存在する物全てが、夢を見ることが出来っていうお話”
「むずかしくってよくわかんない……」
”フフッ、そうね、まだリーナには早かったかしら? でも、この言葉を覚えておいて。いつか、あなたの役に立つときが来るかもしれないから”
「うん?」
”「自らの夢に辿り着き、自らを知った者は、自らの夢を知る」”
日暮れには少し早い時間。
水面に写る、色は白く触れれば溶けそうな肌色。整った目鼻立ち。少しだけ高潮し、赤く染まった頬。綺麗なオレンジ色をした髪。
その顔立ちは、水の流れによって何度も何度も崩れるが、水面が静かになった瞬間、誰もが振り向いてしまう麗しき少女の姿が再び写る。
時折、小鳥のさえずりが聞こえるほどの、静かな森の中に流れている川岸で、少女は膝を抱えて川を覗き込んでいる。
何も考えていないような、川岸の涼しさや周辺の穏やかさに身を任せているような表情で。
彼女は水面に写っている自らの顔に、自身の右手から今も零れている赤い滴を一粒落とした。
透明な世界に落とされたひどく目立ってしまうはずの赤色は、あっけなく川の流れにかき消され、その存在をなかったことにされてしまう。
掌から零れているその滴は、よく見ると少女の口からも溢れていた。
端正な顔立ちに似合わない仕草で、不躾に、手の甲だけを覆っているグローブでその赤を拭き取る。
しかし、それではまた手に赤が広がってしまう。
先程と同じように、少女は水面に向かって右手の指先を垂らす……。
「おい! 何してんだ!」
少女がその声に振り向くと、両手で枝を大量に抱えた少年が息を切らしながら、そして顔を少し憤らせながら立っていた。
その姿は、先程の少女が男からそう見られるのであれば、女からすれば彼もそう見られるであろう。
少女に負けず劣らず、男として整っている顔立ちである。程よく引き締まった筋肉に暑苦しさは感じさせない。
あまりゴツゴツしていない甲冑を全身に纏っている。
腰には、ロングソードと盾が掲げられていた。
未だに赤色が消えきっていない、少女の小さな唇が開く。
「何って、見ての通りよ」
そっけなく応える。
少年はその場に枝を落とした。枝同士がぶつかり合い、その静かな空間に似合わぬ少しだけ耳につく音を立てる。
耳障りだな、と彼女は落とされた枝を見て顔をしかめる。
少年は腰に手を当て、こちらに詰め寄ってきた。
「見ての通り、ねぇ……。さて、お前が今何かしていたその手の真下、一体何がある?」
少女は全く不愉快な質問をされたといわんばかりに頬を膨らませ
「川」
と、またそっけない返事。
少年は段々と苛立ちが募っているようで、さらに詰め寄っていく。
「そんな大雑把なことを言って欲しかったわけじゃねぇよ。じゃあわかるように言ってやろうか。明らかに川岸の一部を石で囲っている部分があるよな? お前はそこにそうやって滴を落として遊んでいた」
そう言った直後、一気に少女の元へ詰め寄り、右腕を掴んだ。そして、先程から赤い滴が垂れている掌を無理矢理開かせ
「この食べてる途中のトマトのな」
少女は掴まれた腕を無理矢理引き戻し、あっちへ行け、という仕草をする。
「いいじゃんか、これくらい。待ってる間ヒマだったの。それと、真っ赤に汚したくないだけ。汚れるのが嫌いなのは知ってるでしょ?」
少年はさっきの息切れを一気に終わらせるように、大きな溜息を吐いた。
「あのな……そこが本当にただの川岸だったら問題ねぇんだ。ただ、そりゃ明らかに生簀だろ? んで、お前だって見てたろ? 俺が釣った魚を入れてたの」
その言葉を聞いて、少女はゆっくりと立ち上がる。
立ち上がった仕草につられ、セミロングほどの長さの綺麗な髪がなびく。急所や肩などが鉄で覆われいる他は、主に革でできている鎧を身にまとっている。
太股の半分ほど上から、足の付け根までの部分のみは、動きやすさを重視してか素足のままだ。しかしその部分の前方も、胴鎧から庇う様上半分を覆う、鉄製の下散(げさん)で防げてはいる。
彼女はその背に、自身の身長ほどもある大きな両手剣、ツバイハンダー型の剣を背負っていた。
「わーかったわよ、もうしない。これでいいでしょ?」
そう言って、右手の中に残っていたトマトを口の中へ押し込んだ。
少年はその様子を見て、肩を落とし、さっき落とした薪代わりの枝を拾いながらブツブツ言い始めた。
「全く……毎度毎度。リーナ、お前のその態度は何なんだ? ちゃんと本気で反省してないだろうが。いつまでお姫様気分でいるんだよ。お前って奴は何でこう」
「ちょっと! お姫様気分ってどういうことよ!?」
「言った通りの意味だろうが。いつまで高飛車でいるんだ、って言ってるわけだ。いっつも、リンゴ食べたいリンゴ食べたいって、言うのはいいけど探すのはもうちょい粘ってくれ。それに……」
そこまで聞いて、リーナと呼ばれたその少女は背中に背負っている両手剣を抜いた。
鞘は特別製である。本来まともに両手剣を抜こうとすると、背中に背負っているとなれば相当な苦労だ。
しかしリーナの鞘は、剣の柄を掴み鞘の入り口部分を支点にし、傾けて少し力を込めれば片側が開き、剣が抜ける仕組みになっている。
「だったら! アタシも! 言わせてもらいますけどねぇ……!」
片手で抜いたツバイハンダーを地面に叩きつけ、鉄が川岸の疎らな大きさの砂を散らす音を立てつつ少年の方へ近づく。
その音にギョッとした少年が振り返ると、不敵な怒り笑いを浮かべたリーナが片手でツバイハンダーを引き摺りながら寄ってきていた。
「あ、いや、ま、待」
「別に! たかが! トマトの果汁落としたって! 生簀の中の魚は死んだりしないでしょうが!」
そう叫びながらリーナはさらに一歩近づく。
少年は気づいた。触れてはいけない言い方だった、と。
「すまん、今のは俺が悪かった! でもお前だって俺が魚大好きなことは知って」
「そのうざったい魚への愛情! 扱い方! アタシに押し付けるんじゃないわよ! しかもどうせ今から食べるでしょうが!」
慌てて謝るも、時既に遅し。リーナの歩みは止まらない。少年は後ずさりしながら拾い直していた薪をまた落とした。
「そりゃ大事な食料がダメになっちゃうってんならアタシだってやらないわよ。でもね、別にどうもならないでしょ!? それとも何!? アンタの知ってる川魚はトマトの果汁で死ぬの!? その魚バカじゃないの!?」
怒りがどんどんと沸き始めていることから、リーナの言っている事もおかしくなりつつあるが、おかまいなしに歩みを進める。
「そんなに魚が大事ってんなら! マルクス、アンタが魚のエサになっときなさい! よっぽど貢献できるってもんよ!」
そう言い捨て、マルクスと呼んだ少年の元へ一気に駆け寄った。そして、両手で剣を持ち上げ、上半身と腰を使い体重を乗せて、マルクスのいる場所へ振り下ろす。
空を切るツバイハンダー。勢いは緩むことなく地面へ思いっきり降り注がれる。突如響いた轟音に、周辺の木々で羽を休めていた小鳥達が一斉に飛び去った。
砂が舞い上がり、一瞬リーナの視界を奪う。が、リーナにとってはこの程度どうということはない。
その場にいたはずのマルクスはおらず、リーナが素早く視線を巡らすと少し遠くにマルクスはいた。その手には、さっきまでは腰に掲げているだけであったロングソードが右手に握られている。反対の手には、小さな盾。
「悪かった! 本当に俺が悪かったから、剣をしまえ! 飯食おうぜ、な!?」
「トマトじゃなくてリンゴが食べたあああああああああい!」
謎の咆哮を上げ、リーナはマルクスへまた一直線に飛び込んだ。
かのように見えたが、さっきの様に剣を持ち上げる真似はせず、冷静にマルクスとの間合いを計算して、しかし勢いはあまり緩めずに距離を詰める。
向かってくるリーナに対し、「ちぃ!」と舌打ちしたマルクスは刺突を繰り出す。ロングソードの長さを活かすため腕を目一杯伸ばし、ツバイハンダーの長さにも負けぬように。
だが、リーナはこれをも冷静に処理する。急停止し、伸びてきたロングソードの下に自らのツバイハンダーを突っ込み、剣の刃ではなく面を上にして、空へ自らの剣を掲げるような仕草で思いっきり持ち上げる。
その瞬間、鉄同士がぶつかる甲高い音がした。そして、マルクスが握っていたロングソードは無情にも宙を舞う。
「あ」
そうマルクスが言った瞬間、リーナの怒りで真っ赤に染まった顔が迫っていた。
次の瞬間、痛みが走ったと同時にリーナ、マルクス両者の視界に真っ白な火花が散る。リーナによる勢いに任せた頭突き。
2人はお互いの真後ろ方向へと倒れこんだ。と同時に、宙を舞っていたマルクスのロングソードが小気味良い音を立て、川岸に突き刺さる。
「「いったぁー」」
同時に言ってしまった。
2人とも上半身だけ起こす。そして
「お前な!」
「アンタね!」
またも同時に。
しばらく睨み合っていた2人だが、何だか今のお互いの行動にバカらしくなり、そのまま笑いあう。
ひとしきり笑って、リーナが呟く。
「マルクス、そのまんまじゃアイツに勝てないわよ」
マルクスは額を擦りながら片膝を起こした。
「だな……」
身軽い動作で体を起こしたリーナは、倒れても握ったまま放していなかった両手剣を鞘へ仕舞う。
そのままホルダーを外し、作ってあった簡易の野営地の一角へ剣を降ろす。
先程マルクスが落とした薪を拾い集め、これまた作っていた簡単な囲炉裏の中に置いた。予め木の葉は集めてある。
その様子を見て、マルクスも慌てて立ち上がり、生簀内にいる川魚を取り出しにかかった。
「火はどこにある? あとついでにリンゴ探してきて」
言いながら、リーナは勝手にマルクスの鞄を探る。
「またそれか。リンゴは散々探したけどこの辺にはなかっただろ……って! 勝手に人の鞄漁るなよ!」
「あったあった」
「聞いちゃいねぇ!」
リーナは鞄から取り出したその赤色の鉱石を、先程の囲炉裏の中へと投げ込む。
数秒と経たない内に木の葉の間から、音が、煙が上がり、そして燃え始めた。
「何度見ても不思議なもんだね」
火の付き始めた囲炉裏の前で、マルクスにぎりぎり聞こえる声でそう呟く。
「だな、特定の精霊の力を集めやすい鉱石を地面に置くだけで、こうやって自然と火が焚ける」
魚を新鮮な内にしめて、さらに秘密の下ごしらえをして持ってきたマルクスがそう言いながらリーナとは反対側に座る。
薪用とは別に持ってきていた枝に魚を通し、囲炉裏の周りに並べていった。
「魔鉱石」と呼ばれる、特殊な鉱石。
それぞれの魔鉱石に集まりやすい精霊の力があり、それらは地面に置くことでその力を発揮する。
これら魔鉱石は、全てそれぞれの精霊神が眠っているとされる鉱山でのみ得ることが出来る。
採掘された鉱石は、その鉱山内であれば地面に落としたりしても力は発揮されない。
頻繁に使用したり、長い間使っているとその内力を発揮することがなくなる。
精霊神はそれぞれ、炎神、水神、風神、氷神、地神の五神。
各々の山周辺は頻繁に地殻変動が起こり、決して人は住めないが鉱石が掘れなくなる事態にはまず陥らず、さらに採掘作業中は絶対に地殻変動は起こらないという、まさに聖域のような神のごとき山々。
多くの国々や地域で、一般家庭でごく普通に魔鉱石は用いられている。
五神はあくまで神話、逸話の世界から出ていないが、信仰している者は多い。
「この魔鉱石使ってアイツ倒せないかな」
木の枝が爆ぜる音を聞きつつリーナがまた呟く。
「アイツは純粋に剣が強かったじゃねぇか。それにこんな小細工なんぞ通用しそうもねぇな」
それを聞いて、「そっか、そうだよね」と呟き、自身の髪の色よりも明るいオレンジ色に燃える炎を見つめ黙り込む。
「……リンゴないの?」
「またかよ、何度目だ。諦めて魚とトマトを食え。お前だって好きなもの押し通そうとするんじゃない」
「ちぇー、マルクスのケチ」
「はいはい、俺が調理した魚の美味さに毎回おかわりするほどだろうが。それで我慢して、リンゴはまた今度な」
駄々を捏ねながら、リーナは先程一角に置いた両手剣を鞘に入れたまま引き寄せる。抱きしめるように、慈しむように、寄り添うように。
傾いてきた夕日に照らされた2人の影は、どこか憂いを帯びていて、しかし力強く、色濃く川岸へ伸びる。
2人がこうして野営を張り、旅をしている理由。
それは、とある1人の男を倒すため。
少女はその姿に魅了され、少年は膝を屈した。
数年前起こった出来事。そう、3年ほど前の話。