リボルヴァ⇔エフェクト>
第二十話 餞別の音色は蜂の巣色
「カツミたち、いまのあんたの顔見たらびっくりするだろうね。やせ衰えちゃってまァ、大の男が恥ずかしくないわけ?」
おれは空咳をしつこいぐらいに繰り返してから、にっと笑ったみせた。うまくできたかどうかは、鏡がないのでわからなかったが。
「てめえのぽんぽんも似合いだぜ。元から鼻の穴がでけえんじゃねえのか。詰め物に気づかなかったよ、白い鼻くそかと思った」
我ながら下品でセンスのない啖呵だが意識がもうろうとしているのでご容赦願おう。
それに、この傲岸不遜な隣人は、おれの言葉なんて聞きはしないし、その心になにかが届くこともないだろう。
いま、首にかけているヘッドフォンだけが、こいつの心を閉ざしているわけではないのだ。
たっぷりとおれの醜態を目に焼き付けるだけの時間を置いて、リカがポケットから音楽端末を取り出し、檻のなかに放ってきた。
あやうくその軌道が糞桶へ半円を描きかかったので、おれは慌ててそれを空中で掴んだ。
どいつもこいつも、とことんおれが嫌いらしいな。
「そんなに睨まないでよ。ちょっとした冗談じゃん。ねえ?」
「おまえの冗談は笑えねえ。もっとよく練りこんでから出直して来い」
「ふふん? じゃ、次はもうちょっと粋な計らいをしようかな。覚えてたらね……」
リカがすっと、白い指先でおれの手元を示した。
にたにたしながら指すもんだから、なんだか示された音楽端末を通り過ごして腹の中がしくしく痛んできた。
「で、おれに何を聞けっていうんだ。潮騒か? 木々のざわめきか? 生憎だが、そんなもので癒されるような繊細な神経はしちゃいねえ」
「へえ」リカは面白そうにひとつ頷いた。「いい読みしてるじゃん」
だろ、と不敵に笑ってみせたが、いつものように軽口の反撃が喉の奥から湧き上がってこない。
「環境音楽ってのは合ってるよ。あんたを励ましたいっていうのも、まァ、本当かな」
「どうだかな。おまえは、人を心配したり、助けようってタイプじゃあねえだろう」
リカは答えない。ただ、にやにやしている。仮面みたいな笑い方。
「わかるんだよ。おれとおまえはよく似てる、と思う」
「クロにしては、自信のない言い方だね……。でも、やっぱりあんたもそう思ってたんだ。あたしの片思いかと思ってたよ」
これほど身の毛のよだつ告白を受けた試しはない。おれとやつの関係性を抜きにしても、それはぞっとするブラックジョークだった。
片思いだって? ふざけてる。
「ふふ……あたしは面白ければなんでもいいんだ。あの連中はこの状況に怯えてるだけ……」
リカはぐっと檻に顔を寄せて、おれの顔を間近から覗き込んできた。
「それじゃあ、なんのためにこんな目に遭ってるのか、わからない。楽しまなくっちゃ。そうでしょう? あんたも、そう思ってるんでしょう?」
おれは答えなかった。が、リカはそれで十分満足したようだ。
やつにとっては、次に言う自分のセリフが、おれに与える衝撃だけが楽しみだったのだろう。
「風止美衣子が、あんたの世界で生きてることはわかってる」
おれは、やはり、いつかのように硬直した。他に何もできなかった。万引きを見つかったガキのような気分がした。
リカが小首を傾げる。長いなめらかな黒髪がさらさらと流れる。作り物みたいに、その動きには無駄がない。
「安心していいよ。カツミたちには言ってない……言うわけない、こんな面白いこと」
「てめえ……」
「わかるよ。わからないのは、みんな、あんたのことを粗野でがさつで心のないやつだと思ってるから。あたしは違う。人間にはいいも悪いも糞もないってことを知ってる……だから、みんなが死人の噂話をしてるとき、あんたが普段よりも無口なことに気づいた」
おれの隣人は、思っていたよりも離れた場所からやってきたらしい。
そんな些細な兆候、このおれ自身、気づいていなかったことだ。
おれは改めてこの隣人に戦慄を覚えた。
リカは続ける。
「あんたが、自分の世界を<テレビ>で見られるのを嫌がるようになったのも風止がうちらの世界で死んでから……恥ずかしがるようなタマでもないくせにね。あたしからすれば、気づかない方がどうかしてる。あんたは、自分のことはいくらでもあけっぴろげにできる。心臓だって生のままで他人にさらせる。
でも他人を庇うとか、守るとか、そういったことに関しては笑っちゃうほど、なすすべを知らない……風止のこと隠そうとしてるあんたは、なかなかカッコよかったよ?」
「プロファイリング気取りか。てめえ何様のつもりだ。おれはおまえが思ってるほど簡単な構造しちゃいねえぞ」
「だろうね」
素直にリカは頷いた。その態度は敬虔でさえあった。
それが逆に、より不気味さをかもし出していると、気づいているのかいないのか。
「あたしはべつに何者でもない……でも、自分のこの推理には結構自信があってね。ちいちゃな意地なのに、なんでか譲れなかったりもする。
どう? あたし何か間違ったこと言ってる? なにもかも、あたしの真夏の日差しにやられた妄想?」
「ああ」
おれは真摯といってもいい声音を出せたと思う。
「さっきから恥ずかしいことくっちゃべってるが、なにがなんだかわからんね。風止はもう死んでる」
「そうだね」
リカは笑った。
「あんたの世界で生きてはいても、風止が六分の五死んでるのは間違いない」
おれは、咄嗟に言葉を返せなかった。
ただ、拙い言い訳を論破されたガキのように、すねた目でリカを睨むしかなかった。
罵倒されるよりも屈辱極まる。
「ふふふ」
リカは背中を向けた。黒髪がリカの振り向いた軌道をなぞる。
「応援してるよ、クロ。その環境音楽はあたしからの餞別……ここから先は推理じゃなくて予想だけど、あんたはもうすぐ戻れなくなる。どうしようもできないことが、あんたに降りかかって絶望させる。誰が、どうして。あたしはそれを考えてる。わかってもいる。でも、あたしは動かない。風止が生きているのは、あんたの世界で、あたしの世界じゃないからね」
こんなことなら、あたしも風止と友達になってみたかったよ。
特段残念そうでもなく、さらっとそう言い残してリカは立ち去った。
あとには、そこにいままで誰かがいたという目に見えない気配の残滓と、おれの手に握られた音楽端末だけが残った。
おれはイヤホンを耳に突っ込んで、再生ボタンを押した。
それは、音楽じゃなかった。
録音だ。
ざわめきが、遠のいては近づいてくる……。
ザザッ
『――――っと溝口、触んないでよ』
一ノ瀬の声。おれの世界のやつよりもきつめで、聡志の世界のやつよりも気が小さそうなバランス。
それに答える溝口の声はだいぶ違っていた。
『ふっ、ふひっ、さわっ、触るとかねーし! へ、へ、変態じゃんそれ! ふふっ。か、肩にゴミがついてただけ』
おれは、だいぶ昔に六人で交わした、お互いの世界の特徴を思い出した。それは記憶の箱の隅っこの方に引っかかっていたが、なんとか拾い上げることに成功した。
リカの世界の溝口は、おれの世界の溝口よりも体重が二倍あるのだ。
『ほんとかよ』一ノ瀬の嫌そうな声。『それに、その外見だけで十分に変態だっつの』
『あっあっあっ! い、いまいまいま! 人を見た目で判断した! いーけないんだーいけないんだーせーんせーにいってやろーブヂュッ』
『あーあ』初めてリカの声。『殴った方が手が汚れるのに。一ノ瀬バカだね』
『ハッ! しまった、あたしとしたことが……うわぁちょっともうなにこれコールタールみたいなのついたんですけど……』
汗を超えて油を流しているとは、溝口恐るべし。どんな生物だ。ヘドロ出身か?
おれは狭い檻のなかでひとり寂しく笑んでしまうのを抑えられなかった。
ガタガタっとなにかを引きずるような音がして、溝口の声がまた戻ってきた。倒れた椅子を立て直したのかもしれない。
『ひ、ひひ、ざまあみろ一ノ瀬ざまあみろ。お、お、おれに触ると溝口菌がおまえを体内から侵して殺すぞ。もう逃げられないぞ。絶対逃げられないあーあやっちゃったな。やっちゃった。ばーかブデョッバッ』
二連撃の音がして、溝口は静かになった。
この世界の一ノ瀬は柔道ではなく空手を親父から習っているのだ。溝口の肉厚でなければ耐えられないだろう、どんな外見なのか見たことはないが、おれの脳のキャンバスに、既知の溝口がみるみる膨らんで、ちょっとあばた顔になったやつが描かれた。おれの妄想力はリアリティを重視するので、それほど実物との間に差はないだろう。リカの世界の一ノ瀬の顔を想像しようとしたが、いくらやっても蒼葉の顔がだぶって失敗した。
蒼葉め、やつさえわけのわからぬ衝動に駆られて奇行に走らなければ、おれはこんなところにはいなかったものを。実世界に戻ったら八つ当たりしてやる。
そう固く誓ったが、ちゃんと覚えていられる自信はあまりない。