Neetel Inside 文芸新都
表紙

アハッピーメリーマリークリスマス
A Happy Merry Marry Christmas

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 ○1○
 
 今年のクリスマスは決めると心に決めていた。
 いい歳した齢三十の社会人男性ともなれば、それはもう、そうなのである。

 決めなければならないのである。

 薬の事ではない。

 プロポーズを、だ。
 
「……スター、マスター、ねぇマスター、聞いてます?」

 いつの間にかボーっとしていたらしい。僕の対面に座った女性は、不機嫌そうな顔で頬を膨らませていた。
 ここは街中にあるお洒落なカフェである。店内に緩やかなボサノバが流れた、いかにもカップルが好んで使いそうな店だ。
 
「何考えてたんですか? マスター」
「日本の経済事情について少々、ね」
「具体的には?」
「金が欲しい」

 そして僕の向かい側に座る、僕の事を何故か“マスター”などと呼ぶお姉さん系バストサイズCカップの女性は、奇妙な事に僕の恋人のようだった。美人だが好みではない。
 彼女は僕の恋人だと自称する、だが僕はそれを許可した覚えはない。

 彼女と出会ったのは今から約七年前。
 七年前のクリスマス、この世界に『クリスマスガール』と呼ばれる美女達が突如として出現すると言う、非常に奇妙な事件が起きた。

 それは、モテない男子達に渡された、まごう事なき神様からのクリスマスプレゼントだったのだ。
 そう、彼女は、僕に神様から贈られたクリスマスプレゼントだった。人の事をプレゼント扱いするのは流石にどうかとは思うが、そう説明しないと表現のしようがない。
 僕と彼女はどうやら奇妙な縁で結ばれているらしく、僕が大学生だったころも、就職をして新卒社会人になっても、そして今も、疎遠になる事なくこうして会っている。
 もうかれこれ七年だ。我ながら変な関係だ。
 
「ちょっとは人の話聞いてくださいよ」
「何の話してましたかな?」
「十二月二日ですよ。映画見に行こうって言ってたじゃないですか」
「そんな事言ってたのか」
「言ってたじゃないですか! ずーっと僕はあれが見たいこれが見たいって、何なら私より率先して話してたじゃないですか!」
 まるで記憶にない。ほとんど反射で喋っていた事は間違いないだろう。
「一応聞きますけど、どの辺りまで覚えてます?」
「『お待たせしました、マスター!』までかな」
「それ朝! 今日の朝!」

 いちいちうるさい女だ。今の僕はそれどこではないと言うのに。

「十二月二日は……無理だな」
「うえぇえー!? あれだけ話詰めといて!?」
「うむ、ちょっと用事があるのだよ」
「恋人である私を差し置いた用事って何なんですか!」
「買い物」
「連れてけよ! 一緒に行ったら良いでしょうが!」
「一人で買いたいデリケートな物なんだ」
「デリケートとか似合わないツラして何言ってんですか」
「言うねぇ……」

 まぁ、僕が無意識下で彼女と約束していたのだとすると、確かに訳が分からないだろう。致し方ない話である。
 しかし、今回の買い物は彼女と行くわけには行かなかった。

 何故なら、これは準備だからだ。
 今年の僕は、どうしても決めなければならないと自分に課していたのだ。

 この女に、プロポーズを。
 

     

 ○2○
 
 十二月二日。
 僕は繁華街にある、とある店にやって来ていた。
 ネットで読んだのだ。この店は『アレ』を買うのにとても良い選択が出来ると。

 店内は、とても落ち着いた装飾をしていた。薄暗いライトに照らされ、ショーケースの中が目立つように空間が作られている。
 こう言う店にはあまり入らないから、やはり緊張する。
 落ち着け、今日の僕は客なのだ。大丈夫だ。行ける。
 周囲の客に気付かれないよう、静かに呼吸を整えていると、いらっしゃいませぇ、と宝石店に似つかわしくないスーパーみたいな掛け声が聞こえてきた。

「お客様ぁ、良いでっしょう? とても良いでっしょう? このジュエリー達。海外の有名、マイナーブランド関わらず、うちのディーラーが直輸入しているんですぅ」
「はぁ、そうですか」

 話しかけて来たのは女性だった。話し方がかなり胡散臭い。僕とそう変わらない歳にも見えるが、どこかおばさん臭が漂う。先ほどの掛け声はこの人が放ったようだ。
 胸元には『神野みこと』と書かれたネームプレートをつけている。プラチナスペシャリスト、と肩書きがされているのだが、凄腕なのだろか。とてもそうは見えない。
 
「お客様、今日はプレゼントか何かでお探しですか?」
「え、ええ、まぁ」
「ちなみに、ご見当されている商品とかは?」
「いえ、まだ。ただ、その……」
「はい?」
「ゆ、指、指」
「指? Finger?」
「No finger! その、指……指輪にしようかなと……」
「あらぁ! 指輪! 素敵ですねぇ!」

 話すべきか迷ったが、店員に隠しても仕方ない。むしろ話さないと、とんでもない物を売りつけられる可能性もある。
 南無三、と僕は内心で神に祈り、この店員に全てかけることにした。例えブリ大根の指輪になったとしても恨んでくれるな。
 
「実は、結婚指輪を探しているんですが、その、値段の相場とか全然分からなくて……」
「あら! なんて素敵なんでっしょう!」いちいちリアクションがでかい。「そうですねぇ、お値段であれば、一般的に『給料三ヶ月分』なんて言いますけど――」

 ギクリとした。一応それくらいの予算は視野に入れていたが、いざ口にされると惜しくなる。

 あの女に、僕が給料三か月分?
 たまらない。

 いや、良いのだが。
 そうだ、良い。そのつもりなのだ。
 良い。そう、良いのだ! もうどうでも良い!

 僕が頭の中で半ばやけになっていると女性は言葉を続けた。
 
「一般的に『給料三ヶ月分』なんて言いますけど、最近は決してそういう訳でもないんですよぉ」
「詳しくお話をお聞かせください」半ば喰い気味に答えた。

 いよいよ本格的に接客に入ろうかとしたところで、不意に「神野さん、お電話です」と別の女性店員が奥から声をかけてきた。
 水を差された為か、女性の顔が一瞬般若の様な顔になり、瞬時に戻る。サブリミナル効果かと思うほどの早変化だった。

「すいませんねぇ、二十秒、お待ちいただけますか?」
「はぁ……」

 ホホホと愛想笑いを浮かべながら、店員は奥へと引っ込む。接客中に電話に出るのか、と内心驚いていると、店の奥から「テメェ人が接客中なの見えねぇのかよあぁ!?」と鬼の様な声が聞こえてきた。
 その後間もなくして、再び店員が現れる。
 
「ホホホ、すいませんねぇ。あの子新人でして。知らないって怖いことですねぇ」
「いえ」僕はこの女が怖い。
「それで、指輪の話なんですが、昨今ですとダイアモンドではなくて、誕生石を用いたオーダーメイド指輪なんかも流行ってるんですよぉ。しっかりとしたプラチナのリングに、デザイン装飾も色々あって、値段もお手ごろで、若い方に特に人気が出てるんです」
「誕生石……」

 悪くないかもしれないな。ピンと来た。
 彼女の誕生日か。
 いつだ?
 知らない。
 
「じゃあ、とりあえず十二月の石を教えて下さい」
 すると店員はカタログを出して三つの石を見せてくれた。
「十二月だと、ターコイズ、ラピズラズリ、タンザナイトなどがありますぇ。ラピスラズリは頭痛や喉の痛みに効くんです」なんだそれは。
「この三つだと、人気が高いのはタンザナイトですね。知性や意識を高める石とされていて、石言葉は空想・冷静・神秘」
「なるほど……」

 彼女にはもう少し歳相応の冷静さは持っておいて欲しいと思っていたのだ。存在も神様からのプレゼントと言う、神秘的で空想そのものだし、ピッタリではないか。

「じゃあ、このタンザナイトの指輪をお願いします」
「ありがとごじゃまーす!」
 けたたましい声が響き渡る。この人本当に大丈夫か。

 だが、後に分かった事だが、この女は全店ナンバーワンの売上げを持つ女だった。


 とにもかくにも、クリスマスの準備は、これで万端だ。
 受取日は十二月二十三日。
 そして、あの女との会合は二十四日に取り付けてある。日曜で互いに会社が休みなのだ。
 今年のクリスマスは、僕にとっても、彼女にとっても、忘れられない一日になるだろう、恐らく。
 
 

     

 ○3○
 
 今年のクリスマスイブは日曜だ。
 だからか、電車の中には驚くほど沢山のカップルが生息していた。
 人が人生一世一代の大勝負を仕掛けようとしているのに、皆、呑気な事に顔一杯に笑みを浮かべている。今日と言う一大イベントに、気がはやるとでもいうのか。
 
「ぐふふ、ぐひへへ、えへぇ」

 そうだ、僕の横にも、同じく気がはやっている奴がいた。
 彼女は、世にも不気味なだらしない表情で、今にもよだれを垂らさんとばかりに顔を緩めている。

 三メートルは離れたい。
 それが、僕の本音だ。

 僕達は電車に乗って、繁華街へと向かっていた。そこのレストランを予約しておいたのだ。以前仕事の接待で使った店だったが、とても良い雰囲気だったので採用した。
 この女にそんな素敵な店などもったいないと思ったが、今日は僕のプロポーズの日なのだ。
 三十歳にもなって、ファミレスでプロポーズを行う男になることだけは、避けねばならない。

 車内は人が多く、混んでいる。僕達はドアの傍に二人して立っていた。
 
「うひひひ、うししし」
「そのクソ汚い緩んだ顔を今すぐ畳むんだ。いいな、十数える間にだぞ」
「だってぇ、まさかマスターから『二十四日に食事をしよう』なんて誘ってくれるなんて思わないじゃないですかぁ。毎年私から誘ってばかりだったし、何ならデートも私から誘ってばっかりですし、そりゃあ嬉しくて緩んじゃいますよぉ」
「あれはデートじゃない。付き添いだ。介護の一種なんだよ」
「またまたぁ、照れちゃってぇ、グフヒヒヒ」

 こうなってはもう手がつけられない。今日のヒロインとは思えないほど汚い笑みだ。見るに耐えない。この女がこれから僕の人生におけるメインヒロインになるのか。
 僕は溜め息を吐いて窓から外を眺めた。
 この時期は陽が沈むのがはやい。既に太陽は大分傾いており、真っ赤な夕焼けとなってその光を車内に射し込んでいた。もうすぐ冬の寒空に星が瞬き出すだろう。
 僕はそっと、右ポケットに入れた指輪の存在を手で確認した。鞄に入れても良かったが、手元にないとどうにも落ち着かない。ちゃんと入っているな。
 
「吉田部長、そんなところに乗っけてたら忘れちゃいませんか?」
「いやぁ、意外と重くてね、これ」
「もう、無くしちゃダメですよ? 重要なんですから」

 ボーっとしていると、隣に立っているサラリーマンとOLの会話が耳に入ってきた。座席上の棚に大切な書類を置いているらしく、それを部下らしき女性が指摘したのだ。
 男性のほうは、何だか頼りなく、いかにもと言った感じのしょぼくれたサラリーマン。
 一方で、女性はとても美しい人だった。仕事が出来そうな、しっかり者と言った印象。
 あんな女性と一緒に歩くとさぞかし比べられるだろう。気の毒に。会って五秒くらいのサラリーマンに、僕は内心同情した。日曜――しかもクリスマスイブに仕事か。ますます気の毒だ。
 
「次の現場はどこでしたっけ」
「たしか四越デパートじゃないかな。あそこは六時くらいから込み出すんだよ。僕達みたいに休日出勤したサラリーマンが、帰り際にプレゼントを買うんだ」
「割と何でも揃いますもんね。種類も多いし」

 量販店への営業か……。耳にしただけでもゾッとする。営業の外回りとか、販売業とか、接客系は僕が最も苦手とする仕事の部類だ。多分、彼らにとっては今が一年で一番の繁忙期なのだろう。
 こうやって頑張っている人がいる一方で、僕の目の前で顔を緩めている人間の屑みたいな女もいる。会社ではそれなりに活躍する経理らしいのだが、とてもそうは見えない。世の中とは本当に、平等に出来ていないものだ。
 
「君も仕事しろよ」
「えっ!? 何ですか急に」
「もっと現実を見るんだ。明日は仕事だし、きっと忙しい。そのことを自覚するんだ」
「クリスマスくらい夢見させてくださいよ……」

 酷い扱いに見えるかもしれないが、この女はこうやってたまに水を差さないと、勝手にヒートアップして暴走し出す傾向にある。これで適正なのだと知った瞬間、いつしか僕の中から遠慮は消えた。
 落ち込む彼女の姿をよそに、僕は再び先ほどのサラリーマン達の会話に耳を傾ける。

「そう言えば、今年は豊崎さん、来られないんですね」
「ああ。驚いた事に、彼は来年から本部長になるらしいよ。現場に出ている暇はないんじゃないかな」
「さすが、本社のエリート」
「生粋のたたき上げだからね。実力をガンガン発揮してるんだろう」
「私達も負けてられませんね、吉田部長」
「その部長って言うの、ちょっと落ち着かないね」
「いいじゃないですか、出世したんだから」
「出世しても現場応援は変わらないよ」

 その時、車内アナウンスが流れ、次の駅名が読み上げられた。

「そろそろ着きますよ」
「ああ、ちょっと時間押してるな。急がないと」
 やがて電車が駅に着き、サラリーマンとOLはそんな感じに仕事の話をしながら降りて行った。その後姿に、内心エールを送る。

 あのサラリーマンには、何故か他人とは思えない不思議な繋がりを感じるな。

 そう思い、ふと、座席の上に目を向けると、先ほどサラリーマンが置いていた書類の入った茶封筒がそのまま置きっぱなしになっていた。
 
 マジか。
 ジリリリ、と発射ベルが鳴る。
 どうする?
 一瞬考えた後、僕は言った。

「降りよう」
「えっ? でも目的地は次の駅ですよ?」
「時間はある。大丈夫さ」

 僕はそう言うと、棚から封筒を取り、彼女の手を引いて電車を降りた。
 降りてすぐ、先ほどのサラリーマンとOLの姿を探す。

 いた。
 階段を上っている。
 急いで追いかければ、間に合うはずだ。

 歩き出そうとした途端、「ぐへへへ」と背後から不気味な笑い声が聞こえ、僕は振り返った。
 彼女が、先ほどの緩んだ表情に、更に輪をかけてだらしない顔をしていた。
 
「化け物かよ」
「だって……今日のマスター、とってもダ・イ・タ・ン」
「あぁ?」

 気でも狂ったかと思っていると、自分がいつの間にか彼女の手を握っている事に気付いた。咄嗟の事だったので無意識にしてしまっていたのだろう。
 僕は彼女の手を振りほどくと、ズボンでそっと手を払った。
 
「ちょっと! それ! 何で手を払うんですか!」
「事故だからだ」

 先ほどの階段に目を向ける。下らない茶番をしている間に、もうサラリーマン達の姿は見えなくなっていた。
 
「君が下らない事を言うから見失っちゃったじゃないか」
「えぇ? 何の話ですか?」
「いいから、行こう。訳は後で話す」

 僕が歩き出すと「ちょっと待ってくださいよ、マスター」と彼女は口を開いた。
 振り返ると、そっと手を差し出される。
 何のつもりだ。怒りに手が震える。
 
「手、握っとかないと、飛んでっちゃいますよ。風船みたいに」
「火星まで行け」
「あぁ! ちょっとマスター! 待ってくださいよ!」

 僕が歩き出すと、彼女は声を上げて追いかけてきた。
 手? 繋ぐはずがない。
 そんな事したら手汗が出るではないか。
 
 

     

 ○4○
 
 急いで会社員二人を追って改札を出たが、とうとう見つかる事はなかった。
「遅かったか……」
 あの時見失ってしまった事が悔やまれる。
「ちょっとマスター。さっきからそんな大きな封筒持って、何やってんですか。いい加減教えて下さいよ」

 不機嫌そうな彼女に「あぁ」と僕は口を開いた。

「電車でこの封筒を置き忘れていた人がいてね。大事だとか話してたのが聞こえてたから、追いかけたんだよ。……でもどうやら見失ってしまったらしい」
「えぇ!? 何で見失っちゃったんですか! もう、マスターは肝心なところでいっつもそうなんだから」

 僕がこの女をどうやって八つ裂きにしようか考えていると「もう、仕方ないですね」と彼女は声のトーンを変えた。

「交番に持って行きましょう」
「交番? 駅の改札じゃなくてか」
「駅員さんに渡すと、違う場所に運ばれちゃうんですよ。駅の落し物は、一箇所に集めて一括管理してるらしいです。私も以前財布落とした時、えらい苦労しちゃいました」
「そう言えば夜中三時くらいに泣きながらうちに来た事があったな」
「それですそれです。良く覚えてますね」

 忘れるはずも無い。深夜にベッドで寝ていたら、玄関のドアをドンドンと叩きながら「開けろ」と泣き叫ぶ女の声が聞こえてきたのだ。心臓が止まるかと思うほど恐怖した記憶がある。
 
「確かあの時マスター、何故か包丁を持ってましたよね。もう、やっぱりおっちょこちょいなんだから」
「時代が時代なら叩き殺していたと思うよ。……でも交番か。電車で落し物したら、普通駅員に尋ねるから、ますますややこしくならないかな」
「駅員さんに言伝を頼むのはどうでしょう」
「かえって怪しくないか。まぁ、他に方法もないし、やるだけやるか。……でも君、えらく従順だな。もっと文句言うかと思ったが」
「いつもなら、文句言ってたかも知れませんね。でも、今日はクリスマスですから。今日くらい、サンタ気分を味わうのも悪くないかなって」
「プレゼントが書類って嫌だな」

 一度改札に戻ろうかと思ったが、そこで駅前にある四越デパートが目に留まり、ふと足を止める。

「なぁ、ちょっと書類を届ける前に、寄ってかないか」
「えっ? デパートにですか? 後でもいいんじゃあ……」
「実は、この書類を落とした二人が、四越に行くって話をしてたんだよ。今なら会えるかもしれない」
「行き違いになったらまずくないですか?」
「どの道届けは出すだろうし、少しくらいなら遅れたとしても心配ないさ。それより、なんだかこっちに行ったほうがいい気がするんだ」
「何なんですか、その勘」
「クリスマスの勘、だったりして」
「意味わかんないですよ」
 
 そう言いつつも彼女は、猫みたいな目でこちらを見ている。確かな好奇心が宿っていた。クリスマスガールとして生み出された彼女は、クリスマスに関連付けられると逆らう事が出来ないらしい。
 
「まぁ、たまにはマスターの気まぐれに付き合うのも悪くないですね。借しにしておきます。プレゼントで返してくださいね」
「嫌だ」
「えぇ!? 話の流れ的にそこは肯定してくださいよ!」
「いい歳した女の頼むプレゼントほど怖いものはない」
 僕達はああだこうだと言い合いながら、デパートへと向かった。

 中に入ると、赤や緑や白などの色を基調にしたクリスマスカラーの装飾がまず目に飛び込んできた。オルゴールアレンジのクリスマスBGMが館内に流れ、建物が辺り一帯、クリスマスの気配に彩られている。お客も多く、カップルだけじゃなく、家族連れで来ている人の姿も度々見受けられた。

「うわぁ! 素敵ですねぇ! マスター!」
 メインエスカレーターの前にある馬鹿でかいクリスマスツリーを眺めて、彼女は目を輝かせる。
「君は本当に、クリスマスが好きだな」
「そりゃあもう! なんたってクリスマスガールですから」

 一応自分がクリスマスプレゼントだったと言う自覚は彼女の中にまだあるらしい。
 彼女が地上に降りてきてもう七年か。生命として意識が始まったのは、彼女にとって七年前からになる。
 神様の都合で作られた存在、クリスマスガール。
 そんな不安定な存在、僕だったら発狂しているかもしれない。そう言った意味では、彼女の底抜けな明るさはある種救いでもあるのだろう。
 
 二人で一緒にデパート内を歩く。サラリーマン達の姿を知っているのは僕だけなので、彼女はどちらかと言うとウィンドウショッピング気分の様だった。付き合わせた身としては、その方が気が楽だ。
 三階のおもちゃコーナーに来た時、ふと彼女が足を止めた。
 視線の先には、大きな鉄道模型が並んでいる。ミニチュアで駅が再現されており、その造形は見事だ。沢山の子供たちが、夢中でその模型を眺めていた。

「素敵ですねぇ……」
「これは、見事な展示だな。子供も夢中になるわけだ」
「そうじゃなくて」
「えっ?」
「子供達がクリスマスに、オモチャを見て夢中になってる。この平和な光景が、素敵だなって」
 
 確かに、見てみるとクリスマスの装飾も相まって、とても温かい光景に思えた。
 
「子供かぁ……」
 
 同じ歳の友達は、早ければもう二、三人子供を生んでいる。保育園や幼稚園に通い出すような歳にもなっているのだ。そう考えると、僕は随分と遅いのかもしれない。
 自分が親になった時の事を想像しても、全くイメージが湧かない。

 ふと、視線を感じ、見ると彼女と目があった。
 すると彼女は真っ赤になり、そのまま顔を背ける。
 
「ふた、二人くらいですかね」
「何が」
「こ、子供」
「ああ、二人くらいが良いかもなぁ。三人兄弟ってのも悪くないけど」
「さ、さ、三人ですか!?」
「えっ? ああ。うち三人姉弟だし。一番上は姉なんだが、姉が統率するって言う姉弟関係は、割とまとまりがあって良かったな」
「へ、へぇえ、産めるかなぁ」
「産む気なのか」
「えっ? ま、まぁ……」
 
 誰の、と聞きそうになったが、そう言ったデリケートな点を聞いても良い物か迷った。迷っていると、妙に重い沈黙が降り注ぐ。何だこれは。

「君が良く分からん事言うから、変な空気になったじゃないか」
「すいません……」
「そう言えば、他のクリスマスガールはどうしてるんだ。もう皆母親になってたりするのかい? この世界に降りたのは、何百人も居たはずだろ?」
「ええ、まぁ。先日同窓会を行ったんですが、何人かはママになってましたね」
「皆、当時のパートナーと結婚を?」
「いえ、それがそうでもないみたいで……。浮気されたりとか、事故でパートナーが死んじゃったりとか、色々あるみたいです。当時のパートナーと今も一緒に居るのは、七、八割くらいでしょうか」
「プレゼントをどうしようと人の勝手……か。パートナーの為に贈られたのに、君達にしたら、ひどい理不尽な話だな」
「ただ、不幸って感じの子は居なかったですね。一時は心が落ち込んでも、助けてくれる誰かが居てくれたり、支えてくれる人が居てくれたみたいで」
「神様が創ったクリスマスガールだから、神様の加護があるのかもな」
「そうだと良いですねぇ」

「お客様、そちらの商品、いかがですか?」

 話していると、不意に声をかけられ、僕らは同時に振り向いた。

「そちらの商品、小さいお子さんに、とっても人気があるんですよ」

 あっと、思わず声が出そうになる。
 立っていたのは、僕が電車で会ったあのサラリーマン達だった。

     

 ○5○

「ミツケタ、ミツケタ……」

 僕がサラリーマン――確か吉田部長だったか――の腕を掴むと、隣にいたOLが「吉田さん!」と声を上げた。

「騒ぐな。騒ぐとこの男をコロス」
「えぇっ!?」吉田部長が声を上げる。
「ちょっとマスター! 何やってんですか! その人たちに何の恨みがあるんですか!」
「えっ? 恨み? 無いが」
「じゃあ恨みも無いのに私を殺そうと!?」吉田部長が震え上がる。
「殺す? 何言ってんですかあんたは。何で善良な市民である僕がそんな事するんです」
「いや、今あなた、自分で“殺す”って言ってたじゃないですか」
「はぁ? そんな事言ったか?」

 僕が彼女を振り返ると、彼女は静かに頷いた。
 なるほど。
 
「どうやら手違いがあったようで」
「手違いでこんな事を?」

 僕は吉田部長の手を離すと、ふうと一息ついた。
 
「まぁ別に。悪気はないんです。許せ」
「悪気しかないように感じられましたが……」
「僕はあなた達にこれを渡すためにやって来たのです」

 僕が吉田部長の発言を無視して鞄から封筒を出すと、OLが「あっ」と声を出した。
「部長! それ! 電車の棚に置いたやつですよ! 新商品の予算見積もりとか企画概要とかの書類!」
「そう言えば、降りる時持って行くのを忘れてたな……」

 そんな重要な書類だったのか。電車の棚に置くと言う管理体制に不安しか感じない。

「どうしてこれをあなたが?」
「実は電車で、あなた達のすぐ隣に居たのです。それで、お話が聞こえてきて。大切な書類だとおっしゃっていたので、追いかけてきました」
「そうでしたか……それは、何とお礼を申し上げて良いものやら。本当にありがとうございます」
「いえ、人として、当然の事をしたまでですから」

 確信した。この空気であれば乗り切れる。

「マスター、遠回りした甲斐がありましたねぇ! これで先ほどの殺人予告はチャラです!」

 真の敵はいつも一番身近に居るものだと僕はこの時知った。

「と、とにかく、我々はこれで」
 蒸し返されて騒がれてはたまらない。急いでその場を離れようとしたところ「待ってください」と声を掛けられた。
「あなた方、今日は何か用事が?」
「えぇ、まぁ。食事に行く予定でした。とは言え、時間的にまだ余裕はあるので。ご心配なく」
「いや、それでも本当に、ありがとうございます。忙しい中、こんな場所まで。中々出来る事じゃない」

 まぁ、確かに。ここまで追いかけて来る事は普通じゃありえないだろう。と言うよりも、いつもなら、恐らく僕もここまでは追いかけて来なかったかもしれない。
 今日、僕が彼らにこうして届け物をしたのは、明確な理由があったからだ。

「良いんです。今日は、クリスマスじゃないですか」

 僕が言うと、吉田部長は「……そうですね」と嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ところで、お二人はオモチャのメーカーの方か何か?」
「ええ。クリスマスに子供達に喜んでもらう。それが、我々の仕事です。この鉄道模型も、うちの商品で。こんなに綺麗に飾ってもらって、子供達が見てくれている。嬉しい事ですよね」

 そう言って、吉田部長とOLは静かに微笑んだ。僕達も、釣られて笑みが浮かぶ。
 これこそが、本当に誇りあるサラリーマンと言うものだ。
 こんな人達のためなら、わざわざ遠回りをした甲斐もある。心からそう思った。
 
「それにしても……」
 吉田部長が口を開く。
「あなたとは、何だか初めて会った気がしないな」
「あなたもですか? 実は僕もなんです」
 僕達は二人して妙な感覚に首を傾げた。



 オモチャコーナーを出た僕達は、もう少し時間があるという事で、館内を見て回る事にした。

「いやぁ、良かったですねぇマスター! 人助けをした後は実に気持ち良いもんです!」「君のせいで一部追い込まれた部分もあったようだが」
「そりゃあマスターがおかしな行動するからでしょう」

 図星なだけに、言葉を返せない。しかし、納得がいかない。
 僕がこの女をどう八つ裂きにしてやろうかと考えていると、チョイチョイと誰かにマウンテンパーカーの裾を引っ張られた。思わず足が止まる。何だ。何かに引っかかったか。視線を下にやる。

「兄ちゃんおらんねん……」

 僕の服を引っ張っていたのは、子供用のベンチコートを着てマフラーを巻いた、泣きそうな顔の小さな子供だった。
 坊ちゃん刈りで、今にもくしゃくしゃにしたくなるほどのマシュマロほっぺをしている。何て愛らしいんだ。

「ヘイボーイ。どうしたんだい? お兄ちゃんとはぐれたの?」
 僕が尋ねると、子供はコクリと頷く。
「紅子もおらへん……。竹松も」
「紅子と竹松?」

 何だその松竹梅みたいな組み合わせの名前は。知り合いだろうか。

「どうしたんですか? マスター」
 当惑していると、先を歩いていた彼女が戻ってきた。僕と子供を見て、目を丸くしている。
「その子は?」
「どうやら迷子みたいだよ、ワトソン君」
「誰がワトソン」

 突っ込みながらも既に彼女は、子供のマシュマロほっぺに人差し指を突っ込むと言う禁じ手を行っていた。

「何をしている」
「すいません……つい」
「何やぁ、このけったいな人」ひょうたんみたいな顔になりながら子供はジタバタしている。
「これはね、変態さ。社会と言う砂漠に生きた魔物だよ」
「ちょっと! 言い過ぎですよ!」

 文句を言いながらも彼女は断りなしに子供を抱きかかえだす。

「何やねん、やめんかい!」
「おやおやおやぁ? その様にプリプリなほっぺで言われてはやめる訳にはいきませぬなぁ?」

 子供を片手で抱っこしながらほっぺをつつくと、子供は先ほどの泣きべそを一転させ「やめろやぁ」と楽しそうにはしゃぎ出した。
 そのあどけない笑みに、心臓が揺さぶられるような衝撃を受ける。
 これは……?
 眠ってた母性本能だと言うのか?
 僕は震えた。
 

 
 改めて、現状を確認する事が出来た。
 どうやらこの子はお兄ちゃんやその友達と街を歩いていたところ、途中で見かけた僕の背中をお兄ちゃんのものと勘違いしたらしく、そのまま四越デパートまでついてきてしまったらしい。
 
「さっきオモチャんとこ寄ったやろ? せやから、今年のプレゼントはオモチャや思てん」
 鼻水をすすりながら左右の人差し指をつんつんする姿が愛らしすぎる。
「じゃあこの子のお兄さんたちはここにはいないって事ですよね? マスター」
「えっ? ブリーフはくならふんどしマスターしてからに? それはどうだろう」
「耳引きちぎりますよ」

 彼女は僕に睨みを利かすと「お兄ちゃんの連絡先分かる?」と子供に尋ねた。
 しかし子供は首を左右に振る。
 
「情報無しか。こうなったら交番に連れて行くしかないか」
「え? ここの迷子センターに連れて行ったほうが良いんじゃあ」
「街中で子供を見失って四越デパートには行かないんじゃないかな。すぐ近くに駅前の交番があったはずだから、そこに連れて行こう」
「途中でこの子達のお兄さんに遭遇して、誘拐犯と間違われないでしょうか……。物騒な世の中ですし」
「正しい事もし難くなったもんだ」
「世知辛い」
「ええから交番行くなら早よ行こや」
「はい」
 
 五歳程度の子供に先導される大人たち。
 
「そう言えば、名前をまだ聞いてなかったですね。名前は何て言うんですか?」
 彼女が尋ねると、子供は「貧乏神」と小さく答えた。
「えっ?」
「貧乏神やで。うちは、貧乏神の貧ちゃんや」

     

 ○6○
 
 貧乏神の貧ちゃん?
 凄い名前だな。
 僕は戸惑いを隠し得なかった。最近は子供にピカチューやウンコなどと名付ける奴もいるらしいが、まさか貧乏神とか。いや、ウンコよりはマシなのか。色々分からない。
 
「マスター、この子のお兄ちゃん、もしかしたらとんでもないチンピラでは。こんな破天荒な名前、まともな神経をしていたらつけられません。美人局の如く、見つかったらとんでもない額のお金をせびられるかもしれませんよ」
 彼女が僕に耳打ちしてくる。僕は頷くと、同じように彼女に耳打ちした。
「う、うぅむ……。その場合は送り届けて走り去ろう」
「マスター、耳は私の性感帯です」
「殺すぞ」ちょっとは緊張感を持て。

 貧ちゃんを挟むように、左右の手を僕と彼女で繋いで駅へと向かう。
 貧ちゃんはこうして見ると、不思議な子供だった。このクソ寒い日にも関わらず、防寒着の下は薄手の和服だし、足元は靴ではなく足袋と雪駄だ。とても今時の子供とは思えない、独特な雰囲気を感じる。
 
「それにしても、そんなに君のお兄さんと僕は似ていたのか?」
「せや。そっくりや。人の良さそうなとことか、モテなさそうなとことか、ちょっと情けなさそうなとことか、貧乏臭もただよっとるな」
「そろそろ黙ろうか」
「それに、兄ちゃん」
 貧ちゃんに手招きされたので、顔を寄せてやると、耳元でこう言われた。

「今日のために奮発したやろ?」

 貧ちゃんの指摘に、思わずビクリとする。確かに、指輪とレストランの代金、諸々を僕が出そうと思っていたので、今日はかなり予算を組んだ。おかげで貯金残高には大ダメージだ。
 
「今日、兄ちゃんと姉ちゃんにとって特別な日ぃちゃうん?」
「一応……記念日だよ」
 彼女に聞こえないよう、小声で答える。
 七年前、彼女と初めて出会った日。そして、婚約する(かも知れない)日だ。
「兄ちゃん、沢山お金使ったけど、ちぃとも後悔しとらん。人の為にお金使って満足しよる。優しいお金の使い方や」
 
 貧ちゃんは、悟っているのか、彼女に聞こえない声で僕に言う。

「ちょっとマスター! 何二人でこそこそ話してるんですか!」
「いや、ちょっと」
「姉ちゃんは、普通の人と少しちゃうな?」
 えっ、と僕達は顔を見合わせる。
「姉ちゃんは、何と言うか、ちょっと苦手な雰囲気や」
「えぇー!? 貧ちゃん私が嫌いなんですか!? 何故!」
「姉ちゃんな、神さんから加護受け取んねん。神さんがな、姉ちゃんを幸運で祝福しとんねん」
「神って言うと……キリストとか、ゼウスとか?」
「そこらへんはうちもあんまりよう知らへん。でもな、強い力を持った神さんや。うちはな、そう言う祝福の力に弱いんや」
「えぇ……、嬉しいけど、何か複雑です」
「幸運に弱いとは、まるで貧乏神みたいだな」

 話していると、突然「貧ちゃん!」と誰かが叫ぶ声がした。
 見ると、黒髪のロングヘアーをした女性が立っていた。背中に背負っているのは……ギターだろうか。彼女の近くには、友人らしき男性が二人いる。

「紅子ぉ!」
 貧ちゃんは女性を視認すると、嬉しそうな顔をして駆け出した。
「貧ちゃん!」
 ジャンプした貧ちゃんを空中キャッチする女性。
 紅子、と叫んでいた事から、この人達が貧ちゃんの探し人であることは間違いない。

「もう、貧ちゃんのバカ! どこ言ってたのよ! 死ぬほど心配したんだからっ! 心臓止まるかと思った」
「まぁ、実際五分は止まってたよ」
「すまん紅子ぉ! 心配かけたなぁ!」
「三途の川を渡る前に秋君に連れ戻されたの。本当は、天国まで探しにいくつもりだった」
「行くのは良いが、二度と戻れないと思うけどね。ちょっとは感謝してよ。なぁ竹松?」
「……」
「喋って」

「よかったですねぇ、貧ちゃん。無事に会えて」
「ああ」
 目の前で騒ぐ四人の姿を見て、彼女は嬉しそうに目を細めた。
 その優しい笑みが、どうにも光り輝いて見えて、不覚にも心臓が跳ね上がった。

 しばらくその光景を見守っていると、僕達に気付いた紅子がハッと表情を変えた。
「貧ちゃん、ひょっとしてこちらの方々は?」
「うちを保護してくれた兄ちゃんと姉ちゃんや。四越さんのデパートで会ってな、駅前の交番一緒に行くとこやってん」
「あぁ、何てお礼を言ったら良いのか……。あなた達が神? クリスマスの。どうすれば……そうだ!」

 紅子はその場で寝転び、五体投地を始める。やめろ。
「すいません、この人病気なんです」
 先ほど秋と呼ばれた男性が口を開く。
「あなたが貧ちゃんの“お兄ちゃん”ですか?」
「ええ。実の兄ではないんですが、まぁ、同居人です」

 秋の言葉に、引っかかるものを覚える。複雑な事情があるようだ。まぁ、踏み込むべき問題ではないだろう。適当に流しておく。
 彼は確かに人が良さそうで、モテなさそうで、ちょっと情けなさそうで、貧乏臭も若干ただよっていた。ただ、それ以前に何故だろうか。彼とは他人とは思えない不思議な繋がりを感じる。
 
「どこかで会った事はありませんか?」
「奇遇ですな。僕もそう感じてました」
「やはりそうでしたか」
「ええ、そのようで」

 互いに脊髄反射のやり取りをしていると「あっ、そろそろ予約の時間ですよ」と不意に彼女が腕時計を見て声を出した。確かに、そろそろ向かわねば間に合わない時間だ。
「じゃあ、無事に貧ちゃんを届けられましたし、僕達はこれで」
「これは大したお礼も言わず。本当にありがとうございました。こら、貧乏神やい。ちゃんとお礼を言いなさい」
 秋に促され、貧乏神は「せやな」と声を出す。
「姉ちゃん、ほんまにありがとう」
「貧ちゃん、元気でね。寂しいです」
「兄ちゃん、今日は絶対ええ日になるで。うち分かんねん。クリスマスの神さんが、兄ちゃんに味方してくれてる」

 その言葉は、まるで僕の心を読み解いたかの様だった。

「メリクリや、兄ちゃん」
 

 
 貧ちゃん達を見送った後、僕達は駅へと向かう。
「素敵な出会いでしたね、マスター」
「そうだな」
「交番まで行かなくて済みましたね。大事にならなくて良かったです」
「まったくだ」

 彼女と貧ちゃんと僕。
 三人で手を繋いで歩いた光景に、一瞬、未来の家族像が浮かび上がった。
 あんな感じの家庭を築ける未来が、僕達にもあるんだろうか。
 あると良いな。
 何となくそう考えながら、ポケットに手を突っ込んだ。
 そこで、足が止まる。
 
「どうしたんですかマスター?」
「……」
「顔が真っ青ですけど。ひょっとして、お腹が痛いんですか?」
「……」
「もう、漏らしちゃいましたか……」

 違う。

 ないのだ。

 指輪が、無い。


 

     

 ○7○

 駅のすぐ近くに、小さな交番があった。
 まだ出来たばかりらしい、少し洒落た木造製の交番だ。
 僕達は、そのドアに手をかける。引き戸を引くと、ガラガラと音を立てて扉がスライドする。

「もう、マスターったら本当におっちょこちょいなんですから」
「すまない」
「それで、何落としたんですか? 財布? 携帯? それとも自宅の鍵とか?」
「いや、全部ある。それは大丈夫だ」
「なんだ、なら大事ないですね。一体何落としたんですか?」
「それは……」思わず言葉に詰まる。

 恐らく僕が何を落としたのか、この場で正直に告白した途端、彼女は白目をむいて倒れる事だろう。二十五万はした指輪だぞ。

 僕がどう説明したものかと困っていると、目の前に婦警がいることに気付き、僕達は同時に体をビクッと震わせた。全く気付かなかった。気配がなかった。
 婦警はやる気がなさそうに机に頬をつけたまま、ジッと人形の様にこちらを眺めている。こんなに目が死んでいる人間を見るのは初めてだ。

「な、何だか様子が変ですね、マスター」
「う、うむ」

 婦警はこちらを視認しているのに、動く気配がない。瞬き一つせず、まるで不気味な人形に見つめられている気分になってきた。
 いよいよどうしようかと思っていると、奥から「あぁ、すいませんねぇ」と警官が一人出てきてくれた。少し若い顔立ちの、人の良さそうな警官だ。
 
「お待たせしました。どうかされましたか?」
「落し物をしたので、届けられていないか確認したいのですが……その、そちらの方は?」
「ああ、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」無理だ。
「とりあえず、こちらの書類にお名前と住所を記入していただいていいですか」
「わかりました」
「何を落とされたんですか?」
「えっ?」

 一瞬答えるのをためらった。
 僕のすぐ後ろには彼女が居る。
 指輪を落とした、などと口が裂けても言えない。
 いくらなんでも、サプライズを計画して肝心のブツを落とすなどありえない話だ。
 こんなしょぼいネタバレは、さすがにしたくない。

「えっと……箱です。小さな」
「箱? 中身は?」
「えっ? 中身ですか? 箱の?」
「ええ」
「そうですよね。えぇと……ゆ、指、指」
「指? Finger?」
「No finger。そのですね、えぇと」

 僕が彼女をチラチラと見ながらワタワタしている様子から勘付いたのか、警官がニヤリと笑った。
「分かりました。じゃあここに記載してもらって良いですかね。……彼女さんには見えないように」
「助かります」神かよ、と言いそうになるのを堪えた。

 言われた通りに書類に記入していると「今日はデートですか?」と尋ねられる。
「え? えぇ……まぁ」
 あんまり明言すると彼女がまた興奮し出すので、僕は小声で答えた。

「良いですね、クリスマスデート」
「お巡りさんは、こう言う日は特に忙しそうですね」
「ええ。慌しいです。でも、ちょっと懐かしくなります」
「懐かしく?」
「はい。実は、元々ケーキ屋さんだったんです」
「ケーキ屋さん?」えらい方向転換だ。
「ええ。そこで座っている彼女はその時、麻薬捜査官でした」
「その二人が、なんで交番のお巡りさんに?」
「降格したんですよ、彼女。僕を彼女が誤認逮捕しかけたことが理由で」ろくでもない。「彼女は過去に四人ほど、麻薬捜査関連で誤認逮捕をしていました。降格が掛かった最後の案件で、彼女に逮捕されそうになったのが僕です。僕は彼女から逃げました。その脚力を認められて、警察官になったんです」
 肝心なところが吹っ飛びすぎてまるで意味が分からない。
「じゃあ、そこで座っている婦警さんは降格をされたから、あの調子なんですね」
「いえ、降格したのは大分前で。あれはただの二日酔いです」
「帰れ」

 下らない事を言い合っているうちに、書類の記載が終わった。
 僕が無くした物を見て「ああ、なるほど」と警官が声を出す。
「これはねぇ、ちょっと届いて無いですねぇ」
「やっぱりそうですよね」
「別の交番に届いてる可能性もありますし、確認しましょうか? どこで落としたかとか、心当たりは?」
「それが、全くなくて」

 指輪の行方について僕達が考察していると、不意にガラガラと交番の扉が開けられた。
 来客だろうかと、何気なく振り返って、目玉が飛び出そうになる。
 やって来たのは、僕が指輪を買ったあの胡散臭い販売員だった。あの印象だ。間違えるはずもない。

「みことくん」
 僕が内心で驚いていると、警官がそう言ったのでますます驚いた。知り合いかよ。
 みことくんと呼ばれた販売員は、僕には気付かず「テメー、いつまで待たせんだよ!」と大きな声で警官に詰め寄る。

「六時に待ち合わせっつったのオメーじゃねぇのかよ? あぁ!?」
「いや、まだ職務中だからね? ちょっと落ち着いて」
 胸倉をつかまれる警官。凄い光景だ。
「これが落ち着けるかよ。クリスマスだぞ? 今日は。人の貴重なクリスマスの時間を削ってんだよ、テメーは。ちょっと就職したからって調子乗ってたら撥ね殺すぞ?」
「はい」

 そこまで恫喝すると、みことくんはこちらをチラリと一瞥する。
「オメーの仕事が遅いから市民の皆さんが困ってんだろが糞がボケが!」
「いや、困ってるのは君の存在にだね」
「口答えすんじゃねぇ!」理不尽の上塗りがえげつない。

 警官とみことくんは知り合いらしいが、軍曹と新兵ほどの立場の差があった。

「と、とりあえず、書類は受理しましたので、行ってもらって大丈夫ですよ。後で、近くの交番に確認しておきます」
「え、えぇ、よろしくお願いします」
 一瞬当惑したが、横にいる彼女が「行きましょう、マスター」と頷いたので、僕達はいそいそと交番を出た。

「なんだか凄い現場に遭遇しましたね……」
「修羅場という奴だろうか」
「そう言えばマスター、さっきの女の人、知っているようでしたけど」
「ちょっとね」
「浮気ですか?」
「病気かよ」ヤンデレばりに嫉妬心がえげつない。

「それで、どうします? レストラン」
「えっ? どうするって、そろそろ行かないと予約の時間に間に合わないだろ?」
「でも、マスターが落としたの、大切なものだったんですよね? そんな状況で食事に行ったって、マスター楽しめないでしょ?」
「じゃあどうするんだよ。このまま帰るのか?」
「決まってるじゃないですか!」
 彼女はぐいと一歩、僕に歩み寄ってくると、僕の手を掴んだ。不意の行動に、心臓が跳ね上がる。距離が非常に近い。近い、近すぎる。
「探しましょう! 落し物! 二人で!」

 ……ああ、そうか。
 この時、僕は何となく分かった。
 クリスマスにも関わらず、ずっと楽しみにしていたにも関わらず、彼女は嫌な顔もせず、さも当然と言うように、僕の指輪探しに付き合おうとしてくれている。
 その明るさや、前向きさや、優しさや温もりが、どれだけ僕にとって光となっていたのか。
 
 僕はこの時、改めて自覚したのだ。


     

 ○8○

 電車を降りる前には、確かに指輪はあった。
 ポケットの感触を確かめていたのだ。間違いない。
 という事は、少なくとも指輪は駅構内からデパートのルートの間で落としたと想定される。そうなれば、後は通った道を一からたどってみる他ない。
 
「はい……ええ、少しトラブルが発生しまして……。はい、キャンセルで、ええ、申し訳ないのですが、お願いします」

 レストランにキャンセルの連絡をした僕は、溜め息と同時に肩を落とした。三ヶ月前から予約していたのだ。それだけ評判の店だった。
 自分で用意した最高の舞台を、まさか自分のドジで叩き壊す事になるとは思ってもみなかった。

「元気出して下さいよ、マスター。たかだか落し物一つ」
「いや、それは良いんだが……いや、良くはないが、そうじゃなくて、本当にすまない」
「私の事は気にしないで下さい。せっかくのクリスマスに、マスターと過ごせてるんですから、十分ですよ。あとでラーメンでも食べましょう!」
「レストランのコースがラーメンか」
「そっちの方が、私も緊張しなくていいですよ」

 とことん庶民派な奴だ。やっぱり、僕達は似たもの同士なんだな。
 四越デパートから、貧ちゃんと歩いた道、駅の通った道まで一通り探したが、とうとう指輪が見つかる事はなかった。
 
 情けない。
 こんなにふがいない事があるだろうか。
 落ち込んではならないと分かっていても、どうしても考えが暗澹としてくる。
 
「マ、マスター。ちょっと、足、速いです」

 無意識に歩行速度が上がっていたらしく、気がつけば彼女の随分先を歩いていた。
 彼女はこちらに手を振ってピョンピョン跳ねているが、人ごみをかき分けられないらしく、なかなかこちらに来ない。
 そう言えば彼女は歩くのが遅いから、普段は意識的に速度を落としてたな。考え事をしていたから、すっかり失念してしまっていた。

 彼女の方に向かっていると、いつの間にか背の高い好青年が彼女に話しかけていた。ナンパか? と一瞬構えたが、彼女の様子を見たところ、顔見知りらししく、朗らかな表情をしている。

「松崎さん! 奇遇ですねぇ! お買い物ですか?」

 近付くと、弾んだ彼女の声が聞こえてきた。

「いやぁ、クリスマスだってのに友達と飲みだよ」
「でも女の子もいるんでしょ? この色男!」
「いや、はは。参ったな、口が上手いんだから。そっちは? 暇だったら一緒に来る? 女の子が増えると、皆喜ぶよ」
「あ、いえ。今日は連れが居ますので」

 ようやく二人の元にたどり着くと同時に視線を向けられたので、思わずドキリとした。
 緊張で、表情が強張る。
 松崎という男は、こちらを上から下まで軽く目を通すと、そっと会釈してきた。思わず会釈を返してしまう。そして、彼女に小声で何か呟くと「じゃあ」とイタズラっぽい顔をして去って行った。彼女が真っ赤な顔で松崎の背中に「アホ!」と暴言を吐く。
 
「いやぁ、どうもすいません。あの人軽いんですよ」
「会社の人?」
「隣の部署の営業さんです」
「ふぅん。ずいぶん打ち解けてたみたいだけど」
「まぁ、仕事で絡む事多いですからねぇ。飲みにも連れてってもらったりして、結構お世話にはなってますね」
「へぇ……。それにしても、かなり格好いいな、彼。僕でも好感が持てるくらい爽やかだった」
「そうですねぇ。女子からの人気は高いですよ? 裏表がないし、おしゃれだし、仕事も出来るんです」
「そう言えば、去り際に何か言ってたみたいだったけど」
「えっ? えぇ……」
 彼女は再び顔を赤くする。そんな内容なのか。
「えと、実はですねぇ……」
「言いたくないなら、別に言わなくて良いよ」
「いや、その、えっと『今日はホワイトクリスマスだね』だーって! オッサンかよぉ! って感じですよねぇっへへへへ」

 何かと思ったら下ネタかよ。そんなこと言う奴、どうかしてる。
 そこまで考えて、七年前自分が全く同じような事言ったのを思い出した。
 僕もどうかしてたな。いや、今もどうかしてるのか? むしろなんだ。むしろ? むしろって何だ。田代か。田代ってなんだよ。

 ……はぁ。

 何だか狼狽している。彼女の周囲に他の男の影がある事に、今更ながら、内心衝撃を受けていた。

 ああ言う顔で笑ったりするんだな。

 松嶋と話す彼女、ずいぶんと楽しそうだった。見たことない表情……の様な気がした。 飲みに行ったってことは、一対一で一緒に行ったのか。松嶋にも限らず、他に男の知り合いが沢山居るのだろう。そんな話、今まで一度もされた事ない。
 ああやって、下ネタを軽く言い合うくらいには仲が良いのか。ずいぶんだな。

 彼女の会社の人間関係とかは、あまり耳にした事がない。こちらから、特別詮索したりはしないからだ。だから、全然現実味がなかった。

 僕が言うのもなんだが、彼女は客観的に見ても美人だと思う。
 性格も良い。明るいし、愛嬌もある。だから、交友関係も広いだろうし、多分モテるだろう。
 一方で、僕はあまり交友関係が広くない。顔も良くないし、性格も良くない。どこにでもいそうな、冴えない中年男性だ。
 だから、今更ながら、彼女との差を実感してしまった。
 
 彼女の様な奇妙な出生で、気が狂っているやつ、僕以外に貰い手などあるわけないと、ずっとどこかでそう思っていた。

 そう、僕は内心、どこか驕っていたのだ。妙な自信を持っていたと言っていい。
 その自信が、たった今、あっと言う間に崩された。砂上の楼閣の如く、ボロボロと崩れ去っていた。
 嫉妬なのか、不安なのか、良く分からない感情が心に渦巻き出す。

 こう言う辛気臭いのは良くない。

 打ち切り直前の少女マンガで一番嫌われる、登場人物がウジウジするシーンだ。そんな陳腐な感情を、自分が持ちたくはない。社会人なのだ。男女関わらず人付き合いはあるし、飲みにだって行くだろう。別に珍しい事じゃない。
 
 分かってはいたが、その不安を打ち消すような過去の積み上げが、僕にはなかった。
 何の経験もないのだ。
 恋愛だって、そう言うのはずっと遠ざけていたし、逃げていた。
 自分みたいな気持ち悪い奴が誰かに好意を示すのなんて、吐き気がする。ずっとそう思っていたのだ。
 
 そんな僕に無条件で好意を示す彼女の存在は、都合がいいものだった。
 だから、勘違いが出来たんじゃないのか。

 彼女は本当に僕でいいのか?
 釣り合っていないんじゃないか?
 もっと良い男がいるだろう。彼女に見合った、彼女を支えられる奴が。
 僕じゃダメだろう。

 今日だって慣れない事をしまくっている。
 レストランを予約して、指輪まで買って。
 それなのに、人の落し物を届けて、迷子の親まで捜して、挙句の果てに指輪を落として。

 キャパシティオーバーだ。一杯一杯じゃないか。
 そんな要領の悪い、ドン臭い奴を、誰が好きになるんだよ、普通に考えて。

 逆だったらどうだよ。
 見た目も中身もパッとしない女性。
 好意を示しても毎回上から目線で嫌味を言われ、適当にあしらわれる。
 どこを好きになるというんだ。

 彼女は、最初に僕の恋人役として神様よりこの世界に贈られた。
 だから、職務とか、任務とか、そんな感情で今まで一緒に居たんじゃないのか。
 今までのはずっとパフォーマンスだった……コミュニケーションの一種だと言う可能性を、考えてなかったんじゃないか?

「マスター? どうしたんですか? 顔が真っ白ですよ?」
 彼女が僕の顔を覗き込む。まともに見れず、顔を背けた。
「雪でも降ったかな」
「一ミクロも降ってませんけど……」
「じゃあペンキだ、全身ペンキを浴びたのだ。ペンキの雨だ」

 僕は早歩きで歩き出す。「あ、待ってくださいよぉ、マスター」と彼女の声が背後から響く。
 だが、僕は足を止めない。
 一緒に居たくなかった。
 居れる気がしなかった。

     

 ○9○


 適当に歩くうちに、徐々に人気がなくなり、いつの間にか繁華街から離れた住宅街まで来ていた。
 そこにある小さな公園に足を踏み入れる。電灯が一つと、滑り台にシーソーがあるだけの、寂しい公園だった。
 陽もすっかり沈んで、空は随分と暗くなった。空気が冷えて、手の感覚がなくなっていく。
 
「もう、どこまで歩くんですか、マスター」
 追いついた彼女は、少し息を上気させている。
「落し物してへこむのは分かりますけど、元気出してくださいよ。せっかくのクリスマスなんだし」
「いや、そうじゃないんだ」
 僕は彼女を見つめて、ゆっくりと口を開いた。

「ただ、不甲斐なくてね」
「不甲斐ない?」
「落し物をしたことよりも、大切な日を台無しにしてしまった自分が情けないんだよ、僕は」

 あまり暗澹とした事を言いたくなかったが、こうなったらもう言うしかない。
 僕達はもう三十歳なのだ。
 ちゃんと答えを出しておいたほうが良い。
 と言うよりも、彼女が幸せになれるよう、解き放つべきなのだ。
 
「終わりにしないか」
「えっ? 終わりって、何、何をですか?」
「この関係だよ。僕達の、この関係さ」

 突然の言葉に、彼女が真顔で絶句している。
 そんな顔をしないで欲しい。……いや、無理もないか。
 
「僕達は恋人でもなんでも無いんだから、君が僕に構う必要はない」
「なんで?」
「神様の責務とか、クリスマスガールとしての職務とかを気にする必要はないんだよ」
「どういう事ですか……」

 ここまで来たら誤魔化すのは野暮だ。全て言ってしまおう。

「僕は君に相応しくないと思う。
 僕からみても、いや……誰から見ても君は魅力的な女性だ。
 付き合いやすいし、性格も良い。おまけに美人だ。

 でも、僕は違う。

 僕は何の特徴も魅力も無い、どこにでもいる平凡でつまらない男だ。
 大事な日に、大事なものを落として、気になる子に他の男の影を感じただけで簡単に自信が崩れてしまう、脆いやつなんだ。
 僕みたいに狭量な男じゃあ、君を幸せに出来ない。そう思う。
 君は、もっと魅力的で素晴らしい男性と出会って、恋をして、結婚すべきなんだよ。

 人生は貴重だ。特に僕達は今、年齢的にも大事な時期だ。将来を確定させるべき時期なんだ。
 だから……君には僕と居て時間を無駄にしてほしくない。
 君には、僕は、もったいなさ過ぎるんだよ。
 
 だからもう、この関係を終わりにしよう。
 君はもう、僕に気兼ねする事なく、自由に生きるべき時なんだ」
 
 僕は視線を逸らす事なく、彼女に向かってまっすぐその言葉を解き放った。
 
「何ですか……それ」
 
 彼女は顔をうつむけてこちらに近付くと、不意に僕の胸倉をグイと掴んだ。
 思った以上の力で、体が引っ張られる。
 
 ギョッとした。
 彼女が顔面を涙と鼻水でぐしょぐしょにしていたからだ。
 
「何なんですか! それは!」
「何って」「私が同情で、あなたと一緒にいたと思ってるんですか!? この七年間、いままでずっと、職務とか、責務とか、役割とか、そんなつまらない物の為で? バカじゃないんですか!?」
「違うの」「違いますよ!」

 言葉を被せられる。
 
「私の幸せを、あなたが勝手に決めないで下さいよ! 誰と一緒に居たいかなんて、私が決めます! それで、そんな物はもう決まりきってんです! 今、ここに居るのは、私の意志です! 私が選択したからですよ! 同情とか、責務とか、そんな下らない物の為なんかじゃない! なのに、あなたはどうしてそんな事言っちゃうんですか……」

 彼女は涙を流しながら「クソ童貞野郎……」と搾り出すような声で僕を罵った。
「あなたを支えにしてるのに、あなたがいなくなったら私はどうしたらいいんですか」
「君……」

 その時、鼻先に冷たい物が当たり、僕は空を見た。
 雪だった。
 ホワイトクリスマスだ。
 最悪だな。

 そう思っていると、どこからか音が聞こえてきた。
 
 シャンシャンシャン。
 シャンシャンシャン。
 
 その鈴の音は、七年前にも聞いた記憶がある。
 僕達が出会う、前日に聞いた音だ。
 その音は、心なしか大きく、はっきりと聞こえていた。
 いや、確実にどんどん大きくなっていた。


 近付いている?
 ……近付いている。
 こっちに近付いている!!
 
 
「メリークリスマース!」
 唐突な光が静かな公園を包み込んだ。
 突然姿を現した、目を細めるほどに眩しいそれは、誰がどう見てもサンタのソリだった。
 僕と彼女は、思わず目を点にする。
 目の前の光景が、信じられなかった。
 
 どでかいトナカイに引かれた木造のソリが急に目の前に現れ、サンタクロースと、ミニスカサンタがその上に乗っていたのだから。
 
「おい、彩。滑ってんぞ」
 絶句していた僕達を見て、トナカイがサンタ姿の女性に悪態をつく。目の前の光景が非現実的すぎて、トナカイが喋っても何の違和感も抱かなかった。
 悪態をつかれたミニスカサンタは、トナカイをキッと睨んだ。
「うるさいわね。このタイミングしかなかったのよ」
「お嬢さんや、いいから例の物を渡してあげなさい」
 そう温厚な声を出したのは、どこからどう見てもサンタクロースだ。よく見ると『指導員』と書かれたワッペンを腕につけている。
「はぁい」とミニスカサンタは声を出すと、ソリの後ろ側に積んであった袋を漁り、何か取り出した。「ちょっと、そこのしょぼくれた顔の男、こっちに来なさい」

 手招きされ、困惑しながらも、僕はミニスカサンタに近付く。
「これ、あんたのでしょ?」

 そう言って差し出された物を見て、僕は息を飲んだ。
 それは、間違いなくあの指輪だった。

「どうしてこれがここに……?」
「俺が見つけたんだぜ。感謝しろよな。あんたのだって、匂いで分かったよ」トナカイがフフンと得意気な声を出す。
「大切なものなんでしょ?」

 尋ねられ、頷く。
 
「見た感じ、何か修羅場っぽいけど、今日はクリスマスよ? 辛気臭い顔してないで、彼女を喜ばさなきゃ」
「でも……」
「このプレゼント、彼女に上げるつもりだったんでしょ? じゃあ、渡しなよ。クリスマスに女子がデートなんて、気になる人じゃなきゃ行くわけないんだから。プレゼントされて喜ばない訳ないでしょ。それに、わざわざこんなもの準備するなんて……大切な人なんでしょ?」
 僕が黙って頷くと、ミニスカサンタは微笑んだ。
「プレゼントを上げたいって思ったときの気持ち、大事にしなさいよ」

 彼女はそう言うと、指輪を僕の手にしっかりと握らせて、ふと表情を変えた。
「あんた、どっかで会ったっけ?」
「えっ? 無いはずですが……」
 そう言えば、何だか初めて会った気がしない。妙な繋がりの様な物を感じる。
「クリスマスに引き寄せられたんじゃねーの?」とトナカイ。
「クリスマスに?」声が重なる。

 そうか。
 不意に僕は、今日一日感じていた引っ掛かりが、腑に落ちる感覚を覚えた。
 今日会った人たち、妙な繋がりを感じた人たちは……ひょっとしたらクリスマスに導かれたのかもしれない。
 クリスマスの神様に。
 
「彩、時間押してんぞ」
「わぁってるわよ。それじゃあ、頑張って」
 ミニスカサンタは手綱を握りなおす。
「じゃ、サンタさん、決めゼリフお願い」
「ふぉっふぉー! メリークリスマース!」

 その言葉と同時に、風の様にソリは鈴の音を鳴らし、雪空へと飛んだかと思うと、やがて姿を消した。

 再び静寂に包まれた公園に、呆然とたたずむ僕と彼女だけが取り残される。
 
「それ、ですか? 落し物って……」
「えっ? ああ……」
 手に握った指輪が入った箱の感触を確かめる。
 
 プレゼントを上げたいって思ったときの気持ち、大事にしなさいよ。
 
 確かに、そうだ。
 どうするのが彼女にとっての幸せなのか、ではなく、今大切なのは僕がどうしたいかなのかも知れない。
 そんな物、とうに決まっている。
 
 僕はリボンをほどくと、箱を開いた。
 中から、タンザナイトの指輪が姿を見せる。
 
「左手、出してくれ」
「えっ? はい」

 差し出された彼女の薬指に、僕は指輪をはめた。
 彼女が、驚いたように息を飲む。
 
「正直、どうしたらいいのか、自分でもまだよく分かってない。自信がないのは、さっき伝えた通りだ。
 でも、これだけは確実に言える。

 僕にとって、君は必要な人だ。

 だから、僕が選択するのはやめる。
 信頼しているから、君に決めて欲しいと思う。
 君の選択なら、どんな形でも、僕は納得できる。

 僕と結婚してくれないか」

 彼女は涙を拭うと、微笑を浮かべた。
「そんなの……良いに決まってるじゃないですか。プロポーズ、受けます。あなたと結婚します、マスター」

 その言葉は、確かに彼女の本心から出た言葉だった。
 そして、その言葉を聞いた瞬間、どっと、全身から力が抜け落ちた。
 体勢を崩した僕を、彼女が支えてくれる。

「大丈夫ですか?」
「緊張の糸が切れた」
「ふふっ、マスターったらホントにヘタれなんだから」
「うるさいよ。……結婚したら、そのマスター呼びも止めなきゃな」
「それは出来ない相談ですね」
「なんでだよ」
 僕達は少し笑った。

 雪は、まるで僕達を祝福するように、シンシンと降り注いでいる。
 不意に、彼女がヘクチッと子供みたいなクシャミをした。

「風邪ひくな。場所移すか。どっかで温かい飯でも食おう」
「あ、私、ラーメンがいいです」
「じゃあラーメンにするか」
「へっへー、近場で美味しいとこ知ってるんですよ」

 結局クリスマスに公園でプロポーズして、ラーメン食べる男になってしまった。
 まぁ、でも。
 それでいいか。僕は。
 僕達は。
 
「あ、マスター、その前にちょっと」
「ん?」

 見ると、彼女が目をつむって、静かに唇を突き出していた。
 何をしている……とは、今日この場においては野暮か。
 今夜ばかりは、僕もめくるめく大人の時間を体感させてもらうことにしよう。


 ただ、その前に。

 この物語の幕引きを行わせてもらおう。

 
 クリスマスは誰にでも平等に訪れる。
 その小さな奇跡は、確かにどこにでもあるのだと、僕は思っている。
 
 誰かにとっては不幸な日。
 また誰かにとっては奇跡を体感する日。
 それがクリスマスだ。
 
 だから、これからも。
 クリスマスの日には、どこかで小さな物語が立ち上がるに違いない。
 それが願わくば、“あなた”の物語である事を、心から祈っている。
 
「マスター、女の子を待たせないで下さいよぅ」
「はいはい、分かったよ」

 僕はそっと微笑むと、物語の幕を閉じた。
 
 
 
 
 ――了

       

表紙

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Neetsha