「あなた……」
「よう」
夫婦の挨拶にしては、実に淡白だった。玄関に父親が立っている。だが、帰ってきたという感じがしない。
それもそうか、出ていくために来たんだもんな。
「どうも、こんにちは!」
「どうも……。って、えっ?」
親父の影にもう一人居た。隠れていたものだから、誰かが付いてきていることは分かっていたが誰かまでは分からなかった。背格好からして自分と同じくらいか、程度にしか認識していなかった。時間とは恐ろしいものだと思う。忘れていくのだから。
しかし、元気な挨拶とともに姿があらわになる。声にすら俺は反応してしまった。一瞬で記憶は戻ってくる。忘却は、消去ではない。眠っているだけで、心にはずっと残っている。
「坂巻っ……!」
そして、思わず口に出していた。
「あ、千ちゃん、やっほー!」
能天気にこちらに手を振ってくる。
ずきりと、小指が痛んだ。
「あのときの……話を聞かせてくれた子よね?」
おろおろしつつ、母親はそう言う。
そんなこともあったか。
まだ覚えている。坂巻がうちに来たその日のことを。俺が家に逃げ帰ってきて数日後。誰かがインターホンを鳴らし、母親がそれに応答した。
何気なく聞き耳を立ててみると聞き覚えのある声だったのだ。瞬間、身体がこわばって動けなくなってしまった。何か玄関で話しているようで、それが次第に消えたものだから帰ったとばかり思っていたが……事の一部始終を聞いていたのか。
もちろん、自分に良いようにところどころ誤魔化してはいるのだろうが。
「ええ、千ちゃんが引きこもったときに一度お会いしてますね」
笑顔が、これほどに恐ろしいものと思ったことはない。仮面の裏でこいつは何を考えているかわからない。俺にトラウマを植え付けたように、さらっと残酷をやってのける人間なのだ。
自分の好きな男を振った人間を逆恨みし、その小指をへし折る女。
「良く顔を出せたもんだな」
「ひどいなぁ。久しぶりに会ったのに」
「会いたくもない」
「そんな、これからは義理の姉妹になるのかもしれないのに。ねっ、お父さん?」
坂巻は振り向いて、父親に呼びかけた。
「あ、ああそうだな」
その呼ばれ方に不慣れなようで、返事には一拍かかる。もっとも反応に時間がかかったのは母親だった。
俺は、すぐに意味を理解していた。別に頭が良いわけじゃない。回転は良くない方だ。けれど、坂巻はそういうやつと知っているのであればもう、どうしているのかなんてたかが知れている。
「……それってもしかして」
おそるおそる、確かめるように、あるいは怖がるように母親は言う。
「ええ、お父さんの再婚相手は私のお母さんです。折角なので付いてきてしまいました! 知らないお宅というわけでもなかったので。いやぁ、初めて知った時はビックリしましたよ。でも、やっぱり世間は狭いんですねぇ。言っておきますが、私は一切この結婚ついては関与してないですよ? ねぇ、千ちゃんももし私が何かしたと思っているのなら間違いだよ。狙ってたわけじゃない。たまたま。本当にたまたまだったんだよ」
嘘くさい。偶然と連呼されるほど仕組まれたと思えてくる。ひねくれた考えだと言われるかもしれない。事実自分自身そのきらいがあることは自覚している。
「でもね、折角こういうことになったんだからお願いがあるんだよね」
「お願い?」
聞き返すと。
「あ、ああそのことなんだが……」
答えたのは父親だった。歯切れの悪い所を見るに申し出にくいことなのだろう。一方で悪びれることもない坂巻の様子がどうにも不気味で仕方ない。
今度は何をしてくるのだろう。心がきゅうっと締め付けられ、呼吸がはやくなってくる。どくどくと焦る音が自分の中から聞こえてきた。
「いいですよ、自分で言うので」
「そうか。なら頼む」
天真爛漫な悪魔は、目を光らせながらにやつく。
「妹ちゃんは、私がもらっていきますね!」