Neetel Inside ニートノベル
表紙

私が私になった日
【四年前 九月 参】

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「――そういうわけ。流石にその場で見ていたわけではないからはっきり分かるわけではないけれど、家に戻ってきてからは外に出て行ったのは一度も見てないわ」
 語り終えたお母さんの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいました。多分、後悔が溢れそうだったのだと思います。
 部屋がしんとなり、家の前を通ったであろう車の音だけが遠くから静かに響いてきました。
「見てないのならどうしてわかるのですか?」
 そんな沈黙を破って質問します。
 もちろんここですっぱり、話を止めてもよかったのです。いや本当はそうするべきだったのでしょう。明日を迎えればしんみりな空気も無く元通り。私へのいじめは続くけれど、それだけ。もっとも、今となってはそれさえいつも通りですが。
 でもお姉ちゃんのことをより知りたいと言う気持ちがとても大きくて、疑問を疑問として置いておくことはできませんでした。
「それはね、聞いたの」
「誰にですか?」
 どうしてこんなにも知りたいか。自分よりも酷い目にあっていたと言うのもそうですが、それ以上に私も後悔に溢れていたからです。
 お母さんの手をぎゅうっと握ります。
「お友達。あの子が引きこもってから来てくれたお友達がいたのよ」
「お友達?」
「ええ。本当はいじめになんて参加したくなかったんだけど、今度は自分が虐められるんじゃないかって思って何もできなかったみたいなの。でも指を折られて叫んでいた姿を見て正気に戻ったって言ってたわ。しかもそれ以来学校に来ないからいてもたってもいられなかったって」
 話す度にお母さんの涙はこぼれそうに大きくなっていきました。時々手で目を覆って拭うものの、また同じように溜まっていっています。
 時計の長針があと一周もすれば明日が来るそんな時間。例えばシンデレラの魔法のように綺麗に嫌なことが全て消えてしまえばいいのに、なんて夢物語を願う年でももうありません。ただ明日という名前の今の続きが来るだけです。
 だからこそ、無くならない過去だからこそ、知っておく必要があるように思います。
「もう来なくなっちゃったのですか?」
「うん。やっぱり受験があるからね。三年生に入った頃から段々と回数が減ってきて、今じゃもう来ないわ。来ても出てきてくれないのだから仕方ないわよね。そう、なにもかも仕方ない……」
 はぁとついていた溜息は深く、でもまだ出し切れていないのでしょう、手を強く握り返していました。
「……」
 一方で私は考えていました。
「どうしたの?」
 呼びかけにも、反応する余裕はありません。
「……」
「大丈夫?」
「……」
「さ、もう11時ね。さっきまで寝てたから眠くないかもしれないけど、明日も学校よ。寝坊したら先生に怒られちゃうでしょ。なんだったら久しぶりにお母さんと寝ましょうか。ふふ。なんてね」
 だんまりを決め込んだために心配したのか、お母さんは先程までとは一転今度は笑顔を作り元気よく立ちあがって楽しげにそう言いました。
「……お母さん」
 私は答えで無い言葉を返します。
「ん?」
「ちょっとお姉ちゃんと話してきます」
 そう言って、すばやくリビングの扉へと駆けました。
「待ちなさ――」
 足は私の意志で行き先へと進みます。
 止めるべく掴もうとして空を切った、お母さんの手など目もくれずに。
 
 階段を上る。消えたはずの痛みを記憶が思い出しています。でも、こんなものじゃない。
 どんなに今まで私が幸せだったか。閉じこもった家族の一人がどういう過去を歩んだか知りもしないでのうのうと生きた毎日はとても、幸せでした。
 いじめられなかったらきっと今も変わらずだったでしょう。それはとてもひどいこと。
 ならば、知ることができた今はきっと別の形での幸せなのだと思ってみます。すると不思議と腑に落ちてしまうのです。
 一歩一歩、二階の廊下を進みます。軋むことなく、自分の弱い足音だけが耳に入ります。
 今想起している痛みはお姉ちゃんの痛みのほんのひとかけら。苦しみの一抹。更に先へ踏みこもうとするならそれ以上の何かがあるでしょう。けれど、どれほど痛くとも知ることができたならば最後は幸せになるはずなのです。
 だから。
 これは正解に違いありません。
「お姉ちゃん? 私です」

     

 無音の扉の向かいで、私は語り続けます。
「お姉ちゃん? さっきはすいませんでした。何度も叩くのはうるさいですよね」
 お母さんは諦めたらしく、追ってくる様子はありません。それでも何かあったらまたきっと助けてくれるのでしょう。
「ほんのちょっとでいいのでお話を聞いてもらえませんか? 実はですね」
 言いながら扉へと耳を当てます。すると、さっきと同じく何かが近付いている音がしました。どきどきする心をぐっとこらえます。今度は殴られるかもしれません。
 お姉ちゃんが近付いてきます。今度はゆっくりとした足取り。けれど、それが何を意味しているのかわからないのでむしろ不安は大きくなります。
 それに負けないように大きく一度息を吸って意志を固めました。
「実はですね、私も虐められているんです」
 そう言うと、足音は扉の前で止まります。
「今までここでお姉ちゃんに話してたこと。楽しかったこと。ぜーんぶ嘘です。確かに今まであったことですけど、全部昔のこと。今は正直、楽しくは……ないです。だからお姉ちゃんに助けてもらおうってそう思っていたんですよ」
 お母さんに聞こえないようそれほど大きくない、でもこの薄い板を通しては聞こえるほどの声で喋ります。私達を隔てる、越えることはずっとできなかった壁。でも声だけは難なく飄々と通り抜けていきます。
「お姉ちゃんのこと聞きました。なんだか自分が恥ずかしくなったのです。お姉ちゃんのように多少のことで挫けない気持ちなんて私には持てません。学校に行っても毎日おびえてます。幸いまだ暴力まではいっていませんけど、いずれそうなるのかもしれません。そう思うと夜も眠れなくなりそうです。もちろんお母さんの前では見せないようにしています。でも――」
「言えばいいじゃねーか」
 ぼそりと、何かが聞こえました。半狂乱で叫んでいたのと同じ声、けれど同一人物とは思えない程弱々しかったです。
「え?」
「言えばいい。あいつは、お前のためなら何だってするだろう。昔からそうだよ。記憶にないだろうちっちゃい頃から親はお前をどうあっても助けてた。傍から見たら親馬鹿だよ。お前に限っての話だけどな」
「でも、私はお母さんの笑ってる顔が好きなのですよ。特に最近は調子がおもわしくないのか元気が無くて……。尚のこと話しづらいです」
「知るか。案外それはお前がいじめを隠すもんだから、何を抱えてるんだとやきもきしているだけかもしれないぜ。とにかく言えば助けてもらえるだろうよ。親からどこまで聞いたか知らないが、私と同じになることは無いだろうさ。だから安心してあいつを頼れよ。そして俺を頼るな。同じ家にすんじゃあいるが、もう何年と顔を合わせていない他人だろう」
 並べる言葉はいかにもぐれた、すれたような風を感じます。
 最初の一言に比べて声がよく聞こえるようになりました。おそらく今、お姉ちゃんも扉に寄り掛かっているか向き合っているかの体勢を取っているのでしょう。
「他人だけど、家族ですよ」
「は? なに甘いこと言ってるんだよ。俺は親に優しくされたことなんてお前に比べれば殆どない。だからってそんなよくある言葉で懐柔されたりはしないからな」
「お母さんだって後悔していましたよ」
「ははははははは! それはもっとない! あいつが? くだらない冗談だ。まぁ、仮にそうだったとしてもう信じる気にはなれねぇよ。大体、もう一度始めようとするならお前の横にいるはずだろう。むしろお前がここに来るのを止めようとするんじゃないか?」

     

 次第にお姉ちゃんは明るい声音に変わっていきます。明るいと言うにはいささか性格がひねくれているようですが。ただ、さっきのような寂しさは感じませんでした。
「お互い恥ずかしがり屋さんなのですよ」
「誰が?」
「お姉ちゃんもお母さんも」
「ははっ。まぁ、今度は少しは笑える冗談だな。例えそうだとして言葉で表せないとして、じゃあどうしてお前だけああも大事にされるんだよ」
「ほら」
「なんだよ?」
「さっきから、お姉ちゃんはまるで自分を好いてほしいみたいに言ってるじゃないですか。お母さんたちはなんでもない他人なんですよね?」
「一言もそんなこと言ってない」
「さっき言っていましたけど。“もう信じる気になれない”って。ということはつまり“昔は信じていた“ってことじゃないですか。それにお姉ちゃんがこの部屋に戻るきっかけになったあの時、家に戻ってきたというのはここなら自分は大丈夫だと思ったからじゃないですか?」
「流石に自分の部屋なら誰も入ってこないだろ。残るは家の中に住んでるお前らだけど、全ての意味において親は俺に何もしないしな」
「ほら、やっぱりそうだ」
「何が?」
「少なくとも自分を傷つけたりはしないって、ちゃんと分かってるじゃないですか。信じてるって言えますよ。そしてこうして今も同じ家に住んでいる。どこまでいっても、どれだけたっても、なにがあっても、やっぱり私達は家族です。本当の他人をそこまで信じられたりしませんよ」
「ガキが何を知ったような口叩いてるんだよ。居場所を失ったことも無いくせに」
「だからいじめられてるんですってば、私も」
「でもまだ親が残ってるだろう」
「そうですね。でも、結局家に閉じこもるという点ではお姉ちゃんと変わりありませんよ」
「“自分も一緒だよ”なんて幸せ者のセリフだな。同情なんていらない」
「確かに私はお姉ちゃんより幸せかもしれないですね。でもね、私は欲張りなんですよ。お母さんだけじゃあ駄目です。お父さんも居ますがそれでもまだ足りません。そもそも最近お父さんは帰りが遅いですしね。私は元通りの幸せが欲しいのですよ。いえ、それ以上が欲しくなってしまいました。目標は高く持ちなさいって先生も言ってますし」
 なんて言って、私は笑います。それに対して、お姉ちゃんはやや不機嫌気味。
「で? それを俺に宣言してどうするつもりだよ」
「……お姉ちゃんて、はっきり好きと告白されないと分からないタイプですか?」
「関係無いだろ」
「ですから、私は欲張りなんです。――お姉ちゃんも居ないと、全然全くお腹いっぱいになんてなれないんですよ」
 男の子にもしたこと無いのに、まさか初めての告白がお姉ちゃんなんて。数年後に頭を抱えて悩んじゃうかもですね。けど、こうなったから言えることですが、それくらいは好きなんじゃないかなと思います。
 ああ、でもやっぱり恥ずかしいです。
「はっ。いいじゃねぇか。腹八分目は大事だ」
「それは大人の人でしょう。成長期はお腹一杯が丁度いいのです」
「めんどくせぇ奴だな」
「お姉ちゃんほどじゃないです」
 唇を尖らせて拗ねた感じで話すと、小さく聞こえる溜息。
 よく聞くために耳を当てて中の音を聞こうとすると、うーんと悩ましい声を出し「どうすっかなぁ……」という独り言が続きました。
 そしてもう一度更に大きな溜息がすると、次に聞こえたのはドアノブが動く地味な物音でした。
「口の減らない奴だ。わかったわかった。馴れ合う気は到底無いが、その虐めの相談とやらだけは聞いてやる。お友達が復活するまでの代用品だ」
 空気の交換ができるくらいに隙間が少し開いてお姉ちゃんの部屋と廊下とがつながると、クリアなお姉ちゃんの声が聞こえます。
 確かめるようにゆっくりと部屋の扉が開きます。人一人分通れるくらいまでになるとそこで止まりました。
「やっぱりいい人でした。お姉ちゃん、大好きです!」
 久々に視た顔は、引きこもりというイメージと相反してとても綺麗でした。記憶にある笑顔とは大分印象が違いますがどことなくパーツがお母さんに特に似ていて、ああやっぱりなんて思います。
 決まりの悪そうな、どことなく恥ずかしがっているようにも見える表情は、なんとなく微笑みたくなってしまいました。ドアノブから手を離し頭を掻きながら戻っていくお姉ちゃんに続いて、私も部屋へと踏みいれます。
「ばぁか、そうでもしないと毎日扉を叩かれるんだろ? たまったもんじゃない。静かな日を取り戻すために仕方なく、だ」

       

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Neetsha