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真珠湾攻撃と日米開戦/(星評価なし)

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1.米国では真珠湾攻撃をテロとして人的被害を重視する 
日本から見た真珠湾攻撃では、海軍編成や作戦行動、戦果、兵器の紹介に関心が向いている。それ以前の「支那事変」では,敵の中国軍に大型艦艇がほとんどなく,大海戦も全く起きなかった。真珠湾攻撃は,40年近く前の東郷平八郎提督の「日本海海戦」の大勝利と対比される。真珠湾攻撃を主導した山本五十六大将や戦後,参議院にも転進した源田實参謀は有名である。しかし,真珠湾攻撃で死んだ軍人は,特殊潜航艇の乗員(軍神)以外、今も当時も話題にならない。

他方、米国では「卑怯な騙まし討ち」の犠牲者2300名、その失われた人命に最大限の敬意を払う。真珠湾攻撃における米国人の死傷者は,犠牲者というよりは,英雄の扱いである。敵に殺害されても英雄として尊敬する理由は,卑怯な騙まし討ちに「立ち向かった」からである。正々堂々とした闘いでは,負けるはずがない。強い米兵は,平和のオリーブの枝を差し出している日本を信じた。それを日本は騙まし討ちした---。このように思い込んでいる人たちは,「宣戦布告は手違いで遅れた」「大東亜戦争は自衛戦争だ」など言い訳を述べる日本人を相手にしない。

しかし、米国の視点では、艦船・航空機の損害とともに、人的損害、すなわち死傷者を重視している。現在の戦争・テロでも、航空機、戦車が撃破されることよりも、人的損害のほうが気になる。火器やトラックが撃破されても、たいしたことではないが,人命が失われたり,一人でも人質になれば,政治的,経済的に大問題である。補充可能な兵器,物資の損失は,話題にならない。迫撃砲が1発打ち込まれただけで大騒ぎするのは,「地球より重い人命」に関わるからである。

ただし,尊重される人命と軽視される人命があるのは確かである。イラク人は5000名以上亡くなるよことりも,米国人400名が命を失ったほうが気になるのが,米国政府であり,日本政府である。医療費,葬式費用,賠償額,保険金,遺族年金からみても,命の価値は,一人当たり所得という市場価値に比例している。

真珠湾攻撃の日米の人員被害・艦艇被害一覧からみると、日本海軍航空隊の空襲は,爆撃と魚雷攻撃[雷撃]によって、戦艦5隻撃沈など撃破12隻以上の大戦果を上げている。さらに,敵国の軍人2300 名以上を殺傷できた。米国に与えた人的被害は,死傷者(死亡と重傷者の合計)3500名である。日本では敵兵を多数殺傷したことを戦果とは認識していないようだ。しかし,米国では物的被害以上に、人的被害を重視し,人命を奪った日本人を憎悪した。

日本軍は、「空母は打ちもらしたが、戦艦ほか多数を撃沈し、米国太平洋艦隊を壊滅に追い込んだ----」として奇襲成功を高く評価している。しかし、このような真珠湾攻撃の戦果の評価は、日米で全く相対するものである。この違いは、失った人命に関する考え方の差異である。なにしろ,日本海軍は,開戦劈頭から特殊潜航艇による「特別攻撃」を実施していたのであるから。(帰艦を準備したというが,その訓練もなく,搭乗員は生還を期していなかった)

戦争全体の枠組みで,戦艦8隻を撃沈破した大戦果よりも,欧州大戦に中立を貫いてきた米国に参戦を決意させたという点が,戦争により大きな影響を与えた。たしかに,日本海軍の奇襲攻撃は大胆な作戦で,戦術的には高い評価ができる。しかし,真珠湾攻撃は,中立国だった米国の工業力,兵力を戦争に参加させたという点で,日本の大失敗と評価されている。

それまで,米国は,孤立主義の立場で,ポーランド,フランス,英国を攻撃したドイツにすら宣戦布告していない。しかし,真珠湾テロ攻撃は,米国議会に,対日宣戦布告を決意させた。そして,米国政府が,国民と資源・工業力を大規模に動員することを可能にした。真珠湾攻撃の意味としては,この米国の戦争動員が開始されたことが最も重要であろう。

日本海軍は,真珠湾の浅い海面でも,雷撃機が投下した魚雷が海底にぶつからないように,木製の衝撃吸収版を考案した。米国は,真珠湾の水深が浅いので,雷撃は不可能であると考えていたようだ。また,水平爆撃用の800kg徹甲弾も,戦艦「長門」級の40センチ砲弾を改造した優秀なものだった。それを,高空から命中させるだけの熟練搭乗員が育成されていた。ハワイまでの航路を,敵に見つからないように秘密裏に航行できた秘匿技術も航海術もすばらしい。

しかし,日本軍の真珠湾攻撃が,ホノルルを爆撃せず、民間人・一般市民を標的にしていなかったとして,武士道に沿ったように主張しても,米国では相手にされない。真珠湾攻撃と現代のテロ9.11事件とは全く異なる主張しても,一笑されてしまう。このような米国での真珠湾攻撃の評価が生まれた理由,背景こそが,日本人にとって検討に値するのではないだろうか。

真珠湾の第一の意義は,(植民地ではなく)米本土の民間人80名以上を死傷させ、軍人も合わせて3500名もの死傷者を出したことで,これをもって「卑怯なテロ」という(米国による)判定が下る。突然の卑怯な奇襲によって,2300名以上の命を奪った。民間人の乗った乗用車も銃撃して,米国人3名を殺害した。日本軍が民間人を標的にしていないと主張しても,(米国では)詭弁による言い逃れとしか思われず,かえって日本人への不信感を増してゆく。
真珠湾攻撃の死者の半分(1177人)は、戦艦アリゾナの撃沈に伴うもので「軍艦沈没」による。しかし、米国では,戦争を進めるためにも,民間人も含めて多数の人命を奪った「卑怯なテロ行為」として日本を非難し,反日プロパガンダを展開して,米国人の日本への敵愾心を高めることに成功した。

テロには報復せよ,として,米国の連邦議会では,真珠湾攻撃の翌日,1941年12月8日に,日本への宣戦布告が反対僅か1票で可決される。1937年 12月,日本軍が中国の首都南京を占領しても,米国議会は対日宣戦布告をしない。1939年9月以降,ドイツがポーランド侵攻,フランス占領,英国無差別爆撃をしても,米国議会は対独宣戦布告しない。米国の駆逐艦が,ドイツ潜水艦に雷撃されても,米国議会は宣戦布告しない。
しかし,真珠湾攻撃を受けると,その翌日,米国はためらうことなく対日参戦した。反日プロパガン流に言えば,「野獣には話し合いは通用しない」「米国人を殺害しに来たテロリストは殲滅するにかぎる」。

真珠湾攻撃から1週間たつと,日本は攻撃が大戦果を挙げたと,メディアで大々的に宣伝する。その中で,ハワイ攻撃を立案した連合艦隊司令長官山本五十六大将が,英雄として評価される。山本大将は,1919-23年ハーバード大学に学び,1925-28年駐米日本大使館付武官米国。知米派と見られていた。1939年の連合艦隊司令長官に就任する前から,日独伊三国軍事同盟に反対しており,日本軍の中でも空軍力をもっとも重視した将軍であった。また,日米開戦にも懸念を表明するなど,日本海軍の英雄,日本の逸材という評価も得ている。米国から見みても,巧妙なハワイ攻撃作戦を立案,実施した山本大将は,軍人,戦術家として高く評価する人もいる。しかし,真珠湾攻撃によって米軍に大損害を与えた山本五十六大将は,米国からは「先制テロ攻撃の首謀者」である。この「屈辱の日」の恨みを晴らすためにも,殺害なければならない。米軍陸軍航空隊が,1943年に山本大将暗殺に成功する。

     


2.真珠湾「騙まし討ち」に勇敢に戦った米国の犠牲者・生存者は,現在でも英雄として扱われている。

米国では真珠湾攻撃の生存者を、敗残兵とは見なさない。勇敢に反撃したこと、大火災に立ち向かい懸命に消火活動をしたこと,転覆した艦内に閉じ込められたり、炎に包まれたりしてる戦友を命がけで救出した戦友愛を高く評価している。彼らを、真珠湾の英雄として扱い、真珠湾の生存者は,今でも記念式典でのスピーチに最大級の英雄として迎えられる。

戦艦「アリゾナ」の残骸は、1962年から国家記念物・記念館「アリゾナ・メモリアル」として運営・管理されている。「アリゾナ・メモリアル」の年間訪問者は140万人で、うち70%が米国人である。訪問者は事前に真珠湾攻撃に関するビデオを見させられてから、モーター・ランチ(小型舟艇)で戦艦の残骸に巡礼する。日本の旅行社は,日本人団体観光客をほとんど連れて行かないようだ。この事前ビデオでは,ハワイ作戦という軍事的要素よりも,日本の中国侵略,偽りの日米交渉といった主張を強く感じる。

「アリゾナ・メモリアル」は、海底に沈んだままの鋼鉄の残骸自体であるが、その上には、真っ白なプラットホームが据え付けられている。海上に出ているのは、砲塔の基部(バーヘッド)だけで、艦橋、砲身などは撤去されている。沈んでいる残骸と遺体が、神殿のような聖地として見なされる。ここに集う人々とその雰囲気のなかで、プラットホームで唾を吐くことは、とてもできない。

国家記念物「アリゾナ・メモリアル」では、戦死者は無駄に命を落としたのではなく、任務を全うした英雄として、立派な石版に氏名が刻印され、尊敬、追悼されている。そればかりではない。1,177 Officers and Men were lost with the ship and remain on duty inside her rusting hulk.「1177名の将兵が船とともに沈んだが,残された船体で彼らは英霊として義務(任務)を果たしている」といわれる。

米国には、靖国神社のような神殿はないが、無名戦死の墓や戦死者記念碑は、星条旗とならんで、人命とその自由意志を表彰している。戦艦「アリゾナ」の残骸からなるアリゾナ・メモリアルも、まさに同じ戦争記念碑である。
対照的に,後日、ミッドウェー海戦で大敗した日本海軍は,帰還した兵士を、敗残者と見なし,隔離し,直ちに戦地に追いやった。地下鉄サリン事件で,サリンを撤去して亡くなった鉄道職員を「犠牲者」とみる日本と,ツインタワー崩壊で死亡した消防士を「英雄」とみる米国の大きな溝が,そこに厳然と横たわっている。

9.11テロは、真珠湾攻撃よりも遥かに効果的(攻撃側の被害と費用は小さい)で、テロの有効性を示した(ようにいわれる)。しかし、真珠湾攻撃と同じく、反米や中立にであった国やその国民まで、(不本意ながらの場合でも)反テロに動員することを可能にさせた。イスラム教への親近感やアラブ諸国への寛容の心も、不平等への不満に理解を示す気持ちも(残念なことに)冷え切ってしまった。

世界貿易センタービル(ツインタワー)は二機の旅客機の激突で崩壊したが、機内でテロを防ごうとした乗員や乗客も,消火活動・人命救助活動に従事した消防士たちも、死んで英雄として扱われた。決して無駄死にではない。その点で、真珠湾攻撃と同じ「人命」「英雄」の認識が、9.11テロにも当てはまる。

     


3.第二次大戦に中立を維持してきた米国の参戦を促すため,ルーズベルト大統領,英国,中国,ソ連は,米国連邦議会が対日・対独宣戦布告することを望んだ。そのために,米英は,日本,ドイツへの経済制裁,侵略非難,強圧的な要求を繰り返した。これは,大西洋憲章にみるように,日本,ドイツの非難によって,その先制攻撃や対米宣戦布告を挑発したようにもみえる。

1937年7月の日中全面戦争以来,米国は日本の中国侵略を非難しているが,1939年7月に日米通商条約を廃棄した。1941年3月には米国は武器貸与法を成立させ,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とされた。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が認められた。そして,1941年7月末-8月初頭に,米国は日本資産を凍結し,日本の在米不動産・親友資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出も禁止する。そして,9月末に,対日鉄屑輸出を禁止する。

他方,1941年8月9-13日には,米英の政府と軍の高官による大西洋会談が,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)のハリファックス近くのニューファウンドランド島沖で開催された。そして,1941年8月14日,ルーズベルト大統領と英国首相チャーチルは,大西洋憲章(Atlantic Charter)を米巡洋艦オーガスタ艦上から世界に公表した。この米英共同声明は,領土不拡大,国境維持,反ナチス・ドイツの立場で,次のように謳われている。

1941年8月の米英首脳による大西洋憲章の内容
第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。

大西洋会談のために,英国戦艦「プリンスオブウェールズ」に乗艦して英国首相チャーチルは,カナダにやってきたが,これはドイツ戦艦「ビスマルク」 Bismarckを撃沈した光栄ある艦による演出であり,会談への熱意の表れである。大西洋会談では,米国の対独,対日戦争が,米英軍の高官も交えて話し合われている。まさに,共同謀議による戦争計画とも受け取れる。つまり,大西洋憲章は,米英の軍の最高司令官が集まり,事実上,米英同盟を宣言したものである。米国が,英国の側に立って,対ドイツ,対日本に宣戦布告をする前段階と推測された。まさに,米英の共同謀議による戦争計画とも解釈できる

こうして,米国大統領ルーズベルトが,日本に対する一方的な経済制裁を強化しつつ,英国側にたって,第二次大戦に参戦する希望を抱いていることは,誰の目にも明らかになった。特に,日本は,艦隊を動かすにも,海外から資源を輸入する船舶を動かすためにも,石油は不可欠である。そして,石油は米国からの輸入に70%以上を頼っていたから,米国からの石油輸入が途絶えては,もはや国力の維持も不可能であると考えられる。

米国は,日本に対して強硬な経済制裁を行い,「ハル・ノート」によって,(満州を除く)中国からの日本軍の(期限の定めのない)撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を要求した。「ハル・ノート」が手交された時点で,日本は米国との和平交渉を諦め,開戦を決意した。近衛内閣の時期,1941年9月6日の御前会議では、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定したのである。しかし,米国の日本への要求は,「満州の日本軍は撤退しなくともよい」「中国からの日本の撤兵は10年後からでもよい」として,日米交渉を継続することが可能であった。日独伊三国軍事同盟の解消といっても,即座に実行する必要はなかった。

しかし,開戦を決意するとした1941年10月上旬を迎えると,近衛内閣は総辞職してしまう。開戦の決定から逃げ,責任を回避したのである。そこで,国体護持,日米和平を重視する昭和天皇の意向を踏まえ,木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議の日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)こととし,東條英機陸軍大将を内閣総理大臣に推挙した。東條大将は,近衛内閣の陸軍大臣としては,開戦賛成派であったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた人物である。

1941年10月に成立した東條内閣は,日米交渉を続けたが,米国は1941年11月26日には,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」を手渡してきた。この11月26日のハル・ノートが日本に手交されるにおよんで,もはや米国が日本との和平を本気で求めてはいないことが明らかになった。

1941年11月26日に、極東と太平洋の平和に関する文書、いわゆるハル・ノートを日本に手渡した。 この最も重要と思われる部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」とある。日本が中国占領地やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則としたのである。

天皇、首相東條英機など日本の最高首脳陣が揃って出席した12月1日の御前会議が、宮中で開催され、(国会ではなく)そこで対米英戦争の宣戦布告が最終決定された。もちろん大元帥昭和天皇は,真珠湾攻撃計画を以前から知らされており、対米英戦を(不本意かもしれないが)主要閣僚の総意と国体護持を尊重して、裁可している。この御前会議では、宣戦布告の意図が、1941年12月7日12時 44分(ホノルル時間)以前には知られないように、宣戦布告は東京時間の12月8日午前7時40分(真珠湾のあるホノルル時間の12月7日午後12時40 分)とすることも決められた。

1941年12月1日の御前会議は議論する場ではなく、総意のとれた最終決定を確認する場である。したがって、開戦の決意は、12月1日の御前会議の前に,既になされていたはずである。また,開戦するには,勝利の採算のある攻撃計画が策定されているはずだが,この計画は,遅くとも11月初頭には決定していた。つまり,真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が大元帥昭和天皇に上奏されたのは、1941年11月8日である。

1941年11月8日の「海軍作戦計画ノ大要」は,海軍軍令部総長永野修身大将と陸軍の参謀総長杉山元大将が、侍従武官長宛てに発信した。これには海軍軍令部次長伊藤整一と陸軍参謀本部次長塚田功から総務部長、主任部長、主任課長など作戦の中枢部の軍人が名を連ねている。

海軍軍令部とは,陸軍の参謀本部に相当し,主として国防計画策定,作戦立案、用兵の運用を行う。軍令部も参謀本部は天皇の持つ統帥大権を補佐する官衙である。戦時または事変に際し大本営が設置されると、軍令部は大本営海軍部,参謀本部は大本営陸軍部となり,各々の部員は両方を兼務する。陸海軍の総長は,天皇によって中将か大将から任命(親補)される勅任官であり,次長とは総長を補佐する者で,総長と同じく御前会議の構成員でもある。

1941年11月8日海軍作戦計画の上奏文では、フィリピン、マレーに対する先制空襲と同じくして、ハワイ停泊中の敵主力艦隊を、航空母艦6隻を基幹とする機動部隊によって空襲すると述べている。攻撃地点についても、オアフ島北方200マイルから全搭載機400機を発信して航空互換、戦艦、航空機を目標として奇襲攻撃を加えるとしている。香港,シンガポール攻略についても,作戦が述べられている。この上奏文は,陸海軍高官が認めた最終攻撃計画であり,開戦予定日(12月8日)のちょうど1ヶ月前に真珠湾攻撃計画も含め,統帥権を保有する大元帥昭和天皇に,臣下として報告がなされたのである。

真珠湾攻撃計画は,連合艦隊司令長官山本五十六大将が主導したが,無謀な作戦として,反対論が強かった。それを,軍令部総長永野修身大将が許可したのである。そして,最終的には陸軍も同意し,天皇が裁可している。ドイツ軍,米軍と違って,日本軍は少数の軍事専門家による創意工夫よりも総意を重視したようだ。

1941年11月26日日本に中国・インドシナからの撤兵を求める「極東と太平洋の平和に関する文書」を手交した 日本では,宣戦布告の最後通牒(のつもりの文書)を米国に手交する1ヶ月前には,攻撃計画が決定していたから,ハル・ノートが手交されるか否かにかかわらず,日米開戦は避けられなかった。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であるが,最終部分は12月7日で,開戦予定日前日である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げず,真珠湾攻撃当日数時間前に,宣戦布告をするつもりだった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,直前まで米英に察知されないためである。そこで,結果として、直前まで和平交渉をしていると欺瞞し,既に決している攻撃意図を悟らせないようにした,と見なされる。

ハル・ノートは,日本では、米国の最後通牒であると認識された。しかし,ハル・ノートには日本が回答すべき期限は定められていないから、最後通牒とみなす必要はなかった。しかし,米国としては日本が受諾する見込みのないような最後通牒としてハル・ノートを突きつけ,開戦の契機が欲しかった。。逆に、日本の対米宣戦布告は望むところであった。

米軍の通信隊の「マジック」は,日本の暗号を部分的に解読していた。東京とワシントンの日本大使館あるいは世界各国の大使館や軍への無線通信を傍受し,日本の攻撃(日米開戦)が差し迫っていることを理解していた。国務長官コーデル・ハルCordell Hull(外務大臣に相当)も,マジック情報によって,日本の大使二人よりも先に,日本が日米交渉を打ち切ったことを理解していた。日本大使館が本国からの暗号無線を解読するよりも先に,米軍が解読できたからである。

     


4.日本の真珠湾攻撃は,「宣戦布告無しの先制攻撃」である。日本外務省の手違いで,対米宣戦布告が遅れたという言い訳は,当時から,米国では話題にすらされない。

12月7日午後1時(ワシントン時間)、日本側から国務省に面会の申し入れがあった。面会は午後1時45分とされ、日本側は20分遅刻して午後2時5分に到着した。日本の二人の大使たち(野村吉三郎大使・来栖三郎特命全権大使)は、11月26日の「ハル・ノート」への回答と思われる文書を手渡した(もちろん、日本側は、宣戦布告の文書を持ってきた---とは言わない)。

国務長官のハルは、その場で文書を読んで(事前の暗号解読で宣戦布告を意味するとは分かってはいたが)、驚き、不快感をあらわにして「50年間の公務の中で、これほど恥知らずな文書を受け取ったことない」と次のように言わしめた。日本の大使たちは、真珠湾攻撃も、マレー半島への日本軍上陸も(のんきにも?)知らないでいる。

日本の二人の大使が国務長官ハルに英訳に手間取った最後通牒(と日本が認識している文書)を手渡したのは、12月7日午後2時20分(ワシントンの東部時間)で、真珠湾攻撃の終わった50分から55後である。演説では遅れた時間を10分長くして,1時間遅れとした。日本の文書手交の遅れをより重大な謀略(失策ではない)としたかったからである。真珠湾攻撃と宣戦布告に関しては,反日プロパガンダが盛んに行われ,これはルーズベルト大統領の謀略あるいは巧妙な政略といえる。しかし,真珠湾攻撃を知っていたならば,わざと「先制テロ攻撃」させる元首はいない。

もちろん、米国が日本の暗号を解読していることは極秘であるから、文書を読んではじめて宣戦布告に等しいと知ったわけである。しかし、文書の手交されたとき、すでに真珠湾「空襲」(攻撃でなく)から1時間近く経過していた。

しかし、この文書を暗号で受けて、解読,文書化して,手交するまでの日本の米国大使館員の行動は、真珠湾攻撃はおろか、日米開戦すら知らされていなかった。しかし,このような同情すべき事情を割り引いても、緊張感・焦燥感が感じられないと、現在の日本では徹底的に批判されている(当時は問われていない)。

真珠湾攻撃を知ったときは、唖然としたであろうことは想像できるが、実は文書の手交が手遅れになったことを、当日のうちに認識したかどうかも不明である。文書手交の時間と真珠湾攻撃の時間を、日曜日のラジオ(大統領演説は翌日)で識別し,その順番を認識できたのかどうか。もしかすると,最後通牒の手交が,真珠湾攻撃より遅れたのを後々までも知らないでいた可能性も残る。

それと対照的に、あまりにも上手に立ち回った米国の外交担当者に対しては、暗号解読の進展もからんで、「真珠湾奇襲を予知していて、わざと攻撃させた」という空想が「真珠湾攻撃の真相」や謀略説として現在でもメディアを賑わしている。しかし、日本のパープル暗号を部分的に解読し、宣戦布告も知っていたとしても、真珠湾が12月7日に攻撃されるという確証は得ていない。

前日の(戦後天皇の開戦責任に関する独白録に関わる)大使館員壮行会で飲みすぎたため、日曜日で寝坊していたため、暗号解読,和文英訳,タイプ打ちに不慣れなためなど、宣戦布告遅れの理由がいろいろ指摘されている。

基本的には、暗号解読と文書作成を、即座にこなすことができない人物であったということだ。外務省のエリートとして,誇り高く、立派な人物は、暗号解読やタイプ打ちなど雑務を軽視していたはずだ。大使館員は、日本の単なる取次ぎ連絡員やメッセンジャーではない。高度な外交交渉を担当する専門家である。このような自負や誇りを重視したために、タイプを打ち、文書を手交するという単純な事務的処理が、外務省の中では軽視されていた。現在でも高い地位にあるとパソコンやコピー機の使い方がわからないということがある。組織の中で業務が滞りなく進めばよいので,一人が雑務と政治・経営の判断の双方を担う必要はない。しかし,組織に大きな偏りがあると,業務が円滑に進行しなくなる。

(日曜日でタイピストも翻訳専門家も不在で)単純な使い走りとしては使えない外交専門家は、事務処理能力が低い。この欠点が決定的な時期に露呈してしまった。そのために,軍の考案した戦術的巧妙さが,裏目に出てしまう。いずれにせよ日米交渉に関わる外務省の失策後、大使も外務省職員も処罰されていない。宣戦布告の遅れや宣戦布告とはみなせない文書の作成などは,いずれも外務省の責任ではないということ。それどころか順調にエリート・コースを邁進した。

1941年12月8日,ルーズベルト大統領は,a date which will live in infamy「屈辱の中に生きることになる日」として有名になる演説をし,真珠湾12.7攻撃を騙まし討ちとして非難した。この表現は,その後,何度も引用されることになる。ここで真珠湾攻撃が「騙まし討ち」とされた理由は,日本が,日米和平交渉を継続すると見せかけながら,戦争の準備をし,宣戦布告無しに,米国を先制テロ攻撃したからである。

     


5.真珠湾の騙し討ち先制テロ攻撃に晒されて,欧州大戦には中立を維持した米国も,日本には報復すべきであるとして,対日宣戦布告する。

「ハル・ノート」への回答である14部の覚書(メッセージ)"Fourteen Part Message" の最終部分は、次のように結ばれている。

"Thus, the earnest hope of the Japanese Government to adjust Japanese-American relations and to preserve and promote the peace of the Pacific through cooperation with the American Government has finally been lost.
"The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.
"December 7, 1941."

したがって、日本では「宣戦布告の最後通牒」とされる文書が、実は米国でも東京裁判でも、疑われている。14部の覚書はハル・ノートへの回答文書であり、日米交渉を打ち切ってはいるが、明確に宣戦布告を述べたメッセージがないからである。

もちろん、当時の日本にもこれでは、日米交渉の打ち切りのみで、宣戦布告とは見なせないのではないか、という疑問もあったし、明確な宣戦布告のステートメントも準備されていたらしいのだが。(→宣戦布告の起草)。東郷外相や外務省では、最後通牒としての形式を備えた書簡とステートメントが必要と感じ、北米課長加瀬俊一らが準備していたらしい。しかし、日本軍は、東條首相も含めて、その通告をすれば、日本は行動の自由を得たと考えていた。

つまり、宣戦布告であると日本で暗黙のうちに認められている「14部の覚書」は、国際法に精通した専門家からは、宣戦布告を意味する最後通牒の体をなしていないと分かっていた。これは日米双方とも分かっていたのである。となれば、外交交渉の決裂を伝える通告文にすぎないものを手交した理由は、外交よりも真珠湾、マレー半島などへの奇襲攻撃を重視したためである。

換言すれば、外交上は、日本の攻撃の意図、戦争決定を分からないように秘匿して、実は作戦準備、部隊展開を図っていたことになる。まさに、極秘の決定的な奇襲攻撃、すなわち「騙まし討ち」こそが、日本の意図するところであった、と見なされてもしかたがない。

「真珠湾攻撃は、何日もあるいは何週間も前から計画、準備されていたものであり、その間、日本は平和を希求している米国と偽りの和平交渉を行い、(攻撃する意図を隠し)騙し続けていた」。このように国民に告げた。前述のように、真珠湾攻撃の1時間後に、日本の大使たちが持参してきたのは宣戦布告の最後通牒ではなく、「ハル・ノート」への回答文書と認識している。演説で、「ハワイ」といっているのは、当時 Pearl Harborやオアフ島が、米国市民には必ずしも馴染みある地名ではなかったからである。

日本艦隊は11月26日に出撃しており、12月1日の時点までに日米交渉が再開できれば、引き返すつもりでいた。しかし、大艦隊の出撃自体が、動員令と同じく、戦争開始であると指摘されれば,反論するのは難しい。開戦とは、砲火を交える戦闘が起こった時点では決してない。真珠湾が日本から遠く隔てられていることを踏まえれば、問題としているのは、「宣戦布告が1時間遅れた」という短時間のテクニカルな問題では決してない。この点について、日本国内では誤解もあるようだ。

国内外の世論形成,米国議会の支持こそが重要であり、そのためのプロパガンダの方法が問われるのである。宣戦布告をわざと遅らせたのではない--といった末葉にこだわった弁明を外交や国際関係専門家が続けているとしたら、戦争と動員,議会の支持,対日戦争、動員に有利であり、宣戦布告に関するテクニカルな弁明は、大衆の前では聞く耳をもたれることはない。

しかし、外交上の別ルートでは、宣戦布告は伝わっている。日本にいる米国のグルー大使Ambassador Grewに、東京時間の12月8日午後(ホノルル時間12月7日午前、正午近く)に通告している。陸海軍を統括する大本営では、ワシントン時間の12月7 日午後4時に、海外向けの放送をして、宣戦布告がされたことを通知している。つまり、外交のテクニカルな問題として「宣戦布告」の問題を扱うことは、戦争にあっては、意味をなさない。どのように自国の戦争を正当化するかが、世論を団結させ、厳しい動員を受容させるかがと問われている。宣戦布告もこのような脈絡で議論せざるをえない。

統帥権をもつ日本軍の最高司令官は、大元帥(昭和天皇天皇)である、宣戦布告の権利も天皇が保有しているし、この大権を犯すことは誰にもできない。その天皇による宣戦布告は「大詔」で、東京時間12月8日午前11時40分に発せられている。これは、それ以前の軍事行動、攻撃を追認する意味しか見出せないが、攻撃後の宣戦布告となっている。このようにして、日本の攻撃は、太平洋上、アジア全土で行われているのであって、まさに12.7は、「米国にとって屈辱の日」である。

たしかに、「ハル・ノート」への回答では、日米交渉打ち切りを告げてはいるが、明確な宣戦布告を述べていない。そこで、これが真珠湾空襲以前に手交されて、「宣戦布告」が間に合っていた---としても、米国は日本から宣戦布告を受けてはいないという立場を採用したに違いない。大日本帝国憲法では,宣戦布告の権限は,統帥権をもつ日本軍の大元帥(昭和天皇天皇)がもっており,天皇による宣戦布告の「大詔」は、1941年12月8日午前11時40分(東京時間)と,真珠湾攻撃の半日後に発せられている。

日露戦争、第一次大戦では明確な宣戦布告をしながら、1930年以降の中国侵攻には一切宣戦布告はしていない。中立国の米国から軍需物資を輸入するためにも、戦争ではなく「事変」として扱われたのである。また、1941年12月7日0755の真珠湾空襲については、1週間前から日本は米国に開戦することを決めていた(12月1日の天皇臨席の御前会議で)。したがって、ハワイ攻撃を隠すために、偽りの日米交渉を行ってきたのであって、これは米国から見て明らかに「握手するそぶりをして、後ろに匕首を突き出す準備をしている」騙まし討ちである。

日米和平交渉を誠意を持って担当してきた二人に対して,米国は軽蔑感を抱き,それを隠そうとしない。外交交渉を米国が,戦争準備のための時間引き延ばしとしていたなら,なおさらである。しかし,真珠湾攻撃が「宣戦布告無しの先制攻撃」であることは(事実?)明白だったので,反日プロパガンダによって,米国人は「卑怯なやり方で、残虐行為を働くジャップJapは、人間ではない。テロを起こすジャップは殲滅しなくてはならない」と考えた。「いいジャップは,死んだジャップだけだ」と。

真珠湾攻撃は,米国人は日本人に対する憎悪を一気に高めた。報復(連邦議会による宣戦布告)は正当化された。米国本土に住んでいる日系人を(米国籍を取得していようと),財産没収の上,強制収容所に隔離するのも当然だ---,と米国人は考え,実行する。

真珠湾攻撃の翌日(米国の1941年12月8日)、ルーズベルト大統領は、Pearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」として、日本への宣戦布告を議会に求めた。この演説は、演説巻頭でつぎのように「屈辱の日」の表現が使われている。

後の米国大統領ジョージ・ブッシュは,太平洋戦争に雷撃機搭乗員として日本と戦った。硫黄島付近で撃墜されたが,米潜水艦に救助され,真珠湾に送られた。彼の搭乗した2人乗り雷撃機が,グラマンTBF「アベンジャー」Avenger(復讐者)である。真珠湾攻撃の後になって,アベンジャーは,実用化されているので,明らかに「真珠湾テロへの復讐者」の意味である。復讐者の息子(ジュニア)も米国大統領に就任した。

真珠湾攻撃を受けた翌12月8日、ルーズベルト大統領が「屈辱の日」a date which will live in infamy のなかで,次のようにPearl Harbor Address to the Nation「真珠湾攻撃を国民に告げる」の演説を続けた。ここでは真珠湾が突然、何の前触れもなく攻撃されたことに加えて,ワシントンにいる日本の大使が、攻撃1時間後にやってきて、ハル・ノートへの回答書(宣戦布告の最後通牒とはいっていない!)を手渡してきたと述べている。

日本は攻撃を仕掛けながら、恥知らずにも、攻撃後に交渉打ち切りの文書を手交してきた。交渉打ち切りというよりも先に攻撃しておきながら-----。このように騙まし討ちの先制攻撃を仕掛けられれば、対日宣戦布告に反対するものはいない。国会では、反対1票(あくまで反対できるという証明票)で日本へ宣戦布告が議決された。(ドイツには宣戦布告していない)

欧州大戦には中立を(何とか)維持してきた米国の世論も、真珠湾攻撃によって、一気に対日参戦に向かう。したがって、真珠湾攻撃は、撃破した艦船も大半は引き揚げられ、戦列に加わっている上に,米国の参戦を正当化し、米国における人員や物資の動員を本格的に開始させてしまったという点で、軍事的にも政治的にも日本の失策であると思われる。

「真珠湾を忘れるな」とは,騙まし討ちのテロを行った日本人に報復せよという意味である。この報復は,民主主義と自由を守るための「正義の戦争」である,とみなされた。したがって,米国の対日戦争は,日本が降伏するまで続けると,大統領,議会,国民は当然のように考えた。正義は勝つ。米国人は,日本との戦争に負けると思ったことは,(緒戦で敗北しても)一度たりともない。

ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインタワー)と国防省ペンタゴンに航空機の自爆テロが行われた。「9・11」(ナイン・イレブン)の時も,米国では真珠湾攻撃=騙まし討ちのテロ,という認識で,テロへの報復を誓う論評や演説が行われた。ワシントンポスト紙は翌日9月12日付社説で,「2001年9月11日」と題して,60年前の真珠湾テロ攻撃と同じく9.11も「恥辱の日」として記憶に残るだろうと指摘した。そして,真珠湾騙まし討ちに見舞われた先人と同じく「強鉄のような意思」を持ってテロリストとその指導者に報復すべきことを訴えた。また,テロリストに避難所を提供したり支援したりする国家に対しても,断固たる報復措置が取るべきだと促した。

ブッシュ大統領は12日夜(日本時間13日午前)演説において9・11事件は「テロを越えた戦争行為」と位置付け,テロリストへの報復を宣言した。9・11同時テロで破壊されたNY世界貿易センタービルをみれば,9/11も12/7と同じく「恥辱の日」である。真珠湾攻撃は,騙まし討ちのテロの典型として,米国人に認識されている。宣戦布告が遅れたのは技術的な問題である,真珠湾では市民を攻撃はしなかったなど釈明しても,プロパガンダの前では言い逃れはできない。9・11はanother day of infamyあるいはsecond pearl harbor attackと呼ばれたのである。

真珠湾攻撃の米国から見た評価は、
①騙まし討ちの卑怯な攻撃である(宣戦布告なく,和平交渉を続けるそぶりをして,攻撃を仕掛けてきた)
②民間人を含む米国人2400名の命を殺害したテロ行為である
③米国の本土を攻撃した(米植民地フィリピンや中国駐留米軍への攻撃ではない)
④米兵は(犠牲者も生存者も)は,我々のために勇敢に戦った英雄である(Aftermath: They died for you and me.)
の4点に要約できる。真珠湾攻撃「12.7テロ」は、「9.11テロ」と米国側から見れば同じ文脈で、「屈辱の日」である。平和な生活を破壊する一方的な無差別攻撃は,断じて許されない。テロを図る「ならず者国家」には報復すべきである。



     


6.日本による正式な対米英宣戦布告は,昭和天皇の大詔渙発である。これは当時の日本人,米国人の双方が認識していた。日本は大戦果に,戦争終結を期待するが,戦争は始まったばかりであった

1941年12月8日,日本放送協会NHKは、午前6時40分から「武士道の話」という番組を放送していた。それが終わると午前7時から開戦を知らせる臨時ニュースを流した。

 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部発表。12月8日0600(午前6時)、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり」1941/12/08/0700

館野守男アナウンサーが放送したが,7日午前中だけでも開戦を知らせる臨時ニュースが5回放送されたという。午後は勇壮な音楽放送が流れた。午後6時半から30分間「合唱と管弦楽」と題して、軍艦行進曲,海ゆかば、遂げよ聖戦,などが放送された。

真珠湾攻撃を伝えるラジオ放送は,12月8日の午後になってから流されている。12月8日1300の日本の大本営(海軍部)発表は、そっけない。発表者は、天皇でも首相でも、大臣、将軍ですらない。「ハワイ空襲」の世界に向けて発した第一声は,報道部長の海軍大佐である。内容は簡素で,大戦果を上げたことは,午後1時の段階では,報道されていない。

「帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面の米帝国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を決行せり」1941/12/08/1300

宣戦布告通告の手交の遅れと同じく,真珠湾攻撃の公表の後になって,陸海軍省が大元帥昭和天皇による対米英宣言布告の勅語を公表した。勅語の公表は,12 月8日1500であるが,対米英宣戦布告としては,同1900の「大詔」でも,同様の内容が詳しく述べられている。ともに,大日本帝国憲法が宣戦布告の大権を定めた天皇のお言葉であり,きわめて重要な意味を持つ。

陸海軍省(十二月八日午後三時同時発表)(陸軍省と海軍省とは,陸海軍大臣が長となる機関であり,天皇に直属するものである)
本日陸海軍大臣を宮中に召させられ、左の勅語を賜りたり。宣戦布告の勅語を賜ったのは,内閣総理大臣でも国会議員でもない,陸海軍大臣である。但し,陸軍大臣東條英機は首相も兼務する。

勅 語
曩ニ支那事變ノ發生ヲ見ルヤ朕カ陸海軍ハ勇奮健鬪既ニ四年有半ニ彌リ不逞ヲ膺懲シテ戰果日ニ揚ルモ禍亂今ニ至リ尚収マラス
朕禍因ノ深ク米英ノ包藏セル非望ニ在ルニ鑑ミ朕カ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ解決セシメムトシタルモ米英ハ平和ヲ顧念スルノ誠意ヲ示ササルノミナラス却テ經濟上軍事上ノ脅威ヲ增強シ以テ帝國ヲ屈服セシメムト圖ルニ至レリ
是ニ於テ朕ハ帝國ノ自存自衛ト東亞永遠ノ平和確立トノ爲遂ニ米英兩國ニ對シ戰ヲ宣スルニ決セリ
朕ハ汝等軍人ノ忠誠勇武ニ信倚シ克ク出師ノ目的ヲ貫徹シ以テ帝國ノ光榮ヲ全クセムコトヲ期ス

これは,大詔の縮小版であるが,発表は続く。
右勅語を拝受し陸海軍大臣は左の如く奉答せり
奉答文
      臣英機 
      臣繁太郎
誠恐誠懼謹テ奏ス帝國未曾有ノ難局ニ方リ優渥ナル勅語ヲ賜フ臣等咸激ノ至ニ堪ヘス
臣等協力一致死力ヲ盡シ誓テ聖旨ニ應ヘ奉ランコトヲ期ス
臣英機臣繁太郎誠恐誠懼陸海軍ヲ代表シ謹テ奉答ス
 昭和十六年十二月八日
        陸軍大臣 東條英機
        海軍大臣 嶋田繁太郎

要するに,大元帥昭和天皇の示された勅語に納得し,感激して,死力を尽くして聖戦を推し進める覚悟を述べたのである。

「ハワイ空襲」の戦果の概要は,12月8日2045に,戦果の詳細は,12月18日1500に公表される。この点については,日米開戦の劈頭にすぐ「真珠湾攻撃の大戦果が発表された」としている方が多いようだ。
午後8時45分の大本営海軍部の戦果発表は,次のようなものだ。
一、本八日早朝帝国海軍航空部隊により決行せられたるハワイ空襲において現在までに判明せる戦果左の如し
戦艦二隻轟沈、戦艦四隻大破,大型巡洋艦約四隻大破,以上確実
他に敵飛行機多数を撃墜撃破せり。わが飛行機の損害は輕微なり。
二、わが潜水艦はホノルル沖において航空母艦一隻を撃沈せるものの如きもまだ確実ならず
三、本八日早朝グアム島空襲において軍艦ペンギンを撃沈せり
四、本日敵国商船を捕獲せるもの数隻
五、本日全作戦においてわが艦艇損害なし。(1941/12/08/2045)

12月8日1900(午後7時)になると君が代の後、日本放送協会の中村茂業務局告知課長が、昭和天皇の渙発した詔書を奉読した。そして,内閣総理大臣の東条英機陸軍大将の「大詞を拝し奉りて」という録音放送が流れた。その後,奥村喜和男情報局次長の「宣戦の布告に当りて国民に愬う」、防衛参謀長の小林浅三郎陸軍中将の「全国民に告ぐ」が立て続けに放送され、開戦の正当性を訴え、戦意高揚をねらった。

米国のマスメディアは,このラジオ放送を聞いて,日本の公的な宣戦布告とみなした。日本の大使が宣戦布告をもたらしたわけではない,との立場は一貫している。日本では,「宣戦布告が1時間遅れた」ことを前提に弁明しているが,米国のweb上で全く話題になっていない。

大日本帝国憲法によって,宣戦布告の大権,軍の統帥権は,天皇にあると定められているこの正式な宣戦布告が,畏くも渙発(天皇が発せられた)対米英宣戦の大詔である。翌日の新聞にも全文が記載された。天皇の渙発された大詔を,省略して公表することはできない。

  大詔
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 
朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス
朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ 朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ総力ヲ擧ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ 丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ眷々措カサル所
而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ
今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト鷽端ヲ開クニ至ル詢ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ 
中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ
幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ残存政権ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス
剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ
朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ 彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス
斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ
事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ
朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信奇シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ燮除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セシムコトヲ期ス
       御名御璽
 昭和十六年十二月八日

真珠湾攻撃の生き残り米軍兵士は,「我々が後に残したものを,死と痛みの中で,考えよ。彼にとって,残してきたことを忘れれば,無駄死になってしまう。」と述べた。"Think of those we left behind, in death or angquished pain, For he that remains forgotten, has truly died in vain. ---Art Morsch, USS New Orleans (CA-32), Pearl Harbor Survivor

米国の新聞が伝える12月7日は,「戦争」と「ジャップ」の非道・憎しみである。戦後の戦争責任追求の際,大詔に含まれた天皇の意思が問題になったが,侵略による拡大主義,植民地獲得,中国支配を謳っているわけではない。日本は,皇祖からの伝統を守り,国体を安んじるために、米国と戦争は回避したかった。

1945年になって終戦が国内で論じされる際にも,最重要課題は,中国の権益,アジア太平洋の平和というよりも,国体の護持であった。大詔は,国体護持の切り札となる。それにしても,真珠湾攻撃の戦果公表の後に,昭和天皇の渙発した開戦の大詔が放送されたことは象徴的である。

1941年11月26日,ハル・ノートで「中国とインドシナからの撤退」を突きつけてきた。これでは日本がアジアの平和のためになしてきた事業が無駄になってしまう。暴虐な中国は,東アジアの平和を撹乱している。米英は,中国の反日活動,抗日戦争を支援し,東洋の覇権を握ろうとしている。そして,強硬な姿勢で,和平交渉には譲歩せず,経済的圧力と軍事脅威によって,日本を屈従刺せようとしている。そので,日本は,自存自衛,国体の保持,アジアの平和という帝国の光栄をかけて,宣戦布告をした。これが,大詔の主張である。

 日本でも今日,ハル・ノートはとても受け入れられなかったと述べているが,国体を護持できる,武装解除もしない,戦争責任者の処罰もしないという和平提案は,1945年のポツダム宣言受諾に比べれば,造作もないことだった。中国(満州を除く)とインドシナにおける日本軍の撤退は,実は十分可能だった。もし,これを受け入れてていれば,米国の対日宣戦布告の機会は訪れなかったかもしれない。しかし,ハル・ノートを受け入れても,米国が石油禁輸などの制裁措置を続ければ,日本は窮したであろう。

しかし,日本が対米攻撃をした後,米国が日本に経済制裁を課し,ハル・ノートで中国。インドシナからの撤兵を求めたことはもちろん,大詔の内容,天皇の国体護持と平和の意思も,米国では,話題にならない。後日,真珠湾攻撃による米国側死傷者は3500名と判断されるが,新聞では3800名の事実より多い死傷者が出たと報道している。ジャップによる爆撃を受けた,何の前触れもなくいきなり日本が米国を攻撃した,として真珠湾攻撃が描かれている。

しかし,当時の日本では,天皇のベトー(拒否権)すら,国軍の叛乱,共産主義革命,国民の離反をもたらし,国体を傷つけると,天皇,重臣たちに過剰に心配されていた。いまさら,中国から撤兵するとなったら,日本軍の権威は地に落ちる,国民も軍高官を軽蔑する,下級仕官・兵も上官の言う事を尊重しなくなる。これらの理由から,日本政府・軍そして,天皇は,やむなく日米開戦を決意することになる。

ワシントンにいる二人の大使にとって,最後の職務は,この対米宣戦布告を伝えることで,いわば元首の最終メッセンジャーである。高度な外交交渉をする専門家であると誇りを優先した組織だったために,最後通牒手交という事務手続きを攻撃後に遅らせてしまったようだ。しかし,勅任官(天皇に直接任命する)の外務省高官も高等文官試験を合格した外務省職員も,誰一人職務怠惰で処罰されることがなかった。こうなると,宣戦布告を遅らせたのは,国家の最高意思決定であり,わざとやったとしか思わない。「宣戦布告が遅れたのは,事務手続きのミス」と主張するのであれば,責任者の処罰がされるはずだ。そうならないのであれば,宣戦布告の遅れは計画的であり,真珠湾攻撃は「騙まし討ち」ということされてもしかたがない。

12月8日2045には,真珠湾攻撃による戦果は,あっさりとラジオ発表された。「真珠湾」といえば,日本では真珠養殖の盛んな志摩半島かと錯覚されてしまう。軍軍事に通じていない日本以外,「真珠湾」の地名には馴染みがない。そこで,「ハワイ海戦」「ホノルル空襲」という表現が使われる。また,真珠湾攻撃の大戦果を延々と発表すれば,天皇の渙発した大詔を軽んじているようにみえる。さらに,マレー半島上陸という「地味な話題」しかもたない陸軍の戦果との均衡がとれない。しかし,当時を生きた人々には,宣戦布告発表と同時に,真珠湾における米艦隊撃滅の大戦果を聞いた,記事を見たという人もいる。

12月9日午前九時の大本営海軍部のラジオ発表
一、本日軍令部総長および海軍大臣は連合艦隊司令長官、航空部隊指揮官、潜水部隊指揮官に對し左の祝電を発せり
 航空部隊および潜水部隊が周密適切なる計画の下に、長躯ハワイに決死的大攻撃を敢行し、所在戦艦隊主力および航空兵力に殲滅的打撃を与え 未曾有の大戦果を収めたる偉功に対し慶祝の意を表す
二、本日軍令部総長および海軍大臣は連合艦隊司令長官、マレー方面作戦艦隊司令長官に対し左の祝電を発せり 
陸海緊密なる協同の下にマレー半島上陸作戰に成功、帝国軍の偉力を南海の一角に顕揚せるを祝すると共に将兵各員の一層の健鬪を祈る。(1941/12/09/0900)

大本営海軍部の12月13日午後三時の発表では,ハワイ海戦で撃沈した戦艦を2隻から3隻に訂正し,真珠湾の大戦果の詳細を、12月18日1500にまとめてラジオ放送で大々的に公表した。

大本営海軍部発表(十二月十八日午後三時) 
一、ハワイ海戦の戦果に関しては確報接受の都度発表しありたるところ攻撃実施部隊の目撃竝に攻撃後の写真偵察等により左の通りの総合戦果を挙げ米太平洋艦隊並びにハワイ方面敵航空兵力を全滅せしめたること判明せり
(一)撃沈:戦艦五隻(カリフォルニア型一隻、メリーランド型一隻、アリゾナ型一隻、ユタ型一隻、艦型不詳一隻),重巡又は軽巡二隻、給油船一隻
(二)大破(修理不能又は極めて困難なるもの):戦艦三隻(カリフォルニア型一隻、メリーランド型一隻、メリーランド型一隻、ネバダ型一隻),輕巡二隻、驅逐艦二隻
(三)中破(修理可能と認むるもの):戦艦一隻(ネバダ型一隻)、軽巡四隻
(四)敵陸海軍航空兵力に与へたる損害:銃爆撃により炎上せしめたるもの約四五〇機、撃墜せるもの一四機、右の他撃破せるもの多数、格納庫十六棟を炎上せしめ、二棟を破壊す

二、同海戦において特殊潜航艇をもつて編成せる我が特別攻撃隊は警戒嚴重を極むる真珠湾港内に決し突入し、少なくとも前記戦艦アリゾナ型一隻を轟沈したる外大なる戦果を擧げ敵艦隊を震駭せり

三、我方の損害:飛行機二十九機、未だ歸還せざる特殊潜航艇五隻

四、八日撃沈せるも確実ならずと発表したる敵航空母艦は沈没を免れ〇〇港内に潜伏中なること判明せり

大本営の発表は,戦果については正確であり,損害も割り引くことなく伝えている。しかし,「大本営も緒戦では,正確な発表をしていた」とは,いえない。真珠湾攻撃の戦果・被害とも正確であるが,大破した米国戦艦3隻は,修理不能と考えていたが,実際は,3隻全てが修理され,戦列に加わっている。また,真珠湾攻撃で米国軍人3500名を死傷させたことも敵のラジオ放送でわかっているはずだが,死傷者を戦果と認識しておらず,貧乏国よろしくしく,米国に与えた回復可能な物的損害のみを大戦果と称していたのである。

米国がそれまでの中立,孤立主義,反戦的態度を捨てて,日本に対して宣戦布告をしたことも伝えてはいない。米国における大動員が真珠湾の騙まし討ちで可能になったという認識もない。つまり,大本営発表は,緒戦から(故意にではないが)誤っていたのである。

真珠湾の大戦果は次のようにラジオ放送された。
「戦艦5、給油船1を撃沈、戦艦3、軽巡2、駆逐艦2を大破、戦艦1、乙巡(軽巡洋艦)4を中破、航空機450機炎上、撃墜14機,撃破多数、格納庫18棟を炎上または破壊」

日本では,戦果の公表は,大本営発表として,国会ではなく,ラジオ放送されるのが常である。ハワイ海戦の大戦果もラジオで,その後新聞で国民に下達された。1942年1月1日毎日新聞には,「米太平洋艦隊忽ち全滅」「ハワイ海戦」の大見出しの一面記事も出た。真珠湾攻撃は大戦果を挙げたとして,日本国民は有頂天になる。米国との戦争には不安もあった国民,政府,軍であるが,緒戦の大勝利に酔いしれた,といわれる。

1942年夏には、内務省でも盆踊り開催の緩和を各府県の警察部長に対し通達した。徳島県内では既に農漁村の盆踊りについては前年から許可されていたが、これを受けて阿波踊り開催への機運も一気に盛り上がった。

日本人は米太平洋艦隊は全滅したので,嫌な戦争は,すぐ終わると錯覚したのであろうか。大勝利にかこつけて,憂さ晴らし祭りを行いたかっただろうか。日本は中国より強いが,米国よりも強かったのかと自信をつけた日本人もいるであろう。4年前の1937年12月の中華民国の首都南京を陥落させたときもお祭り騒ぎを演じた。また,歓喜する様を演じるように仕向けられた。皇居前で集会に人員を動員し,児童も動員したパレードもしている。特別に,学校に鞠 (ゴムボール)も配っている。

このように見てくると,当時の日本が軍部独裁であったとしても,国民のご機嫌を損なう米英との大戦争には,異常に機を配っていたことがわかる。米英への攻撃が大失敗すれば,開戦劈頭に負け戦をしでかした大ウツケ,弱い日本軍として,国民が政府高官・軍を軽んじてしまう。そうなれば,共産主義革命が起こるかもしれない,中堅将校のクーデター・叛乱が起こるかもしれない。非民主的な国家にとって,国民に戦争協力させる手段は,厳罰を持ってする統制(動員と思想統制を含む)であるが,戦勝なくしては,統制も行き届かない。

首都を陥落させても降伏しない中国と戦争を継続し,さらにより経済力・軍事力のある米国相手に,先制攻撃をしかけたことを心配していた国民もいた。ドイツも,英国に和平を拒否さているのにソ連に侵攻し,ソ連が降伏しないのに,米国に宣戦布告している。中国は広いが,太平洋はなお広い。総力戦は,会戦(一大決戦)で勝敗がつくということはない。工業生産力,兵員の動員など,国民が一丸となった戦いである。太平洋戦争は始まったばかりであった。

この大戦争は,3年半続く。中国,米国,英国という東西南の三正面作戦に勝算はあったのか。北のソ連は,ドイツに降伏すると思ったのか。どのようにして米国,中国に勝利しあるいは停戦に持ち込むつもりだったのか。やむにやまれぬ自存自衛の戦いであるから,終戦については,具体的な戦略を立てていないのか。軍の要綱や閣議決定からは,あくまでも戦い抜く,日本を防衛する国防圏を築くという計画しか見えてこない。

     



7.日本も米国も、真珠湾「空襲」以前に攻撃・戦闘を始めていた。宣戦布告文書と開戦日時の問題は、外交だけの問題ではない

真珠湾「空襲」の1時間以上前、午前5時30分に日本海軍の重巡洋艦「利根」から零式水上偵察機が飛び立った。目的は、真珠湾上空を偵察して、在泊中の艦船の状況を報告することである。そして、この偵察機は、戦艦9隻の停泊、航空母艦不在を確認・報告して、目的を達した。偵察であるから,戦闘行為でないという詭弁は通用しない。上空侵犯して敵の港湾を偵察する行為自体,立派な戦闘行為であり,軍事的には,偵察したときに「真珠湾攻撃」が開始されたといってもよい。
空襲作戦の第一段階が順調にいった。真珠湾空襲部隊の第1次攻撃隊第1波183機の発進は、午前5時55分、第2波167機の発進は、午前7時5分。真珠湾口では午前6時30分に、雑役補給艦アンタレスが国籍不明の潜水艦を発見し、米海軍駆逐艦ウォード(1200トン)に連絡し、午前6時3分には哨戒機が発煙弾を投下して、潜水艦の所在を教えている。

それでは,真珠湾攻撃での発砲の時期はどうかというと、1941年12月7日午前6時45分に、米国駆逐艦「ウォード」が,真珠湾入り口で発見された国籍不明の潜航艇(実は日本の特殊潜航艇)を4インチ砲で砲撃し、航空機が爆雷攻撃している。つまり、真珠湾攻撃においては,日本軍ではなく,米軍が「先制攻撃」しているといえる。

日本海軍の特殊潜航艇は「甲標的」という秘匿名称で呼ばれ,艦首に45センチ魚雷を2本装備した二人乗り潜航艇である。当初,艦隊決戦のために洋上で使用することを想定していたが,真珠湾攻撃にあたって,米海軍泊地に潜入し,雷撃して艦船を撃沈しようとした。航続距離は短く,電池を使い切った後は,充電もできないので,作戦地点までは伊号潜水艦の前部甲板に載せて輸送された。

特殊潜航艇による攻撃の後は,その乗員のみ回収する事になっていたが,実際に搭乗員が生きて帰ってくるのが困難なことは自明であった。だからこそ,甲標的による攻撃は,真珠湾空襲部隊とは別個に「特別攻撃隊」と呼称していたのである。真珠湾攻撃以後,オーストラリアのシドニー港、マダガスカル島ディエゴワレス港,ガダルカナル島沖合で実戦に投入されているが,戦果は確認されていない。

しかし,真珠湾攻撃という日米第一戦で,生還を期し難い「特別攻撃」が特殊潜航艇「甲標的」によって行われたことは,日本軍の中に,日米開戦当初から,特攻を効果があると認め,特攻を突撃精神の表れとして顕彰する思想があったことを示している。1944年10月から,フィリピン戦で航空機による大規模な特攻作戦が展開されるが,その萌芽は,すでに開戦劈頭に現れているといえる。

これは、戦争が差し迫っていることを認識していたキンメル海軍大将から、疑わしき場合も、敵対的行動に対して、即座に反撃、発砲せよと事前通告が出ていたためである。暗号解読によるマジックの報告を受けたルーズベルト大統領は,キンメル大将に,日本の攻撃が差し迫っているという警告を1941年11月25 日には与えていた。日米開戦を予期した米軍は,真珠湾攻撃の12日前に日本軍による奇襲を警戒し,国籍不明の敵対的行動にも躊躇せず攻撃せよとの事前通告を出していたのである。

1941年11月25日,ホワイトハウスでは,陸軍情報部ブラットン大佐は,ルーズベルト大統領ん,戦争を予測できる十分な情報を入手したことを伝えた。彼は,日本の無線を傍受して,日本海軍の暗号解読する「マジック」のメンバーで,フリードマン大佐は日本の最高機密を扱うパープル暗号を解読していたのである。11月25日のホワイトハウスでの首脳会議で,ルーズベルト大統領,スチムソン陸軍長官,ノックス海軍長官は,来週(12月1日)には日本の米国攻撃が差し迫っていることを理解しており,これは宣戦布告なく行われると考えていた。問題は,米国が甚大な損害を被ることがなく,巧みに画策して日本に対米宣戦布告させるか先制攻撃させるかである。最初の1発を撃たせるのはともかくとして,その被害を小さくするのは難しかったのである。

日米開戦時,日本軍の先制攻撃によって,甚大な被害,特に多数の人命が失われることになれば,大統領や軍高官は,米国指導者として,情報収集能力,危機管理能力が欠如しているとみなされ,世論や議会から大きな非難をうける。先制攻撃は,米国参戦理由になるので好ましいが,先制攻撃の被害は,米国の政治的,軍事的指導者にとっては,個人的な責任を伴う危険があった。

ルーズベルト大統領が,真珠湾攻撃を知っていながら,放置したという説は,被害縮小のための対策を指示していないことから,容易に反証できる。真珠湾の大被害,人命損失の責任を回避したかった大統領,米陸海軍の最高司令官たちは,ハワイにおける最高司令官,すなわち太平洋艦隊司令長官キンメル大将,陸軍部隊司令長官ショート中将を罷免する。これは,責任を転嫁したもので,キンメルとショートへの名誉毀損に当たる。

キンメル大将,ショート中将は,後に名誉毀損で訴え,戦後(死後),名誉は回復された。しかし,このような失敗に対する責任追求は,米軍に限らず,英国軍も厳しいし,ソ連軍,ドイツ軍では容赦がない。それに比較して,日本軍は厳正な軍紀を誇っていたが,軍高官に対する責任追及,処罰は甘かった。階級序列,陸軍大学・海軍大学の卒業成績の序列が,昇進や重要ポストの任命の基準だった。

1941年11月25日の米国ワシントンのホワイトハウスでの首脳会議では,日本軍の先制攻撃の目標が議論され,真珠湾からすべての航空母艦と半数の航空機を移動することが賢明であると判断した。そして,大統領は,軍へ戦争警報を発するように命じた。

「これは戦争警報である。日本軍による攻撃が数日以内に予測される。-----日本軍は,フィリピン,タイ,マレー半島のクラ地峡か,ボルネオ島へ上陸を敢行するであろう。」

当時ハワイにいた太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将,ハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将の陸海二人の司令官も,この戦争警報を 11月25日に受け取っており,は,全航空母艦2隻を護衛部隊とともにハワイから(日本軍輸送船団に迎撃できる)西方に移動した。ハワイ西方のウェーキ島,ミッドウェー島は孤立しており,そこに日本軍が攻撃を仕掛けたり,攻略のための部隊を上陸したりすることは十分に予測できたからである。ハワイ諸島の真珠湾から日本軍侵攻方向に向かって,空母エンタープライズ、空母レキシントンは別々に西進した。米国は、護衛はつけたが単艦で空母を使用し、多数の空母を一団とした機動艦隊はなかったのである。つまり,米軍は日本の攻撃が差し迫っていることを察知して,米国の空母部隊2隊を,日本艦隊や輸送船団の迎撃に向けた西進させたと判断できる。

米国では,航空母艦を複数集めた機動部隊としての運用はしておらず,航空母艦1席に護衛部隊をつける空母部隊を編成していた。太平洋方面の航空母艦は,エンタープライズ,レキシントン,サラトガの3隻であるが,サラトガはサンディエゴ海軍基地で改装中であった。そこで,当時,真珠湾基地から,西方迎撃に向かった米空母は2隻である。米空母は,日本軍が進撃してくるであろう日本の東方海上に向けて,迎撃体制に入ったといえる。

命令を受け,空母「エンタープライズ」と護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母「レキシントン」と巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。

米軍が航空母艦を「退避させた」というのは誤りである。たしかに,後になって航空母艦を中心にする任務部隊(機動部隊)が海軍の攻撃力の中核となったが,当時はまだ戦艦による艦隊決戦が制海権の帰趨を決定すると考えられていた。空母を集団利用する「任務部隊」(機動部隊)は米軍にはなく,空母は1隻ずつ戦艦の護衛あるいは補助攻撃力として分散利用されていた。

米国海軍は主力の航空母艦を温存するつもりであった,真珠湾攻撃を予知していて,攻撃の損害を旧式戦艦の損失だけにとどめようとした,などと邪知され,米海軍の空母が真珠湾に不在だったのはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を予知していた証拠である,など「真珠湾攻撃の陰謀説」が謳っている。

しかし,この狭義の「真珠湾攻撃の陰謀説」は,誤りである。米空母2隻は,,米国本土に向けて東方に退避したのではない。明らかに,日本に向け西方に進撃し,ウェーキ島方面とミッドウェ当方面で,攻撃してくる日本軍を迎撃する準備体制をとったのである。(空母2隻をまとめて運用する任務部隊ではなく,空母を1隻ずつ別方面に出動させた。)空母「エンタープライズ」と護衛部隊の巡洋艦3隻,駆逐艦9隻は,W.ハルゼー中将に率いられ,ウェーキ島方面に,空母「レキシントン」と巡洋艦3隻.駆逐艦5隻はミッドウェー島方面に,別々に,真珠湾を出航した。この西方への進撃は,ハワイ西方海上で,日本軍を襲撃するための迎撃作戦である。

①太平洋戦争開戦以前,米国は単艦で空母を運用しており,空母は戦艦を補助する艦艇として位置づけていた。したがって航空母艦は,海軍の主力ではない。 ②航空母艦を「退避」させるなら,日本に接近する東方に航行するはずがない。真珠湾攻撃が予測される方向であるから(実際は北方から迂回攻撃)。日本軍が,ウェーキ島,グアム島,ミッドウェー島を攻撃する場合に,航空攻撃を加える,あるいは艦隊来航により日本軍上陸部隊(輸送船からなる)に威圧感を与え,退避させることが,空母を西方(日本の東方海上)に向けて「進撃」あるいは「迎撃」させた理由である。攻勢防御,撹乱攻撃の準備のために,空母を日本に向けて西に航行させたのである。事実,日本軍は,開戦劈頭にウェーキ,グアム島を攻略し,ミッドウェー島を襲撃している。真珠湾攻撃部隊からも,帰路,援軍を派遣している。

真珠湾から米空母部隊を出航させ,ウェーキ島周辺で演習を行う,というのは,空母部隊移動の口実である。日本軍の攻撃(真珠湾攻撃ではなく)を暗号解読,情報分析によって察知していた軍指揮官としは,暗号解読の事実を日本に知られてはいけないし,米軍内部でも機密扱いである。そこで,日本軍の攻撃に備えた準備行動であっても,開戦していない以上,「演習」といったに過ぎない。

日本軍を迎撃するかのような攻勢をとったのは,太平洋艦隊司令長官キンメル大将である。キンメル大将は,ハワイの警備隊にも,敵の攻撃が差し迫っていること,敵と思われる物体(潜水艦・航空機など)へは,即座に攻撃するように事前に警告していた。この事前警告を受けていた駆逐艦ウォードは,国籍不明の潜水艦に,躊躇なく砲撃し,航空機も爆雷を投下している。

米軍が攻撃したのは、日本海軍の小型潜航艇(二人乗り、魚雷2本搭載)である。大型2500トンの伊号潜水艦5隻が、各1隻の特殊潜航艇を甲板に搭載し、真珠湾近くで、発進させた。排水量1000トン以上を伊号潜水艦,500-1000トン未満を呂号潜水艦という。特殊潜航艇の発進目的は、真珠湾内の敵艦船の雷撃である。したがって、真珠湾「空襲」で日米が戦闘を開始したというのは誤りである。

米駆逐艦の砲撃、哨戒機の爆雷投下はもちろん、真珠湾の偵察を目的とした水上偵察機の発進、特殊潜航艇の発進は、空襲部隊の発進と同じく、作戦行動であり、敵対行動、攻撃そのものである。銃火を構えて進撃すれば,発砲しなくとも「攻撃」である。米国の領海内に侵入し,空襲部隊と砲撃の準備した段階で,「攻撃した」とみなされる。

     


8.日本は、太平洋・アジアを侵略し、ドイツと並んで世界制覇を企てる悪の枢軸である、と見なされた

つまり、12月7日には、真珠湾以外にも、「サンフランシスコとホノルル間の複数の米国船舶が日本の潜水艦にが雷撃を受けた。マレー、香港、グアム島、フィリピン諸島、ウェーキ島も、日本軍に攻撃された。そして、今朝はミッドウェー諸島が攻撃された。」。さらに言えば,真珠湾攻撃前に、日本の南方侵攻がはじまり、艦隊司令官が英国偵察機の撃墜を命じ、陸軍航空隊もマレー半島侵攻部隊を援護して、英軍機を撃墜している(→宣戦布告と戦闘)。

・12月6日午後 インドシナ半島南端を西進する南遣艦隊は触摂中の英哨戒偵察機に対空射撃を行っている。そして、旗艦の重巡洋艦「鳥海」に座乘する司令長官小澤治三郎中将は無線封止を破って、南部仏印(インドシナ南部のフランス植民地)に展開中の麾下の航空部隊に撃墜を命じた。
・陸軍大将菅原道大率いる第三飛行集団の九七式戦闘機は上陸部隊を運搬する輸送船団に接近中の英国哨戒飛行艇を撃墜した。
・中国の上海では共同租界に武力進駐開始した。
・マレー半島コタバルKota Baru(現マレーシア)では南遣艦隊が上陸支援のため陸上を20センチ砲などで砲撃している。

日本は,米,英,オランダなどの厳しい経済制裁によって,石油,鉄屑などが輸入できず,在外資産も凍結されてしまったから,南方(東南アジア)の石油,ゴム,鉄鉱石など資源を手に入れることが最優先された。真珠湾攻撃は,南方に侵攻する日本軍が,太平洋方面で米国艦隊に攻撃を受けたり,米国植民地のフィリピンから,艦艇,航空機によって,南方と日本との海上交通が遮断されることを恐れての一撃ともいえる。

真珠湾を攻撃すると同時に,ハワイに上陸,占領するという作戦は,占領後のハワイへの補給が困難なためか,取り上げられなかったとされる。しかし,南方を確保することが最優先だったのであって,米国艦隊の撃滅は,そのための必要条件の一つに過ぎなかったといえる。

米国もこれら日本軍の南方侵攻は予知していたし,実際に攻撃を警戒していた英国から情報を入手しているはずで、暗号解読の状況とあわせて、日本の攻撃が差し迫っていることは容易に予想できた。

しかし、日本軍の南方への上陸作戦は,宣戦布告無しの攻撃であり、まさしく「騙まし討ち」である。その上、英国に対しては宣戦布告は用意していない無通告攻撃である。日本軍は,真珠湾空襲以前に,(日付は翌日8日であるが)マレー半島の英国領植民地マレー2ヵ所(現マレーシア)に上陸している。日本の同盟国のタイ王国とは、開戦するつもりはなかったが、マレー半島への攻撃の意図を隠蔽するために、上陸(攻撃でなく進駐)を (事実上)事前に通告せずに行ったため,タイと日本軍との戦闘も起こっている。これらの部隊は,シンガポール攻略をめざす陸軍部隊で,航空機,海軍艦艇の援護を受けていた。

騙まし討ちは、真珠湾だけではない。2時間前(但し現地時間は12月8日で1日遅れる)に、マレー半島東岸(英国植民地のマレーとタイ王国)複数箇所に日本陸軍が上陸し、シンガポール攻略作戦を開始している。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、航空母艦より飛び立った日本機は真珠湾を空襲し、碇泊中の戦艦5隻を撃沈する。しかし、それよりも以前、いやそれどころか、対米最後通牒の予定伝達時間よりもよりも 45 分も以前(午前 2 時 15 分)に、マレー半島東岸(英国領マレーとタイ王国)に日本陸軍部隊が上陸している。こうなると「太平洋戦争が真珠湾攻撃で始まった」という通説(俗説)も誤りである。当然、日本は、米国に宣戦布告はしていない---。それどころか、英国にもオランダにも、どの国に宣戦布告することもなく、和平交渉に熱心なふりをして、世界を騙し、突如として卑怯な攻撃を仕掛けた(と見なされている)。

米国がドイツの宣戦布告したのは、12月11日にドイツから対米宣戦を布告してきたのを受けてである。騙まし討ちの先制テロ攻撃をした日本に宣戦布告をし、報復するのは当然である。そして、日本の同盟国であるドイツが対米宣戦布告してくるなら,米国もドイツに反撃するのみである。

ドイツの宣戦布告は、日独伊三国軍事同盟に拘束されたものではない。三国軍事同盟では、敵の攻撃を受けた場合に、参戦する義務があることを述べている。先制攻撃を仕掛けた(1941年6月にドイツがソ連を宣戦布告なく攻撃)場合,同盟国でも参戦する義務はない(日本はソ連を攻撃せず、南方を狙った)。

米国は、英国同様、反ファシズムの立場から、武器貸与法により、共産主義のソ連に軍事物資を貸与したが、ソ連には、軍や義勇部隊を派遣してはいない。ドイツは、英国,ソ連と既に戦闘を続けており,ドイツ参謀本部も米国参戦などするつもりもなかった。しかし、総統ヒトラーは、日本の真珠湾攻撃から4日間熟慮して、12月11日に対米宣戦布告を行った。

日本のドイツ駐在大島大使は、幼いころより在日ドイツ人家庭と親交があり、ドイツ語も上手であり、ドイツ駐在武官時代よりヒトラーの信任も厚かった。ヒトラーは、大島大使に、ドイツのソ連侵攻を伝えたし、その他の重要な作戦についても情報を随時提供していた。ドイツとしては、アジアにおける英国植民地やオーストラリア方面に日本が攻勢をかけることを望んでいた。

英国は、カナダ、オーストラリアなど英国連邦から兵力を借りていたし、植民地インドの人員と資源は英国の戦力維持に有用である。さらに、英国は大西洋会談などで、米国との軍事的結びつきを深め、米国の軍事支援を得て、ドイツに反抗していた。ドイツは、英国の戦力を衰えさせるために、極東、アジアでの日本軍による英国植民地の攻撃を望んだ。もしかすると、日本が米国へ戦争を仕掛けることも期待していたかもしれない。また、1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を破って、ソ連に侵攻したが、その冬にはソ連が屈服しそうもないことを理解した。ドイツは、日本が第二次大戦にドイツ側に立って参戦することを望んでいた。

しかし、ドイツが米国に宣戦布告するとなると、英国もソ連も降伏しない状況で、さらなる大敵と対峙しなくてはならなくなる。つまり、ドイツとしては、、東西に正面戦争の最中に、米国と好き好んで戦争することは、それまで避けてきたのである。そのドイツが、対米宣戦布告をしたのはなぜだろうか。答えは、ユダヤ人問題の解決とドイツにおける反ヒトラー・和平の動きである。

ヒトラー総統が、1941年12月11日に、自ら対米宣戦布告した理由は、次のように考えられる。
①ユダヤ人は、国際金融,,メディアを牛耳ることで、商業主義に毒された米国を操り,共産主義を欧州に蔓延させてドイツを衰退させようとしている(とヒトラーは思い込んでいた)。

②世界戦略からみても、英国、ソ連が欧州でドイツに対抗できるのは,米国の支援があるためであると、見抜いていた。米国の支援を断ち切らない限り、ドイツの勝利は困難である。

③米国には孤立主義が蔓延しており,(ロビー活動やユダヤ人のメディアで)形骸化した民主主義を信奉しており、戦争に自ら志願する国民も,強力な物資統制を伴う動員に協力する国民もいないと読んでいた(これは大きな誤り)。

④戦備拡張のための動員が、順調には行かないのであれば、大西洋を隔てた米国の軍事力は脅威ではない。かえって、英国,ソ連を支援にする輸送船を米国沿岸で、心置きなく潜水艦で撃沈できる(これは大戦果を上げる)。

⑤ドイツ国内を見ても,ソ連侵攻がモスクワ手前で失敗している状況で,ヒトラーへの信頼が揺らいでいる。ドイツ国民にも厭戦気分が高まってきた。独裁者としては,ドイツ軍が和平に動き出す道を断つ必要がある。そのために、米国に宣戦布告して「背水の陣を敷く」必要がある(1944年には反ヒトラーのクーデターが起こる)。

日本の真珠湾攻撃,日米開戦が、ヒトラーに、和平の道を閉ざして世界戦争を開始し,東方生存圏の確立,欧州大陸支配の必要条件として,米国の打倒が考えられた。そして、アーリア人支配とドイツの平和を妨害するユダヤ人勢力は、米国の金融資本・マスメディアを握っているから、米国のユダヤ人の打倒・影響力排除も必要である。対米戦争は、ユダヤ人問題の最終解決に有利であると判断できる。つまり、ドイツの欧州支配・東方生存圏の確立、ドイツ国民と軍の掌握、ユダヤ人問題の最終解決のために、ヒトラー総統は、対米宣戦布告を決意したといえる。

ドイツは,ポーランド、ソ連には宣戦布告なく一方的に攻撃し,英仏は9月3日にポーランドとの軍事同盟から、ドイツに宣戦布告した。ヒトラーは,1941 年12月11日,米国にはドイツ帝国国会で宣戦布告をする。これを受けて、米国もドイツに参戦する。しかし,ルーズベルト大統領にとって、ドイツと戦うきっかけが(ドイツの宣戦布告)がなかったら、連邦議会は対日宣戦布告だけで、ドイツへの宣戦布告はできなかったであろう。ルーズベルト大統領は、欧州を支配しているドイツを最も嫌っていたから、ヒトラーの対米宣戦布告は、最大級の僥倖である。

ルーズベルト大統領は、1939年9月に勃発した欧州対戦には、「米国の若者を他国のために派兵し殺すようなことはしない」と公約していた。もちろん、武器を英国に貸与する、海軍部隊を英国輸送船団の護衛につかせるなどの反ドイツ的行動をとっていた。また、1940年には50隻もの駆逐艦を米国に貸与しているし、護衛中の米国艦船が(ドイツ潜水艦Uボートから英国艦と誤認され)撃沈され、米国人乗員が死亡したこともあった。それでも、欧州大戦に参戦せず中立を守ってきた米国の世論は、孤立主義というにふさわしかった。それが、ドイツの対米宣戦布告で、一気に覆されてしまう。

米国国民も、「日本とドイツは世界を征服しようとしている」というプロパガンダを信じてしまう。なんといっても、日本とドイツは、中立だった米国に進んで先制攻撃を仕掛けたのだから。日本はアジアに大東亜共栄圏、ドイツは欧州支配と東欧・ソ連に東方生存圏をつくるだけでも精一杯だったのに、南北アメリカ、オーストラリアを含む世界を支配しようと大戦争を仕掛けてきた、このように「連合国」の国民は信じることになり,厳しい動員にも積極的に戦争協力するのである。

     


9.真珠湾攻撃の大戦果も,米国の造船関連施設や工業力の強靭さのために,米国の戦争遂行にとって支障とはならなかった。

日本のあげた戦果についても,その後の戦闘経過から見れば,決して大きなものではなかった。
真珠湾で日本が撃沈した戦艦5隻はいずれも旧式の3万トン、14インチ二連装砲塔、22ノット程度の低速艦である。

新型戦艦(ノースカロライナ級)は3万5000トン、長口径新式16インチ砲三連装砲塔、27ノットで、既に進水していた。さらに,より大型の4万 5000トン、高速33ノットのミズーリ級の新型高速戦艦さえ続々と完成の予定であった。熟練した水兵たちの損失は米海軍に痛手である。しかし,旧式戦艦の損失(全損2隻、修理5隻)は、その後,大艦巨砲主義に基づく艦隊決戦がほとんど起こらなかったことからみて、大きな障害とはならなかった。

もっとも,新型戦艦を6隻も建造した米国は,資源・技術・労働力の面で無駄が多い。高速戦艦を航空母艦の護衛に使った,陸上砲撃に活用した,第二次大戦後も砲撃や巡航ミサイルの発射に活躍した、というのは,他に使い道がなかったからである。巨大戦艦を建造してしまったからには、少しでも先頭に役立つような用途に使用するが、その資金を別の用途(航空兵力の開発・拡充など)に回したほうが、軍事的により大きな成果をあげることが出来たはずだ。

       

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